社会現象編 👀
未曾有の大災害での教訓は忘れない
3月11日がまた来た
巨大地震と寺泊杜氏
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あの時俺は福島の酒蔵にいた
・□
時が経つと焦点が薄れ、震災復興関連でも、
忘れてしまいそうな話がある。
…
◆復興支援の一部として、翌年に退職予定の公務員先生の善意ある退職金から、ねん出しようと大金45億の募金集めを試みようとしたが、日赤経由などの自発的な寄付は除き、思いつき提案の協力が実現しなく、じたばたしていた時代があった
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(ウクライナ発行の現地新聞にも報じられた原発事故写真)
--新聞提供:ビレスキー氏(ウクライナ出身)切り抜きファイルより--
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◆津波・原発事故・大地震。忘れることのできない3月11日は毎年来ては過ぎ去っていく。
この近辺になるとやおらメデアが話題を求め地方に走る。
都会の繁栄もいいが、復旧・復興の現状を優先して目を向けてくれと、
現地取材の著名なテレビキャスターやアナウンサーたちのインタビューに答える自治体の職員がおられる。
◆官僚や政治家と異なり、汗の代償を求めない学生ボランテアや若者たちに感謝しつつ当時のファイルを読み返すと、話題から消滅しそうになっている3月11日ならずとも想像したくない出来事がある。
忘れ去られそうな出来事を再度読み直した
😎
今では誰も触れない
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本当にあった話とは
・👀
教員退職金騒動
・・
1%天引き話再現
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福島の銘酒・自然卿を造る 寺泊出身のスター杜氏「高綱 強」さん 地震・原発と酒造り人生 再現記事 |
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■現役杜氏・高綱 強さんは寺泊会で語ってくれた。震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。 福島の地酒・大木大吉酒造の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。
■地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。
◆揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さん。
◆ほかの従業員が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んじまったのだろうかと
言ってたそうである。
馬鹿いうな。死んでたまるか。
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おれは大揺れの最中でも、仕込み樽にホコリが入らないように、
周りを養生していたんだ、。
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以降の掲載済み記事部分は、第三者によリ画像とも削除されたので、
再現不可能となり、紙媒体は残してあるが、ネット公開クローズ中。
だが件の酒蔵は完全復興し、酒造りは再会発展し全国展開でネット販売継続中
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you tube などで頻繁に登場している魚のアメ横で有名な寺泊町、その寺泊から戦後上京し、後の実業家となって東京圏第3位の高額納税者として名を遂げた、小林源次郎氏が69年前に創設した東京寺泊会なる小組織が関東に有り、爾来脈々と継承して毎年記念行事を開催していたが、コロナ禍で何年も中止していた。
そこで5年ぶりとなる寺泊会開催案内を2月初旬に発送した
唯でえ、足腰がそれ程強力とは思えない脆弱層が集う会の雰囲気があったが、あれから5年経過の御姿は果たしてどうであろうか。
会の第2勢力で当時50代半ばでも60代に、最大勢力の70代後半族なら己れの経過年齢を異常に気にする80代突入だ。自営でもやっていない限り、サラリーマンの生活には溶け込む余地は無であろう
とは言っても当会の最高齢会員さんは 105歳に なるから心配は不要。
5年も前の実話だが、100歳の長寿記念品をお持ちして、ご自宅へ訪問との区長からの提案の電話があった。
それなら私が区役所へひとりで歩いて参りますと答え、受け取りに出向いたそうだから元気が良い。
それを考えると、80代はまだ全員が若年層だ.
全く未知の世代人に送る如くのように、案内状を実行委員さん達が投函して下さったのも有効であろう
それも例年会場としていた都心のホテルの宴会会場が費用高騰で、上野公園の近くのホテルに変更せざるを得なく、地図付きの封書だった
従来なら往復ハガキ1枚印刷して住所ラベル貼って終了だが、初めての会場となると封筒にカラー刷りの案内書を入れて、更に切手代も掛かるから、実行委員会からの請求が怖いがコスパがどう出るか楽しみでもある
明けてビックリの人数しか、参加ご希望に〇のついたハガキが来なかったら中止となるかも知れないが、挑戦するしかない
それとも、次回以降の案内は不要です欄の☑しか無かったら、折角の案内書もどうなる事やら、寺泊会の実行委員さん達にはお手数をかけるばかりである
詳しくは➡http://teradomarikai.jugem.jp/?eid=192
さて、寺泊会を知って頂きながら、ふるさと寺泊町の宣伝になれば充分であるが、世の関心は別方向にあるやも。政・官・芸とやりたい放題が暴かれ、それどころではないらしい.行政サイドでも部下の公務員さん達が熱心に宣伝している、越後長岡ふるさと会の存在もついでに我が会得意なDX戦略で宣伝中 ➡
我が寺泊会は仲の良い弥彦さんや分水さんと異なり首町さんが一度も寺泊会行事に顔を見せないだけに、市長のお顔も名前さえ知らない長岡中心の行事には、不参加が続き評判も思わしくないらしいが、無言の宣伝協力で、名より実の重視組織だ 実はこれが初代会長から継承している寺泊会理念でもある
実行委員会さんに返信状況を頻繁に聞いている訳では無いが、もしかしてご来賓しか参加者がおられない場合の処置は未決である
直前役員会は大会7日前だからそれ迄は全く不明である
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NHK元NW9キャスター
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は寺泊人の巻。
出来る男は荒野を目指す。
大物キャスター、アナさんの民放移籍ニュースは、毎春絶えること無く話題を提供させてくれる社会現象である。
テレビ界で知名度抜群の男性40代、50代は転身の機会全盛期。通常は50代止まりだが、例外として60代は超の人物像でないと不可能だ。女性群のフリー転身化は更に30代が加わる。転身先が明瞭な男性陣とは多少事情が異なるが。
激変する生の社会現象を、身近に見て伝えた中からの選択肢であるから贅沢では有るが。
🔶 2024年最初に登場したビッグニュースは9時の番組「ニュースウォッチ9」で顔馴染みとなっていた青井実氏の民放移籍であろう。毎年続く類似情報、はNHKでは定例話題であるから驚かないが、縦横斜めから拝見してもスマートな若干43歳でのフリー転身だから,この先が楽しみである。
報道、情報にプラスして、娯楽の魅力に目覚めたか。
独立は男の夢と考えると全てにおいて理解出来るが、知識、仕組み、プロセスをある特定の組織で熟知してしまうと、ヒトはこの先の夢を追うようになるのは自然である。
⭐️即ち脳が荒野を目指して、無限のエネルギーを使えと発信するらしい。
民放への移籍者は当然だが、その民放在籍当事者も同一のプロセスを踏んで、組織内の一員から離れてしまいたくなる現実がある。現状維持からの脱却現象として、何の不自然さも感じなくなる。
🔸またもや50代登場。羽鳥慎一氏を彷彿させる
今朝も、にこやかに番組を仕切っておられる藤井貴彦氏(52)、元球児が売りの上重聡氏(43)も、何不自由無いだろうと、テレビ桟敷で見ていたこのお方だが、フリーになって、次なる挑戦へとPDCAのD段階かと思うと、男女問わずヒトの夢とは無限にあるものだ、と改めて考えさせられる。
但しNHKと異なり民放在籍者さんは、離脱した翌日からフリーとなっても、同局で類似番組にお顔を出すことが可能だ。
そこには多くの一般民がマネジメント会社の存在を知らない業界の外にいるから気付かないのであろう。
2023年1月31日、大越さんと同局だった武田真一氏が、55歳で定年を待たずして民放移籍を発表される大きな話題で湧いている。
NHKは民放より放送網が大きいため、ここでアナウンサー・キャスターなどを務めると知名度抜群になるので、逆に民放各局の経営陣は、局にこだわらず人材発掘に余念がない。時にはとんでもない恋愛事件ネタで奔走されることもあるが。
★しかしながら、TV ビジネスにおいてビッグパーソンについての退局・他局移動報道は日常茶飯事で、1年前の話では大昔級で驚かない。
極端な所NHKとなると1ヶ月前のニュースでは、もう古い。通常は今朝の話として扱わないと、そのニュース古いねえと一蹴されるのが実情である。
テレビ桟敷でのいい例が誰も想像していなかった、番組「あさイチ」の人気キャスターさんは、御本人の番組の中で直接退局宣言をされるので魔訶不思議な世界である。
これだって2023年5月22日(月)朝の事である。退局は個人の自由であり、法遵守にいささかも触れていないし、定年退局と異なり若手の退局はきわめて突然でも、代役に誰が選ばれようと、どうぞご勝手にとなるのだろう。
局さんもリスク管理で永年の経験上困ったよとはならず流れ作業の如く、流動的事案として扱っているに違いない。
◆自局の名物番組となると、有形固定資産にも似て、継続的改善を計り維持する事が、経営資源の向上に直結するからである。局単位の経営視線で考えると、その通りだが、現場で演じている、芸能人、とりわけその中のリーダーも然りで、制作サイド同様高視聴率の維持には、躍起であろう。
テレ朝名物番組「報道ステーション」初日
2021年10月4日。
スタートから小千谷市(新潟県)出身の渡辺瑠海さんとの小息も合い、さすが移籍金に値する貫禄を見せてくれた。
彼女自身も番組内で、ご自分も新潟県出身をアピールする荒技披露で、長期番組を狙う地位保全策万全の構えで、越後人魂全開状態の名演技。
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2022/12/01am4:00以降W杯カタールの再歓喜がスタジオにいるキャスターを久しぶりの笑顔にしてくれた
現地で取材しているクルーとのリモート会話でのヒトコマである。
日本チームの快進撃で日本を沸騰。リーグ首位での決勝進出は今年のアルビレックスを彷彿させた。この後トーナメントで勝利する度にこの笑顔を見せてくれるであろう。即ちあと3回という事か、と予想していたがクロアチア戦で結果出せず、おあずけ。あと4年後か。
◆ ◆
そして2023/3/22: WBC優勝となる歴史的瞬間に湧いた日本だが、このひともかつての野球人として冷静でおれなかったに違いない。
当日夜の番組では、こんな笑顔で自らキャスタ-を務めるスタジオに名闘将栗山監督を迎えてくれた。
昨年12月カタール戦以来の笑顔であった。
今回のMVPは栗山監督だね。旧局当時の、名コンビ青山姐さんとのやり取りを彷彿させるつぶやき復活となった
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★60歳なる言葉は、65歳と極めて近接した年齢である。
我が国に何千万人もおられ、境遇様々であり他人事でないと興味深々だろう。
異なるのは、お金とその後の終活工程である。
共通するのはゴールを意識しないまでも、ロードマップの通過地点である事かも知れない。定年(60-65)と退職は通常セットでやって来る。
…
★隣人にはゴドウケイも多いはずが、頬が緩む瞬間は、大小ともかく計算済みでも、退職金なる有難い御褒美であろう。
相当なレベルの著名人でないと、定年退職なのに翌日から新たな契約金などを用意して、どうか我が局へなどとの手は差し伸べてくれない。最低条件は、個性と経験でイメージ付けた容姿を保持しつつ、且つ切れ味変わらず的な雰囲気を有する事かも知れない。
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✳️名物番組のスターキャスター、アナウンサーを辞めて、他局へ移籍した局勤務有名サラリーマンは多数いるが、彼らは定年どころか、まだ40代そこそこな者もおられる。女性なら更に年齢が下がり、若きライバルの出現で更に決断を迫られる機会に遭遇。実際、民放局勤務者は一線を退くと、ラテに顔を出す機会が激減し、経営を考えた市場的には商品価値も低下するのが常で、資金潤沢なる局勤務故に、そこに定年まで活躍しながら移籍したとなると、これは世界でも何年に一度のトピックで、スター性に富んだ人物だから話題になったのであろう。それ故の当会コラムでの検索ビューも沸騰したのであろうか。
◆ ◆ ◆
同郷人大越キャスター氏のお蔭で、東京寺泊会だよりは、年間を通して安定読者数を保持しているので神様的存在である。
◆少しでも大越さんに関連した噂が出ると、これまた過去60万を誇る検索数が、超がつくほど増加する。
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・写真提供🤳NC 9編集部
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◆当初は、寺泊会が直接取材したわけ訳でないので、真偽は不明だったが、今春の人事で「大越氏、2015年3月でニュースウォッチ9キャスター交代・⁉」と、週刊誌、タブロイド夕刊紙に出るやまたまた、沸騰している。思えば同氏がキャスターとして登場したのは、2010年3月であった。
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✳それから何年か後、人事異動で大越氏から河野憲治氏その他諸氏に、バトンタッチすると発表があったので、噂は本当だった。そしてキャスターさんの異動ネタで業界話題で持ち切りにkなることも、持続可能運営のひとつかも知れない。
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・◆公式発表前に情報を流す者がいて、僅か一部のメディアがこれを買い記事にするとは、恐ろしい世界である。お蔭で検索数の激増に貢献してくれた。午前0時に始まり午後11時までの中で、何千とアクセスが来るのだから感謝するしかない。正に寺泊会だより検索ワード貢献大使さんとして、4月大会で感謝状を出したくなる感がする。
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🔷正直なところ、大越さんがこれほど著名な人気キャスターになるとは想像していなかったので、気楽な気持ちで渋谷のNHK放送センターを訪れ、寺泊同郷人ですがと勇気を出してインタビューしたのが幸した。勿論事前予約を取り、放送前の僅かな時間であったが。
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✳実際寺泊会へは、郷里の町役場職員から、東京のNHKでアナウンサーしているのは、寺泊マチ五区の蔵場町(クラバチョウ)に住んで居られた、大越さんちの息子さんらしいですよ、程度の情報しかなかったので半信半疑でもあった。大越さんちなら、お二人のお子さんが居られた筈だし、どちらにしても、町ではキャスターもアナウンサーも一緒にしていた。
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✳️当時の寺泊町出身で、有名人となると、弥彦山の東側に広がる景勝地、野積橋を渡るとすぐの荒谷(野積)にあった加藤さんちの息子・俊徳さんがラジオ(ニッポン放送)に時々出ているらしいとの連絡も受けてインタビューした人気脳科学者かに代わって、今度はアナウンサー(NHK)かいと、好奇心の虫がうずき止まらないなかった。
✴️もうひとりの寺泊出身有名人著書多数の加藤俊徳氏(脳科学者・医学博士)
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★偶然にもお二人とも昭和36年(1961年)生まれの40代後半(当時)であった。ドクター加藤は寺泊会で講演会したり、書店には加藤博士による脳トレ関連の何冊かが目に付くコーナーに陣取っていた。ところが大越健介さんとなると連絡時ではまだ米国(ワシントン)におられ、毎日お顔をテレビで拝見という訳ではなかった。実際はこの1年以上も後に寺泊会として単独で渋谷のNHK放送センターへ向かったのである。
🔷多くの読者層は同氏の名前でウィキペデアから入り、脚中に本人のプロフィール情報の一部出典が、東京寺泊会だよりと記載されているので、読者さんが、改めて、東京寺泊会だより迄辿っている様子なので、過去記事をアーカイブすると
■ 5月の大安日・22日に、寺泊会の顧問、外山勝志さんが名誉宮司を務める、明治神宮で挙式を執り行うとはいえ、結婚披露宴延期の青山祐子アナと、日本放送協会始まって以来の、名キャスターコンビとして話題沸騰させた1年間であったが、お二人での競演は4月2日にフィナーレを迎えた。しかしながら、国難が襲う憂うべき世相で、代わりにご登場の新人女性キャスター、知的で聡明さが目立つも、毎日難しいテーマの報道に、笑顔での受け応えどころではなかったが、それは編集長の好みの問題だよなどと、弥彦会の会員様に言われながらも、NC9は5月23日に新装する噂がある。
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■ 確かに背景は、手書きのアナログ型に親しみやすく改装された。スポーツキャスターとメインキャスターのデスクの距離も近くなり、発信者一体型となるように工夫され、気軽感もある。
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大越健介さんに特別インタビュー
◆NHK夜9時から始まる「ニュースウォッチ9」の 評判は、
すこぶる良いまま継続中。
中でもキャスターをしている大越健介氏/169cm、49歳・体重は非公開(2010/12/22、同番組の大腸がん検査推奨のコーナーより)の 気取らない雰囲気に人気が集中している。
✴そして2011年4月2日(土)、通常は放映のなかった土曜であるが、東日本大震災発生以来、特別枠で、毎回大越氏と被災地、原発事故問題などを伝えていた。この日でスポーツアナから数えて8年に渡る、毎晩、9時台のキャスターを卒業した。
3か月前の番組中に、自身の結婚をコミットメントするような、オーダーで、大越氏が仕込んだ構成に、全国で多少の!!もあったが、大震災・原発事故と壊滅状態の日本を報じていた職務上、3月27日(日)に予定していた披露宴をキャンセル、多くの招待客も納得の延期であろう。挙式は1年以上も経った、2012年10月吉日、明治神宮で執り行われた。
4月4日からは、同局の昼時間1時05分からの登場となる。大越キャスターは夜番組を継続するので、夜9時のお顔としてお会いできる。新スタッフによる番組進行も楽しみである。
🔷一説によると、青山さんの瞬間出演もあり、とのうわさが,囁かれている。ニュースウォッチ9の女性キャスターをこなせるコンピテンスを持ち、大越氏と組み、つぶやきギャグを受けとめてくれる、知的な姐御を、同局内で育てあげるのは、易しいことではないであろう。彼女にしてみれば、夜の番組終了後の、クールダウン時間が無くなり、ほっとされておられるに違いない。これからは別のメンバーと、居酒屋に顔を出すことになろうが。
🔷実際、毎日拝見していても、ブラウン管での 女性キャスター・青山裕子さんが10年遅く入局した後輩ながら 体力・知力備えた賢明な、お姉様として60分間弟をかばいつつ隣に座っている風にも見え,安心感がある。
その検証には、8月第3週のように、青山さんが夏休みの期間中は、このシーンは当てはまらなかった。
■その青山祐子さん(37)が、結婚報道されるや、この日から寺泊会のサイトの検索数がブレークした。平均200件くらいだった訪問者は、どこでかぎつけてくれたか責任重大である。
懐かしい1月の思い出であった。
◆大越さんは大きくつぶやいた。「仮にのお話ですが、もし青山さん〔番組では彼女をこう呼んでいる)が結婚されるとしたら、お仕事はどうされますますか・・」
「私は結婚しても今の仕事は、絶対必ず続けます」
「婚活には、女性の立場として、相手を十分知ることが必要ですね・・」
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✳ここで大越さんの名言が飛び出す。
「説得力あるおことば、ですね・・」こんなやりとりが交差するNHK夜9時のスター番組が、ますます人気上昇へとつながって行く。これに伴って寺泊会という、都会で運営する、いなか通信サイトも、うなぎ登りでヒットしているのではないかと、分析した。これでは制作に手が抜けない。
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● ●
■入局以来政治部で仕事をし、優秀な取材では定評があり同期入社だった 民主党・安住淳衆議院議員は、 「あらゆる事に、ずば抜けた才能を持ち合わせていた逸材」と 評価している。但し、これは週刊誌ネタなので、安住淳氏に直接伺おうと思って、秘書経由でインタビューお願いを出してから、だいぶ時が経ったもまだ実現してないが。二人のエピソードはネタになるのに。
▼「つぶやくような おじさんのささやき」こそキャスターの魅力
✴こんな基本条件を兼ね備えた大越健介氏。
ニュースオーダーが変わるたびに、ささやく本番中の小さなつぶやき。
大学野球の神宮球場のニュースでは
「僕もここでホームランを打った事があるんですよ」
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✳️:長編原稿のためここで一服・箸休めタイム令和の話
…
★2021年5月後輩が法大に1勝
:▼大越さんがらみの最新ニュースとなると、何といっても
2021年春の東京6大学野球リーグ戦で
母校東大野球部が5月23日の法政大学戦
2-0で久しぶりの勝利を挙げたことあろう。
しかしながら、2021年度の出来事はご自身がキャスターを引退してから
約40年近く経過してからのトピックである
偉くなられてひょっとすると、ご存じないかも知らないが
寺泊会には、この手の話題を自分の手柄のように自慢する輩が多いのである。
:
:
一方高校野球で甲子園の話になると
「僕の新潟(高校)は、まだ一回も出たことがないんですよ」
石川遼が全英オープンのラフで苦戦していると
「僕がこのホール代りましょうかね」
賞金の高い試合が,目白押しの、2010年11月のPGAトーナメントでは
「高額賞金を目の前にして、よく繊細なプレーができるものですね。私なんか△※□・・・」。
◆などなど、時にはおやじギャグになってしまうこともある
:
✴こうなると、青山キャスターは、 聞こえなかった事にしてさっさと次のニュースへと話題を変えてしまい、「しょうがないわねえ、この子は」とでも言いたげになる。
多くの大越健介ファンは、彼が女性キャスターの方に体位を開いて、 少し首を右に廻しながら両目を右側にまとめて何気なくつぶやく姿と その言葉こそ最大の魅力と受け止めているようである。
■だが、9月3日の番組では、2日前の菅直人首相に続いて、小沢一郎氏をスタジオに招き、政治部の記者時代から身に付けた、適切な質問を投げかけ、相手に語らせる手法も素晴らしいものがあった。2010年の政権交代劇は、同番組を再生することは不可能なため、日テレニュース24のフリー動画で再生しながら検証するとわかり易い。
佐渡高校選抜出場 | |
■さて、年は変わって2011年・春の選抜高校野球大会に、21世紀枠として新潟県立佐渡高校が選ばれた。
NC9ではきっと話題にするだろうと、期待していると案の定、スタジオ皆で、大越さん良かったですねえと笑顔が浮かぶ。
今では新潟ニイガタとアラフォーの言葉に、青山さんも一柳スポーツキャスターもすごく敏感に飼育されておられる。この雰囲気で、この言葉がでるとスタジオは大盛り上が りになる。
( 新潟高校時代に)3時間かけて佐渡(高校 )のグランドへ練習試合に行ったんですと
述懐する大越氏は、アナログ派だけに、スマートフォンのニュースの後に、新潟情報を発信するチャンス到来の2011年1月28日(金)となった。
● ●
▼兄が私を野球の道へ
導いてくれました
兄とは時間さえあれば二人でキャッチボールをしていました。 野球に夢中になる事の、面白さを兄が教えてくれたのです。
これは事実らしい。本稿の初稿段階で、読者を意識して物語風に創作し、「自分はもっぱら外で野球を楽しんでいた時間にも、勉強家の兄はもっぱら家の机に向かって本を読んでいた」、などと推測で表現したが、ここの文章は間違っていますよと指摘され、兄と一緒になって日の暮れるまでキャッチボールをしていたに、修正して下さったのである。大越健介物語には、小手細工の作文は不要なのである。
✳️実際2021年年11月15日のテレビ朝日「徹子の部屋」に出演した時も、8勝27敗の話や、ご兄弟のくだりも懐かしそうに振り返っておられた。
4歳を前に寺泊から新潟市に転居あと、小学校へ入ると少年野球チームに入り、中学校・高校と野球部員として汗を流した。。
兄と同じ新潟高校に入学した頃には、彼は医師になる事を、考えていたようでした。
3歳年上のお兄さんとなる大越章吾さん(日本歯科大学、新潟生命歯学部、教授)は、新大(医)を卒業後は、大学院を経て、東京の国立ガンセンターで、肝炎ウイルスの研究をされ、1990年・医学博士となる。癌研有明病院でも、論文は生きているはずである。(写真は、癌研有明病院の5階テラスで撮影)
正に誇りとすべき 寺泊出身者のひとりでもある。 各地で開催される肝炎に関する講演会にも出演し、パネリストとして 時折、講演や解説をしている。
▼東大野球部時代
東大野球部時代は、投手としてサイドスローの投球を貫き 神宮で50試合に出場して8勝の実績を残したエースだった。 東大出身の投手には1960年岡村甫氏(前高知工大・学長)が 記録を作った、71試合で17勝した記録があるが、歴代5位となる 大越氏の記録も優れたものである。 入学した年1981年は早慶から勝ち点をあげて 赤門旋風とメディアで話題になり、東大最強時代を造り上げた。 ■ここの大学のチームなら 1試合9イニング最後まで投げれる確率は一番多いだろう、 との東大野球部入部の動機は、見事に的中した。
サイドスローの話はエースだった大越氏を知る者の常識であるが
今年の神奈川県大会決勝線で横浜高校に勝った、プロ野球の各球団が1位指名を狙っている、東海大相模の 一二三投手も同じフォームである。
八月一日に番組中で この投球フォームのニュースが流された際
大越さんもきっとこの事に 触れるに違いないと期待して番組を拝見していると
案の定
✳「僕の投球も最初はオーバースローだったたんですがと途中からサイドに変えたんですよ」 と、
大きくささやくと、隣の青山キャスターも身を乗り出し 「まあ、そうだったんですか」と、このささやきは盛り上がった。
この直後の「オーバースローからサイドに変えて勝ち進むのは大変なんです」と
自分を振り返ったつぶやきは、大きくは話題にしてもらえなかったが。ところが、このつぶやきは、平成22年夏、第92回全国高校野球選手権の、一二三投手物語へとつながって行く。
?▼▼[一二三投手のサイドスロー物語]2010年8月20日ニッポン放送。高嶋ひでたけ「朝ラジ」の番組より、高嶋さん朗読の「スポーツ人間模様」を東京寺泊会だよりが脚色公開。
🌠2010年春、巨人の原辰徳監督は、遠征先の宿舎で一本の電話を受け取った。親父に母校の監督になれと指名され、東海大相模の監督をしている、後輩の門馬敬治からだった。
この年の選抜大会・初戦で敗退した直後、一二三投手が投球フォームを変えたいと言ってるが・・・との相談であった。夏の甲子園出場に向けて、チーム一丸となっていた5月、オーバースローのフォームが定まらなく、練習試合で結果が出せない、すべては自分の責任だと、一二三はひとりで悩んでいたのだった。一二三がサイドスロー投球法に気が付き、閃いたのはそんなときであった。
▼▼印?へ続く●●●
✳キャスターの大越健介氏は東大3年の1983年に、日米大学野球選手権に出場している。
この年の東大の春秋の6大学野球の成績は5位であったが、リーグを代表する選手として 国立大からは、初めての抜擢であった。
記者・・出場されたご感想はいかがですか
大越・・僕はこれで「NIIGATA」「TOKYO」「JAPAN」とすべてトップのユニフォームを経験しました。(同氏のブログより)
✳同時期に6大学野球で活躍しプロ野球選手の道を選んだ選手には 小早川毅彦(PL学園・法政・ドラフト2位広島)、 広沢克巳(栃木・小山高校・明大・ドラフト1位ヤクルト)、 木戸克彦(PL学園・法政・ドラフト1位阪神)などがいた。
彼らは大学野球界でトップレベルにいたアスリートである。
これと同等で称されるコンピテンスを持って、東大野球部に在籍しておられたのが、寺泊生まれの大越健介氏であった。
大越さんのつぶやきが楽しみである。青山キャスターが休暇中では掛け合い漫才こそなかったが、高校野球から目を離さない同氏が、隣の女性スポーツキャスターに「野球仲間と話してたんですけど、ここまで来ると、球児の力の差はなく、皆が横一線ですね」とコメントしていたが、高校野球を語り合える「野球仲間」とはどなたであろうか。県高・新潟高校の野球部仲間か。まさか東大ではあるまい。
これはご自身の3人の野球好きな息子さんたちに違いないと、勝手に解釈してしまった。
女性キャスターに語りかけた、サイドスローにおける大越さんのつぶやきこそ、日本で最も、横手投げ投法を実践し勝利する難しさを知った男、の言葉であろう。
■運命のドラフト会議は、2010年10月28日(木)今春東京新潟県人会新年祝賀会の会場と同じ、グランドプリンス新高輪・飛天で開催された。ここのステージには1月に芸能大会で司会として上がったが、スピーカーが天井でもホール後方席の音量は、会場を包むように聞こえ、気持ちがいい。クリスマスシーズンには、加山雄三や、著名アーティストのディナーショーで満席になる。
✳早大のスター投手に1位指名で、交渉権を持つ球団が決まるや、関係者は満塁打を放ったような嬌声を上げた。
この日の大越氏の番組は開始早々から1/2を占める,約30分を、ドラフト関連のニュースに費やした。「6大学野球に関わっていた自分としても・・・」思い入れが深いのであろう、・・と切り出し、プロとして巣立って行く前途ある若者に、熱いエールを送った。
そのスター投手こと、早大・斎藤ー大石はドラフトでも、スター扱いであったが、2010年秋季リーグ戦では10月2日第4週1回戦で両エースが登場するも、4−2で珍しく東京大学に敗戦していた。東大は6大学野球に於いてリーグ戦35連敗中であったが勝利の記念大会となった。
✳当日、神宮の応援席で観戦していた東大の学生数は、早大より64人少ない258人(東京大学野球部HPより)であったが、2戦3戦と逸したせいか、OBキャスターさんは、当時、この話題につぶやかなかった。ただニュースウォッチ9番組でのドラフト関連放送中のネット検索は一斉に、この寺泊会だよりのページに飛んできたがその目的は判らない。(ページ下段に検証エビデンスのグラフあり)
■つぶやきには、野球関連が圧倒的に多い、2010年10月11日、体育の日の話題では40歳代の体力がテーマとなり、この年齢層は、使わないと坂から転げ落ちるように筋力が衰える話に飛んだ。
「この前久しぶりに草野球しまして」と切り出し、フライが飛んできたのでボールの落下地点まで走り込んでキャッチしようとしたら、なんとボールは2メートル位後ろに落下したのでした
「あの頃の俺は、一体どこへ行ってしまったのだ」とかつてを反省し懐かしむ。
久しぶりに女性キャスターが「野球のエースだったあなたは、まだ40代でしょうが」と話に乗って来た
🌠すかさず 「青山さんも間もなく同じ40代にどっぷり入るはずですよ,※x◇・・・」と49歳の大越氏との掛け合いが始まった。
これこそテレビ桟敷で、待ってましたと叫んでしまいたくなる。民放なら草野球シーンを放映したに違いない。
主婦の勘は当たる |
🔶青山さん結婚するんじゃない。だって去年の暮れ頃から、「お顔がずっと輝いているんですもの」。
結婚するのかしら。「女って結婚の決意をした時が、人生で一美しくなるものよ」。毎日欠かさず、この番組を見続けている女性視聴者たちのこんな話題が、耳に入ってきたのは、寺泊会だよりに、彼女の写真を掲載してからであった。
責任感強く負けん気の彼女の目は、画面からは、かつては女刑事の眼であったが、平成23年は、天使のような優しい瞳にかわっていた。それでいて、大越さんの言葉を包み込んで、番組のオーダーを進行させている。こんな感想をもってすごしていた2011年1月17日の早朝、ニッポン放送、高嶋ひでたけさんの番組で青山さんが1歳年下で、37歳・会社役員の男性と結婚される(スポーツ紙の紹介で)ニュースを発表したのであった。この手合いの話題はメディア発表の前に、ここで書いておけばと、歯軋りする、我が編集局の朝となった。だが、この日の当サイトは、24時間中、約90秒に一回の訪問者で、あふれる、ありがたい結果を残してくれた。
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✳かくして主婦層の眼力は近頃の彼女の変貌を、すばやく見事に見抜いていた。こんなパワーを持つ主婦層だから、サラりーマンのおじさんたちが会社から帰宅後、かわいい嘘をついて、奥さんから小遣いをだまし取ろうとすると、顔に現れ、すぐにばれてしまうのである。
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✳年齢の話題にはキャスター同士の反応が速い。
大相撲11月場所9日目、場所が地元の魁皇・1972年生まれながら、いつものように連敗もせず、すこぶる元気いい。優勝戦線参加中の8連勝、今場所はまだ一敗しかしていない。もしかして優勝するかも。
スポーツアナが、この年齢でよく頑張っていますよねと持ちかけると、
女性キャスターは、「38歳頑張れ」ですねと反応。
大越キャスター・「妙に強調しますね。(青山さんも)お同い年ですものね」。「ええ、私も、まあ、つい。△※○x」。 このひと月あととなる、12月27日に米国の大学在学当時、アメフトをやっていた屈強の体格を持つ、男性のプロポーズにOKをだす、彼女の誕生日であった。38歳へのエールは自身へのお言葉だったに違いない。
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🔶さて、結婚報道がメディアに周知されて、最初となるニュースウォッチ9は、2011年1月17日の夜9時である。大越氏の第一声はどんなおことばであるかが、これまた興味深い。きれいな白い歯を、一層大きく開けての御祝言になるであろう。サッカーアジアカップ第3戦直前のハイライトに、目を離す話ことが出来ない。民放のように、ワイワイとした場面は抑えるに違いないが。(午後3時記)。
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▼仕事をするなら新しい世界にチャレンジしよう
🔶大学4年の頃、自分にも、当時社会人野球トップの球団から強烈なオファーがあった。だが、 大学を卒業した後は、これまでと全く異なる世界を覗いてみようと、 マスコミ・報道関係の仕事を選び日本放送協会(NHK)に入社した。
▼東京寺泊会からのアプローチ
NHK入局直後の昭和60年から約4年間は地方局に勤務していたが その後中央に戻り、政治部記者として橋本龍太郎元総理の番記者や 自民党派閥の経世会担当として時折テレビで取材報告をする。 また、解説や選挙報道の番組に顔を出すようになると 東京寺泊会の懇親会があるたびに、 会の中では、大越さんの話題が飛び出し始める
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✴「大越さんがNHKのアナウンサーになられたそうな」、 などと勝手な解釈で納得して、 来賓として東京寺泊会に来賓招待したらとか 講演会を企画せよと、寺泊の役場職員から不確かな連絡が有ったのはつい最近のように思えるがあれから年月がかなり進行してしまった。
🔹自粛階層族支援寺泊関連閑話
紅白歌合戦の季節が来た
時代と共に著名人気歌手でも出場の機会が少なくなったが毎年変わらず紅白で演歌を熱唱し続けている女性歌手がいる
2023年ステージは、パフォーマンス合戦の世界だと言うのに、演歌歌手の登場を世間では、どう受け止めるかが見ものである。まさか、水森かおりのコーナーのようにドミノを使う事は無いと思うが。(中継同時出稿)
2022年大会で、天城越えを熱唱した、深紅のライトを浴びながら貫禄を示す石川さゆりさん。これこそ本物のブラボーか。
2023年暮れにも同じ言葉を発生させるのかと、楽しみである.
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演歌・歌謡曲には海峡をタイトルにした楽曲が目につく。
坂本冬美(北の海峡)、吉幾三(北限海峡)、大月みやこ、都はるみ、森昌子など(女の海峡)、上杉香緒里(おけさ海峡)、人気歌手多数が感情込めて海峡を唄う、熱唱型演歌歌手好みの楽曲テーマなのだろう
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但し同じ海峡モノでも、過去に紅白で12回も歌われた「津軽」と異なり、「飢餓」となると海峡の緯度的には同一にもかかわらず、紅白のステージで一度も熱唱された事がない。根拠を辿ってゆくと、飢餓海峡を唄う石川さゆりと水上勉の壮絶な接点に到達した
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★コロナ禍の時代だからこそ、自粛中の住処で時間つぶしとばかりに、先ずは
アマゾンか楽天で気になる作家の本を探し、新旧の人気作家まで辿り着くのであろうか。
その検索の途中に 水上 勉 が出て来ると、越後人は何故かこの本を候補にされるようで
早速ポチッと「飢餓海峡」,「五番町夕霧楼」, 更にマイナーだが「寺泊」などをお買い上げらしい。
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◆ボテ・モンペ・番屋
▲飢餓海峡の作者
寺泊の浜辺を歩いた
水上 勉
作家水上が歩いた昭和の寺泊のイメージだろうとの事で、撮り貯めていた八甲田丸観光記念船からの展示写真を(無断)借用したが好評のようだ
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▼出版全盛と
出版不況の怪 |
■ さて、本といえば、世のスキャンダラスな話題を取り入れ、作家が書き下ろしまくると、ホンが売れ、月刊誌の発刊が続いた昭和中期、出版社全盛の時代が懐かしい。業界大手の、角川書店、新潮社、筑摩書房、平凡社、集英社、徳間書店、小学館から、婦人雑誌系の出版社まで、売れる商品に飛びつき、稼ぎまくり、同時に作家も潤った。平成の今、想像もしていなかった出版不況の社会現象で、この業界は、著名月刊誌の廃号や、大小出版社の統廃合、 倒産が目立つ。ぶ厚い雑誌を買わない、紙媒体本が売れない、広告主がなかなかつかないそうである。
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▼佐渡の見える浜(1999) |
★飢餓海峡を
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聴いたり読んだり
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(同名演歌のギターバージョンYoutube版より)
👀
✳ 令和「コロナ飢餓」小説「飢餓海峡」演歌「飢餓海峡」点と線
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✴ 演歌「飢餓海峡」が線になった
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■人気小説から同じ題名の唄を立ち上げることに熱心になっていた紅白常連の演歌歌手がいた
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手始めに挑戦したのは、泉鏡花原作「義血狂血」からの「瀧の白糸」であった。20代の終わりころであった。
次に発表したのが高橋治の恋愛小説「風の盆恋唄」新潮文庫編は、著名なヒットメーカーコンビ、作詞:なかにし礼・作曲:三木たかしで完成した
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◆ ここは東京赤坂4丁目にある、日本を代表するレコード会社8階の役員専用会議室である。
まだ東証一部上場中で、レコードからCDになっても売り上げ好調を維持しようと、映画人気のある今のうちに次なる経営戦略について役員達で活発な意見を取り交わしていた。
現場に詳しいK常務が、来期は小説の歌唱化に力を入れるべきだ、と提案したが作家名までには及んでいない。
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◆「小説を歌にする」
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言葉は簡単だが、プロと言えど我が社専属で歌いこなせる歌手はいるか。翌日、川崎にあった製作部門のディレクター達に集まってもらい意見を聞いた。
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◆この時小説好きで、社内でも敏腕プロデューサーとして通っているSの目が輝いた。
何か閃いたようだ。自分に任せてくれれば何とかする。
彼の思考には入社まもない頃から担当していた、ある有名歌手を思い浮かべていた。
*
◆ 彼女は小説から歌を立ち上げる事に夢中になっていたし、いつか水上作品にも挑戦したいとも言っていたのを忘れなかった
*
■ 水上小説には史実に絡むスキャンダル事件など、大衆受けする作品が多数あり、今の時代にマッチする。
このチャンスを利用して曲を世に出そうとの意見は、出席者全員で一致した
これ迄に何本かの楽曲を仕掛け、大ヒットさせた経験のあるSが、先生に直接会って交渉する事との結論を出してその日のミーティングは終った。
:
◆「私の作品を歌にはしないでくれ」を承知で訪問
村上勉は、自分の作品を歌唱化する事に対して、どこのレーベルからのオファーにも、全て断り続けていた。
一度も首を縦に振った事が無いことで業界では知られており、同意は容易ではない。
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◆邦画人気を支えている原作者の一人である、水上勉氏に直接交渉して、必ず小説の歌唱化のお許しを請うという強力な意思を持ってプロデューサーSは、翌日、水上先生の居られる若狭に飛んだ。
:
◆ 彼は、水上小説を歌いこなせる歌手は、我が社にひとりだけいると確信しており、彼女の声質、リズム感と演技力、歌唱への情熱と優しさ、全てのパフォーマンスを熟知していた。
交渉にあたっては、その全てを水上先生に伝えれば成功する筈だ。
:
■ 先生の決断
「判りました、明日私の劇場の音楽担当者にも話してみましょう」
:::
◆ その3日後だった
先日ご推薦頂いたプロが歌うのであれば、先生の作品をレコードにしても宜しいそうです。水上劇場の音楽担当者さんから電話が入った。
:
◆ レコード会社にしては、まるで夢のような瞬間であった。ご当人にもお会いしましょうとの事で、早速訪問の手配になった。東京からはプロデューサーが、興業先からは本人とマネジャーとの二人が若狭の水上先生の元へ向かった。
:
◆現地では先生お気に入りと評判の、囲炉裏の間でたくさんのお話しを聞くことができ、今まで経験した事のないほどゆったりと時間を過ごした石川は、益々先生の小説を歌える悦びに浸っていた
…
✳ それはあたかも、点と紅い糸が固く繋がったような情景のようであった。
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■ 次なる
思いがけない展開
若狭訪問からしばらくした頃、先生が心筋梗塞になられたとの情報が伝えられた。だが症状は軽く、今ではお元気に過ごされているそうだ。ここで、我々でも先生のために何かをやろう。
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先生のお見舞いを兼ね、一夜限りの舞台を企画しようと若狭の「ミニシアター」を会場にして
「幻夢一夜」と名付けた小イベントを企画したのは永六輔、筑紫哲也それに児童文学者の灰谷健次郎であった。
:
◆さて当日のステージ演目を何にするかを話し合い、お話名人の永六輔と筑紫さんはステージ上で語りをやるので、あなたもどうですかと誘われた。
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◆ 歌手としてステージ上で台詞回しの経験はあるが、語りよりも、皆さんの前では水上小説からの歌が一番良いのではとプロデューサーにも相談し、水上小説3部作を歌う事になり、直ぐに作詞作曲担当の先生を探して頂いた
:
●水上小説検証
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歌唱版3部作誕生
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❶「越前竹の舞」…原作(越前竹人形)新潮社版
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❷「はなれ瞽女おりん」…原作(はなれ瞽女おりん) 新潮社版
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❸「飢餓海峡」…原作(飢餓海峡)新潮社版 であった
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◆ 3部作の作詞は、全て吉岡治、作曲は弦哲也の各先生にお願いし、中でも「飢餓海峡」は商用でなく、水上先生個人に捧げる、専用楽曲ですとの思いを伝えながら作業を開始して頂いた。
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◆やがて素晴らしい作詞、作曲が出来上がリ、これなら語りも有るし、先輩語り手にも違和感ないだろうと水上劇場の舞台に立った。
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◆それにしても、作詞家さんとは、一瞬にしてここまで小説主人公の心を汲んで、文字に出来るものかと感心すると同時に、作曲家のギター演奏に感激しながら自分でも、この歌に酔うような感情を抱いて熱唱した
石川さゆりも芸人魂を発揮し、抒情たっぷりに短いセリフも入れてみた。
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◆3曲目の「飢餓海峡」を唄う前に曲紹介し、ゆっくりとお願いした。
:
「会場の皆さん、この曲は発売を目的とした歌で無く、今夜一夜限りしか歌わない、水上勉先生に捧げる唄です」と念を押しながらご挨拶してから、特別席に座っておられる、水上先生を前にして津軽弁を交えた唄芝居に続いて「飢餓海峡」を歌い始めた。
…
:
✳ ✴ ここで「飢餓海峡ギターバージョン」とYou tube 検索し鑑賞すると、感激の演歌シーンを味わう事ができます。
*
:
✴◆ ところが歌い終わるや、永六輔さん、筑紫哲也さんが興奮気味に「一夜限りの唄では水上先生に申し訳ないぞ、この曲を日本中に広めよう」とおっしゃり乍ら、ステージに上がり会場の皆様へ、同意を求めるような雰囲気になりびっくりしてしまった。
:
いつまでも大きな拍手を頂きながら、感激してしまったことは忘れることができない。
・・・
・・・
■東京へ帰ってもレコード会社に各地のショップから
「飢餓海峡」をCDにして欲しいとの要望が沢山入ったらしく、再びビックリする。多摩川下流に建つ工場の制作現場はプレスマシーンがフル稼働していた。
:
◆ プロデューサーから、若狭で大評判だった「飢餓海峡」をリリースする事が決まった、打ち合わせするから、明日の14時頃、第二制作スタジオに来てくれとの連絡があった。
:
★遂に「飢餓海峡」の正式発売が決定したのある。
:
村上先生個人のためにとの思いで、弦哲也先生に作曲して頂いて唄ったあの曲が、日本中に広がる瞬間であった。
:
創作部分脚注: NHKラジオ深夜便2021/1/6より
:
Note
(本稿紹介の歌手が歌う楽曲は全てYoutubeに公開されておりますがYou tuberさんの掲載許諾を得て無い為、記事とURL並列掲載は出来ませんが
鑑賞目的にて楽曲名を動画検索しながら、本稿をお楽しみください。)
寺泊会70年の年輪
昭和・・平成・・令和を斬る
最高齢会員は元気な104歳女性
6月インタビューめでたく完結
初代会長(別号公開中)の初宴会は1957年
昭和32年〜令和5年・・。
・
東京寺泊会の世相物語、
本稿掲載
2代会長〜10代会長まで
約70年の歴史とその世相
現在11代会長公募中
コロナ解禁迄の足跡と人物往来
(長編につき巻末迄読切倦怠ご注意)
(初代会長は前号で公開中)⇔下線部クリックで表示
・・・・・・・・・・
・
2代古川原与一から
ーー。
第9代外山健太・・
&現在第11代会長公募中
・
・・
創設者に感謝しつつも、やむ無く
2023年春の68周年記念大会開催中止
・
◆・
・
懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷と同時期の世相点描
・
初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。
◆軍歌歌手登場時代
(写真提供/古川原サキさん・第5代会長古川原実氏夫人)
■昭和30年代の寺泊会はほとんどが、畳のお座敷で執り行われた。ご婦人たちは歌舞伎座へでも行くような道行コートに絵羽模様の羽織姿でご来場、お座敷には、流行りの歌手を迎えるなど、カラオケ装置なくとも立派に宴会時間を楽しんでいた。
当時○○会の集いといえば、戦友会が各地で催され、そこで唄う軍歌歌手さんは日夜奮闘の大忙しであった。寺泊会も人気歌手・壽川有里さん(キングレコード)をゲストに迎え、司会さんは大きな日の丸旗をかざしながら、宴を盛り上げたのであった。手拍子に日本酒・お膳料理が似合う光景も寺泊会の歴史遺産か。
(キングレコードのHPより)
・
寺泊会の座敷で軍歌を披露した
壽川有里(現:須川)さん
2代会長時代
ー
昭和35年度
・
一期限定約束を貫く
▲古川原与一氏 (協和建業初代社長)
(写真提供:古川原美佐子さん)・
初代亡きあと2代目会長のなり手が見つからずで、任期を1年限りならばと受諾したご仁が、野積出身の古川原与一さんであった。古川原与市氏が就任したのは昭和35年での事である。
北区の東十条駅近くに建設会社を経営しながら息子の実氏に
、寺泊会の雑事も教えていたので、5代目会長を引き受けた小川原実氏もスムーズに会を取り仕切ることになったが、与一氏は約束通り1年で会長を退任された。
✳️昭和時代: 歌謡曲、大相撲
ラジオでは昭和歌謡史に名を残す歌手が次々と現れ、流行歌がこれでもかと連日のように流されていた.
春日八郎・美空ひばり、それに何故か新潟県では絶対的な人気のあった、白根一男・聴くと同時に自分達も口ずさむ流行歌大流行りであった。
★昭和30年半ば寺泊町から2人の若き力士誕生
大相撲三段目イメージフォト
:
★立浪部屋に入門した石井一章氏は、初土俵が1958年(昭33)年7月。
入門時は本名の石井でデビューした.
出身地の野積には石井の苗字が多く、ポピュラーな名前で知らない人はいない。
ただでさえ相撲は人気が有り、寺泊町から初のお相撲さん誕生で
どこへ行ってもこの話題ばかりであった。
入門翌年5月場所から四股名を弥彦山に変えて、
4年間26場所務め、最高位は東三段目四十六枚目だった。
昭和37年9月に引退した。
★一方の青木山(青木重勝氏)も翌年同じ立浪部屋に入門、同郷の石井とは2歳年上だった。柔道部で鍛えた足腰は並外れ、相撲界に入ったと聞いて納得した者も多かった。
初土俵は1959年(昭34)年1月場所であった。
引退する迄5年間29場所務め、最高位は西三段目で25枚目だった。
★立浪部屋は双葉山、羽黒山が戦前戦後の名横綱として日本中を沸かした名門相撲部屋である。
青木山が初土俵踏んだ昭和34年は、若の花(花籠部屋)と栃錦(春日野部屋)の両横綱が、毎場所交互に優勝しあっていたが、青木の入門を祝ってか、立浪部屋の若羽黒が11月場所で優勝し、久しぶりとなる部屋に縁起良く優勝旗を持って来た。
★若き力士ご両者共、2代目会長の古川原氏と同郷、屈強な体格と力持ちが多い事で定説の、寺泊町・野積出身である
相撲界に寺泊出身者がいるとあって、町内では蔵前国技館から放送される大相撲にも熱がはいる。
寺泊町では、高綱三作(野積)が12代町長(在任期間・昭和25/1〜41/7)をしていた。
◆やがて1年が経過し、寺泊会では約束の新会長さんを迎える時期となったが、会長選びは相変わらず難航していたようで
これは寺泊会の伝統か。令和になっても変わりないようだ。
◆・・・・◆
/
会を盛り上げた元県知事さん
寺泊会と亘四郎(明治32年-昭和52年)さんとの想い出シーンは、古参会員達の古いアルバム帖の中で、白黒写真が変色しながらも多数存在しているようだ。同氏が南蒲原郡三条町(当時)にあった名代の呉服商を離れて、寺泊の裕福な廻船問屋、亘家の養子となられたので、正に寺泊人である。愛称はワタリさんだった。
・
・・
3代会長時代
ーー
昭和35年〜48年
・
昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。
以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート、熱海温泉などで、
多彩な企画を設け12年間会長を務めたのである。
。
4代会長時代
ーー
昭和48年〜57年
・
昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。
石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時も、昭和の宴会芸人を迎え
楽しみ名人たちの集いを盛り上げていた
石垣氏は江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど、宮前名物「とんかつ」専門店を
営んでおられた繁盛店の主人(あるじ)であった。
自ら資金提供しても、余興付き宴席を実戦した記録が多数残されている。
・
この頃から、畳のお座敷スタイルからホテル方式へと
変遷してゆくのであった。
畳に座り「まあ一杯どうぞ」一献(いっこん)姿が懐かしい
いつの世も、宴席でこれをしつこくやって嫌われるサラリーマンがいるが
案の定その後は出世しなかったとの事だ
★やがて昭和57年、石垣氏は会長職10年近くになる頃から、退任を考えていたが
5代会長へとバトンを繋ぐ前から考えていた人物がいた。
その人物こそ2代目会長の息子、古川原実氏だった。同氏の若い頃となる 親父が会長時代から「寺泊会」の文字に馴染みで
事業継承した建設会社の経営で多忙だったと察するが、石垣氏率いる寺泊会の運営にも積極参加しながら、
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く、寺泊会の将来像を語る姿を、多勢いる宴席で時折呈していた。
・
5代会長時代
ーー
昭和57年〜平成9年
・
古川原実氏は5代目の会長として永きに亘りその手腕を発揮、東十条駅近くにある親父から継承した建設会社を事務局に構え
役員たちをここに集め会合を開いていた。
これから2代後に寺泊会を継承した7代会長は、まだ40代後半で、当然の事ながら最年少だったが
案内書封筒あて名書きになると、手書き入力が続いていた頃である。
文書類は全て手書き文字の書類で、会員の住所一覧も初回から継承してきた遺産を
使用しており、ここで初めてワーブロなるものを提案し、住所ラベルと一緒に持参したところ皆が驚く始末であった。ここに電子媒体が誕生の感があった。
豪気で面倒見の良い性格の古川原会長のもとには、歳暮時期になると会社応接間には数え切れないほどの進物があった。
仕事がら気の荒い職人さんたちを束ねたりする事に長けており、いつも正義感を貫いておられた。
…
■会長職退任後も平成16年度の第49回大会までご夫人を伴い,毎年欠かさず熱心に寺泊会に参加され、名誉会長さんとして大会をゆったりと楽しんでおられた。会長夫人、小川原サキさんからは、多数の写真を提供して頂き、本稿制作の貢献多大である
◆・・・◆
…
…
6代会長時代
ーー
平成10年〜16年
・
更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。
三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている(英寿製作所)@Hp
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。
✳️第6代会長が務めた平成時代中頃までの、宴席はテーブルに灰皿が必ず用意され、食事中でも喫煙が当たり前の光景であった。飲んで食べて一服しながら煙を吹かす姿に誰も不思議なことと思わなくなっていた。
◆寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代会長の三上喜久治氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づけて行くことになった。
寺泊町は後に長岡市になり、町長制度がなくなり市の支局となると、責任権限が吸収され、唯の支店長と変わらなくなって
何をするにも決断が出せない。三上会長はこれを見据えたかのように、いち早く企画モノに実績をつけた先鞭者で、その功績は大きい。
7代会長時代
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平成16年〜23年
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創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ
■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。
■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの国際認証登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きで、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当していた。
上越地方出身者のように、舞台で演じるような民俗芸能好きが、当時、寺泊出身者に少なく、一度も寺泊人を大会で紹介することは無かった。
寺泊会の宴席に、若い銀座ジャズクラブのアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。
■情報提供を募り、東京寺泊会だよりの制作に携わり、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局長を経て日本へ戻ったころ、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の貴重なな時間だったが、有り難くも応じて頂いた。
渋谷のNHK放送センター2階にある社食に案内され、一緒に冷しラーメンを食べながら、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。
寺泊会だよりは、寺泊に関した、歴史文化芸能や行事の宣伝のつもりで発行していたが
実際は寺泊近郊を出身地としない読者曹も相当増えて、水上 勉などの著名作家や、若手画家などもことあるたびに取りいれた
(写真提供・NC9番組編集部)
■東京寺泊会だよりはネット配信のみで、印刷費なし、郵送費なし、要るのは記事制作の手間と好奇心だけで間に合う。エビデンス少なく、誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理に余念ない
■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけプロのライターと契約し課金制にしたらと画期的な提案をしてくれたのは、のちの第九代会長さん・外山健太氏であった。
実現しなかったが、商才優れた同氏の意見は聞くべきだった
IT業界とは、これに似たようなアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、度々役員会の話題になっている。
■7代会長は就任時からの持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかったようである。
郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である
逆にこの人が会長なら、俺たちは参加したくないとするグループも必ず出て来るのが組織である
✳️任期制限として身近な話では、寺泊会の名誉顧問である、小林正則氏(前、小平市長)も市長任期3期説を唱えて、当時の現役市長を破り市長に初当選した経験を持つ。但し市民の信頼厚く4期を貫き、2021年3月迄継続し、5期目となる選挙には出馬せず、後進にその椅子を譲った。実は役員会では、ご本人が市長退任後には、寺泊会次期会長推薦候補の筆頭にランク。通知済みで、ご本人承諾待状態だ
✳️任期と言えばごく最近では、岸田文雄氏(現、総理大臣)も役員任期1期、連続3年説を唱え総理になられている。
だが政治の世界では、パーティ有り裏金有りで特殊事情で瓦解も早いが
:
従って寺泊会のような小組織では、任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したり、何らかの手を打ったが適任者は見つからず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に、会長をお願いしようと話がまとまりかけていた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて、中止せざるを得なかった。
:
待望の新会長が誕生したのはその2年後となった
8代会長時代
ーー
平成24年〜27年
・
・■平成24年4月の寺泊会総会で、第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。
新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。
小林会長は話好きとしても有名であった
宴席でも話出すと止まらない。郷里の話、幼児教育の話、家庭菜園が好きという会員には、野菜作りの話から、市長を選挙事務所に提供する程仲の良い同姓・小林正則氏を語ったり、市議会議員として小平市制の話などあらゆる話題を提供してくれた
★新会長の小林秀雄氏はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。
小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・
小林会長は菜の花の咲く頃、寺泊会役員たちを自宅に招待し、食事のあと約3千坪も有る裏の敷地を案内してくれた。
公式サッカ―グランドでも千八百坪も有ればできてしまう。
この敷地に観客席を追加すれば、プロサッカーチームの根拠地になり、アルビレックス新潟ならぬ、テラドマックス新潟が誕生したかもと、外野席からの夢の話が止まらない。
・
◆事実小林会長さんは、写真の後方に建つ民家近くまで土地を所有しておられ(ドローンでも使わないと、その前景は写しきれない)専業ではないが、季節の野菜などを作ったり、近郊の小学校児童達には、芋ほり体験場として提供してもおられた。
一方では広大な敷地において、小平稲門会のイベント会場として、大餅つき大会を開催し、母校の先輩・後輩たちをよろこばせてもいたのである。
◆さて会の運営には独特の意見をお持ちで、毎年恒例となって長年続いた、寺泊会全員の集合写真撮影をこの時から廃止して、第8代時代が出発した。
■会長を補佐する副会長職には、二名体制とし、外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。
◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催し 通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。 交通費、会食費などは役員負担で実施され、全てボランティア活動である。
・
9代会長時代
ーー
平成27年〜29年
・・
平成27年4月新会長誕生
■寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生させざるを得ない。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中、外山健太に説得工作を役員たちは続けていたが、ある日、その結果が結びそうだとの朗報が飛び込んできた。果たして、OKされたか。
◆平成27年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになった。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりをかなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間も犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。
■行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。(写真提供:ご本人)
◆就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山健太氏は大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
◆在職中には社長顕彰の常連であり、役員理事会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。
■ところが第8代会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。
■寺泊会会長としては第9代目となる寺泊町豪商DNAを持つ外山健太氏待望の登場で会は賑やぐ
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◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は2名だ。他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会の雰囲気は上々であった。
外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
撮影:小川隆司さん(寺泊在住)
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★毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさに、観光協会の表彰ものである。
◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えて、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。
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◆八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまないが他の会の会長さんもウチの会こそ一番だと、心で思っておられるに違いない。
実際隣の会は良く見えるものである。
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🔷これを補助金に目を通してみると、弥彦会、分水会さん共に地元の補助が素晴らしく、寺泊会とは比べものにならない程潤沢にお有りである
長岡市との合併が、この部分だけ裏目に出た感のする我が寺泊会である。何と言っても現況補助金の3倍もあった、三島郡寺泊町役場時代が羨ましい。補助金を減額されたら取り返す。果たして倍返しはいつになるやら。
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◆ ◆ ◆
平成29年4月 9代現役会長 外山健太逝去
在任僅か2年は短か過ぎる
◆在任期間が短かった第9代会長・外山健太氏(後方写真中央)役員会最後の集合写真となった
振前が良く北前船の港、寺泊町で歴史ある商家、トカンさん派のオーラにはもう会えない。
◆ ◆ ◆
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10代会長時代
平成30年〜令和5年
〜
マスク時代到来
・
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◆8代、9代会長急逝のあと、次期会長さん登場まで、しばらくは過去に数年間実績のあった橋本迄戻って再登場させ、中継ぎ会長として務めさせる事にした。
65周年からコロナ禍で大会中止しており、3密解除マスク不要の終息時期まで時間がかかりそうで、もう少しの辛抱か。
……
◆恒例の寺泊会大会はこの先いつ開催出来る事やら。65周年大会中止・66周年大会中止。世の中は3回目となった緊急事態宣言下で、役員一同気をもんでいるのである。交流のある分水会・弥彦会も2年連続の中止宣言。
✳️2022年度大会には、名物「寺泊おけさ体操」を企画し動画配信の準備も終了していたが、マスクと3蜜解禁の声明が出され、3蜜回避の解放までは、宴席にふさわしくない状態と判断し、3年連続開催中止となった。
高齢者が多い寺泊会員だけに、3回接種を完了後からの判断でも遅くはない。
寺泊会は感染者の多寡より、12月に入って湧いて出たオミクロン株の懸念もあり、マネジメントの観点からリスク最優先を基準としており、その評価と判断には職業上の専門性があり慎重である。
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世界情勢急変
★2023年5月で漸く5類変更とか規制も緩んで来たが、寺泊会開催は4月になって中止案内しか発送できなかった。
しかしながら翌年の2024年4月開催に向けて役員たちは奔走。残念ながら今度は長年使用してたホテルの見積り見てビックリ。
コロナ前より5割増となり、止む無く上野東天紅に決定して、開催を決定したのであった。
詳細は➡http://teradomarikai.jugem.jp/?eid=192 をクリックにてご参照下さい。
寺泊会・会長の変遷と世相物語 おわり
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開催日程
期日:2024年4月19日(金曜日)
会場 :上野東天紅
受付:12時30分〜:開宴13時
参加費 :10000円
コロナ禍直前の大会は、創立64年記念大会と賑々しく関係者さんに流布し、イベントとして、魚のアメ横産みの親、角上魚類(株)の柳下会長をお迎えし念入りの下準備を重ね、開催する筈だった。
だが大会案内送付直後に日本中が予期せぬ事件に呑み込まれた事は忘れられない。
横浜桟橋に豪華客船が華麗に入港、富裕層の一時寄港だけかと思いきや、直径1ミクロンより遥かに小さな極小球体源が発生し日本をコロナ禍へと巻き込む一大事惨事へと、昭和にも平成にも無かった未体験現象が発生し善良な市民に世話を焼かす。
あっという間に日本全国をウイルスが飛び交う始末で、祭、花火から結婚式・スポーツイベントまであらゆる行事を中止させてしまった。入院患者への接触も禁止され病院への見舞も玄関止まり。
葬儀・告別式も制限受けながらの執り行いでまともな段取りができない。おかげでリモートなる遠隔システムを格段と進化させたメリットがあったが、授業も会議も、そして、当事者しか知らないであろうが、法廷まで対面無用で行なわれ、生き残りの知恵が無限に発達したのである。
自粛要請の期間もあった2019年からの4年間で、ある世界のパーティだけは信じられない程例外なく毎年存在する
自粛とは「自らの意思で活動や行動を慎むこと」であるから、感染の拡大をモラル心として積極的に防ぎましょう、と提唱し世の中を平穏にする行為である。この間に模様される予定だった結婚式、入学式、卒業式後に関係者が集う、あらゆるパーティー類の開催は主催者の良心に委ねた。ただ法的禁止令で無いから実施しても適法で有りお咎めは無い。
政治家はこの理論を採用して、関連するあらゆる利害関係者に声をかけパーティ(名目は懇親会)を毎年堂々と
開催していた事が、約5年後の2023年暮れになって初めて解明されたから驚きである。
実際パーティ開催派のホテルの記録によると、コロナ禍年内でも、一回も欠かした事無く開催していたらしい。
感染者が激増していた最中となったコロナ禍の期間に発信された立法府コミットメントの外出自粛が虚しく聞こえてしまう。
ある派閥主催の懇親パーティ会開催記録
2019年 5月パーティ開催 中国大陸で第1例目の感染者発生
2020年 9月パーティ開催 (コロナ波第1-3波、寺泊会は懇親会中止)
2021年12月パーティ開催 (感染者140万人超、寺泊会は懇親会中止)
2022年 5月パーティ開催 (感染者減少見れず、寺泊会は懇親会中止)
2023年主催当面自粛へ (この年も寺泊会懇親会中止)
容疑者として、著名人まで多数発生捜査中の年末となる
2023年12月にキックバック・戻し、なる新ワードで連日騒がれてから、刑事告発の中味と別世界の事情を知って、さすが容疑者と異なる呼称を知り、長年にわたり寺泊会の中止にご協力頂いた多くの組織、会員さんは、何をお考えであろうか。
だがコロナ禍中も毎年開催されたパーティ・懇親会があった事は事実である。
「コロナ禍で多くの国民が自粛期間中にも、盛大に執り行われていた」との視点で報ずるメディアは国内で一社も無いのは、彼らも参加していたのではと、憶測してしまう。裏金問題と政界人事に押されて、報ずる余裕が無いのかも知れないが。
開催案内はいつもより早く送って役員たちが安心していたところ、他県をまたぐ旅行自粛の令が出る始末。
「先週お送り致しました、寺泊会の開催案内は中止・・・・・ご容赦ください」と、
情け無い案内通知に様変わり。ホテルには1年前から会場予約済みでキャンセル交渉に早変わり。
感染者数はうなぎ登りに増加、慌てたのは寺泊会役員たち。感染拡大を懸念して、先日送った案内書を急ぎ中止案内に書き直して送付せざるを得なかったのであった。
この直後からマスクの需要沸騰、世の中一時奪い合い状況を呈し、要約手に入れたマスクをつけたら、耳紐が切れたり、眼帯並みに小さくて不人気だったリ、市場価値がない粗悪品がまかり通っていた。
時が経てばコロナ禍も消滅するだろうとの期待を裏切り、ワクチン接種は寺泊会キャンセル中にも止まらない。
第一波から第六波へと進み、正確には接種5回目あたりから関心が薄れ出したが、高齢者だけは接種継続。
最終的な状況についてはいつの間にか、第9波まで来たらしいが話題もフェードアウトでやっと寺泊会の開催にこぎつけたのだ。。
前回の中止から5年目の開催で、即ち参加者の年齢も5歳加齢したわけで、会員の大多数であった60代会員は70代になり、70代後期高齢者さんは80を超えられた。飲み放題コースを選んだが、無駄かも知れない。
平日開催理由は値上がりのご時世、例年使っていた有名ホテルさんの宴会費が50%値上ったらからであるが、果たして何名様がご参加頂けるかは予想つかずの、未知数段階状態での開催で、あらゆるリスクを覚悟しながらも開催までこぎつけた。
来年4月・花見シーズンに会員さんをお迎えする第69回寺泊会である。
会員専用情報
郷里旧寺泊町の旧道沿いでは、古くから続けていた、商店や老舗店舗の継承者がいなく、古い家屋を取り壊し更地にする現象が見られます。永年使っていた商売道具や厨房器具などが廃棄される姿を見て、寂しさを感じておられるご親族もおられる事でしょう。
是非当会にてご紹介ください。
寺泊町で商売されていた業種様々で、風呂屋さんなら番台、銭湯絵の写真、八百屋さんなら算盤、天秤、畳屋さんなら特殊工具からハサミまで数えたらキリが無い。
上田町にある和菓子の老舗さんも後継者いなく
更地にする計画が進んでいるとの事でした。
この写真は「へぎ」と呼ばれていた古くから使っていた移動用容器である。
UberEatsの無料版かも知れない
木製キャリアの中には、ここの亭主が作った、砂糖配給時代から手を抜くことなく続けた手法で謹製した名物羊羹や、粉菓子、用途に合わせた饅頭まで、ここの店でしか作ることの出来ない逸品がぎっしり詰め込まれていた。発泡スチロールと異なり重量があるが、銘菓は生もの、木質が最適な湿度を吸収し、先方に届けられる頃迄旨さが持続するのであった。
時には町内の子供達に人気のあった、作り立てのどら焼きなどをぎっしり詰め込んで自転車に乗って、1区から6区まで舗装されていない道路をガタガタ走り、商品を届けていたそうです。
へぎ箱の厚さが一様でないのは、売れ筋の商品と共に大きさや厚み等が時代と共に変化し、これらの最適寸法に合わせたのであろう。
亭主自筆の店舗ロゴ へぎに乗せてカミシモ走る てか。
ふるさとではカニラーメンが大人気である
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作家水上勉1919年越前国生まれ(大正8年)。 現在ご存命なら104歳だ。
さて水上の越前から加賀、越中を越え、こちらも1919年、越後国生まれで104歳、元気な長岡市寺泊町出身の現役女性会員さんが、東京・大田区に住んでおられる。
ちなみに同郷長岡では、この4年後に三波春夫さんが生まれ、ご存命なら今月で100歳になる。
寺泊会は約70年前に創立したが、この初回宴席に「自分が30代半ばの頃(70年前に30代。単純に計算すると30プラス70である)娘(現70)と二人で出席したのよ」とは、驚きながら同年代が水上勉氏となる。
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11月5日(日)の宴:武石新時代の幕開け!
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令和5年度東京弥彦村人会は予定どうり開催でき
久し振りにお会いした参加者様と尽きぬ語りで時間を忘れ
お蔭様で予定行事をすべてをこなし、成功裡に閉会致しました
多数様よりご参席頂き、誠に有難うございました
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4年ぶりの大会でしたが上野東天紅様にて終宴まで 聚楽の加藤社長様、
小林村長、弥彦神社・宮司さんや遠路地元弥彦村からも多数ご参加賜り
友誼郷人会を含み総勢60名近い皆さんの笑顔で溢れておりました
来年の第43回大会も、皆様の元気な笑顔で再びお会い出来ますよう
役員一同、心より楽しみにしております
大会運営にご協力下さいました幹事の皆様に感謝申し上げます
東京弥彦村人会
会長 武石 堅次
弥彦情報の最新版はホームページで
(クリック)➡弥彦村観光協会のホームページ
↑今や村でもDX戦略発信中、武石新会長時代では、
文字で読むより、デジタルでお楽しみ下さい
お年寄さんほど判りやすくてクセになるかも。↓
弥彦村にある豊富な温泉宿
✳️ふるさと-弥彦村温泉情報詳しくは↓
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↑クリックでお楽しみください
★最近は、弥彦会ファンの多くはご高齢者ながらも、スマホでの閲覧者さんが多くなり顧客満足を考え、見出しを小さく、改行を増やすなど、スマホでも見易くなるよう、レイアウト編集しております。パソコンご利用のお方は不自然さをご容赦下さい。
新会長(右端)武石さんは12年前とお変わりない好男子てか
…
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★弥彦は寺泊のおとなり村・弥彦神社の菊まつりでも有名
感染防止のため、場内は一方通行の時もありました
★撮影:小川隆司さま(寺泊在住)
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★弥彦村情報抜粋
(第38回弥彦会パンフレットより)
★ふるさと弥彦の近況は、NHK百低山に登るで吉田類さんが弥彦山を紹介してくれました
一方のTBSでは年収1億を上げる農家の紹介で、枝豆生産が好調との紹介もされ有難い話です
村では競輪事業も堅調で、目下全村あげてコロナ対策に取り組みながらも村財政を潤しているそうです
★10月の競輪G-1 寛仁親王杯、
11月は菊まつり、紅葉谷の紅葉など、話題満載の弥彦村には若年層の来村も多く
ワクチン接種後のお客様が多数お見えになられるようで、
観光の弥彦も一段と活況を呈することと思います
村人会は、ふるさとの益々の発展を応援しております
★こんな楽しい宴席シーンを、 連続での中止をはねのけ、
そして2023年秋遂にやって来ました
・・(弥彦会幹部)
★弥彦神社・宮司さん(公務を離れれば
気さくな紳士)と一献傾けられるのも
合計3年間のお預けで待ち遠しい昨今となりにけり
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あれから4年
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弥彦村人会レビュー
村長さん宮司さん校長さんも大懇親
◆令和元年の弥彦村人会は奉祝パレードと同日に開催されました
期日:2019年11月10日(日)
開会:総会11:00
懇親会:12:00〜15:00
スペシャルセミナー
口腔外科の権威による高尚な講演会に圧倒される
;
弥彦村フッソ革命で児童のむし歯ゼロを達成した男による全国提案
小林清吾先生:画像を使った学会レベルの熱烈講義に参加者全員納得
:
多数のご来場賜り
衷心より感謝し
御礼申し上げます
◆ドラマの中での大手企業 帝国重工(社長役・杉良太郎、部長役・吉川晃司、次期社長役・神田正輝)らが絡み合う、BSN=TBS系日曜劇場「下町ロケット」でのロケ・制作部隊をはじめ 佃製作所(社長役・阿部寛他エンジニアや経理部長・殿村役として時折蒲原・燕にある実家の田んぼに姿を見せに来る立川談春、その妻役・工藤夕貴、さらに親父役の山本學らの豪華俳優陣達をはじめ、完成度の高いテレビ撮影にしようと弥彦村もロケに協力している
フイルムコミッション・新潟県弥彦村出身者が開催する東京村人会の基礎となる、テレビの画面構成を見て感想を持つ弥彦村出身者の話題を追った。
、
◆テレビ画面には、燕市の文字のあとに移動画面がしばしば登場する。そして蒲原地方らしき田園地帯と広大な田んぼ風景、
◆その遠景に見える小高い山脈、これは弥彦山か角田山か、はたまた東京近郊の山脈かがいつも地元を知る越後人の間で話題になる。蒲原にしては山脈が連ねすぎると思われ、大写しにされた時のコメつぶの形状は弥彦米に似ているしと,とにかく見ているだけで脳が活性化し、興奮の連続であると評判である。
但しこれは蒲原人の間でしか話題にならないが。
▲ちなみに寺泊人がイメージしている弥彦山とはこんなものである
山の先端に突き出ている海の吹き出し口のあたりに弥彦の神様がおられたそうな。
現存者で見た者はひとりもいないが、いにしえの時代からその伝えがあり事実らしい。
・
◆特別協力が燕市で撮影協力が弥彦村と、嬉しいことに毎回エンディングロ−ルに流されるものだから、ロケットバルブの出来不出来はともかく、ドラマ上の農家ならずとも、越後蒲原人にとっては有難く貴重なテレビ番組となっている。
(本稿には、著作権を十分配慮して制作、TV上で演じる俳優さんのお名前は、一般公開されているテレビ番組表を基に使用させて戴いております)
・
・
弥彦村人会
初心者入門講座
.
・
◆本大会は得意分野ごとの複数の弥彦人による豪快で洒脱な進行で司会が冴え宴会が盛り上がり酒が旨くなる。
・
◆宴席面描
・
・
◆
・
それは、2019年秋の事コロナ禍直前
新元号を祝って堂々開催もありました
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■寺泊会と弥彦会のお付き合いは、いつから始まったか。
それは弥彦会が郷里の中学校同窓会中心から脱皮して以来の話のようだ。春の寺泊会、秋の弥彦会は互いに会長、役員あたりが来賓として招かれたり、招いたりして何年間も継続している。寺泊会も同席して以来その間に弥彦宮司さんは3代も変わっている。
令和最初の弥彦村人会は11月10日(日)にお茶の水にあるホテル聚楽で開催された。
15年度に4選を阻止して当選された小林豊彦村長さん、今年1月には2期目に挑戦し
約5千人投票者の内、3千人近い支持で見事当選された。
弥彦村人会に積極参加され、健在で、その巧みな力強い話術にはまってしまう。
あの威張らない性格はどこから来ているのだろうか
弥彦村と寺泊町
そして
分水町との合併話
:
合併投票は噂通りには行かず
弥彦分水寺泊構想が国民の
大多数だったがさて結果は
・
◆ 平成の大合併で踊らされた日本全国の自治体は 無数にある。 越後国のほぼ中央に位置する、弥彦・分水・寺泊も例外でない。
寺泊町では、回覧板で新地名公募までやりながらも、効力なく親しい近隣町村の3者合併は 実らなかった。
▲このデータを保存しているのは、寺泊会だけとなった。
■一方の燕市では、吉田町と分水町との合併に画策が始まっていたから、庶民はどれが本物やらと複雑な感が消えないありさまであった。
・
◆やがて寺泊町民は長岡市民に、分水町民は燕市民へと巣立って行った。 寺泊の町会議員は長岡市議会選挙に、元町会議員などが5名挑戦し、先ずは2名だけが市議会議員となり、分水の町長さんは燕市の市長さんへと変身。分水町長さんのリンクは燕市長選挙挑戦物語。
■だが弥彦村長さん周辺あたりは、合併を嫌って他の血と交わることなく、合併特例分担金も受け取らず発展し続けておられる。越後一の宮・弥彦の神様のお告げか、すべてが吉と出てしまう素晴らしい土地柄である。
しかしながら平成の最後あたりに時代が移る頃になると
燕も弥彦も協業で村おこし街おこしに躍起となって、合併せずとも首長の笑顔は消えることなく続いている。観光写真に分水の花魁を使いながら、いざキャッチコピーに全国区の燕を使っても、誰も不思議がらない越後人の太っ腹さがみえてくる。テレビドラマに▼なっても不自然さは残らないのは、はざ木を脇にとうとうと実る稲穂を育てる蒲原平野の歴史物語のせいかも知れない。
毎週日曜に放映されているテレビの人気番組-BSN:TBS系で放映-
-動画解説-{下町ロケッット}では、米どころ越後の農家を仮定し弥彦村は撮影協力に余念がない。TV撮影協力の字幕にその痕跡を残す。
爾来、発展する弥彦の村長は変われど、祝杯の一献を傾ける機会は毎年秋にやって来ることとなった。
地方の合併はならなかったが、東京寺泊会と東京弥彦村人会・東京分水会の3団体は互いに交流の機会を継続している。弥彦会さんは現在、堀会長へとバトンタッチされ、副会長には羨ましくも、女性陣も加入し他会からの運営見本にされている。
東京弥彦村人会は郷里の、弥彦中学校同窓会を基に、昭和57年11月に創設された歴史ある、弥彦応援隊を自負するふるさと会である。地元行政の援助はもとよりJA越後中央、弥彦商工会・観光協会さんなどが協賛し大会を盛り上げている。
現会長の堀 優氏(東村山市在住)は、中国通で、永年隣国相手の仕事に携わっていた経験を生かし、幅広い人脈で、芸能文化と、会に招致して、イベントに活用させ出席者をあきさせない。
音声動画付き
弥彦小唄誕生@youtube
■38年も続いている、ふるさと村人会ともなると、総会前のイベントも充実しており、36回大会のフラダンス公演に続き翌年は民謡「及川清三、清乃さんの民謡ショー」が企画され、CD2枚を全員に提供、テンポがゆったりし、しっとりした三弦が魅力的な弥彦小唄で会場を盛り上げ、合唱指導があり全員で唄った。
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そして迎えた令和元年、第38回大会では、全国の児童歯科教育に情熱をかける医学博士、小林清吾先生による記念講演であった
先生が特別に用意した「歯ブラシ2本」と歯間ブラシをを全員に配布し熱弁をふるった。偶然にも同性の村長・小林豊彦氏とは
長い付き合いのある盟友として互いの友情を育んでおられる
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◆越後の実業家が東京で育てたジュラク物語
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聚楽創業者
加藤清次郎と弥彦村のご縁
■例年ここの会は、ホテルロビーの階段を利用した集合写真で会が始まるが、平成最後の37回大会からスキップされた。
ホテルとは言うまでもなく、弥彦村と縁の深い「ジュラク」のことである。
お茶ノ水駅に近いこのホテル周辺は、高層ビル建設ラッシュも一段落で比較的静かになった。ジュラクといえば観光地に素晴らしいホテルを構えているが、ホテル業の歴史はそう長くはない。 現在はこのドメインを抜きではビジネスモデルが成立しないまでに発展した。 近年には、新潟駅そばの激戦区でホテルをオープンし好評を得ている越後ゆかりの著名企業である。経営手腕を継承しているのは3代目となる加藤治社長である。
現社長の祖父・加藤清二郎が大正13年3月に、神田須田町で洋食屋開業して以来95年が過ぎた。先代が提唱した、越後に役立つインフラをテーマに設置した弥彦山頂とふもとを結ぶロープウェイも平成最後には現社長同様、生誕60年目を迎えている。
(聚楽の歩み・昭和49年刊行より・・加藤治社長提供)
越後から列車で上野に到着すると、真っ先に駅前に見えた「聚楽」レストランの看板とネオンが懐かしい。そのお孫さんが、ご自分のホテルとは言え、いつも、会の参加者に如才なく振舞っておられる。
38回大会には公務と重なり欠席されたが、都心にあるホテルは顧客に恵まれている一方で乱立著しく、競争力が激しい世界で、ビジネス活動真っ只中の加藤 治 聚楽社長。▲
・
弥彦村人会は、首長変われど必ず懇親会に、村長さんがご出席。市長さんに12年以上毎年招待状を出しても代理で代用される寺泊会とは大違い。笑顔いっぱいで参会者たちに声をかけるコニュニケーション手法は、本間道夫・安達行雄・大谷良孝 各々の前村長さんのころから小林豊彦現村長さんまで代々続いている。
◆実際村人会の宴席あたりに交わると、利害関係が少なく本来のリラックス感が最高になるのであろう。
。
◆村の温泉施設は繁盛するは、この村の居住評判を聞きつけ、健康な子供を育てようと村への転入者が増えているから人口は増えるはで、悪い噂は聞いたことが無い。
首長激務の中でも、村政は安定しておられるようであった。加えるに児童のむし歯発生率が、日本全国で最も低いとの実績が評判である。このふるさと自慢は、弥彦会に参加すると偉い人から毎年聞かされる。
・
小林豊彦
村長時代爆進中
・
令和の村長選抄
・
・
・
・
弥彦村は永年、村長選挙無用のまちとして続いていたが2015年には現職に久しぶりに挑んだ新人が、約10歳年上で当選。2期目の選挙は2019年1月27日(日)が投票日だ。弥彦村は無投票選挙が40年以上あった訳だから、村民たちも複雑な気持ちだったであろう。
◆新村長・小林豊彦氏の2期継続激戦記は、新元号時代の特記事項となろう。村での選挙登録者・6924人のハートの多数が小林豊彦氏になびいたのであった。
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じゃんけん好きな弥彦会
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■かつて総合司会を務めた実力者・武石堅次氏(現・幹事長)は、平成最後の会では、美人館長をお連れしてきた。
)昭和歌謡曲時代を代表する作曲家・遠藤実記念館として、新潟西蒲区の越前浜で実唱館を代表経営している遠藤由美子(娘さん)をくどいてお連れしたそうである。
◆勇気を出して寺泊会もおさそいしたら、
今春5月26日の寺泊会に笑顔でご出席され、寺泊会役員会の自慢話が増えた。
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:2018年大会ゲストの遠藤由美子さん
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あれから1年経過後にはびっくり:
オペラ歌手秦千襲さんをご紹介▼
・万事にして武石堅次氏の運営手腕はこれぞ弥彦村人であると感心。
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令和初年度くじ引き特別賞品には、▼天皇ご即位記念として弥彦風盆栽が用意され樋浦憲次副会長が当選された
」弥彦会はユニークな賞品が豊富で盛り上がりが方が半端ない
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◆第37回大会では一見紳士風の宮川氏の洒脱な話術で進行され、更にカラオケ宴会となると豪快な高橋幹事も加わり、その盛り上げ方は半端ない。
両氏の宴会を把握する手法は、蒲原人には希少価値かと思わせる。
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令和大会になったら宮川氏はえちご蒲原会の代表としてご出席。
▲大会には毎年会長賞と村長賞もあり、大会のイベントとして楽しみな抽選会の華となる。
抽選会の名物賞品として存在感ある「超なが〜い、長イモ」が今年も賞品として振舞わられたる筈である。昨年見事当てたのは寺泊会副会長・清水文隆氏であった。電車の中では目立つだろうなと多少心配げでもあったが。
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◆ 弥彦会と分水会の巨頭勢ぞろい感のあるふるさと想い隊連中
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▼こちらの、だんなさんの御名字は軸屋(ジクヤ)さんである。手にしておられるのは賞品の商品でない。鹿児島産の芋焼酎である。
「鹿児島の酒造の娘と結婚しましてねと、まあ一杯どうぞ」と差し出され試飲。さすがに特上甕(かめ)仕込みである。きめ細かな味で、きりっと飲み応え満点。都内ではなかなか手に入らないそうであるが、ネット注文沸騰中とか。焼酎と言えば、いつもはお湯割りでその上、うめぼし入れて飲んでいたのに、これは何にも入れないでぐいぐいいける。思わずうんめーと叫び、コップで2杯頂いた。それもストレートで。
▼その名も「軸屋酒造のトップブランド品・軸屋」であった。奥さんの実家が会のためならと、提供して下さったそうな。薩摩の本格芋焼酎発見の会となった。
■弥彦神社宮司さんは昨年退任され、渡部吉信氏が1年間の代務ていたが、晴れて神社庁に認定され、宮司さんへとなられた。お見かけより実年齢がかなりお若い。言葉の中に世を見つめている風刺がこめられていて、爆笑しながら、ついつい話し込んでしまう。
ところで堀会長になってから、ここの会は珍しく3人の女性役員体制を組んだ時代もあったが多少の改正もした。
◆女性副会長
朱色のオートクチュール
令和初大会で披露
■歌唱指導や抽選会の賞品授与もされる一柳建子副会長(弥彦)は、
闊達で、「この方は、お料理の達人よ」、と周りのご婦人から教えてもらった。
宴席で何回かお会いしているが、この方の物語は寺泊会だよりの好材料である
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見上げたら朱色ばかりと良寛笑顔
/朱色で一句
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弥彦村 鳥居ともみじが 艶競争
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朱色なら わたし負けない 一?さん
◆一?建子(ひとつやなぎ けんこ)さん
ニックネーム:イチリューさん(NCAFメンバー)
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◆寺泊会お馴染みのマリ姐さんのお酌を受ける金子清郎・元権宮司、おとなりは渡部吉信・宮司さん
・◆マリ姐さん平成最後の寺泊会で講演
・演題=健康長寿で老いない体つくり
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男性陣必見の巻
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前立腺肥大予防の極意
■もう一人の才女、黒田マリさん(83)は、2018年の寺泊会で講演をしてくれた。長年に及ぶ整体プロの経験を生かし、「長寿と健康」をテーマに1時間近く持論を語ってくれた。中でも「前立腺のなおし方」は頻尿・残尿・無力尿の該当者が多数いた会場一同が熱心に耳を傾けて、その秘策を家に持ち帰りこっそりと風呂場で挑戦した事だろう。
▼お風呂に入ったらあなたの局部をしっかりとつかみ、右に70回左へ70回と引っ張りながら揺さぶれば、前立腺は手術までしなくとも必ず治せると持論を解説書付きで熱弁。会場騒然と爆笑のヒトコマであった。ご自身は女性なのによくご存じなのねと驚嘆の声仕切りであった。
下町ロケットをのんびり観ている話ではないぞとスタンディングオべーションで寺泊会の講演会は終了した。
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鍼灸接骨院を経営するマリ姐さんは、弥彦村人会の名誉会長として組織のリーダーシップを発揮されている。自身が経営する接骨院のスタッフには体育会系の若者が多くいる人気サロンスタジオで、郷里にも構えた自らのオフィスと東京・大田区にある本部を頻繁に往復しており、素晴らしい弥彦観光大使の役目を担っているようでもある。女性起用がお上手な、近頃の弥彦会さんであった。駅ではエレベーターを使わない階段徒歩スタイルは、毎日近所のジム通いで鍛えている証拠である。
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■宴会場一杯に溢れる熱気と、郷土愛でつながる優しい連帯感が、つい顔に現れる平成から令和へ繋ぐ東京弥彦村人会であった。 元号変れど貴重なヒトこまが脳裏から離れないであろう。宴会のフイナーレには唱歌(ふるさと)で締めくくるスタイルは、正に弥彦の土のにおいがする。
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▲80代パワーが、ここはという時に引き締め役の弥彦会
■情報提供;第36/37/38回 東京弥彦村人会定期総会
本稿には一部アーカイブの写真並びにTBS番組配信情報及び販促グッズの写真を使用しております |
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・伝統民俗芸能公演アーカイブズ
◆寺泊の伝統芸能を守る人たち
塩たき節 前唄
む〜か〜あしーーよ〜おーりー
塩たき節 本唄
なじょ〜なーしーおーた〜き〜でえーもー
(塩たき節:地方で唄の雄/星幸市の情景心理描写が細やかでワンワードに精魂を込める)
長岡市伝統民俗文化財
◇寺泊「塩たき節」入門講座 ♬音源クリック◇
■副題:寺泊品質はこうして創られた(物語)
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財団法人 地域文化創造 | |
写真掲載許諾済 |
■寺泊は、別名をフンドシ町と呼ばれ、その名の通り、 近年になってから一区の松沢町とか六区の白岩などの 町名を付けても、まばらに点在する民家や商家などを 左右に挟みながら、生活道路に欠かせない一本道が |
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弥彦山麓まで続いていた。現在の砂浜の大部分は海だった。
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◆大河津分水が、日本海寺泊海岸まで流されていなかった頃は | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野積橋もなかったし、良寛も夕日が沈む佐渡島を見ながら、 フンドシ道を歩いていたであろう。 |
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ベストセラー作家・水上勉がこの浜道を歩きながらその印象を 短編小説「寺泊」を上梓したのはこの良寛が縁であった。 |
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■寺泊の製塩業は、この時代より遥か昔となる2千年前、神代の | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時代から始まっていた。シオ 貧者も富裕者も生活の必需品だ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弥彦山の西端は、寺泊町から眺めると、佐渡まで続く日本海に 接するなだらかな恐竜のしっぽのようである。 弥彦からはこれが見えないから、蒲原郡地方出身者はこの イメージを知らない筈である。 ・ 平成時代に放映された人気日曜ドラマ(TBS−BSN系)で 弥彦山脈が遠景として良く登場する。 この画面を弥彦山とするが 寺泊人はこのフォルムだと馴染みが薄い。 (ドラマ下町ロケットより) ・
◆寺泊から見ると弥彦山は こんな優雅な形をしている。 この山脈左端の先の先が 日本海に面している。どっしりと構えた姿は、正におやひこ様である
海面ゼロまで行かないと洞窟は判らないが寺泊で見る弥彦山は 日本海側の先端がこうなっている
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◆その日本海側の先端部分には、何やら大きな洞窟らしきものが見える。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伝説では、ここに「天香山命」が、南国から海路を経由し、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡り住んでいたとある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■のちに弥彦神社に祀られる、越後の産業をもたらした、 |
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いにしえの恩人は、2000年以上も前に野積を根城にし、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稲作・製塩・漁労そして酒造り等を教えていたとされる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
◆このお陰で寺泊は、 「農・漁・酒」作業を 男手が担い、 ただでさえ、男勝りで 大柄な体格が多い、野積のオナゴ衆は |
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せっせと重い桶をかつぎながら「塩」で稼ぐから、 まさに潤う集落となったはずである。 ・
◆現代の著名な脳科学者としてテレビや 講演会でお馴染みの「脳の学校」代表をしている 加藤俊徳・医学博士も、約2000年、後になってから この地・野積で生まれたことになるがこの説の続編は 近くの居酒屋談議で続けた方が脳トレによさそうだ。 |
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■時は経て、奈良時代あたりからは、寺泊の港は、 当時の遠島、佐渡島へ流される、流刑人船着き場の役割を果たす 事となり、重罪なる政治犯と裁かされ、その烙印を押された、 高僧・音曲/歌人などがひしめく。
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◆知識が有り、芸術感覚あふれる、職種様々な尊い罪人たちが 寺泊港から、遠島とされた佐渡島へと送り込まれる。 今と違って、船に原動機はなく島までは、はるかに遠く 下手すると鬼が住んでいるかも知れないと思ってたか。 何しろめったに上陸したことのない島である。
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私説・塩たき節誕生粋話
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◆さて話は戻って、都から引き連れてこられた罪人たちは、 三国峠の山超え、やっとこさ、寺泊へ到着しても、 即刻佐渡へ流されることが少なかったことが 寺泊の伝統芸能には幸いした。 |
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■いつもは夕陽輝く、穏やかな日本海を抱く寺泊であるが、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
晴天の日は何日も続かないのは、昔も昭和平成新元号でも同じだ。 |
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手漕ぎ舟同様の、罪人を乗せるみすぼらしい、小さな舟は、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
波風に弱く、少しの荒れた海でも出船できない。 |
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そこで海の鎮まるまで、舟は何日も港に繋がれ、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寺泊の陸で待機せざるを得ない。
■日蓮上人は説法し 高貴なるも罪人たちは 毎日波の様子を見る. 浜に降りては時間をつぶす。 美しい寺泊の夕日を拝み、 時に遊女たちと和歌を詠み交わす。 ・ フンドシ町の浜辺では、遠くにおなご衆が大きな桶に海水を せっせと汲んでは、重そうに歩を動かしていた。 ◆静々とゆっくりではあるが、担ぎ棒の先には 前後二つの桶が吊るされてそのバランスが実に良い。 正確には肩から先のつるし棒部分は後ろ部分より 「数ミリ長く」担いでいる。こうしないと後ろに引っ張られ バランスが悪いからである。
◆塩たき節の歌詞には、作業情景描写がさりげなく挿入され 直接的な言葉で唄っていないから、俳句を嗜む粋人向きである 上等な左党を自認する輩さんには 「今日の月こそ 桶にあり」あたりで盃を傾けたほうが良い。 昔につけられたランクの2級酒でも、たちまち野積杜氏が仕込み 薦める大吟醸の味に変わってしまうから、酒は気分で飲むべしで あなたの、宴席が一層華やぎ、高貴なお座敷に変る事であろう。
◆塩たき節物語は、実際歩いた経験のある灼熱の砂浜と塩田に加え 山の町の三業地を知る、寺泊人でしか想像できない ロマンあふれる歴史音曲物語なのである。
■こうした様子を見て誕生した情景描写が「塩たき節」 の源となっている。歌詞に抑揚が有りすぎて、塩たき節を 唄うのは、とても難儀なことよと、星幸市プロは吐露する。
同じ作業唄でも石炭を掘る時せっせと唄う「炭坑節」、 掛け声勇ましい ニシン漁の「ソーラン節」などとは 「節」の文字は同じだが、その味が全く異なる。 しっとりした「塩たき節」の世界は同じ作業唄でも お囃子・調子とは別世界の、肴を厳選した大吟醸に 似合う座敷唄として成長したのである。 宴席では女流地方・半間チサ子の唄が寺泊おけさを熱唱。
◆罪人たちを即座に佐渡島へ流されることが少ない. 海風の事情が、いかにして役立ったかを想像し探ると面白い。
塩たき節は / 邦楽のいいとこどり集大成か ◆女波・男波の 波待ち・風待ちで、 やむ得ず寺泊に滞溜していた、流刑人その正体こそ 都会で十分遊び尽くした、都びとの粋人さんたちだ。 製塩の風姿を、ぼ〜と見て生きているだけでなく 「写し絵」の如く取り込んで詩をつけ唄にし 「上方舞」を連想しながら「清元」の如く節をつけ 「端唄」の如く音を刻んだ長いプロセスを経た結果、 「座敷唄」として丁寧にに仕立てられた、 前唄・本唄の「塩たき節」がここに誕生したのであった。
◆寺泊会はこの芸術的所作と 音源を東京で発信しようと 寺泊で継承に励む民謡団体「浜っ子会」を 東京のホテルに招待し唄と踊りをじっくり 披露してもらった。生唄生演奏に陶酔の陣 ・・・◆
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◆塩たき節保存会は、小学生から大人まで各自の都合を見ながら唄と おどりを教えている。 生徒さんたちは当時の作業風景も想像しながら、 お稽古に励んでいるらしい。あと10年もすれば、 立派な所作を披露できるでしょうと平石会長は楽しみにしておられる。 ・ ◆(掲載写真は個人情報保護のため意図的不鮮明加工済) ・・
・・・◆寺泊会のステージで饗宴してくれた民謡連に感謝・・・◆
・ ・ ◆豪華三味線勢の顔ぶれ: あくまでも、しっとりとしたお座敷奏法に糸を合わせ熱演し、宴席を魅了した。 ・
◆寺泊会宴席での演舞を終わり舞台衣装をとって ほっと一息つく「浜っ子会」連中 左から2人目が保存会の平石孝義会長 さて長岡市の協力があれば、寺泊会宴席での 再上演が可能だが同市の30年度予算案によると 年間12.6万が寺泊会との懇親交流費らしい。 このすべてが補助金でなくこの中からお偉いさんの 上京費などが差し引かれてしまうので寺泊会へは 雀の涙程度になってしまう ここにはボランティアなる言葉は無いのであろう
再実現まであと一声欲しが、叫べど声届かず。
道楽としての邦楽入門
◆別号で公開予定 (筆者は20代後半で小唄初舞台)◆
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寺泊会の創立60周年本当におめでとうございます
これ程長く続くのは代々の会長さん役員の皆様のお骨折りのお陰と感謝致しております。
◆思えば60年前に聖徳寺の窪沢住職さんからお声が掛り、3歳の娘を連れて浅草の西徳寺へ集まりました。寺泊小学校の青柳清作先生も出席されていました。総勢十数人だったかと思います。
写真提供;ご本人(娘と二人で参加しました)
皆さんの意見で、寺泊の様子を知りたいと、窪沢住職に頼んだところ、一か月に1回の割で、生の寺泊の様子を知らせて下さることになりました。
◆青柳先生は寺泊の歴史などを書いて「ふるさと便り」として送って下さいました。
私のように遠く離れていても故郷の様子が身近に感じられて、毎月楽しみに読ませて頂きました。
伝統の東京寺泊会はいつまでも続いております。
ほんの僅かですがお祝いを同封致しました、御受納ください。
これからも会の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。
平成27年2月23日(2015年)
下鳥 ハル
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そしてこの4年後(令和元年)長寿表彰状を賜った
「ことほぐ」とは、言葉で祝福する祝いの言葉だそうである
「寿ぐ』と書くとお坊さん以外は読めないから、ひらがなにしたのかも
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更にこの4年後となる令和5年(2023年6月)
好きな絵を描いたり、昼間の明るい時間は起きていなさいとのことで昼寝は15分程度で切り上げ、夜こそグッスリ眠りなさいと就寝はいつも9時頃、聴覚問題なくヘルパーさんとの会話も通常対応、主治医の定期訪問でメンテナンスも十分。何と言っても、お声が太く大きいので、取材していてもキャッチボールが速いので楽しく気持ち良い。
習字勉強(但しご本人はお習字のお稽古と呼称)の時間も十分取りで1週間=7日では、とても時間が足りないらしい
2023/06/05 下鳥(旧姓新谷)ハルさん
(104歳誕生日)ご自宅にて撮影
ハルさんの誌上作品展
丁寧に観察して華を描く。80代が多い教室の仲間達もびっくりらしい。
100歳になってから(普通は60代位で良くある話だが)何か夢中になる事が無いかと、いち大決心したハルさんは自ら臨んでミッションを課した。
「そうだ、わたし、今度は絵を描こう」と、言ったかどうか定かでないが、
パッションさえあれば習い事は何歳で初めても遅いことは無い、そしてアクションに結び付けた経営理論哲学の生きた教訓か。
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筆使いも逞しく、震える事なくバランス感覚も優れ、最後の跳ねまで気を抜かない104歳のお誕生日訪問となった
ハルさんと同年代だった男衆もご存命なら、作家水上勉、アートブレーキ―(ジャズドラマー)、田端義夫(歌手)らも今年104歳になっていたのだが。この1年前には三島郡寺泊町から近い刈羽郡西山町で、田中角栄が生まれ、隣県高崎市には中曽根康弘という、二人の歴史に残る名宰相が生まれていた
6人兄弟2番目のハルさん、姉のシズさんはキュウカン(久寛)さんの愛称で慕われていた片町の小田野家へ嫁ぐ、即ち上田町の老舗和菓子屋チューミサさんと並んで、寺泊伝統銘菓「塩たきようかん」でお馴染みの久乃屋さんである。寺泊の観光土産はもとより、弥彦神社の参拝土産としても名物商品となり半世紀以上商売を支え、現在はそのご子息らが立派に事業継承されており、寺泊会の参加記念としても毎回お世話になっている
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妹のセツ子さんとの2ショットも姉妹はお互い100歳超え
男衆は80過ぎた途端にガクッと来て己の歳だけをやたらと気にし過ぎ
引っ込み思案か弱気一辺倒になる者も多いと聞くがハルさん姉妹とはこの違いか 男子80過ぎてもこの先20年以上もあると言うのに、己の ロードマップ作るのも億劫になってしまうのだろうか。
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寺泊会・初代会長物語
寺泊出身の億万長者
浄白なるこころと理念
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コロナ禍の世情で、何処か訴えている者の心を動かした物語があった。
感染者激増し多くの商売が苦境に晒されていた頃でも、常にPV (ページビ ュー)でランク上位を維持している寺泊人の生き様を綴った鉄鋼現材料人生の人気長編である。
寺泊役場の職員でさえ知らない人も多いであろう、戦争で破壊され荒廃した都会の地と材料不足を自ら憂い奮起し、クズ鉄商から財をなした商売人小林源次郎(愛称・コバゲンさん)のヒストリーである。
そのコバゲンさんが2023年9月16日深夜3時頃の旧NKK作業現場で決断されたプロセスを事前に知っていたら、未明であろうと真っ先に京浜工業地帯、川崎市扇島にある日本鋼管(現JFEスチール)の高炉作業現場に駆け込んで来たに違いない。多くのマスコミは多分、高炉休止のトピックとして、2023年9月19日以降に取り上げるであろうが。
現代の上場企業が好んで使用しているような、デスクロージャーとして環境貢献をIRの好材料にして主張する事なく、自然体でSDGs規範企業まで育て上げたのである。
大げさに言えば当時の国連ではまだサスティナブルなる単語を、頻繁には常用していなかった時代の話だ。
(と言っても、NYマンハッタンにある国連本部に聞いた訳ではないが)
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寺泊会創設者 小林源次郎
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★2021年7月、オリンピック直前になっても開催是非の混乱治らなかった令和時代日本の狼狽を、この、お方は70年も前の終戦直後から、「責任者を明確にしない損を負う多数の日本人」と、「表沙汰にしない益を手にする少数者」が生まれる時代の到来を、自身が億万長者になる前から、スポンサー頼みの曖昧な準公的組織には加重収賄の世界有りと、見越していたのではと思えてならない。
・・創設者の理念と教訓実践録 ・
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◆世の損を益にするな・¥&$
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・・・・・・・・・・・・・・
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・初代 昭和31年〜33年
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寺泊会創設の父
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・小林源次郎の夢
昭和29年(1954)大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。
生涯一緒の満足感
祝言の儀を挙げたのは大正7年(1918年)7月である。
◆嫁さんは寺泊の磯町・本間定吉氏長女の幸さん(16歳)である。波乱に満ちた長年月を共に忍び、生涯一緒に協力してくれたことが、これに勝る満足は無かったと自身の回顧録で述べている
(祝言当日の小林源次郎氏 写真提供=ご家族)
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・
●序章
◆これは功成り名遂げた男の想いが
東京寺泊会創設に至るまでを、ご家族協力の許に
史実考証を加えながら制作したドキュメンタリー物語でもある
●コンセプト
□ふるさと寺泊町の平凡な日常ニュースを
東京にいる仲間たちに毎月伝える新聞を作りたい
・
◆コバゲン(小林源次郎)は年を重ねるたびに「越後、寺泊町の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。
日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職に
その思いが届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんの年忌情報などのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。
◆「資材は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。
小林源次郎氏の次なる野望
やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。
k
◆小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「お寺につないでくんなせ」遠く東京から
寺泊郵便局の2階にある女性交換手に電話が入った。
当時の電話は、まず郵便局2階交換室の装置にランプが点灯
交換手はそこにジャックをさして寺泊局ですがとつなぎ
「○○番につないでくれ」とか「○○さんにつないで」との声を聞いてから
交換手が相手の電話を呼び出してやっと互いに話が伝わる。
そして長距離電話(市外局)からだと3分の通話料がやたら高く
寺泊の町中探しても、電話機のある家はそう多くない。
実際、町内に登録してある電話番号も2桁しかなかった
小林氏が経営する工場から、聖徳寺への電話はまだ続く。
「寺泊出身者の会やるすけ、
そっちからも案内書出してくれや」
聖徳寺の窪沢住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこ、ねえかね」。
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更に小林家の年忌情報から、檀家さんの婚礼話しまで、賑やかな会話が弾んだ。
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◆住職は電話を切った後しばらく思案し、さて初回寺泊会の場所を
どこにしたら良いもんかと、浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。
(後年開催された、畳の座敷に上座有りは即ち典型的な寺泊会お膳スタイルのイメージ写真)
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。
特報:2023/04/10発:
寺泊会の大先輩 下鳥ハルさん
令和5年の現在、久しぶりに大先輩に電話したら、声が大きく低いが張りのあるおばさん声で、今年(2023年)の6月に104歳の誕生日が来るからいらっしゃいとの事になり、お伺いの約束をさせて頂いた
これで彼女の ご自宅訪問は寺泊会として、先輩訪問企画で3度目だから、互いに気心は知っており緊張感は無い
6月が大変楽しみである。100歳超えの元気な女性大先輩・御意見如何に。
:
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◆「東京寺泊人会」の幕開けへ
今から約70年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさん(当時34歳)にも1通の
案内書が届いた。
これが最初のハガキに書かれていた文言である
・
「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
会 場 浅草・西徳寺地下堂
会 費 百円也
・・
これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来70年近く、
令和5年現在10代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。
(初回参加した下鳥さんのインタビュー記事は、2023年以降掲載予定)
…
…
久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じってご婦人たちの熱気が伝わってくる。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。
◆自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに後方に立たれる。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。
・
◆大正末期から戦前戦後と続く
小林源次郎氏の経営信条は一貫している。
「人の損を自己の利益にするな」・「損をともに」
が常に継続条件である。
・
■大戦直後の長者番付
◆内閣府における億万長者(当時は千万長者だったろうが)の初版発表は昭和23年(1948年)である。貨幣価値が1/100の頃だと言われていても、年収ベースで稼いだおじさん達トップの最高額は3500万円であった。職種は織物販売で稼いだようだ。現在の35億円相当か。昭和22年中における当時の税率は75%となっていた。
トップは、世間の必要物資であった「カヤ」や衣類材料「人絹」で儲け日本国トップになった。10位となると1336万を稼いだ毛織物業であった。
◆配給や公的支給品だけでは間に合わず、良く耳にした、闇市(ヤミイチ)があっちこっちで行われ、官憲として働く取り締まり官だけではとうてい間に合わない。コレが戦後の、どさくさ時代の成金(ナリキン)を生む事となったとされる。
真っ当な仕事に取り組んでいる、小林源次郎氏とは全く異なる別世界では、社会倫理が確立されない当時での犯罪は後を絶たない。
・・
◆越後でも、窃盗・強盗からヤミ米食料横流し・無許可販売・食管法違反事件など、越後でも多発し違反者に対する逮捕拘留で検事も休みがない
・
◆編集部ファイルから、新潟地裁検事の経歴を持つ、越後赤塚(現新潟西区)出身で、戦争直後の検事だった真田康平氏 ▶(インタビュー録)によると、戦後世間皆の心が乱れ、生きるために犯した罪を断じる難しさに加え、裁く手段の荒っぽさに溢れていたのだ、と語っていた。現在と違い、逮捕拘留したら、早朝から深夜まで時間無制限に取り調べたり、法廷に立つと被告が同じ村に住む知人だったりと、犯罪者の多さに悩まされる事もあった。
同氏は退官後に弁護士として活躍されていたが、すべて知見の糧になったとも懐古しておられた。
・
◆寺泊会創設者が戦後初の
・
全国長者番付に登場・東京では3位
・
◆「人の損を益とするな」の強い信念で日夜熱心に仕事に精を出し、
利益を出した小林源次郎氏の名前も長者番付に登場した。
だが番付に登場した多くの長者が、真面目に申告していないことはすぐばれてしまった。
彼らは過少申告と指摘され修正し、多額の追徴課税を支払わされたのである。
・
◆小林だけは、この真逆であった。
信念で稼いだ、自分の収支申告に、間違いはない筈だから、この課税額はどうもおかしい、と税務官に異を唱え、全てを、再計算をさせた結果、何と減額処置を受けたのである。
日本の長者番付で,最初に減額処理をさせたのが寺泊人となった、
長者番付発表考察
・
◆小林は戦後初となる1948年の高額所得者番付で、全国13位となり、東京では3番にランク付けされた.
税額の570万は、現在の貨幣価値にすると数億円の課税だ。(同氏の自伝より)
聖徳太子の1万円札が発行されたのは1958年(昭和33年)である
(日本銀行hpより)
即ち小林源次郎氏個人(当時商店)が前年(昭和22年)手にした現金が億単位となると、当時の紙幣で1万円札の発行はなく、千円札も偽札事件で印刷停止中だったから、100円紙幣(百円札)しか使われていないはずだから札束を重ねたら、弥彦山の中腹あたりの高さまであったのかも知れない。
◆ここで組織を法人格にしようと決心し、「小林金属産業株式会社」として、法人登記に踏み切ったのである.
資本金の「19万5千円」は現代なら初任給にも満たないが、
終戦直後の会社法で、認められていた法人資本金の最高額だったようだ。
現在では想像もできない金額が、戦後日本復興のスタートである。
◆この翌年の番付1位になったのは、貸金業で巨額の利益を出した森脇将光で、昭和経済の歴史に良くも悪くもその名を残した。
物資少なき時代でも自身の会社では、野球部があり、ここには当時の寺泊町出身の若者たちも就職しており活躍させた。
◆法人格にしたあとも企業成績は著しく伸びてゆく。翌年には次男の喬嗣氏(後の社長)を慶応普通部に入学させた。
2年後には資本金も400万になり、当初の社名に源の文字を追加し、「小林源産業株式会社」とした、
やがて資本金1025万、年商20億近い会社へと変遷した◆取引先を日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)に限定し、経営理念はぶれることなく、銀行からも絶大な信用力を付けるに至ったのである。(貴重写真となったご子息とのツーショット)
そして2023年9月16日の未明、川崎市扇島にあった日本鋼管は高炉の火を消した。かつて仲間として鉄鋼材料資源の供給者コバゲンは当然の事ながらこれを知らない。広大な敷地は次世代エネルギーの供給地点に変換されるそうだが、いよいよ水素主体の新時代に突入か。
◆コバゲンは自身の経験で独創的なノウハウが有り、鋼材・屑鉄材調達には市場を独占していた。
◆凡人経営者だったらこの鉄鋼原材料を顧客=日本鋼管の競合先となる大手企業に併行販売してしまえば、短期間しか持たないかも知れないが、利益は2倍3倍と容易に拡大するので、これを選択するだろう。
これを良しとしないコバゲンの経営哲学が実を結んでいた。
の経営層も他社に不足しているのは、原材料だけだという事を熟知していた。
「あなたがわが社にそこまで本気なら、当社も今後浮気することなく、コバゲンさんの会社から仕入れましょう」と言っていたに違いない。
・
◆ふるさとの中学校へ
当時では貴重な自動車を寄贈
・
純粋に喜ぶ機械好き少年たち
・
◆昭和30年初めころ、小林の郷里である寺泊中学校では、生徒たちの間でにわか話題になった出来事がある
自分達の学校に何やら自動車が寄付されるというではないか。噂は町中に炎上し、そして本当に実現したのである。
玄関中央にある掲示板を見ると「自動車クラブ員募集」の張り紙が大きく張り出され、部員を募っていた。この掲示板は先週までは
「皇太子ご成婚」の見たこともない大きな、活字見出しの全国紙1面がはってあったはずなのにと思いながら、張り紙を眺める少年たち
・
◆昭和30年代初頭、市場にはまだ乗用車が少なく、国産自動車の多くは小型3輪か4輪車中心となって、国内総生産台数の60%も占めていた。
平成30年:厚労省発表の賃金雇用統計とは違って、信用できる統計で記録を残したであろう、年号前代の昭和30年度、自動車保有台数データによると
◆昭和30年度の自動車保有台数(全国総数)=約150万台となっている
・概算内訳
普通車=約16万台、小型3輪車=約43万台,小型4輪車=約9万台、
バス=約3万台、その他は、特殊自動車として保有台数の記録が残されている。
即ち、このうちの1台が、三島郡寺泊町に来たことになる。
◆待ちに待ったフロントボンネット式小型4輪自動車が学校に届き、まるでロボットが転校してきたかの如く、取り巻いて覗く少年部員たち。
部員もそうだが顧問の先生も興奮気味。
◆放課後はグランドが自動車の構造を勉強する場となった。
・
◆顧問の先生は免許を持っていなかったので、移動には運転経験があり技術担当の宮村先生が操作し、グランドへ。後部オープンの小型4輪はクッションのききこそイマイチだが、楽しくてしょうがない。
・
◆部員たちはワクワクしながら、荷台に乗る順番をエンノー(じゃんけん)で決め、いざ順番が来たら、運転台の屋根の手すりにしっかりとつかまって、振り落とされないようにしていたもんだ、と懐かしく初代自動車クラブの少年たちが情報を提供。
◆情報提供者たちからの電話は更に続く。
・
室内にはニスを塗ったような木製で組み込まれた印象で、始動はセルでなく、正面からクランク型の棒を回した覚えがあると加える。学校から帰宅して夜フトンに入っても、H型構造クラッチの練習をしていたなあと、話は止まらない。細いボンネットにこれでもかと言わんばかりにせり出した大きなタイヤとヘッドライト、車は濃い緑色をしており、全くの新車ではなかったが、中古感はなかったそうである。
さすが60年過ぎた現在でも、自動車クラブでの強烈な印象を忘れていない、と感心するしかない。
◆初代寺泊中学校・自動車クラブ(後方矢印=寄贈された小型4輪自動車)撮影推定:1959年頃
◆◆◆◆
。。。。
次は100年続く
寺泊会を作らねば
◆昭和30年の小林源次郎、郷里への想いを寄付活動を具現しながら、そろそろ東京にいる寺泊出身者に声をかけ交流の手段を考え始める時期か、と考えるようになった。
これが東京寺泊会誕生の源として、徐々に拡大の途を歩みだすのであった。初回大会の昭和32年までには何回か寺泊町に行ったり下準備に余念がない。
◆自身の趣味は釣りと車整備と運転である。これでふるさと寺泊町へ何回通ったのであろうか。
しかし当時は、関越自動車道が開通していないから長いトンネルもない。デコボコ山道をほこりを巻き上げ、いざ寺泊へと何時間もかけて運転していたに違いない。ご苦労な話である。
◆さて聖徳寺の住職にも話をつけたし仲間達にも連絡した。かくして浅草の西徳寺での第一回東京寺泊会大会は大成功に終わった。
◆だがこの頃から夜中に時折呼吸が苦しくなり、目を覚ますことがあった。
いつもの事だろうとさほど気にもせず放置していた。小林はかなり前から、心臓障害と闘っていた。これが2年後の昭和33年に予期せぬ運命を迎えるとは、誰もが想像していなかった。
◆外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、高血圧症と心臓病がそれである。
・
事業拡大より
息子の結婚の方が先だ
このままの状態で、もし自分の体調が更に悪化したらと危惧
商売は順調に繁盛しているし他に問題は無い現状だが
唯一、後継者問題について、深く心配する小林であった。
◆長男は1歳の誕生日を見ないで亡くなっていたので
次男にその将来を託していた。
だが彼は成人式を終えたばかりでまだ若い。
事業継承の前に、我が家の嫁とりだ。息子も結婚すれば
俺のように夫婦二人で支えあいながら、事業を継承してくれるだろう
◆ある日の夕食時、息子の喬嗣氏(後の社長)を前にして言った。
「お前だれか付き合っているひとは居ないのか」
当時次男はまだ三田校舎に通う大学生であった。
真顔で話す突然の質問にびっくりしながらも、当時丸の内にあった
政府系金融機関でOLをしていた東京出身の彼女の事をいろいろと親父に話した。
・
「女学校卒か・・、よし、お前、その人とすぐ一緒になれ」
即ち、彼女と結婚せよとのことであった。
◆何事にも、こうと決断したら実行が早い源次郎氏は
即結婚準備だとばかりに次の手を打つ。
せっかちそうに人さし指で、黒電話のダイアルをまわした。
・
◆まだ学生だった
息子の結婚
◆晴れて華燭の典を挙げたのは、この日からそう遠くではなかった
若い夫婦は、互いに昭和11年生まれ。
喬嗣氏にとっては学生時代での結婚となったが、気も合うし、価値観も一緒である。
◆爾来、事業継承の多難さを二人で超えながら、平成16年に
喬嗣氏が亡くなるまで、息子は節子夫人と平和な人生を過ごすのであった。夫が故人になりやがて迎える令和時代になって、
やっと落ち着いた生活になりましたと、80を超えられている節子夫人は振り返る。
私も来年の寺泊会65周年大会にでも出てみようかなと語っておられる。(2019/4/16電話取材)
・
さて話は再び今から約60年前に戻る
小林源次郎氏倒れる
:
■昭和33年(1958年)正月
:
◆さて小林源次郎氏、一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、昼夜をかけ激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となってしまった。
・
その後は一時回復に向かっていた。しかし容態が急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。
・
■ありし日の小林源次郎氏
・
小林は生まれながら持ち合わせた溢れる経営感覚と商才を
青年期から発揮し、大正・昭和半ばまで全うした。
・
◆23歳の若年で八丁堀に事務所を構えた時代には
第一次大戦による市場高況期を利用、これを足掛かりに
伊豆半島下田沖での沈没船引き揚げ事業に係わり
スクラップした時を査定し利幅が見込めると感じたら
大手都市銀行、商社筋を集め売買交渉契約のセリを実施
これで1億(現行の貨幣価値換算)を超える利益を得て顧客を喜ばせながら
日本国に散在する廃材利用に貢献、何とこの船は
明治維新の動乱で沈没した新鋭型アメリカ船であった。
磯町在住の若い娘さんと祝言を挙げたのは
この後である。
初回東京寺泊会(誌友会)ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。
・
・
◆・・・・◆初代小林源次郎物語 おわり◆・・・・・・◆
◆制作協力
(文中一部敬称略)
写真関連
:小林節子 様
(初代会長・小林源次郎ご子息夫人)
:古川原サキ 様
(5代会長・古川原実夫人)
:下鳥ハル 様
(東京寺泊会・初回大会参加者)
:聖徳寺 様
(初代会長の菩提寺)
:寺泊中学校 同窓会 様
(自動車クラブOB会 )
出典:戦後億万長者の盛衰
(平凡社新書)
:小林源次郎ご家族 様
(我が人生回顧録)
・
・
・・・・◆
]]>
民放テレビニュースのタイトルは「新潟で竜巻発生」
この新潟=寺泊とは信じがたいが事実だった
寺泊会に登録している寺泊住民OBなら、、突風・高波・雷・嵐なら時折経験していたのでさほど恐怖感は抱いていない。
だがこんな画像が新潟気象台から流されるとさすがに驚いてしまうらしい。
水深が深く、波の荒い海が遊び場だった灯台周辺の岩場こそ地元少年だけが知る釣りの穴場で、時にはヤスを手にして潜ったりしていたあの灯台のはるか先、佐渡海峡の真ん中あたりに太い竜巻雲(業界用語では発達した積乱雲か)らしき巨大妖怪は、以前肉眼で見た小型なモノより遥かに太くて大きい。これが浅瀬まで攻めて来たら灯台を飲み込み防波堤の岩でさえ吹き飛ばしてもおかしくないほど大きく異様な姿形をしている。
アニメの世界ではお馴染みの、地下のマグマに起因する「じょうご」のように、黒い雲の下に太く垂れ下った滑り台のような雲は、特急呪霊の様で、確かに不気味である。
ー
昨晩遅くから朝方近くまで続いたゲリラ雷雨が気になり、やっと晴れた今朝の波はどうかと、気を揉む漁業関係者さんが浜に出て遥か西の彼方にこれを発見、慌てて地元の気象台に電話したそうである。今時の漁師さんは正確な天候確認のため、常時携帯を持ち歩き新潟地方気象台担当者の連絡先は登録済みである。尤も彼らは朝起きて西の空を見上げればその日のお天気程度は予想つくのだが。
…
この怪現象は、2023年8月28日午前6時頃確認され早速ニュースになりお天気キャスターの恰好材料となった
夜が明け漸く気がついた住民さんたち、どうかそこから動かないでと願ったのが、寺泊沖に出現した巨大積乱雲である。
東京にいてもテレビ局のお天気コーナーで雲の写真を見せながら、今朝、新潟県の日本海側ほぼ中央に位置する寺泊港沖ではこうでしたと各局で解説するのでその様子は否が応でも目と耳に入る。
一方最近のニュースで、かの「寺泊」なる名詞がテレビでやたらと使われ、全国放映された気象関連の話題が有る。
それは雨が何日も降らない夏特有の渇水現象が、米どころ新潟県で遭遇し、特に「寺泊」が上越・下越、はてまた、近隣他県地域の記録を超えて一番目になったとかで又もや寺泊がニュースになってしまった。記録的猛暑日が何日も続いた新潟県の令和4年を象徴するインシデントだ。
:::
夏季30日間の雨量は日本で新潟県が最も少なく、中でも寺泊なる地域が一桁の4%を記録したという事だが、今夏に起きた線状降水帯で悩まされている、西日本の地域に比べたら想像できない現象であろうがこれが現実であった。
越後が渇水で日照り続き、海水温さえ連日30度越えとなると、雷雲様の大好物。ここの海の沖で何が起きても不思議ではない。
渇水地周辺では竜巻ならぬ、強度なつむじ風が断りなく地上に発生して
しばしば少年野球のグラウンドでも突然暴れまくる
時にはベース、テントから野球のバックネットまで遠慮なく吹き飛ばしたりもするから寺泊沖ならずとも要注意である
(2023/8/28昼前、燕地方に吹き荒れたつむじ風現象)
=日テレ気象番組より
:::
寺泊沖の竜巻雲の写真は中央の各テレビ局で何度も放映していたが、速報価値衰退しない竜巻発生の情報源である
寺泊港をルビ付きで表記していた局さんが最も画像の正確性を捉えていた。幸いにも地元での被害が無かったので、100号キャンパス油彩画に最適か。積乱雲は発達すると横幅10キロ以上にもなるから、200号キャンパスでも描き切れないかも。
だが遠方から案じているのは、ほんの一握りの日本人、全ては日本海の小さな町の出来事であり、大部分の国民も関心が無いであろう
もしこれが、関東の江の島海岸や湘南の海での出来事だったら、国民の70%以上が関心を持ったに違いない
寺泊にルビがふられる程度の極小な町の現象でしかないから速報で始まり、続編が無かったくらいで良かったのかも知れない。
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◆謹賀新年◆
/元旦旭日近撮
寺泊町史アーカイブズ
町民が市民になった寺泊人
・
海が転げ込んで来た長岡市
◆寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。
合併するなら「分水・弥彦と一緒がいい」と7割を超える町民の声いずこにか。10年後に再アンケートとってみたい。
・
寺泊の町長を
語れるのは、
古老も集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。
その話をまとめて編集したらこうなった。
町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。
だが寺泊人にしてみると、懐かしい名前が登場して面白いとの、少数派の評判も聞こえて来る寺泊会だよりである。
・
◇寺泊町が消えた日◇・・
平成の大合併
■寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、 |
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共に明治22年の事である。 | |||
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に | |||
号令した結果、あちこちに長く親しまれ根付いていた伝統的な地名が殆ど消滅し | |||
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが | |||
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。 | |||
|
|||
■明治34年に寺泊は野積村を含む近隣4村と一緒になり | |||
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口 | |||
18000人近い、自治体となったのである。
誕生から105年続いた寺泊町
|
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平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併 | |||
冠に長岡市をつけることとなり、もはや「寺泊町」も町長の名前も消えてしまった。
寺泊(町)に拘る著名団体 ・ 長岡市の寺泊でなく、寺泊に町を付け寺泊町を貫く
地元寺泊で、生産とサービスを担う商工会さんだけは、 長岡市民になっても☞「寺泊町商工会」 と登記し、令和になっても堂々と昭和から継承して来た印鑑を使っておられるから立派なものである。
▼:魚のアメ横街の外れに建っている会館を眺めると ここだけは昭和時代かなと錯覚してしまう (撮影2023/08) 寺泊に僅か2,3度しか来たことが無いのに発信力の 強いYOUTUBERさんも勉強になるヒトコマであろう 「わが息子 町を見たいと ダダをこね」 詠人不詳
: 同様に長岡市に編入した、寺泊のおとなりさん与板も 長岡市民になられたが呼称を☞与板町商工会として頑張っておられる
寺泊町閉町の人生 |
■「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。 高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長 公務多忙により副会長が指名され閉町式典に単独参加となった。 |
午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。 | |||
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、 | |||
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と | |||
荘厳なる閉町式となった。 | |||
■ここで、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の | |||
手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋誠町長(当時)に手渡された。 ・ |
|||
◆式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった | |||
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会のお.となり席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。 ◆アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、 力強く閉町の雄叫びを轟かせた。 ◆寺泊会が入手した公式資料で、大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。現在の長岡市職員でも興味はないであろうが。 |
寺泊町の歴代町長
最長は高橋誠氏18年
初代町長 | 柳下安兵衛 | ||
2代目 | 本間健四郎 | 町制施行〜大正4年 | |
3代目 | 神林津三郎 | ||
4代目 | 桑原源治 | 大正4年7月〜5年11月 | |
5代目 | 柄澤政雄 | 大正6年1月〜6年6月 | |
6代目 | 寒川卯之七 | 大正7年9月〜10年10月 | |
7代目 | 大平廣弥 | 大正11年1月〜昭和9年1月 | |
8代目 | 治田竹治 | 昭和9年1月〜13年1月 | |
9代目 | 竹澤茂一郎 | 昭和13年1月〜18年10月 | |
10代目 | 外山勘兵衛 | 昭和18年10月〜21年11月 | |
11代目 | 大丸常松 | 昭和22年4月〜25年6月 | |
12代目 | 高綱三作 | 昭和25年7月〜41年7月 | 東京寺泊会創設期 |
13代目 | 藤田子男 | 昭和41年7月〜53年7月 | |
14代目 | 中島甚一郎 | 昭和53年7月〜63年6月 | |
15代目 | 高橋 誠 | 昭和63年7月〜平成17年12月 |
資料提供 旧寺泊町役場
「てらどまり」
が寺泊町として町制施行以来 |
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歴代町長は15代の首長によって継承され終結した。 第15代町長特別追悼の章■ |
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■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」では、お元気な姿で来賓参加されておられた。 |
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・・・・・・・・・・・・・・ 寺泊町の歴代教育委員長
旧寺泊町の名誉町民
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n
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▼
1
観光協会 の会長さんと副会長さん1
:
🎆 🎆 🎆 !
何事も剛腕コンビ次の一手が凄い1!
・1
1■寺泊観光協会の名物キーパーソン・会長・副会長の手腕が日本中で評価されているらしい噂を検証したのは去年であったが、
2020年夏行事の花火大会盆踊り(野積)も中止となり、腕の見せ所がなく、パワーを持て余し気味とか。来年があるさと考え直し迎えた2021年、ところがウイルスの勢力は衰えを知らず、またまた今年度も行事中止続きで、寺泊も例外ではな い。
などと心配続きだった海の寺泊であったが2023年の海上大花火大会まであと2週間となった。
本稿の検索数もウナギ登りの活況である。
しかしここ3年の世相と港まつりアーカイブでレビューでもしておかないと素人さんは楽しさ半減となる。
大丈夫だ、当時からの会長、副会長の辣腕コンビさんは、お顔こそ同じだが、彼らのパッションは1ミリたりとて衰退して いない。
:::
全国に何十万人という感染者発生では五輪どころではなかったが、トップ以下の安心安全宣言の
強硬姿勢で蓋を開けることになり、オリンピックではヤングパワーの活躍も有り、閉めるまで珍しい競技に夢中になり
テレビ観戦とは言えスポーツはやはり歓喜を呼び込むものであった。
:
◆聞き飽きたこのフレーズ
◆緊急事態宣言も宣言発布―延長―延長となるとヒトは動くか動かないかで悩んでしまう
ふるさとへのお盆帰省するにも、その行動は不要不急ですかと、都のトップに諭され、これでは花火大会どころでなかった。
夏場も感染者は増え続けワクチン接種も、トップの声がけだけは勇ましく、安心安全のためならと、懸命に接種の予約するも
源の薬液不足とやらで、現場の行政は調整に四苦八苦。これを3回以上打つらしいと風評が立ち驚いていたが、今や接種歴6回を重ねるご高齢猛者は多数居られる。
:
◆帰省がダメなら我々サラリーマンはどうするかというと、
自宅で仕事せよと言われ、かくしてこんな流行本まで発行される始末。早速買ったが役に立つから不思議である。
決して広くない家が、にわかのオフィスになり、デスク買ったりの、にわかスペースつくりに余念がない。
家では子供がうるさく、大わらわ。
:
◆自分で考えて新規顧客を見つけよと、リモートで社長からの叱咤激励が飛ぶ令和3年の秋であった。
・・・つづく
◆令和5年は寺泊の花火がやって来る。かつての日本、どこも連続で、全国的な中止発表が続き、煙火業者さんから
団体バス、輸送業者、宿泊業者さんも大弱りだったがドッコイ今は笑いが止まらない。これだけはお持ち帰りができないから、自社ビルを売ったり縮小したりとあの手この手で凌いでいた時代が嘘のようだ。
主催者となる協会・行政も寄付金名目の浄材提供者さん探しに今は奔走していて時間が足りない、と汗を流しているに違いない。
知る人ぞ知る辣腕コンビが考案した、4年前にはあった名物企画も今年はまだ連絡がない。
観光協会トップが考案
「海上大花火本体」
提供者さんへの御礼
▲
寺泊の大花火は観光協会トップが経営するカニの大看板の前で打ち上げられる
主催者なら尺玉の大輪を○○千発とか、3尺ダマから4尺玉もあるよ、と花火だけに華やかに打ち上げたいところだろう。そこで花火の打ち上げ費集めにあの手この手で戦略を立てているのが裏方さんである。
◆クラシックな手法では、東京多摩川や湘南海岸に見る、個人・法人を問わずあなた様からご寄付を頂いたら、打ち上げの際にきちんと丁寧にお名前を宣伝してあげますと、従来の手でキャンペーンを張っての資金集め。
◆一方、手法の中で名案を出しているのが、寺泊会大会宴席の壇上で声を大にして宣伝された、
観光協会で花火担当委員長さん。
もう一つの寺泊
野積人の華をなす男
野積とは弥彦山のふもとに広がる、広大な浜辺を有するリゾート地である
この野積の地で頑張っておられるのが、割烹旅館・山長の旦那さん(大倉英雄・寺泊観光協会副会長)である。
その秘法が悩ましい。HPには仲睦まじく豪気な女将様も笑顔で登場させている。花火では従来通り、ご寄附を募るのは変わり無い。
協会で定めた、指定号数以上の協賛金をご寄附頂いた方には、素晴らしいトレーサビリティの特典で昨年は好評だった。
◆それが出資エビデンス方式と呼ばれる、記念証拠写真戦略であった。
仮にあなたが尺玉相当の寄付をしたとする。
観光協会がそのエビデンスとして、実際に打ち上げた、あなたのその花火写真を
ご芳名付きでパネルに入れて、制作してくれるのだ。
■ふるさと納税の花火版か。
勿論当日の会場では提供者の丁寧な紹介も忘れない。紹介だけではもったいないと、提供花火打ち上げの証拠記念写真を制作して、お返しするという実に寺泊初の名案であった。
これなら一瞬の大輪もその年の夏物語の想い出として飾ってもらえれば1年は持ち越せる。
・
そして来年夏になったら今度は平成30年度版の新しい写真が欲しくなるに違いない。
結局は翌年も同様の寄付が頂ける可能性があるので観光協会も一安心となる。
さてあれやこれやで主催者の労は慰めたい一心で、寺泊会も微力ながら平成30年の話だが喜んで花火協賛した。
寺泊の夏
花火の季節到来へ
寺泊港まつりと花火
実に楽しみで眠れない
令和5年8月7日の
花火大会開催である
/
花火はサマーイベントの必須条件として大きく宣伝し、寺泊会だよりの閲覧者・地元業者さんや観光客を喜ばせているが、
開催すれば、海が巨大ステージ
日本海寺泊の海上で炸裂する
.
5000発で酔わせるはず
今夜もあなたを眠らせない、
このフレーズもあと2週間で実現
本稿の花火写真=寺泊ウォッチング様より転載
かつてを振り返って
またまた寺泊の夏:アーカイブズ
■ 2023年寺泊の夏、今年も賑々しく「寺泊港まつり」が開催される。寺泊会保存のファイルによると、花火大会に使う煙火経費は約500万円が原価であった。当然のことながら、諸物価はコロナ前後で様変わり、人件費も加算するから総経費は安くない。この費用は長岡市の補助金に、寺泊町民・現長岡市民と法人企業、団体などからの浄財にもとずくものである。お客さんに喜んでいただければ、収支を考えるより楽しくなる。寄付金制度はありがたく、これに見合った花火がプログラミングされるから納得する。
■大都市が荒使いする、4年に一度の「オリンピック開催するための費用」限定については、見積り段階から、巧みなる合法的な競合方式で、建設業者、服飾デザイナー、企画会社、大手広告会社、開催地へ誘致職員を、多数派遣した旅行業者も、デスカウントを忘れ、定価で見積もったのではと今頃市民は気が付く。
当時の誘致委員会職員も、税金で清算すればいいから、誰も困らない。東京は成功はしたが、残念ながら招致に失敗しても、仮に100億円也を遣っても、すぐに清算されてしまう。かつて地方都市の信州でも、冬季大会開催後の総経費・合計は公表したものの、領収書は、3年後には焼却又は紛失処理で終結と聞く。法人企業なら、7年間は使金領収書を保存するが。
■さて寺泊の花火は、 例年なら8月初旬に開催される賑やかな、港まつりの中にある。観光協会・会長の山田栄三郎さんは.その見どころを「海中・海空スターマイン」だ、と東京寺泊会・63回大会であつく語っておられた。
一発48万円なら、安いもんだと、寺泊会の名前を売るつもりで、その時はお任せ下さいと胸を叩きながら寄付をしようと考えていたが、実際の段階になって協賛金の寄付願いを受け取ると、大金寄付の実現は先に延ばし、ほんの気持ち程度になり、海中スターマインは次回にしましょうやと、役員達と話す始末。これで何年目か。
玉代 ご提供者必見
スターマインのお値段紹介
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(煙火業者の卸値でなく
開催者の協賛公募=販売金額)
■ところで、花火の華はやっぱりスターマインである。そのスターマイン提供のスポンサー協賛価格はいかに・・・・。資料として保存してあった、寺泊会に届いたスポンサー用価格一覧をレビューすると・・。煙火単価は10年前とそれほど変わっていない。
花火のおねだん一覧 |
普通のスターマイン 16万円 |
10号玉 4万7500円 |
5号玉 1万0600円 |
超特急スターマイン 37.5万 |
海中海空スターマイン 48万 |
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ベスビア ワイド特大スターマイン 251万円〜 |
◆日本最大規模の長岡花火も2020年度は中止となったが、このベスビアなる最高品質のスターマインが、毎年数十発と飛ぶように売れた、平成時代最後となる長岡の花火に携わった花火師さんも素晴らしいが、コロナ禍もなく景気が良かったのか、協賛の一端を担った、お旦那さん企業さんにも大感謝で、総経費7億円超の予算で取り組んだ長岡市は関係した人権費=市職員経費が1割だったらしく安価でないが早くから宣伝し、呼びかけがうまくなったと思わざるを得ない。
長時間中継のテレビ放映権で稼ぐ手法は、寺泊観光協会も見習って、新世代に期待したいところである。
花火大会
ゲスト余話
例年著名なタレントや唄い手をゲストとして特別桟敷席に座らせるいつもの姿がある。
だが話材に乏しいゲストたちを盛り上げない司会進行に我々寺泊会庶民は満点を与えていない。
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司会進行に決まったら花火師、煙火工場社長、進行プログラムソフト業者担当者などを訪ね、時間をかけた前取材が必須であろう。本物花火見物の醍醐味を知っている花火ファンを前に、画彩こそ美しくともテレビに写された、破裂音と煙火臭のない画面を見ながら、3時間余りテレビ桟敷を飽きさせないで続けるのは、力量のいる仕事で地方局のベテランでも難儀らて。
長岡開藩400年をコンセプトに資金集めした時も、原資は潤沢であったらしく、天下に誇る大花火大会となったことは実に喜ばしい限りではあるが、たとえ10K品質でも、テレビ中継には100K並みの創意工夫が求められ平成最後の中継画像となった。
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例年評判の寺泊会・宴席を仕切る司会者でさえ事前取材、判らないように取仕切る演出と、知ったかぶり手法に知恵を出す。
巨大花火中継の司会進行役を選定するテレビ局において、この点だけが大会関係者内で改善の余地ありで今年の夏も過ぎてゆく・・てか。
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古老たちの語り草
寺泊町の花火師といえば青木さんでしょう
■そんなこんなで、来年目標の数千発も、よそさんがお作りになったYOU TUBEかなんかで寺泊花火大会の動画を見るとお判りになると思うが、一瞬にして開いて消える花火を、暗い夜空に原資を意識しながら観るのも一興である。
青木さんこんにちわ
50年位前、長岡の「安藤さん」と並んで、寺泊町には「青木さん」なる打ち上げ名人がおられ、夏の花火大会だけでなく、朝早く、町や小学校の運動会・開催を知らせてくれたりもしたもんだと、東京寺泊会の古老たちが懐かしむ。
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それぞれが花火には、色々な思い出があるもので、熱狂的な花火ファンも多い。
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外山健太前会長を偲ぶ
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■寺泊の豪商トカンさんの親戚で、2年前までは、東京寺泊会の第9代会長をされ元気だった外山健太さんは、大の花火好きだった。
毎年長岡の花火を観るために、首都圏で大勢の熟年たちを集め、バスを仕立てツアーを組んで長岡まで足を運んでいた。
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定年後の趣味として、全国山歩きの会も主宰していたが、この会員さんを中心で花火には、2年前までは大勢を引率して信濃川へ。
団体御一行様の帰路はいつも、寺泊きんぱちの宿などで過ごされていた外山健太さん。
誠に有り難い長岡市寺泊町の立派なステークホルダーであられたが、残念ながら平成29年4月に他界された。享年75.天国から見守ってくれているに違いない。
最愛の妻を亡くした人気歌舞伎俳優が、歌舞伎座の7月公演で恒例の宙乗り姿で息子と一緒に宙を舞う演技を見せた。天国にいる亡き妻の少しでも近くで演じたいと悲壮感をが漂わせたのは2017年夏であったが、寺泊会も第9代会長さんの外山健太さんが花火を最も近くで見えるようにと同様な心境である。
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何年経っても寺泊会は、夏の海上花火大会、が楽しみだと言う人が多い。
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分水会は、春の高尚なる講演会と花魁、が楽しみだそうな
弥彦会は、秋のじゃんけん宴会と菊まつり、が楽しみだと言う方で溢れている。
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令和2年の流行語:
キャンセルと延期 裏話
GO TOキャンペーンのおかげでキャンセルが、おおはやリ
🔷それぞれのふるさとに想い抱く、1200団体もある越後郷人会だが、2020年度はいづれの大会も中止宣言したりで、先行き開催不明が続出している。
◆横浜港豪華客船内だけの問題として報道されていた頃の早い時期に都内のコロナ禍を見込んで、無償解約型キャンセルは大変だった。流行前の解約に、相手も必死ならこっちも必死のバトルであったのは言うまでもない。
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定形約款の威力で
戦う寺泊会の凄さ
🔸寺泊会も、開催直前でのホテル側経営層とキャンセル料交渉で一悶着あったが、コンサルとして日常的に法的知識を使用している元会長を交えて、堂々とわたり合い、1年前の宴会場予約済みだったにも関わらず、定形約款の法理を盾に、何とか会の臨時経費に負担を掛けず、ほぼ無償で2020大会のキャンセル交渉が成立したのであった。
これ以降は1年も前から宴会場予約はしない事にし、寺泊会長年の慣習とした会場使用中の宴席その場で、翌年の宴会場予約をしない事を教訓とした。
サービス業として、キャンセル交渉の扱いで立派な結論を出されたHOTEL経営者さんに感謝するしかない。
その後我が国では、多数の結婚式場でキャンセルします、解約料いただきます、3密回避の不可抗力ですから払いたくありません、と もめていたようであるが、これもコロナ禍の産物か。2023年の今では、このニュースも聞かなくなリフェードアウトした。
がしかしコロナウイルス軍も黙ってはいない。次なる変異株で猛攻撃準備中である。エリスなる名前こそ優しそうだが感染力を強化し 先ずは都会に潜伏し拡大を狙っているのである。人呼んで第9波の恐怖か。 彼らの軍にとって幸いな事は、ビッグな気候問題から芸能問題が日本で噴出し、誰もウイルスに関心を示さくなり、油断中であるから悠々と戦略を練り、行進をしているのである。
期日:令和5年6月18日(日)
会場:上野精養軒 桜の間
6月18日に開催致しました「分水町出身者の集い」は
お蔭様で六十余名を超える盛大な総会になりました
故郷を同じくする者同士が和気あいあい、笑顔で楽しく語り合うひと時を共有できましたことを役員・会員一同感謝しております。「故郷に誇りと感謝の心を持ち、志を同じくする人の和と輪を広げよう」をモットーに益々の充実と発展を目指す所存でございます
尚、来年は創立30周年を迎え、東京分水会は地元団体などと一体となって、壮大な企画を練り実現に向けて邁進中であります
今後ともよろしくお願い申し上げます
東京分水会
会長
大島 芳昭
◆◆◆今大会アーカイブ◆◆◆
第29回通常総会の一部抜粋
記念講演
講師:渡辺 憲様(燕市分水良寛史料館・前館長)
演題:「良寛の父 以南」(父の日にぴったりの企画となりました)
12:20 懇親会
さくら基金贈呈式
還暦・成人祝い,功労賞表彰
演歌歌謡ショー
郷里・横田出身の演歌歌手 山咲まさる歌謡ステージ
山咲さんは燕市や商工会、農業団体などが主催する各種行事に多数出演中
お楽しみ抽選会 他
おいらんさんも羨ましがったとか
豪華景品多数の宴となりました
15:30 定刻にて閉会
(本稿は寺泊会宛に届いた書状、一部抜粋脚色して制作したものです。)
✳️ ✳️ ✳️
分水会様は文化芸術政界にわたり、寺泊会では類を見ない著名人が
多数おられ尊敬の念を常に抱いている次第である(下記お名前をクリック)
1.分水町・町長から市長へ転身・小林清
2.医学分野から政治家へ転身・高桑栄松
3.将棋名人九段経て書家に精進・原田泰風
4.モダンうるしアートの第一人者・棚橋かう
つづく・・
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東京出雲崎会の巻 |
ありし日の内藤久吉さんを偲ぶ |
◆東京出雲崎会大盛況◆
■東京出雲崎会は名称が現組織になる前は昭和16年の発足にさかのぼる とのことで確かに歴史ある会である。
同町のお寺で発起の話が持ち上がったそうで何やら東京寺泊会と共通 する。
更に東京出雲崎会としての発足が昭和32年との事で東京寺泊会と同じである。
いわば東京寺泊会とは 同期の桜である。
東京出雲崎会とは(←HP下線部クリック)毎年錦糸町駅近くのホテルで開催されるふるさと会の事であり構成する分科会・サークルはゴマンとあり、HPのリンクを全て読むには1日では終わらないだろう。それ程町内の上下左右意思疎通が密で仲間意識の強烈な、町気風のようだ。良寛もニンマリか。
参加者は良くぞこんなに都心にお集まり下さったなあと感心する常時200人を超える参加者で溢れる、大ふるさと会だ
寺泊会の我々が参加したのはスカイツリーの完成前で新しい話ではないが、昨日見たことのように造り直し・コロナ解禁祝として、出雲崎ファン様用に当時の様子を再編集したものである。
従ってタイムラグでの矛盾は、久吉さん偲ぶ号としての許容範囲で読んでもらうしかない
寺泊町と出雲崎町は海沿いにある良寛の散歩道、日本海続きの隣町でありながら長い間 互いの会同士での交流がなかった。
たまに釣りに行くと同じ魚が釣れるので、沿岸のサカナはこの浅い海洋を共有しているのだが、両会の歴史を辿ってもヒトの陸上懇親には疎かったかも知れない
■会の進行は最初から最後まで、ふるさと出雲崎強調スタイルを崩すことなく、終始皆が、あたしは、どこの家の生まれであるかを前置きしてのスピーチしていたのが印象的であった。壇上には出雲崎町の漁港を仕事場とする漁船の大漁旗をなびかせ見事である。
参加年齢層は寺泊会のように古老だけでなく、おけさを唄って盛り上げてくれたのは民謡がうまい、若いお嬢さんたちで羨ましい限りだ。
地元が唄う真の出雲崎おけさここに有り。
宴会場で聴こえる「出雲崎おけさ」で明け暮れた雰囲気の会場は賑やかなことしきりである 。
フィナーレはおけさの総踊りで、久吉さんが先頭になって場内一杯に、参加者達全員が輪を作って興じるシーンは圧巻であった
今世の良寛伝道師こと第13代内藤久吉会長自らも、腰を入れて叩く住吉太鼓の熱演に場内から歓声が上がる。
じっと聞いていると鼓のバチ当たりが的を得ているのか柔らかく叩いているようで強力に伝播してその音快く、いい味を醸し出していた。
欅製か、硬い胴に叩きつけるバチの音はクラシックコンサートの如くで瞬時の余韻に浸ってしまう。
寺泊会から見るとこの人は、実にふるさと出雲崎に溶けておられるなあと感心してしまう。出雲崎弁の達人とは良寛研究会でしか聞けなかったが会員皆に敬慕されていた御姿は、良寛さんの再来にも映ったのであった。
宴席からの帰路、錦糸町駅からは、浅草そばで建設中の新名所・スカイツリーが見えた
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旧道に露天商も堂々の出店
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また来た大型国民連休で最初に訪れたい観光地・寺泊の話
◆
平成は何年に令和になったのかと問われ、即答できるのは少数者だと思うが、更に何月何日に?と言われると日本人でも答えに時間を要す。
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時代は令和になり、日本で最も早い5月度の祭礼こそ寺泊町だったと,春季の合言葉のように意識しているのは寺泊会の会員だけのようである。
4月に入って何人か集まると、挨拶の後には話題が必ずこのあたりから始って同意し合う。
その後パンデミックで日本中に長いブランクが来るとはだれも想像していなかったが。
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時を経て幸にも令和5年5月3日には大祭を開催することが出来た。
従って、令和5年5月8日施行の感染症法が改正される直前まで
寺泊では大祭の開催に時間がかかった事になる。
旧北國街道往来時のなごりとして残る、十万石の大名行列に圧倒される寺泊の5月大祭は確かに歴史的価値がある。
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だが全国的知名度はまだ高くなく、約8キロの道を平安装束を纏って練り歩く5月15日の加茂祭(京都)と異なり、100万人の観光客に見守られながら荘厳に、などという訳にはいかない。一方同時期令和5年に、4年ぶりで開催している博多どんたくの5月港まつりでの200万人には叶わないが、あれは別格。訪問客の統計は観光協会さんが管理する問題だ。
寺泊町を京都の祭りの真似して8キロ歩こうとしたら、角田山に向かってトンネルでも掘らない限り、弥彦山に突き当たってしまい、見物客が斜めになるから不可能だろう。
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■寺泊大祭が日本で令和
最初の月の大祭根拠解析
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5月開催の祭なら日本国内で多数存在する。
そこで5月1日に改元され、令和時代元年最初の5月が日本で最も早い月となるから、寺泊大祭が該当する。これが論文的な結論だ。
老若男女問わず祭好きは日本にゴマンといる
高名な飛騨の大祭・京都葵祭・高岡御車山祭、なども新元号令和初回月5月開催であるから、同じ仲間だが
寺泊白山媛神社の大祭こそが、令和いちばん最初の大祭になる、とやっと寺泊会古老たちの意見を着地させた。
(どうでもいい話であるが、寺泊会宴席での郷里の話題とは、これ以上でも以下でもない。何でもいいからふるさとを1番にしたいらしい古老集団でもある)
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◆東京のど真ん中で、日本海寺泊港から直送されたばかりの
魚だよ〜と寺泊港を宣伝文句にしている寺泊会役員さんたち
イチオシの居酒屋さんが品川区にデンと構えている。
かなり大きな店内だがセンターに位置する産地銘板札は貴重である。今朝セリを済ませたばかりの寺泊漁港さんもニンマリか。
この銘板眺めながら、八海山か寺泊杜氏が精魂込めた
銘酒・景虎あたりをグラスで飲む瞬間が至福の時である
◆鰯(イワシ)祭りが大名行列へ
(さばき切れない程イワシが大量に獲れた)
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◆寺泊会会員の気が急く
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春5月は寺泊の伝統行事大祭の月である。
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祭の前夜は興奮し眠れなかったもんだ
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大祭の話題は各人様々寺泊会で
参加者達が興奮気味に懐古する
(本稿の写真は地域創生事業実行委員会のPR用CDを加工掲載)
俺たちが頭になって、「カグラをかついで町内を走りぬいた時代が懐かしい」寺泊会の宴席で
こんな話題が、新元号1年5月26日(日)東京・芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交っていた。
だが令和2年、3年、4年、5年と連続4年も大会実行委員たちは、招待状出したり中止案内を送付したりの現実が待っていた
1区から6区一歩踏み込むと環境変化し雰囲気異なる
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◆寺泊は町役場(当時)が決めた、地域セグメントとして1〜6町内に分割されており、1区サイドがカミで6区側がシモと呼ばれている
寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている、60年前の写真を寺泊会の会員たちが保存していた。
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◆撮影時期不詳と思われる昭和X年5月の3区・上田町組 存命されていたら全員150歳以上
■ひと昔前は、どこの組の衆のカグラかを示すため、走り手も、組の名前をつけたタスキをかけていたという。3区なら「上田町組」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。
▼漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭は毎年5月に開催される。夜宮となる2日は中心街では露店の準備もでき、既に脳は祭の小興奮状態となる。
■この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている。学校の教材に最適である。話を聞くとこのCDは寺泊在住者でも持っていないそうである。ましてや公務員先生では興奮度が低いかも。
■東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。
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◆その名残りでこの祭礼は別名「イワシ祭り」とも呼ばれているが、関東で毎年2月に行われる九十九里浜いわし祭とは様相が異なり、水揚げ直後のイワシは登場しない。寺泊のイワシ祭は、あくまでも十万石大名行列の装束にこだわる。殿様の露払い役はカグラである。
中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、新元号初年は6区が神楽当番である。新元号になって100年続いても逃げられない。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。
2023年は令和5年だが、ジェンダーギャップが取り沙汰される中、男女雇用機会均等法の影響でか男衆に混じって女子衆も担ぎ手として活躍された。結構な事である。LGPT関連法案も現在国会審議案件である。神社総代を説得してカグラ廻りをスポーツ行事に変革したらどうか
今年成人式を迎えたお嬢さんたちも多数参加してくれるのではと期待す。男性のみが一家収入の要となって社会の舵取りだった時代は終焉した。
30年後を待つので無く来年の大祭神楽の御姿が楽しみである。
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◆カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)ことで、病は遠のき、曲がった腰はピンとし、おみくじの大吉宣言風で万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。
■寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらい子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、本当に心配なのは、こどもカグラを担ぐお子たちの減少である。
▲この貴重な写真は約70年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。
■かつてこの写真をきっかけに、テレビ局呼んで「70年後に集まった昭和の少年たち」と題して、売り込みイベントやろうと話があった
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しかしながら皆さんは、古希を過ぎて、暇かと思ったら結構現役で何らかの仕事しているから多忙とかでおじゃんになった。もう生涯このイベントの機会はないであろう。
写真前列の連中は2014年に古希祝いの集いを開催。会場、宿泊は同期が経営するきんぱちの湯であったと聞く。
だが開催に積極的なのは、どの会も女性陣が積極的である。
所で、1区〜6区の中間に位置する3区は、法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延びている。
■3区と4区の境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を小学校高学年なら「白い6尺ふんどし」か、低学年は「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。
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◆ピーピーキャーキャーと騒々しかっただろう。塀越しの家は茶の間つづきの庭になっていた。
だが4区の川隣に在住されていた、人のいい金内キセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。
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◆日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。
地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。
■この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。
一方、カアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。
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◆海までの砂浜部分は今より短かったが、自然の川筋が砂浜に造られていたのである。
◆世間同様寺泊町にもこどもたちがワンサカいた。男児なら「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。こどもの遊び遺産としての価値がある。令和5年4月に寺泊小学校入学者、合計21名では夢のような話であろう
遊んで手にキズをつけたら殺菌効果剤「赤チン」を塗り、虫に刺されたら「アンモニア」を塗って凌ぐ町の原風景こそ、令和時代から遡れば大いなる、時代遺産のオンパレードとなる。この遊び方の比重は、同じ寺泊でも1区から6区によって異なるから研究したらきりがない。じゃんけんのやり方さえ区が違うと掛け声まで異なるから、町の品格は住民に依存する。
(本稿は史実を優先のため、長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を意図的に使用。)
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■寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
▼
写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)
そこでネットで「寺泊」「魚のアメ横」と入力しどれくらい寺泊会のふるさとが注目されているか、その実体を、今昔を熟知している寺泊会の会員が探ったのが本稿である。
いざ「東京寺泊会」のふるさと「長岡市にある寺泊」へ急げ
:
まずは本家寺泊観光協会が公開しているYoutubeの表紙
寺泊へ行けば何か有る
★YouTube制作、入門編には魚のアメ横がピッタリと素材大発見
動画収益化達成のためチャンネル登録1000人を達成すれば収入になる。
(但し4000時間/12か月間、が収益(副業)分岐の最低条件だ)
と言ってもこれは、寺泊会の話ではなく、ISOアセスメントに詳しい会員が、寺泊に興味がある世間様の実情を検証した客観的証拠である。最近確認した魚のアメ横を題材にした表紙でのチャンネル登録では17万回/3年が最高であった。
だが別のテーマで制作しているユーチューバーさんの話では、ご本人の登録数が150万弱で収益は、659万円程稼いだそうなのでホンマカイナと驚く。ちなみに寺泊会だよりのブログでは、最高検索数は約70万であった。但し毎日夜中の2時であろうが4時になっても、24時間中、閲覧者は途絶える事はないから驚きである。読者さんはいつ睡眠をとっているのか不思議だ。
ドローン画像(2023/01/14:テレ朝TV番組より)
…
寺泊には、2、3回しか来た事はないという
チャンネル登録が命だが
YouTuberさん達の鋭い見出しとサブタイトル
「長岡市寺泊」のネット上の評判、先入観とその撮られ方
最近気になる動画表紙タイトル&テキスト一挙公開。
結論は、僅か2、3年のうちに寺泊町は随分と世間に
ユーチューブの中で頻繁に名前を使われ出したものだと感心するしかない。
これが魚のアメ横商店街オーナーさん達の意図したものなら、DX戦略は成功した事になる。
地元町民より寺泊に興味を抱く世間の衆
地元も勉強になり改善ヒントにも貢献中
コロナ禍の今、寺泊町がテレビを超え、俄を含む若いユーチューバーさんたちが連日のように多数訪れ、内容は兎も角なんらかの発信をしてくれているので、寺泊会の古老たちを喜ばせている。
仮にカタールで仕事をしている長期出張者がいた場合に、日本人がスポーツで活躍し現地のテレビで話題になった時のような状態かも知れない。
寺泊出身者は、ネット上に寺泊の文字が踊っているだけで嬉しくなる。当節、会の古老(定義は最下段に掲載)たちは会食の機会が激減し、時間が有りすぎ、あれだけ側に来た孫たちだったが、成長するとコミュニティの中心は友達最優先となり、簡単には相手にしてくれない族になり、結局は一人時間探しのツールとして、ネット依存度が増えているらしい。。
。YouTubeのタイトルで見る
:
👀 東京寺泊会のふるさと
タイトルで楽しむYouTube
◆ユーチューブにアップして目につく優れた寺泊関連動画は「いいね登録5万超」も多いと聞く。
さぞかし報酬も、笑顔で受け取っておられるに違いない。
:歓迎の看板まで来たら間もなく魚のアメに到着です
:寺泊の入り口で巨大看板がお出迎え。遠路到着のドライバーさんは、ワクワクするのであろう
:
昨今「テレビより人気の、ユーチューブ」開けば誰でも寺泊に当たるの風評を検証した。
:
(このページに掲載した相撲場面を除く、すべてのカラー写真は、公開済みのユーチューブから切り抜いたものである.
本物の動画を見たい場合は、表紙タイトルを入力すると、容易に視聴が可能である。各編とも寺泊への探究熱心さに驚嘆するであろう)
ネット初心者達も寺泊方面へ車の進路を向けて疾走中
★寺泊のフンドシ通り浜へちょっと来て、ほんの一握りの狭域パートを撮してはネットにアップして、寺泊を宣伝してくれているユーチューバーで溢れている事をご存知だろうか。有名な市場通りでご商売している、現代の商家とそこで働くスタッフさんは全くの無防備で、どのような愚問質問にも腹立てることなく、心易く対応してくれて、ユーチューバーさんの検索数進展に貢献し、彼らのお小遣い稼ぎにも役立っている。
photo by T-Ogawa
★あの山はなんと言うんですかと問われれば、笑顔で,あれは弥彦山だよと教えてくれるし、海の向こうの、はるかに見えるあそこはどこですかと言われたら、仕事の手を休めてでも、あれが佐渡ケ島だよと答えたりで、寺泊町初心者は何を聞きだすか判らないから対応に忙しい。
ましてや、東京に寺泊会があるのを知っている若者達は、皆無に違いない。コロナ明けの大会には同郷・長岡出身のDJ松永のトークイベントを企画しているというのに。クリーピーナッツは会員さんには馴染みなくとも、会の、のびしろは十分である。
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★さかな市場のみならず、釣りもでき、水族館もある寺泊町への来訪者は、365日季節を問わずいつ来ても良く、通年で2千万人はやがて見込めるであろう。水中花火さえ100万も来ていないのに、どうかと思うが、夢はでっかい方がいい。
これらはつりの好きな連中が制作したのであろう
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寺泊港沖で獲れた魚は都会の酒場でも大人気である
(品川区の割烹酒場にて)
◆飽きさせない寺泊の奥深いカメラワークを
在住の寺泊人も多く見ているだけにユーチューバー・腕の見せ所であろう。
たしかに最近の動画はいつ開いても「寺泊」なる名詞が多い
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ふんどし抄::寺泊へのドライブは上下ともふんどしの一本路であるからドライブは楽なはずだ
寺泊は古くからフンドシ町とよばれており、魚の市場通りも広大な浜辺から、改良を重ね、旧道同様フンドシを維持して道路を造成した。大相撲が始まると、自動的にふるさとの道路を思い出す程、ふんどしが懐かしい。
力士のそれのように、長い一本で中心を守っているので、きっちり締めておけば安心だ。
(写真は大相撲テレビ画面より)
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◆ネット映えの人気商材はやはりカニさんに落ち着く。
▲これはゆでたての本物。
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▼下は寺泊水族館で撮ったカニさん
こちらはラーメンどんぶりの上に登場するカニラーメン
寺泊と言えばカニで始まりカニで終わるかも知れない。
これに目を付けた実業家・キンパチの山田社長(現会長)さんは、市場通りのセンターにでっかくカニ様を飾っており、
年に一度は古刹のご住職をお迎えし、丁寧なカニ供養をし感謝儀式を怠らない商売人で、寺泊観光協会の会長として時折テレビに登場しておられる。言うまでもなく東京寺泊会の懇親交流会ではお馴染みの顔だ。
律儀なお方で開催の度に毎回上京し欠席された事が無い
◆カニに次いで人気なんです。
それが寺泊の伝統として、生活歳時記に登録したい「ハマヤキ」だ。
浜焼きは、ふんどし町旧道の、1区から6区に点在していた魚屋店内の一角で焼いていた名物風景だった。
魚のアメ横商店街が完成する迄は、ここで買うしかない。
町の人気商品として自分の家で焼くより手間が省け味が良く、急な来訪者のおもてなしとして当たり前のようにこの食材を買い求めたり、子供のおやつとして30センチもある、アナゴのくし焼きを一本与えて喜ばせていた。
どの鮮魚店も、古民家のいろりを大型にしたような畳一枚程度の一角を作り、堅炭で焼くスタイルでハマヤキを売っていた。但しわざわざここへ来て1本2本を買いに来る町外のヒトは少なく、所謂地元民だけが楽しむことのできる「黄金の味」であった。
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この伝統を広く世間にも、との想いでビジネスモデルを拡大したのが魚のアメ横にある「きんぱち」の寺泊ハマ焼きセンターであった。
今も変わりない寺泊の汐風漂うテーブルで味わう浜焼きの味を、体験したユーチューブ制作経験者や観光客などが、口コミの源を創り、拡散させ、BCPとして見事にその伝統を継承してくれているのである。
焼き立てのイカを串刺しのまま、ほおばったら理屈抜きで、浜焼きにハマってしまうであろう。
だが、炎天下でほおばる、アナゴの竹竿くし焼きも美味いぞ、と古老たちは自信ありげだ。
2023/01/14(テレ朝TV番組より)
いつ見てもマナーの良い、寺泊訪問群に感激
◆優しく礼儀正しい心を持って制作している寺泊の虜になったユーチューバーさん達は取材後の感謝を忘れない
こんな事にも寺泊会の古老たちはその気持ちを察し、ただでさえ涙もろい日常なのに、作品に涙しながら有難く感謝しつつ次の作品の登場を楽しみにしているのであった。機会があれば長岡市と寺泊会共催で作品コンテストを開催しても良いかも。最優秀賞は勿論魚のアメ横海産物詰め合わせだろう。彼らは、撮影には事前にネット公開する事を告げ、店内撮影時には許可を求め、商品の購入も必ずされるらしい。
今や立派なメディアに成長したYouTubeである。DX戦略としても活用し現状のメディア開拓に成功している。
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★懐かしい番屋小屋もあった、
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昭和20年代、寺泊中央海岸の砂丘
◆寺泊会の古老たちが遊んだ中央海岸の浜は変身し魚のアメ横と化し現代のYouTube族格好の撮影映えする地となっている
(撮影;1950年頃だそうだが詳細不詳)しかしながらもっと昔、約200年前だったらここは海だった。北前船の時代には上等な寄港地で、その歴史は古く研究者達を喜ばせている。
▼下の写真は、寺泊町中央海岸砂浜時代(約60年前)とほぼ同じ角度で撮影した中央海岸浜の変貌姿。全く面影はない
★ ★
寺泊会古老の定義
★本稿で使用している寺泊会の古老たちとは。➡
右のお写真のように、
80代でも明晰な意見を言える
一群の猛者集団とする(寺泊会にはまだ約五名)。
(だが5年後の寺泊会には、その数6倍になる恐怖)
(只今、寺泊出身者以外の古老族意見大歓迎)
下記コメント欄からご参加ください
東京寺泊会の宣伝
幅広い年齢層に合わせて楽しむことが目的で、
お偉いさんのご挨拶を最小限に抑え、
ジャズ演奏・おけさ体操・エクササイズから
壇上でのフリートーク歓迎のステージを企画しており、
毎年4月に港区のホテルで開催数60回を超えた。
年会費無料。案内書発送数150超なるも、返信率はこの半数程度。
だが角上さん特選海鮮パックのお土産参加者全員御持ち帰り方式が
毎回高評価、イイねで溢れ、当日の参加者さん達から喜ばれている。
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どなた様でも参加ご自由なるも、寺泊会はリスクヘッジ最優先主義。コロナ禍完全回避宣言が条件で多少でも感染懸念があるシーズンは、開催を中止することを信条としているそうだから、御長老も安心して出席できるのだろう。だが残念ながら2023年度大会は、中止とさせて頂いた。
つづく
]]>✳自粛階層暇人向け世相閑話
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マスク着用個人判断時代到来
令和のマスク騒動やぶ睨み
マスクなくして現代語れず
:
😷 😷 😷
■日本では常識となった日常生活でのマスク着用。中止となった郷人会多数あるが、開催したとしても,互いにマスク姿では、
懇親会どころではないであろう。
宴席は互いの顔を突き合わせながら、盃を交わせば興も乗ってくるが、マスクを付けていたのでは興ざめとなる。
加えるに、3蜜回避でソ-シアルデスタンス保持となると、交わす言葉も伝わらない。
◆マスクの着用が今日ほど問題になった年も珍しい。それもこれも、コロナ対策でマスクの需要が世に逼迫し、奪い合おうにもモノがなかったから一般人はジリジリと店頭に出るのを待つしかなかった。やがて出現した、国のトップご推奨の第一陣、布マスク。一億総人口に行き渡りさぞかし、受け取り手は、無償だけに嬉々としたかと思えばそうでもないらしい。
🔹顧客評価を意識する商社やメーカーと異なり、新規商品開発に最低限必要な、マーケットに疎い面々の発案らしく、市場調査するマネジメントすることなく、どうよとばかりに進めてしまった。
助言する者もなしの状態に見えて、ネットやメデアで非難し、いくら不評判を訴えても.トップには伝わらなかったのであろう。
◆ 例のマスク再配布報道に!? 😷
◆今度はどなたかが多少の市場顧客調査したらしく、使用者限定で8000万枚が配布されるようだが、受取予定側からは、有難く頂戴致しますなどと、お世辞まがいでも用意しておかないと、感謝の声が聞こえないのではと予測報道されている。
(写真は6/29付け東京新聞より)
:
◆そういえばトップ推奨の特製布マスクのはずだが、国会答弁などで著名な議員でも、A大臣もB大臣もトップ推奨と同一の製品を着用している議員は野党を含んでも見たことが無いのに、誰ひとりとて異を唱えない不思議な議事堂風景である。
身近な人さえ本音を言えない程度の出来栄え品だからこそ、顧客=国民・介護、保育施設関係者さんには最適品を使ってほしいものである。
🔷一方、報道に携わるキャスターも然りで、彼らのそのマスクは何やら局で購入した市販品らしく、トップ推奨品と違い、即ち大きさデザインともに問題ない。まさか著名なライターさんのように国からの配布マスクは我が家には、届かなかったのでとは言うまい。
:
◆ならばと都知事さんの会見を見ながら「マスクだけ」をジックリ検証。
それはそれは知事さん愛用特製マスクは色彩、模様、デザイン性共にセンス良くして完成度高く出来栄えは別世界。トップ推奨のマスクの比ではない。
これを見て、「知事、さすが国で支給されたモノと違いますねえ。」などと発する者は都庁職員16万人の内、誰一人とていないようである。
🔶女性知事さんはお気に入りモノしか装着されないらしく、これは公費で購入したものでなく、無償提供されたデザインマスクと発表していたらしいが、更に観察すると、2日たりとも同一品は使用していない。
⏬(それ長官ごらんなさい。洗って再利用されていないでしょう。)
全て一回使ったら、洗って再利用することなく廃棄されているに違いない
また、日によっては何回も会見されるが、御婦人向けマスクモデルのファッションシーンにも見え、これなら格好の、ヒト、モノの宣伝にもなり、人気商材としても、市場に売り出せば、かなりの利益を生む程の商品価値がある。
願わくば都庁直販で、できる事なら大手広告代理店経由になさらぬ事。
かく言う寺泊会の役員さん達も、知事さんには敵わないが、皆さん個性豊かな市販品を購入して、それを着用されていた
◆希少価値のマスク姿で見せた珍事
:
◆日本中でマスクがなかなか手に入らなかった頃の騒動初期段階では、やっと手に入れたマスクも粗悪品がかなりあった。ある会合での出来事である
寺泊会の役員さんは女性が多いだけに賑やかだが、当日は飲食も無いから、皆さんマスク姿での会話となった。おとなしい。いつも元気な一人が発言の最中に、(彼女はきっと息苦しかったのだろう)呼吸しようとマスクをつまみ前に引っ張った。
力が強かったようで、左耳の紐がズルっと簡単にもげて(抜けて)しまったから、とてもこっけいな姿になり、皆で笑うしかなかった。よく見ると、紐の固定に穴がなく簡単に切れそうな、接着剤で付けただけになっていた。
・
▼トップ推奨品マスクの方が良かったかしらと、後悔することしきりであった。
この声が届けば、トップさんも大喜びであろうに。
国内でマスク入手困難当時、粗悪品も多数横行していた
:
●マスクだけでこれだけ話題があれば、作り手もニヤリか
商売が売り手市場になると、品質は二の次になってしまい、妥当性確認が未熟になるのが常である。
-
作り手にクレーム付けるほどの購入金額でないから、諦めるしかない令和の日本人となる。
…
◆太鼓判の布マスク、洗って使えると
お勧めだが、やって判るその苦労
:
◆さて日本国推奨の布マスクは、洗って使える便利な逸品である(参考HP)などと、長官=スポークスマンはいつものように国旗に一礼してから胸を張って会見するが、多分ご本人はトップ推奨の、逸品愛用者さんには見えない。
そして想像するに、布マスクは洗えば何回も使えますと主張しても、ご自分では、このマスクを洗った経験は一度もないであろう。
下衆の我々が考えていたように、洗濯機に放り込み肌着などと一緒に洗えば簡単なものよ、程度にしか思っていないのではないだろうか、と思えてならない。
◆記者たる質問者も然りでマスクなる、ウイルス付着可能性商材を洗う作業の面倒くささは、女性も男性陣でも考えられない位厄介なワーキングとなる。
ましてや衣類と一緒洗いでは、平和な家庭内クレームの種となりかねない。
2月頃からテレビに時折顔を出す、某感染評論家風さんが、コロナ菌感染可能性布マスは使い捨ての手段しかあり得ないのだと、庶民が知識不足だった当初から世論に強調すれば、以降の作業者に対し手間が省け、大変な人助けになったのに残念であるが、今や時すでに遅しである。
🟢マスクの需要は永遠に続く。問題はその品質と見た目と装着感
🔷マスクたるもの、洗って使える事は誰でも知ってるが、専用容器、洗剤液、手洗い揉み、その上1枚のマスクが終わる迄次のマスクを一緒に洗えないなどなど着手する迄の段取りも複雑である。施設に介護対象者さん30人おられたら、1枚のマスク洗いに最低5分は要すると見込んでも、30枚合計2時間以上も同一作業が必要となる。
多忙な医療-介護-保育現場で、時間が足りない諸作業従事者さん達の足手まといになる事まで理解されない供給指揮管理者の情けなさが目立つ令和2年のマスク騒動点描であった。防護服同様の扱いが国の最善策となるでしょう。
🟣 🟣
😷
🔶せっかくの話題作りに貢献してくれた令和のマスク騒動も、ある日トップが「別のマスク」着用となり一件落着。
ほら見なさい。やっぱりマーケティング戦略は必要でしょう。それにしてもさぞかし、我慢の限界だったのではと案じるばかりである。さて、余った8千万枚は誰の手に行くのであろうか。折角の必要性を長官が唱えたのだから、明日にでも躊躇なく無償配布すれば良いかも。
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✳ やっぱり凄い偉人の言葉ビジネス編2首
ここで気になる内外著名人の格言を振り返りながら、一連の布マスク配布騒動風刺抄をお開きにしましょう。
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🟩どんなマーケティングでも 「駄作をヒット」させることはできない= スティーブ・ジョブズ
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🟦大衆は作家ではなく 批評家なのである= 本田宗一郎(長い格言の一部より)
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🏮これで居酒屋談義のネタが増えたのはいいが、3蜜制限発令中につきそのチャンス少なし、さりとてzoom 使ってリモート会議する程の話題でもなしの一節でしかない。
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✳2020/08/28 のショック
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あれこれとマスク騒動の根源となった日本国トップが、突然の退任表明を声にしたのは28日の夕方5時、だが正午過ぎには日本中の話題になっていた。誰がリークしたか。これでマスクの政治的な話題が終息。統一性のない個性尊重マスクして政治家達は次は後釜に俺がなろうと、。それどころでない。やがて巷にはマスクが30枚、50枚と入ったボックス入りの商品として溢れて来るのであった。
😷 😷
★2022年度・マスクの顚末
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😷😷・あなたたちは捨てられるの
・
★そしてSDGs(NO12)とカーボンニュートラルはどうする。
ちなみにNo 12=作る責任使う責任が
国連目標となっているが果たして如何。
▼多分2030年までに資源の持続可能な管理と
効率的な利用を達成せよとの提唱に適合させたに違いない
(2021/12/24東京新聞より)
アベノマスク廃棄処分直前、国民に入手希望者を募って当選したアベノマスク。この半年前、全国民に公平配布された眼帯のように、ペラッとしたマスクと異なり、立体構造も有るとの事で、寺泊会も申し込んだ
下の写真は、廃棄処分報道直前に募集し当選した、ごく少数の国民しか手に入れていない逸品となった。
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● ● ●
◆6千万円廃棄広報にモノ言う寺泊会・古老達の意見
寺泊会に顔を出す連中の前職様々である。
年とればクリスマスでも暇だろうと、品川区にある駅近で、昼食(おそいランチ)でもと声を掛け、寺泊港からの新鮮な魚の刺身を提供する、寺泊会馴染みの居酒屋に8人テーブルを予約したが5人来たので、互いの席を離しながらマスク廃棄処分料金などの談議に興じた。気が散るがマスクの頻繁着脱、消毒、3蜜回避の状態を守りながら世間様の誰にも文句を言わせない状態で、経験論からの言葉が夕方まで弾んだが、1月下旬現在、東京の感染者9000人超えでは、2022年4月の寺泊会67周年記念大会も3年連続して中止せざるを得ないなあと、残念な様子だった。
★主な出席者
(1) 80年代に潤っていた事業に失敗し、大きな負債抱えてしまったが、返済戦略に成功し今では威勢良い経営者(70代半ば)。
(2) 20年前までは著名な大学・独立法人研究所などに、管庁管轄の高額輸入計測機器を納入していた商社にいた者。(70代後半)
(3) 行政・公共機関に物品を納める、卸売会社に勤めていた真面目なサラリーマン(60代後半)など。
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◆全員の経験に共通点があった。
即ち全員がモノの仕入れに携わり、金額に関わらず商売は「見積金額」とその根拠を最も重視する手法だった。
仮に6千万が廃棄料金を国家予算から支払うのであれば、先ずは業者の見積り公開すべきと主張している。
金額の出所が全く判らず、交渉内容を誰も知らないので、廃棄費用2〜4千万以下の請負業者を探せば必ず現れるだろう、と息巻く始末。
人間己の懐が痛まない場合、多分業者のいい値で算出した金額かも知れないので、これ以下で扱う業者は多数ある筈だから、たぶんコンサル会社経由で商社も絡んでいるのに間違いなしなどと、ご自分たちの経験上の言葉が飛び出すから信憑性がある。
・
◆ここはヒトの意見を聞くのが上手な、国のトップを探し、任せるしかないであろう。果して上級職連中が公開するか、まさか今はやりの、黒塗りの紙を出しは、しまいて。
◆廃棄前の個人申出受付中(関連HPリンク中)
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2022年1月28日(金)は、個人・団体などからの配布申し込み最終日である。
ラジオ界で著名なライターの如く、令和4年1月現在になっても、未着な個人もいるらしいが
念のため、厚労省の配布案合ページを覗いてみたら、マスクの形式には2種類があった
第一希望
★希望枚数記入して申し込む(平型マスク)
第2希望 寺泊会はこちらに当選(100枚入手)
★希望枚数記入して申し込む(立体型マスク)
100枚単位で指定して申し込むようになっており、立体型とは見た事なく当初の配布品には国民への形式の指定はなかったから
何か工夫して、より良き製品にでも改良したのかも知れないと申し込んだ者も多い筈である。寺泊会は見事当選した。
評論に独特な味を持ち、毎週TBS金曜夜10時の顔として有名な、出版社あがりのライターさんも、ここまでは気が付かないかも知らない。
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★そう言えば、最近は国会答弁をなさる大臣さん達は、ほとんど立体型を着用しており、果たして同一品が国税の配送費負担で手元に届けられるのではと期待が持てる。これなら話す際に鼻のあたりがペコペコしなく改良マスクの革命品やも。
自分はただ未到着だと言っただけで、着用したいとは言った覚えがないと公言していた、気鋭のライターさんも、周囲に促され付けて見たところ、すっかり気に入り、仕事仲間の国会担当記者さんにも分けてあげれば、彼もまた大喜びするに違いない。
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結果オーライの巻
久し振りにマスク配布提唱者氏が嬉々としてメディアに登場。
某ラジオ番組で、金曜夜10時だけ出演される名物ライターさんの、マスク・エピソードと「締め切りダメ押しの一言」が利いたか、全国からの申し込みが殺到。
在庫処分枚数、約7千万枚に対し2億8千万枚のマスク無償配布申し出があり、笑顔でこれならもう少し早くPRしてくれたらとジョークとばすご機嫌顔。マスク問題もかたずき、桜の花見問題もどこかへ消失。
これでは立体型マスクが個人の手に渡ることは諦めねばならないと真面目な庶民は、ため息しかでない。
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令和5年度 東京寺泊会開催中止のご案内 | ||||||
いつも寺泊会をご愛顧賜り厚く御礼申し上げます | ||||||
東京寺泊会は本年度で創立68周年を迎えます | ||||||
さて、例年4月に執り行っております寺泊会の | ||||||
創立記念大会につきまして、不確定な現況を鑑みて | ||||||
役員会において、参加者様の御年齢を考慮しながら | ||||||
開催すべか否かを慎重に検討した結果、宴席の会場では | ||||||
感染症を負うリスクを、どなた様も払拭できなく | ||||||
現時点での開催は時期尚早と考え、今大会中止が | ||||||
最善の選択である事と決定さて頂きました | ||||||
何卒ご容赦の程お願い申し上げます | ||||||
● ● | 令和5年2月吉日 | |||||
止む得ず4年間の連続中止とさせて頂いたところですが | ||||||
来年は「マスク・消毒・仕切り板ナシ」の 密な大会で 多数のご参席を賜りますよう、ご案内申し上げます
東京寺泊会 創立68周年記念大会実行委員会
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エディターズメモ その1 2023/02/11発 東京都による最新の感染者数発表によると、2月以降の感染者数は減少しており、月末までには、一桁になるのではと期待が持てる。 思い起こせば3年前、寺泊会は都内のホテルで予定していた、大会開催で苦い体験をした。その当時感染者が暫時減少して、ここまで減って来れば、間違いなく寺泊会開催だとの意気込みで、通常より多い枚数で案内状を発送し更に、大会プログラムをカラー版で制作発注して、開催当日を嬉々として待ち望んでいた。
だがVirusは生きており瞬間静止をしていたに過ぎなかったから始末が悪い。
この直後、感染者数がV字状態で増加しその数がストップする所か増加が止まらない。 専門家さえここまで予言せずの怪現象。
さて2023年2月初旬、マスクは自己判断で頼むよと、責任者リーダーシップ不在時代に突入するらしいが、この先の事は誰も予測出来ない。
寺泊会実行委員会が3年前に経験した事であるが、開催案内を皆さんに発送直後コロナ禍が想像以上に拡大し、開催は不可能になった。 残念な事にこれまでの作業が無駄になったのである。
会員さんのLINE使用者ゼロでは仕方ないがアナログ方式でしか連絡手段ないから中止案内を作り直し再び会員・来賓宛に発送し、同時に大会プログラムも謝罪しながら制作キャンセル、ホテルには20年を超えるお馴染み顧客として、わがままも通る付き合いで次回大会の会場として、当たり前のように予約していたがここでもキャンセル交渉。
大会実行委員の諸氏は多忙だったに違いない。
これ以来、同様のキャンセル問題が全国で多数浮上していた。結婚式の披露宴や宴会予約などでキャンセル発生が多発し、取消料の金額交渉で解決せず新聞ネタとなっていた。
結局はその年の寺泊会開催を中止し、反省材料だけが残ったのであった。教訓として、コロナ感染者数だけは、明日の数字を誰も知らない。 リーダー格の宣言「コロナ禍でのマスクに始まり、行動決定は全て個人の判断に委ねる」が正解となるのであろうか。
🟢 🟢
それにしても寺泊まちは長岡なのに世間で独立型人気がある 風が吹こうが雪が降ろうが大小の撮影道具愛好家で行き交う 一歩内部に踏み込んで数ある古刹の由緒を知っていたら更にトリコになるであろうに 寺泊とは正真正銘の 「海と魚と歴史のまち」。町を歩けば古刹の隣に古刹ありで、 観光協会も上手くこの写真を➡Youtubeトップに揃えたものと感心せざるを得ない。制作プロモーターのドローン映像と推察する。
エディターズメモ その2 寺泊をモチーフにした➡Youtube満開時代 動画の主役はカニラーメンが撮影初心者に大好評 最近は魚のアメ横動画テクニシャンが遠方から訪れて撮影者で溢れているご時世 寺泊は由緒ある歴史と文化の町。更なる深堀した作品群の公開をお待ちしております。
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(2023/01/01アクアライン入口付近の太平洋から顔を出した初陽、左端が羽田空港)
▼あなたが老けても
脳は出番を待っている!
好奇心こそ脳細胞の栄養剤 たまには同一友人達の誘いを断り勇気ある別行動
:本稿は青文字クリックで関連HPへリンク
◆寺泊出身の脳科学者が明日テレビ出演するそうだ
などのニュースを聞きつけると敏感に反応する寺泊会。
お蔭で会員達の未使用脳が活性化し、副作用として
見たことのない自分たちの脳番地細胞が興奮するので
脳トレの実践活動に役立っている
:本稿は、青文字をクリックすると関連動画へ移動。
Dr.カトー 脳トレセミナーをひっさげ全国で講演中
◆同郷人がメデアに出演するたびに、寺泊会は我がことのように盛り上がる。
会員が熱望した、寺泊会会場での講演会の夢も叶ったし、博士の著作本を教材にしての右脳トレーニングも成功した。
◆都心の一等地、港区白金台にある加藤俊徳博士のオフィスを訪れて、寺泊会での講演要請し、実現してから早や5年が経過。
ご自身のオフィスでは脳の学校も併設されており、脳見本を見せて頂きながらの、個人授業を受ける恩恵に授かった
◆昭和36年に寺泊で出生した先生は、昭和96年の現在も講演会は企画主催者からのリクエストをもとに全国で開催されており、休む暇もない。
調整役の秘書グループさんは、マネジメントに粗相がないよう賢明だった。
「右脳と左脳の使い方入門編」(YouTubeで公開中I
脳の劣化を防ぎ、脳に新しい
血流を注いで頂きました。
■加藤俊徳医学博士
◆脳科学の世界は覗けば覗くほど面白い。この世界を知ると、毎日行き交い、すれ違うヒトを見る目が違ってくる筈だ。最近ビジネス本のコーナーには、「脳を活性化して営業収益を伸ばす法」とか「経営者が取り入れる社員の脳分析」・・等,等が目につく。
一般本コーナーでも「認知症にならない脳活動」、「あなたの脳年齢はいくつ」「長生きするひとの脳」などの本が並んでいる。
脳は誰もが関心があり人類すべてが当事者である。即ちニーズと期待に満ちている。
:
◆寺泊町の東方には、霊峰弥彦の山が鎮座する。
大河津と統合前の寺泊中学校校歌には「東に弥彦、西に佐渡」とある。
その中学校正面は、広い階段になっている。チョーテツこと長岡鉄道の「寺泊新道駅」があったが、これを知る人も少なくなった。
広い階段は、この駅の正面にあった。スクールバスが開通しても、この階段を上って校舎に入る。階段脇には哲学者アリストテレスにも似た、たくましい姿の少年像が40年間も立っている。
◆寺泊中学校に、ただ一人脳みそに興味を抱いていたお坊ちゃんがいた。
階段脇の少年像こそ、のちの脳科学者加藤俊徳博士である、
小学校時代からわんぱくで力持ち、健康優良児だったそうで昭和時代のモデルに選ばれたのだろう。
寺泊会には、越後長岡市の市長もご来臨される予定なので、長岡市の文化財にどうかと推奨してみよう。
◆さて弥彦山麓の平野一体を野積(のづみ)と呼ぶ。塩たき節伝説にある「天香具山命」が越後へ最初に逗留した際に、高度生産技術を教授してくれた地でもある。生産性の高い技術,即ち収益性のある作業を伝授した。
◆これには基礎体力が要求されるが、野積の衆は、後世に相撲取りや立派なアスリートを輩出するほど、昔から筋力に優れており力持ちが多く、オナゴ衆も負けてはいなかった。生まれながらの素晴らしい人種の集団であったから命(ミカド)の教えはすぐに呑み込み実行出来た。
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◆野積衆が剛健である史実は無数にある。
この地では越後銘酒のスター杜氏を何人も輩出したり、安定した稼ぎの有る製塩手法を習得し、生産意欲が高い野積人が生まれた。日常の必須品を生産することで、収入の安定性に繋げていたのである。
◆古代から平成の現世までの歴史を振り返りながら、加藤博士の持論は脳科学を側面に捉えながら、寺泊・野積に生まれ育まれたこと、幼少時代に、80過ぎても漁船を操る強靭な体格の漁師だった祖父のそばに常時いたことが、以降の全人生の活力の源になった、と確信しておられる。
自分がまだ4歳の頃から、体を漁船のヘリに縛り付けて漁を楽しませてくれた思い出を今でも鮮明に覚えているほどだ。最高のフィールドで、特上の経験が、研究心を煽ったようである。
■結論。これ以降の理論、なぜ野積の風土ヒトのパワーを日本人が必要とするか・・・について1年半の歳月をかけて上梓する「日本人が最強の脳を持っている」(幻冬舎版)を脳科学者の立場で説いた単行本並びに電子版が、まもなく全国の書店で紹介される予定だ。再び加藤俊徳博士著によるベストセラー本の登場である。
◆これまでに刊行された主な著書「脳の強化書」(あさ出版)「脳コンディショニング」(かんき出版)「完全脳の創りかた」(李白社)・・など多数が書店に並んでいるが、2016年3月16日発売の日本人のどこが最強の脳かを知ることで、これまで想像できなかった加藤博士の世界を覗く事が出来る筈だ。良寛、山本五十六、田中角栄などには、すべて共通項目があるというが興味ある説である。幻冬舎発行 3月度最新刊 加藤俊徳著「日本人が最強の脳をもっている」で詳述している。
◆平成に入って、日本は世界有数の高齢化社会に直面し、これから老いた人種に生ずる総リスク時代に突入する。
脳機能解明に身を置く脳科学者、加藤俊徳博士が野積生まれ野積育ちの寺泊出身となると、先人のDNAは令和の今に生きていると断言せざるを得ない。ご本人は砲丸投げで県大会優勝、野積在住の寺泊中学校の生徒たちは、野積〜寺泊間を通常はスクールバスで通学する。加藤少年はこれに乗ることなく、一人走って通学するほど筋力が卓越していた。
◆中学校のグランドで陸上の練習中に、脳の機能に興味を持って以来一貫して脳の研究に携わる運命に出会った。体力を支配するのは脳の働きに大きく関係あるのではないかと疑問に思ったのがきっかけとなり、その少年がいつの間にか、海外の学会で発表したり、万人が興味を示す、脳関係の斬新な話題を提供し、メディアで盛んに登場する科学者になっていた。
(このあたりの寺泊会だよりの記述表現は、後になって脚注なしで同氏の紹介文に多数引用されているのが嬉しい)
◆加藤俊徳、小児科医で医学博士。昭和大学大学院卒業後はミネソタ大学(米)放射線科で研究・臨床を重ね帰国後は、慶応義塾大学、東京大学などで研究に従事、脳科学に新分野を取り入れ、自ら「脳の学校」を設立、科学者として実業界にもその成果を生かしておられる。恩恵を受けた実業界のトップは必ず、その素晴らしさを自分の組織に活用しビジネスモデルに採用している。
◆企業経営は、組織に携わる経営資源の資質向上を目指すことに他ならないが判っていても実現は容易でない。稚拙な経営者は社員の理解力・力量能力のなさを根源から分析することなく諦めてしまう。実にもったいない話である。
いくら教育に経営資源を投入しても、ダメ人間の改善には、役に立つ方法を見いだせないでいる現状が多い。
◆ここで登場するのが脳力解析である。言葉で表せば単純であるが、脳みそ120個所に番地をつけて分解し、脳のどの部分が本来の仕事をしているか、いないかを分析。脳細胞は使わないと死滅するが、僅かにある残脳を生かせば、100歳でも劣化するどころか再生することを、博士の臨床研究で今実証されたのである。
◆俗に言う「アタマは一生働かせなさい」である。幸いにも現代は微・巨視的レベルの研究に有効な、フィールドの充実と進展は著しく、ナノ単位の細胞でも鮮明に画像で見れ、脳画像のコンピュータイラスト技術も遥かに進んで来た。
◆支援サイト貢献の恩恵を受け、お茶の間のテレビ番組でも、理研BSI(理化学研究所・脳科学総合研究センター)の博士レベルしか判らなかった画像に溢れており、人体皮下の部分は、動画と画像王国となっている。科学者たちにとっても学会誌の発表だけに名声を焦らなければ、じっくりと研究に専念できる。加藤俊徳少年の時代は、医学部があっても、脳科学研究を専門に扱っている学科はまだ無かった筈で、早々とよくぞここに迄辿りましたねと外部ながらも言いたくなる。
◆さて脳血流中のヘモグロビンの流速状態が、波長の長い赤外放射の利用で、血管に非接触で測定している研究内容がTV番組で紹介されたが、素人万人でも理解できるのは3D動画のお蔭である。脳科学の世界にますます興味を抱いてくる。TV番組はこれに心理学側面を重ね、喜怒哀楽の源はここにあるのだと解説してくれるから馴染みになり判りやすい。理研BSIでは若者にも脳科学に興味を向けようと毎年多くの高校・行政からの訪問見学を受け入れている。寺泊会の会員からも「俺もあと60年位若かったらなあ」と、ため息が聞こえてきそうだ。
その時はこう慰めよう・・その年で脳に興味を持っているあんたがえらい 。
・
◆「おめさんの脳で、使ってないミソが見つかったら、どうしなさるか」は、寺泊会の宴席で、冗談ながらよく飛びかわす言葉であるが、それ以前に「オレは自分のミソを使っているがどうかさえも判らんすけ」、で話は終わってしまう。
医学部教材にも使用されるGEL製脳見本
◆そこで役員会での席上、脳ミソのことならこの前ラジオに出ていた、野積・荒谷の、キュウゾウさんちのあんちゃんを呼んで、もっと詳しく語ってもらったらどうかとのことになり、白金に有る脳の学校でインタビューとなった。今や著書、DVD多数がベストセラーになるほどの有名人となった加藤俊徳博士が、寺泊会創設61周年記念大会で、東京寺泊会特別講演を快諾してくれたのであった。
◆それどころか想像以上の熱烈寺泊ファンで、郷里のためなら何でもやりましょう、と他の会での講演会や客員教授として教えている、母校昭和大学での授業でも必ず寺泊・野積の良さをアピールしています、とデータファイルを見せてくれた。昨年の寺泊会交流大会のゲストさん 角上・柳下社長同様、期待超大である。
認知症が気になる年齢層の多い寺泊会の会員さんの役にたつこと間違いなしであろう。
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●取材協力 脳の学校広報部
★良寛を学ぶ会
各組織散策★
文中で「下線部のついた青文字をクリック」すると関連HPをご覧になれます。
■全国良寛会・東京良寛会・岡山良寛会・・・などなど日本国には登録団体が無数あり、聖僧・良寛は280年経っても、その人気が衰えることがない。東京寺泊会も「良寛に学ぶ会」なる組織の活動を他の越後郷里会と一緒になって支えていた。
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思えば、師の生誕の地、出雲崎は日本海を共有する寺泊の隣町であるし、師の妹も寺泊の廻船問屋をしていた豪商、外山家に嫁いでいた。
備中、現・倉敷市玉島修行敢行後、諸国行脚し、寂れた実家をながめてから真っ先に足を向けた地も、寺泊の中心地から半里離れたはずれにあった寺であった。
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■さて、「良寛に学ぶ会」は、東京糸魚川会、首都圏わしま会、東京出雲崎会、東京分水会、首都圏いわむろ会、はては、佐渡相川会そして東京寺泊会と,かつて良寛が住み、托鉢に歩き、又は、その親族が出生した、など所謂「ゆかりの地」で構成する、合計7つもの会が共催後援する、「良寛哲学勉強会」である。
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■話は10年も前になるが、平和な時代でワクチンに群がることなく5月連休の最終土曜日に、7回目となる講演会を企画した。
会場は、表参道のおもて通りに面する「新潟館・ネスパス」3階ホールの常設会場であった。…
■会場に集まる聴講生は、40代以上が多かった。
■この会の会長は、熱心な良寛ファンで敬慕してやまない立派な企業経営者さんだ。
糸魚川出身の実業家で従業員5000人を携える越後人、多忙な日常に、閑なしと見えるが、責任感強固で勉強会には決して休まない。近年上梓した「志と野心のあいだ」で、氏の生きざまを、切々と述べている。
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■西新宿の高層ビル36階が本社オフィスである。
組織・経営・管理・どの一つが未完でも企業は成長しない。
良寛の眞髄のどこかに、自らの生きざまと、人間のマネジメントに、発見が有るかのようでもある。
✳️創設者の事業展開ヒストリーを読むとさすが、63年間に及ぶ企業経営経験者小林保廣氏こそ、立派な越後人と感心するしかない。
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第7回の開会あいさつをする小林会長。
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■ところで、共催郷人会の一つである、東京分水会の平出会長(当時)も熱心な良寛愛好家である。
会場の進行役には、良寛情報に詳しく、真面目な同氏が欠かせない。さぞかし現役サラリーマン時代は、同僚を裏切ることのない、実直な会社員だったに違いない。ある時はその会社のOB会を引き連れ、寺泊・佐渡と旅行会を先導した。
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■寺泊の宿として「きんぱちの湯」を選んだ。応対した亭主・山田栄三郎(寺泊観光協会・会長)については、平出氏もその人柄に惚れ込んで「社長さんが、わざわざ佐渡汽船の出航まで見送ってくれたんだよ」、とうれしそうに話をしてくれた。寺泊「キンパチ」の亭主は、良寛にも似て、相手の見返りを期待しての行動は一切しない性分だ。
平出氏も、東京分水会の会長を退任して時を経たが、新会長のもとで立派にふるさと会が継承されている。
■その分水会から、2021年度の、同懇親交流会(分水町出身者の集い)の開催中止案内状が寺泊会に届いた。寺泊会からは、永年にわたり、2名が出席しているが、毎年4月の寺泊会、6月の分水会も中止は止むを得ないであろう。
✴その中止が2年連続で続くとは、分水も寺泊も、お釈迦さまも想像だにしてはいなかった。ところが2度ある事は3度あるで、寺泊会は2022年度の67周年記念交流大会を中止した。
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★現代人が良寛を学ぶ楽しみは、知見豊富な識者の講演会参加にある
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▼本日の講師:吉備国際大学講師・小野敏也先生(倉敷からお招き致しました)
倉敷市文化財保護審議会委員の同氏は、同市の観光パンフレット持参で玉島観光をPR.
■演題:
1)玉島のこと
2)越後と玉島
3)良寛の修行
4)良寛をめぐるひとびと
5)岡山県良寛会のこと
特別授業
■玉島の町は元禄時代は海だった
■倉敷が紡績の街となった時代背景
■円通寺僧堂日分行事査定 (修行僧・朝3時起床から、夜9時就寝までの一日)
面白いお話続きで、90分ではとても、足りなかった。
★この他にも勉強会は多数開催していたのである
元分水町・町長「藤田正夫」さんが良寛の会で解明 寺泊会等の小会らの共催として 2011年7月22日(金曜昼どき)参加者数:61人也。 |
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◎第8回;聖僧・良寛勉強会.
■ 藤田正夫先生
■期日;平成23年7月22日開催
講義をレビュー
■90分の集中講義
■経済至上主義の世を切り抜き、自社ビルを建てた越後出身の実業家もいれば、他人に施しをして、何らの見返りのない事を気にする庶民もいる。喧騒な大都会には、良寛の世界を知り、癒しを覚える輩が多い。第8回を数える勉強会には、江戸後期の文化芸術を味わおうと熱心な聴講生が集った。明治神宮の杜から、新潟県の物産館・ネスパス近くに立つ樹木のある、青山通りに飛来して来た、遠慮がちな、セミの声を聞きながらの優雅なスクールとなった。寺泊会からの参加者は、小林副会長(元・小平市議会・議長)ら4名。
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■良寛は「了寛 」とも書かれる事もある、良寛の最期を、貞心尼と二人で看取った、遍澄和尚が描いた良寛の素顔は、こんなお顔をなさっていたらしい。▼
手毬を持っているこの絵は、写真製版されたものであるが、高僧風でとっつきにくい。だが当時は、庶民も豪商も、庄屋も医者も、皆、このお方の才覚・教養プラス力量表現(書)を敬慕した。あなたのためならいつでもスポンサーになるよと、このセオリーで良寛は越後中央部に君座する、名山・弥彦山(634M)の隣に位置する国上山に、居となる庵を、永年無償提供してもらった。
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■最晩年を過ごした国上の山から下りて、島崎(和島・小島谷)の木村家へ居を移す際に、新しいワンルームを、腕のいい「吉」(旧寺泊町)の大工さんに普請してもらいましょうか、と提案したところ、木村さんちで余っている、使い古した庵の方が良く眠れますし、もうこの年らすけ、安心して屁もこけますからと、良寛は、ニコニコしながら新築提案を受け入れない。
■本日の講師、当日新潟から上京された、藤田正夫氏(元・分水町・町長)は、国上にあった草庵生活こそ、良寛芸術が量・質とも円熟を迎えるのに、春夏秋冬最適な環境だったと説く。事実たき火に使った一葉の落ち葉も、寺泊の海から吹きさらす浜風も、句作の肥やしにしたのだろう。
■果たして、当時のスポンサーとは誰であろうか。国上山(標高313メートル)の中複にあった、庵、「五合庵」、さらにもう少し山を下った、乙子神社に、乞食風態の聖人良寛を導いてくれたのは、「阿部」様 「解良」様 「原田」様 「中村」様そして「富取」様・・・いずれも庶民が、前を通る時には、尻を向けて歩けなく、うやうやしく敬称を付けて尊じる、時の豪商・医者・豪農など、生活力有り余る、且つ知識階層の諸家達であった。高僧・良寛の付加価値が、彼らとの距離を近くしていた。
■昔の話で、遠い存在の事かと思っていたら、その庄屋さんを先祖とする御方が本日の勉強会にお見えであった。
■この勉強会ならではご出席のツーショット、良寛の良き理解者だった阿部定珍即ち「阿部家」実系、牧江春夫氏(東京良寛会・会長)と、良寛さん弟筋の直系(山本良一氏)。良寛を身近に感じてしまう。現在は東京良寛会・統括幹事として尽力。ご先祖をいつまでも敬うこころ忘れずで、丁重なお方とお見受けした。(役職名はいずれも取材当時で表記)
こちらからのお声がけにも、気さくなご対応で、かの良寛を彷彿した。
■さて、本日の勉強会には、いつも出雲崎弁でまくしたてる、常任講師・内藤久吉さんの御姿がなかった。
現在、ご自身の体を強化調整中とのことで、次回10月7日(金)の第9回大会までおあずけとなった。
■進行役は平出英雄さん(前東京新潟県人会・文化委員会・副委員長)が懇切に司会進行。同氏が所属する県人会・文化委員会主催の講演会のパンフ持参で頑張っておられた。
■良寛に学ぶ会でボランティア活躍している御仁は、他にもいる。東条玉英さん(東京出雲崎会・幹事長)も、そのひとり。1時30分開始の勉強会のために11時過ぎに会場設営の労を難なくやり遂げていた。ちなみに、新潟館・ネスパス3階の会議室は、会場借り受ける際には、広い部屋が、ガランとしており何もない。會舘備え付けの、机や椅子の設営から、ゴミ出しと、後かたずけまですべてを、自分達でやることになっている。▼
◎ ◎ ◎
■講義の合間に、弥彦神社の門前銘菓「玉兎」を茶菓として頂いたり、講師持参の、ホッとする良寛さんの版画(布施一喜雄作)を観賞しながら、めでたく、本日の良寛勉強会をお開きとした。
■酒好き良寛・おねだりの巻。
●蛍は、良寛のあだ名 ●詠んだ場所は与板の酒造屋・山田家。
●黄金の水=日本酒、●妹=酒屋の奉公人さん ●たまふ=賜りたい(意訳)・・・などの雑知識がないと、簡単な単語でも、良寛流・万葉集手法の奥深さで複雑にし、やっと理解できる動態詩。
(わしを草むらのホタルと呼ぶんなら、日も暮れたことだし、これから照らさにゃいかん、元気の出る、お水(酒)を頂戴、おねえちゃん)と理解した。
■講師曰く、良寛詩歌の楽しみ方は、100人居れば100通りの感性で味わうことができることにある。従って自分なりに意をくみ取って、楽しむのがよろしい・・正に如意であった。
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2011年9月23日
現代の良寛伝道師
内藤久吉氏 逝去
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◆良寛に学ぶ会とは
熟年者のカルチャー倶楽部こてね。
◆先生のお言葉も、もう聞く事ができなくなりました
■いつも我々を楽しく判り易く、良寛の世界へと導いてくれておられた内藤久吉氏が、平成23年9月23日に急逝されました。
ありし日の内藤久吉 |
■謹んでご冥福をお祈り申し上げます
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■東京寺泊会は郷里の内陸側隣町・旧分水町や海続きの隣町・出雲崎出身者の団体などと企画し、良寛に学ぶ会を共催している。会員は登録制で、その数は1月末現在で百三十名程だが、その多くは良寛の生誕地・出雲崎と国上寺のある分水(現吉田市)である。寺泊出身者は現在十人。今後増える見込みである。
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常任の講師は、出雲崎良寛記念館理事の内藤久吉氏が務め、表参道に建つ新潟県のアンテナショップネスパスが常設会場である。第二回のテーマは、
■「良寛とその師・法弟・支援者などが、どのように交叉していたか」を探った。史実に基ずく、出雲崎弁士こと内藤久吉氏が懇切に解説。
引用資料は、牧が花の庄屋、解良家十三代当主・解良榮重による良寛禅師奇談」の記述で長短五六話ある貴重な書である。
■ 八〇〇年も続く出雲崎の庄屋橘屋山本家では、良寛を後継ぎにすべく、時の代官の元に赴き「我が惣領を次なる名主として務めさせたく、容認の程を」と丁重に挨拶。喜ぶ代官「しかるに嫁御はおられるか」との問いに「近在から当家に嫁ぎ・・」と答えた。名主の絶対条件には、伴侶を必要としたのであった。良寛に嫁さんがいたとする説は、かなり近年になってからの発見であった。寺の過去帳を丁寧に調べた大学の先生が、メディアにセンセーショナルに発表したそうである。
■ しかしながら良寛はこの先、名主継承を受けるに心穏やかでない。回避せねばと、禅光照寺の和尚の元へ。禅修行の道に入り、その後に、高僧・大忍国仙と出会う。禅師は初対面の良寛を凝視し呟いた。「何とこの子の眼は澄んでいることか」と、玉島への一行に加えた。
円通寺で十一年、雲水仲間と起居を共にした後、禅師から「印可の偈」を授かり、これ即ち、永平寺の貫首さえも欲すれば道ありの体であった。しかし良寛はすべの凡欲を捨て、故郷出雲崎に戻る。だが住む家無く宿る床がない。国上に庵を得る迄は、寺社の軒下、浜の荒小屋で乞食姿。
■物語なら、ここで子らに石持て追われるやも。だが良寛の周囲には、熱烈な支援者多く、敬しく来訪を歓迎した。与板・中島・地蔵堂・島崎・渡部・出雲崎・寺泊。杖をつき、請われる儘に出された筆を手に、残した書は数知れず、乞食こそ道元禅師の正方と歩き通し、時を経た現代も戒語・愛語の教えは色褪せる事無く続いていると講師の内藤久吉先生独特の出雲崎弁は歯切れよ良く眠っている者はひとりもいない。
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■寺泊へは昨年会員を募り、分水の花魁見学を兼ねてバス旅行を実施。「魚市場」ツアーと「密蔵院」 を拝観。本邦初公開のお宝をご住職が公開してくださり一同大感激。今年も4月に良寛ツアーを企画中。地元在住の人より人気があるようだ。右を見ても左を見ても俗欲の張りあいだらけの世間の空気に身を置いてると良寛禅師が恋しくなるのか。町に有る日蓮宗法福寺さんには良寛の妹むら子のお墓があると言っただけで、東京寺泊会さんの人たちは皆が、あたかも良寛さんに会った事があるかのように、羨ましがられてしまう。法福寺第57代現住持英祥様とは親しい同期生だから鼻が高いが。 寒行も終わったことだろうし次回の東京寺泊会に招待しご法話を賜れれば至極である。
■さて名講師の内藤先生は出雲崎にある良寛記念館に常時おられ繁忙の中、講演の度に上京される。出雲崎の会館を訪れる際 東京寺泊会から紹介されたと告げれば展示作品をより一層懇切丁寧に説明して下さることだろう・・かくなる無礼こそ慎むべきと聖僧は 「愛語」「戒語」の世界で唱えておられるのに。今は故人となられた、内藤久吉氏の出雲崎弁での、あの言葉が消えることはない。
寺泊会一同お悔み申し上げ、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌
(この稿は過去に掲載された記事を基に、内藤久吉先生追悼号として、再投稿しております)
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★寺泊会会員に会報形式で印刷して郵送している良寛特集
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◆寺泊会が独自制作した 良寛道講演ルポ : ✳️なお本稿は異なるソフトで制作したものをコピペしたため 文体構成段落などが修正不可能につき読みづらい個所が 多々あります事をご容赦ください。
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「良寛さんに学ぶ」 寺泊会編 | ||||||||||
講師 長谷川義明先生(全国良寛会会長当時) | ||||||||||
主催 東京糸魚川会・東京出雲崎会・東京分水会 | ||||||||||
東京寺泊会・首都圏えちご吉田会 | ||||||||||
共催・企画 東京新潟県人会良寛研究会 | ||||||||||
講演・長谷川義明氏 | ||||||||||
◆ 聖僧良寛研究には、手毬・托鉢・布施行など「動」の世界を、漢詩・和歌 書芸など 至宝となる遺墨に重ね、その心を尋ね入るところに醍醐味が有る。 江戸後期において良寛の生涯・七十四年の足跡は、どの節を探訪しても温かみがあり 癒される。東京寺泊会においても、良寛研究会趣味の輪は瞬く間に広まった。 |
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◆ 良寛は、地蔵堂・大森子陽狭川塾を辞めたあと、十八歳で時をおいて、尼瀬の禅光照寺で剃髪した。かつて、寺小屋通いをしていた所でもある。決心した背景には、諸説異なるが、この先家督を継ぎ、名主になる年齢に達しても、治政実務の適性欠如を、自身が一番良く知っていたからで、更に幼年期より修学した知識教養を、捨てざるを得ない不自由さと危惧感が、強力に働いたものに違いない。 | ||||||||||
◆ 二十二歳になった良寛は、その春、光照寺住職・玄乗破了の師で、西国・円通寺の国仙和尚と出会い得度する。これが禅僧としての本格的な旅立ちとなり、一行と善光寺を経由して、同年秋、円通寺に安居。正に真の出家となったのである。 | ||||||||||
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最新の☞ネット圓通寺さまHPはこちらでご覧ください (空撮動画、座禅会、講和会)
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(写真協力・倉敷市玉島・円通寺様) | ||||||||||
門前千家邑 更不知一人 | ||||||||||
◆ 良寛はここでの十一年間を振り返り、五言詩の中で、寺の周辺には家多くとも、 外界とは没交渉で、誰一人として知り得ることがなかったほど、禅道修行に明け暮れたことを一首遺している。 | ||||||||||
良寛・越後へ戻る | ||||||||||
◆ 出雲崎を離れ、玉島での厳しい修行に堪え、国仙和尚の二九番目の弟子として印可の偈を授かると、その翌年に和尚が示寂。良寛は、やがて諸国行脚の後、故郷越後へ戻った。生涯寺を持たない良寛は、密蔵院・西照坊・観照寺・西生寺などで仮住をし、円熟期となり国上山・五合庵に定住するまでは、更に数年を要した。 | ||||||||||
この間、かつて裕福な子弟達と一緒に学んだ子陽の塾仲間も、有形・無形の援助をしている。 | ||||||||||
良寛のストレッチ | ||||||||||
◆ 山中独居・只管打坐・乞食行脚は、以降の生きる証しと、邪心・余念を捨てた 坐の実践であった。 |
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講演は「てまり」の解説あたりから深く切り込んでいった。 | ||||||||||
「国上の里にまさるとこなし」と言えど、厳冬期の山中は、凌ぎやすい筈がなく、 それ故に春の陽だまりで、子供らとの時を過ごせる日が待ち遠しい。 | ||||||||||
この里に 手毬つきつつ子供らと | ||||||||||
あそぶ春日は 暮れずともよし | ||||||||||
◆ 越後蒲原は、浄土真宗・親鸞の説く、阿弥陀仏の教えで、堕胎・間引きが無く 子供が多い。しかし農作業で忙しく、時には洪水の後始末で、幼子の世話どころではない。 良寛は黙して、聖人が唱えた「平等」を、民の子に等しく教育として実践していた。 農家にとっても、保育の世話をしてくれる良寛が貴重で、有り難い。 |
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袖裏毬子直千金 | ||||||||||
謂言好手等匹無 | ||||||||||
◆ 物欲と縁遠い良寛が、これぞ我が宝物なりと詩に詠んだ逸品が「てまり」である。 | ||||||||||
袂に入れて持ち歩き、その値は千両だと褒め称え、 自分は「てまりの名手でほかに適う者はいないのだ」 |
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と他を押しのける言葉を好まぬ良寛が、珍しく己が優れていると詠っている。 | ||||||||||
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良寛の書斎 | ||||||||||
◆ 良寛が遺した漢詩には、盛唐の詩や万葉などからの典拠が多数あり、その書体から時代を推量できる。国上の庵に枕地蔵はあっても、蔵書は無かった。必要とする書物は、里に住む庄屋や豪農たちから借用した。この事から良寛の周りには、いかに文化・知識の高い階層がいたかを推測でき、その彼らとの深い交流と手厚い庇護に包まれていた。 | ||||||||||
◆ 出雲崎に近い、夏戸・本光寺の現住持によると、十代目住職・義成は、国学者 歌人としても京まで名が知れ、越後一といわれたほど多数の書籍を所有していた。 |
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良寛はこの寺を訪ねると、本を相手に何時間も座り込み、薄れる自分の知識を確かめていたという。寺の存在は、仏事のみならず教育・医術・裁定など社会の中心的役割を果たしており、良寛が愛用した万能胃腸薬「金証丸」は、この寺で製造していた。住職四十歳の誕生日には、七十一歳の良寛が、祝福の書簡を届けている。良寛にとって、本を介しての繋がりこそが大事で、付き合う合う相手との年齢差は関係なかった。 | ||||||||||
良寛と正法眼蔵 | ||||||||||
◆ 道元・親鸞・日蓮は、鎌倉の乱世に登場した宗の開祖である。中国より我が国に坐禅を持ち込んだ道元禅師の思想は、良寛哲学の源である。師の「正法眼蔵」は九十巻を越す大著であるが、第一の巻から順序狂うことなく言えるほど、正に博覧強記であった。 この中に、菩提薩埵四摂法(悟りを開くための巻)があり、即ち「布施・愛語・利行・同時」を自ら実践したことで、良寛は高い評価を受けている。 : |
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◆ 一方、禅宗の僧は、誰の弟子の許で修業を積んだかという「修行履歴」を重んじる。 | ||||||||||
良寛は、禅宗の大祖・達磨大師系図と印可の証を油紙に包み、乞食する時も肌身離さず出雲崎・郷本・分水・寺泊・与板・島崎と持ち歩いた。 | ||||||||||
二百年以上を遡り、越後蒲原の山野、寺泊のフンドシ町を、左手の「鉢の子」を落としまいと、何時間も持ち歩く姿を想像しただけでも胸が熱くなる。 : |
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良寛の戒語 | ||||||||||
◆ 和島村島崎の木村元右衛門家が、里暮らしを勧め座敷提供の申し出には、 ならばと、木村家裏の離れにある草案に移り住んだのは 六十九歳のことである。 この後には時折、寺泊の照明寺にも居を移すこともあった。 |
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◆ この頃、美貌の才女・貞心尼は、日焼けした良寛との逢瀬で、 「自分は子ガラス貴方と同じ」と、甘く切なく唱和した歌を取り交わし、 良寛の晩年を、後世に美しく伝えさせるに十分な、 艶やかなフィナーレへと誘って行くのであった。 |
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講演の締め括りには、良寛の戒語を参考にし「自立し、感謝の心を互いに共有して持ちながら、穏やかな顔の世界を創り上げましょう」と結んだ。 | ||||||||||
酒に酔いて理屈をいう | ||||||||||
己が氏素性の高きを人に語る | ||||||||||
あゝ致しました、こう致しましたし | ||||||||||
ましたましたの、あまり重なるる | ||||||||||
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県人会良寛研究会 | ||||||||||
◆ 生誕250年記念講演会・懇親会は、岡本 満氏(東京分水会)の総合司会で進行。 | ||||||||||
良寛研究会を牽引する、小林保廣・新潟県人会副会長は「私も皆様と同じ良寛を敬慕する一人です」と前置きし、六十を超えたあたりから、何故か良寛が気になり出し十年以上経つ。これは、糸魚川出身の相馬御風を、子供の頃から知っていたからと最近気がつき、自分の郷里を誇りに思っています、と挨拶。御風は三十三歳の時、東京から糸魚川に戻り隠棲後、半生を良寛研究に明け暮れ、二十冊以上もの良寛本を著し、昭和二十五年迄存命であったから、小林氏が過ごした少年時代と一致する。 | ||||||||||
◆ 良寛は晩年に島崎の木村家の庵で、自分の記憶を辿って筆をとり、正法眼蔵にある「愛語」を書き遺した。 | ||||||||||
小林氏は講演会終了後、懇親会参加者全員に、新井満氏の自由訳本として販売されている 「良寛さんの愛語」=考古堂書店発行・1400円=を無償提供してくれた。 ◆ 約80名の参加者達は有難い布施として排領した。 | ||||||||||
参考資料 | ||||||||||
良寛略年譜 (全国良寛会編) | ||||||||||
円通寺世代の法系 (円通寺資料) 円通寺様、旧HP写真利用承諾済み |
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■ 本稿には一部、寺泊会良寛探求部員の想像による創作表現も含まれております。 |
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寺泊が
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日本遺産に指定
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ならば次は何処
🔷次のオリンピック開催地は 「トキイイヨ」
と、外人さんが覚えたてのような、ややたどたどしい日本語で発表直後、会場にいた日本招致委員や便乗者たちは、抱き合いながら歓喜に包まれた光景が全世界に発信されるや、テレビ桟敷に座って待機していた1億の日本人の何割かも大喜びしてから、はや数年経過の閑話だが、アクセスは今でも上位を保持中。
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あの感激から時を経て2022年になったのに、当時では想像だにしていなかった話に展開している
。五輪に絡む多重贈収賄の話。特捜部も忙しい。日本開催で大喜びの1億に混じって、ニヤリとした一握りの御仁もいたに違いない
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🔶コロナ来襲前の平和な時代で地球人は西に東にと時間を謳歌しておりました
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:
🔷この一大行事に乗り遅れまいぞと商機を逃がさず、経営の世界でいう機会を強みにし、真の経営者ならリスクを想定するのだが、結果として(後にエライ目に遭遇したが)、観光客目当てのビジネスは大健闘。一時期株価上昇で総理のポイントも並走中の頃もあった。
クルーズ船は、通販最大手でも参加者大募集のコマーシャルを九州のスタジオから打って出ていた。
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✳不況前夜の頃の話
✴昭和生まれが圧倒的に多い本稿の読者層も、元号が平成から令和時代と来年発表される予定だが、と同時に、高齢層のくくり基準も新規になり長年親しんで来た長生き階層の人を、
明治・大正・昭和の3代を生き抜いて来られた元気なお年寄りさんと呼ばれる代わりに、今度はあなたも間違いなく
昭和・平成・令和の3代を生き抜いて来られた方と呼称されている。
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✴魅力的に推奨していた 国家的民泊改造提案も 2021年6月には、宿泊さえ制限されるとは
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✳さて、インバウンド目当ての都会では新規ホテルの建設ラッシュ。
一方では老舗名門ホテルは、大改装中だったのは全てコロナ前の物語
国もスポーツ施設に税金廻してスタジアムの拡張、再建、実績ある水泳選手をスポーツ庁の長官にするわで、賑わい座を呈していたのも今や昔か。
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🔶それにしても忘れられないのは、
どうかこの私をオリンピックまでは知事にさせてよと、
都民に悪事がばれても泣いてすがった醜態事件であった。
五輪まで時間は有るが、インバウンド・外人観光客の来日もうなぎ登りで、観光地にどっと押し寄せ、商社マンでなくとも外人と話す機会は多し。店員さんもにわかの語学研修で忙しい。
と当時予想して、実態を見もしないで捲し立てたが、2021年初夏は、ひっそりと、頭を抱えるしかない。
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商店、旅館はにわかの好景気に酔っているらしいから、知名度を上げた日本。オリンピック様々であろうと予想するも
これこそ、コロナ前の世相だった。
:
✴日本遺産は、天からの付与でなく、手を上げて文書で申請したもの勝ちである。まるで個人年金の申請みたいなものだ。そして地方公務員の発案だけを待っていても認可プロセスは始まらないし終わらない。
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✳個人申請大特集(調べあげた発想に敬意か)
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🌠個人でまずは申請しないと始まらない事例は世の中でゴマンと有り
数えたらきりがないが本題の前に寄り道するとこうなる。
…
…✴要申請で始まるモノゴト一覧の一部
●キャッシング、消費者ローンの過払い金、
●不要になった定期券の払い戻し(自分で行動をする)
●高齢者退職金請求。65歳超の適正退職時にハローワークに申請した者だけに支給)
●明確な医療ミスに起因するインシデントの示談交渉
●適正使用中にも関わらず各種電化製品他の機器不具合品クレーム申請
●通販品到着後イメージと違った品物を受け取った際の別品への交換申請
●自分の給料不相応以上のかなり高価な道楽品の購入(家庭内特にカミさんへ上手に申請)
●逮捕・拘留時の保釈申請(弁護士経由)
●留年予想時の担当教科教授へ単位取得のダメモト嘆願申請。(成功例多数。)
●家庭内粗大ゴミの収集依頼(有料)
✴まずは自分の意思で申請しないと始まらない事案は、無数にある。
日本遺産は自治体が申請窓口であるが、きっかけは一人の発案からでもあり得る
郷里の遺産を全国に宣伝拡大したいとする少数の意志がまず第一歩となる。
文化庁が唱える日本遺産当初の認定達成時期まであと3年残されていたので登録の可能性は限りなくある。
✴桜並木と花魁道中なる素晴らしい日本遺産を有する分水会さんの故郷も登録すべし、一方では越後一ノ宮と弥彦山を抱く弥彦村人会さんの故郷も十分資格アリ、更に永年継続しているひとりの聖僧を深く崇敬する全国組織の良寛会なども公平にその権利と遺産を所有している。
だが申請段階ではほんのスタート期間で、実際はこれからが難儀であるから相当の覚悟と準備で日本遺産申請に臨むことが肝心である。マネジメントの教材通り機会とリスクは表裏に有り、遺産登録で観光客が集中しすぎてやがては環境破壊のリスクが追って来るやも。
初期の申請書類作成だけなら、我々コンサルの得意分野ではあるが。
企業向け新規コンプライアンス規定を作成するより遥かに易しい。
日本遺産
誕生物語
オリンピック開催決定は日本遺産生みの親。
大会まで100件の認定目標進行中。2021年の今では、誰も口にしないが。
🔶当時の文化庁長官さんは新潟県佐渡出身で、日本遺産認定の最高承認者のひとりである。このひとがハンコ押さないと何も決定しない。
寺泊会が司会した県人会行事ではホテルで気さくに話されたが、偉い越後人もおられるものだと感心する。
さて日本に多くの観光客が来るのなら、世界遺産にちなんで、オリンピック前に100件位を目標に日本遺産も作ろうと
平成27年に第一回の認定遺産18件が発効され、3年目で17件が登録。その中に寺泊も入っていた。
ここにやっと寺泊の名前が名乗り出た。その推薦理由を当てる場を設けて考えた発表前段階での予想一覧。
寺泊が認定される
:
日本遺産理由を
探そう会
●かくも狭いふんどし町にお寺が20も、支えてくれた檀家さん物語り
●太平洋側は波打ち際の浸食で悩み、砂浜が想像以上に狭く狭くなる日本において
寺泊の砂浜ばかりは、魚のアメ横が建ち駐車場ができる程、3倍にも5倍にも面積が広がった怪現象とか
●ロマンチックな汐たき節のいわれと、遊女誕生ものがたりでも良し。
●蒲原の惨事横田切れ大洪水の際には寺泊から進んで援助の手を差し伸べた豪商・豪農物語りとか
●弥彦神社の祭神が、弥彦の山を越える前は寺泊・野積におられた真のいきさつとか
●魚のアメ横市場が全国の魚商スタイルを変革し先駆けにした中央海水浴場の浜の歴史とか
●全国に伝承されている銘酒・日本酒の蔵元で、多数の寺泊出身のスター杜氏が主導活躍していた酒造り物語も有る。
等とどめなく話題にのぼった。
✳景勝地・寺泊は想像するに容易な案件がゴマンと有るので寺泊会でも我が町の日本遺産ならこれだと話題沸騰した。
しかしながら寺泊会会員=素人の酒飲み会話での予想はすべて外れてしまった。
ここは寺泊夏戸在住で高名な史跡研究家・小越夫妻に相談してみるべきだと今年4月の寺泊会大会であまりにも
素晴らしい講演をされたので、印象深く会員の心に残っているのだろう。
✳日本遺産の登録申請には、関係各地に存在する日本の文化伝統を物語る=ヒストリー性の極めて高い事象物だけに
申請資格が優先する。地域単独でも良いがネットワーク型と呼ばれる数県・複数の市町村にまたがっても良い。
全ての遺産にキャッチフレーズを付けて申請する。地域振興のきっかけに生かされれば結構ではないか。
🔷各県の自治体も登録申請に余念がない。
岐阜=信長公のおもてなし。実は、長良川鵜匠を操った信長こそ接待の達人
群馬=かかあ天下―群馬の絹物語り
甲賀=リアル忍者を求めてタイムトリップの里
島根=出雲の国の風土記鉄作り1000年の歴史文化
などなど
寺泊の
・
:
日本遺産
寺泊が日本遺産に指定された決定理由がこれだ:
北前船の
寄港地寺泊
荒波を超えた男衆たちの夢がつないだ異空間
✳つまり北前船の寄港地と船主・集落の物語りの地として当該県各地が合同認定されたのである。
他の寄港地、石川・福井・山形・秋田・青森〜北海道などとの合同ネット型認定である。
原田泰夫(大正12/3ー平成16/7)さん
★もう一人の東京分水会重鎮物語
☗⛊今も懐かしむ昭和将棋界のプリンス
原田泰夫9段(西蒲原・分水町)昭和40年に,6年間在任していた日本将棋連盟会長を退任して、昭和57年まで棋士道に精進していたが、書家としても多数の作品を残してくれた分水会の重鎮
✳️東京寺泊会の懇親会で講演をお願いしたのは、平成14年(2002年)4月の事であった。
前年に招待された分水会でお会いし、その魅力に一目ぼれ、来年は是非寺泊会でご講演願えないか、と直接交渉した結果
思いもよらない快諾を得たのであった。
⛊いつも太い万年筆を使い味わいのある書体は
これだけでも貴重な作品に値する
◆書家として普段は毛筆を使う原田9段であったが、いわゆる筆まめで、ことある度に時間をさいては、手紙やはがきなども出しておられたので、寺泊会もこの恩恵に授かりこれを大切に保管している
◆分水会の名物行事。
分水会も他の会同様、いつも楽しみな大抽選会が催される。その中で最も人気ある景品は、
「原田9段直筆の書」である
主催者独自の抽選方法で、番号が当った参加者には、師匠の書が贈呈されるのだから嬉しくなる。
★寺泊会が当てたのはこの書である
▼
◆山・雲・海・月・情
:
この5文字は平易な禅語だが味わい深い.
座禅会などでも時折習字教材として利用されている。
。。
✳️オリジナルは「話尽山雲海月情」とあり
「かたりつくす・さんうんかい・げつ・のじょう」から来ている
親しき者同士が心を開き、語りつくして悟りの心境に浸ろう、などと意味される・・
解説書では語り合うことに力点を置いているが当日の原田名人は、多少力点を変えて、
別々の「他人同士が一堂に会するそのプロセス」こそが重要なのだと解説してくれた
山も雲も海もそしてお月様も、皆、独立して、それぞれの異なった場所と立場におられても存在は不動である。
分水会や寺泊会におられるあなた方のように、それぞれの異なった場所と立場で活躍しておられても「お互いの存在が異なる者同士でも警戒心なく、年に一回位は集まって」宴席などで語り合うスペースを用意してくれたら、これに勝るものはないのだから、
いつまでも会を続けなさいと教えてくれた。
…
✳️コロナ禍の令和の現代は「集まれ」から「集まるな」にすっかり変ってしまった
在宅勤務推奨となるとソーシャルデスタンスだの
家で仕事せよ、外出自粛だの宴席自粛だのと、この令和の世は何だろうと首を傾げる
・
◆大相撲2020年9月秋場所は、新横綱照ノ富士が優勝した年である。
勝利力士だけが有り難く頂く懸賞金提供者ハタに変わって、感染防止キャンペーン実施ハタでは情けない風景が時代を物語る。
だが2022年の名古屋場所では、ようやく有観客になって、マスクつけながら、適度な密で声援を送っていた。
…
✳️今日は距離を保っていても、いつかは旧交を温めなさいと禅語で唱えてるので、いずれの郷人会さんも皆が集まれる日もそう遠くない筈である。かの弥彦会も分水会も寺泊会も、2021年度までは中止案内を出てしている。
これでは禅語の教えに逆行中で集まることも、ままならない。
✳️但し天下の分水会さんは2022年度の大会を、感染防止徹底対策の基で敢行されたから立派である。
⛊寺泊会作新作禅語
・
「山・雲・染感・無容赦・有怒」・・寛風庵
☗⛊
☗将棋9段原田康夫氏の父勘平は、著名な良寛研究家だった。同氏の著書「良寛」(岩波出版)は権威ある文庫本として多数の良寛敬慕者に愛読されている。此の親にしてその息子有りの見本のようだ
東京分水会名物の大抽選会で、最高賞品として時折り用意される(いつも贅沢だと思っていた)
原田9段の書に、良寛色が漂う作品が多いのは、これらが因となっていたのであろう。 : …筆仕舞い… ✳️良寛和尚の周囲には、米、味噌から日常品や 衣料を提供した篤志家は、分水近郷にも多数いた
そのなかで、国上山・五合庵を寄付した粋人こそ 原田9段先祖の原田ジャクサイであったとなると、原田家と良寛とは溢れるほどのご縁有りと考えるのも面白いでしょう。 ・・・これは、原田家ご縁戚から直接伺った談である。 |
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:・
謹告
・
2020・2021・2022・2023年4月の寺泊会記念大会は新型コロナウイルスの広域的感染拡大に伴うご参加者様の感染リスクを考慮し、すべての企画行事を中止とさせて頂きました
・
第65・66・67回寺泊会中止
・
これは4年前の話です。
まだコロナとは耳慣れない他人事の話題かと思い我が会は、このニュースが拡散する直前に、第65回寺泊大会の開催案内を発送しておいた。いつもはもっとゆっくりの発送だが、人気の角上・社長さんの講演も決定連絡が入り大喜びし、一刻も早く会員さん達に伝えようと、多少の焦りもあった事は確かであった。
この時点で1月初旬、そして僅か1週間後のコロナ猛威ときた。カラー刷りの当日配布用案内書も、発送済みの往復ハガキと共に全て無効になるとは。おまけに中止案内ハガキも追加せざるを得なかった。
◆日本も海外同様正月明け直後から、すさまじい速度と勢力で、新型コロナウイルスの感染者が急拡大し、世の大小イベントは中止続き、寺泊会も創立65周年記念大会とは言え、参加者様のリスク回避を最優先し、記念大会行事全ての企画を中止宣言せざるを得なくなり、大会は中止になったんでとハガキの再手配で印刷業者に駆け込んだ。
今や常識の、ラインなるデジタル技術の産物を皆さんが普段使っておられたら、会員宛の連絡経費も僅かで済むが、そのようなハイカラな「線」も馴染でなく、感覚的には電報スタイルで事を済ます、電電公社・国鉄なる昭和中期世代が圧倒。
かと言って役員が手分けして、100人を超える会員さんに電話するのも難儀なものだし。それに会員さんでも、そもそも無関心な、お方には会話も弾まないであろう。となると電報も捨てたものではないが。
事実この時代、会員のガラケーに着信音が鳴っても、不動産や墓地の勧誘で懲りているからか、なかなか取り次いでくれないのが当たり前の時代になっているから始末が悪い。
便利な「LINE」は次世代に譲るしかないが今その保証は無い。
:
◆寺泊会中止をアナウンスした直後から、日本も海外も人間の動きは静止画像の如く止まったままになった。外出自粛・居酒屋で長時間の酒自粛・万歳三唱も乾杯も無音が望ましい・スポーツ観戦は無観客・披露宴は招待者なし・会社勤務より在宅勤務・学校の授業は自宅で-移動は県をまたぐな。などと、これが当たり前のとんでもない時代に突入。
…
という事は、3年前に制作した記事の原稿も、年度や期日の数字を1を2に、2を3に、3を4に文字変更するだけで、事が済むかも。
ならばと、令和2年を3年に、令和3年を4年に変えただけで、文字遊びの如く原稿が完成した。
・
。。
◆角上魚類・?下浩三社長・特別記念講演・・・中止
◆平石久子先生寺泊おけさ体操・体験教室・・・中止
令和2年2月29日発表(初稿)
東京寺泊会
会 長 橋本寛二
役員会・運営実行委員会
▼大会中止のご案内は改めて文書などにてご連絡中
◆寺泊会初回中止案合はがき
:(日程を変えながら、これを3年間使うとは、当時想像だにしなかったが。)
:
::
::
:
:のんびりしていた2019年度レビュー▼
コロナ禍以前の物語
令和元年5月当時なら
:
寺泊会を開催していた
▼多数のご来席感謝申し上げます
★事実検証
■期 日:2019年5月26日(日)は平和だった
■会 場:芝パークホテル(HP)
港区芝公園1−5−10
◆JR浜松町駅北口タクシー3分位 ホテル情報 アクセス
電話(03)3433ー4141?
■会 費:10000−
・
■スケジュール
11:45 受付開始
12:00 第64回通常総会
来賓ご挨拶
ご祝辞 など
12:30 懇親交流会(宴会場にて)
◆ 15:00 頃終宴予定
▼令和2年度(65周年記念大会)のご案内
案内直後であったこの現実
創立65周年記念大会中止決定
.
:
ふるさとに好奇心💛
/(寺泊流 宴会名司会の秘訣=
参加者の好奇心をそれとなく誘うこと)
好奇心その1 ■寺泊観光協会幹部の力量披露宴
■今年は寺泊町商工会会長が初参加
名物会長・副会長様コンビの、ふるさと宣伝
好奇心その2 ■寺泊(野積)出身の粋人
ふるさと行政活躍の妙味披露
・
◆寺泊出身:活躍する長岡市議・前副議長さんらの、創成よもやま話
▼寺泊会常連のお二人そろって平成最後の長岡市議会議員選挙に挑戦し
4月21日の投票結果で堂々ご当選。これで悠遊寺泊会にもご臨席される。
: 古川原直人氏当選2836票(連続5期)18位(当選者34人中)
山田省吾 氏当選2444票(連続4期)28位(当選者34人中)
◆古川原直人さんは地元行事では常にセンターに座るお偉いさんだが、春には寺泊会のため毎年上京され賑やかな会の宴席では、ついつい気を許すお話上手。役場職員時代に遭遇した寺泊町が長岡市に変貌するや市議会議員選挙に挑戦、初出馬以来連続当選中、そして寺泊会にも連続出席回数更新中の義理堅い御仁であられる
好奇心その3
:
■フリースピーチで盛り上げる
:
(講演会のかわりに
宴会スピーチタイムがたっぷり)
(市長さん・ご招待客・特別ゲスト・寺泊町商工会・三実の仲間たちなど)
◆今年は恒例の講演会と芸能関連の時間を省略したら、どうなるかとの新規戦略を立てて宴会を組み立てた
◆企画段階から大会の目玉を模索。新潟県にゆかりが深く芸能関係に詳しく、堅くなくきれいで優しいゲストがいい、などと好き勝手な注文を役員会に突き付けられ、はて 越後にそんなヒトいたかと探し廻り、やっと白矢をたてられたのが、遠藤実記念館(西蒲区越前浜)の遠藤由美子館長さん。HPで見る限りでは年配者にも優しそう。何よりも会員が好きなカラオケコーナーで千昌夫・一節太郎・渡哲也の歌を熱唱するが、寺泊会で良くリクエストのある歌手は、遠藤実の門下生が多いのも何かのご縁。
★写真提供
:遠藤実歌謡音楽振興財団 様
▲実唱館(遠藤実記念館)
・
:
◆2020年5月の遠藤実
番組案内◆
:
「昭和歌謡ベストテン DX」
2020年5月14日(木)
21時〜22時放映
BS−TBS(遠藤実特集)
★2022年度最新情報は後日公開
◆さて、寺泊出身で現役市長さんは、このひと唯一人。直近の選挙では平成29年4月に4選を果たした。初当選のスローガンは3期以上の多選阻止であったがそれはそれ。(当然このネタは宴席でも盛り上がった。)同氏が就任している拓殖大学大学院でも客員教授として地方自治のサスティナブル持論を展開。
地元の小平市の諸問題には隈なく介入、問題解決又は改善を実現した手腕は大きい。市民目線での行動実績に多数の支持を集め、平成の終わりでも鋭意活躍中、
もし新元号2年で5選目としてお立ちにならなかったら、寺泊会11代会長としてお願いせねばと、もっぱらの話題は消えない。
実は時を経て。2021年春に5選を退き、目下次期寺泊会会長職を考慮中とか。噂が飛び交ってはいるが、さて。
・
好奇心その4■フリータイムショーで盛り上げよ
・
●フリーステージ競演(壇上おまかせタイム)
角上ホールディングの柳下社長さんには来年の寺泊会創立65周年記念大会に公演をお願いする予定である
同氏の寺泊会での講演はこれ3回目となりこの夢は実現させたい。
/
/
15:00頃 閉会予定(状況判断方式)
▲capture付写真制作提供=清水文隆様
特別好奇心
◆お帰りの際には、
角上魚類(株)&寺泊会特選(海鮮詰合せ)
第64回交流会・参加御礼お土産をお持ち帰りください
/
/
◆案内状発送 平成31年3月17日発送済み
◆締め切り 平成31年4月20日(月)
◆大会開催日 令和01年5月26日(日)
・
寺泊会案内はがきの特長
他の会の事務局さんへの提案◆寺泊会だけの思いやり どうよ
:
☑ 次回より案内状不要 のチェック欄が用意して有ります
:
この思いやりが、日本の小組織(同窓会・OB会・同期会・同県会など)にもあれば
実行委員たちの品質が向上するのだが、人数集めに熱心なだけでは不適合組織である(ISO分析)
案内状を受け取った人数全てに、各々の事情に対する思いやりを持つ余裕が
特に500名程度の小組織幹事・統率者に欠如しているのが残念である。これを組織の品格と呼び寺泊会の理念として保持.
だが日本中で小組織の出欠回答ハガキが毎日何万通も飛び交っている事は確かである。
・・さてあなたの組織は・・◆1000通出しても1割程度は、はがき不要者がいることを主催者は忘れてはなりません・と、
寺泊会では、億万長者でもあった会の創立者コバケンが残した教訓を、鋭意継承中
令和3年春には
■多数の皆様のご参加をお待ち申し上げております
・
郷里寺泊及び合併候補だった郷人会様からの一般ご参加者も大歓迎
東京都港区芝公園 芝パークホテルへのアクセス
■寺泊会は越後長岡ふるさと会の登録団体です
東京で開催する長岡市物産展販売メンバーや会場整理スタッフ
などの派遣から
ふるさと訪問旅行などにも積極的に協力しております
寺泊会創設者へコバケン様への恩返し
■寺泊会は明治生まれで、大正・昭和時代の実業家、小林源次郎氏の「志と夢」の承継を基本に昭和・平成時代の中で63回を重ねるふるさと会を開催し爆入中。新元号は間もなく制定されるが、その初回となる東京寺泊会は合計で第64回目となる
戦後の物資不足時代でも移動手段で乗用車運転、商機を見つけた飛行機の払い下げでは、山本五十六(当時海軍省中将)などと渡り合った寺泊会が誇りとする昭和の大人物 である。
]]>
:
令和5年大会の開催案内は
別号で公開中(➡下線部クリックで移動)
:
:
:
:
:令和4年大会レビュー
○○○○ ○○○○ ○○○○
令和4年、寺泊会など友誼郷人会をアッと言わせた会があった
6月19日(日)
:
盛会裡に笑顔で終宴
・
///
祝:東京分水会
安全開催の巻
多数さんの御来席感謝申し上げます
::
★日時:2022年6月19日(日)午前11時開会
会場:上野精養軒3階「桜の間」03-3821-2181(代)
◆スケジュール
10:15 受付開始 3階ロビー
11:00 第28回通常総会
記念講演
講 師 中村礼子様(アテネ/北京五輪女子競泳メダリスト)
演 題 「私の水泳人生」
12:20 ★懇親会180分
●桜基金贈呈セレモニー
●アトラクション
燕市
国上出身
歌手
関野三千夫 さん
●お楽しみ抽選会・・他
15:30 閉 会
公私共にお忙しい折、また時節柄、ご出席のお願いは恐縮に存じますが、主催者、ご参加者共感染対策を充分施して頂き、3年ぶりの再会と、わきあいあいの交流出来ますことを願っております。
令和4年4月吉日
東京分水会・会長 大島芳昭 幹部一同
::
(本稿は全ページ、東京分水会様からの御挨拶状を無許諾で一部抜粋編集して作成!)
:
★しかしながら本日2022/6/17午前10時頃:大島会長様より、このHP初めて見たが、うまくできてるねえ・・これでいいんだよ、との有難いお電話を頂戴いたしました。
★更に、大会でご講演される、競泳メダリスト中村礼子さんは、会長の奥様(糸魚川出身)と同窓の娘さんだとか。コロナ禍前から講演交渉していたそうだが、やっと実現した感涙物語となった。
:
◆カレンダーでは令和5年水無月迄あと1年しかないが、分水会幹部さん達は、もう来年の企画行事の選定に取り組んでいるようであった
◆ らいねんみなつきも
おいでくんなまし
:
出典:NST 新潟総合テレビ(4/19)ニュースより
☗原田奏夫翁(元日本将棋連盟・会長=分水町)が残された、分水人への言葉を今年実現
将棋:名誉九段の原田名人は八十一歳まで書を享受し毎回好きな和服姿で分水会に出席されていた
:
名人の好きな言葉がこれであった。
山も雲も、海もそれにお月さんも、皆さんは普段、それぞれ異なる別の世界で休みなく活動をしている多忙族だが、自分で時間を作って、年に一度は顔を見せ合う事が、本当に楽しいことだと判っているので、毎年実行しておられる。
それは私が80過ぎても参加していた頃の、我が分水会の皆さんみたいだ、
たまには遠方からでもそれぞれが顔を見せ、夜が明けるまで語り合いの雰囲気で、情を交わし合う懇親会は実に有難い企画だ。会長良し幹部良し、会場良し料理良し、おまけに感染対策良しで、これ全て良い事ずくめでは、ひとが集まらない訳が無いですわい。(編集部推測語録)
分水方式最強感染対策で大会を企画
分水会感染リスクマネジメント (当日ご参加者編)
ー 大会案内書記載事項よりー
◆コロナワクチン3回接種完了者のみで実施
◆入場時検温(平熱確認)
◆ペットボトル持ち込み禁止
◆手指消毒 手洗い励行
◆会話時はマスク装着式会食で進行(マスク置きの用意あり)
上野精養軒リスクマネジメント (宴席提供者編)
ー大会案内書記載事項よりー
◆スタッフのマスク着用
◆各所に消毒用アルコール設置
◆受付に対面仕切り設置
◆ソーシャルデスタンスに配慮した会食テーブル席配置
◆定期的な換気実施
◆食事は個人盛プレートスタイル型
◆ドリンクサービスはスタッフのみ実施
★上記は東京都の方針に基づく会場(上野精養軒)サイドの
感染防止対策と実績を踏まえ、東京分水会の幹事会にて議論を重ね決定致しました
主催者の定型約款について
■東京分水会は会場提供者との協働で、本年度の開催に際して、万全の準備を講じながら、万が一、感染拡大の動向悪化、まん延防止等重点阻止発令などの場合には、
急遽開催中止とさせて頂く事まで、法遵守の元で細部にわたり、大会開催を準備して実行させて頂きました。
今回のイベントには、ご出席者様全てのご協力で、新役員体制も決定し、不手際なく行事をこなし、皆様のお見送りも済ませ、終宴までマネジメント出来、感謝申し上げる次第です。
ありがとうございました。
(第28回東京分水会:令和4年度大会実行委員会幹部一同)
:
みなさまのおみおくりも
:
つろうおましたどすえ
:
出席者の本音
イヨツ ! 分水会日本一
:
:
:
:
:
●コロナ禍前の東京分水会マネジメントレビュー
・
盛況裡に皆さま
:
ご堪能感謝
■ふるさと会開催月は毎年決まっている
◆6月は分水会
:
・寺泊会は4月・弥彦会なら11月
この3者の郷里は約13年前に合併しようと意気込んだ。
だが、見合いの席で、お互いの資産と財政見せ合ったら、
何故か翌月にはおじゃんになった。
本当の理由は、当時の首長さんとその周辺だけが
知るところであるが公の公開はない。
グローバルな視点でも、行政違えば利害関係は永久に一致しない。
ところが都では、破談どうしの東京(分水/弥彦/寺泊のふるさと会)だけが
仲良く繋がっているから不思議なご縁である。
・
1896年7月22日の西蒲原
◆今から約120年前になるが、分水会で平出英雄氏【元会長)らが時々話題にする、
横田切れ大洪水の惨状で蒲原平野に溢れ出た泥水を、寺泊の日本海へ
信濃川から分水せよとした、情け深い最初の提案者こそ寺泊人即ち
寺泊の豪商何某なんだ、と 樋口勲氏(河川防災研究家)が寺泊と分水町との関わりを語ってくれた記憶がある
平成の大合併:あなたの希望先は
さて、その100年後の町民アンケートで、どこと一緒になりたいかと問うと
約7割以上が分水・弥彦・寺泊の3町村合併に賛成だった(寺泊町役場非公式発)。
法的根拠はないが、令和の今では誰も話題にしない平成の歴史物語だ。
こんなアンケートデータを引き出しに隠し、いつか世間に公開してやろうと
何年も保存している、寺泊会の某氏(75)も相当な物好きであると感心するが。
▼
・ (当時の役場のHPより)
創立25周年東京分水会の基礎知識
・
・
令和時代突入
第一回分水会
・
血統良く腰の低い
:
新会長のおひと柄
・
◆今年で創立25年目の東京分水会は、温厚実直と評判だった小林恪さんが会長を継承していたが平成最後に退任し、大島芳昭氏(笈砂出身)が新会長に就任された。マラソンが好きという快活な新会長さんは、寺泊会にも時折来賓参加されておりお、寺泊会にはお馴染みさんである。
今年5月の寺泊会にも、会長さんとしてご臨席、壇上に迎えると、蒲原会主催の稲刈りツアーの宣伝を、持ち前の笑顔で、文化色漂う分水会の継続運営をあつく語りながら、稲刈りツアーの参加者も募っておられた。
だが寺泊会では稲刈りツアーに興味ある者は不在で、どうやってお断りしようかと悩ましい.
テーマの解決を思案中。同様のお誘いは十日町会からもあったし、古くは蒲原会創立当時から有難く頂いている。
・
◆今後の分水会を占う
聖僧文化にやたら詳しい、元会長の平出英雄氏(東京良寛会主幹)や恪さんなどとタッグを組んで、会の内外にアピールしながら文化講演から歌謡公演まで、幅広く企画を創出されるのに違いないと、今度は招かれる我々にとっても大きな楽しみである。
・
・
2019年6月16日(日)分水会堂々開催
・
◆今年も東京分水会から寺泊会に招待状が届く。会場は上野公園に建つ 上野・精養軒 3階。午前11時開会。
寺泊会からは平石國男副会長がひとり参加予定である。
越後分水町のような文化教養の高い会からの招きで楽しみなことは、総会前の講演会である。講演会となる、役員会はその企画選考に頭を使うものである。
・
令和元年の分水会は、記念講演のタイトルが凄い
・
◆演題◆
・
「青少年と
:
家族に抱える問題・解決策」
講師:大島 靖浩氏(関東医療少年院統括専門官)
・
■講演者の基礎知識
何やら難しそうだが、為になりそうなお話が聞けるであろう.
分水出身の同氏は燕市や地元教育委員会が主催する講演会などでは
お馴染みの専門官であり
ひきこもりや少年非行者らが辿った若者たちの人生、
過去現在など少年院での法務教官としての経験から
現場に精緻した構成で有意義な講演会になりそうである。
蒲原の分水町とは隣の郡だった旧三島郡与板町同様、
若年層からの剣道人口が比較的多い分水町に育ったとはいえ
今では剣豪(教士7段)としても高名で、正義感溢れる先生に違いない
・
・
・祝・無言館誕生
樋口孝四郎社長令和元年5月の
寺泊会にご臨席
分水会の樋口氏は、偶然にも寺泊会の役員2人に親戚がおられる。
そのご縁で5月26日に開催する、令和最初の寺泊会にご出席頂けるとは、ありがたきかなである。
樋口氏とは、日本橋三越デパート新館の共同オーナーだった浅草の殿こと、故 佐野久治さん(寺泊会元顧問)の
家が近かった事もあり、時には寺泊会役員を自宅へ招いて頂くなど交流も深い。
著名スポーツバッグ製造メーカー:(株)クロスターの創業者で牧ケ花の樋口孝四郎さんが、ふるさと分水(現燕市牧ケ花)にある生家(築100年)を改装し、長年収集していた骨董・美術工芸品などを展示する「与右衛門無言館」を開設したことだろう。樋口さんは浅草の自社ビル屋上で隅田川花火大会に寺泊会を招待したり、分水会大会の賞品を多数提供されたりで、篤志家そのものの人である。分水会の宴席では毎年お会いして20年近くの交流となる。
絵画美術品として平山郁夫、東山魁夷,同郷の横山操など多数の作品を展示しながら、祖先に感謝し故郷に文化をとその真意は尊敬に値する。直江兼続の家臣としてお仕えしていたご先祖与右衛門様も、孝四郎よくやってくれたと御喜びに違いない。イベント好きな分水会さんは、桜の季節に企画する花魁道中ツアーと抱き合わせに、無言館訪問コースも加えるであろう。
結論として、大島芳昭会長と樋口孝四郎社長の両雄ふるさと会100年継承への道には持ちつ持たれつか
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前回大会では、国上出身の演歌歌手・関野三千夫さんが宴席のステージを飾ってくれた。
今年はもう一人の地元出身歌手・山咲 まさる(横田出身)さんが、あたかも今年の当番のように唄う。
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分水会には
地元出身の演歌歌手が2人もいるから
年替わりでステージで唄う贅沢な会と評判である
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◆平成時代の分水会大会の様子をレビューするとこうなる。
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▼特別講演:樋口 勲氏の「大河津分水物語・人の手のなせる業」に会場は大歓声。近年の講演会では稀である。
若くて驕らない樋口氏の講演に110名を超える参加者が魅了される
かつての水害大国だった越後蒲原平野で、そう遠くない先祖たちの活躍の秘密を攻めに攻めまくった。
越後人の我が大地・田畑・平野を守りたい・そのためには己の辛苦流血を厭わない溢れる郷土愛精神があった。
泥と汗水は現世に生きる自分達が流して、後世には芳醇な生活を保障をさせねば、と重機がない時代に人手だけがたよりで実現した大河津分水を、物語として聴くと、信濃川を背に越後平野で育った蒲原人でなくとも大きな感動を与え胸を打つ。
信濃川から日本海側を人工衛星(又はドローンかヘリコプター)で覗くと、海に一番近い地域は三島郡寺泊町となる。正確には野積地方となるがここが分水バイパスの最終地点である。河川水日本海放流の出口である。
◆寺泊の本間屋数右衛門親子、白根の小泉蒼軒や田沢実入、野積の星清五郎らが幕府に分水建設工事を請願したのは江戸時代、何回にも及ぶダメモト請願の繰り返しにもくじけず続けるも叶わず、信濃川に近い蒲原平野は河川災害が頻発。だが離れた三島郡寺泊や野積の被害は、甚大ではなかった。しかしながら越後の将来を憂う気持ちにおいては、蒲原が内陸部であろうと変わりなく愛情を呈し幕府請願に力を貸す寺泊の賢人たち。
被災地域民は足元の大洪水にこれでも工事不許可かと嘆く暇なく、人力で分水路手掘り作業を開始した。さてこれから通水という時、あの横田切れ、浸水は越後下越平野のほぼ全域。破壊橋梁多数で蒲原に橋が消滅、これが僅か120年前7月22日。明治29年、朝8時に怒涛の大災害。
◆燕・三条・長岡・新潟・新発田まで惨状は全域に広がり凄惨だ。これが3年に一回来やがると恐怖の信濃川様になった。
だが当時の日本は、河川防災の知識乏しく、川岸に盛り土工法でも最新科学と勘違い。西も東も河川災害続き。幕府曰く、「洪水は越後さんだけではねえすけ」と、越後の大工事プロジェクトを許可する気持ちがない。事実、隣の信州でも千曲川氾濫で道路面から10メートルの松の木が埋まる大洪水が発生。
諦めない越後人。幕府請願活動続けながらも、地元では破産商家の続発で物資なく、米なく、薬ない。蔓延する疫病。
越後壊滅時代の到来。信濃川がミソ糞一緒に垂れ流す(講演者,談)悪魔の川に変貌したか。ご家庭においしいおコメどころの話ではない。
◆こんな先人の辛苦があって、脆弱な堤防第一期工事が終わったのが明治初期。第2期工事が明治末。補修手直しが昭和初期。やがて越後人の夢平成に実り稼働中。2022年で通水100年。だが地球温暖化で世界は干ばつが進み、立派な可動堰でも信濃川から遥か離れた上流が干上がるかも。人類はいつの世も、次なるTREATS脅威に備えねば。それ故に我々のようなコンサルタントが活躍しているのだが。
◆巨大可動堰関連工事完成の暁には、リスクと機会の中に生まれるチャンスで寺泊海岸の大変貌ぶりは平成の世では誰も想像できない。妥当性確認が不可能な状態で設計検証のリスク影響で慌てる寺泊海岸物語はまだ先のこと。寺泊夏戸在住で高名な史跡ボランティアガイドの小越忠教先生も、推論を立てるには早すぎるかも、
30年後の話とはいえ、地中海の一大リゾート地をしのぐ, 国立寺泊海浜リゾート公園建設の実現にも結び付く、騒音並みの風評が寺泊会で飛び交っているが、平成の巨大工事プロジェクトのお蔭で現実になるやも。長岡と冠を付けるのだけは、なしにしようて。
体操の先生ですか、いいえ、彼は樋口勲先生という、河川防災論のスペシャリストだ。燕市の鈴木市長も、樋口勲氏の大規模河川災害歴史認識とその語り口についてはお気に入りである。地元燕市分水では、近隣の小学校児童にも河川防災と歴史について教育中。
詳しくは樋口先生監修のブラツバメで動画公開中(閲覧無料)。
◆本来は教諭向け研修が先であるが研修嫌いが多いときく。但し平成のワークライフバランス最優先のこの時代、先生のザンギョウ(教育関連従事者正規時間外延長作業)だけは、民間企業と異なり収益向上優先の感覚が少ないだけに正規時間中の研修にしないとクレームが来る。児童に先生が慕われた昭和前半の世はとうに昔の話になり、平成の終盤にいる多数の公務員先生達に対して、共済年金受給資格者に到達するまでは、その家族と共に過ごす時間を、我々が恣意的に作ってあげなければならないのである。最近ではお坊さんも残業阻止を唱える(葬儀関連は除く=納骨するまでは高収入に結び付くからか)
こんなポーズもされたと噂の先生です。東京新潟県人会会長の小林保廣さんや、80を超えてもすこぶるお元気な村上昭治・元分水会会長さんなんかも会場最前席で大激賛されておられました。講師曰く、講演会は聞く側が長時間同じ姿勢でいると、必ず飽きられてしまいますのでと、河川災害歴史教訓から編み出した、講演参加者用ストレッチ体操だそうです。これで一息ついてから次のテーマの話に進むから飽きが来ないのである。樋口先生は横田切れさえ無駄にしないで有効活用される逸材であった。
小林恪男会長さんの手腕とおもてなしは
終始満点でした
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▼過去に見る文化色高い分水会入門講座
2014年の 東京分水会には 「花魁」 登場
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燕の分水か、分水の燕か。
■早いもので2006年に分水が燕になってから10年が経過した。寺泊会がおつきあい頂いて20年、思い出の分水会を覗いてみた。
梅雨時の6月こそ分水会の季節である。燕市の市長、鈴木 力氏は嬉々として上京。あいさつに壇上に登ると、「若いねえ」の声がいつもあっちこっちに響く。御当人も意識されてるようで、最年少の市長当選と言われておりましたが、早いものでもうすぐ60の大台に突入しますて・・と、それでも雰囲気は、お若いの一言に尽きる。対立候補もなく無競争での当選されたこともあった。話し方もソフトで穏やか。淡々として、燕市の動向を詳細に解説する。
かつての、小林前市長さんのごとく分水に関する情報をここでは優先しながら。
東京には燕と合併した旧吉田町の会(首都圏えちご吉田会)もあるから、TPOで来賓あいさつを考える。
吉田の話題は吉田会で、分水の話題はここの分水会の宴席で盛り上げなくてはならないから、ネタ探しがうまいわけである。
■さて寺泊町に大河津から分流して多量の土砂を運んで96年。寺泊町は浜辺の面積がすっかり太ってしまった。
だが安心するのはまだ早い。総完成までにあと30年はかかる大分水工事が粛々と進んでいるのである。
◆こなた燕の洋食器生産開始100年を遥かに超え、市長さんはハイテク生産技術で進化した洋食器産業PRに余念がないが2017年大会の市長さんは、全国住みたい街ランキングで11位にランクされたことや
シンガポールの首相がお忍びで燕市・クガミにご来訪されたことやふるさと納税で上位にきている事などを
満面の笑みで披露するや若々しいお顔が一層輝く。
◆一方2017年のプロ野球界では連敗が続き天下のヤクルト球団は最下位の状態に甘んじている。それはともかく、
かつてはヤクルト球団にいた元気良い外人がホームランを打ちまくったのにと、多くのファンは、心の休まらない観戦であろう。
燕市は、「ツバメ」のご縁で球団と仲良くなり、地元のイベントにマスコットを呼んだり、世界最高品質を誇る、燕産の洋食器を優秀選手の特別賞に、提供したりで、多彩なアイデアを馳駆し、燕市上空にいる本物のツバメは、蒲原平野の、はざ木を見降ろし、今日も天空を機敏に翔び廻っているのに違いない。
■地元に来た
東京ヤクルトスワローズ(同球団の公式HPの動画より引用)
■分水会の強みは、伝統的な「おいらん道中」の存在である。数年前には、すったもんだの末中止となったそうだ。今となってはこの決断は、どうだったかなあと観光協会会長の田中公一氏(当時)は、振り返りながら、首を右に曲げたり左に曲げたりの姿が懐かしい。
■決断日が3月13日だったからねえと、さぞかしやむに止むなく風であった。
その鈴木市長も大歓迎した「花魁」は、平成26年には江戸の浅草へ来た。
分水会も吉田会も、設立20年ちょいで歴史は浅いが、大会運営には素晴らしい企画力がある。
現会長の小林恪男会長は真面目派で品が良い。
現役会長の逝去に伴い4年ぶりに再登板したH寺泊会会長と異なり、いつも丁寧に会を運営、分水会歴代の会長さんには、平出英雄氏、岡本満氏や元NHK放送技術センター局長・村上昭冶氏氏等が名を連ね、いつも元気な姿を見せ、集いは賑々しく開催される。
■ここの会は寺泊会と大きく違うところがある。相違点は現役市長さんが来賓としてごあいさつされる。昨年こそ御大 高桑栄松先生を偲ぶ会に出席とかでお目にかかれなかったが、郷人会への積極参加ぶりには、羨ましい限りである。これに寺泊会、吉田会ほかの郷人会の役員も招待され参加させていただく。
■寺泊会から見て我が親父であると慕いたい、前長岡市長さんへは、合併後、毎年御招待状をお送りしてはいたが、創立60周年の記念大会にも、そのお顔を拝見する事が出来なかったなあと、寺泊会の会員達は残念がる。
と言っても、そのお名前とお顔と言われると寺泊会ではほとんど知られていなかった。なじみが薄いのである。
その市長さんも、昨年10月の新潟県知事選挙で落選し退任を余儀なくされ、ただのお人となられたが、5期務めあげた市長さんの退職金となると、さぞ高額と拝察し悠々の人生であろうと、我々の居酒屋談議のネタに貢献している。それともあと3年後を見込んだ再挑戦戦略研究人生か。そうは問屋が卸しまいて。
▼分水会の田中公一・燕市分水地区商工会・会長とも、長年のお付き合いであるが、今年も、威勢良くごあいさつされる。会場からは、仕事は息子さんが立派に継いでいるので安心しているに違いないとの囁きも。
そしてステージに加わり、故郷を熱唱されていたが、ことしも純粋な越後蒲原人ここにありと確認した。▼
■平成26年は、6月15日(日)に第20回分水町出身者の集いとして、会場を御茶ノ水から浅草ビューホテルに移し、
更に平成29年になると、6月18日(日)に会場を昨年と同じ上野精養軒に移し賑々しく開催されたのである。
毎年多数参加のもと、盛大にとりおこなわれるが、今年も大抽選会には、善意で多数の協賛品が集まり会場は蒲原分水の熱気につつまれていた。
(写真は第23回大会、一部は第17回東京分水会原稿より転載)記事は講演会資料から抜粋。取材協力:東京分水会 記事掲載講演者許諾済
★もう一人の分水会重鎮物語はここをクリック
◆書家として普段は毛筆を使う原田9段であったが、 いわゆる筆まめで、ことある度に時間をさいては、 手紙やはがきなども出しておられたので、 寺泊会もこの恩恵に授かりこれを大切に保管している
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謹告
◆ 第67回寺泊会開催中止のご案内
★2022年4月24日(日)の開催予定でご案内しておりました
「東京寺泊会創立67周年記念大会」はコロナ禍収束の兆し見えず
尚且つ、感染者急拡大のもとでの開催は、ご出席者多数の感染リスクを考慮し中止すべきと役員会で決定しました事をご報告申し上げます
順次ハガキにて中止案内書をお送りさせて頂きます
時節柄会員の皆様のご健勝を衷心よりお祈り申し上げます
2022年2月吉日
東京寺泊会・役員会・第67回大会実行委員会
★67年前の草創期当時の先輩諸氏には誠に申し訳ございませんが、プロの道化師まで迎えて盛況だった、寺泊会名物の懇親大宴会が、3年連続で中止せざるを得ない令和時代になっております。
60年以上も使用した、お馴染みの年号・昭和が消えて、今や平成から令和になったことなども、きっとご存じない先輩方でしょうが。
★
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★:2022年度のふるさと行事は大丈夫であろう
2021年度・中止行事データ・一覧
あと何年か後にはこのデータが歴史上の出来事として保存され残されるやも
★これ程あった2021年(令和3年)中止したふるさとイベント
出典:寺泊観光協会HP
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2022年・謹賀新年 羽田空港奥から、陽は昇る、この川の先は太平洋
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◆ ◆
★2022年1月6日・AM6.00 都心上空で雪の結晶。
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この雪のようにVIRUS軍もハラハラと天から舞い降りてきたのか知恵者は、これを市中感染なる言葉で納得しているのかも知れない。そういえば初期段階では雪もそれも風向き次第で、ヒラリハラリと自由自在に飛び回っている。
そして時間が経つにつれて、ビルの屋上も車の屋根にも直ぐ積もってしまう。彼らは見境無くまとわりつき、なかなか離れないので都会の積雪も感染も人類の敵として実に厄介な存在である。
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◆平和な我が地球人
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77億人の運命は
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◆令和3年・4年、寺泊会の正月は穏やかで、朝日も輝きを呈しゆっくりと明け気温低くも穏やかだった
長年春に開催していた、寺泊会大会は、分水、弥彦会の要人を招待し、盛況理に済ませ、安寧を期待した令和だった。
しかしながら日本国東西で、2019年は河川氾濫・大地崩壊を招く自然災害が噴出し被災者続出の年となり、僅か年度後半のラグビーワールドカップの激闘を見て大興奮させてもらっただけで、決してやすらぐ倭の国には至らなかった
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◆明けて令和2年、出航に手間取ったかのように何日も横浜桟橋沖に巨大クルーズ船が停泊、いつものように大桟橋横ではなく港から少し離れていた。ここで初めての、新型コロナウイルスなるワードが出まわる。
その直前までは、人生のひとときを優雅に過ごされていた、クルーズ船乗客さん達だけの災い話かと思って、この頃はまだコロナに恐怖感を抱く日本人は、乗客関係者以外は少数でしかなかったであろう。即ち船内にも外部から無防備で入っていたのに違いない。これが外部への感染拡大する原因にもなっていた
★コロナ軍隊長満月の
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夜会話盗み聴き .
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🔷都会暮らし深夜のお月さんはコロナ軍の会話を知っていた
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★満月の夜に聞いた彼らの会話とは
◆おい急げ・俺たちラムダ隊の命は空中だとせいぜい3時間だ
急いで地上に降り、ビルの外面にでもへばりつけ。我がラムダ隊は金属付着で3日は生きれる。その後癌化したヒトの肝細胞あたりに潜り込め!それができなくともマスク越しに負圧の部分からボデイに感染拡大できるがまごまごしてると、優秀な人類のことだから、最強ワクチンを持ちだすぞ。これだとわが軍は3日もしないうちに、全滅するしかないことを知っておけ。
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ラムダ隊の軍曹の言葉はまだ続いた「このあとにわが軍最強勢力で、市中感染攻撃を訓練したオミクロン隊が降りて来るまでの闘いだ。わが軍の最終隊となる彼らの登場で、2022年初頭には日本国土完全包囲を成し遂げるかも知れんぞ。此処から4000キロ以上離れたアメリカでは既に24時間で100万人・人体侵入に成功したとの連絡が有ったぞ。」
(出典:2020 5/14 ジャーナル誌NEJM 記事などからのヒント創作童話)
◆この直後には、深夜に降り積もる白い雪のように、音もなくヒタヒタと、ウイルス軍が地球を猛烈な勢いで総攻撃していたとは、地球人77億の人類ほとんどが気付いていなかった
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◆現実として2020年1月には欧州各国が既にアウトブレーク状態(トランプ氏のツイートより)で、呼吸器の異変を訴える老人層で溢れていたはずだが、日本にはまだ情報は少なかった。多数の欧州人は、かかりつけの医師を持っているので、そこで診察していたのだろう。日本なら隔離状態であろう医師の判断でも、帰宅して平気で家族らと濃厚接触。感染者はネズミ算的に増大現象を呈していた。
◆ただ欧州各国の企業が、何故か日本からの商用目的入国を制限していたため、我が国の商社マンは出張計画を何回も練り直さざるを得なかった。実際、ロマーナ州にある飲料機械メーカーへは訪問できず、日本における、大手食品会社からの工場増設設計図も完成済みながらも、飲料装置メーカーとの最終価格交渉が進展せず、為替の動きを気にしながらもジリジリと待機せざるを得ない。
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■その1か月後、パルマへの訪問は、創業者でCEO(84)がVIRUSで命を落とされ、ビジネスは中断したままである。
実際、ユーロ売円買いが始ろうとする中で、ユーロで億単位の取り引きともなれば、 慣れているとはいえ、巷のリモートを使って解決前進するような次元ではなかった。
EC諸国や中東などでの感染者と死者数が開示されて、やっと少しずつ中国中心から欧州情報なども追加して報道され始めたが、日本における欧州情報は、4桁を超える感染者数からの報道となった
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{情報提供: 機械系大手専門商社経営者)
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ウイルス感染源を探せ・
(リンクのみN-W誌日本版より)
◆地球規模での感染源は不明だが。明かされるまでは100年はかかり、令和で終わるどころの話では無い。生まれつきの根本から性悪説に分類されていた某かが改心し、性善説側に移動し正直者に変らない限りは明かないであろう。
・
◆感染者・死者共に世界で最も多数となったアメリカの科学者による推論では、某国感染症化学研究所説もあるが、もしヒトのエラーによる流出だとしたら、ごく少数者によって地球が破壊されたことになり、正に恐ろしやである。首相が罹患しICUに入った時点で、医師団に死亡発表原稿の準備指示を受けていたBBC(英国)も当初は、
ワイルドアニマルマーケット説を報じていたが、これを修正し更なる真相究明の必要性を唱えている。果たしてどこまでこの感染源を追及できるか。
🔶実は、昨年秋当所から溢れたやも、失敬‼
とでも言おうものなら、全世界からの賠償標的になりかねないことは良く知っているから、発生源については、あと300年は極秘中の極秘となる。明智光秀が令和に現れ実は拙者が・・等というのにも似ている
◆但し証拠隠滅常習官庁組織よろしく、建物を鋭利強靭な巨大シュレッダーで細かく粉砕し地中に埋めさえしなければ、が条件である。
さて、これ程の知恵者集団が我が国以外にいるかは疑問である。残したデータの完全削除は、桜を見た後でも遅くはないだろう。
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宣伝広告と信濃川分水工事
■ 明治39年(1906年)9月刊行の「北越史料/出雲崎」は出雲崎町と良寛をこよなく愛した佐藤耐雪(写真)なる書家・歴史民俗研究家が著した、後世にとって興味深い歴史書で、340頁にも及ぶ「出雲崎町史」である。
他に明治37年刊行の河合孫七著による「寺泊」編もある。
寺泊町が人口3000人余りのころの記述もあり、北越史料誌には大きく掲載されている。
…
✴️寺泊人にとって商家の宣伝広告が懐しく目に映る。
日露戦争当時の歴史遺産的文書であろうか。
▼一方の雄、ホンマさんは寺泊湊の味噌醸造を宣伝。昭和時代まで使用したロゴマークが懐かしい。
■広告スポンサーはこの他にも、(ハマソ)濱惣さんも出していた。印刷技術が高度でないので、どの広告も単色仕上げで読み取りにくいのは仕方ないが100年前のカラー刷りである。
ハマソさんの営業科目は。「和漢洋クスリ」「洋酒」「缶ズメ」「紙」「ガラス」を扱う総合商社風であった。この大きな店の裏は、結構深い日本海で、現在毎日多数が訪れる魚のアメ横あたりは一面きれいな海だった。
寺泊会の宴席で毎年威勢よく壇上に上がり、唄の音頭取りをしてくれる、河合忠治さんことカワチューさんの自宅裏庭には程良い高さの松の木がきれいに植えられており、庭の真下を見るとここもきれいな日本海であった。
■寺泊は三島郡の都会とされ、野積は弥彦山下にある出雲崎から5里離れた戸数200軒の漁村となっている。
「北越史料」誌は、発行が明治39年9月だけに、旧書体で書かれ、当然のことながら出雲崎に関する記述は、微に入り細に入る。100年前でも寺泊の広告スポンサーを募ったことを想像すると楽しくもなる。
ホンマ様もイセヤス様もカワソ様も、寺泊の豪商人は太っ腹でいい旦那さんと見受ける。
…
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★この流れで、古くは享保年間から明治に渡って、横田切れを筆頭に、度々越後蒲原平野を襲っていた自然災害を見兼ね、これなら我が寺泊の海に、信濃川の土手に穴を開けて全長僅か9キロ先にある日本海バイパス作業をする、大河を分流する事こそが、多くの民の命と生活が救えるに違いないとばかりに、100年以上も永き期間を、少い人足とシャベル.バチズルだけの手作業で遅々として進捗しない大河津分水路改良工事を積極支援したのも寺泊の商家達であった。
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「豪雨の翌日には必ず顔を出す、茶色と化した多量の河川泥水」は時を経て忘れた頃に海水影響をもたらす。これを知るのは地元住民と磯辺あたりに群をなす魚たちしかいない。
★青く澄んだ磯でいつも小魚が活発に泳いでいた、きれいな日本海・寺泊湾に、遠慮なしで汚れた信濃川の土砂が荒々しく流れ込むリスクを承知で、大河津分水工事の早期開通を促し、寺泊の旦那衆たちが、物心両面にわたり手を差し伸べた結果、越後平野の河川洪水から、多くの民の生活と命を救ってくれたに違いない。
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◆古くからの倫理観
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プラや化学合成物質がなかった時代では、海や川は洗いものをしたり、ゴミ廃棄物を捨てることに何の抵抗もなかったのだろう。
★「おばあさんは川に洗濯に(お爺さんは山に芝刈りに)」の時代に環境問題もクソも無い。だが大信濃川を分水すれば汚濁は間違いなく日本海寺泊に流れて来る筈なのに。
秩父山系・甲武信岳のどこかから誕生した一滴の水。千曲川を経て350キロ先の越後分水あたりまで流れ来て、晴天の日なら清流も有りうるが、豪雨の後では、土砂を巻き込む褐色泥流一色。
越後平野の民の幸せを導くのだから、多少の海洋自然が破壊されても、小魚の遊び場所確保程度の話では微細問題過ぎて誰も話題にせず、人間生活最優先の原理が働くのは、この先人類が生存して行く限りは終息することは無いだろう。
現役コンサルが道具に使うSDGsの国連制定は、この後200年経過する2015年であるから、明治の世では環境側面の用語すら存在せず、致し方ない話だが。
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◆かくして江戸時代、八代征夷大将軍・徳川吉宗が取り組んだ享保の改革の頃、当時初めて設置された将軍宛直訴方式を利用し、寺泊の豪商が目安箱経由(推測だが)で幕府に請願したら、これが実際に認められて以来時を経た1922年(大正11年)分水路の通水を実現したのであった。
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✳️ 信濃川分水路フォト
本稿の各種イメージ資料は国交省北陸地方整備局HPより
(2022/1/16掲載許諾済み)
この川の水は水質状態に関係なく、日本海・寺泊海岸迄流れている
識者の集う良寛会もビックリか
■ここに寺泊の老舗仏壇屋さんでも出てたら、寺泊の旦那衆揃い踏みとなる。
志田仏壇店の社長がおっしゃるには、かの良寛が国上山から下りたあとの面倒を、味噌醸造で財をなした創業者が、寺泊で末世時期を引き受けようと申し出るつもりでいたが、忙しくて段取りできず、隣町の島崎に行かれてしまった・・との珍説を話された。
■東京良寛会も初耳の根拠ある逸話か。もしも良寛が本間家に居候して永眠されたら、寺泊の法福寺に祀られることになったであろう。妹のむらのお墓もあることだし。だが、本人の希望で照明寺がいいと言って、蜜蔵院傍に永眠されたかもしれない。かの貞心尼が、島崎から寺泊湊まであと一足伸ばしていたら、あまりの景勝地に惚れ込み、夕陽のひとつも眺めながら、句作に没頭してしまい、良寛介護もおろそかになったに違いない。寺泊会だより上での想像の話は膨らむと止まらない。(編集長)
:2022年になれば、「あれは去年の話だぞ」となって古臭いと言われかねない
🌸🌸
2021年暮で終息に至った「桜を見たヒト達の話」
:
その手段は、三権分立の乱用がコンセプト、しかも暮れの忙しい頃に発揮すれば、世間の忙しさにかまけて話題沸騰するも、すぐ泡沫となって、世間の記憶から消え去る効率の良さ、庶民識者も手段と効果に感心するしかない。
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タイトル
🔹桜問題トップご退任記念号
:
梅は咲いたか
:
桜はまだかいな
☞世の中は小粋に梅だサクラだと小唄を口ずさんでいる時ではないらしい
◆仮想記述問題::「桜を見る会」について
時代背景と結末を2000字以内で記述しなさい
(2040年度仮想公務員試験より)の解答例?
「桜を見る会」
:
花より先に名簿散り
;
◆桜は春に開花して日本国民に元気を与えてくれ、小唄で唄われたり酒盛りの輪にと平和の象徴的存在である
令和になって夏が過ぎ、世間では冬に向かっているのに、連日連夜「桜を見る会」の単語が飛び交い絶えることが無い
サクラといえば寺泊でなく分水なる土地が、これを売りにして、伝統の花魁が道中練り歩く花模様が圧巻である。
☞東京分水会(会長・大島芳昭氏)ら役員たちも6月大会では自慢の種である
・
●待ち遠しい 花見の季節に 交わす酒 予算あるから どーんと来い(寺泊会・寛風)
・
などと呑気に構えていた政治家さんの想い入れが、あらぬ方向に暴かれて問題となって政争の具にされてしまうのである
・
野党・与党はイデオロギーが異なるので互いが2者監査の立場故に、秘密裡で悪事らしき狙いはすぐ突っ込まれてしまう
問題にした、追及サイドとなっている野党さんも名簿廃棄プロセスについて、気付きの脆弱性が目についてしょうがない。
シュレッダーこそ簡単に足がつく工程である筈がその「前工程追及の話」が見えてこない。
▼ いつの世も
:
支持者第一 命綱
・
◆もし主催者が招待客さんを粗末に扱おうものなら、いつか己の身に跳ね返ってくるから、これは一大事と後援頂く顧客には最大限のおもてなし。極上のホテルで極少のご負担、その割には極上の御料理が振る舞われる・・となると、「お値段高いのでしょう」と想像する・
そして国家予算の100兆円に比べたら、税金使ったと言われても、つまむことも出来ない程微小で、細胞にも劣るかも知らない金額だとの認識で、主催者は安心していたのかもと勘ぐる
▼ ここにいた
良い子・悪い子・普通の子
・
◆政治の世界にルールは多数ある。ほっておくと金を何に使ってしまうか判らんので、とりわけ政治資金に規制がかかる
そこで収支報告に、単純な追及3項目のルールが動く。所が収支報告書は破棄しましょうとの内規あり
:
▼ 某氏主催の観桜会・
追及苦手なこの3項
:
1)そのお金、税金になる前は誰から支払われたか言えますか。
(誰でもそうでしょうが、天引きに始まり正直申告が信条、知られたくない出所も多数ある)
:
2)そのお金、何に使ったか言えますか。
(誰でもそうでしょうが、多すぎても少な過ぎても問題となる)
:
3)予算の5倍の使いみち、5W1Hで言えますか。
(誰でもそうでしょうが、正直に記録を残せば、とんでもないことになる)
:
小学生でも判る、きわめて常識的で当たり前の話であるが、これが時として政治にからむと厄介な事件になってしまう
・ ▼
1)お金のインプットは、公言したくない部分が多々存在する
(誰からもらおうと勝手だが、ややこしい税法がアミを張る)
:
2)お金のアウトプットもしかり、可能なら公開したくない
(何に使おうと勝手だが、これもモラルが働きヒトは悩む)
:
3)お金の記録については、申告義務を課す税法の存在に、私人・公人・法人問わず皆嘆く
(毎年3月になると確定申告で頭悩まし、領収書集めに奔走し苦労する庶民が多数いる)
:
・
■ 収支報告の怪
:
◆毎年春4月に100人足らずの参加者で開催する寺泊会でさえ、行政から多少の補助がある故に、1円単位でインプットとアウトプットを明確にして記録に残し長岡市への報告材料にしている
1万人以上が参加した令和初年度の怪問題「桜を見る会」ではインプット・アウトプット共に曖昧なやり取りが続く
食事つき参加費が仮に千円として、これはホテル側の好意で格安に千円にしてくれたと報告しても、おもてなしを受けた飲食が1万円相当で、差額は政治家の財布からだったら公職選挙法のルールに違反する。
有名ホテル支配人でも、出血大サービスしましたと言えない悲しさで、差額分はルール上寄付行為ですかとなる
:
◆今回問題になっている名簿が復元困難となると、「観桜会収支報告書」サイドからのアプローチなら追及し易いはずだが
まだその話は聞こえてこない。
:
■ 出席者名簿の怪
・
◆主催者が政治家で招待した「桜を見る会」としたら、どなた様をご招待したかその名簿は有りますかとの問いに
観桜会の行事は歴史もあり、会則で招待客の名簿は迅速に廃棄する事とルールにあっても、問題は残る
昭和時代の「桜を見る会」だったらともかく、近年の開催なら名簿位は有るでしょうと野党は追及したが、会則に則り
シュレッダーで廃棄処分しましたで終わりそうである。裁断機の性能より、直前に戻って紙媒体にした資源(ヒト・モノ)を検めてはと思うばかりである
:
■ 紙媒体廃棄の怪
・
◆シュレッダーにかけたとなると名簿は紙での一覧表だったのだろう
税務隠しで見つかりそうになった財務書類でも、すぐに廃棄はあり得ないだろうとの、性善説的な考えのみで野党追及が終了したら残念な話となりそうである
ここで官僚の性善説同情を捨てる必要が有ろう
:
■シュレッダー追及の怪
・
◆大岡越前守時代の町奉行取り調べだったら、当時の資源は「毛筆と墨で残された手書き文書」である。これをカミソリで細かく裁断しまして、先刻隅田川に流しましたと主張すれば証拠がなくなり、過去を追及することは困難な時代もあっただろう。こんな場合のお上は心情判断優先とした新潟県人会違いない。
◆現代では名簿作成には電子媒体があって、次のプロセスとなるプリントへの手順を経て、多量のA4などのペーパーで完成させ記録公開することになる
それゆえシュレッダーダストにしてしまえば、最終文書としてのアウトプットの復元は一見困難で不可能と思ったら追及は終わる。
◆だが紙にする直前の工程を探ったらどうだろう。「PC入力作業者とパソコン」は必ずどこかにあり、このヒト・モノまでは即刻に廃棄しないだろう。消去済みとの事だが、騒がれてから廃棄した様子もない。復元のチャンス到来。
千トンプレスで押しつぶしても必ずどこかにハードの残がいが存在する
まさかPC入力作業者までも、遠島送りとして霞ヶ関から消去されてはいないだろう。
シュレッダーの処理時間より、より何としてもハードデスクを探し復元せねば。
:
◆これで終われば単純であるが、プロセスは常に一つ手前まで戻らないと問題時の解明は不可能である。
となると端末の記録は、親元のサーバーのデスクに名簿情報が有るずだ。データ消去=消しゴム(専門用語)で消去して初めて復元不可能でしたとなる。
:
これで今回の問題はチャンチャンとなり官房長官の説明で終わるのだろうか。実はサーバーサイドにはバックアップ機能を使わないと、作業品質を担保する機能を失って次回はこのサーバーシステムは、お呼びがかからないだろう。さらに履歴まで必ず
どこかに残されている。
:
◆ここまで全てロボットがやるなら、話は違ってくるが、もう一つの資源=ヒト・公務員が介在している筈だ。
そこで最後の手段は、所轄官庁のデータ入手力の情報担当技術者に登場してもらい、ことの�莖末を話して頂くのが最上級の手段であろう。
::
:
◆2019年11月28日(木)
:
寺泊会が名簿問題で、シュレッダーから入ったのでは進展なしと提唱し、デジタル資料の原点に戻って追及せよとの記事で相当数の検索数を上げてから3日後に、遅ればせながらやっと国会で関連質問になった。野党さんの本質に迫る追及質問に対して、55歳のきれいで芸能人風のお名前を持つ女性法務大臣さんからの答弁があったが、管庁ゆずりのらりくらりで参加者リスト問題の解決はいつの事になるやら混迷を呈した。
:
◆ヒトは窮地に立つと嘘をついたり情報を隠匿したり、あらゆる手段でその場を逃れようと努力する生き物である。
原点に戻り、その行為は法的要求がどうで、どこが正否ですよと、アプローチしないとこの問題は終結しないであろう。
官/官一体となってワンチームで隠匿団体になることなく、万民納得の行く行動に期待するのみである
::
::
■ここまで書けたら、仮に20年後の公務員試験で「令和初年に起きた桜を見る会事件」について知っている事を記述せよと出題されても採点者は合格のスタンプを押してくれて、上級・下級は別として、晴れて公務員の職を手に入れることだろう。
:
□令和20年秋に出題が予想される公務員一般常識問題
:
テーマ
国家公務員としての職務行動について、下記A君を見本に考えよ
:
A君は母親に励まされ猛勉強のあと公務員試験に合格し、希望する中央官庁に奉職した。
・
本人が担当し2万人近く集めた、ある行事の参加者名簿について上司の命令で、
その名簿を今日中に廃棄せよと言われた。
:
あなたは次の中でどの行動を選択するか☑を入れなさい
・
□ 上の命令なら、何も考えずに重要書類でもすぐシュレッダーにかけて粉砕し、後を残さないようにゴミに出す
・
□ たとえ上からの命令でも、廃棄する理由を聞き、自分で納得してからシュレッダーにかける
・
□ シュレッダーにかけるのは作業員に任せ、自分はサーバーに保管されている名簿データまで消去し復元できないようにする
・
□ この行事には国家予算が多額に使用され、名簿の収集と作成には半年以上も時間をかけ、多くの職員と派遣社員が時間と経費を費やして作成したもので、次期開催の参考文書になるから、紙媒体の名簿はシュレッダーにかけても、サーバーまでは提案しない
・
□ 個人情報保護法の意味を良く調べ、省内のみで使用する目的の文書であれば、名簿として残し次回開催まで保管しておいても
全く問題がないと、上司に一応説明を試みる
・
□ 自分の定年までは昇進や家族の事を考え、上司が最も喜びそうな・手段・提案・行動だけを選ぶ
・
□ 隠ぺいせよ、偽証せよと最高権力者から発信された指令には、率先して積極協力し、世間のほとぼりが冷めるのを待つ
/
□ 予算委員会などで自分の上司が、嘘の答弁していても、聞かなかったことにし、後で検証する機会を作らないでも良い
::
:
:
:
だが、寺泊会のような小会だてらが深堀して追及する是非は、100%益なき行動であり論外である。
ひたすら会の継承を願い、先代から引き継いだ、「ご招待客さん名簿」を後世に残すばかりとなる。
決して独断で廃棄できない。
新元号発足時に叫ばれた、安寧でモラルハザードの心配のない時代にしたいものである。
:
:
★桜前夜祭話本日終了
・説明不要の巻
▼
◆ ◆ ◆
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▼ 24時間アクセス御礼
今夜もあなたを眠らせない
深夜24時~翌日深夜24時まで即ち24時間アクセス中・少数ながら深夜読者様に感謝
◆さて第65回東京寺泊会は コロナ禍で中止になったが、令和2年4月19日(日)「招待されても桜を心配なく見る会」の頃に開催が決定していたのに、残念の声しきりである
総会前には寺泊・角上魚類ホールディングズ・?下浩三社長氏による特別講演がある予定だったがこれも中止になった
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★寺泊がニュースになるのは、8月初旬の今頃だったら、港まつりの舞台で、あの有名歌手の公演は最高だったねえ、とか
海上花火で10万人の観光客が訪れたとか、噂の魚市場で、期待どおりの買い物ができ大満足でした
など巷の話題で持ちきりなはずだが、今年の8月3日はビックリするような思いがけないニュースが飛び込んで来た。
寺泊町夏の季語を知っていたら相当な寺泊通である
★アッチェーBonだ、アッチェー盆だ
は、クーラーが珍しかった昭和の頃には、ウチワ片手にどの家でも盛んに使われていた流行り言葉であった。
:
これを地で行ったのが、昨日2021年8月3日昼下がりに記録した日本全国の気温ランキングだ。
トップクラスが全て新潟県だったのでまるで県内の順位かと思いきや、これが全国順位である。
ここに寺泊がランクインされたのでは「アッチェー盆だ、アッチェーボンだ」」と言わずして何と言おうか。
ちなみにこの言葉は、同じワードを2回続けて言葉にするのが正規の使い方だ。
。
(情報はyahoo.newsのHPから抜粋)
気温表示となると、100メートル走の記録と違い0.1位の差では
体感では変わらないだろう。
ちょっとの風でも違ってくるはずである。
こうなるとに日本中で一番暑かった都市が新潟県三条市と気象庁は発表したが
これとほぼ同じ午後3時頃は、寺泊町も日本一になった事になる。
38度超えは、ヒトならばコロナ検査で引っかかってしまい、また県内の感染者が
増えたかと心配してしまう。
NHKテレビのインタビューでは市民は、もう体が溶けたような感じだったと話していたが
事実であろう。
:
さて、北の大地北海道の8月3日は、どうだったであろうか(札幌気象管区発表による)
当日の北海道で気温を高い順に並べると、足寄の36度が一番高かったらしい。
北海道・夏の気温=涼しい、の理由で東京から北海道に変更された
五輪マラソンが間もなく開始されるが,その効果は如何なるかどうだろうか。
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✳ホームステイ族向け閑話シリーズ
:
:
★海辺鑑賞極意
:
★ 美波百景 ★
*
・
・
。
◆ 浮世絵師北斎は、波を高速度カメラの一瞬が如く描いた
◆寺泊会の衆は地元在住当時,その一瞬を目と耳で楽しんでいた
(台風時を除く)
◆今の世間の衆は、寺泊に着くや手元のスマホ見る事はあっても
買い物したらそくさくと寺泊町を後にするらしい。
zawa・zawa・zawa と
・
the Buuu〜n だけの魅力
・
◆写真と判っていても人間の脳は空と波を見つめていると
動いているのではと錯覚する
波に敏感な寺泊会の話。
令和になって、てらどまりの海と波と浪音の神髄を知ってるのは
寺泊会会員くらいしかいない。かも。
地元衆(約9000人)を除く大多数の
長岡市民(27万人=2019/5現在)はこれを意識しないであろう。
:
◆海鮮市場が目的らしく、寺泊へ車で来ても、駐車するや否や海にお尻を向けて、
魚市場に駆け込み、沢山の海鮮物を手にしたら、すぐにご帰宅族に早変わり。
これではゆっくり波を見て、音と形を味わえないから、お気の毒様としか言葉がない
:
今年260歳を迎える葛飾北斎も
天国で寺泊町の方向を見下ろし苦笑いしてるという噂である。
大小多数の波の姿を描いた、江戸時代後期の浮世絵師の如く、
遠景の富士山を臨み乍ら後世に作品を残したお化けのような大波は
台風でも来ない限り、寺泊といえど味わうことはできないが、
浅瀬のさざ波でも the the the・the Buunと無限に繰り返す
24時間自然の音源付きなので、夏戸であろうと野積の浅瀬であろうと
見ていて飽きることはない。
(地元のひとは潮風臭に慢性化し都会臭との差に気が付かない)
・
関東の波音と
寺泊の波音を科学する。
同じ波なのに、どうして日本海の波は
気分が休まるのかを現地で観察したら結論が出た。
(実験観察地:茨城県日立市K海岸及び新潟県長岡市T海岸)
◆関東の波は、波がしらがズズーンと立ったかと思うと、
バタンと倒れ、急いで直進する。
◆日本海・寺泊の波は、波がしらがムックと立ってから、
一度ひざまずき、小さく倒れ、それから優雅に
ゆっくり直進する。
・
寺泊のさざ波体験入門
・
注) この波音アセスメントは海岸の優劣を決めるものでなく、
あくまでも個人の感想である。
現地測定者の話を基に評価したもので、観測時間・気象条件・測定角度等により異なるから注意が必要だ。
▼初めて波鑑賞体験希望者は先ず、長岡市のどこに海岸があるかを調べてから現地を訪れたほうがいい。(
.
◆昭和時代の長岡市に海岸は無かった。ある日を栄に突然、素晴らしい海持ちになった市である。
・
南西の風3メートル程度の時間帯を狙って、砂浜又は岩場に座り、2時間程度ボヤーっと波音を堪能してから、機会を作って他県(太平洋側)の海岸で同様の観測をされることを推奨する。
・
こんな季節に、波の音を聴くのも気持ちいいことは、寺泊の誇り、千代栄姐さんも、さざ浪の魅力を昔からよ〜くご存じで、これを糸で表現して後世に残したかったに違いない。
◆未発表私説小説
てらどまりを歩く
(寺泊会良寛愛好家の創作話)
・
国上山にあった良寛堂に寄った後私は海岸を歩いてみたくなり
野積橋のあたりまで降りてきた
信濃川分水の下流らしい。木の橋だったので歩くとミシミシときしみ
多少の振動もあり何やら楽しい気分になる。片側通行にすれば車も通れるが殆ど見かけることはない。
100メートルもあったかその橋を渡って道なりに寺泊町の中心部まで歩くこと15分。
寺泊町役場と郵便局の標識がある建物の前まで来た。町ではビルと呼んでいるかもしれない
私が歩いている道の左側にあり周辺に点在する商店よりかなり大きく見えた。
ここで清水屋さんという店の前で海岸とは反対側の道を登ってみた
結構きつく道幅は3メートル位で舗装はしてなかった。
5分も歩いたか左手丘の奥にお寺らしき建物があった。
坂道から見た外観ではお寺とは判らなかったが
読経の声と木魚をたたく音でわかったのだ。あとで町の人に聞いたら
あそこは明聖寺さんですよと教えてくれた
そしてさらに道を登ってみると、「やなぎや別館」という看板の
かかった旅館があった
今流でいえば、やなぎやアネックスであろう。
都心のホテルは2棟目を別館と呼ばずアネックスなる英語を使うことが多い
品川プリンスホテルも2棟あり、一棟はプリンス・アネックスと呼ばれている別館がある
。
やなぎや旅館の中からは長唄から小唄まで三弦の音が絶えなかったという
この旅館横の坂道を挟んで、いかにも楼閣らしい大きな館が左手に見えた。
これが噂の玄場楼か。敷地面積もタップリしており
黒っぽい板塀に巡らされ、門からは中庭らしきスペースが少し覗かれ
手入れされた低い松の木が並ぶ風格有る佇まいであった
4時ころだったであろうか、穏やかな夕日が松の木にかかり影さえ美しい
もっと中へ入れば、坂道側のはるか正面に法福寺があり
この寺の階段と並行して昇り龍のように立つ松並木が見える筈だ
階段の斜面に沿って植えられているので、同じ高さの松の木なのに段々と高くなり
その頂きの遠景は山の稜線のように美しく、寺の風格を側面から支えているようだ
寺泊を訪れる良寛足跡追及家たちが必ず立ち寄るらしい
もしかしたら良寛の妹「むら」も、旦那さんの文左衛門と仲良く二人で
旅人である私が立っている、この楼閣に来て音曲に興じていたかも知れない
世に良寛研究会はゴマンとあり、
その妹ムラについても知らない者はいないらしいが
多分お墓が寺泊にあるというだけのリテラシーで終わっているだろう。
だが嫁ぎ先は回船問屋の大金持ち、
そこの嫁さんが著名な楼閣にも来ていたとなるとその幸せぶりが伺われ、
良寛の世話だけの生活に明け暮れていたのではないことを
話題にすることは研究会でも少ないかも、と言いたいが、それくらいは誰でも知っているぞ、と一蹴されそうだ。
私はその良寛について、分水に住む友人と
じっくりと語り合いたかったので
寺泊を歩いたのだ(村上勉の小説寺泊より)
これだけでも私が噂に聞く楼閣街を訪れた甲斐があったとホッとする
さらに首を右に振れば佐渡島も見えたことだろうが一見の客では
こんにちわと言って庭の奥に立ち入るわけにも行かず玄場楼をあとにした
わたしの好きな寺泊町の散策はまだまだ続いた。
・・ 私小説おわり(出版予定なし。版権フリー)
:
◆
復元地図情報提供(小川隆司様・寺泊在住)
◆柳谷旅館・三輪楼・玄場楼・更に千歳楼と連ね、
その隣には名だたる高級料亭も並び、
寺泊遺産に値するとも言える花街の歴史を誇る。
もし水上勉がここを歩いたら、自著の小説で必ずや、とりいれていたに違いないが、
残念ながら村上勉は3区を歩いたとき山の方にへ行かないで、波を見たかったのか、
能登屋小路を下り海岸方面に曲がって行ったのであろう。
寺泊が日本遺産の特定地として指定される遠因となった、細い能登谷小路を下って浜辺へ出れば波音のざわざわ感が嬉しい。こんな越後の原風景は、寺泊おけさの乾燥した三味のビートが実によく似合う。
・
■寺泊の砂丘は、良寛が弥彦山中の、西生寺に通っていた頃は、山のふもとまで伸びていた。
今は分水川が野積と町を分断しているので、浜辺を、魚のアメ横のある寺泊中央海水浴場から、弥彦山の麓まで、徒歩で行くのは、途中で大きな橋を渡らないと無理である。
◆寺泊町にもあった
戦後のスポーツジム
寺泊の有料スポーツ施設
/
(昭和20年前後)
◆寺泊町にもアスレチックジム相当の施設があった(昭和二十二年頃の復元地図より)
三区戦後の古い地図を見ると、娯楽としてのアスレチックスポーツ普及に貢献した「お店」がある
■解良ピンポン屋
■野瀬ピンポン屋
この二軒の土間には卓球台が備えてあり、当時1円か5円程度を払うとボールとラケットを貸してくれて、時間単位で汗を流し、
概ね日中は労働をしているオトナたちが歓声を上げながら、裸電球のやや暗いスペースでピンポンに興じたものである。
解良ピンポン屋は、町の最新情報にやたら詳しい山田床屋さんのとなりにあった。
・
大河津分水に
積極参加・寺泊大正人
・
この分水した川幅も現状の1.5倍に拡幅される。あれやこれやの拡幅に関する話題では、
樋口 勲氏による講演が寺泊文化センターで開催されたとの情報が来た。樋口勲さんといえばご自身は十日町市出身ながら、寺泊に縁がお有りらしく寺泊人に関する歴史的な知識も豊富、我々の浅学を補完すべく寺泊会だよりにも時折、貴重な情報を頂いている。
それによると、分水路河口の川幅は現在の200Mが300Mとなる大河津分水だが、その昔分水請願の立役者こそ寺泊にいた豪商豪農たちだったそうな。その代表格が本間屋数右衛門や星清五郎であったらしい。
・
寺泊で起工式why?
・
なぜ古き寺泊人が、大河津分水開削事業を積極推進したかとなると、大正時代の先人たちの話を聞きたいところだが、今は昔で不可能である。ともかく起工式は寺泊で行われたことは、事実のようだ。一般的な解釈では、大河津村や地蔵堂でやったのではと思われるが分水会関係者ではないから不思議である。寺泊には蒲原地方の横田切れでの被害は直接なかった筈なのにと偉大な先人をリスペクトせざるを得ない。
. 将来起こるかも知れない単純なリスクを心配しているのは寺泊会である。
河口が広がる即ち濁流・泥水が海に何倍か広がる。これでは、現在でも大雨の翌日は、ブルーな海水表面がブラウンに覆われ、中央海水浴場あたりまで押し寄せているのに、これがもっと範囲を広げ、金山・郷本あたりまで移動するのではないかと危惧する。環境に敏感な国では、すでにプラスチック製のストローの使用を禁止している。川に捨てた細い一本でも、海に流され浮遊し紫外線で分解されミクロン単位となった微粒子が海中に沈み、魚類が餌と一緒に飲み込みやがてはヒトに影響を及ぼすのである。
この議論は国交省とシュミレーションすべきかも。
..
知的な解説は、郷里の史跡ボランティアガイドとして活躍する米子先生らに(小越米子氏)に聞いてほしいが、平成29年4月23日に開催した寺泊会での講演会「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」での、新旧のデジタル画像で違いが判る。
浜辺に実家のある、東京寺泊会の皆さんは、寺泊のさざ波を想い出し「寺泊おけさ」でもゆっくりお楽しみ下さいと推奨する。
■時には早朝から、心地良い風が吹き、程よい波高しで、地元にいた時は当たり前だった風景も、遠浅な海岸からの波の形が、素晴らしい絵の如く映る。
北前船の船頭さんも、寺泊で航海の骨休みをしていたに違いない。
:
.
名物の「寺泊おけさ」は、名手・千代栄・月子 両師匠さんの手にかかると、高度なテクニックで、すくい三味線をあやし、ミュート奏法に徹し、歯切れ良いブルーノートジャズの如くビートを刻んでいるので、軽快且つ、寺泊色溢れる、芸術性の高い座敷唄として仕上げている。「佐渡ヘヤ〜、エヤ〜八里のさざ波超えてヨ、鐘が聞こゆるヤ〜レ テラ〜ド〜マリ〜。」と結んでいる。
寺泊おけさ体操
東京で初披露
・
◆このリズムを利用した「寺泊おけさ体操」は、平成30年4月の寺泊会で平石久子先生が音頭をとり、全員が体験した感動のシーンとして、感激の大宴会に花を咲かせてくれ動画も完成した。
(youtubeアップ準備完了だが、多数のお顔が鮮明に出ているだけに個人情報重視の昨今、来年の大会でご
第1部
北大教授から国立公害研究所長
遠くで見ていれば気が付かないが、宴席でお話を聞く度に、その話は後日ゆっくりお伺いしてお聞かせできませんでしょうかなどと、しばしばインタビューの約束を取り付けることが有るが、高桑氏も正にその中のおひとりであった。
:
右端のYシャツ姿は小林清町長
(役職名はいずれも第10回分水会当時)。
…
:
地蔵堂出身
北海道大学の良さを教えてくれたのは、北の大地に赴任していたのは
◆ドン武見太郎からの電話
「北大を辞めて筑波の国立公害研究所〈現・国立環境研究所)の統括責任者になってくれ」
:
翌日上京し、武見会長に会った。
日本の予防医学を憂う武見哲学に同意
:
専門性を身につけた研究者も育ちつつある感がしたという。
:
3年目のドンデン返し政党からの誘い
:
1983年(昭和58年)第13回参議院選挙
:
:
当選者を予め確保する事が出来る事となった。
だがこの矛盾と弊害は、開始以来継続していた
小さな集団で出発したミニ組織も、結党20年目を迎えて、
比例代表方式となった事で
党議拘束のない立候補への誘い
別れ際「私が応援するから」と、
武美は、人なつこい眼差しで握手の手を差出してくれた。
高桑栄松の決心はここでついたのであった。爾来
政治家になってからの活躍は、一貫してウイルス抗体研究
専門家の立場で発言した。立法府の役目は十分すぎるほど有効性に
富み権力と闘いながら、十分な活躍をしていた。
だが、これを分水会同席者らとの話題にすること無く
毎年6月に開催されていた、分水出身者の集いを楽しみにしておられ
北海道・札幌から参加していたのであった。
第一部終わり
第二部・政治家としての活動抄。
政治家・高桑榮松(地蔵堂)の功績 | ||||
|
||||
第114回通常国会での代表質問 | ||||
(竹下登政権当時) | ||||
第13回・参院選(昭和58年6月) | ||||
自分を推薦してくれた党は730万票を超え特出し | ||||
比例区当選者8名の中に、高桑榮松の名前があった。
|
||||
✴️北海道医師会もやがて後援会に | ||||
立候補時には、地元北海道医師会の推薦は無かったが、 | ||||
当選後は道内多数の医師会員が、後援会に名を連ねた。 | ||||
✳️当時は、第一次中曽根康弘内閣成立2年目であった。 |
||||
自分の記念すべき初当院となった、第100回国会に始まり、 | ||||
野党連立政権となった村山富一時代を経て、橋本内閣直前の | ||||
第132国会迄、参議院の政治家活動に邁進した。
|
||||
✴️目まぐるしく誕生した総理大臣群
|
||||
高桑は2期12年間においては、科学技術特別委員長・運輸委員長、 | ||||
文教・環境・社労委員などを務めたが、73代総理・中曽根退陣後は、 | ||||
竹下・宇野・海部・宮澤・細川・羽田そして村山と目まぐるしく | ||||
総理大臣が変わった時代であった。 | ||||
✴️分水会員も気が付かなかった高桑全盛時のハイライト
中でも、任期3年目を迎えた、第104回国会での予算委員会は、 |
||||
最も印象に残る国会であり、 | ||||
質問中全閣僚の目をパッチリ開けさせた事で | ||||
マスコミ命名の「居眠り閣僚なし国会」として語り継がれている。 | ||||
✳️国内エイズ患者14人の頃からの高桑発言 | ||||
第104国会は | ||||
予算委員会は昭和61年3月14日・午前10時に開議された | ||||
|
||||
✴️午後の部で最後となった高桑栄松が発議。 | ||||
高桑は「後天性免疫不全症候群(エイズ)に関して、癌と比較し | ||||
その怖さの認識を各大臣にお聞きしたい」と冒頭で、 | ||||
居並ぶ閣僚に切り出した。 | ||||
✳️安倍晋太郎(外務)、河野洋平(科学技術庁長官)、 | ||||
中曽根康弘(総理)、竹下登(大蔵)らの各大臣 (質問順) | ||||
ほぼ全員が後々総理大臣になっていた。 | ||||
大臣達は、 「癌に比べたら、現況では解明度の低い、 | ||||
エイズの方により怖さを覚える。」と答弁。 | ||||
この様なプロローグで開始された予算委員会審議は、 | ||||
その後政府委員らとの議論のやり取りで、厚生省などのデータを追及。 | ||||
✳️更に恐怖感だけの観念論で終わらせないために、 | ||||
歯科医療現場で直面している危険性を述べ、 | ||||
剃刀やコンタクトレンズ装着の際の感染を、科学的な根拠で説明し、 | ||||
各国の実情を例に挙げ、予防体制に主眼をおいた | ||||
「献血時における血液エイズ抗体検査実施」の | ||||
重要性を発言したのであった。 | ||||
当時の研究費をこれから予算化しようとする日本に対し、 | ||||
米国では既に300億円近く計上していた頃である。
|
||||
「日本の献血者は、年間900万人。 | ||||
✳️エイズ感染検査を組み入れるための予算措置は、 | ||||
たとえ何億かかったとしても、即刻実施すべき」と高桑は結んだ。 | ||||
★エイズ抗体検査の実現 | ||||
論議白熱した参院予算委員会は5時25分に散会。 | ||||
その直後に記者会見をした後藤田正晴(当時官房長官)の発表が、 | ||||
翌日の全国紙朝刊で各紙一斉に報じられた。 : ✴️後藤田は議事堂の廊下で、高桑を見るや、側に来て |
||||
「いい議論であった。予防は重大である。 | ||||
ゼニ金を惜しんではいられない。カネが無ければ政治決着でつける」と言ってくれた。その時の長官は自信ありげな顔だった。 : |
||||
★★高桑発言の実績★★ 予算委員会において闘わされた、エイズ抗体検査の高桑発言は、 |
||||
驚異的な迅速性でその成果が実現へと歩み出した。 : |
||||
✴️エイズ対策・研究予算は7年後(1993年)に100億円(当時) | ||||
の予算を超え、更に献血血液に対しては別個の予算で | ||||
100%の抗体検査が実施される事になり、 | ||||
今日まで連綿と継続実施されている。
|
||||
この予防医学分野で活躍した高桑発言が2020年以降の国内コロナワクチン接種の進展に | ||||
どのように生かされ、継承されるたのであろうか。
🔷本稿は参議院会議・議事録 第104回国会・予算委員会第9号録、並びに分水会宴席において交わされた高桑榮松氏直接インタビュー及びその後の長期交信に基づき制作したものである (写真提供ご本人・東京分水会他)
|
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★2021年度東京分水会中止を慰労しようと制作した長編閑話
★分水町長時代の小林 清氏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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★平成の大合併は、構成する自治体組織図を国の トップダウン方式でなく |
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当該地域協議の許で推進すべきものだけに、当事者となった 住民同士での損得・駆け引き・葛藤・策略は |
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部外者では理解できる筈もなかった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一見公平と思えた住民投票が実施され、 尤もらしき名称を決めて発表し、これで決着かと遠方で聞いても |
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いつの間にか白紙に戻り、何の拘束もなかったのだと知らされる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
★合併に賛成した市町村も「仕切り直しだ」と離脱解散していた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
当時合併協議に直面していた、自治体の首長たちの心労は、 凄まじきに達していた事は容易に推量できた |
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各々の地域は異なるが、その舵かじ取り役として、町村合併直前 までは町長・村長らが自治体の担い手となって活躍しておられた |
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✳️やがて時は経過し、特例債の有効期限に気をもみながら、 平成の合併劇は粛々・恐々と進行。 |
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多くは、初期段階での想像を覆す新自治体の誕生として、 結末を迎えたのであった。 |
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合併が終了すると、支所長、市議会議員、市長など華麗に 転身し改革に勤しんでおられた。 |
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棚橋かう さん | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
モダンうるしアートとの出会いが人生を決めた | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「知的・刺激的で芸術性の高い世界に没頭したいわ」
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子育ても一段落したある時期、棚橋かう(旧姓・解良)さん は出来る事なら万人向きでなく、 人があまりやらない少し違った事をやりたいとも思っていた
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そして出会ったのが、うるしを使ったアート作品であった | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
: 女性を照準としたカルチャー教室盛んな頃 : : 合成うるしを使用した新アートの世界 |
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「合成うるし」による新技法は、油彩画家湯佐みどりが 開発した美術工芸作品制作の新技法である。 |
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湯佐は渋谷の「東急セミナーBE」で漆絵や人気講座の ひとつであったモダンうるしアート教室を担当していた
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棚橋かうは、ここで彼女に出会い師事し、初めて「合成うるし」の 作品群を知った。
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本漆と違って、原料にカシューの樹液を使用した合成顔料で |
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かぶれる心配はなく、それでいて出来映えはどっしり感に富み 華やかである。
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修行には当初、クラフト、アクセサリーなどの小物から入り、 研鑽を重ねるにつれて、漆絵で50号の大作を制作するに至った。 |
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勿論、その才能は他の生徒の比でなく、抜きん出ていた
やがて、棚橋自らも講師として、めでたく教室を開設する事に なったのである
★棚橋は、分水町に生まれ、幼少時から 父親に連れられて上野美術館や銀座の画廊 などを、度々訪れ自分の目と感覚で数多くの 美術工芸品に楽しく接触する恵まれた環境下で育った。
著名な作家の美術作品鑑賞を最大の趣味とする父親は 自らも絵を描き多数の作品を残している。 美術の世界の素晴らしさを、娘にも肌で感じさせようと 鑑賞眼を伝授しながら、娘の成長を見るのが何よりの 楽しみだった父親あっての、今ある棚橋作品が 誕生したのであろう
やがて彼女自身も作品制作に夢中になり 「うるしアート」と出会ってからは、 独自にその道を切り開き、鎌倉彫り、陶器に 新しく漆技法を合体させた作品を追及するに至った
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★ヨネックスレディスゴルフトーナメント2021(6/4〜6)
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★野鳥はさえずり、海風そよぐ、絶景のゴルフコースが志戸橋(寺泊)にある
◆ヨネックスといえば、世界中のトッププレイヤーが好んで選ぶ、スポーツギアの名門企業である
元祖バドミントン/テニスラケットに始まり、ゴルフクラブ、ウェア、シューズ、スノボなどに加え、通販サイトにはレディスファッションなど事業セグメントを堅実に拡大しながら、競合あっても顧客ニーズを分析し革新的新技術でマネジメント対応。
ファウンダー・米山稔氏(1924-2019)は東京新潟県人会の会長としても長年多大な功績を残し、出身者の会には大小を問わず欠かさず参加されていた、
同じ三島郡出身とはいえ、寺泊町にも何回か訪れておられ、有難いj事に我が寺泊会を良くご存知であった。カントリークラブを開場させたので、距離が一層近づいたような気になり、クラブ運営にも地元のスタッフが協力している。
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県人会館の玄関先
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それは上野にある、東京新潟県人会館で開催された、理事懇談会が終了し、会館の玄関先で米山稔氏(当時会長)をお見送りする際の一瞬の出来事であった。
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新潟県人会には、(ネット検索)☞ふるさと郷人会として、120を超える組織が登録されているが、郷人会の会長は自動的に、県人会の理事になることに決まっているから、理事だけで100人以上もいることになる。2005年には当時81歳の会長から、全員が記念色紙を賜っている。
米山稔氏は、我々寺泊人に「あなたの町にあるカントリークラブの話だが」
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「今度うちの会社で新潟出身の女子プロと契約するぞ」と実に嬉しそうなお顔をされながら「今度は、新潟出身だぞ」と強調し、更に「ワ※△○○」と言うゴルファーだ、と結ばれたが、はっきりと聞き取れなかった。当時はまだ男子プロのゴルフ全盛で、女子プロの名前は、連日テレビにお名前というほどではなった。
だがバブル期では想像もしなかった、男子プロゴルフ中継削減は息を吹き替えす兆候が無い。
新潟県で開催される男子ゴルフの中継は、真夏開催のNST新潟オープンが地元では知られていたが、2004年で終了している。
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◆時は2021年6月6日(日)、ヨネックスレディスゴルフトーナメント開催中(BSテレ東12:00〜放映中)
寺泊の丘陵に囀る、野鳥の鳴き声付き。
これだけでも楽しめます
…
優勝者笠りつこさんには越後米5俵が長岡市から贈呈され勝利の笑顔で溢れていた。
優勝賞金は1260万円であった
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つづく。
ここまでが序章 以下が本題となる。
★寺泊町出身女子プロ誕生夢物語童話
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✳️タイトル: 心を動かせ。寺泊在住の爺さんゴルファーとお父さんたち。
これは、60代以上の皆さん家にばかり籠らないで、グリーンに出かけなさいとの単純な提案ではない。
…
✴️時代はサスティナブル全盛で、全ての経営戦略は持続可能性重視である
寺泊在住で、「60代以上、ゴルフ好きな仲間を持ち、規模はともかく、商店主か経営者」
これだけ絞り込むと、一桁しかいないかも判らないがゼロではない。
これだけいれば十分、寺泊出身女子プロの誕生に支援していただける
✳️寺泊出身女子プロ誕生までのロードマップ短期5カ年計画(寺泊町編)
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(1)ゴルフに興味ありそうな寺泊在住の小学生を、2021年末迄に探し出す(7-11歳)
(2)クラブにさわらせ、アウトドアあそびの楽しみを教える機会の無償提供
(3) 2022年末迄に、寺泊砂丘に、子供専用のパターゴルフ遊び場を造成
(4) 寺泊・志戸橋にあるカントリークラブと交渉し、メンバーゴルファーとカントリーライフの社会見学実施
(5) クラブメンバーで、子供の未来に理解有る人物を探し、心を動かせて頂く。多忙な学校の先生では不可能
(6) 彼女らが中学生になったら長岡市にあるレッスンスクール(HP参照)に通わせる。(費用ご両親持だが)
(7)有望ガールズを絞り込み、カントリークラブの練習場で練習の機会を提供して頂く
(8) ゴルフ部の有る高校を全国規模で探して進学させ、部活として心身耐えれる生徒の育成。
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★アフターフォロー
2021年度は高校3年でプロテスト合格者もいたが、寺泊町ゴルフガールズの両親に興味を抱かせる
:
以下つづく
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*Go To 東京寺泊会(2021年度)中止のご案内**
:kn2021年4月25日(日)に開催を予定しておりました
第66回東京寺泊会記念大会は今だ不安定世情回復ならずで
昨年に続き残念ながら、2年連続の中止となりました
★心配事はいつの世にもある。終息の道が見えない様では
いかなるイベントも控えるべきだ。
何故なら、開催者がその責任を負えないからだ
(創設者・回顧録より)
✳ マスクを付けた飛沫なき宴席、
それは、もはや寺泊会ではないと言う論理は
今から66年前の、寺泊会創設者 (写真右➡)
小林源次郎・初代会長殿(当時の億万長者)も
世の中に益なき算盤は弾くなとして同郷人を集めていた。
:
✴ そこで出した役員会の決断
越後銘酒の宴席を伴う集いである寺泊会は
中止とさせて頂きました
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✳あとからついて来た 国家戦略、Go Toイベントの中止要請
…
★2021年4月25日(日)開催を予定しておりました寺泊会懇親交流大会は、
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新型コロナウイルス感染拡大の勢い著しく
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3密回避、多人数が集う宴会自粛要請に加え来年の話とは言え、今後半年先に於いても終息不明で、感染リスクを考慮した結果
:
2020年4月大会の中止に続き、2021年4月大会も中止が最善策と決断
:
「第66回:寺泊会懇親交流大会」の開催を中止とさせて頂きます事を謹んでご報告申し上げます。
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■2020年度大会のリベンジとして企画した、銀座ジャズバンドの演奏で参加者が唄う、生オケ熱唱大会も中止となります
(★2020年度即ち昨年4月は、大会中止の決断が、開催僅か2カ月前だったため、多数の皆様にご迷惑をお掛けした為、
2021年度即ち今年度大会中止のご案内は、「 行政の先を行く4カ月先を予測し早々に決断し、」ご案内致しました)
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2020年12月吉日
創立66周年・東京寺泊会・役員会/実行委員会
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リーダーシップの期待と失意
◆日本で感染者が数値化され始めたあたりから、連日同じ顔の感染症研究専門家なる御仁が登場しては、当初では。プレゼンのデータ・スクリーンなしで、メデアのクローズアップに応えている。有効性の高い研究リーダーによる、クルーズ船で大騒ぎしていた頃に、緊急事態宣言からロックアウトの必要性までを、強力に唱えても良かったかも知れないが、そこは慎重だった。
専門家集団に、社会行動心理学や経済の専門家を加えたらの発言は、この後かなりの時間を経過し、日本における感染者数が、推測数を遥かに超えてからであった。寺泊会の初稿時点あたりでさえ、気になっていた有効性の問題でもあった。
▼会議記録ナシ 勘グリ五項目 列挙中
またもや上級会議の議事録に関する問題が勃発したようです。🐚🦟
🔹コロナ関連に属する行動の判断要素は、政府、官庁組織だけでは、感染に対する専門性が脆弱となる。
とにかく感染に詳しい組織を作って召集し意見交換の会議をせねば。これ以降、政府説明として、専門家の意見を聞き相談した結果など、とトップ判断根拠の先鋒に立ったのが、専門家会議の存在となったようである。会議につきものの議事録が問題視されたのは、これまた、だいぶ後になってからである。この時とばかりに寺泊会が得意とする「下衆の勘ぐり遊び」が止まらない。
■ネットで議事録の存在が無いようだとのニュースを見て作りました
◆ハフポスト誌は、公正自由主義的な立場で社会情勢などの意見・レポートをネット配信する、米国で誕生したメディアである。多くの国において地元メディアと提携し母国言語でも配信され、我が国では大手新聞社が法人を作り、日本語版としてWEBで、時事ニュースや知識人のコラムなどが楽しめるようになっている。
🔷その日本版ハフポストのWEB(5/29)によると、最重要機関の会議において、議事録が一切無いのは如何なものかと報じている。
コロナ感染対策として政府が召集創設した「専門家会議」は、総国民を巻き込んだ、あの緊急事態宣言をする際に、最重要意思決定にも参考意見者として拘った機関でも有る。
◆問題は、重要会議に至る、一切の記録について、ペーパー・音声、メモ、議事録など、全く作成してないまま、今日まで来てるとの事であった。
記録と言えば、シュレッダーに始まりデータの廃棄行為で、ついこの前、コロナ渦発生直前の、観桜会の話題沸騰の頃に、聞いたばかりであったが。
今度は、専門家会議に関しまして開催内容の記録がございません、との方向で押し通される気配である。
昭和時代なら、「記憶にございません」で通じたが、今度は識者達の関心ごとに発展しているので、容易では無いだろう。
◆勘ぐりで想像する記録なし5つの理屈とは
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(1)会議で交わされた意見などは、トップダウン事項にも匹敵し、記録で明確にすると、作業指示発言者が特定されるリスクがある、と思われたのかも。
(2)VIRUS単体が、NOVEL=新型と呼ばれる故に処置対策に前例なく、毎回会議の結論が出ず、結論に感染症対策の有効性を担保できない、と思われたのかも。
(3)会議を開催する度に、罹患者の人数が異なり、会議出席者の発言を統一しずらく、最適処置としての結論が出なかったのかも。
(4)その他、この会議は記録がない方が、社会混乱発生の際に、決定した覚えが無いと言えるので、都合良いであろう、との主催者側の意見があったのかも。
(5) 専門家会議に出席している専門家達は、知見豊富で、あらゆる事態局面を想定して述べるので、同席する拝聴サイドは、あたかも大学授業の如く、単に出席しているに過ぎず、発言もすることなく、「なるほどそうですか」とうなずくだけで、会議にはならなかったのでは。ましてや議事録に必要な討議等は一切なかった。
それ故議事録は不要と、つい思ってしまった、のかも。
・・・と勘ぐってみたが、果たして高度な専門家会議の主張には、下衆の勘ぐりで作った5項目が事実に当てはまるかは疑問と思いつつ、唯一記録のない事実だけが間違いなく、事実として永久に記録されてしまった。後日上記5項目の内、実に2個が正解であったような気がする。
◆よもや、何日か後に会議の記録は、内閣府で保管されていましたとは言うまい。ましてや第三者に発見される事もあるまい。長期間隠匿するにも、民間企業での経理操作における裏帳簿の如く、維持のため要員として、最低でもひとりの監視者を必要とするが、厚労・経産省内でなき事を祈る。寺泊会のように役員会議は実施しても、何の記録も残っていないのと同じでは、情ないが。
マスク戦争はコロナの副産物か
■マスク着用の重要性を唱える専門家がトップを動かし、全世帯に配布計画までたどり着いた事実で、感染予防上での初期行動が理解されたが、配布リスクの考察をプラスし、もし配布品に異物などが混入していないかの工程検査も必要で、衛生用品配布の必須事項だと、トップに知恵袋として、専門家集団がここまで指導済みだったと信じるばかりである。
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◆リスク排除の側面まで専門性をつけ、これに呼応する国のトップ層も、必要に迫られての緊急事態宣言決断まで右往左往であった。
日本における無検査マスクや規格外防護服などの市場拡大がないことを祈るのみである。
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--以下約2000字は、後日追記稿--
●上級アマチュア集団の限界かも
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◆国民全世帯にマスクの配布を決定するとのトップダウン指令で、忙しくなったのはどこの関の省に所属する、どなた様であろうか。
注文書の作成責任者が誰であるか迄は追及されていないが、5月14日の政府説明によると、どうやらマスク製品に問題があったらしい。本稿でリスク云々と書いた約1か月後にこの予見と心配は、ついに我が国において現実のものとなった。
黄ばみ・カビに加え髪の毛・虫などが混入していたマスクもあったとの声に、中継した市町村の担当者も、善良な市民のクレームを聞いてビックリか。結局は検査工程の欠如の産物として、約5万枚相当が金と労力の無駄を生んでしまった事になる。
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◆B-BでもB-Cでも製品の売買には、定型約款がつきものである。
いきなり生産者に「マスク50万枚手配するから見積書提出されたし」とか言ったのだろうか。
何の条件もなく、枚数・納期・金額そして指定納入先だけで手配したに違いない。
金額が億単位にも拘わらず、B側には値引き交渉もなければ、衛生用品につきものの、検査仕様項目も記載なかったのは、専門家集団でなかったのだとしたら、アマチュア集団でしかない。今、はやりのハンコを押しただけの紙きれで、億単位の税金が普段からも使われていたのではと思うと、さすが中央管庁だとしか言葉が出ない。
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🔸2020マスク発注担当者さんの手引き
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◆たかがマスクされどマスクで、制作単価が100円以下の少額商材だけに油断しがちだが、ヒトのマウス近くで使用する繊維製品だから、価格と納期だけで手配した製品は危なくて、人様に無償配布する際には、薬品並みの注意が必要となる。
日本には「全国マスク工業会」なる組織があり自主基準を設け、この組織に登録した会員企業の製品なら安心である。
(写真のみ朝日6/1朝刊)
◆最重要となる基準は、繊維内部に「ホルムアルデヒド」の含有率が適正か否かである。検査工程で77ppm以下に抑えていないと、一般では不適合品として扱われる。昭和の中頃の住宅建材やラシャ肌着、眼帯用ガーゼなどの繊維衛生材料にも多量含有していたので、粘膜刺激による、涙目・鼻水・咳等の初期症状が出たり、末路は癌を引き起こしたりしていたであろう恐ろしい含有化学物質である。
◆令和の政府が回収命令を出した全品は、目に見えるゴミ・カビ・変色などが再検査合格基準だそうだが、製品含有化学物質の基準内保証はついているといいのだが、更にパッケージに合格マークでも付けてあったら安心できるのに、もう間に合わないだろう。
単純な話だが、専門家会議などで製造者に、バリデーション確認の徹底を要求されたいものである。ISOの世界で良く使用する妥当性確認の章である。
🌠マスク着用率に関しては、ほぼ100%の日本だが、マスクのメーカーを変えた途端に
目がチカチカするとか、喉に異変や、涙目になったような気がするとの症状があったら、
ミルクボーイよろしく「そりゃお前、ホルムアルデヒド」とちゃうんか?
と言えるようになれば安全、安心の基礎が身についた生活が送れると、寺泊会は提唱したいが、何せ150人足らずの小会でしかない。検索クリック総数だけは、全国で九十万を超えてはいるのだが。
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---以上追記稿終了。
◆厚労省は、国内感染者、退院者数などを更新しながら公表している
コロナ感染データの詳細が理解できるので有難い。
収束し商売再会を願いながらも、地上を歩き回るお隣同士が、感染症予備軍の状態となると、自分を含み、誰も信用ができなく疑ってしまう。
◆今思うに、2月末にアナウンスした、創立65周年記念大会中止を寺泊会役員たちが決定し、拝送させて頂いた大会中止の案内はがきも無駄ではなかったも知れない。
🔷 一方、寺泊会とは長年の友誼同郷会となる、分水会さん(2020年6月21日開催) からは中止案内が来たが
弥彦村人会さん(例年では秋に開催)の頃までには、コロナ感染騒ぎの終息を願うばかりである。
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コロナ感染のリスク管理と除夜の鐘
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◆マスク・手洗いなどの予防策は老若男女で遵守中であるが、一歩外へ出れば、このほかにも日本では、手すり、エレベーターの押釦等にタッチするのも細心の注意を払い、ヒトから感染防御に余念がない。見えざる菌との終わり無き徹底抗戦状態である
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3毒の煩悩(今年は3蜜の煩悩か)
◆ならば越後寺泊町が誇る数ある名刹のひとつ、日蓮宗寺泊山法福寺境内に建つ今年の除夜の鐘は鳴らすことができるかどうか。毎年恒例で年の瀬になるとフリーで、本堂前の鐘楼に集い順番待ち、不特定多数が鐘つき棒のひもを引っ張り、有難くゴ〜オ〜ンとつかせてもらいながら、3毒の煩悩厄払い祈願しているが、今年はひもさえ気になる。
触った個所に除菌スプレーでも掛けながら、次のひとに変わるかも。それとも各自でスーパーのレジ係で着用しているような、マスクと薄い手袋を持参させるか。
イメージ写真:長勝寺(弘前市)
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◆大晦日にマスク除菌スプレー姿の善良な日本人を、お迎えされるかも知れない、かの日蓮聖人様も、佐渡流刑の際に風待ちでいっと本間家で滞在し法福寺と出会った、かの地で遭遇する八百年後の光景には、驚嘆されるに違いない。その法福寺様の開創・最澄大師も、しかりであろう。
・
◆せめての願いで、年始時の挨拶だけでも禁断の三密を解禁し
マスクなしで「明けましておめでとうございます」と
第58代となる、現ご住職の前で、白い息をはきながら発したいものである。・・・・つづく
(創作:コロナ軍の戦略とその戦術は近日出稿予定)
・
◆緊急事態解除 歓迎と不安▼
◆2020年5月下旬トップの緊急事態宣言からそろそろ2カ月を迎える。全国での我慢も限界か。
当初は5月の連休前に終息かもと推測されたが、連休明けまでとなり、更にあと2週間とか、月末迄にはとか、宣言解除を延ばし、初体験の粛清生活で生きて行くには忍耐するしかない。
感染者ヒトけたをやっと達成した5月下旬金曜日の東京。このころまでには、全国的に見れば、新たに感染者はナシは既に多くの都市でも見られるから、競馬なら第4コーナーを曲がり、短い直線コースに、いざ突入の状態を呈し、外出自粛規制に鞭を入れるのもあと2,3回かも。この辺りが最も大声で叫びたくなる。但しゴール直前の大歓声に先頭馬が驚き、無念の落馬でも無ければの話だが。
◆寺泊会の資料は、前年2,3年分の出来事はすぐ検索可能だが、確かに2年前の今頃は、日大アメフト問題で連日こればっかりの報道であった。後ろからタックルする同じシーンを何度も何度も見せられていたから忘れられない訳である。コロナのヒト文字もない。娑婆にいると人生何が起こるかか判らんが、コロナ軍に対抗する戦術もあと僅かで実践成功となることは判っていても、今年も多数の新ワードに踊らされている。
◆ 2020/05/25解除宣言 ◆
◆越境来県おことわり、無観客試合、リモートワーク、コロナキャンセル、濃厚接触など、この先どれほど新語が増えるか計り知れない。
定義が変わった言葉もあるから、この僅か3か月が、いかに初体験続きであったかが判る。
濃厚接触の定義も2M以内から1Mに変り、感染症も発病したその日が、2日前に変った。
◆コロナ渦はまだまだ終わっていない。「東京は来週25日(月)にでも宣言解除かも」と女性知事さんはマスク越しで優しくおっしゃるが、市民による外出自粛要請の遵守で、苦境に立たされている飲食店亭主や飲み屋街のおかみさん達。
「客として来たくても来れなかったよ」と緊急事態宣言解除後に、本音を吐露したくとも、閉店宣言し店を畳まれてしまったら、あの懐かしい暖簾さえくぐれない。
🔶長年お世話になった馴染みの居酒屋だけでも、店じまいするような事だけは有りませんようにと願うばかりである。
居酒屋で漂う、喧騒音と飲み仲間の酒臭い息でさえ、今や懐かしい。
◆単純な疑問の正解者募る
◆某レストランのシェフ、時折テレビの料理番組にも先生として出演する。そのたびに共演者の芸能人から、美味いと褒められている。
このほかにもテレビには多数の料理番組があり、先生がフライパン越しに、あーだ、こーだとレシピの量を教えたり、手順を教えたりで最初から最後まで口が止まらない。
🔷マスクをしてない料理番組の先生たちは特例 👩🏫?
これをナノ単位の解像度がある高感度高速カメラで撮れば、無数の飛沫が鍋に、フライパンに、まな板にと飛び回って居るに違いない。今はやりのマスクが必要となる筈だが、マスクした料理の先生の姿は一度も見たことが無い。3蜜に関係しないか否かを検証する必要があるが巷の市民識者の見解やいかん。
🔷緊急事態宣言は、酒屋のみならず、バー、スナック、カラオケ、遊興施設、教育機関、競馬競輪から音楽/各種スポーツ施設とそのファン全てが、やがて来るであろう解除に期待し遵守した。
首都圏一都3県在住、総人口約3800万人すべての人種において、解除こそが一合目当面のゴールであった。
その業態分類は、多岐に渡り文字で表し切れない。
さて NOVEL LIFEのはじまりである。NOVELは新型を意味し、NEWとは違う。
今年攻めて来た、コロナ軍はNOVEL CORONA であってNEW CORONA ではなかったのである。
(つづく・校了未定)
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✳自粛階層向けホームステイ時間助成閑話集
:
🔷受章とは古いニュースとお思いでしょうが、コロナ騒動のお陰で各団体の宴会行事少なく、 お蔭で寺泊会にもお座敷掛からず、少々時間を持て余し気味。
やむなく検索数の多い人気記事を出したり引っ込めたりで、時間をつないで忍ぐしかない。
:
◆まさか、今盛んな「金投資」で大儲けしそうだという寺泊会会員さん(60代後半女性)の損得話を記事にする訳には行かず、人生さまざまである。生くさいお話になればなる程、オカネ好きな読書層向けに面白い筋書きがあるのだが。
🔸因みに8月14日の相場は前日より107円下げたが7359/gであった。(2020/08/14 T社買取相場表より)
そして約2か月経過したが、売相場は6933/gだ。(2020/11/11午前の同社買取価格表より)件のおばさんは500g
持っておられたから、高値で無くとも売ったかどうかは、これをお聞きする機会がない。
そして久しぶりに金相場表を見てびっくり‼️
2024年1月29日金相場。2020年の初稿から4年近く経過でグラム3000円高騰で¥10511と来た。
寺泊会も中止で懇親会がないから持ってる種族の最新情報は聞きようが無く損得ストーリーは古くても仕方無い
:
🔷いつの時代も予期せぬチャンスもあればピンチもある。どんな時でも乾杯の盃で祝したい。
ここに越後銘酒が有れば最高で、越後のスター杜氏さんに登場してもらうしかない。
:
🔶引岡の雄:
…
黄綬褒章受章記念
・・
/
・いつも誠実温和な高橋孝一さん
⭐某大手スーパーの日本酒コーナー最前列に一升瓶勢揃いで威厳を放つ、年友杜氏入魂の銘酒越乃景虎群に圧倒される。中でも超辛口の文字に挑戦意欲が湧いて来る。
(撮影 2020/08/14)
:
スター杜氏さん
:
栄えある受章
・
春の受勲アーカイブ ▼ |
■東京寺泊会で酒造り唄を披露してくれたのは、2010年春であった。この年に清酒品評会・チャンピオン3連覇。更に同年秋には「現代の名工」として、厚生労働省から認定を受けた新潟県民3人衆の中の、ひとりとなった。時に66歳。
:
■あれから2年.黄綬褒章に輝く。寺泊出身の杜氏は、全員が褒章該当者に値するとも言われている。酒造りにひたむきな情熱を捧げて50年以上の経験を持ち、出来上がった作品の品質は、個人の嗜好に依存し、甲も乙も付けがい。丁度、美人コンテスト世界大会にも似ている。皆さん眼が大きく背が高い。腰のあたりに余計な肉がないしプレゼンも上手で、髪も脚も長い。
即ち一流の資質を持った者を集め、1等賞をつける審査にも似ている感がする。
:
:
■高橋杜氏さん、最初となる酒造り修行の場・石本酒蔵では、頭(かしら)まで登りつめ、越乃寒梅造りに情熱を燃やしていた事を知る者は、地元の人でもそう多くいない。
◇創立55周年記念大会で、高橋杜氏らをステージに迎えた寺泊会大会はこんな様子だった。
。
大会の模様は、新潟日報4月5日付け、日報ウェブニュースで配信、更に、同月6日発行の新潟日報19ページ、地域面でも、大きく掲載された。
新潟日報ウェブニュース |
● 55周年記念大会アーカイブ。
● 特別出演 野積杜氏など5人衆による酒造り唄
▼寺泊会創立55周年記念大会。東京おかみさん会を主宰する高橋和子さん率いる「おけさ会」の皆さま、大枚の、ご祝儀持参で、踊りの披露を賜り心より御礼申し上げます。県人会の芸能大会で、司会をさせて戴いたご縁でのお付き合い以来4年になるが、友情参加してくれないか,の一言に、快く即応して戴き大感謝であった。
▼出演杜氏さんのご紹介
▼酒造り唄公演・杜氏さんと蔵元代表銘柄一覧
協力・寺泊酒造組合
▼ 杜氏{出身) ▼代表銘柄 ▼蔵 元
会 長 藤井正継(野積) 〆張鶴 宮尾酒造{村上市)
副会長 高綱 強(野積) 自然郷 大木代吉本店{福島・矢吹)
副会長 高橋孝一{引岡) 景 虎 諸橋酒造(長岡市)この2年後、黄綬褒章
青柳長市(大和田) 宝 山 宝山酒造(岩室)
加藤儀兵 (野積) 笹 祝 笹祝酒造 ( 巻)
酒造り唄音声■笹祝酒造提供 |
写真左から●笹祝●〆張鶴●宝山●自然郷●景虎を産み出すスター杜氏さん
▼職場では近寄り難い杜氏顔でも、この日は柔和なおじさん顔でありがたい。
それぞれの蔵元の最高責任者として、(写真中央左側が高橋孝一さん)手掛けた作品を持参した杜氏さん推奨の銘酒をテーブルに持ち廻り、会の出席者全員に振舞ってくれ、感謝感謝である。・・・東京寺泊会一同。
この翌日となる5日には郷里寺泊支所を会場に、清酒品評会が開かれ、55周年記念大会に出演された引岡出身の高橋幸一さん出展●「越乃景虎」諸橋酒造が3年連続の優勝を飾った。日本を代表するスター杜氏をゲストに抱く東京寺泊会の素晴らしさを改めて実感する。
■優勝した「景虎を」造る杜氏・高橋孝一さんは、東京寺泊会の、故外山健太(前会長)と平石國男(現副会長)両氏や、風間幸恵さん旧姓三上幸恵さん(松沢町)とは寺中時代の同期生である。互いに顔を合わせて目をパチクリさせながらの40年ぶりの再会を喜んでいた。
宝山酒造は野積から弥彦山を跨ぐ温泉地・岩室にある。ここの杜氏は青柳長市さん、ここで造られる年間1200石の酒造りに全責任を負う。自然豊かな村の蔵で、四季神酒を産み出す自信と誇りを、仕込み唄で披露してくれた。青柳さんは自身の名刺に「弥彦神社おみき」の杜氏、と大きく銘記しておられる。
来賓としてお招きした十日町出身の弁護士・春日寛氏は,長年の宝山ファンである。青柳さんの粋な喉と唄を激賞。
今年九月開催の朱鷺メッセのステージでは、寺泊酒造組合の出演が決定している。この芸能大会は3人の司会構成であるが、東京寺泊会もその一人つぃて、受け持つこととなった。(写真は仕込み唄を唄う青柳長市さん)
▲単純な動作なのに酒造りの匂いで充満。
● ● ●
場内を佐渡おけさで盛り上げる、東京おけさ会の姐さん達平成26年4月22日(金)に開催する第61回寺泊大会にも出演交渉中である。
友情参加の東京おけさ会 高橋和子社中6名は相川音頭で杜氏さんを前に、東京で味わう越後佐渡の代表的な民謡を披露今年初参加の、野積出身・青木重善様のスピーチは、「野積人の誇りとは」と演題を決めた当会からの直前依頼にも関わらず、ワラジ持参で、見事に素晴らしいトークをされ、粋で豪快な野積ダンディの姿に酔いしれた感じであった。
■ご祝電感謝
小林清燕市長様・32号昨年同様ご祝電を戴きまして、ありがとうございました。司会者より会場で披露させていただきました。来年度も鈴木新市長様へ継続されますよう、宜しくお願い申し上げます。
記念撮影に間に合いましたか ■東京寺泊会の特徴は大会開始の合図が全員の集合写真である。大会の開催時間即ち写真撮影となるので皆さん時間通りに集合される。宴会はこの直後に始まるのである。 撮影の際に宴会場から移動し、ホテルの専用スタジオで行われる。果たして遠く離れた寺泊の諸は、この顔の何人をご存じだろうか。夏戸・大和田・本山・松沢町・上片町・上田町・荒町・白岩・野積などを出身地とする首都圏在住のオールスタッフのメンバーが参加した。4月15日に役員が手分けして、御参加者全員に、この写真を送付致しました。
|
■フィナーレはカラオケ・ トップバッターはつゞれ屋・会長
:
93歳の佐野さんが音頭とり
…
寺泊酒造組合藤井正継会長が熱唱応戦
笹祝・杜氏加藤儀兵さんも楽しそうにマイクを握る
。
■「自然郷の杜氏」野積の高綱 強さん・・・寺泊会開催の後日に行われた、平成22年5月の役員改選で寺泊酒造組合の会長に就任・・・は仲間の唄に手拍子で声援を送る。この法被姿が素晴らしい。麹と蔵の壁を想像させるコージ・ホワイトと襟元の対比がたまりません。
:
■自然酒にこだわる、福島県矢吹町にある大木代吉本店の銘酒「自然郷」。矢吹町と言えば、元ジャイアンツの中畑清の出身地である。同氏が次期参院選に「たちあがれ日本」党から、出馬するのでは、との話題で持ちきりらしい。高綱会長の酒造り唄は高音で延びがあり、実に味がある。また達筆で、素晴らしい書体で書かれる手紙は、大変価値がある。寺泊の杜氏さん達の特徴として、皆さん全員が相当な達筆者であることだ。これは、銘酒を飲まれた顧客からの便りに対する礼状などを、お書きになる機会が多いので常日頃訓練されているからか。
中畑氏当選の暁には自然郷で乾杯かと思われたが、残念ながら当選は叶わなかったが、プロ野球横浜DeNAベイスターズの監督としてメディアに再登場の人気者である。
■高綱さんはこの1年後の2011年3月11日・東日本大震災で酒蔵が被災。倒壊した酒蔵のなか、現在までに生産体制を建直し、人気の銘酒・自然卿を造っておられる。▼
ボランティアで寺泊会出席のため上京される予定である。
寛風庵最新号 |
:
◆早いもので東京新潟県人会も、先日100周年記念大会を開催したと思ったら、もう110周年記念誌の原稿を書いてくれと依頼が来た。100周年では記念誌の表紙デザインやステージでの主役だった宮田亮平氏(当時東京芸大学長)は今では文化庁長官としてご活躍しておられる。100周年時代と異なり、世界中で蔓延しているコロナ禍で各種行事は未確定部分が多いが、記念誌だけは粛々として11月完成を目指して派手さはないが進行中である。100周年記念誌では寺泊会が100歳以上の元気者をインタビューしたり、数か所の郷人会の記事制作などを支援したが、今回はそこまでの豪華版ではないらしい。
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◆100周年記念行事アーカイブ
◇寺泊観光協会からも、お二人が来賓参加◇
■2010年(平成22年)は、東京新潟県人会創立100周年メモリアルイヤーであった。
★自粛階層向け読切り版
さかなのアメ横誕生ばなし
◆寺泊海岸に
魚のアメ横を創った男の物語◆
寺泊に魚のアメ横。
このネーミングが人生を左右
▲?下浩三氏は、昭和15年、網元の次男とて生誕 | ||
■のどかな寺泊町で幼少時代は野球少年で過ごし | ||
明けても暮れても野球に熱中。 | ||
(後の阪神タイガースファンの礎となった) | ||
新潟商業高校時代では、マネジャーとして2度の | ||
甲子園出場を経験。 | ||
昭和34年、実家の魚問屋に入り東奔西走する。 | ||
スーパーが台頭し始めた昭和40年代に入ると | ||
自ら敵陣の「人気スーパー店の視察」を開始し | ||
多くの店舗を見て廻った結果 | ||
「これをしのぐ小売業の開発」に着眼。 |
■「親父、あの道路沿いにある土地使って、 |
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店出してんだろも、どうだろうか」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
あの道路とは、言うまでもなく海岸道路として造成された、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今の魚市場・通称魚のアメ横道路である。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
角上は、この道路に沿った一画に、広い土地を所有していた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「本気でやる気があるンなら、やれや。但し自分で全部、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
金銭の都合つけてやれ」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■親父の言葉で今日の運命が決まった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元々親に金を出させる気は無かったのである。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今でこそ、人・車の往来が絶えないが、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
まだ造成僅かで、まるで原野にデパートを | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開店するようなものである。当時は砂浜だけで、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
駐車場整備の構想さえない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ここに5千万円を投資する決断と荒業は、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代から続く網元の血統を受け継ぐ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
?下浩三青年に「天性の商売勘と運」が備わってなければ、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
発想すら湧いてこない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
▲?下浩三社長の理念が全店舗に反映。社員の力量統一▲
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■銀行と交渉し、何はともあれ開店にこぎつけたのは | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和49(1974)年の春であった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「寺泊は海の町、夏場は人でごった返しても、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
あとは潮が引いたように人が来ねし、 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チープー荒れる寒い季節は商売にならんがに・・・ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
よう店を出しなさったもんだ」 ■確かに冬の海は、毎日荒れるし、波が高く浜は強風で寒い。 岩の外湾には、佐渡海峡からの白い波が大きくうねりながら押し寄せてくいる。 2010/12/31・寺泊海岸ライブカメラ ▼平成22年大晦日のアメ横駐車場、買い物客の車で朝から晩まで混雑する ▲心配無用だった。30年後の寺泊は、波高く風強しでもこの通り盛況である 2010/12/31午後3時頃の市場周辺 ● ● |
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■危険信号の声が、湧き出る泉のごとく囁かれる、町の評判は折込済みであった。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
このことは34歳の自分が一番良く知っていた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
客を如何にして呼び込むか。 「顧客の心を知る売り手になろう」。社長の得意とする |
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「創意工夫の虫」が動き出す。
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✳自らの名前を一票投じてから、その足で寺泊会にご出席するほどふるさと会想いの
小林正則氏こそ、令和2年(2020年)現在、第10代会長を継承され第11代の寺泊会カシラになって頂ければ、もったいない程最適な寺泊会の会長である事は誰もが認めているのだが、なんと正則さんの市長人生は、小平市民の信頼厚く、令和になっても4期を継承中である。2017年春にも立候補し4期目として再、再、再当選中の現役市長である。
■2013年4月7日(日)小平市長選挙の当日、第58回東京寺泊会が開催された。
正午開宴の来賓席には、まだ現市長の姿はなかった。
:
「今日は本人の投票日だから、多分、寺泊会のご臨席は無理だろう」と会員達は案じていたが、開宴後まもなくお姿を見せてくれた。(そして一同万雷の拍手と感激の宴となった)
■3選を目指し奮闘した現職市長、正則さんの選挙結果が市民に公表されたのは午後10時32分であった。
(写真は午後2時頃の寺泊会檀上での熱弁姿)
:
✳この後4選の当選物語へと続く。
2013年4月7日(日) |
小平市長選挙選挙結果 |
永田政弘・次点 19106 票
小方蔵人 837 票
ふるかわとおる 475 票
(総投票者数= 54153人) 小平市企画政策部・秘書広報課発表による
■前回の選挙と異なり、民主党からでなく、無所属での出馬であった。但し、民・共・生・社からの推薦に対し、競争相手は自・公や維新などが推す、市議会議長さんの永田政弘氏で知名度もある。追い風の自民勢に、向い風の正則さん。(若造りだが、今年60歳)。
■今回も寺泊会・小林秀雄会長の広大な敷地の一角に選挙事務所を構えていた。 場所は道路沿いで便がいい。
何せこの事務所を使った候補者は、国会議員・区議会議員・都議会議員など多数おり、誰一人として落選したことがなく、縁起良い評判の選挙事務所である。
直近では、赤松広隆氏(衆議院)もこの事務所を使って見事に当選。
:
:
★再選報道の新聞記事は2006年4月5日(日)だから
このニュース(讀賣/多摩版)も相当古くなった
寺泊会の資料ファイル庫にはしっかりと保存してあるが
再選当時は56歳だった。この先何枚溜まるのであろうか
:
なおこの新聞は故小林秀雄氏(寺泊会8代会長)が役員会の際、現物を持参したものである
小平市にある自宅前庭の一角に造った,選挙事務所提供で同郷の友再選
初当選同様、同一のプロセスと結果ながらも嬉しかったのだろう
(越後寺泊人同士・友情の証に違いない)
:
:
■小林市長の講義
拓殖大学・大学院客員教授 |
■大学や大学院にはユニークな客員教授がいる。
三選した、小林正則市長は地方行政学を拓大・大学院で担当し、昨年10月から講義をしておられる。寺泊出身で最初となる、著名大学の大学院で講義をする人物として記事が書けそうである。
同氏の自叙伝には、早稲田大学に於いては、「マニュフェストと自治体経営について」の講演会も経験がお有りのようだ。
:
小平市小林市長早くも4期目で活躍中
:
■「小平や日野のような、東京の郊外で角上さんの店舗のある地に引っ越したくなりました・・」
テレビのインタビューでお客さんが答えていたが、この人はサクラではない。正に、その通りに違いない。
。
■小平市と寺泊は、大変縁が深い。同市の秘書課さんは、このページでのリンク依頼を快諾してくれた。
何しろ市長の小林正則氏は、寺泊出身で当会の顧問をしており、
毎年,東京寺泊会の懇親会に参加され、時にはカラオケを熱唱されたりする。
更に、小平市議会の元議長・故小林秀雄氏は、寺泊の6区にある白岩に、
代々の土地を所有する寺泊人であり、東京寺泊会の副会長から会長に就いた。
▼小林正則小平市長。東京寺泊会でご挨拶。
2017年4月9日(日)選挙速報
小林正則(4期目)当選 28308票
松岡あつし 15536票
水口かずえ 8281票
(小平市公式ホームページより転載)
:
かくして3期に続き4期目も堂々のご当選。寺泊会では市長さんを御退任されたら是非寺泊会の会長さんになられることを期待して止まない。これほどふるさと想いの寺泊人は、令和の時代には見当たらない。会には母校(三実関係)のOBが多数おられ、何事にも協力してくれるので安心であろう。唯全てボランティア活動となり、交通費も食事代も自費で勿論退職金もないが。
@@@@@ @@@@@ ⏳.
★その4年後の2021年3月小平市長選挙
小林正則氏は出馬しなかった
◆ 選挙結果(小平市HPより)
当選 小林洋子(48) 32180票
磯山 亮(41) 28615票
★これで晴れて公務から解放され自由の身になられた訳で、東京寺泊会次期会長に、2025年の創立70年を記念し、第11代会長になっていただくことが決定的になった。
今は役員一同が時間をかけて、懇願を継続するしかない。
後3年も有るがこの頃になったら、市長職から解放されたのだから、ゆっくり休養させてくれとは言うまい。
2014年10月23日(木)ー11月1日(日) |
寺泊在住の画家が港区新橋で個展開催 橋本直行氏の在廊日を狙い取材・・10/24/ 13.00-17.00 |
「この道は 例の路かと 良寛訊き」・・・ 寛風庵
●今朝は、風冷たく波高し |
2018年2月3日(土曜日)寺泊港・西北西の風7M・気温1℃、天空は鉛色で松本清張の小説が良く似合う。空が鉛色になると人の恨みつらみが爆発し、行動を起こしたくなるのだと作家さんは構想を練る。お〜怖い。 |
■ 今年はさすがの寺泊も大雪に見舞われ2月6日の朝は、日本海側特有の大寒波とドカ雪の地に豹変、寺泊町の浜も視界不十分になってしまい、写真どころではないと地元の仲間からメールが入る。あと何日こんな日が続くのだろうか。たがもし晴れてくれたらと仮定し、634メートルの名峰・弥彦山を抱く寺泊の冬は魅力的であると返信したが、毎年のことながら日本列島の冬は、日本海側と太平洋側では、特に関東地方の空と越後北陸では世界が全く異なる。
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束の間の晴天でも、北西の風がほっぺたを殴るようでまさに寒冷の候である。寺泊は豪雪地帯ではないが浜辺は白く染まり離れた都会から眺めている限りでは、「わあ・真っ白だ」で済んでしまう。ライブカメラで岩に砕ける波を観賞すると風情があるが毎日というわけにはいかない。
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何といっても2月6日(火)のようなひどい吹雪の浜でなかったら、海岸に突き出た岩場のそばに来て本物の浪音と、しぶき散る天然風景を鑑賞するのが最高の贅沢である。こんな時は演歌が良く似合うが、海に向かって唄うようなのんきな若者はいないだろう。
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・越後の町に湧き出た住民投票騒ぎ
▼ さて弥彦山へ登って。山頂から臨めれば遥か、米山が見える。山のふもとには、賛否両論で存続している東京電力・柏崎の原子力発電所がある。稼働の是非は利害関係者の意見が100%一致することは永久に無い。これを政争の具にして得した人損したひと何人いたことか。今でも継続している。
原発と言えば、越後の日本海でかつて、建設の是非をめぐり町を挙げての一大騒動が勃発し、大騒ぎになった事件がある。
■ 思いだすのは、1996年8月の住民投票騒ぎ。寺泊から佐渡を見て右側にある、旧西蒲原郡巻町で住民による、建設賛否投票である。このページのファンにも、俺の郷里だとする輩が多くいる巻町(現・新潟市西蒲区)の原発は、電力会社と一部の行政連が、建設のメリットを挑発し、あわや建設決定かとまで言われていた。寺泊から歩いて行けない距離でなくこの弥彦山の裏にある。海沿いの巻町沿岸にある海浜には、坪200円で、先祖からのの土地を売り、当時200万円の大金を手にし嬉々としていた親父に反抗し対立した息子達も多数いた。
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■ 当時少年だった彼らは、のちに真面目なサラリーマンなどになって、定年を迎え、余裕はないが時間が余っているらしい。
有る者は、同窓会の幹事になったり、良寛様にはまったり、ふるさと会や県人会の役員になったりで、結構忙しいらしい。
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■ かくして、巻原発4基建設反対の住民勝利で、リスクの大きい核反応炉は建つことなく、今では寺泊海岸から弥彦裏の間瀬を通り、新潟市内までは、平和な日本海沿岸シーサイドを形成している。越後最大最強のゼネコンにも、角さんにも建設費から捻出されたであろう現金は、流れなかったと聞く。
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巻町長さんの功績
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■ 住民投票翌日の月曜・平成8年8月5日は、地元新聞のみならず、全国紙まで見出し大きく、全町民の88%が投票所に行ったことと、建設反対が1万2478人、賛成・7904人と報じた。笹口孝明町長(当時)は、巻に対して30億円余りの協力金を積んで来た「電力会社」さんに、町所有の広大な建設予定地を、売却しない結論を伝えたのであった。
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▼元旦の弥彦山頂から寺泊と柏崎の海を見下ろす
このきれいな海も放射能で汚染されたらと思うとゾッとする。
何人もいる寺泊の賢人達
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▲寺泊在住で郷里の生情報を熱心に、且つ精力的にカメラを持ち込んで紹介しておられる賢人小川隆司さんのHPからの借用であるが寺泊の原風景や日常生活から、行事・文化・民俗芸能・歴史を蘇らせてくれる優れものと確信する。
■とにかく寺泊の海は冬が厳しいが素晴らしい。波がゴーゴーと音を立て、風がヒューヒューと伴奏する。佐渡島は、この地平線の先にあり、そのずうっと先はハバロフスクだ。別の賢人はこの荒れた地に立って 魚のアメ横を創ろうと決断した。
もう一人の賢人はこの地の歴史文化史跡を丁寧に探査し、これを広くボランティアガイドされている。いずれも栄誉賞該当者さんと尊敬する。
そこで懐かしい記事を検証した。
多分「記念誌」なる文字検索は同窓会・学会・業界・会社創立記念誌と、日本全国どの組織でも制作の機会があり、出版業界の営業マンや記念誌編集作業者たちが先ずネットで調べ参考にし、自分たちの刊行に役立てているのだろうと推測する。
■ほとんどその存在が目立たなかったが、寺泊会会長が所属していた県人会の総務委員会に任命され、記念誌編集委員をしていた当時の記事である。
公式に発行されている新潟懸人会誌も未取材の、発刊関係者たちのアプローチとフォトを探る物語として制作していた。
2010年9月に新潟市内の朱鷺メッセで挙行された一大イベントに続いて、当時、我々が県人会で取り組んでいる一大事業が「東京新潟県人会・創立100周年記念誌」の発行である。
各郷人会などから選抜された25名による編集スタッフ、は毎月一回県人会館に集まり、編集会議を開いていた。御徒町から歩いて数分の場所に、新潟県人会の会館が建つ。
会館3階の役員室に編集室を設け、教職員でもあるまい、日直当番制を敷く熱心さである。
2010年12月2日の編集会議には印刷業者も参加し、カバーサンプルを提示。総ページで240頁にもなる美装本はハードカバーで上質コート紙を使って、一冊2000円で15000部、発行しようと打ち合わせに会議に回数を重ねていたのである。
表紙候補のひとつとして紹介された装丁がこれ▲である。
現在何種類かを見本試作し検討中。
今年の新年会のイベントで佐渡出身の鍛金工芸家・宮田亮平氏(第9代・東京藝術大学学長。)の書である。
氏は11年間学長を務めた後、現在は第22代の文化庁長官である。佐渡高校のみならず越後人が最も誇りとする新潟県人のひとりである。提案された表紙を見た編集委員たちでも、これが「光」なる文字だと、即判った人は少なかったが。
■この表紙のコンセプト=「白」が放つ純粋さ、既存の記念誌の持つ「権威的 方向」ではない斬新さを芸大学長の「光の書」をシンボリックに中央に配置。「削ぎ落とすインパクトをコンセプトに装丁しましたと表紙デザイナーは説明。
■この文字を表現するため、学長自身が巨大な墨壷を制作した。ここに墨汁をたっぷりと満たし、見事な芸術文字「光」を書くパフォーマンスで、品川にある、グランドプリンス新高輪の大宴会場・飛天の間に集う1000人を超える参会者を魅了したのであった。
▼一升瓶がミニチュアに見える「スミツボ」。
■今でこそ、この「スミツボ」の意味が判るが、新年祝賀大会で寺泊会が司会をしていた際に、ステー−ジの袖にいた芸大の学生らしき若者に、いきなり、墨壷を紹介してくれといわれ、「ス・ミ・ツ・ボ, what?」状態になってしまった。
頭の中は黒い墨のツボのイメージで、どこを見廻しても無い。 まさかこんなピカピカ状態の芸術品とは知らず、どこにあるんだいと慌てて探す始末。それでも何とか「先ほど宮田先生が,ご使用された、特大筆用の墨汁が入っておりました「スミ・ツボ」でございます、と紹介し、更に「中にある氷で十分冷やしてございます、越後の銘酒を、お飲みになれば、100年長生きしますよ」 と、とっさに思いついたことをマイクで呼びかけた。
このとっさのアナウンスメントで会場が一瞬ざわめいた。
幸いにもこの、めでたい酒を飲みたいと、何人かの方がそばに来られ、飲んでくれたおかげで、和やかな雰囲気の中で進行することとなった。一升瓶がこんなに小さく見えるから、名匠品スミツボ、がいかに巨大作品であったかがわかる。
宮田学長がキンコン・カンコンと叩いて制作された芸術作品、鍛金「墨の壷」であった。
■賢者は権威あるも驕らずの見本。
愉快かつ気さくな芸大学長、金工家・宮田亮平さん(写真左)は、昭和20年生まれ、とおっしゃるから、同じ越後出身で分水町生まれの著名な彫刻家・茂木弘行氏・とは、芸大で1年後輩となり、
西蒲原・吉田出身の高名な画家・斎藤順正氏の2年先輩となる。)はスピーチも面白く、取材に詰め掛けたテレビ局や新聞記者にも気軽に応じておられた。佐渡出身の賢人はすばらしい。
■警視庁辣腕公安刑事を輩出した広神村や鹿瀬町などの出身者が編集委員として奮闘中。
町村合併で五泉、魚沼、阿賀などと名称変われど、新潟県内の広範な地から、郷里(ふるさと)へのラブレター感を抱きつつ、想い入れの深い、越後人が協力し合って各自のテーマを分担し合い、ボランティアで100周年記念誌の制作に携わっている。
■印刷業者も熱心に記念誌の装丁を説明。こうやって今、東京新潟県会創立100周年記念誌の編集が進んでいる
100周年記念誌 |
2011年3月発刊
一冊2000円で予約受付中
東京新潟県会事務局
●問合せ03−3832−7619
■編集委員は見本誌で手触り感覚をテスト。半端に妥協はしない。100周年記念誌の主な執筆内容▼
■広告使用許諾・東京新潟県人会広報委員会
● ● ● ● それから、しばらく経過▼
寺泊会の分担は東京大森にある新潟県人会、大田区にある新潟県人会、など8団体の県人会を取材しての原稿作りと、長老特集頁の在京新潟県出身者安澤隆雄翁と同年の100歳関根五郎翁2名を担当した。
▼お陰様で無事刊行いたしました! 2011年4月8日、編集委員だけで、「100周年記念誌刊行記念納会」を、節電のあおりで、桜の木にお花見のあかりが灯らない、上野公園近くの中華料理店で開催した。 長期間のボランティア作業御苦労さまでしたと、互いに慰めあった。諸事、自粛ムードのなか、銘酒「久保田、寒梅」の差し入れと、珍酒「田中角栄」で、静かに納会を執り行った。 この日は、地方のテレビ局2社、新聞社1社が取材。 記念誌販促に一役買ってもらった。 ■於 上野東天紅 ■編集委員総数25人(欠席10名) 制作協力(株)第一印刷所 我々編集サイドの無理難題のわがままを、丁寧に聞いて下さった第一印刷所(本社・新潟市中央区)の若手営業マンも祝福にかけつけた 記念誌編集委員長・池田孝一郎氏(新潟市・巻出身)に新潟日報社報道部記者井川恭一氏が、見事な出来栄えに驚きながら、熱心に取材していた 編集・副委員長は2人、佐渡出身の菊池氏(左)と新井市出身の飯塚氏(右)、記者(中央)に各ページを説明。両氏とも善良なる70代。この方々の熱心なサポートが、予定期日までの発刊にこぎつけた。 我々は,ここでは、若い方だから、副委員長のさらにサポートか。 だが、仮に我々が70代後半になったとしたら、このおじさんたちのように、素晴らしいエネルギーを持つ自信がない。時間は余っても、視力・体力・集中力がついてこないであろう。 |
■東京寺泊会も編集に携わり、大田新潟県人会、中之島新潟県人会、大森新潟県人会などの8団体を取材、「100歳万歳特集」では、面識のあった、104歳の安沢隆雄さんや関根五郎さんの記事を出稿したが、今後の課題は記念誌を、約150団体ある、県人会内部組織で、何冊領賦できるかである。
現在寺泊会は20冊(1冊2000円/・送料800円)を購入し、郷里の寺や希望者へ拝送済み。
3月末現在で、約1200冊が県人会全体で購入予約済みであるが、時間がかかりそう。
●ご購入希望者は、東京新潟県人会事務局(台東区上野)へ、お申し込み下さい。
この近くで |
立ち小便スベカラズ |
■所がマラソンはどうだろうか、走れば息が苦しくなり、唾のひとつも吐きたくなる。だが、一人が0.01CC出しても、東京マラソン等のように4万人超えるランナーがいたら、総合計排出量は、想像を超える量になってしまうであろう。しかしながら、競技関係者と高名なかつてのマラソン勝者で、今ではテレビ解説をしていても、これを気にする体はないようだ。
ランナーの中には手で、鼻の片方を抑えてプーとやる、通称「つかみっ鼻」をやってしまう輩もおられる。越後生まれのマラソンの名手、宇佐美先生(元・東海大学教授)は、現役時代に決してこんな事はしなかったが、文化の違いか、海外トップクラスが集まる、国内3大マラソンで優勝するかもと疾走している、先頭集団になればなるほど、画面一杯に放映する機会が多いだけに、飛ばし合いを目にすることも珍しくない。
■給水ポイントも曲者である。走りながら給水してむせる者もいる。口内フラッシングと呼ぶんだろうか。
砂漠に近い大陸にある大地の如く地面が褐色土ならいいが、水はけの良くないアスファルトだし、風邪予防のうがい水の捨て方は、小学生すら、ルールを知っている。
■近い将来環境アセスメントで、施行レベルの法遵守に挙げなくとも、下位レベルの都県条例を発令し、マラソンは、ハイテクペーパー持参5枚まで、などとルール化するかも。
■良寛も歩いた景勝地を走る、寺泊シーサイドマラソンは、どうであろうか。18里先の佐渡島を横目に抱える寺泊シーサイドマラソンが毎年開催されているが、参加者多数でも全員エチケット感にあふれ、海岸マラソンを堪能できる素晴らしい大会にしてくれている。何しろ日本海の新鮮なオゾンを含む寺泊海岸の空気を吸いながらの走りゆえに、参加者たちの呼吸器系が破壊されることが無いからであろう。
■こうして市民ランナーさんも、全員で良質な環境意識を持っておられるから、ふるさと寺泊の品質向上に大きく貢献してくれて有難い。
(イメージの写真と該当する現象とは全く関係ありません)
「酒造唄」を披露
新潟朱鷺メッセ
公演 ハイライト |
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東京新潟県人会創立100周年記念大交流大会 | |||||
9月26日芸能大会2日目プログラム決定 | |||||
司会 桑原政夫・橋本寛二 | |||||
ヤングキャベツ・中靜佑介 | |||||
会場 新潟朱鷺メッセ・マリンホール | |||||
1 | 笑ってスタート・・お笑いコンビ「きぬがさ」 | ||||
2 | 「相撲甚句」・・・相撲甚句保存会 | ||||
3 | 「無法松の一生」・・大坂美喜社中 | ||||
4 | 「十二はしご」・・十二はしご保存会 | ||||
5 | 「妙高山賛歌」・・・妙高高原民謡愛好会 | ||||
6 | 「幸せはすぐそこに」・・伊藤章二(東京松の山会) | ||||
7 | 「千の風になって」・・・東京おけさ会 | ||||
8 | 「津軽三さがり」・・・おけさ船橋会 | ||||
9 | 「佐渡日記」・・・・佐渡小町会 | ||||
10 | 「米百俵」・・ ・東京関原会 | ||||
11 | 「心寿」・・・・東京おけさ会 | ||||
唄 岩崎康一郎 | |||||
12 | 「琉球舞踊・四つ竹 鳩間節」・・・ | ||||
沖縄より参加 | |||||
13 | 「越後路ひとり」・・・林 蔵之助 | ||||
14 | 「故郷酒」・・・・・本多光政 | ||||
15 | 「フラダンス」・・ホアビリフラ新潟校 | ||||
16 | 「愛の賛歌」・・渋谷文太郎 | ||||
「ひばりの佐渡情話」・・渋谷文太郎 | |||||
17 | 「酒造唄」寺泊酒造組合 | ||||
16 | 「フィナーレ輪踊り」 観客全員参加 | ||||
大交流会の詳細 | |||||
□ | 東京新潟県人会公式ホームページ |
朱鷺メッセ一階の物産展には寺泊から「きんぱち・はまやき」と「山源かまぼこ」が参加。
東京新潟県人会創立100周年記念大交流会は動員目標・4万人のところ、4万3000人が朱鷺メッセに来場した。
物産展の参加ブースも県内の観光地などから、合計125店が出展する大規模展となった。
◆芸能大会点描◆
芸能大会は2日間かけて開催。県内の民謡団体や民俗芸能保存会などが演舞。
ワンステージでの登場人数の多さには、司会しながらも驚かされた。
寺泊酒造組合の高綱 強会長以下、越後を代表する野積杜氏さんが勢ぞろい。蔵元紹介のあと、酒造り唄を披露。銘酒「日本海」「景虎」などを造る杜氏さん全員が寺泊人。
熟唱するシャンソン歌手・渋谷文太郎さん。
9月には銀座で3回のライブあり。
・・京都新潟県人会推薦
新潟市西区出身
沖縄からも参加して琉球舞踊を披露。踊り手がステージから退いても、音声が消えるまで司会の声を入れないようにとの注文があった。守ったが、さすがプロ意識。
新潟フラダンス校からも多数が参加。会場におられたハワイ新潟県人会の「palolo本願寺住職・西脇誠五郎」さん・・長岡市出身・・も拍手で迎えてくれた。まさか、ハワイの本願寺さんが越後人とはびっくり。
いつでもホノルルに遊びにいらっしゃいと言って下さったが、海の向こうとはいっても、寺泊から赤泊へ行くのとちょっと違い、いつになるやら・・。
ホノルルにあるpalolo本願寺外観・・・同寺のhpより
◆反省会にも多数集結◆
新潟の朱鷺メッセに参集していた、首都圏在住の東京新潟県人会員も大挙帰京し、東京・上野では10月5日に、大交流大会の慰労反省会が開催された。100人を超える大会関係者が集う
ここは東京新潟県人會館2偕大ホール会議場。
100年に一度の大交流大会の企画発案は主として、元気な七十代であった。大交流会を振り返り、話が尽きない首脳陣
来年もやれと言わんばかりに、万歳三唱でも血気盛んなメンバーたち。
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所で気になる寄付金総額は,・・・県人会會館ロビーに張り出された寄付金者一覧、個人で100万円も出資されるのは、愛する越後の為かと、その思い入れにジーンとする。
海外勢に交じり、東京寺泊会も僅かながら協力
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多くの郷人会がある中で、年会費フリーを貫く当会も、僅少ではあるが協力をした
ところで偶然にもお隣さんとなった50万円寄付された「ベルノ・リカール・ジャパン」は、どちら様かと会社の総務部さんに問い合わせると、あの有名なシーバスリーガルなどの洋酒を販売されている法人さんであった。商品群は同社のホームページで紹介されている。
新潟県出身の社長さんが経営する、我が国の、著名な居酒屋チェーンさんにも卸しているに違いない。
ベルノリカールジャパンさんで扱っておられるお酒の一部。
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10年9月現在での事業資金寄付金総額は、事務局発表によると、 約3894万円余りとか。ブラジル新潟県人会も積極参加。日本にいるよりは、越後愛郷心強しか。県外はもとより、海外に点在する多くの新潟県人会をつなぐ、連合組織の設立案をブラジルが提唱。
■東京新潟県人会に登録されている41の県人会と152の郷人会組織一覧を見ても、毎年この数だけ懇親宴会が開かれているはずであり、驚嘆に値するが、地元への稲刈りツアーだの、芸能大会だのと、更には「聖僧・良寛に学ぶ会」/東京寺泊会は共催、などと、高尚な愛好会もあるが、いかに越後人は結束力の強い、マメな民俗かが判る。
この良寛に学ぶ会は10月9日に5回目となる勉強会を開催した。
タイトルは「良寛さんの書の観賞」である。講師の萬羽啓吾氏が自ら所蔵する軸を持参で
遺墨による書美の変遷を詳説。美術館や記念館ではガラス越しの観賞となるが、今日ここでは、肉眼でお目にかかれるとあって、愛好家たちは興奮気味であった。
これらが本物の良寛の書である。
萬羽氏は神田神保町の骨董商としての眼力で本物の見方を伝授。時折、紙質や筆使いから判定する贋作との見分け方も説明。
当日の勉強会を学術的に知りたい場合は、良寛の生まれ故郷・出雲崎出身者の集いで構成する「東京出雲崎会のホームページ」、同会の知識人、東條氏が制作する「第5回勉強会報告」を参照。それにつけても、このホームページを読んでいると出雲崎会さんには、良寛さんの書を研究され、知識豊富な方が本当に多くおられる。
◆ところで、100周年記念誌編集委員としてインタビューしていると、様々な 先輩方にお会いする機会があるから面白い。大森駅近くの商店街にあった「越後屋」なる豆腐屋さんもそのひとりである。今は近隣在住者で構成する、新潟県人会を仕切っているが、自身のビル一階のテナントにはチェーン店も多い、焼き鳥やさんが入っている。
かつて、都の豆腐屋と風呂屋は越後人で成り立っていたとの近世の史実がある。今になっては風呂屋も豆腐屋さんも姿を変え、そのオーナーの多くは80代前後の越後人であるが、ここの価値ある不動産を生かし、平成に入ってから、中層のビルやマンションに建て替えている。駅前の小型ビルも案外、越後人が持ち主だったりする。法人にしたり、納税額を1000万以内にしたりで、名前は公開されなくとも、都会においては高齢者に限れば、比較的余裕のある衆が多いのも、新潟県出身者の特徴であるが、このような視点でメディアが着眼する機会はないからトピックスにもならない。
さすがに丸の内や八重洲には,いないが、私鉄沿線駅周辺の小型マンションオーナーは、目立たないが、相続を気にする越後出身者が多数おられるのである。
■これらの郷人会などの詳細をまとめた、東京新潟県人会創立100年周年記念誌を、同会が20人の編集委員を使い編纂中。2011年3月 2000円にて発売予定である。
最近検索トップに躍り出た訳は第20回吉田会出演にあり
http://niigatakenjinkai.com/activity/20140518/index.html
(動画出典:東京新潟県人会情報)様
◆蒲原に建つ高校はそう多くはないが、ある高校出身の歌手に話題が集中し、今も健在である。
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その人の母校はまだ校名が西川竹園高(昭和42年創立)だった頃で、約50年同校は49年続いたあと巻総合高校に編入した。
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越後出身の代表的歌手といえば、三波春夫さん没後は、永年、小林幸子か一節太郎だと、県人会あたりでも、定番であった。幸子嬢は、かつて報じられたマイナス面の話題も鎮静化し積極活動が目立つとはいえ、ゴタゴタ問題のほうが、スクー−プとなり、本業の話題は、上ってこない時代もあった。このタイミングで、実力どおりの、越後出身の女性演歌歌手として、躍進中である。そのひと、上杉香緒里さん(1975年生まれ)、令和の今では、すっかり良きお母さんになられているが 20歳でデビュー以来のキャリアに重みを増し唄声に魅力があり貫禄もある。(株)テイチクエンタテイメントでは、石川さゆりや、綾小路きみまろなんかと並んで立派に稼がせている。(テイチクレコード)
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✴カラオケ練習曲にマッチする「暗夜の恋」も人気沸騰中
YOUTUBE 配信中
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2015年4月寺泊会60周年大会の話で恐縮ですが
日本に在住している限り、そこがどこの都道府県だろうと、天下のNHKからは逃げられない。中でも夜9時の報道ショー番組となると、古くは磯村尚徳キャスターの頃に沸騰しその後は、でこぼこが続きながらも、アカデミー賞中継にも匹敵する人気番組として君臨している。現役メインキャスターへの東京寺泊会だよりインタビュー記事(ネット掲載)は俗文調のため、細胞研究して提出する博士論文や学術論文の英文版と異なりコピペとしての利用する学術員こそいないものの、同氏について何等かの関連記事を著す際の参考として、今でも全国で多数採用されている。幸いにもウィキペディアの脚注に使用されたことに端を発し、紙媒体でもパンフでも、はたまた同氏を壇上で司会者が紹介するシーンでも。 大越さんは幼少時○○で□□で・・・・と ほとんど寺泊会だよりを参考に制作されている場面が多いと聞く。
写真提供NW9編集部
4月5日(土)県人会の影響でしょうか
ここへきて東京寺泊会だよりの検索ログで大越様のお名前が沸騰してる。これは例の指の怪我以来の現象である。それもそのはず、来る4月5日(土曜日)は、「ニュース報道の核心を語る」と題して東京新潟県人会館主催で大越健介氏の講演会が上野東天紅で開催されるのである。
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75分のトークショー詳細/3分に1回の笑いの極意
●東京寺泊会からも多数が申し込み参加した。但し、翌日の4月6日(日)が東京寺泊会59周年大会だったので(詳細は下記参照)こちらの準備に追われる役員さんは大変だろうが、他の県人会と違って郷里の寺泊人が講演をされるのに、行かない訳にはいかんだろうと張り切っていた。思えば寺泊会も大越氏に、大会ご臨席案内を拝送したのは3年前の話であった。県人会の総務委員会に在籍当時、周囲に紹介したが、あまり大きな話題にはならず、あれから県人会館の講演会までには随分と時間がかかったものである。
既に生地、長岡市寺泊、同窓会(青山会)、昨年暮れの学士会館、他に商工会やら多数の講演会なるものをこなしておられる。
報道の核心を、あのウィットに富んだ柔らかい口調から発せられるのだから、多くの聴衆を魅了するはずである。
講演会の翌日が東京寺泊会の総会日である.残念ながら、大越氏は参席
されないが参考までにそのメニューを紹介すると・・・。
(youtube 動画掲載時215カウント)
東京寺泊会・平成26年4月6日(日)に開催。
■特別出演:銀座ジャズクラブ(ボサノバ系、クインテット編成)
■おみやげ協賛:寺泊、山源蒲鉾店謹製郷土名産・良寛かまぼこセット
■運営協力:寺泊観光協会
■大会開始前にスタジオで全員の集合記念撮影あり
■長岡市、森市長ご臨席は60回大会へ調整中
■会場:芝パークホテル
■12時PM〜15時PM
TOPIX▲▼平成26年度春の受勲:
東京寺泊会・小林秀雄会長受賞の噂。
詳細は内閣府発表またはWeb、総会会場で。
東京寺泊会大会中止 |
◆特設ステージで熱演する銀座ジャズバンド。ウッドベース、トロンボーン、ドラムス・ギター・サックスも加わった57回大会。
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✴藤井克之✴斎藤順生✴橋本直行 。 感性異なる才能に潜むエネルギー |
■寺泊町はその昔三島郡(サントウグン)にあった。三島郡寺泊は今や、長岡市の一部の寺泊、と変わり、サントウグンで頑張っているのは、聖僧・良寛、生誕の地、出雲崎くらいのものである。寺泊町とは、海続きのお隣さんである。
■西蒲原郡(ニシカンバラグン)、巻町も同じである。今は県都・新潟市の一部になってしまったが、かつては、西蒲原郡の中の町であった。ニシカンバラグンで頑張っているのは、神社・競輪・温泉街、と豊富なレシピを持つ弥彦村(ヤヒコムラ)だけになった。寺泊町と合併すると噂していたのは、もう大分前の物語になった。若作りの村長は、東京弥彦村人会(会長・掘 優)に毎年元気な顔を見せてくれる。
■郷里・西蒲原をこよなく愛す、新潟市巻在住の藤井克之氏から企画展開催の案内が届いた。東京・青山にある新潟のアンテナショップ新潟館ネスパスで、2012年3月23日(金)から26日(月)までの期間で開催する。高校の一教師だった当時、教え子の実家が、和紙の生産者だった事が縁で、ここまで著名な画家になったのである。
■インタビューしたのは、かなり前だが、映画で俳優が、鋭い眼で事件の本質を追う刑事のように、強靭で精悍なお顔のようだが、氏の墨採画を見るたびに、画材が和紙のせいか、心が安らぐ。
■西蒲原のハザ木は、南国人にとって、浜辺のヤシの樹的存在であるし、江戸ッ子にとっては、大川端のほとりに揺らぐ、柳のようでもある。藤井克之は、墨でしか用途のなかった、和紙に色を乗せ、墨採画(ボクサイガ)なる言葉を生んだ人物である。片岡鶴太郎とも、所謂、同業の縁で親交が有る。実は、聖地エルサレムにある神殿遺構「嘆きの壁」を、墨彩で制作した熱心なクリスチャンでもある。HP上では自らを聖書画家と紹介しておられる。
▼同じハザ木の絵でも、制作者の意図と優しさにより、表現する作品モチーフを異にする。
■蒲原のハザ木に思いを馳せる著名な越後の画家は、他にもおられる。吉田市在住の画家・斎藤順生である。
■ハザ木で童話を創り、絵本にした。老木は切られ、やがて燃やされる。見事なまでのハザ木に愛着を示し、創作し、絵に残したのである。
■東京新潟県人会には、首都圏えちご蒲原会(会長・池田孝一郎)があるくらい、旧・西蒲原地方出身者も多く、秋にはバスを仕立てて、「蒲原の稲刈り―ツアー」を企画しているが、募集すると即満員になってしまう。
■同じ越後人でも内陸部出身者は、稲刈りが好きなようである。同じ話を、海岸側に子供の頃、過ごした寺泊会の会員に投げかけても、誰一人と賛同する者はいない。おら、稲刈りなんかより、海上花火大会ツアーの方がいい・・。と、乗ってこない。
■一方で寺泊在住の画家・橋本直行は、寺泊人だけに、土壌の匂いより、汐風の匂い、特に沖縄・八重山をこよなく愛し、描き、これを業としている。銀座の個展では、号数が大きく見るからに大作の絵から順に売約済のラベルが貼られ、嫁入り先が決まって行く。個展の招待状をもらい、いざ出かけ、観賞し興奮しても、これを即、買えない無念さ。もっとも、あいにく、小宅では、かくも、でかい絵を飾るスペースは無いが。
橋本直行氏の描いたハザ木(上)
銀座の個展で人気を博した、八重山の原風景。
(掲載した絵の一部はいずれも、各氏のHPより)
▲、ご3人には取材協力して頂きありがとうございました
■この時間、魚のアメ横あたりを見ると、人も車もまばらで、ひっそりしている。買い物をしなくとも、散歩でもしながら、佐渡を望む海を眺めれば、夕陽君は公平に歓迎してくれる筈である。
ニュースウォッチ9当時の話ですが |
もう一度楽しみ隊・誕生 |
チェックし隊ニュース再現します |
■世の中のすべては、命名してから始まるものである。赤ちゃんだったら、出生を知ったときから、名前をいただき、長い人生が出発する。
新潟県人会登録の団体会員も、オーソドックスであるが、 東京〇〇会だの、弥彦〇〇会、〇〇同窓会だのと、聞いてイメージ湧くネーミングで登録し、決して「ふるさと愛し隊」などとは呼ばない。
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■一方、ニュースウォッチ9にするか、9時のニュースショウにするかは、命名者さんの全くの自由である。日曜朝なら「題名のない音楽会」でイメージが湧くし、聴きたい気にもなったりする。更に、「〇〇討論会」では、見る気も無かったりもする。
■さて大越さんの、一度放送された番組のエキスを3日あとにも、流してくれる「もう一度楽しみ隊」のようなもに、ピッタリのサイトがあった。動画配信であるが、説明は100%アナウンサーの話す口調が文字になっている特徴がある。正に時間のある寺泊会の暇人に最適である。
AKB48も渡り廊下走り隊も、ひとりの発想が、その後の大成功に結びついかが、もう一度楽しみ隊も定着すると嬉しい。
■残念ながら当選メンバーに越後出身がいなかったので、寺泊会だよりには持ってこれないが、それでも、あるきっかけで「記事こじつけ隊」として創ることは可能である。
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■寺泊出身ののキャスターは、番組プロデューサ―達と6日のお昼前に行う編成ミーティングで、AKB48イベント当日、ニュースオーダーを話し合っていた。「どのニュースをトップに持ってくるか」。内心で国民的行事に育ちつつある総選挙結果にしたいなあ、とも思っていたが・・・果たして。
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■当日のN・W9でのスタート時、「世情を鑑みて、先ずこのニュースをお伝えすることも、意味が有るのではと考えまして・・・」とトップ扱いにされたらしい。 (10日・TBS系放映の「アッコにおまかせ」より)。とのことで寺泊出身のキャスターさんとAKB48のニュースが結びついた。こんな平和な再現シーンを知りたくなるから「もう一度楽しみ隊」のようなページが大変役に立つというものである。
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✳寺泊会の役員会で、AKB48に関心があるふりをして、11位につけたチームKにいる、宮澤佐江をこれから上位狙いより、女優に育てたいねと話題を振ってみたが、こんな答えだった。
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✳あんたは、70も近いんだから、ネタ探しに無理するな、と言われてしまったが、AKB総選挙の総合司会をした、徳光さんだって71(当時)だそうだ。
かくいう東京寺泊会の、男性役員の平均年齢は69.8である。会員の平均年齢は、76となっているので51のキャスターさんより齢だけは超えている。(写真提供=NHK/ニュースウォッチ9編集部)
★さて2021年になっても、テレ朝系だが「帰れマンデー見っけ隊」も視聴率よく「・・・隊」の表現手法は万能ユースの優れものに違いない。この先100年経過しても、細胞の如く生き延び続けるであろう。
SDGsより先に生まれた、持続可能なイキモノのようで恐ろしい。というより彼らをもっと、育ててやり隊。
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2012年4月17日
満94歳
佐野久治さん逝去
弟57回東京寺泊会が無事終了し、役員反省会も終え一息ついていた頃、佐野久治氏逝去の知らせを受けた。
東京寺泊会の名誉顧問として、大会案内の出席はがきを、誰よりも早く頂戴していた。それは1年前から待っていたかのように。
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◆三月末に、体調が悪いので、参加できないのが残念とのお電話が、最後の御言葉となってしまった。いつも、多額の寄付を賜り、宴席では真っ先にカラオケを唄って頂いたり、会には奥様やお孫さんの裕子様をお連れし、終始楽しそうに宴席を過ごされておられた。
佐渡おけさの踊りになると、熱心に鑑賞されていたことが印象的であった。
奥さまを昨年亡くされ、浅草在住で同じ町内会の樋口孝四郎氏(クロスター会長)と、慰め会をやろうかとも話していた所であった。樋口氏所有の浅草雷門近くのビルに久治さんとお邪魔し、墨田川花火を観賞したこともあった。永眠されたということは、もう二度とお声を聞くことも、寿司屋さんに二人で行くことも、できない事である。非常に残念でご家族のように寂しいものである。
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◆ご遺族からは、「私共は心淋しい思いではございますが、祖母と天国から見守ってくれていると思っております。」と心境を綴っておられた。尊敬する殿を、お悔み申し上げるとともに、故人のご冥福を心より、お祈りいたします。九四年の人生を、まっとうされた浅草の殿と、平成24年4月17日・桜の季節が、永久の別れとなってしまった。 合掌
ありし日の講演会追憶抄 |
■第52回・東京寺泊会大会
浅草在住の呉服商「つゞれ屋」会長・佐野久治さん(磯町出身)に
特別講演をお願い致しました
ご商売の話、浅草そして日本も復興した、古き良き時代に三弦漂う、向島・神楽坂の花柳界のお話など、
たっぷりと語って頂きました
◆浅草の殿・プロフィール
昭和8年 18歳で上京
浅草で呉服業の世界に
昭和16年 入隊・4年間軍隊生活を送る
昭和21年 戦争で消失した浅草店舗再築
昭和25年 銀座進出・土地購入
★ 趣味で描いた油彩画 :景徳鎮 ★
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つゞれ屋の商権を獲得以降
昭和26年 朝鮮特需・着物ブーム到来
日本はモンペ時代を脱する
昭和27年 日本橋に店舗購入・商圏拡大
「高級呉服専門店」稼業一直線
昭和46年 東京呉服専門店・連盟会長就任
昭和60年 5期10年間務めたあと会長を辞任
昭和56年 全国呉服専門店連合会会長就任
昭和60年 2期4年間務めたあと会長を辞任
東京都養護施設収容の孤児(7歳及び5歳児)に
お祝い着250組贈呈。昭和37年以降毎年継続。
昭和58年 鈴木俊一・東京都知事表彰
平成元年・勲五等瑞宝章受賞
平成16年日本橋三越本店新館、三越グループと共同建築
平成 22年4月16日、浅草の鮨屋「橋口」で、我々に55周年記念大会の労をねぎらってくれた。
その会食後移動し、三越新館の一階に構える自身の店舗■日本橋店を案内された佐野久治会長は、、銀座4丁目の店舗にも連れて行って下さった。日本橋店の2階には豪華な作品で溢れ、顧客同様の懇切な解説を賜り、日本文化・和が呈する素晴らしさを堪能することができた。この時の佐野久治さんはまだ九二歳であった。
■佐野久治の名誉にかけても、作品として後世に残せるものにしたい、と長い間この哲学を変えてはいない。
▼共同オーナーとして建てた日本橋三越新館フロント写真
▲日本橋店の2階にある常設サロンでは、絢爛な作品が訪れた者を優しく迎えてくれる。寺泊人で良かった
2011年9月27日逝去 |
■いつも我々を楽しく判り易く、良寛の世界へと導いてくれておられた内藤久吉氏が、平成23年9月23日に急逝されました。
ありし日の内藤久吉 |
■東京寺泊会の会員さんも、毎回数名聴講させて頂いておりました
■東京寺泊会は郷里の内陸側隣町・旧分水町や海続きの隣町・出雲崎出身者の団体などと企画し、良寛に学ぶ会を共催している。会員は登録制で、その数は1月末現在で百三十名程だが、その多くは良寛の生誕地・出雲崎と国上寺のある分水(現吉田市)である。寺泊出身者は現在十人。今後増える見込みである。常任の講師は、出雲崎良寛記念館理事の内藤久吉氏が務め、表参道に建つ新潟県のアンテナショップネスパスが常設会場である。第二回のテーマは、
■「良寛とその師・法弟・支援者などが、どのように交叉していたか」を探った。史実に基ずく、出雲崎弁士こと内藤久吉氏が懇切に解説。
引用資料は、牧が花の庄屋、解良家十三代当主・解良榮重による良寛禅師奇談」の記述で長短五六話ある貴重な書である。
■ 八〇〇年も続く出雲崎の庄屋橘屋山本家では、良寛を後継ぎにすべく、時の代官の元に赴き「我が惣領を次なる名主として務めさせたく、容認の程を」と丁重に挨拶。喜ぶ代官「しかるに嫁御はおられるか」との問いに「近在から当家に嫁ぎ・・」と答えた。名主の絶対条件には、伴侶を必要としたのであった。良寛に嫁さんがいたとする説は、かなり近年になってからの発見であった。寺の過去帳を丁寧に調べた大学の先生が、メディアにセンセーショナルに発表したそうである。
■ しかしながら良寛はこの先、名主継承を受けるに心穏やかでない。回避せねばと、禅光照寺の和尚の元へ。禅修行の道に入り、その後に、高僧・大忍国仙と出会う。禅師は初対面の良寛を凝視し呟いた。「何とこの子の眼は澄んでいることか」と、玉島への一行に加えた。
円通寺で十一年、雲水仲間と起居を共にした後、禅師から「印可の偈」を授かり、これ即ち、永平寺の貫首さえも欲すれば道ありの体であった。しかし良寛はすべの凡欲を捨て、故郷出雲崎に戻る。だが住む家無く宿る床がない。国上に庵を得る迄は、寺社の軒下、浜の荒小屋で乞食姿。
■物語なら、ここで子らに石持て追われるやも。だが良寛の周囲には、熱烈な支援者多く、敬しく来訪を歓迎した。与板・中島・地蔵堂・島崎・渡部・出雲崎・寺泊。杖をつき、請われる儘に出された筆を手に、残した書は数知れず、乞食こそ道元禅師の正方と歩き通し、時を経た現代も戒語・愛語の教えは色褪せる事無く続いていると講師の内藤久吉先生独特の出雲崎弁は歯切れよ良く眠っている者はひとりもいない。
■東京寺泊会は広報を担当し、先に開催した大会には久乃屋さんの塩羊羹を参加者様のお茶菓子として賞味して戴いた所大評判となった。さすが寺泊の銘菓ラテ。
■さて名講師の内藤先生は
寺泊会一同お悔み申し上げ、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌
(この稿は過去に掲載された記事を基に、内藤久吉先生追悼号として、再投稿しております)
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■皐月の寺泊の海は、イワシがたくさん捕れて、これを焼いて食べると最高にうまかったのを思い出す。人間は魚の思い出が「食べて旨かった」ことにあるから恐ろしいイキモノである。。
■今朝5月14日(土)の海を眺めると、風が強く波高しであった。いつもの風景。中央海岸から、スカイツリーと同じ高さの名峰、標高634Mの弥彦山を見ながら、弓状の海岸線を絵にしてみたくなり、PCで一工夫。
■これってテーマのないときの、お遊びってか。
■少し古くなるが、見ごとな海岸線は、1922年夏(大正11年)、丁度、瀬戸内寂聴さんがお生まれになった年に、越後国・信濃川洪水の解決法として完成した「大河津分水」が、寺泊町に通水した。
■ここから吐き出された、きれいな泥水が、90年かけて、何万トンも、寺泊中央海水浴場の浜に堆積してしまった。魚のアメ横さんの駐車場としては大助かりであろう。太っ腹の、1000台分無料駐車場有り、の所以か。
幸いにも大河津分水からは、周囲には原発もなく、工場排水もなく、近年は素晴らしい可動堰で、浄化機能もあるから、河からの汚染はない。寺泊海岸水質調査ではいつも、クリーン度最高である。
■だが、海辺に土っぽい砂浜が増えるのはいいが、海がどんどん遠くなって行く珍風景。太平洋側の湘南・大磯あたりと全く反対の現象である。浸食どころか、土地が増えて増えて、浜が広大になってしまった。
■良寛が修行した、倉敷市玉島と違って、寺泊海岸砂浜の下は岩盤になっている。地震に強く、柏崎・出雲崎が揺れた時も、こちらの被害は、隣町程多くはなかった。首都圏のモダンな街のような、液状化現象も心配ない。
玉島は元禄時代は海だったと、良寛を学ぶ会の講師が説明していた。
■だから玉島地方の埋め立てた土地を干拓して、苗を植えても、塩水が出てきて、いつまでも米が育たない。そこで考えた村の衆が、綿の木を植えたら、大成功。こうして倉敷が紡績の盛んな都市に変わったそうな。倉敷の紡績の歴史が見えてきた。
■だが。かくいう越後平野全部が、古代は水面下だったと聞くと、蒲原地方の洪水は納得がゆく。
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ニッポン放送の電話取材! |
垣花 正・那須恵理子さんから |
ふるさと寺泊では、「夕映荘」を避難所として提供中 |