◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

スマホ対象の枠組みで制作していないがPCだけでのアクセス表示75万超、「角上」・「寺泊出身」OR「脳の学校」の検索が殺到する好現象。確かにテレビ出演の影響は大きい。
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寺泊の祭りを覗きませんか

5月は寺泊の大祭の月である。祭の前夜は興奮し眠れなかったと今は古希が中心年齢の
寺泊会会員たちが、悪ガキ時代を昨日のことのように思い出す。


あれから60年が過ぎたが

東京寺泊会の4区出身者が気にする訳。


当時少年だった同郷4区同年齢の

 

幼なじみたち何人が、頭になって、カグラをかついで町内を走りぬくかの野次馬的根性である
こんな話題が、平成29年4月23日(日)東京芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交う。


東京寺泊会創立62周年大会の話題になる。

昨年の3区といえば、成田屋のアキラさん、田村屋のヒデオさんもあれから60年で70代。
年月経過すれど、寺泊「町」が好きな粋人、老眼鏡かけ元気に神楽のシッポつくりで、後輩の先頭に立つ

平成28年5月の例大祭では、3区が神楽当番がであったが、

今年は4区が当番です。4区関係者の当日雄姿詳細写真は

寺泊観光協会リンクの5月寺泊ウォチングでアップされている。

ちなみに去年の3区関係は「3区当番編」 [5月当日偏」で見られたい。件の輩の雄姿があった。

町当番(かつて寺泊は町役場が決めた地域セグメントとして1〜6町内に分割されていた)としてリーダーシップを発揮して親方をこなす、成田屋さんと田村屋さんなど・粋人お二人の御姿は、
さすが上田町代表である・・と首都圏で活躍する3区出身の東京寺泊・上田町人会、故外山健太・会長(上田町)、清水屋の清水文隆・理事(上田町)、更に河忠の河合忠治氏(上田町)、皆さん寺泊の3区上田町出身者で、古希は通り越したが、東京寺泊会には元気に集まってくれている。寺泊会の役員たちも感心しきり。本稿の白黒写真2枚は90年前と60年前の3区の大小カグラ衆。

寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている。寺泊会の会員たちが保存していた。

 白山媛神社の記録DVD

     ◆
戦前当時らしい昭和X年5月の3区・上田町組存命されていたら全員150歳以上
ひと昔前は、どこのの衆のカグラかを示すため、走り手も、タスキをかけていたという。3区なら「上田町」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。2016年は
3区の当番だが,かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。(上記のリンクページは寺泊観光協会のHPを無断借用)

漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭が毎年5月3日に開催される。

この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている
学校の教材に最適である。

4月4日の東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には、浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。その名残でこの祭礼は別名「鰯祭り」
とも呼ばれている。中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、平成28年は3区が寺泊町の神楽当番である。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)と勉強は1番になり、病は治り、曲がった腰はピンとする、持病のひざは痛み消滅、借金は返済のメドが立つ、万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。

寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらおう。そして子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、寺泊の行事に無関心な赴任期間だけのチョンの間、寺泊在住長岡市民となる、公務員先生ばかりでは無理かもしれないが。もっと心配なのは、こどもカグラを担ぐお子様達の減少であるが。
約60年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。

平成18年も3区が当番になるから、テレビ局呼んで「60年後に集まった昭和の少年たち」と題して、イベントやろうと話があったが皆さんは、結構現役で仕事が有るからし多忙とか。結構いい絵になると思うが。
写真の最前列左は、今も地元で石川モーターズを経営しているが、レンゾーとよばれていた。2014年度の、古希組である。同期には山田栄三郎(きんぱち)社長がおり、古刹法福寺の57代住職ケンジ様も同期である。

2014年度には、古希祝いの集いを開催。会場、宿泊はもちろん きんぱちである。開催に積極的なのは、どの会も女性陣だけが積極的で、その年に古希を迎えた昭和19年(1944)生まれ組は元気組が多い。平石久子氏(浜っ子会)もそのひとりで、東京寺泊会の会場で、塩たき節の地方(じかた)として見事な三味線を披露してくれた。ただ、古希の集いがあっても、都合のつかない我々のように、都会在住で「不参加」とはがきの返事を出した男性陣は、女性陣が発する、なんでふるさとへ来ないのと追及される、応分のプレッシャーを、当面は覚悟せねばならないのが、デメリットであるが。

この予防策として、2014年4月に開催の東京寺泊会に参加した若年層となる古希組を集め、事前に祝宴を挙げてしまった。だが郷里の行事に熱心な諸氏は6月大会でも参加する由。だから世の中は何の争いもなく、うまく運ぶのだろう。健康なうちに、皆のお姿を見ておかないと東京オリンピックまで持つかと、心配になるのかも知れない。人生さまざま。今年も70歳をお迎えの寺泊出身者多数が寺泊に集まるが、その中の一人でも東京寺泊会に興味を持って、伝統ある寺泊会のカシラに、来年からでもなってくれれば嬉しいのだが、最初の一歩がバリアが高く、飛び越せないのだろう。


所で、3区は法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延び、今は道路になっているが、かつてここに建ってた金内さんの家の隣迄が、4区との境界地域であった。

この境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を「白い6尺ふんどし」か「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。ピーピーキャーキャーと騒々しかった。塀越しは茶の間つづきの庭になっていた、金内さんちも騒音でうるさかった事だろうが、人のいいキセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。

この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。一方、カアチャン・バアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。海までの砂浜部分が短かったので、自然の川筋が浜茶屋横の砂浜に造られていたのである。平成22年の全国の子供数1694万人・総務省4月1日発表・当時の日本の子供は今の2倍の約3000万人、人口の3割近くもいた。2014年の日本は、人口の3割近くが高齢者になってしまった。ガキどもと呼ばれていた少年たちは寺泊町もワンサカいた。「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。今、このカグラ少年たちは、皆さん全員、健康が気になる世間同様の高齢者となり、人口構成が昔と逆転している。
(本稿は感動を得るため、あえて長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を使用。)

寺泊町は平成28年には存在しておりません
日本全国、南も北も、共通の現象だ。寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
















写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)

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 東京寺泊会誕生物語と歴代会長の顔ぶれ


 寺泊会創立62周年記念稿


昭和32年春から平成29年春・・感動の東京寺泊会歴史物語
詳説:初代小林源次郎から9代外山健太会長

 

そして平成29年4月寺泊会に届いた2通の訃報



寺泊会創設の父・小林源次郎の夢


昭和29年、大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。

コバゲンは年を重ねるたびに「寺泊の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。

日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職にその声が届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。

「資財は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。


小林源次郎氏の次なる野望

やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。

小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「聖徳寺につないでくんなせ」寺泊局の交換手に電話が入った。
小林氏が東京の工場から電話したのである。
「寺泊出身者の会やるすけ、そっちからも案内書出してくれや」
住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこねえかね」。
しばらく電話が続いた。

住職は電話を切った後しばらく思案し、
浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

「東京寺泊人会」の幕開け
60年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさんにも1通の
案内書が届いた。

これが最初の案内書である

「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
  期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
  会 場 浅草・西徳寺地下堂
  会 費 百円也



これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来60年の間、
8代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。
下鳥ハルさん(旧姓・新谷)はお子さんがまだ3歳の頃で、
長女と一緒に参加した30代の当時を昨日のように思い出す。
久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じって女性が数名。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。
conv0001.jpg現在も会にはお元気な姿で参加されている初回から参加の下鳥さん。(初回写真の前列中央お子さんと一緒)

自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに
後方に立たれていた。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。


小林源次郎氏倒れる

外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、心臓病とも闘っていた。
一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、休日を返上する程激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となっってしまった。
その後は一時回復に向かっていた容態が、急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。

「初回東京寺泊会(誌友会)」ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。

懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷

初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた
寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。
ある時は聖徳寺が音頭をとり、
又ある時は会長任期を1年限りと決めて
昭和35年には、立派な髭をお持ちの古川原与市氏が就任した。
青木山、弥彦山の四股名で、
野積出身の相撲取りが話題となった頃である。
やがて1年が経過し改選の時期となった。

昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。

以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート
熱海温泉などで、多彩な企画を設け、
12年間会長を務めたのである。

昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。

石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時は、
江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど名物の「とんかつ」専門店を
営んでおられた。

この頃から古川原実氏(磯町出身)は
寺泊会の運営に積極参加し
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く
意見を述べる姿が魅力を呈した。

やがて昭和57年、石垣氏が退任し、
古川原氏が5代目の会長として
永きに亘りその手腕を発揮、更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。

三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている英寿製作所)
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。

寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代。会長の三上氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づて行くことになった。


創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ


■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。

■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション文書構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの審査登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きな橋本は、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当するなど、お馴染みの顔であった。ところが十日町や糸魚川など上越地方出身者のように、舞台に出て演じるような民俗芸能好きが、寺泊出身者には少なく、毎年芸能大会の舞台で司会を務めながら、一度も寺泊人の出演を舞台で紹介することがなかった。近年、長岡市地域振興課の協力で、ようやく郷里の酒造唄に辿り着くと、早速、寺泊会の交流会や、新潟市内のトキメッセでのステージで披露する機会を得るのであった。寺泊会の宴席に若いアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。



■東京寺泊会だよりの制作開始は、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局を経て日本へ戻ったころであった。何人かの周辺のロビー活動し、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の多忙な時間だったが、社食で冷しラーメンを食べながらも、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。寺泊会だよりは、もともと寺泊で発行していた、「ふるさとだより」からヒントを得ている。編集責任者をされていた尊敬する中村住持の真似ごとをしただけであるが、これほどまで読者が増えるとは想像もしていなかった。




■だが、東京寺泊会だよりは斬新な発想でなく、その源流は60年前、初代会長小林源次郎が提唱した首都圏在住者向け「寺の、お檀家だより」である。時代は変わってネット配信の利用で、印刷費なし、郵送費なし、サーバー代なし、要るのは記事制作の手間と好奇心、知恵と老眼鏡だけ。これが、B型人間に合致する。誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理。文芸誌会社からは東京寺泊会だよりを、出版させてくれとセールスが来る。だから寺泊にこだわらないで多様な原稿を作ってくれ、とお願いされる始末。まさか日本全国で検索ワード知名人になるとは。

■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけワンクリック100円でも課金できたら、たちまち5000万円10円でも500万、1000円なら5億になる計算でIT業界とは、これに似たようなプロセスアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、6本木の高層ビルで役員会を開催できる長者会になり損ねたこてねと度々役員会の話題になっている。

■橋本は、寺泊出身の杜氏組合を寺泊会に招いたあたりから、自らの会はもとより、OB会、同期会、同窓会、県人会、良寛会など大小雑多な会の雑務をこなしていた。しかしながら7代会長としての持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかった。郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である。従って任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したが適任者は名乗り出ず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に会長をお願いしようと思案していた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて中止せざるを得なかった。待望の新会長が誕生したのはその2年後となった。



■平成24年4月の寺泊会総会で第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。



■新会長の小林はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・
時には小平市の広大な自宅敷地において、小平稲門会の大餅つき大会も開催されている。
一方では、長年続いた交流会全員の集合写真撮影をここで廃止してから、第8代時代が出発した。

■会長を補佐する副会長職には外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。

平成15年度東京寺泊会役員構成

名誉顧問:小林正則・小平市長
相談役  :三上喜久治

相談役  :渡部作治
顧 問   :橋本寛二
会 長  :小林秀雄
副会長 :平石國男
副会長 :外山健太
理事  :石井光枝
理事  :相場要平
理事  :浅見幸子
理事  :上澤一子
理事  :寺坂寛子
 ◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ
  ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催している。
  通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され
  毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。


平成28年4月。寺泊会第9代新会長誕生へ。


■寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生となった。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中朗報が飛び込んできた。

平成16年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになったのである。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりを、かなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間がかなり犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。

■行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。

◆就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山氏は、かつては大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
在職中には社長顕彰の常連であり、重役会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。

■ところが現職会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。


寺泊会会長としては第9代目となる外山健太氏

◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は3名だ。
他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会である。

◆外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りにに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさには感心せざるを得なく、観光協会の表彰ものである。

◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えても、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、皆が70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまない。
どうよ。

 

                                 ◆               ◆    ◆         

 

平成29年4月訃報相次ぐ

 

四月八日   外山健太氏逝く

 

四月十二日 小林秀雄氏逝く

 

 

  東京寺泊会9代会長 外山健太氏(享年75)は2017年4月8日自宅にて心臓発作のため急逝しました

直前の4月5日には、寺泊会役員会で2週間後に迫った4月23日の62回大会最終打ち合わせ会議に出席され、更にその後の靖国神社で桜を見る会にも、お元気な姿で役員たちの先頭に立って引率し楽しいひと時を過ごされていただけに、訃報には全員が信じられない思いであった

ここに謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます 4月23日の創立62周年記念大会はつつがなく遂行致しましたことをご報告申し上げます

 

訃報に絶句する東京寺泊会会員

 

 一方東京寺泊会の前会長小林秀雄氏(78)の訃報が、届いたのは現会長の訃報を受けて僅か3日後のことであった

2017年4月12日脳梗塞で亡くなられた。小平市にある広大な自宅敷地で寺泊会役員たちを野菜収穫に招いたり、稲門会の芋煮会を庭で開催したり、何よりも長年に亘って小平市の保守系以外の選挙対策事務所として無償公開してくれていた必勝祈願小屋の提供話は有名である。2017年4月9日に小平市長選挙で4期当選を果たした同郷人、小林正則氏もこの恩恵に授かり、区議会選挙に始まって、全回当選している縁起の良いスペースである。

秀雄さんは亡くなられる5日前に、私に1票投票して下さいましたと第62回寺泊会大会で小林正則氏は報告してくれた

 

     寺泊会一同衷心より哀悼の意を表します 

 

            東京寺泊会

 

 



















 

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日本海・寺泊町に魚のアメ横を創った社長さんの物語

寺泊会創立62周年記念大会速報
 
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 記念講演:平成29年4月23日日(日)
.、。
11時〜芝パークホテル/別館2階ローズの間 
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ゲスト講演者 小越忠教・米子先生ご夫妻
.
寺泊・夏戸在住で卓越した編年史・和説研究家として
ガイドで活躍されている小越夫妻による特別記念講演は、プロジェクターを使用し
いにしえの史実に基づいて解りやすい解説と音源を併用し、あっという間の記念講演であった。
弥彦山がこれほどの話題になったのは初めてのことである。忠教先生の語り口は説得力に溢れこれぞ名ボランティアガイドの解説といえよう。
さて夫の忠教先生が時良くリレーで妻の米子先生に話をつなぎ、これまた懇切丁寧に写真を披露しながら寺泊町風景の変遷を講演。小学校の教諭経験が長かったせいか、その優しい目で語りかける姿に写真が変わるたびに皆が首を上下にふり、うなずいていた。
夫妻の持ち時間である1時間はあっという間に過ぎてしまった。凡そ70代以上の参会者たちは全員がなるほど、うんうんと納得していた。寺泊会役員がリスク覚悟で企画した夫妻リレー式講演は完璧に成功したものとなった。
当日講演されたタイトル
「野積に上陸した弥彦の神様 」
「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」

夫妻式講演は新潟県の郷人会では初企画となり、
来賓としてご招待した各会の会長副会長さん達も羨ましがっていた・・どうよ
   
         ・・・・・・
 
●お土産協賛 角上魚類株式会社様
  ありがたいことに寺泊会がお願いした予算の3倍くらいの協賛品を賜り
 大会参加記念として全員にお持ち帰り頂くことができた。
 角上特選の海鮮ギフトに深い感謝の意を申しあげるしかない 。         
      ・・・・・・・・・・・・・・・
、・

脳トレ講演で盛り上がった第61回大会は1年前。


寺泊会・平成28年大会のレビュー

61周年記念講演 私は寺泊出身の脳科学者


◆このトレーニングすれば、あなたの脳は劣化しない

 

加藤博士の著書はベストセラー続出中

 

80歳以上の参加者15人には、サイン入り著書が進呈されました

 

 ◆◆
 

 


        

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

ついでに第60回大会(2年前)


 

寺泊会創立60周年(平成25年春)大会レビュー

アーカイブ公開中   



角上・鵬室卍垢旅岷蕾聴講感謝



東京寺泊会創立60周年記念大会のご案内
2015年4月15日(水曜日)午前11時30分〜
参加費:10000円
会場 : 芝パークホテル(港区芝公園)


60周年記念行事詳細

 : 記念講演会 角上魚類 鵬執聖絢卍
    (辣腕経営者のコンピテンス源泉はどこ)
■    : 記念公演  寺泊・伝統民謡保存会
         (
寺泊の伝統所作を 地元・浜っ子会が披露)
■    : スペシャルゲストトーク
       寺泊・彦根山興琳寺住職 中村興樹氏
   (古刹の法話名人が俯瞰する、町のふるさとだより)


■ 参加特別記念品と大抽選会案内


創立60周年記念大会として、参加記念のお土産には、全員に角上謹製「海鮮ギフト詰め合わせセット」の他、寺泊観光協会が推奨する、特選・銘酒や、寺泊の旅館ホテル宿泊クーポン券が当たる大抽選会を企画中。(座席で抽選方式)

人気テレビ番組、カンブリア宮殿で、柳下社長の人柄と、角上マネジメントが紹介されるや,当誌・寺泊会だよりへのアクセスが沸騰。日本全国で、柳下社長さんのお名前と寺泊で、検索されているらしい。

12月31日朝も、角上さんは、「頑張った日本列島の会社大賞(フジテレビ系)」にも登場。長い間、低迷する日本企業、ビジネスの中で、寺泊の鮮魚会社がいかに頑張ったかを、見事に証明してくれた。
 
 
・東日本大震災被災地 復興募金 寺泊・さかなのアメ横で…
 


寺泊名物・さかなの市場通りには、全国からの来訪者が絶えない
福島県からのお客さんも多数おられ、同県は、広い海岸や港を持ち、寺泊とは共通点が多い。
原発事故の周辺地域に住んでおられた家族が寺泊・夏戸海岸で避難生活されていた当時
寺泊観光協会では、東日本大震災の、被災者募金を兼ねて、
さかなの市場通り、通称「さかなのアメ横」通りで、カニ汁を無料提供しながら義援金を募ったニュースが中央でも伝えられた。期間中の募金全額は、長岡市を通して、被災地に届けられた。


2012年にキャンペーンを張った、カニ汁無料提供(4月9日〜4月24日)も大好評であった。2013年以降も角上人気は、日本海の、優れたビジネスモデルとして継続して行くことであろう。

さかなのアメ横誕生ばなし紹介の巻。


寺泊海岸に魚のアメ横を創った男の物語





2010年7月某日。日曜、朝9時〜日本テレビ系・徳光和夫の番組「サンデイnext」で大型鮮魚専門店の角上魚類小平店が約20分にわたり、店舗紹介、鮮魚販売情報の詳細が紹介された。センセーショナルな画面構成に興奮したのか、インターネットのサイト閲覧が爆発。東京寺泊会だよりにも、ここのリンクがつながらないと連絡あり,調べたところ、あまりにも同店のhpにアクセスが殺到しサーバーがパンク状態とのことだ。・・午前9時35分頃であった。しばらくは角上物語でもご覧になってお待ちくださいとご案内した次第であった。幸いにも
角上魚類のホームページは1時間くらいで閲覧回復した。

それから4カ月後の2010年12月15日・火曜日、朝、日本テレビ8時、世間は若い歌舞伎役者の酒乱ニュースであふれる中、「行列のできる大鮮魚店」として小平店が再びセンセーションナルに放映された。商品の命となる鮮度と質の高さで勝負と柳下浩三社長もインタビューで登場。2011年春には東京・日野市に新店舗を開店、2014年に入ると主要道路が角上渋滞を起こすほどで、都会では角上魚類のニュースから目を離す事が出来ないのである。東京寺泊会の話題が、またひとつ増えた。


「小平市のような、角上さんの店舗のある地に引っ越したくなりました・・」 テレビのインタビューでお客さんが答えていたが、この人はサクラではない。正に、その通りでございます。・・東京寺泊会だより編集部。角上さんは、勿論越後・旧寺泊町が誇りとする、日本有数の大型生鮮鮮魚店である。現在中国進出も視野にある。

この
小平市寺泊とは、大変縁が深いが、小平市の秘書課さんは、このページでのリンク依頼を快諾してくれた。
何しろ市長の小林正則氏は、寺泊出身で当会の顧問をしており、毎年,東京寺泊会の懇親会に参加され、時にはカラオケを熱唱されたりする。
更に、小平市議会の前議長・小林秀雄氏・現市議は、寺泊の6区にある白岩に、代々の土地を所有する寺泊人であり、東京寺泊会の副会長から会長に就いた。


小林正則小平市長東京寺泊会でご挨拶。

 

 2017年4月9日(日)選挙速報

 

小林正則(4期目)当選 28308票

松岡あつし       15536票

水口かずえ         8281票

 

     小平市公式ホームページより転載
                    市長と縁戚ではないが同性の小林秀雄寺泊会前会長・元小平市議会議長。正義感強く硬派。

寺泊へ来たら誰でも必ず立ち寄る場所は、観光コースでおなじみの「魚市場街」である。
第53回に続いて60周年大会でも、東京寺泊会は、アンコールの多い「角上」さんこと
角上魚類株式会社・鵬執聖絢卍垢鬚招きし 特別講演をお願いするとご本人は快諾。(これならNHKのキャスターを呼ぶより経済的だ・・と役員会で安堵)
 我々地元では、普段、角上さんと呼んでいるが、角上さんは寺泊をはじめ、首都圏など合計19店舗で、 精力的に商売展開されている。
 小さな港町・寺泊を一躍世間に知らしめ、その存在を 植え付けたのは「魚のアメ横」であった。
これは魚のアメ横を創った男の物語である。

  ▲鵬執聖飴瓩蓮⊂赦贈隠鞠、網元の次男として誕生
のどかな寺泊町で、幼少時代は野球少年で過ごし
明けても暮れても野球に熱中。
(後の阪神タイガースファンの礎となった)
新潟商業高校時代では、マネジャーとして2度の
甲子園出場を経験。
昭和34年、実家の魚問屋に入り東奔西走する。
スーパーが台頭し始めた昭和40年代に入ると
自ら敵陣の「人気スーパー店の視察」を開始し
多くの店舗を見て廻った結果
これをしのぐ小売業の開発に着眼。

昭和25年頃の3区寺泊中央海水浴場の砂浜。番屋小屋があるだけの砂浜だった。 寺泊会の会員さんが寺泊小学校2年だった頃(当時)に撮影されたものだが貴重な写真となった。

 

■「親父、あの道路沿いにある土地使って、
店出してんだろも、どうだろうか」
あの道路とは、言うまでもなく海岸道路として造成された、
今の魚市場・通称魚のアメ横道路である。
角上は、この道路に沿った一画に、広い土地を所有していた。
「本気でやる気があるンなら、やれや。但し自分で全部、
金銭の都合つけてやれ」
親父の言葉で今日の運命が決まった。
元々親に金を出させる気は無かったのである。
今でこそ、人・車の往来が絶えないが、
まだ造成僅かで、まるで原野にデパートを
開店するようなものである。当時は砂浜だけで、
駐車場整備の構想さえない。
■ここに5千万円を投資する決断と荒業は、
江戸時代から続く網元の血統を受け継ぐ
鵬執聖粟椎に「天性の商売勘と運」が備わってなければ、
発想すら湧いてこない。
         ▲鵬執聖絢卍垢陵念が全店舗に反映。社員の力量統一

         


   


 
銀行と交渉し、何はともあれ開店にこぎつけたのは
昭和49年の春であった。
「寺泊は海の町、夏場は人でごった返しても、
あとは潮が引いたように人が来ねし、
チープー荒れる寒い季節は商売にならんがに・・・
よう店を出しなさったもんだ」


確かに冬の海は、毎日荒れるし、波が高く浜は強風で寒い。
岩の外湾には、佐渡海峡からの白い波が大きくうねりながら押し寄せてくいる。
               2010/12/31・寺泊海岸ライブカメラ

平成22年大晦日のアメ横駐車場、買い物客の車で朝から晩まで混雑する

 心配無用だった。30年後の寺泊は、波高く風強しでもこの通り盛況である                                                                                              2010/12/31午後3時頃の市場周辺

                 ●  ●
危険信号の声が、湧き出る泉のごとく囁かれる、町の評判は折込済みであった。
このことは34歳の自分が一番良く知っていた。
客を如何にして呼び込むか。
顧客の心を知る売り手になろう」。社長の得意とする
創意工夫の虫」が動き出す。
 
社長の「仕入眼を磨き、新鮮・上質な魚を豊富に仕入れ、
これをより安く売りさばく」戦略で
絶え間なく続けたこの努力が
「寺泊へ行けば、いい魚が買える」と評判になり
噂は定着し始めた。
開店1年後、店内は溢れんばかりの人出
評判通りの新鮮な魚を求める客が、多勢訪れた。
売上も倍々ゲームをもたらし、新聞・テレビには
「魚のアメ横大賑わい」の見出しが躍り
関越高速道路の開通もあり、日本海に先駆ける唯一の
大規模鮮魚店として、全国に名声が轟いた。
 
年が過ぎた頃、同業が角上本店の周りに何軒か出店し始め、
寺泊の総売り場面積が、更に巨大となり
観光バスが大挙首都圏から繰り出した。
それまでの越後をめぐる団体バスは、有名な温泉と弥彦神社を
巡る単純なツアーだったが、寺泊・魚市場コースを追加したら、
5倍の申し込みとなった。(旅行業者談)
 一方、経営者として常に人より一歩先を睨んでいる社長は
既に次なる商売の戦略を考え
「小さな寺泊町だけでなく、高速道を利用し他県でも出店展開をし
総売り上げを伸ばそう」と行動する。
市場調査・社員教育・人集めなどに奔走した。
寺泊に店を出してから10年後のことであった。
やがて、群馬県をはじめ埼玉、東京、長野などの
都市圏を狙った顧客取り込みと、商圏拡大戦略に転じ、
新鮮豊富な品揃えをモットーに邁進の手を緩めない。
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寺泊の塩たき節物語

寺泊会創立62周年記念・芸能編

 

 

 寺泊の伝統芸能を守る人たち。




 長岡市伝統民俗文化財
◇寺泊「塩たき節」のご紹介◇



 

    財団法人 地域文化創造
    写真掲載許諾済

 

寺泊は、別名をフンドシ町と呼ばれ、その名の通り、

近年になってから一区の松沢町とか六区の白岩などの

町名を付けたが生活道路に欠かせない

一本道が、弥彦山麓まで続いていた。
大河津分水が、寺泊の海岸まで流されていなかった頃は

野積橋もなかったし、良寛も夕日が沈む佐渡島を見ながら、
弥彦山の
中腹にある西生寺まで、テクテクとこの狭い

フンドシ道を歩いていたであろう。

ベストセラー作家・水上勉がこの浜道を歩きながらその印象を
短編小説「寺泊」を上梓したのはこの良寛が縁であった。
寺泊の製塩業は、この時代より遥か昔となる2千年前、神代の
時代から始まっていた。シオ 貧者も富裕者も生活の必需品だ。

弥彦山の西端は、寺泊町から眺めると、佐渡まで続く日本海に

接するなだらかな恐竜のしっぽのようである。

弥彦からはこれが見えないから、蒲原郡地方出身者はこの

イメージを知らない筈である。

その山麓部分には、何やら大きな洞窟らしきものが見えるが
伝説では、ここに「天香山命」が、南国から海路を経由し、
渡り住んでいたとある。

のちに弥彦神社に祀られる、越後の産業をもたらした、
いにしえの恩人は、2000年以上も前に野積を根城にし、
稲作・製塩・漁労そして酒造り等を教えていた。

このお陰で寺泊は、「農・漁・酒」を男手が担い、

オナゴ衆は

せっせと重い桶をかつぎながら「塩」で稼ぎ、

まさに潤う集落となったはずである。

時は経て、奈良時代あたりからは、寺泊の港は、

当時の遠島、佐渡島へ流される、流刑人船着き場の役割を果たす

事となり、重罪なる政治犯と裁かされ、その烙印を押された
彼ら職位は寺泊部落には縁のない都人、能楽師・上皇

高僧・音曲/歌人などがひしめく。

 

知識が有り、芸術感覚あふれる、職種様々な尊い罪人たちが

寺泊港から、遠島とされた佐渡島へと送り込まれる。

今と違って、船に原動機はなく島までは、はるかに遠く

下手すると鬼が住んでいるかも知れないと思ってたか。

何しろめったに上陸したことのない島である。

寺泊伝統民族芸能の源流

実はこれが寺泊に優れた文化と、格式高い芸能を運び込んで

くれた源流となったのである。

都から引き連れてこられた罪人たちは、三国峠の山超え、

やっとこさ、寺泊へ到着しても、即刻佐渡へ流されることは少ない。

いつもは夕陽輝く、穏やかな日本海を抱く寺泊であるが、
晴天の日は何日も続かないから
手漕ぎ船同様の、罪人を乗せるみすぼらしい、小さな舟は、
波風に弱く、少しの荒れた海でも出船できない。
そこで海の鎮まるまで、舟は何日も港に繋がれ、
寺泊の陸で待機せざるを得ない。
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水上 勉 の著書 「 寺泊 てらどまり」


 

▲寺泊の浜辺を歩いた

 

作家・水上 勉      
                                                    

文学の世界で、越後・寺泊を描写した著名作家の作品はそう多くはない。ましてや小説のタイトルに掲げる出版社は実に珍しい。ところが「寺泊」を題材にした短編そのものを、本の題名にしたのが、出版社の新潮社である。作者は越後と同じ日本海を抱く越前出身の「水上 勉」(2004/9没)である。寺泊人のみならず,昭和生まれだったら、この作家の名前を知らない人はいないだろう。「寺泊」は昭和59年初版だが、海岸描写はこの30年くらい以前と推察される。文中に出てくる製材所とは、寺泊産業株式会社のことか。昔は「いたろさん」と呼んでいた。寺泊を「フンドシ町」と呼んでいた旧道しかなかった頃の風景である。(表紙に併記されている「わが風車」は、別作品)。
雪の降る越後の漁村、という設定で、寺泊町にイワシが捕れ、八艘船があった頃か、川端康成賞を受賞した名編である。もちろん駐車場のない、魚のアメ横以前の物語である。
水上 勉の代表作は自身が40代の作品が多い。昭和36年(雁の寺)、38年(越前竹人形、飢餓海峡)など、少年期の実体験や社会現象の匂いが漂い、昭和54年刊行の「金閣寺炎上」と続く。すべてが、出版社を充分に潤わせた作品となった。この間に連続して文学賞を受賞し、自他ともに一番充実した良き人生おう歌の時代であろう。聖僧・良寛にも似て、禅寺での修行があり、その厳しさを体験している。異なるところは、志願して得度した良寛に対して、強制的に実体験をさせられた経験を持つ。やがて体験をもとに、作品を世に送り出した。
切ない男女の絡み描写が小説にも映画にも、その真価を呈し、商業路線に乗り続けた。作家・水上が創作し、賞を得た著書は、実在の事件や風習がテーマとなった。「寺」や「竹細工」という身近な存在があり、ベッドやテーブルが登場する洋物と異なり、フトン、襖、障子が描かれ、これに、男女の情を絡ませる創作手法が、昭和の日本人に受け入れられた。加えるに名編集者がキャンペーンを仕掛け、映画化すると、名女優・若尾文子が、見事なまでに妖艶かつ女の情念を演じきり、その商品価値が輝いたのである。
残念なのは、主題歌が残されなかったことである。石川さゆりの「天城越え」なみの、歌詞と歌い手を生み出す企画がなかったのか。

■「寺泊」は良寛がきっかけだった











■ 水上勉は、良寛についても豊富な知識を持っていた。福井から雪  の降るある日に、国上に住む良寛研究家に会いに来た。その良寛  研究家は、「S高校の教師」というが西蒲原郡や三島郡にイニシャ  ルSのつく高校はどこだろうか。BかYかMなら見当がつくが、か といって、三条のSとは思いたくない。このころ寺泊には高校はなかった。水上氏の良寛人物像は、清貧を愛し子供好きの天真のひと、という事ではなかった。即ち、借金、米、味噌の無心好きで、タダ 酒飲む名人的な存在で、今これほどまで多くの遺墨、書簡類が 残っているのは、それらが礼状代わりだったからと信じている。こんな研究していたS高校の教師と語りたかったのだろう。話し終わっての帰り道に、国上の山からまっすぐ寺泊の浜へ降り、出雲崎に向かうフンドシ1本道を通って、石屋の角を曲がり、現在のアメ横どおり近くまで歩いたのであろう。
 

出版全盛から

 

出版不況の平成時代

 


■ さて、本といえば、世のスキャンダラスな話題を取り入れ、作家が書き下ろしまくると、ホンが売れ、月刊誌の発刊が続いた昭和中期、出版社全盛の時代が懐かしい。業界大手の、角川書店、新潮社、筑摩書房、平凡社、集英社、徳間書店、小学館から、婦人雑誌系の出版社まで、売れる商品に飛びつき、稼ぎまくり、同時に作家も潤った。平成の今、想像もしていなかった出版不況の社会現象で、この業界は、著名月刊誌の廃号や、大小出版社の統廃合、 倒産が目立つ。ぶ厚い雑誌を買わない、紙媒体本が売れない、広告主がなかなかつかないそうである。
昭和の婦人雑誌に夢中になっていた当時の読者層さん達も今や高齢層へ突入。
頭脳さえれど、視力も悪くなり、綾小路きみまろの風刺世界に笑いながら如意とうなずき
大多数は、単一行為に集中できる時間が限界気味だと嘆かれる。

白い割烹着姿がよく似合い、自分中流家庭婦人と思っていた主婦層たちがよく読んだ「主婦と生活」も「婦人倶楽部」も廃刊され、過去の物語になってしまった。誌上で人気のあった謝国権、ドクトルチエコの欄を読んだ楽しみは、今や昔の話かと、女房言い・・てか。
流通システムや、デジタル時代の功罪か、ネットの便利さを恨んでもしょうがない。
逆に新刊本で成長し続けてる出版社もある。総量が少ない新刊本を補完する新手法を展開できる経営層のいる出版社のみが生き残れる時代か。40代女性層向けの新雑誌を、来春立ち上げる新会社もあるそうである(9・4・ニッポン放送、あさラジ出演時の有名出版社・社長談)。
                                                            ..
発表したら寺泊会だよりを訴えるぞ
     ・
  
 ◆水上さんの作品と話題が外れてしまうが
実はこの民放ラジオのレギュラーとして早朝番組に出演していた超有名出版社の社長さんが、あまりにも破天荒で面白い銀座での自身の武勇伝を披露してくれたので、銀座ならそこの並木通り8丁目にある本社に30年以上在籍していた経験と、クラブの場所や時間軸での人の流れまで精通していた当職の実績を基に、件の社長が話した内容について位置的なウラをとってから短編小説風に創作した。、
早速、ニッポン放送の番組制作担当者に、この原稿を、寺泊会だよりに掲載したいが、
著作権は番組制作側にあると思うから、ご許可頂けないかとメール送信した。
後日ディレクタ-らしき方から返答があり、社長さんに読んでもらったところ、これを世に出すとは不届き千万だ。
発表したら「うちの会社が寺泊会を名誉棄損で訴える」とおっしゃってますよと、思いがけない返事がきた。
原稿の内容は想像で作った個人情報を暴露したわけでなく、早朝ラジオで衆人に放送された内容に基いて、
しかもご本人の言葉を文字にしただけであったのに、
多少誇張を加えたり、冷やかしながら・・・というのが 忘れもしない寺泊会だより提訴未遂事件の顚末である。
それにしても後悔は、放送を録音しておかなかったことであった。エビデンスのない証拠は必ず負ける。世の鉄則を忘れていたのである。


 
                 ●          ●  
風と砂の臭いを憶えていますか。
               
著名画家に潜む鋭い感性

寺泊在住の画家橋本直行氏の油彩画(寺泊会だよりに掲載許諾済)を観賞していると、ありし日の寺泊を呼び起こしてくれて癒される。八重山諸島に魅せられ、長期滞在し海と空を描き極めた、画家の力量であろう。
美術評論家は、橋本氏の作品を、写真のように精緻で写実的というが、この表現だけでは高額な作品の購買意欲が湧かない。、風と空気と匂いと音が聴こえる絵を描く画家の作品、と評するほうが、遥かに本質的な深い見方だと思える。
 
佐渡の見える浜(1999) 
   


     


▼船小屋(1997)s
 
▲漁 網(1998)  水上勉が歩いた寺泊海岸のイワシが主役と 思いたいが、この油彩画は、アミを描いたものである。ブルーのプラスチックス製かごは、作品の引き立たせ役か、作者は、来月新橋の画廊で個展開催のため上京されるので、愚問ながらお聞きしてみよう。
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寺泊人脳科学者加藤俊徳博士の世界

  ●ニッポン放送・高嶋ひでたけ

寺泊出身の先生がニッポン放送に出演。

毎朝放送している「ラジオ人間ドック」に
加藤俊徳氏、生出演早朝6時15分・・
「ラジオ人間ドック」のドクターとして。



■他番組の5月以降出演情報は随時更新致します。


「あなたは、右脳使ってますか」偏。
寺泊出身の加藤俊徳博士が4月14日(木)第61回東京寺泊会で講演されました。

脳の劣化を防ぎ、脳に新しい血流を注いで頂きました。

会場:芝パークホテル
期日:2014/4/14(木
受付:11;45〜
第61回東京寺泊会
  ふるさと交流懇親大会
ご来場記念(全員)

寺泊港 角上鮮魚店特選
 ■海鮮ギフト詰合せ
加藤俊徳医学博士

脳科学の世界は覗けば覗くほど面白い。この世界を知ると、毎日行き交い、すれ違うヒトを見る目が違ってくる筈だ。最近ビジネス本のコーナーには、「脳を活性化して営業収益を伸ばす法」とか「経営者が取り入れる社員の脳分析」・・等,等が目につく。
一般本コーナーでも「認知症にならない脳活動」、「あなたの脳年齢はいくつ」「長生きするひとの脳」などの本が並んでいる。
脳は誰もが関心があり人類すべてが当事者である。即ちニーズと期待に満ちている。



◆寺泊町の東方には、霊峰弥彦の山が鎮座する。
大河津と統合前の寺泊中学校校歌には「東に弥彦、西に佐渡」とある。
その中学校正面は、広い階段になっている。チョーテツこと長岡鉄道の「寺泊新道駅」があったが、これを知る人も少なくなった。
広い階段は、この駅の正面にあった。スクールバスが開通しても、この階段を上って校舎に入る。階段脇には哲学者アリストテレスにも似た、たくましい姿の少年像が40年間も立っている。


◆寺泊中学校に、ただ一人脳みそに興味を抱いていたお坊ちゃんがいた。
階段脇の少年像こそ、のちの脳科学者加藤俊徳博士である、
小学校時代からわんぱくで力持ち、健康優良児だったそうで昭和時代のモデルに選ばれたのだろう。
4月14日の寺泊会には、越後長岡市の森市長もご来臨される筈なので、長岡市の文化財にどうかと推奨してみよう。


◆さて弥彦山麓の平野一体を野積(のづみ)と呼ぶ。塩たき節伝説にある「天香具山命」が越後へ最初に逗留した際に、高度生産技術を教授してくれた地でもある。生産性の高い技術,即ち収益性のある作業を伝授した。これには基礎体力が要求されるが、野積の衆は、後世に相撲取りや立派なアスリートを輩出するほど、昔から筋力に優れており力持ちが多く、オナゴ衆も負けてはいなかった。生まれながらの素晴らしい人種の集団であったから命(ミカド)の教えはすぐに呑み込み実行出来た。その証拠には、この地には歴代のの名杜氏が何人もいるし、安定した稼ぎの有る製塩手法を取り入れたのも野積人である。日常の必須品を生産することこそ、収入の安定性に繋がるのである。 古代から平成の現世までの歴史を振り返りながら、加藤博士の持論は脳科学を側面に捉えながら、寺泊・野積に生まれ育まれたこと、幼少時代に、80過ぎても漁船を操る強靭な体格の漁師だった祖父のそばに常時いたことが、以降の全人生の活力の源になった、と確信しておられる。何しろ自分が4歳の頃から、体を漁船のヘリに縛り付けて漁を楽しませてくれた思い出を今でも鮮明に覚えているほどだ。最高のフィールドで、特上の経験が、研究心を煽ったようである。


結論。これ以降の理論、なぜ野積の風土ヒトのパワーを日本人が必要とするか・・・について1年半の歳月をかけて上梓する「日本人が最強の脳を持っている」(幻冬舎版)を脳科学者の立場で説いた単行本並びに電子版が、まもなく全国の書店で紹介される予定だ。再び加藤俊徳博士著によるベストセラー本の登場である。

これまでに刊行された主な著書「脳の強化書」(あさ出版)「脳コンディショニング」(かんき出版)「完全脳の創りかた」(李白社)・・など多数が書店に並んでいるが、2016年3月16日発売の日本人のどこが最強の脳かを知ることで、これまで想像できなかった加藤博士の世界を覗く事が出来る筈だ。良寛、山本五十六、田中角栄などには、すべて共通項目があるというが興味ある説である。幻冬舎発行 3月度最新刊 加藤俊徳著「日本人が最強のをもっている」で詳述している。

◆平成に入って、日本は世界有数の高齢化社会に直面し、これから老いた人種に突入するであろう多数が危惧する、脳機能解明に身を置く脳科学者、加藤俊徳博士が野積生まれ野積育ちの寺泊出身となると、先人のDNAは平成の今に生きていると断言せざるを得ない。ご本人は砲丸投げで県大会優勝、野積在住の寺泊中学校の生徒たちは、野積〜寺泊間を通常はスクールバスで通学する。加藤少年はこれに乗ることなく、一人走って通学するほど筋力が卓越していた。
中学校のグランドで陸上の練習中に、脳の機能に興味を持って以来一貫して脳の研究に携わる運命に出会った。体力を支配するのは脳の働きに大きく関係あるのではないかと疑問に思ったのがきっかけとなり、その少年がいつの間にか、海外の学会で発表したり、万人が興味を示す、脳関係の斬新な話題を提供し、メディアで盛んに登場する科学者になっていた。



◆加藤俊徳、小児科医で医学博士。昭和大学大学院卒業後はミネソタ大学(米)放射線科で研究・臨床を重ね帰国後は、慶応義塾大学、東京大学などで研究に従事、脳科学に新分野を取り入れ、自ら「脳の学校」を設立、科学者として実業界にもその成果を生かしておられる。恩恵を受けた実業界のトップは必ず、その素晴らしさを自分の組織に活用しビジネスモデルに採用している。
企業経営は、組織に携わる経営資源の資質向上を目指すことに他ならないが判っていても実現は容易でない。稚拙な経営者は社員の理解力・力量能力のなさを根源から分析することなく諦めてしまう。実にもったいない話である。
いくら教育に経営資源を投入しても、ダメ人間の改善には、役に立つ方法を見いだせないでいる現状が多い。

◆ここで登場するのが脳力解析である。言葉で表せば単純であるが、脳みそ120個所に番地をつけて分解し、脳のどの部分が本来の仕事をしているか、いないかを分析。脳細胞は使わないと死滅するが、僅かにある残脳を生かせば、100歳でも劣化するどころか再生することを、博士の臨床研究で今実証されたのである。
俗に言う「アタマは一生働かせなさい」である。幸いにも現代は微・巨視的レベルの研究に有効な、フィールドの充実と進展は著しく、ナノ単位の細胞でも鮮明に画像で見れ、脳画像のコンピュータイラスト技術も遥かに進んで来た。

◆支援サイト貢献の恩恵を受け、お茶の間のテレビ番組でも、理研BSI(理化学研究所・脳科学総合研究センター)の博士レベルしか判らなかった画像に溢れており、人体皮下の部分は、動画と画像王国となっている。科学者たちにとっても学会誌の発表だけに名声を焦らなければ、じっくりと研究に専念できる。加藤俊徳少年の時代は、医学部があっても、脳科学研究を専門に扱っている学科はまだ無かった筈で、早々とよくぞここに迄辿りましたねと外部ながらも言いたくなる。
脳血流中のヘモグロビンの流速状態が、波長の長い赤外放射の利用で、血管に非接触で測定している研究内容がTV番組で紹介されたが、素人万人でも理解できるのは3D動画のお蔭である。脳科学の世界にますます興味を抱いてくる。TV番組はこれに心理学側面を重ね、喜怒哀楽の源はここにあるのだと解説してくれるから馴染みになり判りやすい。理研BSIでは若者にも脳科学に興味を向けようと毎年多くの高校・行政からの訪問見学を受け入れている。寺泊会の会員からも「俺もあと60年位若かったらなあ」と、ため息が聞こえてきそうだ。
その時はこう慰めよう「その年で脳に興味を持っているあんたがえらい」。

◆「おめさんの脳で、使ってないミソが見つかったら、どうしなさるか」は、寺泊会の宴席で、冗談ながらよく飛びかわす言葉であるが、それ以前に「オレは自分のミソを使っているがどうかさえも判らんすけ」、で話は終わってしまう。


医学部教材に使用されるGEL製脳

そこで役員会での席上、脳ミソのことならこの前ラジオに出ていた、野積・荒谷の、キュウゾウさんちのあんちゃんを呼んで、もっと詳しく語ってもらったらどうかとのことになり、白金に有る脳の学校でインタビューとなった。今や著書、DVD多数がベストセラーになるほどの有名人となった加藤俊徳博士が、コバゲンさん以来、創立61周年を誇る2016年4月14日開催の、第61回東京寺泊会の講演を快諾してくれた。

 

それどころか想像以上の熱烈寺泊ファンで、郷里のためなら何でもやりましょう、と他の会での講演会や客員教授として教えている、母校昭和大学での授業でも必ず寺泊・野積の良さをアピールしています、とデータファイルを見せてくれた。昨年の寺泊会交流大会のゲストさん 角上・柳下社長同様、期待超大である。
認知症が気になる年齢層の多い寺泊会の会員さんの役にたつこと間違いなしであろう。                                             取材協力 脳の学校広報部







 

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今日もでこかで国際マラソン大会 ISO2015年版的見地



4・2章 利害関係者のニーズと期待偏(ISO2015年11月発行を引用し寺泊会が考察)
 この近くで
立ち小便スベカラズ

名勝の寺泊海岸、さかなのアメ横通りができるかなり以前の夏のはなし。環境・品質のコンサルを生業にしているせいか、どうしても気になる思い出が浮かぶが、寺泊会の集まりでも70歳以上が必ず回顧する共通の話題となって盛り上がるのがこれである。

寺泊海岸では、砂地の面積が現在の3割しかなかった当時でも、夏ともなれば、ゴマンと海水浴客が群がる。近頃は大型駐車場が整備され公衆できれいなトイレもでき、清潔そのもので安心して利用できる。一方昭和の中ごろとなるその昔は、灼熱の太陽の下で、近郊の町村からの来浜者で、地元のこ子供達はほとんど海の遊びを終え、家か自宅近くで遊ぶ時刻の、正午近くになると海水浴客の人出は、近郊の町などから押し寄せるので一向に減る気配なし。日よけどころか暑い砂浜で興じるのであった。
昭和半ばまでの地元町民が持つ、浜のイメージはとは、家庭ゴミを捨てても、いつか灼熱の太陽が溶かしてくれと勘違いし、ペットボトルやプラスティックのないころだから、有機系廃棄物ばかりがやけに目に着いた。食べ残したスイカや、大根の葉っぱ等のごみは平気にその辺の浜に捨てていた。こんな環境下で男性はこんもりした砂浜に向けて、ごく自然に、小用を足していた。

 ションベンスベカラズ

ここはきれいな浜辺にせねばと、町の有志が立ちあがり、この立て看板を作り続けた。あっちこっちにあるものだから。小学生のころは、よく目にした。もっとも小便などと、上品に書かず「・・ンベン」とカタカナ表記であったが。耳慣れたフレーズとなっていた。男は正に立ち止まって済ませ、女の子はしゃがんで済ませていた。これもおっかチャンになると前かがみになって、お辞儀をしたような格好でしていた。もっとも、浜辺でなく新道の坂道や、小学校の校舎わきの大地(オオジ・3区の山の奥にある地名)へ入る細い道脇あたりでよく見た光景だ。今や民俗文化遺産となる。

さて、郊外はいざ知れず都会ではさすがに道路脇でも、立ちながらの小用は、かなりの酔っ払いでもない限りは、見かけなくなった。但し、時折「ペッ」はまだ見かけることもある。駅のホームから、線路に向かって、かと思うと側溝の僅かな隙間めがけてと、いろいろ工夫している。環境保全と美観・衛生の観点から、いかがなものか。と講演で提案したのは数年前で、今ではホームの美化意識には目を見張るものがある。電車が来るまでガードフェンスが閉じられ、簡単に件の行為はできなくなっている。ゴミ箱は殆ど無くなり、その周囲にゴミが散乱することもない。但し大都会周辺の駅に限るが。トイレの美観化対策も徹底して頻繁に清掃の手が入るので、大勢が利用するリスク管理とステークホルダーのニーズと期待には、日本では考慮が計画と運用され2015年11月版新しいISO審査といえども指摘事項には改善の余地はない。即ち適法である。

所がマラソンはどうだろうか、走れば息が苦しくなり、唾のひとつも吐きたくなる。だが、一人が0.01CC出しても、東京マラソン等のように4万人超えるランナーがいたら、総合計排出量は、想像を超える量になってしまうであろう。しかしながら、競技関係者と高名なかつてのマラソン勝者で、今ではテレビ解説をしていても、これを気にする体はないようだ。
ランナーの中には手で、鼻の片方を抑えてプーとやる、通称「つかみっ鼻」をやってしまう輩もおられる。越後生まれのマラソンの名手、宇佐美先生(元・東海大学教授)は、現役時代に決してこんな事はしなかったが、文化の違いか、海外トップクラスが集まる、国内3大マラソンで優勝するかもと疾走している、先頭集団になればなるほど、画面一杯に放映する機会が多いだけに、飛ばし合いを目にすることも珍しくない。


給水ポイントも曲者である。走りながら給水してむせる者もいる。口内フラッシングと呼ぶんだろうか。
砂漠に近い大陸にある大地の如く地面が褐色土ならいいが、水はけの良くないアスファルトだし、風邪予防のうがい水の捨て方は、小学生すら、ルールを知っている。

近い将来環境アセスメントで、施行レベルの法遵守に挙げなくとも、下位レベルの都県条例を発令し、マラソンは、ハイテクペーパー持参5枚まで、などとルール化するかも。

良寛も歩いた景勝地を走る、寺泊シーサイドマラソンは、どうであろうか。18里先の佐渡島を横目に抱える寺泊シーサイドマラソンが毎年開催されているが、参加者多数でも全員エチケット感にあふれ、海岸マラソンを堪能できる素晴らしい大会にしてくれている。何しろ日本海の新鮮なオゾンを含む寺泊海岸の空気を吸いながらの走りゆえに、参加者たちの呼吸器系が破壊されることが無いからであろう。

こうして市民ランナーさんも、全員で良質な環境意識を持っておられるから、ふるさと寺泊の品質向上に大きく貢献してくれて有難い。


   (イメージの写真と該当する現象とは全く関係ありません)


 

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高橋孝一杜氏、黄綬褒章受章特集

 東京寺泊会創立60周年記念稿
寺泊の杜氏さん編

 
 
     春の受勲と寺泊人
高橋孝一・杜氏に黄綬褒章。
銘酒「越乃寒梅」を経て「越乃景虎」酒造り。

東京寺泊会で酒造り唄を披露してくれたのは、2010年春であった。この年に清酒品評会・チャンピオン3連覇。更に同年秋には「現代の名工」として、厚生労働省から認定を受けた新潟県民3人衆の中の、ひとりとなった。時に66歳。
あれから2年.黄綬褒章に輝く。寺泊出身の杜氏は、全員が褒章該当者に値するとも言われている。酒造りにひたむきな情熱を捧げて50年以上の経験を持ち、出来上がった作品の品質は、個人の嗜好に依存し、甲も乙も付けがい。丁度、美人コンテスト世界大会にも似ている。皆さん眼が大きく背が高い。腰のあたりに余計な肉がないしプレゼンも上手で、髪も脚も長い。即ち一流の資質を持った者を集め、1等賞をつける審査にも似ている感がする。


高橋杜氏さん、最初となる酒造り修行の場・石本酒蔵では、頭(かしら)まで登りつめ、越乃寒梅造りに情熱を燃やしていた事を知る者は、地元の人でもそう多くいない。
◇2年前、高橋杜氏らをステージに迎えた寺泊会大会はこんな様子だった。
平成27年の今レビューすると。


  

大会の模様は、新潟日報4月5日付け、日報ウェブニュースで配信、更に、同月6日発行の新潟日報19ページ、地域面でも、大きく掲載された。

 
     
 新潟日報ウェブニュース

● 55周年記念大会アーカイブ。
● 特別出演 野積杜氏など5人衆による酒造り唄   
                           
寺泊会創立55周年記念大会。東京おかみさん会を主宰する高橋和子さん率いる「おけさ会」の皆さま、大枚の、ご祝儀持参で、踊りの披露を賜り心より御礼申し上げます。県人会の芸能大会で、司会をさせて戴いたご縁でのお付き合い以来4年になるが、友情参加してくれないか,の一言に、快く即応して戴き大感謝であった。
  
     ▼
出演杜氏さんのご紹介
  

酒造り唄公演・杜氏さんと蔵元代表銘柄一覧                                                                         協力・寺泊酒造組合
            ▼ 杜氏{出身)  代表銘柄   蔵 元
会 長 藤井正継(野積)   〆張鶴      宮尾酒造{村上市)
副会長 高綱 強(野積)   自然郷      大木代吉本店{福島・矢吹)
副会長 高橋孝一{引岡)  景 虎       諸橋酒造(長岡市)この2年後、黄綬褒章
青柳長市(大和田)          宝 山       宝山酒造(岩室)
加藤儀兵  (野積)        笹 祝       笹祝酒造 ( 巻)

 
         
酒造り唄音声笹祝酒造提供


写真左から笹祝〆張鶴宝山自然郷景虎を産み出すスター杜氏さん
職場では近寄り難い杜氏顔でも、この日は柔和なおじさん顔でありがたい。


それぞれの蔵元の最高責任者として、(写真中央左側が高橋孝一さん)手掛けた作品を持参した杜氏さん推奨の銘酒をテーブルに持ち廻り、会の出席者全員に振舞ってくれ、感謝感謝である。・・・東京寺泊会一同。
この翌日となる5日には郷里寺泊支所を会場に、清酒品評会が開かれ、55周年記念大会に出演された引岡出身の高橋幸一さん出展越乃景虎」諸橋酒造が3年連続の優勝を飾った。日本を代表するスター杜氏をゲストに抱く東京寺泊会の素晴らしさを改めて実感する

優勝した「虎を」造る杜氏・橋孝一さは、東京寺泊会の・外山健太(現会長)と平石國男(現副会長)両氏や、風間幸恵さん旧姓三上幸恵さん(松沢町)とは寺中時代の同期生である。互いに顔を合わせて目をパチクリさせながらの40年ぶりの再会を喜んでいた。



宝山酒造は野積から弥彦山を跨ぐ温泉地・岩室にある。ここの杜氏は青柳長市さん、ここで造られる年間1200石の酒造りに全責任を負う。自然豊かな村の蔵で、四季神酒を産み出す自信と誇りを、仕込み唄で披露してくれた。青柳さんは自身の名刺に弥彦神社おみきの杜氏、大きく銘記しておられる。
来賓としてお招きした十日町出身の弁護士・春日寛氏は,長年の宝山ファンである。青柳さんの粋な喉と唄を激賞。
今年九月開催の朱鷺メッセのステージでは、寺泊
酒造組合の出演が決定している。この芸能大会は3人の司会構成であるが、東京寺泊会もその一人つぃて、受け持つこととなった。(写真は仕込み唄を唄う青柳長市さん)



単純な動作なのに酒造りの匂いで充満

       ●       ●      ●

  
場内を佐渡おけさで盛り上げる、東京おけさ会の姐さん達平成26年4月22日(金)に開催する第61回寺泊大会にも出演交渉中である。

友情参加の東京おけさ会 高橋和子社中6名は相川音頭で杜氏さんを前に、東京で味わう越後佐渡の代表的な民謡を披露今年初参加の、野積出身・青木重善様のスピーチは、「野積人の誇りとは」と演題を決めた当会からの直前依頼にも関わらず、ワラジ持参で、見事に素晴らしいトークをされ、粋で豪快な野積ダンディの姿に酔いしれた感じであった。
ご祝電感謝

小林清燕市長様・32号昨年同様ご祝電を戴きまして、ありがとうございました。司会者より会場で披露させていただきました。来年度も鈴木新市長様へ継続されますよう、宜しくお願い申し上げます。
記念撮影に間に合いましたか


東京寺泊会の特徴は大会開始の合図が全員の集合写真である。大会の開催時間即ち写真撮影となるので皆さん時間通りに集合される。宴会はこの直後に始まるのである。
撮影の際に宴会場から移動し、ホテルの専用スタジオで行われる。果たして遠く離れた寺泊の諸は、この顔の何人をご存じだろうか。夏戸・大和田・本山・松沢町・上片町・上田町・荒町・白岩・野積などを出身地とする首都圏在住のオールスタッフのメンバーが参加した。4月15日に役員が手分けして、下記の御参加者全員に、この写真を送付致しました。
 男性会員    女性会員  
相場要平 白岩
小林秀雄 白岩
高綱清庸 野積  下田信子 上片町
外山健太 上田町  浅見幸子 荒町
橋本寛二 上田町  石井光枝 蔵場町
平石國男 小川町  寺坂寛子 松沢町 
外山 格 上田町   冨田範子 金山
松井繁男 白岩   笹平京子 松沢町
早川賢市 蔵場町  田中桂子 松沢町
松永達一 本山  越智綏子 大町
廣田 勝 上荒町  部セツ子 戸崎
大井長一郎 上片町  大石裕子 佐野家
小熊春夫 七ツ 石   田尻加代子 湊町
竹田秀雄 磯町  風間幸恵 松沢町
小越弘栄 夏戸   小越文子 萬善寺
近藤半治 夏戸    
石原勇一 蔵場町  
内山 清 大和田  
小林孝之 蛇塚    
青木重義 野積    
 
   
  来賓 順不同敬称略
山崎和夫 長岡市地域政策監
長谷川知雄 寺泊・支所長(夏戸)
古川原直人 長岡市議会議員(野積)
山田省吾 長岡市議会議員
山田栄三郎 寺泊観光協会長
大倉英雄 寺泊観光協会副会長
伊藤  勝 出雲崎会副会長
春日 寛 東京十日町会会長
矢部正二 北区新潟県人会会長
山田 寛 新潟県人会理事
堀 優 弥彦村人会会長
武石賢次 弥彦村人会副幹事長
平出英雄 東京分水会会長
大島芳昭 東京分水会副会長
高橋和子 東京おかみさん会会長
吉澤米子 新潟県人会常務理事
三上喜久治 東京寺泊会相談役
渡部作次 東京寺泊会相談役
落合美三重子 新潟県人会常務理事
細谷シズ 新潟県人会理事
外山勝志 明治神宮・名誉宮司
佐野久治 つゞれ屋・会長
新潟日報社 井川恭一支社編集部

フィナーレはカラオケ・ トップバッターつゞれ屋・会長 ・ 93歳の佐野さんが音頭とり















寺泊酒造組合藤井正継会長が熱唱応戦















笹祝・杜氏加藤儀兵さんも楽しそうにマイクを握る


「自然郷の杜氏」野積の高綱  強さん・・・寺泊会開催の後日に行われた、平成22年5月の役員改選で寺泊酒造組合の会長に就任・・・は仲間の唄に手拍子で声援を送る。この法被姿が素晴らしい。麹と蔵の壁を想像させるコージ・ホワイトと襟元の対比がたまりません。
自然酒にこだわる、福島県矢吹町にある大木代吉本店の銘酒「自然郷」。矢吹町と言えば、元ジャイアンツの中畑清の出身地である。同氏が次期参院選に「たちあがれ日本」党から、出馬するのでは、との話題で持ちきりらしい。高綱会長の酒造り唄は高音で延びがあり、実に味がある。また達筆で、素晴らしい書体で書かれる手紙は、大変価値がある。寺泊の杜氏さん達の特徴として、皆さん全員が相当な達筆者であることだ。これは、銘酒を飲まれた顧客からの便りに対する礼状などを、お書きになる機会が多いので常日頃訓練されているからか。
中畑氏当選の暁には自然郷で乾杯かと思われたが、残念ながら当選は叶わなかったが、プロ野球横浜DeNAベイスターズの監督としてメディアに再登場の人気者である。
                                                                     

高綱さんはこの1年後の2011年3月11日・東日本大震災で酒蔵が被災。倒壊した酒蔵のなか、現在までに生産体制を建直し、人気の銘酒・自然卿を造っておられる。
ボランティアで寺泊会出席のため上京される予定である。

 
 
寛風庵最新号
 
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96歳で振り返る60年前の寺泊会

東京寺泊会創立60周年を祝う

第一回大会参加者:下鳥 ハル(96歳)


此の度は寺泊会の創立60周年本当におめでとうございます

これ程長く続くのは代々の会長さん役員の皆様のお骨折りのお陰と感謝致しております。

思えば60年前に聖徳寺の窪沢住職さんからお声が掛り、3歳の娘を連れて浅草の西徳寺へ集まりました。
寺泊小学校の青柳清作先生も出席されていました。
総勢十数人だったかと思います。


写真提供;本人(娘と二人で参加しました)

皆さんの意見で、寺泊の様子を知りたいと、窪沢住職に頼んだところ、一か月に1回の割で、生の寺泊の様子を知らせて下さることになりました。


青柳先生は寺泊の歴史などを書いて「ふるさと便り」として送って下さいました。
私のように遠く離れていても故郷の様子が身近に感じられて、毎月楽しみに読ませて頂きました。

窪沢住職が亡くなられてからは、興琳寺の中村さんが交替されて50周年で機関紙としての「ふるさと便り」は一応終わりましたが、伝統の東京寺泊会はいつまでも続いております。
私も会員として60周年大会に出席したいのは山々ですが、96歳になり膝痛がひどく、
歩くのに困難して居りますので。残念ながら欠席とさせて下さい。ほんの僅かですがお祝いを同封致しました、御受納ください。

これからも会の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。
平成27年2月23日
下鳥 ハル 



 
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福島原発事故と寺泊出身・福島県・酒蔵の杜氏さん

寺泊会創立61周年記念特別編

3月11日酒蔵から生還した野積杜氏

        

津波と大地震。あれから満5年経過する3月11日がまた来た。景気浮上より、復旧・復興を優先して目を向けてくれと、現地取材の著名なテレビキャスターやアナウンサーたちのインタビューに答える多数の被災民がおられる。
無償ボランティアで、汗の代償を求めない若者たちに感謝しつつその一方で。ここで去年の春の新聞を読み返すとこうであった
復興支援の原資にするからと、2年前の話であるが定年間近の教師達に、退職金かけ率に協力して欲しいと呼びかけた。だがこれ以上の関連する記事は寺泊会とは離れているので一部分を削除した方が良いのではと、当事者らしき方面から掲載3か月後位に声が出て、詳細は他のメディアを参考に、それぞれがご理解された方が良いであろう・。

 
順法とは言うものの、生徒達との絆拒否先生の善意は、対象者全員が協力すれば、支援の薄い住民の補助になったであろうになどと、金銭的なアプローチをする余裕は寺泊会だよりにない。論争を継続する時間のないほど、不可思議なニュースばかりに追われている平成28年春。

かつてこの45億円を目標に掲げていたのは誰か、そのような論点は、平成25年春の話題だけで何もなかったことのように消滅・終了した。追及を持ち出す新聞社も記事になく、行政話もない。不思議なものである。2016年春、一部大手のベアも決まり、やがて雇用が上向けば、万民からの血税があるからと安心しているのに違いない。


 
さて、あの震災当日の3月11日、福島県の酒蔵で仕込み作業中の寺泊・杜氏さんがいた。
 
 
福島の銘酒自然卿を造る寺泊出身の杜氏「高綱 強」さんの地震・原発と酒造り人生 再現記事


現役スター杜氏・高綱 強さんは寺泊会で語ってくれた。3年前の震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。  福島の地酒・大木大吉酒蔵の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。

地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。

◆揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さん。

◆ほかの従業員が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んじまったのだろうかと
言ってたそうである。

◆馬鹿いうな。死んでたまるか。おれは大揺れの最中でも、仕込み樽にホコリが入らないように、
周りを養生していたんだ、と堂々としたものである。


その2011年3月11日、金曜日.一億総日本人の誰もが、重い経験を味わった。ショックを受け脅威におののき、怒り苦しんだ。僅か3,4年の経過で、これから逃れられるほど軽いものではない。
映画でしか見れなかったような、浪に飲み込まれる家屋と失われ行く自然。メディアは、これを映像にし、繰り返し流し続け、人間が受けている、現実の悲惨さを報じている。家族を失い、建物を流出。取り返しのできない惨事。加えて、福島の原発事故。格納庫には、酸素がないので、水素だけで、安心ですと、時の総理大臣に説いたお仁は、やがて更迭された。時折、比較される言葉は、チェルノブイリである

水素爆発2日あとのウクライナ版プラウダ紙でもこのショッキングな写真を大きく取り上げていた。

平成の放射能製造マシーンは、この瞬間から、半減期に30年以上を要する、セシウムを飛びちらし、まき散らし続けているである。
気ままな風に乗って、100キロ以上離れた関東圏以南迄運び、翌日には北上し、北では雨によって地上に堆積、もはやISO環境目標だの、京都議定書だのといったレベルではない。先ずは、体内細胞分裂の盛んな、幼子から、目に見えない放射能の吸収を防ぐ事が肝心である、と評論家は言い始めたが。放射線レベルの許容基準値を都合よく何回も改正した。最初は半径5キロ圏内、次は10キロ、そして20キロ圏内、やがて50キロ圏内の住民はすぐ戻れるから町から離れなさいと、未経験からくる上から下までの行政の知恵は実に安心できない。



花火工場爆発の、火の粉程度しか考えていなかった我が国は、近隣住民だけを逃げろと、避難させたころの写真だから怖くなる。

毎日一緒に東京で仕事をしている、ウクライナ人は25年前に父親がチェルノブイリにいた。彼も原発で働く技術屋であった。同国の新聞は、今回の日本の事故をどのように報道しているかを、新聞を、見せながら説明してくれた。一面記事で、東京電力・3号機の水素爆発を報じたが、当初の見出しで見る限り、重篤ではないような表現も、炉体容器そのものが爆発したチェルノブイリに比較すれば、との見解もあるそうだ。以降のロシア語の新聞には[フクシマ]の文字が何度も登場していた。彼は何度も何度も、森が一番やられると語っていた。


科学が進んでいると思っていた、日本で、相当、古い装置が稼働していたのかとも、疑念を抱かせた。今振り返ると、GE又はWHの指定で、米国から輸入した、圧力制御機器や温度スイッチ,、リミットスイッチ、水面計など多数の機器を、この原発に納入した。来日したメーカーの技術者と製品説明のため、何回か通訳として同行した経験があるが、現地構内にあったGEのゲストハウスに泊めてもらった。1970年の初め頃であった。

福島県では万が一の原発事故が起こる前の、放射能漏れを国が想定しており、東日本沿岸海域に、多数のモニタリングポストを、設置してもらっていた。津波さえなければ、測定機器は、破壊されることなく、この写真以降の、放射性物質の飛散状態を、正確に強度と、分布をとらえたのであるが、残念ながら数機を残して壊滅。残された僅かな機器を使用して、大学・研究機関で解析中である。事故がない時に、モニタリングしていたのに、事故が起きてから測定できない神の仕業は、あまりにもむごたらしい。20箇所あまりの、モニタリングポストは壊滅したと思われていたが、やがて学者の執念で、この内の1か所にあった機器が健在であった事が判明し、これを使用しバックデータを分析中していると聞いたのは、かなり後になってからのことである。

それと東京寺泊会との関係があるかと思われるが、ここに示したのは、日本酒を測定した放射能レベルである。フクシマ原発の風評被害で、同県で醸造された日本酒の売れ行きが思わしくない。そこで蔵元が、放射能の影響がないことを、分析機関に依頼測定し、結果を公表している。セシウム・ヨウ素共に含有していなかった。


蔵元の社長さん(左)は、放射性物質含入ナシの測定データを手に、どうぞご安心くださいと、呼びかけておられる。

■実は、ここの杜氏さんこそが、寺泊出身の高綱 強氏(野積)である。福島の銘酒・自然郷の杜氏さんだ。
昨年新潟県人会100周年記念大会では、朱鷺メッセ(新潟市内)で、見事な酒造り唄を披露し、55回大会の2年前にも、寺泊会のステージで唄ってくれた。寺泊酒造組合の会長さんでもある。

東京寺泊会は、第57回寺泊会で,杜氏人生を語る特別講演会を企画。

3月11日の東日本大地震で酒蔵は倒壊。仕込み樽も横倒しとなる環境の中でも、蔵の伝統を守り酒造りを復興させた。

高綱杜氏殿、寺泊会大会で講演を願いませんかと、手紙を出したのは、地震が発生した年の秋の事であった。「何とか都合つけようや」と翌年の4月に開催した、第57回東京寺泊会において記念講演にこぎつけた。逆境下での酒造り奮闘記を、たっぷり語る姿に杜氏の里、野積人の豪快さを垣間見た。(於・芝パークホテル)。(震災の写真は大木大吉酒造さんのHPより転載)

 

         ▲
酒造り唄の名手・高綱 強・杜氏(写真上)

 第57回東京寺泊会大会は、4月8日()盛況のうちに執り行われた。
 

福島県地酒・自然郷 大木代吉(おおきだいきち)本店宣伝版より

 ■創業は明治維新をひかえる慶応元年(1865年)。大木代吉本店のある福島県西白河郡矢吹町はその昔に奥州街道の宿場町で、皇室のご猟場町としてもさかえたまちです。
 ■この矢吹町は中畑清監督の出身地で、三つの河に囲まれる水質・地質に恵まれた地域で、地価から汲み上げる仕込み水は口にすると柔らく、瑞々しいあじわいがたのしめます。

 複合汚染が社会問題となった昭和40年代には、環境保全や、ひいては酒文化の復権の考えから純米酒「自然郷」を発表。篤農家との関係を深めながら米作りに精力を傾け、現在は契約栽培や60aの自営田を社員による酒米作りに取り組んでいます。

 また昭和52年に日本の食文化たる酒・すなわち料理酒造りに着手。醸造から造られる100%安全な調味料・本格派料理酒として取り組んでいます。「玄人仕様」をモットーに醸造の可能性に挑戦し、日本の古き良き食文化を次世代へついで参ります
   (記事はネット通販業者のHPを転載させていただきました)

 

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