社会現象編 👀
未曾有の大災害での教訓は忘れない
3月11日がまた来た
巨大地震と寺泊杜氏
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あの時俺は福島の酒蔵にいた
・□
時が経つと焦点が薄れ、震災復興関連でも、
忘れてしまいそうな話がある。
…
◆復興支援の一部として、翌年に退職予定の公務員先生の善意ある退職金から、ねん出しようと大金45億の募金集めを試みようとしたが、日赤経由などの自発的な寄付は除き、思いつき提案の協力が実現しなく、じたばたしていた時代があった
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(ウクライナ発行の現地新聞にも報じられた原発事故写真)
--新聞提供:ビレスキー氏(ウクライナ出身)切り抜きファイルより--
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◆津波・原発事故・大地震。忘れることのできない3月11日は毎年来ては過ぎ去っていく。
この近辺になるとやおらメデアが話題を求め地方に走る。
都会の繁栄もいいが、復旧・復興の現状を優先して目を向けてくれと、
現地取材の著名なテレビキャスターやアナウンサーたちのインタビューに答える自治体の職員がおられる。
◆官僚や政治家と異なり、汗の代償を求めない学生ボランテアや若者たちに感謝しつつ当時のファイルを読み返すと、話題から消滅しそうになっている3月11日ならずとも想像したくない出来事がある。
忘れ去られそうな出来事を再度読み直した
😎
今では誰も触れない
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本当にあった話とは
・👀
教員退職金騒動
・・
1%天引き話再現
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福島の銘酒・自然卿を造る 寺泊出身のスター杜氏「高綱 強」さん 地震・原発と酒造り人生 再現記事 |
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■現役杜氏・高綱 強さんは寺泊会で語ってくれた。震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。 福島の地酒・大木大吉酒造の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。
■地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。
◆揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さん。
◆ほかの従業員が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んじまったのだろうかと
言ってたそうである。
馬鹿いうな。死んでたまるか。
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おれは大揺れの最中でも、仕込み樽にホコリが入らないように、
周りを養生していたんだ、。
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以降の掲載済み記事部分は、第三者によリ画像とも削除されたので、
再現不可能となり、紙媒体は残してあるが、ネット公開クローズ中。
だが件の酒蔵は完全復興し、酒造りは再会発展し全国展開でネット販売継続中
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you tube などで頻繁に登場している魚のアメ横で有名な寺泊町、その寺泊から戦後上京し、後の実業家となって東京圏第3位の高額納税者として名を遂げた、小林源次郎氏が69年前に創設した東京寺泊会なる小組織が関東に有り、爾来脈々と継承して毎年記念行事を開催していたが、コロナ禍で何年も中止していた。
そこで5年ぶりとなる寺泊会開催案内を2月初旬に発送した
唯でえ、足腰がそれ程強力とは思えない脆弱層が集う会の雰囲気があったが、あれから5年経過の御姿は果たしてどうであろうか。
会の第2勢力で当時50代半ばでも60代に、最大勢力の70代後半族なら己れの経過年齢を異常に気にする80代突入だ。自営でもやっていない限り、サラリーマンの生活には溶け込む余地は無であろう
とは言っても当会の最高齢会員さんは 105歳に なるから心配は不要。
5年も前の実話だが、100歳の長寿記念品をお持ちして、ご自宅へ訪問との区長からの提案の電話があった。
それなら私が区役所へひとりで歩いて参りますと答え、受け取りに出向いたそうだから元気が良い。
それを考えると、80代はまだ全員が若年層だ.
全く未知の世代人に送る如くのように、案内状を実行委員さん達が投函して下さったのも有効であろう
それも例年会場としていた都心のホテルの宴会会場が費用高騰で、上野公園の近くのホテルに変更せざるを得なく、地図付きの封書だった
従来なら往復ハガキ1枚印刷して住所ラベル貼って終了だが、初めての会場となると封筒にカラー刷りの案内書を入れて、更に切手代も掛かるから、実行委員会からの請求が怖いがコスパがどう出るか楽しみでもある
明けてビックリの人数しか、参加ご希望に〇のついたハガキが来なかったら中止となるかも知れないが、挑戦するしかない
それとも、次回以降の案内は不要です欄の☑しか無かったら、折角の案内書もどうなる事やら、寺泊会の実行委員さん達にはお手数をかけるばかりである
詳しくは➡http://teradomarikai.jugem.jp/?eid=192
さて、寺泊会を知って頂きながら、ふるさと寺泊町の宣伝になれば充分であるが、世の関心は別方向にあるやも。政・官・芸とやりたい放題が暴かれ、それどころではないらしい.行政サイドでも部下の公務員さん達が熱心に宣伝している、越後長岡ふるさと会の存在もついでに我が会得意なDX戦略で宣伝中 ➡
我が寺泊会は仲の良い弥彦さんや分水さんと異なり首町さんが一度も寺泊会行事に顔を見せないだけに、市長のお顔も名前さえ知らない長岡中心の行事には、不参加が続き評判も思わしくないらしいが、無言の宣伝協力で、名より実の重視組織だ 実はこれが初代会長から継承している寺泊会理念でもある
実行委員会さんに返信状況を頻繁に聞いている訳では無いが、もしかしてご来賓しか参加者がおられない場合の処置は未決である
直前役員会は大会7日前だからそれ迄は全く不明である
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NHK元NW9キャスター
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は寺泊人の巻。
出来る男は荒野を目指す。
大物キャスター、アナさんの民放移籍ニュースは、毎春絶えること無く話題を提供させてくれる社会現象である。
テレビ界で知名度抜群の男性40代、50代は転身の機会全盛期。通常は50代止まりだが、例外として60代は超の人物像でないと不可能だ。女性群のフリー転身化は更に30代が加わる。転身先が明瞭な男性陣とは多少事情が異なるが。
激変する生の社会現象を、身近に見て伝えた中からの選択肢であるから贅沢では有るが。
🔶 2024年最初に登場したビッグニュースは9時の番組「ニュースウォッチ9」で顔馴染みとなっていた青井実氏の民放移籍であろう。毎年続く類似情報、はNHKでは定例話題であるから驚かないが、縦横斜めから拝見してもスマートな若干43歳でのフリー転身だから,この先が楽しみである。
報道、情報にプラスして、娯楽の魅力に目覚めたか。
独立は男の夢と考えると全てにおいて理解出来るが、知識、仕組み、プロセスをある特定の組織で熟知してしまうと、ヒトはこの先の夢を追うようになるのは自然である。
⭐️即ち脳が荒野を目指して、無限のエネルギーを使えと発信するらしい。
民放への移籍者は当然だが、その民放在籍当事者も同一のプロセスを踏んで、組織内の一員から離れてしまいたくなる現実がある。現状維持からの脱却現象として、何の不自然さも感じなくなる。
🔸またもや50代登場。羽鳥慎一氏を彷彿させる
今朝も、にこやかに番組を仕切っておられる藤井貴彦氏(52)、元球児が売りの上重聡氏(43)も、何不自由無いだろうと、テレビ桟敷で見ていたこのお方だが、フリーになって、次なる挑戦へとPDCAのD段階かと思うと、男女問わずヒトの夢とは無限にあるものだ、と改めて考えさせられる。
但しNHKと異なり民放在籍者さんは、離脱した翌日からフリーとなっても、同局で類似番組にお顔を出すことが可能だ。
そこには多くの一般民がマネジメント会社の存在を知らない業界の外にいるから気付かないのであろう。
2023年1月31日、大越さんと同局だった武田真一氏が、55歳で定年を待たずして民放移籍を発表される大きな話題で湧いている。
NHKは民放より放送網が大きいため、ここでアナウンサー・キャスターなどを務めると知名度抜群になるので、逆に民放各局の経営陣は、局にこだわらず人材発掘に余念がない。時にはとんでもない恋愛事件ネタで奔走されることもあるが。
★しかしながら、TV ビジネスにおいてビッグパーソンについての退局・他局移動報道は日常茶飯事で、1年前の話では大昔級で驚かない。
極端な所NHKとなると1ヶ月前のニュースでは、もう古い。通常は今朝の話として扱わないと、そのニュース古いねえと一蹴されるのが実情である。
テレビ桟敷でのいい例が誰も想像していなかった、番組「あさイチ」の人気キャスターさんは、御本人の番組の中で直接退局宣言をされるので魔訶不思議な世界である。
これだって2023年5月22日(月)朝の事である。退局は個人の自由であり、法遵守にいささかも触れていないし、定年退局と異なり若手の退局はきわめて突然でも、代役に誰が選ばれようと、どうぞご勝手にとなるのだろう。
局さんもリスク管理で永年の経験上困ったよとはならず流れ作業の如く、流動的事案として扱っているに違いない。
◆自局の名物番組となると、有形固定資産にも似て、継続的改善を計り維持する事が、経営資源の向上に直結するからである。局単位の経営視線で考えると、その通りだが、現場で演じている、芸能人、とりわけその中のリーダーも然りで、制作サイド同様高視聴率の維持には、躍起であろう。
テレ朝名物番組「報道ステーション」初日
2021年10月4日。
スタートから小千谷市(新潟県)出身の渡辺瑠海さんとの小息も合い、さすが移籍金に値する貫禄を見せてくれた。
彼女自身も番組内で、ご自分も新潟県出身をアピールする荒技披露で、長期番組を狙う地位保全策万全の構えで、越後人魂全開状態の名演技。
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2022/12/01am4:00以降W杯カタールの再歓喜がスタジオにいるキャスターを久しぶりの笑顔にしてくれた
現地で取材しているクルーとのリモート会話でのヒトコマである。
日本チームの快進撃で日本を沸騰。リーグ首位での決勝進出は今年のアルビレックスを彷彿させた。この後トーナメントで勝利する度にこの笑顔を見せてくれるであろう。即ちあと3回という事か、と予想していたがクロアチア戦で結果出せず、おあずけ。あと4年後か。
◆ ◆
そして2023/3/22: WBC優勝となる歴史的瞬間に湧いた日本だが、このひともかつての野球人として冷静でおれなかったに違いない。
当日夜の番組では、こんな笑顔で自らキャスタ-を務めるスタジオに名闘将栗山監督を迎えてくれた。
昨年12月カタール戦以来の笑顔であった。
今回のMVPは栗山監督だね。旧局当時の、名コンビ青山姐さんとのやり取りを彷彿させるつぶやき復活となった
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★60歳なる言葉は、65歳と極めて近接した年齢である。
我が国に何千万人もおられ、境遇様々であり他人事でないと興味深々だろう。
異なるのは、お金とその後の終活工程である。
共通するのはゴールを意識しないまでも、ロードマップの通過地点である事かも知れない。定年(60-65)と退職は通常セットでやって来る。
…
★隣人にはゴドウケイも多いはずが、頬が緩む瞬間は、大小ともかく計算済みでも、退職金なる有難い御褒美であろう。
相当なレベルの著名人でないと、定年退職なのに翌日から新たな契約金などを用意して、どうか我が局へなどとの手は差し伸べてくれない。最低条件は、個性と経験でイメージ付けた容姿を保持しつつ、且つ切れ味変わらず的な雰囲気を有する事かも知れない。
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✳️名物番組のスターキャスター、アナウンサーを辞めて、他局へ移籍した局勤務有名サラリーマンは多数いるが、彼らは定年どころか、まだ40代そこそこな者もおられる。女性なら更に年齢が下がり、若きライバルの出現で更に決断を迫られる機会に遭遇。実際、民放局勤務者は一線を退くと、ラテに顔を出す機会が激減し、経営を考えた市場的には商品価値も低下するのが常で、資金潤沢なる局勤務故に、そこに定年まで活躍しながら移籍したとなると、これは世界でも何年に一度のトピックで、スター性に富んだ人物だから話題になったのであろう。それ故の当会コラムでの検索ビューも沸騰したのであろうか。
◆ ◆ ◆
同郷人大越キャスター氏のお蔭で、東京寺泊会だよりは、年間を通して安定読者数を保持しているので神様的存在である。
◆少しでも大越さんに関連した噂が出ると、これまた過去60万を誇る検索数が、超がつくほど増加する。
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・写真提供🤳NC 9編集部
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◆当初は、寺泊会が直接取材したわけ訳でないので、真偽は不明だったが、今春の人事で「大越氏、2015年3月でニュースウォッチ9キャスター交代・⁉」と、週刊誌、タブロイド夕刊紙に出るやまたまた、沸騰している。思えば同氏がキャスターとして登場したのは、2010年3月であった。
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✳それから何年か後、人事異動で大越氏から河野憲治氏その他諸氏に、バトンタッチすると発表があったので、噂は本当だった。そしてキャスターさんの異動ネタで業界話題で持ち切りにkなることも、持続可能運営のひとつかも知れない。
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・◆公式発表前に情報を流す者がいて、僅か一部のメディアがこれを買い記事にするとは、恐ろしい世界である。お蔭で検索数の激増に貢献してくれた。午前0時に始まり午後11時までの中で、何千とアクセスが来るのだから感謝するしかない。正に寺泊会だより検索ワード貢献大使さんとして、4月大会で感謝状を出したくなる感がする。
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🔷正直なところ、大越さんがこれほど著名な人気キャスターになるとは想像していなかったので、気楽な気持ちで渋谷のNHK放送センターを訪れ、寺泊同郷人ですがと勇気を出してインタビューしたのが幸した。勿論事前予約を取り、放送前の僅かな時間であったが。
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✳実際寺泊会へは、郷里の町役場職員から、東京のNHKでアナウンサーしているのは、寺泊マチ五区の蔵場町(クラバチョウ)に住んで居られた、大越さんちの息子さんらしいですよ、程度の情報しかなかったので半信半疑でもあった。大越さんちなら、お二人のお子さんが居られた筈だし、どちらにしても、町ではキャスターもアナウンサーも一緒にしていた。
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✳️当時の寺泊町出身で、有名人となると、弥彦山の東側に広がる景勝地、野積橋を渡るとすぐの荒谷(野積)にあった加藤さんちの息子・俊徳さんがラジオ(ニッポン放送)に時々出ているらしいとの連絡も受けてインタビューした人気脳科学者かに代わって、今度はアナウンサー(NHK)かいと、好奇心の虫がうずき止まらないなかった。
✴️もうひとりの寺泊出身有名人著書多数の加藤俊徳氏(脳科学者・医学博士)
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★偶然にもお二人とも昭和36年(1961年)生まれの40代後半(当時)であった。ドクター加藤は寺泊会で講演会したり、書店には加藤博士による脳トレ関連の何冊かが目に付くコーナーに陣取っていた。ところが大越健介さんとなると連絡時ではまだ米国(ワシントン)におられ、毎日お顔をテレビで拝見という訳ではなかった。実際はこの1年以上も後に寺泊会として単独で渋谷のNHK放送センターへ向かったのである。
🔷多くの読者層は同氏の名前でウィキペデアから入り、脚中に本人のプロフィール情報の一部出典が、東京寺泊会だよりと記載されているので、読者さんが、改めて、東京寺泊会だより迄辿っている様子なので、過去記事をアーカイブすると
■ 5月の大安日・22日に、寺泊会の顧問、外山勝志さんが名誉宮司を務める、明治神宮で挙式を執り行うとはいえ、結婚披露宴延期の青山祐子アナと、日本放送協会始まって以来の、名キャスターコンビとして話題沸騰させた1年間であったが、お二人での競演は4月2日にフィナーレを迎えた。しかしながら、国難が襲う憂うべき世相で、代わりにご登場の新人女性キャスター、知的で聡明さが目立つも、毎日難しいテーマの報道に、笑顔での受け応えどころではなかったが、それは編集長の好みの問題だよなどと、弥彦会の会員様に言われながらも、NC9は5月23日に新装する噂がある。
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■ 確かに背景は、手書きのアナログ型に親しみやすく改装された。スポーツキャスターとメインキャスターのデスクの距離も近くなり、発信者一体型となるように工夫され、気軽感もある。
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大越健介さんに特別インタビュー
◆NHK夜9時から始まる「ニュースウォッチ9」の 評判は、
すこぶる良いまま継続中。
中でもキャスターをしている大越健介氏/169cm、49歳・体重は非公開(2010/12/22、同番組の大腸がん検査推奨のコーナーより)の 気取らない雰囲気に人気が集中している。
✴そして2011年4月2日(土)、通常は放映のなかった土曜であるが、東日本大震災発生以来、特別枠で、毎回大越氏と被災地、原発事故問題などを伝えていた。この日でスポーツアナから数えて8年に渡る、毎晩、9時台のキャスターを卒業した。
3か月前の番組中に、自身の結婚をコミットメントするような、オーダーで、大越氏が仕込んだ構成に、全国で多少の!!もあったが、大震災・原発事故と壊滅状態の日本を報じていた職務上、3月27日(日)に予定していた披露宴をキャンセル、多くの招待客も納得の延期であろう。挙式は1年以上も経った、2012年10月吉日、明治神宮で執り行われた。
4月4日からは、同局の昼時間1時05分からの登場となる。大越キャスターは夜番組を継続するので、夜9時のお顔としてお会いできる。新スタッフによる番組進行も楽しみである。
🔷一説によると、青山さんの瞬間出演もあり、とのうわさが,囁かれている。ニュースウォッチ9の女性キャスターをこなせるコンピテンスを持ち、大越氏と組み、つぶやきギャグを受けとめてくれる、知的な姐御を、同局内で育てあげるのは、易しいことではないであろう。彼女にしてみれば、夜の番組終了後の、クールダウン時間が無くなり、ほっとされておられるに違いない。これからは別のメンバーと、居酒屋に顔を出すことになろうが。
🔷実際、毎日拝見していても、ブラウン管での 女性キャスター・青山裕子さんが10年遅く入局した後輩ながら 体力・知力備えた賢明な、お姉様として60分間弟をかばいつつ隣に座っている風にも見え,安心感がある。
その検証には、8月第3週のように、青山さんが夏休みの期間中は、このシーンは当てはまらなかった。
■その青山祐子さん(37)が、結婚報道されるや、この日から寺泊会のサイトの検索数がブレークした。平均200件くらいだった訪問者は、どこでかぎつけてくれたか責任重大である。
懐かしい1月の思い出であった。
◆大越さんは大きくつぶやいた。「仮にのお話ですが、もし青山さん〔番組では彼女をこう呼んでいる)が結婚されるとしたら、お仕事はどうされますますか・・」
「私は結婚しても今の仕事は、絶対必ず続けます」
「婚活には、女性の立場として、相手を十分知ることが必要ですね・・」
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✳ここで大越さんの名言が飛び出す。
「説得力あるおことば、ですね・・」こんなやりとりが交差するNHK夜9時のスター番組が、ますます人気上昇へとつながって行く。これに伴って寺泊会という、都会で運営する、いなか通信サイトも、うなぎ登りでヒットしているのではないかと、分析した。これでは制作に手が抜けない。
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● ●
■入局以来政治部で仕事をし、優秀な取材では定評があり同期入社だった 民主党・安住淳衆議院議員は、 「あらゆる事に、ずば抜けた才能を持ち合わせていた逸材」と 評価している。但し、これは週刊誌ネタなので、安住淳氏に直接伺おうと思って、秘書経由でインタビューお願いを出してから、だいぶ時が経ったもまだ実現してないが。二人のエピソードはネタになるのに。
▼「つぶやくような おじさんのささやき」こそキャスターの魅力
✴こんな基本条件を兼ね備えた大越健介氏。
ニュースオーダーが変わるたびに、ささやく本番中の小さなつぶやき。
大学野球の神宮球場のニュースでは
「僕もここでホームランを打った事があるんですよ」
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✳️:長編原稿のためここで一服・箸休めタイム令和の話
…
★2021年5月後輩が法大に1勝
:▼大越さんがらみの最新ニュースとなると、何といっても
2021年春の東京6大学野球リーグ戦で
母校東大野球部が5月23日の法政大学戦
2-0で久しぶりの勝利を挙げたことあろう。
しかしながら、2021年度の出来事はご自身がキャスターを引退してから
約40年近く経過してからのトピックである
偉くなられてひょっとすると、ご存じないかも知らないが
寺泊会には、この手の話題を自分の手柄のように自慢する輩が多いのである。
:
:
一方高校野球で甲子園の話になると
「僕の新潟(高校)は、まだ一回も出たことがないんですよ」
石川遼が全英オープンのラフで苦戦していると
「僕がこのホール代りましょうかね」
賞金の高い試合が,目白押しの、2010年11月のPGAトーナメントでは
「高額賞金を目の前にして、よく繊細なプレーができるものですね。私なんか△※□・・・」。
◆などなど、時にはおやじギャグになってしまうこともある
:
✴こうなると、青山キャスターは、 聞こえなかった事にしてさっさと次のニュースへと話題を変えてしまい、「しょうがないわねえ、この子は」とでも言いたげになる。
多くの大越健介ファンは、彼が女性キャスターの方に体位を開いて、 少し首を右に廻しながら両目を右側にまとめて何気なくつぶやく姿と その言葉こそ最大の魅力と受け止めているようである。
■だが、9月3日の番組では、2日前の菅直人首相に続いて、小沢一郎氏をスタジオに招き、政治部の記者時代から身に付けた、適切な質問を投げかけ、相手に語らせる手法も素晴らしいものがあった。2010年の政権交代劇は、同番組を再生することは不可能なため、日テレニュース24のフリー動画で再生しながら検証するとわかり易い。
佐渡高校選抜出場 | |
■さて、年は変わって2011年・春の選抜高校野球大会に、21世紀枠として新潟県立佐渡高校が選ばれた。
NC9ではきっと話題にするだろうと、期待していると案の定、スタジオ皆で、大越さん良かったですねえと笑顔が浮かぶ。
今では新潟ニイガタとアラフォーの言葉に、青山さんも一柳スポーツキャスターもすごく敏感に飼育されておられる。この雰囲気で、この言葉がでるとスタジオは大盛り上が りになる。
( 新潟高校時代に)3時間かけて佐渡(高校 )のグランドへ練習試合に行ったんですと
述懐する大越氏は、アナログ派だけに、スマートフォンのニュースの後に、新潟情報を発信するチャンス到来の2011年1月28日(金)となった。
● ●
▼兄が私を野球の道へ
導いてくれました
兄とは時間さえあれば二人でキャッチボールをしていました。 野球に夢中になる事の、面白さを兄が教えてくれたのです。
これは事実らしい。本稿の初稿段階で、読者を意識して物語風に創作し、「自分はもっぱら外で野球を楽しんでいた時間にも、勉強家の兄はもっぱら家の机に向かって本を読んでいた」、などと推測で表現したが、ここの文章は間違っていますよと指摘され、兄と一緒になって日の暮れるまでキャッチボールをしていたに、修正して下さったのである。大越健介物語には、小手細工の作文は不要なのである。
✳️実際2021年年11月15日のテレビ朝日「徹子の部屋」に出演した時も、8勝27敗の話や、ご兄弟のくだりも懐かしそうに振り返っておられた。
4歳を前に寺泊から新潟市に転居あと、小学校へ入ると少年野球チームに入り、中学校・高校と野球部員として汗を流した。。
兄と同じ新潟高校に入学した頃には、彼は医師になる事を、考えていたようでした。
3歳年上のお兄さんとなる大越章吾さん(日本歯科大学、新潟生命歯学部、教授)は、新大(医)を卒業後は、大学院を経て、東京の国立ガンセンターで、肝炎ウイルスの研究をされ、1990年・医学博士となる。癌研有明病院でも、論文は生きているはずである。(写真は、癌研有明病院の5階テラスで撮影)
正に誇りとすべき 寺泊出身者のひとりでもある。 各地で開催される肝炎に関する講演会にも出演し、パネリストとして 時折、講演や解説をしている。
▼東大野球部時代
東大野球部時代は、投手としてサイドスローの投球を貫き 神宮で50試合に出場して8勝の実績を残したエースだった。 東大出身の投手には1960年岡村甫氏(前高知工大・学長)が 記録を作った、71試合で17勝した記録があるが、歴代5位となる 大越氏の記録も優れたものである。 入学した年1981年は早慶から勝ち点をあげて 赤門旋風とメディアで話題になり、東大最強時代を造り上げた。 ■ここの大学のチームなら 1試合9イニング最後まで投げれる確率は一番多いだろう、 との東大野球部入部の動機は、見事に的中した。
サイドスローの話はエースだった大越氏を知る者の常識であるが
今年の神奈川県大会決勝線で横浜高校に勝った、プロ野球の各球団が1位指名を狙っている、東海大相模の 一二三投手も同じフォームである。
八月一日に番組中で この投球フォームのニュースが流された際
大越さんもきっとこの事に 触れるに違いないと期待して番組を拝見していると
案の定
✳「僕の投球も最初はオーバースローだったたんですがと途中からサイドに変えたんですよ」 と、
大きくささやくと、隣の青山キャスターも身を乗り出し 「まあ、そうだったんですか」と、このささやきは盛り上がった。
この直後の「オーバースローからサイドに変えて勝ち進むのは大変なんです」と
自分を振り返ったつぶやきは、大きくは話題にしてもらえなかったが。ところが、このつぶやきは、平成22年夏、第92回全国高校野球選手権の、一二三投手物語へとつながって行く。
?▼▼[一二三投手のサイドスロー物語]2010年8月20日ニッポン放送。高嶋ひでたけ「朝ラジ」の番組より、高嶋さん朗読の「スポーツ人間模様」を東京寺泊会だよりが脚色公開。
🌠2010年春、巨人の原辰徳監督は、遠征先の宿舎で一本の電話を受け取った。親父に母校の監督になれと指名され、東海大相模の監督をしている、後輩の門馬敬治からだった。
この年の選抜大会・初戦で敗退した直後、一二三投手が投球フォームを変えたいと言ってるが・・・との相談であった。夏の甲子園出場に向けて、チーム一丸となっていた5月、オーバースローのフォームが定まらなく、練習試合で結果が出せない、すべては自分の責任だと、一二三はひとりで悩んでいたのだった。一二三がサイドスロー投球法に気が付き、閃いたのはそんなときであった。
▼▼印?へ続く●●●
✳キャスターの大越健介氏は東大3年の1983年に、日米大学野球選手権に出場している。
この年の東大の春秋の6大学野球の成績は5位であったが、リーグを代表する選手として 国立大からは、初めての抜擢であった。
記者・・出場されたご感想はいかがですか
大越・・僕はこれで「NIIGATA」「TOKYO」「JAPAN」とすべてトップのユニフォームを経験しました。(同氏のブログより)
✳同時期に6大学野球で活躍しプロ野球選手の道を選んだ選手には 小早川毅彦(PL学園・法政・ドラフト2位広島)、 広沢克巳(栃木・小山高校・明大・ドラフト1位ヤクルト)、 木戸克彦(PL学園・法政・ドラフト1位阪神)などがいた。
彼らは大学野球界でトップレベルにいたアスリートである。
これと同等で称されるコンピテンスを持って、東大野球部に在籍しておられたのが、寺泊生まれの大越健介氏であった。
大越さんのつぶやきが楽しみである。青山キャスターが休暇中では掛け合い漫才こそなかったが、高校野球から目を離さない同氏が、隣の女性スポーツキャスターに「野球仲間と話してたんですけど、ここまで来ると、球児の力の差はなく、皆が横一線ですね」とコメントしていたが、高校野球を語り合える「野球仲間」とはどなたであろうか。県高・新潟高校の野球部仲間か。まさか東大ではあるまい。
これはご自身の3人の野球好きな息子さんたちに違いないと、勝手に解釈してしまった。
女性キャスターに語りかけた、サイドスローにおける大越さんのつぶやきこそ、日本で最も、横手投げ投法を実践し勝利する難しさを知った男、の言葉であろう。
■運命のドラフト会議は、2010年10月28日(木)今春東京新潟県人会新年祝賀会の会場と同じ、グランドプリンス新高輪・飛天で開催された。ここのステージには1月に芸能大会で司会として上がったが、スピーカーが天井でもホール後方席の音量は、会場を包むように聞こえ、気持ちがいい。クリスマスシーズンには、加山雄三や、著名アーティストのディナーショーで満席になる。
✳早大のスター投手に1位指名で、交渉権を持つ球団が決まるや、関係者は満塁打を放ったような嬌声を上げた。
この日の大越氏の番組は開始早々から1/2を占める,約30分を、ドラフト関連のニュースに費やした。「6大学野球に関わっていた自分としても・・・」思い入れが深いのであろう、・・と切り出し、プロとして巣立って行く前途ある若者に、熱いエールを送った。
そのスター投手こと、早大・斎藤ー大石はドラフトでも、スター扱いであったが、2010年秋季リーグ戦では10月2日第4週1回戦で両エースが登場するも、4−2で珍しく東京大学に敗戦していた。東大は6大学野球に於いてリーグ戦35連敗中であったが勝利の記念大会となった。
✳当日、神宮の応援席で観戦していた東大の学生数は、早大より64人少ない258人(東京大学野球部HPより)であったが、2戦3戦と逸したせいか、OBキャスターさんは、当時、この話題につぶやかなかった。ただニュースウォッチ9番組でのドラフト関連放送中のネット検索は一斉に、この寺泊会だよりのページに飛んできたがその目的は判らない。(ページ下段に検証エビデンスのグラフあり)
■つぶやきには、野球関連が圧倒的に多い、2010年10月11日、体育の日の話題では40歳代の体力がテーマとなり、この年齢層は、使わないと坂から転げ落ちるように筋力が衰える話に飛んだ。
「この前久しぶりに草野球しまして」と切り出し、フライが飛んできたのでボールの落下地点まで走り込んでキャッチしようとしたら、なんとボールは2メートル位後ろに落下したのでした
「あの頃の俺は、一体どこへ行ってしまったのだ」とかつてを反省し懐かしむ。
久しぶりに女性キャスターが「野球のエースだったあなたは、まだ40代でしょうが」と話に乗って来た
🌠すかさず 「青山さんも間もなく同じ40代にどっぷり入るはずですよ,※x◇・・・」と49歳の大越氏との掛け合いが始まった。
これこそテレビ桟敷で、待ってましたと叫んでしまいたくなる。民放なら草野球シーンを放映したに違いない。
主婦の勘は当たる |
🔶青山さん結婚するんじゃない。だって去年の暮れ頃から、「お顔がずっと輝いているんですもの」。
結婚するのかしら。「女って結婚の決意をした時が、人生で一美しくなるものよ」。毎日欠かさず、この番組を見続けている女性視聴者たちのこんな話題が、耳に入ってきたのは、寺泊会だよりに、彼女の写真を掲載してからであった。
責任感強く負けん気の彼女の目は、画面からは、かつては女刑事の眼であったが、平成23年は、天使のような優しい瞳にかわっていた。それでいて、大越さんの言葉を包み込んで、番組のオーダーを進行させている。こんな感想をもってすごしていた2011年1月17日の早朝、ニッポン放送、高嶋ひでたけさんの番組で青山さんが1歳年下で、37歳・会社役員の男性と結婚される(スポーツ紙の紹介で)ニュースを発表したのであった。この手合いの話題はメディア発表の前に、ここで書いておけばと、歯軋りする、我が編集局の朝となった。だが、この日の当サイトは、24時間中、約90秒に一回の訪問者で、あふれる、ありがたい結果を残してくれた。
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✳かくして主婦層の眼力は近頃の彼女の変貌を、すばやく見事に見抜いていた。こんなパワーを持つ主婦層だから、サラりーマンのおじさんたちが会社から帰宅後、かわいい嘘をついて、奥さんから小遣いをだまし取ろうとすると、顔に現れ、すぐにばれてしまうのである。
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✳年齢の話題にはキャスター同士の反応が速い。
大相撲11月場所9日目、場所が地元の魁皇・1972年生まれながら、いつものように連敗もせず、すこぶる元気いい。優勝戦線参加中の8連勝、今場所はまだ一敗しかしていない。もしかして優勝するかも。
スポーツアナが、この年齢でよく頑張っていますよねと持ちかけると、
女性キャスターは、「38歳頑張れ」ですねと反応。
大越キャスター・「妙に強調しますね。(青山さんも)お同い年ですものね」。「ええ、私も、まあ、つい。△※○x」。 このひと月あととなる、12月27日に米国の大学在学当時、アメフトをやっていた屈強の体格を持つ、男性のプロポーズにOKをだす、彼女の誕生日であった。38歳へのエールは自身へのお言葉だったに違いない。
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🔶さて、結婚報道がメディアに周知されて、最初となるニュースウォッチ9は、2011年1月17日の夜9時である。大越氏の第一声はどんなおことばであるかが、これまた興味深い。きれいな白い歯を、一層大きく開けての御祝言になるであろう。サッカーアジアカップ第3戦直前のハイライトに、目を離す話ことが出来ない。民放のように、ワイワイとした場面は抑えるに違いないが。(午後3時記)。
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▼仕事をするなら新しい世界にチャレンジしよう
🔶大学4年の頃、自分にも、当時社会人野球トップの球団から強烈なオファーがあった。だが、 大学を卒業した後は、これまでと全く異なる世界を覗いてみようと、 マスコミ・報道関係の仕事を選び日本放送協会(NHK)に入社した。
▼東京寺泊会からのアプローチ
NHK入局直後の昭和60年から約4年間は地方局に勤務していたが その後中央に戻り、政治部記者として橋本龍太郎元総理の番記者や 自民党派閥の経世会担当として時折テレビで取材報告をする。 また、解説や選挙報道の番組に顔を出すようになると 東京寺泊会の懇親会があるたびに、 会の中では、大越さんの話題が飛び出し始める
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✴「大越さんがNHKのアナウンサーになられたそうな」、 などと勝手な解釈で納得して、 来賓として東京寺泊会に来賓招待したらとか 講演会を企画せよと、寺泊の役場職員から不確かな連絡が有ったのはつい最近のように思えるがあれから年月がかなり進行してしまった。
🔹自粛階層族支援寺泊関連閑話
紅白歌合戦の季節が来た
時代と共に著名人気歌手でも出場の機会が少なくなったが毎年変わらず紅白で演歌を熱唱し続けている女性歌手がいる
2023年ステージは、パフォーマンス合戦の世界だと言うのに、演歌歌手の登場を世間では、どう受け止めるかが見ものである。まさか、水森かおりのコーナーのようにドミノを使う事は無いと思うが。(中継同時出稿)
2022年大会で、天城越えを熱唱した、深紅のライトを浴びながら貫禄を示す石川さゆりさん。これこそ本物のブラボーか。
2023年暮れにも同じ言葉を発生させるのかと、楽しみである.
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演歌・歌謡曲には海峡をタイトルにした楽曲が目につく。
坂本冬美(北の海峡)、吉幾三(北限海峡)、大月みやこ、都はるみ、森昌子など(女の海峡)、上杉香緒里(おけさ海峡)、人気歌手多数が感情込めて海峡を唄う、熱唱型演歌歌手好みの楽曲テーマなのだろう
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但し同じ海峡モノでも、過去に紅白で12回も歌われた「津軽」と異なり、「飢餓」となると海峡の緯度的には同一にもかかわらず、紅白のステージで一度も熱唱された事がない。根拠を辿ってゆくと、飢餓海峡を唄う石川さゆりと水上勉の壮絶な接点に到達した
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★コロナ禍の時代だからこそ、自粛中の住処で時間つぶしとばかりに、先ずは
アマゾンか楽天で気になる作家の本を探し、新旧の人気作家まで辿り着くのであろうか。
その検索の途中に 水上 勉 が出て来ると、越後人は何故かこの本を候補にされるようで
早速ポチッと「飢餓海峡」,「五番町夕霧楼」, 更にマイナーだが「寺泊」などをお買い上げらしい。
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◆ボテ・モンペ・番屋
▲飢餓海峡の作者
寺泊の浜辺を歩いた
水上 勉
作家水上が歩いた昭和の寺泊のイメージだろうとの事で、撮り貯めていた八甲田丸観光記念船からの展示写真を(無断)借用したが好評のようだ
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▼出版全盛と
出版不況の怪 |
■ さて、本といえば、世のスキャンダラスな話題を取り入れ、作家が書き下ろしまくると、ホンが売れ、月刊誌の発刊が続いた昭和中期、出版社全盛の時代が懐かしい。業界大手の、角川書店、新潮社、筑摩書房、平凡社、集英社、徳間書店、小学館から、婦人雑誌系の出版社まで、売れる商品に飛びつき、稼ぎまくり、同時に作家も潤った。平成の今、想像もしていなかった出版不況の社会現象で、この業界は、著名月刊誌の廃号や、大小出版社の統廃合、 倒産が目立つ。ぶ厚い雑誌を買わない、紙媒体本が売れない、広告主がなかなかつかないそうである。
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▼佐渡の見える浜(1999) |
★飢餓海峡を
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聴いたり読んだり
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(同名演歌のギターバージョンYoutube版より)
👀
✳ 令和「コロナ飢餓」小説「飢餓海峡」演歌「飢餓海峡」点と線
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✴ 演歌「飢餓海峡」が線になった
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■人気小説から同じ題名の唄を立ち上げることに熱心になっていた紅白常連の演歌歌手がいた
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手始めに挑戦したのは、泉鏡花原作「義血狂血」からの「瀧の白糸」であった。20代の終わりころであった。
次に発表したのが高橋治の恋愛小説「風の盆恋唄」新潮文庫編は、著名なヒットメーカーコンビ、作詞:なかにし礼・作曲:三木たかしで完成した
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◆ ここは東京赤坂4丁目にある、日本を代表するレコード会社8階の役員専用会議室である。
まだ東証一部上場中で、レコードからCDになっても売り上げ好調を維持しようと、映画人気のある今のうちに次なる経営戦略について役員達で活発な意見を取り交わしていた。
現場に詳しいK常務が、来期は小説の歌唱化に力を入れるべきだ、と提案したが作家名までには及んでいない。
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◆「小説を歌にする」
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言葉は簡単だが、プロと言えど我が社専属で歌いこなせる歌手はいるか。翌日、川崎にあった製作部門のディレクター達に集まってもらい意見を聞いた。
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◆この時小説好きで、社内でも敏腕プロデューサーとして通っているSの目が輝いた。
何か閃いたようだ。自分に任せてくれれば何とかする。
彼の思考には入社まもない頃から担当していた、ある有名歌手を思い浮かべていた。
*
◆ 彼女は小説から歌を立ち上げる事に夢中になっていたし、いつか水上作品にも挑戦したいとも言っていたのを忘れなかった
*
■ 水上小説には史実に絡むスキャンダル事件など、大衆受けする作品が多数あり、今の時代にマッチする。
このチャンスを利用して曲を世に出そうとの意見は、出席者全員で一致した
これ迄に何本かの楽曲を仕掛け、大ヒットさせた経験のあるSが、先生に直接会って交渉する事との結論を出してその日のミーティングは終った。
:
◆「私の作品を歌にはしないでくれ」を承知で訪問
村上勉は、自分の作品を歌唱化する事に対して、どこのレーベルからのオファーにも、全て断り続けていた。
一度も首を縦に振った事が無いことで業界では知られており、同意は容易ではない。
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◆邦画人気を支えている原作者の一人である、水上勉氏に直接交渉して、必ず小説の歌唱化のお許しを請うという強力な意思を持ってプロデューサーSは、翌日、水上先生の居られる若狭に飛んだ。
:
◆ 彼は、水上小説を歌いこなせる歌手は、我が社にひとりだけいると確信しており、彼女の声質、リズム感と演技力、歌唱への情熱と優しさ、全てのパフォーマンスを熟知していた。
交渉にあたっては、その全てを水上先生に伝えれば成功する筈だ。
:
■ 先生の決断
「判りました、明日私の劇場の音楽担当者にも話してみましょう」
:::
◆ その3日後だった
先日ご推薦頂いたプロが歌うのであれば、先生の作品をレコードにしても宜しいそうです。水上劇場の音楽担当者さんから電話が入った。
:
◆ レコード会社にしては、まるで夢のような瞬間であった。ご当人にもお会いしましょうとの事で、早速訪問の手配になった。東京からはプロデューサーが、興業先からは本人とマネジャーとの二人が若狭の水上先生の元へ向かった。
:
◆現地では先生お気に入りと評判の、囲炉裏の間でたくさんのお話しを聞くことができ、今まで経験した事のないほどゆったりと時間を過ごした石川は、益々先生の小説を歌える悦びに浸っていた
…
✳ それはあたかも、点と紅い糸が固く繋がったような情景のようであった。
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■ 次なる
思いがけない展開
若狭訪問からしばらくした頃、先生が心筋梗塞になられたとの情報が伝えられた。だが症状は軽く、今ではお元気に過ごされているそうだ。ここで、我々でも先生のために何かをやろう。
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先生のお見舞いを兼ね、一夜限りの舞台を企画しようと若狭の「ミニシアター」を会場にして
「幻夢一夜」と名付けた小イベントを企画したのは永六輔、筑紫哲也それに児童文学者の灰谷健次郎であった。
:
◆さて当日のステージ演目を何にするかを話し合い、お話名人の永六輔と筑紫さんはステージ上で語りをやるので、あなたもどうですかと誘われた。
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◆ 歌手としてステージ上で台詞回しの経験はあるが、語りよりも、皆さんの前では水上小説からの歌が一番良いのではとプロデューサーにも相談し、水上小説3部作を歌う事になり、直ぐに作詞作曲担当の先生を探して頂いた
:
●水上小説検証
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歌唱版3部作誕生
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❶「越前竹の舞」…原作(越前竹人形)新潮社版
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❷「はなれ瞽女おりん」…原作(はなれ瞽女おりん) 新潮社版
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❸「飢餓海峡」…原作(飢餓海峡)新潮社版 であった
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◆ 3部作の作詞は、全て吉岡治、作曲は弦哲也の各先生にお願いし、中でも「飢餓海峡」は商用でなく、水上先生個人に捧げる、専用楽曲ですとの思いを伝えながら作業を開始して頂いた。
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◆やがて素晴らしい作詞、作曲が出来上がリ、これなら語りも有るし、先輩語り手にも違和感ないだろうと水上劇場の舞台に立った。
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◆それにしても、作詞家さんとは、一瞬にしてここまで小説主人公の心を汲んで、文字に出来るものかと感心すると同時に、作曲家のギター演奏に感激しながら自分でも、この歌に酔うような感情を抱いて熱唱した
石川さゆりも芸人魂を発揮し、抒情たっぷりに短いセリフも入れてみた。
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◆3曲目の「飢餓海峡」を唄う前に曲紹介し、ゆっくりとお願いした。
:
「会場の皆さん、この曲は発売を目的とした歌で無く、今夜一夜限りしか歌わない、水上勉先生に捧げる唄です」と念を押しながらご挨拶してから、特別席に座っておられる、水上先生を前にして津軽弁を交えた唄芝居に続いて「飢餓海峡」を歌い始めた。
…
:
✳ ✴ ここで「飢餓海峡ギターバージョン」とYou tube 検索し鑑賞すると、感激の演歌シーンを味わう事ができます。
*
:
✴◆ ところが歌い終わるや、永六輔さん、筑紫哲也さんが興奮気味に「一夜限りの唄では水上先生に申し訳ないぞ、この曲を日本中に広めよう」とおっしゃり乍ら、ステージに上がり会場の皆様へ、同意を求めるような雰囲気になりびっくりしてしまった。
:
いつまでも大きな拍手を頂きながら、感激してしまったことは忘れることができない。
・・・
・・・
■東京へ帰ってもレコード会社に各地のショップから
「飢餓海峡」をCDにして欲しいとの要望が沢山入ったらしく、再びビックリする。多摩川下流に建つ工場の制作現場はプレスマシーンがフル稼働していた。
:
◆ プロデューサーから、若狭で大評判だった「飢餓海峡」をリリースする事が決まった、打ち合わせするから、明日の14時頃、第二制作スタジオに来てくれとの連絡があった。
:
★遂に「飢餓海峡」の正式発売が決定したのある。
:
村上先生個人のためにとの思いで、弦哲也先生に作曲して頂いて唄ったあの曲が、日本中に広がる瞬間であった。
:
創作部分脚注: NHKラジオ深夜便2021/1/6より
:
Note
(本稿紹介の歌手が歌う楽曲は全てYoutubeに公開されておりますがYou tuberさんの掲載許諾を得て無い為、記事とURL並列掲載は出来ませんが
鑑賞目的にて楽曲名を動画検索しながら、本稿をお楽しみください。)
寺泊会70年の年輪
昭和・・平成・・令和を斬る
最高齢会員は元気な104歳女性
6月インタビューめでたく完結
初代会長(別号公開中)の初宴会は1957年
昭和32年〜令和5年・・。
・
東京寺泊会の世相物語、
本稿掲載
2代会長〜10代会長まで
約70年の歴史とその世相
現在11代会長公募中
コロナ解禁迄の足跡と人物往来
(長編につき巻末迄読切倦怠ご注意)
(初代会長は前号で公開中)⇔下線部クリックで表示
・・・・・・・・・・
・
2代古川原与一から
ーー。
第9代外山健太・・
&現在第11代会長公募中
・
・・
創設者に感謝しつつも、やむ無く
2023年春の68周年記念大会開催中止
・
◆・
・
懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷と同時期の世相点描
・
初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。
◆軍歌歌手登場時代
(写真提供/古川原サキさん・第5代会長古川原実氏夫人)
■昭和30年代の寺泊会はほとんどが、畳のお座敷で執り行われた。ご婦人たちは歌舞伎座へでも行くような道行コートに絵羽模様の羽織姿でご来場、お座敷には、流行りの歌手を迎えるなど、カラオケ装置なくとも立派に宴会時間を楽しんでいた。
当時○○会の集いといえば、戦友会が各地で催され、そこで唄う軍歌歌手さんは日夜奮闘の大忙しであった。寺泊会も人気歌手・壽川有里さん(キングレコード)をゲストに迎え、司会さんは大きな日の丸旗をかざしながら、宴を盛り上げたのであった。手拍子に日本酒・お膳料理が似合う光景も寺泊会の歴史遺産か。
(キングレコードのHPより)
・
寺泊会の座敷で軍歌を披露した
壽川有里(現:須川)さん
2代会長時代
ー
昭和35年度
・
一期限定約束を貫く
▲古川原与一氏 (協和建業初代社長)
(写真提供:古川原美佐子さん)・
初代亡きあと2代目会長のなり手が見つからずで、任期を1年限りならばと受諾したご仁が、野積出身の古川原与一さんであった。古川原与市氏が就任したのは昭和35年での事である。
北区の東十条駅近くに建設会社を経営しながら息子の実氏に
、寺泊会の雑事も教えていたので、5代目会長を引き受けた小川原実氏もスムーズに会を取り仕切ることになったが、与一氏は約束通り1年で会長を退任された。
✳️昭和時代: 歌謡曲、大相撲
ラジオでは昭和歌謡史に名を残す歌手が次々と現れ、流行歌がこれでもかと連日のように流されていた.
春日八郎・美空ひばり、それに何故か新潟県では絶対的な人気のあった、白根一男・聴くと同時に自分達も口ずさむ流行歌大流行りであった。
★昭和30年半ば寺泊町から2人の若き力士誕生
大相撲三段目イメージフォト
:
★立浪部屋に入門した石井一章氏は、初土俵が1958年(昭33)年7月。
入門時は本名の石井でデビューした.
出身地の野積には石井の苗字が多く、ポピュラーな名前で知らない人はいない。
ただでさえ相撲は人気が有り、寺泊町から初のお相撲さん誕生で
どこへ行ってもこの話題ばかりであった。
入門翌年5月場所から四股名を弥彦山に変えて、
4年間26場所務め、最高位は東三段目四十六枚目だった。
昭和37年9月に引退した。
★一方の青木山(青木重勝氏)も翌年同じ立浪部屋に入門、同郷の石井とは2歳年上だった。柔道部で鍛えた足腰は並外れ、相撲界に入ったと聞いて納得した者も多かった。
初土俵は1959年(昭34)年1月場所であった。
引退する迄5年間29場所務め、最高位は西三段目で25枚目だった。
★立浪部屋は双葉山、羽黒山が戦前戦後の名横綱として日本中を沸かした名門相撲部屋である。
青木山が初土俵踏んだ昭和34年は、若の花(花籠部屋)と栃錦(春日野部屋)の両横綱が、毎場所交互に優勝しあっていたが、青木の入門を祝ってか、立浪部屋の若羽黒が11月場所で優勝し、久しぶりとなる部屋に縁起良く優勝旗を持って来た。
★若き力士ご両者共、2代目会長の古川原氏と同郷、屈強な体格と力持ちが多い事で定説の、寺泊町・野積出身である
相撲界に寺泊出身者がいるとあって、町内では蔵前国技館から放送される大相撲にも熱がはいる。
寺泊町では、高綱三作(野積)が12代町長(在任期間・昭和25/1〜41/7)をしていた。
◆やがて1年が経過し、寺泊会では約束の新会長さんを迎える時期となったが、会長選びは相変わらず難航していたようで
これは寺泊会の伝統か。令和になっても変わりないようだ。
◆・・・・◆
/
会を盛り上げた元県知事さん
寺泊会と亘四郎(明治32年-昭和52年)さんとの想い出シーンは、古参会員達の古いアルバム帖の中で、白黒写真が変色しながらも多数存在しているようだ。同氏が南蒲原郡三条町(当時)にあった名代の呉服商を離れて、寺泊の裕福な廻船問屋、亘家の養子となられたので、正に寺泊人である。愛称はワタリさんだった。
・
・・
3代会長時代
ーー
昭和35年〜48年
・
昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。
以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート、熱海温泉などで、
多彩な企画を設け12年間会長を務めたのである。
。
4代会長時代
ーー
昭和48年〜57年
・
昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。
石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時も、昭和の宴会芸人を迎え
楽しみ名人たちの集いを盛り上げていた
石垣氏は江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど、宮前名物「とんかつ」専門店を
営んでおられた繁盛店の主人(あるじ)であった。
自ら資金提供しても、余興付き宴席を実戦した記録が多数残されている。
・
この頃から、畳のお座敷スタイルからホテル方式へと
変遷してゆくのであった。
畳に座り「まあ一杯どうぞ」一献(いっこん)姿が懐かしい
いつの世も、宴席でこれをしつこくやって嫌われるサラリーマンがいるが
案の定その後は出世しなかったとの事だ
★やがて昭和57年、石垣氏は会長職10年近くになる頃から、退任を考えていたが
5代会長へとバトンを繋ぐ前から考えていた人物がいた。
その人物こそ2代目会長の息子、古川原実氏だった。同氏の若い頃となる 親父が会長時代から「寺泊会」の文字に馴染みで
事業継承した建設会社の経営で多忙だったと察するが、石垣氏率いる寺泊会の運営にも積極参加しながら、
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く、寺泊会の将来像を語る姿を、多勢いる宴席で時折呈していた。
・
5代会長時代
ーー
昭和57年〜平成9年
・
古川原実氏は5代目の会長として永きに亘りその手腕を発揮、東十条駅近くにある親父から継承した建設会社を事務局に構え
役員たちをここに集め会合を開いていた。
これから2代後に寺泊会を継承した7代会長は、まだ40代後半で、当然の事ながら最年少だったが
案内書封筒あて名書きになると、手書き入力が続いていた頃である。
文書類は全て手書き文字の書類で、会員の住所一覧も初回から継承してきた遺産を
使用しており、ここで初めてワーブロなるものを提案し、住所ラベルと一緒に持参したところ皆が驚く始末であった。ここに電子媒体が誕生の感があった。
豪気で面倒見の良い性格の古川原会長のもとには、歳暮時期になると会社応接間には数え切れないほどの進物があった。
仕事がら気の荒い職人さんたちを束ねたりする事に長けており、いつも正義感を貫いておられた。
…
■会長職退任後も平成16年度の第49回大会までご夫人を伴い,毎年欠かさず熱心に寺泊会に参加され、名誉会長さんとして大会をゆったりと楽しんでおられた。会長夫人、小川原サキさんからは、多数の写真を提供して頂き、本稿制作の貢献多大である
◆・・・◆
…
…
6代会長時代
ーー
平成10年〜16年
・
更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。
三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている(英寿製作所)@Hp
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。
✳️第6代会長が務めた平成時代中頃までの、宴席はテーブルに灰皿が必ず用意され、食事中でも喫煙が当たり前の光景であった。飲んで食べて一服しながら煙を吹かす姿に誰も不思議なことと思わなくなっていた。
◆寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代会長の三上喜久治氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づけて行くことになった。
寺泊町は後に長岡市になり、町長制度がなくなり市の支局となると、責任権限が吸収され、唯の支店長と変わらなくなって
何をするにも決断が出せない。三上会長はこれを見据えたかのように、いち早く企画モノに実績をつけた先鞭者で、その功績は大きい。
7代会長時代
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平成16年〜23年
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創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ
■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。
■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの国際認証登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きで、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当していた。
上越地方出身者のように、舞台で演じるような民俗芸能好きが、当時、寺泊出身者に少なく、一度も寺泊人を大会で紹介することは無かった。
寺泊会の宴席に、若い銀座ジャズクラブのアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。
■情報提供を募り、東京寺泊会だよりの制作に携わり、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局長を経て日本へ戻ったころ、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の貴重なな時間だったが、有り難くも応じて頂いた。
渋谷のNHK放送センター2階にある社食に案内され、一緒に冷しラーメンを食べながら、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。
寺泊会だよりは、寺泊に関した、歴史文化芸能や行事の宣伝のつもりで発行していたが
実際は寺泊近郊を出身地としない読者曹も相当増えて、水上 勉などの著名作家や、若手画家などもことあるたびに取りいれた
(写真提供・NC9番組編集部)
■東京寺泊会だよりはネット配信のみで、印刷費なし、郵送費なし、要るのは記事制作の手間と好奇心だけで間に合う。エビデンス少なく、誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理に余念ない
■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけプロのライターと契約し課金制にしたらと画期的な提案をしてくれたのは、のちの第九代会長さん・外山健太氏であった。
実現しなかったが、商才優れた同氏の意見は聞くべきだった
IT業界とは、これに似たようなアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、度々役員会の話題になっている。
■7代会長は就任時からの持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかったようである。
郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である
逆にこの人が会長なら、俺たちは参加したくないとするグループも必ず出て来るのが組織である
✳️任期制限として身近な話では、寺泊会の名誉顧問である、小林正則氏(前、小平市長)も市長任期3期説を唱えて、当時の現役市長を破り市長に初当選した経験を持つ。但し市民の信頼厚く4期を貫き、2021年3月迄継続し、5期目となる選挙には出馬せず、後進にその椅子を譲った。実は役員会では、ご本人が市長退任後には、寺泊会次期会長推薦候補の筆頭にランク。通知済みで、ご本人承諾待状態だ
✳️任期と言えばごく最近では、岸田文雄氏(現、総理大臣)も役員任期1期、連続3年説を唱え総理になられている。
だが政治の世界では、パーティ有り裏金有りで特殊事情で瓦解も早いが
:
従って寺泊会のような小組織では、任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したり、何らかの手を打ったが適任者は見つからず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に、会長をお願いしようと話がまとまりかけていた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて、中止せざるを得なかった。
:
待望の新会長が誕生したのはその2年後となった
8代会長時代
ーー
平成24年〜27年
・
・■平成24年4月の寺泊会総会で、第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。
新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。
小林会長は話好きとしても有名であった
宴席でも話出すと止まらない。郷里の話、幼児教育の話、家庭菜園が好きという会員には、野菜作りの話から、市長を選挙事務所に提供する程仲の良い同姓・小林正則氏を語ったり、市議会議員として小平市制の話などあらゆる話題を提供してくれた
★新会長の小林秀雄氏はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。
小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・
小林会長は菜の花の咲く頃、寺泊会役員たちを自宅に招待し、食事のあと約3千坪も有る裏の敷地を案内してくれた。
公式サッカ―グランドでも千八百坪も有ればできてしまう。
この敷地に観客席を追加すれば、プロサッカーチームの根拠地になり、アルビレックス新潟ならぬ、テラドマックス新潟が誕生したかもと、外野席からの夢の話が止まらない。
・
◆事実小林会長さんは、写真の後方に建つ民家近くまで土地を所有しておられ(ドローンでも使わないと、その前景は写しきれない)専業ではないが、季節の野菜などを作ったり、近郊の小学校児童達には、芋ほり体験場として提供してもおられた。
一方では広大な敷地において、小平稲門会のイベント会場として、大餅つき大会を開催し、母校の先輩・後輩たちをよろこばせてもいたのである。
◆さて会の運営には独特の意見をお持ちで、毎年恒例となって長年続いた、寺泊会全員の集合写真撮影をこの時から廃止して、第8代時代が出発した。
■会長を補佐する副会長職には、二名体制とし、外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。
◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催し 通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。 交通費、会食費などは役員負担で実施され、全てボランティア活動である。
・
9代会長時代
ーー
平成27年〜29年
・・
平成27年4月新会長誕生
■寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生させざるを得ない。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中、外山健太に説得工作を役員たちは続けていたが、ある日、その結果が結びそうだとの朗報が飛び込んできた。果たして、OKされたか。
◆平成27年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになった。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりをかなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間も犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。
■行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。(写真提供:ご本人)
◆就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山健太氏は大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
◆在職中には社長顕彰の常連であり、役員理事会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。
■ところが第8代会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。
■寺泊会会長としては第9代目となる寺泊町豪商DNAを持つ外山健太氏待望の登場で会は賑やぐ
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◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は2名だ。他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会の雰囲気は上々であった。
外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
撮影:小川隆司さん(寺泊在住)
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★毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさに、観光協会の表彰ものである。
◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えて、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。
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◆八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまないが他の会の会長さんもウチの会こそ一番だと、心で思っておられるに違いない。
実際隣の会は良く見えるものである。
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🔷これを補助金に目を通してみると、弥彦会、分水会さん共に地元の補助が素晴らしく、寺泊会とは比べものにならない程潤沢にお有りである
長岡市との合併が、この部分だけ裏目に出た感のする我が寺泊会である。何と言っても現況補助金の3倍もあった、三島郡寺泊町役場時代が羨ましい。補助金を減額されたら取り返す。果たして倍返しはいつになるやら。
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◆ ◆ ◆
平成29年4月 9代現役会長 外山健太逝去
在任僅か2年は短か過ぎる
◆在任期間が短かった第9代会長・外山健太氏(後方写真中央)役員会最後の集合写真となった
振前が良く北前船の港、寺泊町で歴史ある商家、トカンさん派のオーラにはもう会えない。
◆ ◆ ◆
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10代会長時代
平成30年〜令和5年
〜
マスク時代到来
・
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◆8代、9代会長急逝のあと、次期会長さん登場まで、しばらくは過去に数年間実績のあった橋本迄戻って再登場させ、中継ぎ会長として務めさせる事にした。
65周年からコロナ禍で大会中止しており、3密解除マスク不要の終息時期まで時間がかかりそうで、もう少しの辛抱か。
……
◆恒例の寺泊会大会はこの先いつ開催出来る事やら。65周年大会中止・66周年大会中止。世の中は3回目となった緊急事態宣言下で、役員一同気をもんでいるのである。交流のある分水会・弥彦会も2年連続の中止宣言。
✳️2022年度大会には、名物「寺泊おけさ体操」を企画し動画配信の準備も終了していたが、マスクと3蜜解禁の声明が出され、3蜜回避の解放までは、宴席にふさわしくない状態と判断し、3年連続開催中止となった。
高齢者が多い寺泊会員だけに、3回接種を完了後からの判断でも遅くはない。
寺泊会は感染者の多寡より、12月に入って湧いて出たオミクロン株の懸念もあり、マネジメントの観点からリスク最優先を基準としており、その評価と判断には職業上の専門性があり慎重である。
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世界情勢急変
★2023年5月で漸く5類変更とか規制も緩んで来たが、寺泊会開催は4月になって中止案内しか発送できなかった。
しかしながら翌年の2024年4月開催に向けて役員たちは奔走。残念ながら今度は長年使用してたホテルの見積り見てビックリ。
コロナ前より5割増となり、止む無く上野東天紅に決定して、開催を決定したのであった。
詳細は➡http://teradomarikai.jugem.jp/?eid=192 をクリックにてご参照下さい。
寺泊会・会長の変遷と世相物語 おわり
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開催日程
期日:2024年4月19日(金曜日)
会場 :上野東天紅
受付:12時30分〜:開宴13時
参加費 :10000円
コロナ禍直前の大会は、創立64年記念大会と賑々しく関係者さんに流布し、イベントとして、魚のアメ横産みの親、角上魚類(株)の柳下会長をお迎えし念入りの下準備を重ね、開催する筈だった。
だが大会案内送付直後に日本中が予期せぬ事件に呑み込まれた事は忘れられない。
横浜桟橋に豪華客船が華麗に入港、富裕層の一時寄港だけかと思いきや、直径1ミクロンより遥かに小さな極小球体源が発生し日本をコロナ禍へと巻き込む一大事惨事へと、昭和にも平成にも無かった未体験現象が発生し善良な市民に世話を焼かす。
あっという間に日本全国をウイルスが飛び交う始末で、祭、花火から結婚式・スポーツイベントまであらゆる行事を中止させてしまった。入院患者への接触も禁止され病院への見舞も玄関止まり。
葬儀・告別式も制限受けながらの執り行いでまともな段取りができない。おかげでリモートなる遠隔システムを格段と進化させたメリットがあったが、授業も会議も、そして、当事者しか知らないであろうが、法廷まで対面無用で行なわれ、生き残りの知恵が無限に発達したのである。
自粛要請の期間もあった2019年からの4年間で、ある世界のパーティだけは信じられない程例外なく毎年存在する
自粛とは「自らの意思で活動や行動を慎むこと」であるから、感染の拡大をモラル心として積極的に防ぎましょう、と提唱し世の中を平穏にする行為である。この間に模様される予定だった結婚式、入学式、卒業式後に関係者が集う、あらゆるパーティー類の開催は主催者の良心に委ねた。ただ法的禁止令で無いから実施しても適法で有りお咎めは無い。
政治家はこの理論を採用して、関連するあらゆる利害関係者に声をかけパーティ(名目は懇親会)を毎年堂々と
開催していた事が、約5年後の2023年暮れになって初めて解明されたから驚きである。
実際パーティ開催派のホテルの記録によると、コロナ禍年内でも、一回も欠かした事無く開催していたらしい。
感染者が激増していた最中となったコロナ禍の期間に発信された立法府コミットメントの外出自粛が虚しく聞こえてしまう。
ある派閥主催の懇親パーティ会開催記録
2019年 5月パーティ開催 中国大陸で第1例目の感染者発生
2020年 9月パーティ開催 (コロナ波第1-3波、寺泊会は懇親会中止)
2021年12月パーティ開催 (感染者140万人超、寺泊会は懇親会中止)
2022年 5月パーティ開催 (感染者減少見れず、寺泊会は懇親会中止)
2023年主催当面自粛へ (この年も寺泊会懇親会中止)
容疑者として、著名人まで多数発生捜査中の年末となる
2023年12月にキックバック・戻し、なる新ワードで連日騒がれてから、刑事告発の中味と別世界の事情を知って、さすが容疑者と異なる呼称を知り、長年にわたり寺泊会の中止にご協力頂いた多くの組織、会員さんは、何をお考えであろうか。
だがコロナ禍中も毎年開催されたパーティ・懇親会があった事は事実である。
「コロナ禍で多くの国民が自粛期間中にも、盛大に執り行われていた」との視点で報ずるメディアは国内で一社も無いのは、彼らも参加していたのではと、憶測してしまう。裏金問題と政界人事に押されて、報ずる余裕が無いのかも知れないが。
開催案内はいつもより早く送って役員たちが安心していたところ、他県をまたぐ旅行自粛の令が出る始末。
「先週お送り致しました、寺泊会の開催案内は中止・・・・・ご容赦ください」と、
情け無い案内通知に様変わり。ホテルには1年前から会場予約済みでキャンセル交渉に早変わり。
感染者数はうなぎ登りに増加、慌てたのは寺泊会役員たち。感染拡大を懸念して、先日送った案内書を急ぎ中止案内に書き直して送付せざるを得なかったのであった。
この直後からマスクの需要沸騰、世の中一時奪い合い状況を呈し、要約手に入れたマスクをつけたら、耳紐が切れたり、眼帯並みに小さくて不人気だったリ、市場価値がない粗悪品がまかり通っていた。
時が経てばコロナ禍も消滅するだろうとの期待を裏切り、ワクチン接種は寺泊会キャンセル中にも止まらない。
第一波から第六波へと進み、正確には接種5回目あたりから関心が薄れ出したが、高齢者だけは接種継続。
最終的な状況についてはいつの間にか、第9波まで来たらしいが話題もフェードアウトでやっと寺泊会の開催にこぎつけたのだ。。
前回の中止から5年目の開催で、即ち参加者の年齢も5歳加齢したわけで、会員の大多数であった60代会員は70代になり、70代後期高齢者さんは80を超えられた。飲み放題コースを選んだが、無駄かも知れない。
平日開催理由は値上がりのご時世、例年使っていた有名ホテルさんの宴会費が50%値上ったらからであるが、果たして何名様がご参加頂けるかは予想つかずの、未知数段階状態での開催で、あらゆるリスクを覚悟しながらも開催までこぎつけた。
来年4月・花見シーズンに会員さんをお迎えする第69回寺泊会である。
会員専用情報
郷里旧寺泊町の旧道沿いでは、古くから続けていた、商店や老舗店舗の継承者がいなく、古い家屋を取り壊し更地にする現象が見られます。永年使っていた商売道具や厨房器具などが廃棄される姿を見て、寂しさを感じておられるご親族もおられる事でしょう。
是非当会にてご紹介ください。
寺泊町で商売されていた業種様々で、風呂屋さんなら番台、銭湯絵の写真、八百屋さんなら算盤、天秤、畳屋さんなら特殊工具からハサミまで数えたらキリが無い。
上田町にある和菓子の老舗さんも後継者いなく
更地にする計画が進んでいるとの事でした。
この写真は「へぎ」と呼ばれていた古くから使っていた移動用容器である。
UberEatsの無料版かも知れない
木製キャリアの中には、ここの亭主が作った、砂糖配給時代から手を抜くことなく続けた手法で謹製した名物羊羹や、粉菓子、用途に合わせた饅頭まで、ここの店でしか作ることの出来ない逸品がぎっしり詰め込まれていた。発泡スチロールと異なり重量があるが、銘菓は生もの、木質が最適な湿度を吸収し、先方に届けられる頃迄旨さが持続するのであった。
時には町内の子供達に人気のあった、作り立てのどら焼きなどをぎっしり詰め込んで自転車に乗って、1区から6区まで舗装されていない道路をガタガタ走り、商品を届けていたそうです。
へぎ箱の厚さが一様でないのは、売れ筋の商品と共に大きさや厚み等が時代と共に変化し、これらの最適寸法に合わせたのであろう。
亭主自筆の店舗ロゴ へぎに乗せてカミシモ走る てか。
ふるさとではカニラーメンが大人気である
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作家水上勉1919年越前国生まれ(大正8年)。 現在ご存命なら104歳だ。
さて水上の越前から加賀、越中を越え、こちらも1919年、越後国生まれで104歳、元気な長岡市寺泊町出身の現役女性会員さんが、東京・大田区に住んでおられる。
ちなみに同郷長岡では、この4年後に三波春夫さんが生まれ、ご存命なら今月で100歳になる。
寺泊会は約70年前に創立したが、この初回宴席に「自分が30代半ばの頃(70年前に30代。単純に計算すると30プラス70である)娘(現70)と二人で出席したのよ」とは、驚きながら同年代が水上勉氏となる。
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11月5日(日)の宴:武石新時代の幕開け!
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令和5年度東京弥彦村人会は予定どうり開催でき
久し振りにお会いした参加者様と尽きぬ語りで時間を忘れ
お蔭様で予定行事をすべてをこなし、成功裡に閉会致しました
多数様よりご参席頂き、誠に有難うございました
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4年ぶりの大会でしたが上野東天紅様にて終宴まで 聚楽の加藤社長様、
小林村長、弥彦神社・宮司さんや遠路地元弥彦村からも多数ご参加賜り
友誼郷人会を含み総勢60名近い皆さんの笑顔で溢れておりました
来年の第43回大会も、皆様の元気な笑顔で再びお会い出来ますよう
役員一同、心より楽しみにしております
大会運営にご協力下さいました幹事の皆様に感謝申し上げます
東京弥彦村人会
会長 武石 堅次
弥彦情報の最新版はホームページで
(クリック)➡弥彦村観光協会のホームページ
↑今や村でもDX戦略発信中、武石新会長時代では、
文字で読むより、デジタルでお楽しみ下さい
お年寄さんほど判りやすくてクセになるかも。↓
弥彦村にある豊富な温泉宿
✳️ふるさと-弥彦村温泉情報詳しくは↓
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↑クリックでお楽しみください
★最近は、弥彦会ファンの多くはご高齢者ながらも、スマホでの閲覧者さんが多くなり顧客満足を考え、見出しを小さく、改行を増やすなど、スマホでも見易くなるよう、レイアウト編集しております。パソコンご利用のお方は不自然さをご容赦下さい。
新会長(右端)武石さんは12年前とお変わりない好男子てか
…
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★弥彦は寺泊のおとなり村・弥彦神社の菊まつりでも有名
感染防止のため、場内は一方通行の時もありました
★撮影:小川隆司さま(寺泊在住)
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★弥彦村情報抜粋
(第38回弥彦会パンフレットより)
★ふるさと弥彦の近況は、NHK百低山に登るで吉田類さんが弥彦山を紹介してくれました
一方のTBSでは年収1億を上げる農家の紹介で、枝豆生産が好調との紹介もされ有難い話です
村では競輪事業も堅調で、目下全村あげてコロナ対策に取り組みながらも村財政を潤しているそうです
★10月の競輪G-1 寛仁親王杯、
11月は菊まつり、紅葉谷の紅葉など、話題満載の弥彦村には若年層の来村も多く
ワクチン接種後のお客様が多数お見えになられるようで、
観光の弥彦も一段と活況を呈することと思います
村人会は、ふるさとの益々の発展を応援しております
★こんな楽しい宴席シーンを、 連続での中止をはねのけ、
そして2023年秋遂にやって来ました
・・(弥彦会幹部)
★弥彦神社・宮司さん(公務を離れれば
気さくな紳士)と一献傾けられるのも
合計3年間のお預けで待ち遠しい昨今となりにけり
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あれから4年
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弥彦村人会レビュー
村長さん宮司さん校長さんも大懇親
◆令和元年の弥彦村人会は奉祝パレードと同日に開催されました
期日:2019年11月10日(日)
開会:総会11:00
懇親会:12:00〜15:00
スペシャルセミナー
口腔外科の権威による高尚な講演会に圧倒される
;
弥彦村フッソ革命で児童のむし歯ゼロを達成した男による全国提案
小林清吾先生:画像を使った学会レベルの熱烈講義に参加者全員納得
:
多数のご来場賜り
衷心より感謝し
御礼申し上げます
◆ドラマの中での大手企業 帝国重工(社長役・杉良太郎、部長役・吉川晃司、次期社長役・神田正輝)らが絡み合う、BSN=TBS系日曜劇場「下町ロケット」でのロケ・制作部隊をはじめ 佃製作所(社長役・阿部寛他エンジニアや経理部長・殿村役として時折蒲原・燕にある実家の田んぼに姿を見せに来る立川談春、その妻役・工藤夕貴、さらに親父役の山本學らの豪華俳優陣達をはじめ、完成度の高いテレビ撮影にしようと弥彦村もロケに協力している
フイルムコミッション・新潟県弥彦村出身者が開催する東京村人会の基礎となる、テレビの画面構成を見て感想を持つ弥彦村出身者の話題を追った。
、
◆テレビ画面には、燕市の文字のあとに移動画面がしばしば登場する。そして蒲原地方らしき田園地帯と広大な田んぼ風景、
◆その遠景に見える小高い山脈、これは弥彦山か角田山か、はたまた東京近郊の山脈かがいつも地元を知る越後人の間で話題になる。蒲原にしては山脈が連ねすぎると思われ、大写しにされた時のコメつぶの形状は弥彦米に似ているしと,とにかく見ているだけで脳が活性化し、興奮の連続であると評判である。
但しこれは蒲原人の間でしか話題にならないが。
▲ちなみに寺泊人がイメージしている弥彦山とはこんなものである
山の先端に突き出ている海の吹き出し口のあたりに弥彦の神様がおられたそうな。
現存者で見た者はひとりもいないが、いにしえの時代からその伝えがあり事実らしい。
・
◆特別協力が燕市で撮影協力が弥彦村と、嬉しいことに毎回エンディングロ−ルに流されるものだから、ロケットバルブの出来不出来はともかく、ドラマ上の農家ならずとも、越後蒲原人にとっては有難く貴重なテレビ番組となっている。
(本稿には、著作権を十分配慮して制作、TV上で演じる俳優さんのお名前は、一般公開されているテレビ番組表を基に使用させて戴いております)
・
・
弥彦村人会
初心者入門講座
.
・
◆本大会は得意分野ごとの複数の弥彦人による豪快で洒脱な進行で司会が冴え宴会が盛り上がり酒が旨くなる。
・
◆宴席面描
・
・
◆
・
それは、2019年秋の事コロナ禍直前
新元号を祝って堂々開催もありました
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■寺泊会と弥彦会のお付き合いは、いつから始まったか。
それは弥彦会が郷里の中学校同窓会中心から脱皮して以来の話のようだ。春の寺泊会、秋の弥彦会は互いに会長、役員あたりが来賓として招かれたり、招いたりして何年間も継続している。寺泊会も同席して以来その間に弥彦宮司さんは3代も変わっている。
令和最初の弥彦村人会は11月10日(日)にお茶の水にあるホテル聚楽で開催された。
15年度に4選を阻止して当選された小林豊彦村長さん、今年1月には2期目に挑戦し
約5千人投票者の内、3千人近い支持で見事当選された。
弥彦村人会に積極参加され、健在で、その巧みな力強い話術にはまってしまう。
あの威張らない性格はどこから来ているのだろうか
弥彦村と寺泊町
そして
分水町との合併話
:
合併投票は噂通りには行かず
弥彦分水寺泊構想が国民の
大多数だったがさて結果は
・
◆ 平成の大合併で踊らされた日本全国の自治体は 無数にある。 越後国のほぼ中央に位置する、弥彦・分水・寺泊も例外でない。
寺泊町では、回覧板で新地名公募までやりながらも、効力なく親しい近隣町村の3者合併は 実らなかった。
▲このデータを保存しているのは、寺泊会だけとなった。
■一方の燕市では、吉田町と分水町との合併に画策が始まっていたから、庶民はどれが本物やらと複雑な感が消えないありさまであった。
・
◆やがて寺泊町民は長岡市民に、分水町民は燕市民へと巣立って行った。 寺泊の町会議員は長岡市議会選挙に、元町会議員などが5名挑戦し、先ずは2名だけが市議会議員となり、分水の町長さんは燕市の市長さんへと変身。分水町長さんのリンクは燕市長選挙挑戦物語。
■だが弥彦村長さん周辺あたりは、合併を嫌って他の血と交わることなく、合併特例分担金も受け取らず発展し続けておられる。越後一の宮・弥彦の神様のお告げか、すべてが吉と出てしまう素晴らしい土地柄である。
しかしながら平成の最後あたりに時代が移る頃になると
燕も弥彦も協業で村おこし街おこしに躍起となって、合併せずとも首長の笑顔は消えることなく続いている。観光写真に分水の花魁を使いながら、いざキャッチコピーに全国区の燕を使っても、誰も不思議がらない越後人の太っ腹さがみえてくる。テレビドラマに▼なっても不自然さは残らないのは、はざ木を脇にとうとうと実る稲穂を育てる蒲原平野の歴史物語のせいかも知れない。
毎週日曜に放映されているテレビの人気番組-BSN:TBS系で放映-
-動画解説-{下町ロケッット}では、米どころ越後の農家を仮定し弥彦村は撮影協力に余念がない。TV撮影協力の字幕にその痕跡を残す。
爾来、発展する弥彦の村長は変われど、祝杯の一献を傾ける機会は毎年秋にやって来ることとなった。
地方の合併はならなかったが、東京寺泊会と東京弥彦村人会・東京分水会の3団体は互いに交流の機会を継続している。弥彦会さんは現在、堀会長へとバトンタッチされ、副会長には羨ましくも、女性陣も加入し他会からの運営見本にされている。
東京弥彦村人会は郷里の、弥彦中学校同窓会を基に、昭和57年11月に創設された歴史ある、弥彦応援隊を自負するふるさと会である。地元行政の援助はもとよりJA越後中央、弥彦商工会・観光協会さんなどが協賛し大会を盛り上げている。
現会長の堀 優氏(東村山市在住)は、中国通で、永年隣国相手の仕事に携わっていた経験を生かし、幅広い人脈で、芸能文化と、会に招致して、イベントに活用させ出席者をあきさせない。
音声動画付き
弥彦小唄誕生@youtube
■38年も続いている、ふるさと村人会ともなると、総会前のイベントも充実しており、36回大会のフラダンス公演に続き翌年は民謡「及川清三、清乃さんの民謡ショー」が企画され、CD2枚を全員に提供、テンポがゆったりし、しっとりした三弦が魅力的な弥彦小唄で会場を盛り上げ、合唱指導があり全員で唄った。
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そして迎えた令和元年、第38回大会では、全国の児童歯科教育に情熱をかける医学博士、小林清吾先生による記念講演であった
先生が特別に用意した「歯ブラシ2本」と歯間ブラシをを全員に配布し熱弁をふるった。偶然にも同性の村長・小林豊彦氏とは
長い付き合いのある盟友として互いの友情を育んでおられる
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◆越後の実業家が東京で育てたジュラク物語
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聚楽創業者
加藤清次郎と弥彦村のご縁
■例年ここの会は、ホテルロビーの階段を利用した集合写真で会が始まるが、平成最後の37回大会からスキップされた。
ホテルとは言うまでもなく、弥彦村と縁の深い「ジュラク」のことである。
お茶ノ水駅に近いこのホテル周辺は、高層ビル建設ラッシュも一段落で比較的静かになった。ジュラクといえば観光地に素晴らしいホテルを構えているが、ホテル業の歴史はそう長くはない。 現在はこのドメインを抜きではビジネスモデルが成立しないまでに発展した。 近年には、新潟駅そばの激戦区でホテルをオープンし好評を得ている越後ゆかりの著名企業である。経営手腕を継承しているのは3代目となる加藤治社長である。
現社長の祖父・加藤清二郎が大正13年3月に、神田須田町で洋食屋開業して以来95年が過ぎた。先代が提唱した、越後に役立つインフラをテーマに設置した弥彦山頂とふもとを結ぶロープウェイも平成最後には現社長同様、生誕60年目を迎えている。
(聚楽の歩み・昭和49年刊行より・・加藤治社長提供)
越後から列車で上野に到着すると、真っ先に駅前に見えた「聚楽」レストランの看板とネオンが懐かしい。そのお孫さんが、ご自分のホテルとは言え、いつも、会の参加者に如才なく振舞っておられる。
38回大会には公務と重なり欠席されたが、都心にあるホテルは顧客に恵まれている一方で乱立著しく、競争力が激しい世界で、ビジネス活動真っ只中の加藤 治 聚楽社長。▲
・
弥彦村人会は、首長変われど必ず懇親会に、村長さんがご出席。市長さんに12年以上毎年招待状を出しても代理で代用される寺泊会とは大違い。笑顔いっぱいで参会者たちに声をかけるコニュニケーション手法は、本間道夫・安達行雄・大谷良孝 各々の前村長さんのころから小林豊彦現村長さんまで代々続いている。
◆実際村人会の宴席あたりに交わると、利害関係が少なく本来のリラックス感が最高になるのであろう。
。
◆村の温泉施設は繁盛するは、この村の居住評判を聞きつけ、健康な子供を育てようと村への転入者が増えているから人口は増えるはで、悪い噂は聞いたことが無い。
首長激務の中でも、村政は安定しておられるようであった。加えるに児童のむし歯発生率が、日本全国で最も低いとの実績が評判である。このふるさと自慢は、弥彦会に参加すると偉い人から毎年聞かされる。
・
小林豊彦
村長時代爆進中
・
令和の村長選抄
・
・
・
・
弥彦村は永年、村長選挙無用のまちとして続いていたが2015年には現職に久しぶりに挑んだ新人が、約10歳年上で当選。2期目の選挙は2019年1月27日(日)が投票日だ。弥彦村は無投票選挙が40年以上あった訳だから、村民たちも複雑な気持ちだったであろう。
◆新村長・小林豊彦氏の2期継続激戦記は、新元号時代の特記事項となろう。村での選挙登録者・6924人のハートの多数が小林豊彦氏になびいたのであった。
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じゃんけん好きな弥彦会
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■かつて総合司会を務めた実力者・武石堅次氏(現・幹事長)は、平成最後の会では、美人館長をお連れしてきた。
)昭和歌謡曲時代を代表する作曲家・遠藤実記念館として、新潟西蒲区の越前浜で実唱館を代表経営している遠藤由美子(娘さん)をくどいてお連れしたそうである。
◆勇気を出して寺泊会もおさそいしたら、
今春5月26日の寺泊会に笑顔でご出席され、寺泊会役員会の自慢話が増えた。
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:2018年大会ゲストの遠藤由美子さん
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あれから1年経過後にはびっくり:
オペラ歌手秦千襲さんをご紹介▼
・万事にして武石堅次氏の運営手腕はこれぞ弥彦村人であると感心。
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令和初年度くじ引き特別賞品には、▼天皇ご即位記念として弥彦風盆栽が用意され樋浦憲次副会長が当選された
」弥彦会はユニークな賞品が豊富で盛り上がりが方が半端ない
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◆第37回大会では一見紳士風の宮川氏の洒脱な話術で進行され、更にカラオケ宴会となると豪快な高橋幹事も加わり、その盛り上げ方は半端ない。
両氏の宴会を把握する手法は、蒲原人には希少価値かと思わせる。
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令和大会になったら宮川氏はえちご蒲原会の代表としてご出席。
▲大会には毎年会長賞と村長賞もあり、大会のイベントとして楽しみな抽選会の華となる。
抽選会の名物賞品として存在感ある「超なが〜い、長イモ」が今年も賞品として振舞わられたる筈である。昨年見事当てたのは寺泊会副会長・清水文隆氏であった。電車の中では目立つだろうなと多少心配げでもあったが。
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◆ 弥彦会と分水会の巨頭勢ぞろい感のあるふるさと想い隊連中
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▼こちらの、だんなさんの御名字は軸屋(ジクヤ)さんである。手にしておられるのは賞品の商品でない。鹿児島産の芋焼酎である。
「鹿児島の酒造の娘と結婚しましてねと、まあ一杯どうぞ」と差し出され試飲。さすがに特上甕(かめ)仕込みである。きめ細かな味で、きりっと飲み応え満点。都内ではなかなか手に入らないそうであるが、ネット注文沸騰中とか。焼酎と言えば、いつもはお湯割りでその上、うめぼし入れて飲んでいたのに、これは何にも入れないでぐいぐいいける。思わずうんめーと叫び、コップで2杯頂いた。それもストレートで。
▼その名も「軸屋酒造のトップブランド品・軸屋」であった。奥さんの実家が会のためならと、提供して下さったそうな。薩摩の本格芋焼酎発見の会となった。
■弥彦神社宮司さんは昨年退任され、渡部吉信氏が1年間の代務ていたが、晴れて神社庁に認定され、宮司さんへとなられた。お見かけより実年齢がかなりお若い。言葉の中に世を見つめている風刺がこめられていて、爆笑しながら、ついつい話し込んでしまう。
ところで堀会長になってから、ここの会は珍しく3人の女性役員体制を組んだ時代もあったが多少の改正もした。
◆女性副会長
朱色のオートクチュール
令和初大会で披露
■歌唱指導や抽選会の賞品授与もされる一柳建子副会長(弥彦)は、
闊達で、「この方は、お料理の達人よ」、と周りのご婦人から教えてもらった。
宴席で何回かお会いしているが、この方の物語は寺泊会だよりの好材料である
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見上げたら朱色ばかりと良寛笑顔
/朱色で一句
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弥彦村 鳥居ともみじが 艶競争
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朱色なら わたし負けない 一?さん
◆一?建子(ひとつやなぎ けんこ)さん
ニックネーム:イチリューさん(NCAFメンバー)
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◆寺泊会お馴染みのマリ姐さんのお酌を受ける金子清郎・元権宮司、おとなりは渡部吉信・宮司さん
・◆マリ姐さん平成最後の寺泊会で講演
・演題=健康長寿で老いない体つくり
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男性陣必見の巻
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前立腺肥大予防の極意
■もう一人の才女、黒田マリさん(83)は、2018年の寺泊会で講演をしてくれた。長年に及ぶ整体プロの経験を生かし、「長寿と健康」をテーマに1時間近く持論を語ってくれた。中でも「前立腺のなおし方」は頻尿・残尿・無力尿の該当者が多数いた会場一同が熱心に耳を傾けて、その秘策を家に持ち帰りこっそりと風呂場で挑戦した事だろう。
▼お風呂に入ったらあなたの局部をしっかりとつかみ、右に70回左へ70回と引っ張りながら揺さぶれば、前立腺は手術までしなくとも必ず治せると持論を解説書付きで熱弁。会場騒然と爆笑のヒトコマであった。ご自身は女性なのによくご存じなのねと驚嘆の声仕切りであった。
下町ロケットをのんびり観ている話ではないぞとスタンディングオべーションで寺泊会の講演会は終了した。
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鍼灸接骨院を経営するマリ姐さんは、弥彦村人会の名誉会長として組織のリーダーシップを発揮されている。自身が経営する接骨院のスタッフには体育会系の若者が多くいる人気サロンスタジオで、郷里にも構えた自らのオフィスと東京・大田区にある本部を頻繁に往復しており、素晴らしい弥彦観光大使の役目を担っているようでもある。女性起用がお上手な、近頃の弥彦会さんであった。駅ではエレベーターを使わない階段徒歩スタイルは、毎日近所のジム通いで鍛えている証拠である。
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■宴会場一杯に溢れる熱気と、郷土愛でつながる優しい連帯感が、つい顔に現れる平成から令和へ繋ぐ東京弥彦村人会であった。 元号変れど貴重なヒトこまが脳裏から離れないであろう。宴会のフイナーレには唱歌(ふるさと)で締めくくるスタイルは、正に弥彦の土のにおいがする。
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▲80代パワーが、ここはという時に引き締め役の弥彦会
■情報提供;第36/37/38回 東京弥彦村人会定期総会
本稿には一部アーカイブの写真並びにTBS番組配信情報及び販促グッズの写真を使用しております |
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・伝統民俗芸能公演アーカイブズ
◆寺泊の伝統芸能を守る人たち
塩たき節 前唄
む〜か〜あしーーよ〜おーりー
塩たき節 本唄
なじょ〜なーしーおーた〜き〜でえーもー
(塩たき節:地方で唄の雄/星幸市の情景心理描写が細やかでワンワードに精魂を込める)
長岡市伝統民俗文化財
◇寺泊「塩たき節」入門講座 ♬音源クリック◇
■副題:寺泊品質はこうして創られた(物語)
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財団法人 地域文化創造 | |
写真掲載許諾済 |
■寺泊は、別名をフンドシ町と呼ばれ、その名の通り、 近年になってから一区の松沢町とか六区の白岩などの 町名を付けても、まばらに点在する民家や商家などを 左右に挟みながら、生活道路に欠かせない一本道が |
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弥彦山麓まで続いていた。現在の砂浜の大部分は海だった。
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◆大河津分水が、日本海寺泊海岸まで流されていなかった頃は | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野積橋もなかったし、良寛も夕日が沈む佐渡島を見ながら、 フンドシ道を歩いていたであろう。 |
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ベストセラー作家・水上勉がこの浜道を歩きながらその印象を 短編小説「寺泊」を上梓したのはこの良寛が縁であった。 |
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■寺泊の製塩業は、この時代より遥か昔となる2千年前、神代の | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
時代から始まっていた。シオ 貧者も富裕者も生活の必需品だ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弥彦山の西端は、寺泊町から眺めると、佐渡まで続く日本海に 接するなだらかな恐竜のしっぽのようである。 弥彦からはこれが見えないから、蒲原郡地方出身者はこの イメージを知らない筈である。 ・ 平成時代に放映された人気日曜ドラマ(TBS−BSN系)で 弥彦山脈が遠景として良く登場する。 この画面を弥彦山とするが 寺泊人はこのフォルムだと馴染みが薄い。 (ドラマ下町ロケットより) ・
◆寺泊から見ると弥彦山は こんな優雅な形をしている。 この山脈左端の先の先が 日本海に面している。どっしりと構えた姿は、正におやひこ様である
海面ゼロまで行かないと洞窟は判らないが寺泊で見る弥彦山は 日本海側の先端がこうなっている
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◆その日本海側の先端部分には、何やら大きな洞窟らしきものが見える。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伝説では、ここに「天香山命」が、南国から海路を経由し、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡り住んでいたとある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■のちに弥彦神社に祀られる、越後の産業をもたらした、 |
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いにしえの恩人は、2000年以上も前に野積を根城にし、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
稲作・製塩・漁労そして酒造り等を教えていたとされる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
◆このお陰で寺泊は、 「農・漁・酒」作業を 男手が担い、 ただでさえ、男勝りで 大柄な体格が多い、野積のオナゴ衆は |
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せっせと重い桶をかつぎながら「塩」で稼ぐから、 まさに潤う集落となったはずである。 ・
◆現代の著名な脳科学者としてテレビや 講演会でお馴染みの「脳の学校」代表をしている 加藤俊徳・医学博士も、約2000年、後になってから この地・野積で生まれたことになるがこの説の続編は 近くの居酒屋談議で続けた方が脳トレによさそうだ。 |
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■時は経て、奈良時代あたりからは、寺泊の港は、 当時の遠島、佐渡島へ流される、流刑人船着き場の役割を果たす 事となり、重罪なる政治犯と裁かされ、その烙印を押された、 高僧・音曲/歌人などがひしめく。
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◆知識が有り、芸術感覚あふれる、職種様々な尊い罪人たちが 寺泊港から、遠島とされた佐渡島へと送り込まれる。 今と違って、船に原動機はなく島までは、はるかに遠く 下手すると鬼が住んでいるかも知れないと思ってたか。 何しろめったに上陸したことのない島である。
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私説・塩たき節誕生粋話
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◆さて話は戻って、都から引き連れてこられた罪人たちは、 三国峠の山超え、やっとこさ、寺泊へ到着しても、 即刻佐渡へ流されることが少なかったことが 寺泊の伝統芸能には幸いした。 |
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■いつもは夕陽輝く、穏やかな日本海を抱く寺泊であるが、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
晴天の日は何日も続かないのは、昔も昭和平成新元号でも同じだ。 |
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手漕ぎ舟同様の、罪人を乗せるみすぼらしい、小さな舟は、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
波風に弱く、少しの荒れた海でも出船できない。 |
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そこで海の鎮まるまで、舟は何日も港に繋がれ、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寺泊の陸で待機せざるを得ない。
■日蓮上人は説法し 高貴なるも罪人たちは 毎日波の様子を見る. 浜に降りては時間をつぶす。 美しい寺泊の夕日を拝み、 時に遊女たちと和歌を詠み交わす。 ・ フンドシ町の浜辺では、遠くにおなご衆が大きな桶に海水を せっせと汲んでは、重そうに歩を動かしていた。 ◆静々とゆっくりではあるが、担ぎ棒の先には 前後二つの桶が吊るされてそのバランスが実に良い。 正確には肩から先のつるし棒部分は後ろ部分より 「数ミリ長く」担いでいる。こうしないと後ろに引っ張られ バランスが悪いからである。
◆塩たき節の歌詞には、作業情景描写がさりげなく挿入され 直接的な言葉で唄っていないから、俳句を嗜む粋人向きである 上等な左党を自認する輩さんには 「今日の月こそ 桶にあり」あたりで盃を傾けたほうが良い。 昔につけられたランクの2級酒でも、たちまち野積杜氏が仕込み 薦める大吟醸の味に変わってしまうから、酒は気分で飲むべしで あなたの、宴席が一層華やぎ、高貴なお座敷に変る事であろう。
◆塩たき節物語は、実際歩いた経験のある灼熱の砂浜と塩田に加え 山の町の三業地を知る、寺泊人でしか想像できない ロマンあふれる歴史音曲物語なのである。
■こうした様子を見て誕生した情景描写が「塩たき節」 の源となっている。歌詞に抑揚が有りすぎて、塩たき節を 唄うのは、とても難儀なことよと、星幸市プロは吐露する。
同じ作業唄でも石炭を掘る時せっせと唄う「炭坑節」、 掛け声勇ましい ニシン漁の「ソーラン節」などとは 「節」の文字は同じだが、その味が全く異なる。 しっとりした「塩たき節」の世界は同じ作業唄でも お囃子・調子とは別世界の、肴を厳選した大吟醸に 似合う座敷唄として成長したのである。 宴席では女流地方・半間チサ子の唄が寺泊おけさを熱唱。
◆罪人たちを即座に佐渡島へ流されることが少ない. 海風の事情が、いかにして役立ったかを想像し探ると面白い。
塩たき節は / 邦楽のいいとこどり集大成か ◆女波・男波の 波待ち・風待ちで、 やむ得ず寺泊に滞溜していた、流刑人その正体こそ 都会で十分遊び尽くした、都びとの粋人さんたちだ。 製塩の風姿を、ぼ〜と見て生きているだけでなく 「写し絵」の如く取り込んで詩をつけ唄にし 「上方舞」を連想しながら「清元」の如く節をつけ 「端唄」の如く音を刻んだ長いプロセスを経た結果、 「座敷唄」として丁寧にに仕立てられた、 前唄・本唄の「塩たき節」がここに誕生したのであった。
◆寺泊会はこの芸術的所作と 音源を東京で発信しようと 寺泊で継承に励む民謡団体「浜っ子会」を 東京のホテルに招待し唄と踊りをじっくり 披露してもらった。生唄生演奏に陶酔の陣 ・・・◆
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◆塩たき節保存会は、小学生から大人まで各自の都合を見ながら唄と おどりを教えている。 生徒さんたちは当時の作業風景も想像しながら、 お稽古に励んでいるらしい。あと10年もすれば、 立派な所作を披露できるでしょうと平石会長は楽しみにしておられる。 ・ ◆(掲載写真は個人情報保護のため意図的不鮮明加工済) ・・
・・・◆寺泊会のステージで饗宴してくれた民謡連に感謝・・・◆
・ ・ ◆豪華三味線勢の顔ぶれ: あくまでも、しっとりとしたお座敷奏法に糸を合わせ熱演し、宴席を魅了した。 ・
◆寺泊会宴席での演舞を終わり舞台衣装をとって ほっと一息つく「浜っ子会」連中 左から2人目が保存会の平石孝義会長 さて長岡市の協力があれば、寺泊会宴席での 再上演が可能だが同市の30年度予算案によると 年間12.6万が寺泊会との懇親交流費らしい。 このすべてが補助金でなくこの中からお偉いさんの 上京費などが差し引かれてしまうので寺泊会へは 雀の涙程度になってしまう ここにはボランティアなる言葉は無いのであろう
再実現まであと一声欲しが、叫べど声届かず。
道楽としての邦楽入門
◆別号で公開予定 (筆者は20代後半で小唄初舞台)◆
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寺泊会の創立60周年本当におめでとうございます
これ程長く続くのは代々の会長さん役員の皆様のお骨折りのお陰と感謝致しております。
◆思えば60年前に聖徳寺の窪沢住職さんからお声が掛り、3歳の娘を連れて浅草の西徳寺へ集まりました。寺泊小学校の青柳清作先生も出席されていました。総勢十数人だったかと思います。
写真提供;ご本人(娘と二人で参加しました)
皆さんの意見で、寺泊の様子を知りたいと、窪沢住職に頼んだところ、一か月に1回の割で、生の寺泊の様子を知らせて下さることになりました。
◆青柳先生は寺泊の歴史などを書いて「ふるさと便り」として送って下さいました。
私のように遠く離れていても故郷の様子が身近に感じられて、毎月楽しみに読ませて頂きました。
伝統の東京寺泊会はいつまでも続いております。
ほんの僅かですがお祝いを同封致しました、御受納ください。
これからも会の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。
平成27年2月23日(2015年)
下鳥 ハル
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そしてこの4年後(令和元年)長寿表彰状を賜った
「ことほぐ」とは、言葉で祝福する祝いの言葉だそうである
「寿ぐ』と書くとお坊さん以外は読めないから、ひらがなにしたのかも
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更にこの4年後となる令和5年(2023年6月)
好きな絵を描いたり、昼間の明るい時間は起きていなさいとのことで昼寝は15分程度で切り上げ、夜こそグッスリ眠りなさいと就寝はいつも9時頃、聴覚問題なくヘルパーさんとの会話も通常対応、主治医の定期訪問でメンテナンスも十分。何と言っても、お声が太く大きいので、取材していてもキャッチボールが速いので楽しく気持ち良い。
習字勉強(但しご本人はお習字のお稽古と呼称)の時間も十分取りで1週間=7日では、とても時間が足りないらしい
2023/06/05 下鳥(旧姓新谷)ハルさん
(104歳誕生日)ご自宅にて撮影
ハルさんの誌上作品展
丁寧に観察して華を描く。80代が多い教室の仲間達もびっくりらしい。
100歳になってから(普通は60代位で良くある話だが)何か夢中になる事が無いかと、いち大決心したハルさんは自ら臨んでミッションを課した。
「そうだ、わたし、今度は絵を描こう」と、言ったかどうか定かでないが、
パッションさえあれば習い事は何歳で初めても遅いことは無い、そしてアクションに結び付けた経営理論哲学の生きた教訓か。
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筆使いも逞しく、震える事なくバランス感覚も優れ、最後の跳ねまで気を抜かない104歳のお誕生日訪問となった
ハルさんと同年代だった男衆もご存命なら、作家水上勉、アートブレーキ―(ジャズドラマー)、田端義夫(歌手)らも今年104歳になっていたのだが。この1年前には三島郡寺泊町から近い刈羽郡西山町で、田中角栄が生まれ、隣県高崎市には中曽根康弘という、二人の歴史に残る名宰相が生まれていた
6人兄弟2番目のハルさん、姉のシズさんはキュウカン(久寛)さんの愛称で慕われていた片町の小田野家へ嫁ぐ、即ち上田町の老舗和菓子屋チューミサさんと並んで、寺泊伝統銘菓「塩たきようかん」でお馴染みの久乃屋さんである。寺泊の観光土産はもとより、弥彦神社の参拝土産としても名物商品となり半世紀以上商売を支え、現在はそのご子息らが立派に事業継承されており、寺泊会の参加記念としても毎回お世話になっている
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妹のセツ子さんとの2ショットも姉妹はお互い100歳超え
男衆は80過ぎた途端にガクッと来て己の歳だけをやたらと気にし過ぎ
引っ込み思案か弱気一辺倒になる者も多いと聞くがハルさん姉妹とはこの違いか 男子80過ぎてもこの先20年以上もあると言うのに、己の ロードマップ作るのも億劫になってしまうのだろうか。
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寺泊会・初代会長物語
寺泊出身の億万長者
浄白なるこころと理念
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コロナ禍の世情で、何処か訴えている者の心を動かした物語があった。
感染者激増し多くの商売が苦境に晒されていた頃でも、常にPV (ページビ ュー)でランク上位を維持している寺泊人の生き様を綴った鉄鋼現材料人生の人気長編である。
寺泊役場の職員でさえ知らない人も多いであろう、戦争で破壊され荒廃した都会の地と材料不足を自ら憂い奮起し、クズ鉄商から財をなした商売人小林源次郎(愛称・コバゲンさん)のヒストリーである。
そのコバゲンさんが2023年9月16日深夜3時頃の旧NKK作業現場で決断されたプロセスを事前に知っていたら、未明であろうと真っ先に京浜工業地帯、川崎市扇島にある日本鋼管(現JFEスチール)の高炉作業現場に駆け込んで来たに違いない。多くのマスコミは多分、高炉休止のトピックとして、2023年9月19日以降に取り上げるであろうが。
現代の上場企業が好んで使用しているような、デスクロージャーとして環境貢献をIRの好材料にして主張する事なく、自然体でSDGs規範企業まで育て上げたのである。
大げさに言えば当時の国連ではまだサスティナブルなる単語を、頻繁には常用していなかった時代の話だ。
(と言っても、NYマンハッタンにある国連本部に聞いた訳ではないが)
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寺泊会創設者 小林源次郎
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★2021年7月、オリンピック直前になっても開催是非の混乱治らなかった令和時代日本の狼狽を、この、お方は70年も前の終戦直後から、「責任者を明確にしない損を負う多数の日本人」と、「表沙汰にしない益を手にする少数者」が生まれる時代の到来を、自身が億万長者になる前から、スポンサー頼みの曖昧な準公的組織には加重収賄の世界有りと、見越していたのではと思えてならない。
・・創設者の理念と教訓実践録 ・
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◆世の損を益にするな・¥&$
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・・・・・・・・・・・・・・
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・初代 昭和31年〜33年
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寺泊会創設の父
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・小林源次郎の夢
昭和29年(1954)大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。
生涯一緒の満足感
祝言の儀を挙げたのは大正7年(1918年)7月である。
◆嫁さんは寺泊の磯町・本間定吉氏長女の幸さん(16歳)である。波乱に満ちた長年月を共に忍び、生涯一緒に協力してくれたことが、これに勝る満足は無かったと自身の回顧録で述べている
(祝言当日の小林源次郎氏 写真提供=ご家族)
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・
●序章
◆これは功成り名遂げた男の想いが
東京寺泊会創設に至るまでを、ご家族協力の許に
史実考証を加えながら制作したドキュメンタリー物語でもある
●コンセプト
□ふるさと寺泊町の平凡な日常ニュースを
東京にいる仲間たちに毎月伝える新聞を作りたい
・
◆コバゲン(小林源次郎)は年を重ねるたびに「越後、寺泊町の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。
日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職に
その思いが届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんの年忌情報などのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。
◆「資材は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。
小林源次郎氏の次なる野望
やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。
k
◆小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「お寺につないでくんなせ」遠く東京から
寺泊郵便局の2階にある女性交換手に電話が入った。
当時の電話は、まず郵便局2階交換室の装置にランプが点灯
交換手はそこにジャックをさして寺泊局ですがとつなぎ
「○○番につないでくれ」とか「○○さんにつないで」との声を聞いてから
交換手が相手の電話を呼び出してやっと互いに話が伝わる。
そして長距離電話(市外局)からだと3分の通話料がやたら高く
寺泊の町中探しても、電話機のある家はそう多くない。
実際、町内に登録してある電話番号も2桁しかなかった
小林氏が経営する工場から、聖徳寺への電話はまだ続く。
「寺泊出身者の会やるすけ、
そっちからも案内書出してくれや」
聖徳寺の窪沢住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこ、ねえかね」。
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更に小林家の年忌情報から、檀家さんの婚礼話しまで、賑やかな会話が弾んだ。
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◆住職は電話を切った後しばらく思案し、さて初回寺泊会の場所を
どこにしたら良いもんかと、浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。
(後年開催された、畳の座敷に上座有りは即ち典型的な寺泊会お膳スタイルのイメージ写真)
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。
特報:2023/04/10発:
寺泊会の大先輩 下鳥ハルさん
令和5年の現在、久しぶりに大先輩に電話したら、声が大きく低いが張りのあるおばさん声で、今年(2023年)の6月に104歳の誕生日が来るからいらっしゃいとの事になり、お伺いの約束をさせて頂いた
これで彼女の ご自宅訪問は寺泊会として、先輩訪問企画で3度目だから、互いに気心は知っており緊張感は無い
6月が大変楽しみである。100歳超えの元気な女性大先輩・御意見如何に。
:
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◆「東京寺泊人会」の幕開けへ
今から約70年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさん(当時34歳)にも1通の
案内書が届いた。
これが最初のハガキに書かれていた文言である
・
「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
会 場 浅草・西徳寺地下堂
会 費 百円也
・・
これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来70年近く、
令和5年現在10代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。
(初回参加した下鳥さんのインタビュー記事は、2023年以降掲載予定)
…
…
久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じってご婦人たちの熱気が伝わってくる。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。
◆自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに後方に立たれる。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。
・
◆大正末期から戦前戦後と続く
小林源次郎氏の経営信条は一貫している。
「人の損を自己の利益にするな」・「損をともに」
が常に継続条件である。
・
■大戦直後の長者番付
◆内閣府における億万長者(当時は千万長者だったろうが)の初版発表は昭和23年(1948年)である。貨幣価値が1/100の頃だと言われていても、年収ベースで稼いだおじさん達トップの最高額は3500万円であった。職種は織物販売で稼いだようだ。現在の35億円相当か。昭和22年中における当時の税率は75%となっていた。
トップは、世間の必要物資であった「カヤ」や衣類材料「人絹」で儲け日本国トップになった。10位となると1336万を稼いだ毛織物業であった。
◆配給や公的支給品だけでは間に合わず、良く耳にした、闇市(ヤミイチ)があっちこっちで行われ、官憲として働く取り締まり官だけではとうてい間に合わない。コレが戦後の、どさくさ時代の成金(ナリキン)を生む事となったとされる。
真っ当な仕事に取り組んでいる、小林源次郎氏とは全く異なる別世界では、社会倫理が確立されない当時での犯罪は後を絶たない。
・・
◆越後でも、窃盗・強盗からヤミ米食料横流し・無許可販売・食管法違反事件など、越後でも多発し違反者に対する逮捕拘留で検事も休みがない
・
◆編集部ファイルから、新潟地裁検事の経歴を持つ、越後赤塚(現新潟西区)出身で、戦争直後の検事だった真田康平氏 ▶(インタビュー録)によると、戦後世間皆の心が乱れ、生きるために犯した罪を断じる難しさに加え、裁く手段の荒っぽさに溢れていたのだ、と語っていた。現在と違い、逮捕拘留したら、早朝から深夜まで時間無制限に取り調べたり、法廷に立つと被告が同じ村に住む知人だったりと、犯罪者の多さに悩まされる事もあった。
同氏は退官後に弁護士として活躍されていたが、すべて知見の糧になったとも懐古しておられた。
・
◆寺泊会創設者が戦後初の
・
全国長者番付に登場・東京では3位
・
◆「人の損を益とするな」の強い信念で日夜熱心に仕事に精を出し、
利益を出した小林源次郎氏の名前も長者番付に登場した。
だが番付に登場した多くの長者が、真面目に申告していないことはすぐばれてしまった。
彼らは過少申告と指摘され修正し、多額の追徴課税を支払わされたのである。
・
◆小林だけは、この真逆であった。
信念で稼いだ、自分の収支申告に、間違いはない筈だから、この課税額はどうもおかしい、と税務官に異を唱え、全てを、再計算をさせた結果、何と減額処置を受けたのである。
日本の長者番付で,最初に減額処理をさせたのが寺泊人となった、
長者番付発表考察
・
◆小林は戦後初となる1948年の高額所得者番付で、全国13位となり、東京では3番にランク付けされた.
税額の570万は、現在の貨幣価値にすると数億円の課税だ。(同氏の自伝より)
聖徳太子の1万円札が発行されたのは1958年(昭和33年)である
(日本銀行hpより)
即ち小林源次郎氏個人(当時商店)が前年(昭和22年)手にした現金が億単位となると、当時の紙幣で1万円札の発行はなく、千円札も偽札事件で印刷停止中だったから、100円紙幣(百円札)しか使われていないはずだから札束を重ねたら、弥彦山の中腹あたりの高さまであったのかも知れない。
◆ここで組織を法人格にしようと決心し、「小林金属産業株式会社」として、法人登記に踏み切ったのである.
資本金の「19万5千円」は現代なら初任給にも満たないが、
終戦直後の会社法で、認められていた法人資本金の最高額だったようだ。
現在では想像もできない金額が、戦後日本復興のスタートである。
◆この翌年の番付1位になったのは、貸金業で巨額の利益を出した森脇将光で、昭和経済の歴史に良くも悪くもその名を残した。
物資少なき時代でも自身の会社では、野球部があり、ここには当時の寺泊町出身の若者たちも就職しており活躍させた。
◆法人格にしたあとも企業成績は著しく伸びてゆく。翌年には次男の喬嗣氏(後の社長)を慶応普通部に入学させた。
2年後には資本金も400万になり、当初の社名に源の文字を追加し、「小林源産業株式会社」とした、
やがて資本金1025万、年商20億近い会社へと変遷した◆取引先を日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)に限定し、経営理念はぶれることなく、銀行からも絶大な信用力を付けるに至ったのである。(貴重写真となったご子息とのツーショット)
そして2023年9月16日の未明、川崎市扇島にあった日本鋼管は高炉の火を消した。かつて仲間として鉄鋼材料資源の供給者コバゲンは当然の事ながらこれを知らない。広大な敷地は次世代エネルギーの供給地点に変換されるそうだが、いよいよ水素主体の新時代に突入か。
◆コバゲンは自身の経験で独創的なノウハウが有り、鋼材・屑鉄材調達には市場を独占していた。
◆凡人経営者だったらこの鉄鋼原材料を顧客=日本鋼管の競合先となる大手企業に併行販売してしまえば、短期間しか持たないかも知れないが、利益は2倍3倍と容易に拡大するので、これを選択するだろう。
これを良しとしないコバゲンの経営哲学が実を結んでいた。
の経営層も他社に不足しているのは、原材料だけだという事を熟知していた。
「あなたがわが社にそこまで本気なら、当社も今後浮気することなく、コバゲンさんの会社から仕入れましょう」と言っていたに違いない。
・
◆ふるさとの中学校へ
当時では貴重な自動車を寄贈
・
純粋に喜ぶ機械好き少年たち
・
◆昭和30年初めころ、小林の郷里である寺泊中学校では、生徒たちの間でにわか話題になった出来事がある
自分達の学校に何やら自動車が寄付されるというではないか。噂は町中に炎上し、そして本当に実現したのである。
玄関中央にある掲示板を見ると「自動車クラブ員募集」の張り紙が大きく張り出され、部員を募っていた。この掲示板は先週までは
「皇太子ご成婚」の見たこともない大きな、活字見出しの全国紙1面がはってあったはずなのにと思いながら、張り紙を眺める少年たち
・
◆昭和30年代初頭、市場にはまだ乗用車が少なく、国産自動車の多くは小型3輪か4輪車中心となって、国内総生産台数の60%も占めていた。
平成30年:厚労省発表の賃金雇用統計とは違って、信用できる統計で記録を残したであろう、年号前代の昭和30年度、自動車保有台数データによると
◆昭和30年度の自動車保有台数(全国総数)=約150万台となっている
・概算内訳
普通車=約16万台、小型3輪車=約43万台,小型4輪車=約9万台、
バス=約3万台、その他は、特殊自動車として保有台数の記録が残されている。
即ち、このうちの1台が、三島郡寺泊町に来たことになる。
◆待ちに待ったフロントボンネット式小型4輪自動車が学校に届き、まるでロボットが転校してきたかの如く、取り巻いて覗く少年部員たち。
部員もそうだが顧問の先生も興奮気味。
◆放課後はグランドが自動車の構造を勉強する場となった。
・
◆顧問の先生は免許を持っていなかったので、移動には運転経験があり技術担当の宮村先生が操作し、グランドへ。後部オープンの小型4輪はクッションのききこそイマイチだが、楽しくてしょうがない。
・
◆部員たちはワクワクしながら、荷台に乗る順番をエンノー(じゃんけん)で決め、いざ順番が来たら、運転台の屋根の手すりにしっかりとつかまって、振り落とされないようにしていたもんだ、と懐かしく初代自動車クラブの少年たちが情報を提供。
◆情報提供者たちからの電話は更に続く。
・
室内にはニスを塗ったような木製で組み込まれた印象で、始動はセルでなく、正面からクランク型の棒を回した覚えがあると加える。学校から帰宅して夜フトンに入っても、H型構造クラッチの練習をしていたなあと、話は止まらない。細いボンネットにこれでもかと言わんばかりにせり出した大きなタイヤとヘッドライト、車は濃い緑色をしており、全くの新車ではなかったが、中古感はなかったそうである。
さすが60年過ぎた現在でも、自動車クラブでの強烈な印象を忘れていない、と感心するしかない。
◆初代寺泊中学校・自動車クラブ(後方矢印=寄贈された小型4輪自動車)撮影推定:1959年頃
◆◆◆◆
。。。。
次は100年続く
寺泊会を作らねば
◆昭和30年の小林源次郎、郷里への想いを寄付活動を具現しながら、そろそろ東京にいる寺泊出身者に声をかけ交流の手段を考え始める時期か、と考えるようになった。
これが東京寺泊会誕生の源として、徐々に拡大の途を歩みだすのであった。初回大会の昭和32年までには何回か寺泊町に行ったり下準備に余念がない。
◆自身の趣味は釣りと車整備と運転である。これでふるさと寺泊町へ何回通ったのであろうか。
しかし当時は、関越自動車道が開通していないから長いトンネルもない。デコボコ山道をほこりを巻き上げ、いざ寺泊へと何時間もかけて運転していたに違いない。ご苦労な話である。
◆さて聖徳寺の住職にも話をつけたし仲間達にも連絡した。かくして浅草の西徳寺での第一回東京寺泊会大会は大成功に終わった。
◆だがこの頃から夜中に時折呼吸が苦しくなり、目を覚ますことがあった。
いつもの事だろうとさほど気にもせず放置していた。小林はかなり前から、心臓障害と闘っていた。これが2年後の昭和33年に予期せぬ運命を迎えるとは、誰もが想像していなかった。
◆外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、高血圧症と心臓病がそれである。
・
事業拡大より
息子の結婚の方が先だ
このままの状態で、もし自分の体調が更に悪化したらと危惧
商売は順調に繁盛しているし他に問題は無い現状だが
唯一、後継者問題について、深く心配する小林であった。
◆長男は1歳の誕生日を見ないで亡くなっていたので
次男にその将来を託していた。
だが彼は成人式を終えたばかりでまだ若い。
事業継承の前に、我が家の嫁とりだ。息子も結婚すれば
俺のように夫婦二人で支えあいながら、事業を継承してくれるだろう
◆ある日の夕食時、息子の喬嗣氏(後の社長)を前にして言った。
「お前だれか付き合っているひとは居ないのか」
当時次男はまだ三田校舎に通う大学生であった。
真顔で話す突然の質問にびっくりしながらも、当時丸の内にあった
政府系金融機関でOLをしていた東京出身の彼女の事をいろいろと親父に話した。
・
「女学校卒か・・、よし、お前、その人とすぐ一緒になれ」
即ち、彼女と結婚せよとのことであった。
◆何事にも、こうと決断したら実行が早い源次郎氏は
即結婚準備だとばかりに次の手を打つ。
せっかちそうに人さし指で、黒電話のダイアルをまわした。
・
◆まだ学生だった
息子の結婚
◆晴れて華燭の典を挙げたのは、この日からそう遠くではなかった
若い夫婦は、互いに昭和11年生まれ。
喬嗣氏にとっては学生時代での結婚となったが、気も合うし、価値観も一緒である。
◆爾来、事業継承の多難さを二人で超えながら、平成16年に
喬嗣氏が亡くなるまで、息子は節子夫人と平和な人生を過ごすのであった。夫が故人になりやがて迎える令和時代になって、
やっと落ち着いた生活になりましたと、80を超えられている節子夫人は振り返る。
私も来年の寺泊会65周年大会にでも出てみようかなと語っておられる。(2019/4/16電話取材)
・
さて話は再び今から約60年前に戻る
小林源次郎氏倒れる
:
■昭和33年(1958年)正月
:
◆さて小林源次郎氏、一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、昼夜をかけ激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となってしまった。
・
その後は一時回復に向かっていた。しかし容態が急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。
・
■ありし日の小林源次郎氏
・
小林は生まれながら持ち合わせた溢れる経営感覚と商才を
青年期から発揮し、大正・昭和半ばまで全うした。
・
◆23歳の若年で八丁堀に事務所を構えた時代には
第一次大戦による市場高況期を利用、これを足掛かりに
伊豆半島下田沖での沈没船引き揚げ事業に係わり
スクラップした時を査定し利幅が見込めると感じたら
大手都市銀行、商社筋を集め売買交渉契約のセリを実施
これで1億(現行の貨幣価値換算)を超える利益を得て顧客を喜ばせながら
日本国に散在する廃材利用に貢献、何とこの船は
明治維新の動乱で沈没した新鋭型アメリカ船であった。
磯町在住の若い娘さんと祝言を挙げたのは
この後である。
初回東京寺泊会(誌友会)ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。
・
・
◆・・・・◆初代小林源次郎物語 おわり◆・・・・・・◆
◆制作協力
(文中一部敬称略)
写真関連
:小林節子 様
(初代会長・小林源次郎ご子息夫人)
:古川原サキ 様
(5代会長・古川原実夫人)
:下鳥ハル 様
(東京寺泊会・初回大会参加者)
:聖徳寺 様
(初代会長の菩提寺)
:寺泊中学校 同窓会 様
(自動車クラブOB会 )
出典:戦後億万長者の盛衰
(平凡社新書)
:小林源次郎ご家族 様
(我が人生回顧録)
・
・
・・・・◆
]]>
民放テレビニュースのタイトルは「新潟で竜巻発生」
この新潟=寺泊とは信じがたいが事実だった
寺泊会に登録している寺泊住民OBなら、、突風・高波・雷・嵐なら時折経験していたのでさほど恐怖感は抱いていない。
だがこんな画像が新潟気象台から流されるとさすがに驚いてしまうらしい。
水深が深く、波の荒い海が遊び場だった灯台周辺の岩場こそ地元少年だけが知る釣りの穴場で、時にはヤスを手にして潜ったりしていたあの灯台のはるか先、佐渡海峡の真ん中あたりに太い竜巻雲(業界用語では発達した積乱雲か)らしき巨大妖怪は、以前肉眼で見た小型なモノより遥かに太くて大きい。これが浅瀬まで攻めて来たら灯台を飲み込み防波堤の岩でさえ吹き飛ばしてもおかしくないほど大きく異様な姿形をしている。
アニメの世界ではお馴染みの、地下のマグマに起因する「じょうご」のように、黒い雲の下に太く垂れ下った滑り台のような雲は、特急呪霊の様で、確かに不気味である。
ー
昨晩遅くから朝方近くまで続いたゲリラ雷雨が気になり、やっと晴れた今朝の波はどうかと、気を揉む漁業関係者さんが浜に出て遥か西の彼方にこれを発見、慌てて地元の気象台に電話したそうである。今時の漁師さんは正確な天候確認のため、常時携帯を持ち歩き新潟地方気象台担当者の連絡先は登録済みである。尤も彼らは朝起きて西の空を見上げればその日のお天気程度は予想つくのだが。
…
この怪現象は、2023年8月28日午前6時頃確認され早速ニュースになりお天気キャスターの恰好材料となった
夜が明け漸く気がついた住民さんたち、どうかそこから動かないでと願ったのが、寺泊沖に出現した巨大積乱雲である。
東京にいてもテレビ局のお天気コーナーで雲の写真を見せながら、今朝、新潟県の日本海側ほぼ中央に位置する寺泊港沖ではこうでしたと各局で解説するのでその様子は否が応でも目と耳に入る。
一方最近のニュースで、かの「寺泊」なる名詞がテレビでやたらと使われ、全国放映された気象関連の話題が有る。
それは雨が何日も降らない夏特有の渇水現象が、米どころ新潟県で遭遇し、特に「寺泊」が上越・下越、はてまた、近隣他県地域の記録を超えて一番目になったとかで又もや寺泊がニュースになってしまった。記録的猛暑日が何日も続いた新潟県の令和4年を象徴するインシデントだ。
:::
夏季30日間の雨量は日本で新潟県が最も少なく、中でも寺泊なる地域が一桁の4%を記録したという事だが、今夏に起きた線状降水帯で悩まされている、西日本の地域に比べたら想像できない現象であろうがこれが現実であった。
越後が渇水で日照り続き、海水温さえ連日30度越えとなると、雷雲様の大好物。ここの海の沖で何が起きても不思議ではない。
渇水地周辺では竜巻ならぬ、強度なつむじ風が断りなく地上に発生して
しばしば少年野球のグラウンドでも突然暴れまくる
時にはベース、テントから野球のバックネットまで遠慮なく吹き飛ばしたりもするから寺泊沖ならずとも要注意である
(2023/8/28昼前、燕地方に吹き荒れたつむじ風現象)
=日テレ気象番組より
:::
寺泊沖の竜巻雲の写真は中央の各テレビ局で何度も放映していたが、速報価値衰退しない竜巻発生の情報源である
寺泊港をルビ付きで表記していた局さんが最も画像の正確性を捉えていた。幸いにも地元での被害が無かったので、100号キャンパス油彩画に最適か。積乱雲は発達すると横幅10キロ以上にもなるから、200号キャンパスでも描き切れないかも。
だが遠方から案じているのは、ほんの一握りの日本人、全ては日本海の小さな町の出来事であり、大部分の国民も関心が無いであろう
もしこれが、関東の江の島海岸や湘南の海での出来事だったら、国民の70%以上が関心を持ったに違いない
寺泊にルビがふられる程度の極小な町の現象でしかないから速報で始まり、続編が無かったくらいで良かったのかも知れない。
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◆謹賀新年◆
/元旦旭日近撮
寺泊町史アーカイブズ
町民が市民になった寺泊人
・
海が転げ込んで来た長岡市
◆寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。
合併するなら「分水・弥彦と一緒がいい」と7割を超える町民の声いずこにか。10年後に再アンケートとってみたい。
・
寺泊の町長を
語れるのは、
古老も集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。
その話をまとめて編集したらこうなった。
町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。
だが寺泊人にしてみると、懐かしい名前が登場して面白いとの、少数派の評判も聞こえて来る寺泊会だよりである。
・
◇寺泊町が消えた日◇・・
平成の大合併
■寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、 |
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共に明治22年の事である。 | |||
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に | |||
号令した結果、あちこちに長く親しまれ根付いていた伝統的な地名が殆ど消滅し | |||
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが | |||
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。 | |||
|
|||
■明治34年に寺泊は野積村を含む近隣4村と一緒になり | |||
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口 | |||
18000人近い、自治体となったのである。
誕生から105年続いた寺泊町
|
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平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併 | |||
冠に長岡市をつけることとなり、もはや「寺泊町」も町長の名前も消えてしまった。
寺泊(町)に拘る著名団体 ・ 長岡市の寺泊でなく、寺泊に町を付け寺泊町を貫く
地元寺泊で、生産とサービスを担う商工会さんだけは、 長岡市民になっても☞「寺泊町商工会」 と登記し、令和になっても堂々と昭和から継承して来た印鑑を使っておられるから立派なものである。
▼:魚のアメ横街の外れに建っている会館を眺めると ここだけは昭和時代かなと錯覚してしまう (撮影2023/08) 寺泊に僅か2,3度しか来たことが無いのに発信力の 強いYOUTUBERさんも勉強になるヒトコマであろう 「わが息子 町を見たいと ダダをこね」 詠人不詳
: 同様に長岡市に編入した、寺泊のおとなりさん与板も 長岡市民になられたが呼称を☞与板町商工会として頑張っておられる
寺泊町閉町の人生 |
■「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。 高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長 公務多忙により副会長が指名され閉町式典に単独参加となった。 |
午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。 | |||
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、 | |||
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と | |||
荘厳なる閉町式となった。 | |||
■ここで、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の | |||
手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋誠町長(当時)に手渡された。 ・ |
|||
◆式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった | |||
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会のお.となり席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。 ◆アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、 力強く閉町の雄叫びを轟かせた。 ◆寺泊会が入手した公式資料で、大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。現在の長岡市職員でも興味はないであろうが。 |
寺泊町の歴代町長
最長は高橋誠氏18年
初代町長 | 柳下安兵衛 | ||
2代目 | 本間健四郎 | 町制施行〜大正4年 | |
3代目 | 神林津三郎 | ||
4代目 | 桑原源治 | 大正4年7月〜5年11月 | |
5代目 | 柄澤政雄 | 大正6年1月〜6年6月 | |
6代目 | 寒川卯之七 | 大正7年9月〜10年10月 | |
7代目 | 大平廣弥 | 大正11年1月〜昭和9年1月 | |
8代目 | 治田竹治 | 昭和9年1月〜13年1月 | |
9代目 | 竹澤茂一郎 | 昭和13年1月〜18年10月 | |
10代目 | 外山勘兵衛 | 昭和18年10月〜21年11月 | |
11代目 | 大丸常松 | 昭和22年4月〜25年6月 | |
12代目 | 高綱三作 | 昭和25年7月〜41年7月 | 東京寺泊会創設期 |
13代目 | 藤田子男 | 昭和41年7月〜53年7月 | |
14代目 | 中島甚一郎 | 昭和53年7月〜63年6月 | |
15代目 | 高橋 誠 | 昭和63年7月〜平成17年12月 |
資料提供 旧寺泊町役場
「てらどまり」
が寺泊町として町制施行以来 |
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歴代町長は15代の首長によって継承され終結した。 第15代町長特別追悼の章■ |
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■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」では、お元気な姿で来賓参加されておられた。 |
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・・・・・・・・・・・・・・ 寺泊町の歴代教育委員長
旧寺泊町の名誉町民
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n
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▼
1
観光協会 の会長さんと副会長さん1
:
🎆 🎆 🎆 !
何事も剛腕コンビ次の一手が凄い1!
・1
1■寺泊観光協会の名物キーパーソン・会長・副会長の手腕が日本中で評価されているらしい噂を検証したのは去年であったが、
2020年夏行事の花火大会盆踊り(野積)も中止となり、腕の見せ所がなく、パワーを持て余し気味とか。来年があるさと考え直し迎えた2021年、ところがウイルスの勢力は衰えを知らず、またまた今年度も行事中止続きで、寺泊も例外ではな い。
などと心配続きだった海の寺泊であったが2023年の海上大花火大会まであと2週間となった。
本稿の検索数もウナギ登りの活況である。
しかしここ3年の世相と港まつりアーカイブでレビューでもしておかないと素人さんは楽しさ半減となる。
大丈夫だ、当時からの会長、副会長の辣腕コンビさんは、お顔こそ同じだが、彼らのパッションは1ミリたりとて衰退して いない。
:::
全国に何十万人という感染者発生では五輪どころではなかったが、トップ以下の安心安全宣言の
強硬姿勢で蓋を開けることになり、オリンピックではヤングパワーの活躍も有り、閉めるまで珍しい競技に夢中になり
テレビ観戦とは言えスポーツはやはり歓喜を呼び込むものであった。
:
◆聞き飽きたこのフレーズ
◆緊急事態宣言も宣言発布―延長―延長となるとヒトは動くか動かないかで悩んでしまう
ふるさとへのお盆帰省するにも、その行動は不要不急ですかと、都のトップに諭され、これでは花火大会どころでなかった。
夏場も感染者は増え続けワクチン接種も、トップの声がけだけは勇ましく、安心安全のためならと、懸命に接種の予約するも
源の薬液不足とやらで、現場の行政は調整に四苦八苦。これを3回以上打つらしいと風評が立ち驚いていたが、今や接種歴6回を重ねるご高齢猛者は多数居られる。
:
◆帰省がダメなら我々サラリーマンはどうするかというと、
自宅で仕事せよと言われ、かくしてこんな流行本まで発行される始末。早速買ったが役に立つから不思議である。
決して広くない家が、にわかのオフィスになり、デスク買ったりの、にわかスペースつくりに余念がない。
家では子供がうるさく、大わらわ。
:
◆自分で考えて新規顧客を見つけよと、リモートで社長からの叱咤激励が飛ぶ令和3年の秋であった。
・・・つづく
◆令和5年は寺泊の花火がやって来る。かつての日本、どこも連続で、全国的な中止発表が続き、煙火業者さんから
団体バス、輸送業者、宿泊業者さんも大弱りだったがドッコイ今は笑いが止まらない。これだけはお持ち帰りができないから、自社ビルを売ったり縮小したりとあの手この手で凌いでいた時代が嘘のようだ。
主催者となる協会・行政も寄付金名目の浄材提供者さん探しに今は奔走していて時間が足りない、と汗を流しているに違いない。
知る人ぞ知る辣腕コンビが考案した、4年前にはあった名物企画も今年はまだ連絡がない。
観光協会トップが考案
「海上大花火本体」
提供者さんへの御礼
▲
寺泊の大花火は観光協会トップが経営するカニの大看板の前で打ち上げられる
主催者なら尺玉の大輪を○○千発とか、3尺ダマから4尺玉もあるよ、と花火だけに華やかに打ち上げたいところだろう。そこで花火の打ち上げ費集めにあの手この手で戦略を立てているのが裏方さんである。
◆クラシックな手法では、東京多摩川や湘南海岸に見る、個人・法人を問わずあなた様からご寄付を頂いたら、打ち上げの際にきちんと丁寧にお名前を宣伝してあげますと、従来の手でキャンペーンを張っての資金集め。
◆一方、手法の中で名案を出しているのが、寺泊会大会宴席の壇上で声を大にして宣伝された、
観光協会で花火担当委員長さん。
もう一つの寺泊
野積人の華をなす男
野積とは弥彦山のふもとに広がる、広大な浜辺を有するリゾート地である
この野積の地で頑張っておられるのが、割烹旅館・山長の旦那さん(大倉英雄・寺泊観光協会副会長)である。
その秘法が悩ましい。HPには仲睦まじく豪気な女将様も笑顔で登場させている。花火では従来通り、ご寄附を募るのは変わり無い。
協会で定めた、指定号数以上の協賛金をご寄附頂いた方には、素晴らしいトレーサビリティの特典で昨年は好評だった。
◆それが出資エビデンス方式と呼ばれる、記念証拠写真戦略であった。
仮にあなたが尺玉相当の寄付をしたとする。
観光協会がそのエビデンスとして、実際に打ち上げた、あなたのその花火写真を
ご芳名付きでパネルに入れて、制作してくれるのだ。
■ふるさと納税の花火版か。
勿論当日の会場では提供者の丁寧な紹介も忘れない。紹介だけではもったいないと、提供花火打ち上げの証拠記念写真を制作して、お返しするという実に寺泊初の名案であった。
これなら一瞬の大輪もその年の夏物語の想い出として飾ってもらえれば1年は持ち越せる。
・
そして来年夏になったら今度は平成30年度版の新しい写真が欲しくなるに違いない。
結局は翌年も同様の寄付が頂ける可能性があるので観光協会も一安心となる。
さてあれやこれやで主催者の労は慰めたい一心で、寺泊会も微力ながら平成30年の話だが喜んで花火協賛した。
寺泊の夏
花火の季節到来へ
寺泊港まつりと花火
実に楽しみで眠れない
令和5年8月7日の
花火大会開催である
/
花火はサマーイベントの必須条件として大きく宣伝し、寺泊会だよりの閲覧者・地元業者さんや観光客を喜ばせているが、
開催すれば、海が巨大ステージ
日本海寺泊の海上で炸裂する
.
5000発で酔わせるはず
今夜もあなたを眠らせない、
このフレーズもあと2週間で実現
本稿の花火写真=寺泊ウォッチング様より転載
かつてを振り返って
またまた寺泊の夏:アーカイブズ
■ 2023年寺泊の夏、今年も賑々しく「寺泊港まつり」が開催される。寺泊会保存のファイルによると、花火大会に使う煙火経費は約500万円が原価であった。当然のことながら、諸物価はコロナ前後で様変わり、人件費も加算するから総経費は安くない。この費用は長岡市の補助金に、寺泊町民・現長岡市民と法人企業、団体などからの浄財にもとずくものである。お客さんに喜んでいただければ、収支を考えるより楽しくなる。寄付金制度はありがたく、これに見合った花火がプログラミングされるから納得する。
■大都市が荒使いする、4年に一度の「オリンピック開催するための費用」限定については、見積り段階から、巧みなる合法的な競合方式で、建設業者、服飾デザイナー、企画会社、大手広告会社、開催地へ誘致職員を、多数派遣した旅行業者も、デスカウントを忘れ、定価で見積もったのではと今頃市民は気が付く。
当時の誘致委員会職員も、税金で清算すればいいから、誰も困らない。東京は成功はしたが、残念ながら招致に失敗しても、仮に100億円也を遣っても、すぐに清算されてしまう。かつて地方都市の信州でも、冬季大会開催後の総経費・合計は公表したものの、領収書は、3年後には焼却又は紛失処理で終結と聞く。法人企業なら、7年間は使金領収書を保存するが。
■さて寺泊の花火は、 例年なら8月初旬に開催される賑やかな、港まつりの中にある。観光協会・会長の山田栄三郎さんは.その見どころを「海中・海空スターマイン」だ、と東京寺泊会・63回大会であつく語っておられた。
一発48万円なら、安いもんだと、寺泊会の名前を売るつもりで、その時はお任せ下さいと胸を叩きながら寄付をしようと考えていたが、実際の段階になって協賛金の寄付願いを受け取ると、大金寄付の実現は先に延ばし、ほんの気持ち程度になり、海中スターマインは次回にしましょうやと、役員達と話す始末。これで何年目か。
玉代 ご提供者必見
スターマインのお値段紹介
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(煙火業者の卸値でなく
開催者の協賛公募=販売金額)
■ところで、花火の華はやっぱりスターマインである。そのスターマイン提供のスポンサー協賛価格はいかに・・・・。資料として保存してあった、寺泊会に届いたスポンサー用価格一覧をレビューすると・・。煙火単価は10年前とそれほど変わっていない。
花火のおねだん一覧 |
普通のスターマイン 16万円 |
10号玉 4万7500円 |
5号玉 1万0600円 |
超特急スターマイン 37.5万 |
海中海空スターマイン 48万 |
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ベスビア ワイド特大スターマイン 251万円〜 |
◆日本最大規模の長岡花火も2020年度は中止となったが、このベスビアなる最高品質のスターマインが、毎年数十発と飛ぶように売れた、平成時代最後となる長岡の花火に携わった花火師さんも素晴らしいが、コロナ禍もなく景気が良かったのか、協賛の一端を担った、お旦那さん企業さんにも大感謝で、総経費7億円超の予算で取り組んだ長岡市は関係した人権費=市職員経費が1割だったらしく安価でないが早くから宣伝し、呼びかけがうまくなったと思わざるを得ない。
長時間中継のテレビ放映権で稼ぐ手法は、寺泊観光協会も見習って、新世代に期待したいところである。
花火大会
ゲスト余話
例年著名なタレントや唄い手をゲストとして特別桟敷席に座らせるいつもの姿がある。
だが話材に乏しいゲストたちを盛り上げない司会進行に我々寺泊会庶民は満点を与えていない。
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司会進行に決まったら花火師、煙火工場社長、進行プログラムソフト業者担当者などを訪ね、時間をかけた前取材が必須であろう。本物花火見物の醍醐味を知っている花火ファンを前に、画彩こそ美しくともテレビに写された、破裂音と煙火臭のない画面を見ながら、3時間余りテレビ桟敷を飽きさせないで続けるのは、力量のいる仕事で地方局のベテランでも難儀らて。
長岡開藩400年をコンセプトに資金集めした時も、原資は潤沢であったらしく、天下に誇る大花火大会となったことは実に喜ばしい限りではあるが、たとえ10K品質でも、テレビ中継には100K並みの創意工夫が求められ平成最後の中継画像となった。
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例年評判の寺泊会・宴席を仕切る司会者でさえ事前取材、判らないように取仕切る演出と、知ったかぶり手法に知恵を出す。
巨大花火中継の司会進行役を選定するテレビ局において、この点だけが大会関係者内で改善の余地ありで今年の夏も過ぎてゆく・・てか。
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古老たちの語り草
寺泊町の花火師といえば青木さんでしょう
■そんなこんなで、来年目標の数千発も、よそさんがお作りになったYOU TUBEかなんかで寺泊花火大会の動画を見るとお判りになると思うが、一瞬にして開いて消える花火を、暗い夜空に原資を意識しながら観るのも一興である。
青木さんこんにちわ
50年位前、長岡の「安藤さん」と並んで、寺泊町には「青木さん」なる打ち上げ名人がおられ、夏の花火大会だけでなく、朝早く、町や小学校の運動会・開催を知らせてくれたりもしたもんだと、東京寺泊会の古老たちが懐かしむ。
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それぞれが花火には、色々な思い出があるもので、熱狂的な花火ファンも多い。
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外山健太前会長を偲ぶ
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■寺泊の豪商トカンさんの親戚で、2年前までは、東京寺泊会の第9代会長をされ元気だった外山健太さんは、大の花火好きだった。
毎年長岡の花火を観るために、首都圏で大勢の熟年たちを集め、バスを仕立てツアーを組んで長岡まで足を運んでいた。
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定年後の趣味として、全国山歩きの会も主宰していたが、この会員さんを中心で花火には、2年前までは大勢を引率して信濃川へ。
団体御一行様の帰路はいつも、寺泊きんぱちの宿などで過ごされていた外山健太さん。
誠に有り難い長岡市寺泊町の立派なステークホルダーであられたが、残念ながら平成29年4月に他界された。享年75.天国から見守ってくれているに違いない。
最愛の妻を亡くした人気歌舞伎俳優が、歌舞伎座の7月公演で恒例の宙乗り姿で息子と一緒に宙を舞う演技を見せた。天国にいる亡き妻の少しでも近くで演じたいと悲壮感をが漂わせたのは2017年夏であったが、寺泊会も第9代会長さんの外山健太さんが花火を最も近くで見えるようにと同様な心境である。
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何年経っても寺泊会は、夏の海上花火大会、が楽しみだと言う人が多い。
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分水会は、春の高尚なる講演会と花魁、が楽しみだそうな
弥彦会は、秋のじゃんけん宴会と菊まつり、が楽しみだと言う方で溢れている。
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令和2年の流行語:
キャンセルと延期 裏話
GO TOキャンペーンのおかげでキャンセルが、おおはやリ
🔷それぞれのふるさとに想い抱く、1200団体もある越後郷人会だが、2020年度はいづれの大会も中止宣言したりで、先行き開催不明が続出している。
◆横浜港豪華客船内だけの問題として報道されていた頃の早い時期に都内のコロナ禍を見込んで、無償解約型キャンセルは大変だった。流行前の解約に、相手も必死ならこっちも必死のバトルであったのは言うまでもない。
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定形約款の威力で
戦う寺泊会の凄さ
🔸寺泊会も、開催直前でのホテル側経営層とキャンセル料交渉で一悶着あったが、コンサルとして日常的に法的知識を使用している元会長を交えて、堂々とわたり合い、1年前の宴会場予約済みだったにも関わらず、定形約款の法理を盾に、何とか会の臨時経費に負担を掛けず、ほぼ無償で2020大会のキャンセル交渉が成立したのであった。
これ以降は1年も前から宴会場予約はしない事にし、寺泊会長年の慣習とした会場使用中の宴席その場で、翌年の宴会場予約をしない事を教訓とした。
サービス業として、キャンセル交渉の扱いで立派な結論を出されたHOTEL経営者さんに感謝するしかない。
その後我が国では、多数の結婚式場でキャンセルします、解約料いただきます、3密回避の不可抗力ですから払いたくありません、と もめていたようであるが、これもコロナ禍の産物か。2023年の今では、このニュースも聞かなくなリフェードアウトした。
がしかしコロナウイルス軍も黙ってはいない。次なる変異株で猛攻撃準備中である。エリスなる名前こそ優しそうだが感染力を強化し 先ずは都会に潜伏し拡大を狙っているのである。人呼んで第9波の恐怖か。 彼らの軍にとって幸いな事は、ビッグな気候問題から芸能問題が日本で噴出し、誰もウイルスに関心を示さくなり、油断中であるから悠々と戦略を練り、行進をしているのである。
期日:令和5年6月18日(日)
会場:上野精養軒 桜の間
6月18日に開催致しました「分水町出身者の集い」は
お蔭様で六十余名を超える盛大な総会になりました
故郷を同じくする者同士が和気あいあい、笑顔で楽しく語り合うひと時を共有できましたことを役員・会員一同感謝しております。「故郷に誇りと感謝の心を持ち、志を同じくする人の和と輪を広げよう」をモットーに益々の充実と発展を目指す所存でございます
尚、来年は創立30周年を迎え、東京分水会は地元団体などと一体となって、壮大な企画を練り実現に向けて邁進中であります
今後ともよろしくお願い申し上げます
東京分水会
会長
大島 芳昭
◆◆◆今大会アーカイブ◆◆◆
第29回通常総会の一部抜粋
記念講演
講師:渡辺 憲様(燕市分水良寛史料館・前館長)
演題:「良寛の父 以南」(父の日にぴったりの企画となりました)
12:20 懇親会
さくら基金贈呈式
還暦・成人祝い,功労賞表彰
演歌歌謡ショー
郷里・横田出身の演歌歌手 山咲まさる歌謡ステージ
山咲さんは燕市や商工会、農業団体などが主催する各種行事に多数出演中
お楽しみ抽選会 他
おいらんさんも羨ましがったとか
豪華景品多数の宴となりました
15:30 定刻にて閉会
(本稿は寺泊会宛に届いた書状、一部抜粋脚色して制作したものです。)
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分水会様は文化芸術政界にわたり、寺泊会では類を見ない著名人が
多数おられ尊敬の念を常に抱いている次第である(下記お名前をクリック)
1.分水町・町長から市長へ転身・小林清
2.医学分野から政治家へ転身・高桑栄松
3.将棋名人九段経て書家に精進・原田泰風
4.モダンうるしアートの第一人者・棚橋かう
つづく・・
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