◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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日本海の波と音を堪能しませんか

 

音声付き遠景・美波


   

   ◆ 浮世絵師北斎は、波を高速度カメラの一瞬が如く描いた

 ◆寺泊会の衆は地元在住当時,その一瞬を目と耳で楽しんでいた

  (台風時を除く)

 今の世間の衆は、寺泊に着くや手元のスマホ見る事はあっても

  波を見ることなく買い物したらそくさくと寺泊町を後にするらしい。
 

zawazawazawa 

   the Buuun だけの魅力

 

 

写真と判っていても人間の脳は波を見つめていると動いているのではと錯覚する
 

波に敏感な寺泊会の話。

令和になって、てらどまりの海と波と浪音の神髄を知ってるのは

寺泊会会員くらいしかいない。かも。

地元衆(約9000人)を除く大多数の

長岡市民(27万人=2019/5現在)これを意識しないであろう。

何しろ寺泊へ車で来て、駐車すると海にお尻を向けて、

魚市場に駆け込み沢山の海鮮物を手にしたら、すぐにご帰宅

これでは波まで味わう時間が無い。今年260歳を迎える葛飾北斎も

天国で寺泊町の方向を見下ろし苦笑いしてるという噂である。

 

大小多数の波の姿を描いた、江戸時代後期の浮世絵師の如く、

遠景の富士山を臨み乍ら後世に作品を残した、お化けのような大波は

台風でも来ない限り、寺泊といえど味わうことはできないが、

浅瀬のさざ波でも the the the・the Buunと無限に繰り返す

24時間自然の音源付きなので、夏戸であろうと野積の浅瀬であろうと

見ていて飽きることはない。且つアリーナ席でも観覧費無料である。

しかも都会に住み、海に馴染みのない来訪者には.

風と波で攪拌した心地良い香りまで味わうことができる

(地元のひとは潮風臭に慢性化し都会臭との差に気が付かない)

観光協会幹部は忙しい

さて、今朝は快晴で、弥彦山もよく見えるし、 もうすぐ海上花火大会。寺泊は最高らて!

と故郷で踏ん張り割烹旅館を営んでいるおやじさんは、電話の中で興奮気味な声を弾ませている。

ネットで検索すると、アメ横の駐車場も相変わらず満員だし、きんぱちの湯も盛況、海は寺泊名物、穏やかなさざ波で歓迎。

 

そんな寺泊の選挙区は、角栄時代では新潟3区だった。長年の選挙で総理大臣という偉大な親父の、カンバンを受け継いだ娘さんも、その旦那さんも議員を退き、親父が創立した会社承継に勤しみ、普通のヒトになっておられる。

さて夏の寺泊は何といっても水中花火。それに、やや著名な芸能人を呼んで、海を見ながら熱唱してもらう海浜芸能ステージありで,観光協会は個人・法人の篤志(2019年の寺泊会は、極小サイズで協力)を募りながらの運営で結構忙しいらしい。

 

関東の波音と寺泊の波音を科学する。

 

同じ波なのに、どうして日本海の波は

 

気分が休まるのかを現地で観察したら結論が出た。

 

(実験観察地:茨城県日立市K海岸及び新潟県長岡市T海岸)

 

関東の波は、波がしらがズズーンと立ったかと思うと、

 

バタンと倒れ、急いで直進する。

 

 

日本海・寺泊の波は、波がしらがムックと立ってから、

 

一度ひざまずき、小さく倒れ、それから優雅に

 

ゆっくり直進する。

寺泊のさざ波体験入門

 注) この波音アセスメントは海岸の優劣を決めるものでなく、あくまでも個人の感想である

 

 

現地測定者の話を基に評価したもので、観測時間・気象条件・測定角度等により異なるから注意が必要だ

 

初めて波鑑賞体験希望者は先ず、長岡市のどこに海岸があるかを調べてから現地を訪れたほうがいい。(

.

◆昭和時代の長岡市に海岸は無かった。ある日を栄に突然、素晴らしい海持ちになった市である。

南西の風3メートル程度の時間帯を狙って、砂浜又は岩場に座り、2時間程度ボヤーっと波音を堪能してから、機会を作って他県(太平洋側)の海岸で同様の観測をされることを推奨する

 

こんな季節に、波の音を聴くのも気持ちいいことは、寺泊の誇り、千代栄姐さんも、さざ浪の魅力を昔からよ〜くご存じで、これを糸で表現して後世に残したかったに違いない。

 

◆水上勉小説風フィクション(寺泊会良寛愛好家の創作話)

国上山にあった良寛堂に寄った後私は海岸を歩いてみたくなり

野積橋のあたりまで降りてきた

信濃川分水の下流らしい。木の橋だったので歩くとミシミシときしみ

多少の振動もあり何やら楽しい気分になる。片側通行にすれば車も通れるが殆ど見かけることはない。

100メートルもあったかその橋を渡って道なりに寺泊町の中心部まで歩くこと15分。

寺泊町役場と郵便局の標識がある建物の前まで来た。町ではビルと呼んでいるかもしれない

私が歩いている道の左側にあり周辺に点在する商店よりかなり大きく見えた。

ここで清水屋さんという店の前で海岸とは反対側の道を登ってみた

結構きつく道幅は3メートル位で舗装はしてなかった。

5分も歩いたか左手丘の奥にお寺らしき建物があった。

坂道から見た外観ではお寺とは判らなかったが

読経の声と木魚をたたく音でわかったのだ。あとで町の人に聞いたら

あそこは明聖寺さんですよと教えてくれた

 

そしてさらに道を登ってみると、「やなぎや別館」という看板の

かかった旅館があった

今流でいえば、やなぎやアネックスであろう。

都心のホテルは2棟目を別館と呼ばずアネックスなる英語を使うことが多い

品川プリンスホテルも2棟あり、一棟はプリンス・アネックスと呼ばれている別館がある

 

 

やなぎや旅館の中からは長唄から小唄まで三弦の音が絶えなかったという

この旅館横の坂道を挟んで、いかにも楼閣らしい大きな館が左手に見えた。

これが噂の玄場楼か。敷地面積もタップリしており

黒っぽい板塀に巡らされ、門からは中庭らしきスペースが少し覗かれ

手入れされた低い松の木が並ぶ風格有る佇まいであった

4時ころだったであろうか、穏やかな夕日が松の木にかかり影さえ美しい

 

もっと中へ入れば、坂道側のはるか正面に法福寺があり

この寺の階段と並行して昇り龍のように立つ松並木が見える筈だ

 

階段の斜面に沿って植えられているので、同じ高さの松の木なのに段々と高くなり

その頂きの遠景は山の稜線のように美しく、寺の風格を側面から支えているようだ

寺泊を訪れる良寛足跡追及家たちが必ず立ち寄るらしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もしかしたら良寛の妹「むら」も、旦那さんの文左衛門と仲良く二人で

旅人である私が立っている、この楼閣に来て音曲に興じていたかも知れない

世に良寛研究会はゴマンとあり、

その妹ムラについても知らない者はいないらしいが

多分お墓が寺泊にあるというだけのリテラシーで終わっているだろう。

だが嫁ぎ先は回船問屋の大金持ち、

そこの嫁さんが著名な楼閣にも来ていたとなるとその幸せぶりが伺われ、

良寛の世話だけの生活に明け暮れていたのではないことを

話題にすることは研究会でも少ないであろう

私はその良寛について、分水に住む友人と

じっくりと語り合いたかったので

寺泊を歩いたのだ(村上勉の小説より

 

これだけでも私が噂に聞く楼閣街を訪れた甲斐があったとホッとする

さらに首を右に振れば佐渡島も見えたことだろうが一見の客では

こんにちわと言って庭の奥に立ち入るわけにも行かず玄場楼をあとにした

わたしの好きな寺泊町の散策はまだまだ続いた ・・   おわり

 

復元地図情報提供(小川隆司様・寺泊在住) 

柳谷旅館・三輪楼・玄場楼・更に千歳楼と連ね、

その隣には名だたる高級料亭も並び、

寺泊遺産に値するとも言える花街の歴史を誇る。

 

もし水上勉がここを歩いたら、自著の小説で必ずや、とりいれていたに違いないが、

残念ながら村上勉は3区を歩いたとき山の方にへ行かないで、波を見たかったのか、

能登屋小路を下り海岸方面に曲がって行ったのであろう。

寺泊が日本遺産の特定地として指定される遠因となった、細い能登谷小路を下って浜辺へ出れば波音のざわざわ感が嬉しい。こんな越後の原風景は、寺泊おけさの乾燥した三味のビートが実によく似合う。


寺泊の砂丘は、良寛が弥彦山中の、西生寺に通っていた頃は、山のふもとまで伸びていた。
今は分水川が野積と町を分断しているので、浜辺を、魚のアメ横のある寺泊中央海水浴場から、弥彦山の麓まで、徒歩で行くのは、途中で大きな橋を渡らないと無理である。

 

◆寺泊町にもあった戦後のスポーツジム

 

寺泊の有料スポーツ施設(昭和20年前後)

 

寺泊町にもアスレチックジム相当の施設があった(昭和二十二年頃の復元地図より)

三区戦後の古い地図を見ると、娯楽としてのアスレチックスポーツ普及に貢献した「お店」がある

■解良ピンポン屋

■野瀬ピンポン屋

この二軒の土間には卓球台が備えてあり、当時1円か5円程度を払うとボールとラケットを貸してくれて、時間単位で汗を流し、

概ね日中は労働をしているオトナたちが歓声を上げながら、裸電球のやや暗いスペースでピンポンに興じたものである。

解良ピンポン屋は、町の最新情報にやたら詳しい山田床屋さんのとなりにあった。

 

大河津分水に積極参加・寺泊大正人

この分水した川幅も現状の1.5倍に拡幅される。あれやこれやの拡幅に関する話題では、


 6月24日(日)に樋口 勲氏による講演が寺泊文化センターで開催されたとの情報が来た。樋口勲さんといえばご自身は十日町市出身ながら、寺泊に縁がお有りらしく寺泊人に関する歴史的な知識も豊富、我々の浅学を補完すべく寺泊会だよりにも時折、貴重な情報を頂いている。

それによると、分水路河口の川幅は現在の200Mが300Mとなる大河津分水だが、その昔分水請願の立役者こそ寺泊にいた豪商豪農たちだったそうな。その代表格が本間屋数右衛門や星清五郎であったらしい。

寺泊で起工式why?

なぜ古き寺泊人が、大河津分水開削事業を積極推進したかとなると、大正時代の先人たちの話を聞きたいところだが、今は昔で不可能である。ともかく起工式は寺泊で行われたことは、事実のようだ。一般的な解釈では、大河津村や地蔵堂でやったのではと思われるが分水会関係者ではないから不思議である。寺泊には蒲原地方の横田切れでの被害は直接なかった筈なのにと偉大な先人をリスペクトせざるを得ない。

. 将来起こるかも知れない単純なリスクを心配しているのは寺泊会である。

河口が広がる即ち濁流・泥水が海に何倍か広がる。これでは、現在でも大雨の翌日は、ブルーな海水表面がブラウンに覆われ、中央海水浴場あたりまで押し寄せているのに、これがもっと範囲を広げ、金山・郷本あたりまで移動するのではないかと危惧する。環境に敏感な国では、すでにプラスチック製のストローの使用を禁止している。川に捨てた細い一本でも、海に流され浮遊し紫外線で分解されミクロン単位となった微粒子が海中に沈み、魚類が餌と一緒に飲み込みやがてはヒトに影響を及ぼすのである。

この議論は国交省とシュミレーションすべきかも。

..

 

知的な解説は、郷里の史跡ボランティアガイドとして活躍する米子先生らに(小越米子氏)に聞いてほしいが、平成29年4月23日に開催した寺泊会での講演会「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」での、新旧のデジタル画像で違いが判る。

浜辺に実家のある、東京寺泊会の皆さんは、寺泊のさざ波を想い出し「寺泊おけさ」でもゆっくりお楽しみ下さいと推奨する。

時には早朝から、心地良い風が吹き、程よい波高しで、地元にいた時は当たり前だった風景も、遠浅な海岸からの波の形が、素晴らしい絵の如く映る。
北前船の船頭さんも、寺泊で航海の骨休みをしていたに違いない。

.

名物の「寺泊おけさ」は、名手・千代栄・月子 両師匠さんの手にかかると、高度なテクニックで、すくい三味線をあやし、ミュート奏法に徹し、歯切れ良いブルーノートジャズの如くビートを刻んでいるので、軽快且つ、寺泊色溢れる、芸術性の高い座敷唄として仕上げている。「佐渡ヘヤ〜、エヤ〜八里のさざ波超えてヨ、鐘が聞こゆるヤ〜レ テラ〜ド〜マリ〜。」と結んでいる。

 

寺泊おけさ体操・東京で初披露

 

 

 

このリズムを利用した「寺泊おけさ体操」は、平成30年4月の寺泊会で平石久子先生が音頭をとり、全員が体験した感動のシーンとして、感激の大宴会に花を咲かせてくれ動画も完成した。(youtubeアップ準備完了だが、多数のお顔が鮮明に出ているだけに公私にうるさく個人情報重視の昨今、承諾に時間がかかっており来年の大会で許可を得ない限りは次期未定である)


風の日の寺泊は、正にこの軽快なリズムの、寺泊おけさが良く似合う。ついでに歌詞を追うと、最初は言葉の繰り返しから入る「オヤオヤオヤオヤ うり瓜 なす茄子 ヨウガの手 土手まで這い出すカボチャの手 垣根に絡みつく糸瓜の手 川から手を出すカッパの手(ここからが艶っぽくなる)
 

 写真提供:伝統民謡継承団体:寺泊浜っ子会


寝ていて手を出す 兄(アンニャ)サの手 その手を引っ張る 姉(アネ)サの手 手と手と手  

 

  あと野となれ ヤ〜レ山となれ・・・と唄われている。

 

両師匠の志を継承した寺泊の民謡団体・浜っ子会の皆さんは 寺泊会創立記念招待公演で上京された懇親会のステージで見事に披露

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