◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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令和時代最初の祭りを覗きませんか

令和元年5月の寺泊大祭物語

日本初の大型国民十連休で最初に訪れたい観光地・寺泊

 

 

平成が終わり時代は令和になり、日本でいち番早い5月度の祭礼が越後寺泊でも開催される

旧北國街道往来時のなごりとして残る、十万石の大名行列に圧巻される寺泊の5月大祭は確かに歴史的価値がある。

だが全国的知名度はまだ高くなく、約8キロの道を平安装束を纏って練り歩く5月15日の加茂祭(京都)と異なり、100万人の観光客に見守られながら、などという訳にはいかない。ましてや博多どんたくの5月港まつりでの200万人には叶わない。

寺泊町を8キロ歩こうとしたら、弥彦山に突き当たってしまい、見物客が斜めになるから不可能だろう。

令和時代になって、寺泊大祭は日本最初月の祭となる

5月開催の祭なら日本国内で多数存在する。

そこで5月1日に改元され、令和時代元年最初の月が日本で最も早い月となるから、寺泊大祭もランク入りすると結論を得た。

高名な飛騨の大祭・京都葵祭・高岡御車山祭、なども新元号令和初回月の開催であるから、

寺泊白山媛神社の大祭も新元号いちばん最初の仲間入りとなるのでは、とやっと寺泊会参加者たちの意見が落ち着いた訳だ。

(どうでもいい話であるが、寺泊会宴席での郷里の話題とは、これ以上でも以下でもない。

何でもいいからふるさとを 1番にしたいらしい

 


 

・       

 

東京のど真ん中で、日本海の寺泊港から直送された魚だよ〜と寺泊港を宣伝文句にしておられる、寺泊会役員たちイチオシの居酒屋さんは、品川区にあり、かなり大きな店内のセンターに位置する産地銘板札は貴重である。今朝セリを済ませたばかりの寺泊漁協さんもビックリか。

この銘板眺めながら、八海山をグラスで飲む瞬間が至福の時である

 

(イワシ)祭りが大名行列

 (さばき切れない程イワシが大量に獲れた)

寺泊会の気が急く

これは6区の当番をテーマにした物語

(だが原稿の数字を1〜6まで変えれば永久に使える

 

春5月は寺泊の伝統行事大祭の月である

 祭の前夜は興奮し眠れなかったもんだ




大祭の話題は寺泊会でいつも沸騰する


   (本稿の写真は地域創生事業実行委員会のPR用CDを加工掲載
 

俺たちが頭になって、「カグラをかついで町内を走りぬいた時代が懐かしいなあ」と寺泊会の宴席で
こんな話題が、新元号1年5月26日(日)東京・芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交うであろう。


寺泊会創立64周年大会の予想話題。

カグラ当番で準備に勤しむで70代の元気者は、地元でも貴重な存在だ。
本人たちの年月経過すれど、寺泊「町」が好きな粋人、老眼鏡かけ元気に神楽のシッポつくりで、後輩の先頭に立つ。平成28年に観光協会のHPで紹介された5月の例大祭で神楽当番だった様子である。

平成時代最後は、6区が当番だと寺泊会連絡員からの情報があった。


1区から6区まである寺泊町


寺泊は町役場(当時)が決めた、地域セグメントとして1〜6町内に分割されており、1区サイドがカミで6区側がシモと呼ばれている

かぐら作りの下準備でのリーダーシップを発揮して親方をこなす、成田屋さんと田村屋さんなど、粋人お二人の御姿は、
さすが上田町代表である・・と首都圏で活躍する3区出身の寺泊・上田町人会、清水屋の清水文隆・副会長(上田町)、河忠の河合忠治氏(上田町)、故外山健太会長らも3区出身者で、古希はとっくに通り越した。


寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている、60年前の写真を寺泊会の会員たちが保存していた。

 

戦前と思われる昭和X年5月の3区・上田町組存命されていたら全員150歳以上
ひと昔前は、どこのの衆のカグラかを示すため、走り手も、組の名前をつけたタスキをかけていたという。3区なら「上田町」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。
かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。

漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭は毎年5月3−4日に開催される。夜宮となる2日は中心街では露店の準備もでき、既に脳は祭の小興奮状態となる。


この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている学校の教材に最適である。話を聞くとこのCDは寺泊在住者でも持っていないそうである。ましてや公務員先生では興奮度が低いかも。

以前4月4日の東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。

その名残りでこの祭礼は別名「イワシ祭り」とも呼ばれているが、関東で毎年2月に行われる九十九里浜いわし祭とは様相が異なり、水揚げ直後のイワシは登場しない。寺泊のイワシ祭は、あくまでも十万石大名行列の装束にこだわる。殿様の露払い役はカグラである。

中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、新元号初年は6区が神楽当番である。新元号になって100年続いても逃げられない。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。

 

カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)と勉強は1番になり、病は治り、曲がった腰はピンとする、持病のひざは痛み消滅、借金は返済のメドが立つ、おみくじの大吉宣言風で万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。

寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらおう。そして子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、寺泊の行事に無関心な赴任期間だけのチョンの間寺泊在住長岡市民となる瞬間先生ばかりでは無理かもしれない。

本当に心配なのは、こどもカグラを担ぐお子たちの減少であるが。
この貴重な写真は約60年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。

かつてこの写真をきっかけに、テレビ局呼んで「60年後に集まった昭和の少年たち」と題して、売り込みイベントやろうと話があった

しかしながら皆さんは、古希を過ぎて、暇かと思ったら結構現役で何らかの仕事しているから多忙とかでおじゃんになった。もう生涯このイベントの機会はないであろう。
写真前列の連中は2014年度に、古希祝いの集いを開催。会場、宿泊は当然の事ながら きんぱちの湯であった。

だが開催に積極的なのは、どの会も女性陣が積極的である。

 

令和元年6月14日(金)には「古希経過存命5周年記念大会」が寺泊きんぱちの湯で開催される予定である。

寺泊会創立者の提唱で、人集めには組織の品格を考えて、案内書の送付には、「次回よりご案内は不要です」の思いやり項目を付けて取り組めとの教訓は、ここの小組織ではまだ無理であろうが、幹事さんにとってはご苦労なことである。

 

 

所で、1区〜6区の中間に位置する3区は、法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延びている。

3区と4区の境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を小学校高学年なら「白い6尺ふんどし」か、低学年は「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。

ピーピーキャーキャーと騒々しかっただろう。塀越しの家は茶の間つづきの庭になっていた。

だが人のいいキセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。

日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。

地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。

この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。

一方、カアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。

海までの砂浜部分は今より短かったが、自然の川筋が砂浜に造られていたのである。2018年度の全国の子供数1553万人・(総務省4月1日発表)新生児誕生数約95万・当時の日本の子供は今の2倍の約3000万人、人口の3割近くもいた。

2018年の日本は、人口の3割が高齢者になってしまった。

 

世間同様寺泊町にもこどもたちがワンサカいた。男児なら「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。こどもの遊び遺産としての価値がある

遊んで手にキズをつけたら殺菌効果剤「赤チン」を塗り、虫に刺されたら「アンモニア」を塗って凌ぐ町の原風景こそ、令和時代から遡れば大いなる、時代遺産のオンパレードとなる。この遊び方の比重は、同じ寺泊でも1区から6区によって異なるから研究したらきりがない。じゃんけんのやり方さえ区が違うと掛け声まで異なるから、町の品格は住民によって決定するが結論であろう。

 

(本稿は史実を優先のため、あえて長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を使用。)

寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
















写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)

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