◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

スマホ対象の枠組みで制作していないがPCだけでのアクセス表示75万超、「角上」・「寺泊出身」OR「脳の学校」の検索が殺到する好現象。確かにテレビ出演の影響は大きい。
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寺泊町が長岡市になった日そして歴代町長と高橋誠町長時代

 

衆院選挙内部外部の課題

 

 

首都圏在住の寺泊人は、都民ファーストを旨とする女性新知事の奮闘で、永年、男衆が出来なかった事案に豪快な決断する瞬間に拍手していた。このころ越後では現職県知事 VS 新潟日報新聞社というステークホルダー同士の葛藤があり、この話題を定例会見やメディアが取り上げるたびに、居酒屋の桟敷席で話題沸騰する珍現象。(寺泊会は、新潟県知事さんとは名刺交換してるし、一方の地方新聞社の東京支社さんには寺泊会の行事について新聞掲載頂いた恩もあり、大変お世話になっている。)…………………・・・・・・・…………とか言ってたニュースも、半年・1年も経てばもう昔の話としてかすれてしまい

これを話題にすることが無くなっていた頃衆院選挙騒動が勃発した。

 

◆今日の世相川柳

 

都民ファースト あたし(都内在住のご自分)

 

ファーストだったのよ と 本人言い。

 

都民ファーストで何が決まり、何に改革されどうなったかは、これものんびりしていたのでは、有効性を検証しようにも現物の評価をメディアが河川氾濫・洪水に事故と不倫などで繁盛中。

多忙で記事にする行間がないそうな。見えないのは当然かもしれない。

イノベーションなる言葉はファーストを旨とするが、期待値程決定がなく見えてこないから居酒屋談義も廻り道をしながら弾ませざるを得ない。

 

半年前までは小池新党圧倒的多数で日本を席巻などとのうわさを皆で信じていたが、2017年10月22日の選挙で直近の予想通り惨敗。原因は複合的だが、同氏が率いる党員の数は軟体微弱で、景気のいい話とは程遠い。新党創設も維持が精いっぱいでとても保持という訳には行かない。

 

そこで思い出す言葉は、経営戦略の中で取り入れられる、

組織における内部外部の課題と利害関係者のニーズ期待の認識の甘さであろうか。

これがあるからものごとは安易に計画したことが実現しない。

成果を出す戦略に使う必須のワードが、武将の時代から科学の時代でも消えないで生きてくる。

親分の脳裏に浮かんだほんの一言が、組織の命運にかかわる懸念の方向へ進むことの恐怖である。経営テキスト通りの実証か。

 

選挙は当選してナンボ

 

晴れて議員会館に夢のオフィススペースを許される、前新潟県知事さん、知事再選を目指した立候補を取り下げざるをえなかったニュース以来、その消息はあまり噂にならなかったが、政治の世界は知名度が高い人には、強運が向こうからお土産付けてやってくる。

泉田氏は知事就任直後に遭遇した中越地震以来、3期知事を続けたのは事実である。

皮肉屋さんが多い寺泊会の中でも、野次馬好奇心派の仲間内でしか話題にならなかったが(一期X3の退職金)をお土産に県庁を後にしたということは、県には安定した税収が有るとはいえ、40年近くも汗水垂らして懸命に働いたおじさんサラリーマン3人分の退職金にも達しそうで、知事在年12年分となると決して少額ではあるまいて。

だが人間は何億持っていても、良いお誘いあれば次なる道に必ずや目が移る。

 

件の前知事さんは、2017年10月の衆議院選挙で、長岡寺泊などが主戦場の新潟5区から自民党に推され、当選され 国会議員に変身されたのだから、人生は判らない。

 

長島忠美氏の突然の逝去による補欠選挙で、自民系の候補者は知名度優先戦略で、田中真紀子氏だのそのご子息だのと時間をつやした居酒屋談義を思い出すが、結果オーライで5区は自民勝利へと導いて選挙は終わって行く。結果第一で過程は話題が薄い。

 

 

                  

 

 

故長島忠美氏と寺泊会

 

 

 

寺泊会の名刺簿に越後出身の国会議員さんや市長、知事さんなど多数がファイルされている。

参議院議員森ゆう子、衆議院議員菊田まきこ、衆議院議員高鳥修一、新潟県知事泉田裕彦、新潟市長篠田昭、等の各氏その他である。菊田まきこさんも高鳥修一さんもめでたく今回の選挙には当選した。

幸いにも寺泊会として国会議員さんの名刺保管分は勝利し、次回の会合で名刺交換できる。

 

衆議院議員 長島忠美氏の名刺も2枚ある。ふるさと想いの同氏に東京寺泊会でのご臨席賜りスピーチ願いたく、思い切って名乗り出たところ、ここに連絡しておけと、お名前の忠美のところに振り仮名「ただよし」とついている名刺を頂いた。裏面には永田町の衆議院議員第2議員会館の部屋番号と電話番号が記されていた。

寺泊会が同氏の名刺2枚所有しているのは、同じ話を2年かけて2回お願いしていたからである。

だがこの願いも叶わず今年の8月に先立たれてしまった。お別れの会は10月30日(ホテルニューオータニ長岡)に執り行われる。

 

山古志村は寺泊町より2年前に長岡と併合していた

 

ここに6年前の新潟5区の衆議員選挙を思い出す。田中真紀子氏(当時民主党)と戦い約3万票差で当選されたのが長島忠美氏であった。山古志村村長さん時代から故郷を大事に想い続け国会議員さんになられても中央からその目は離されなかった。災害復興についても片時たりともその手を休めてはいなかった。

だから寺泊も山古志と同じ長岡市なら、顔を出しましょうとなったに違いない。山古志村さんは寺泊町より2年先輩として長岡市になっていた。寺泊町がまだふらふらしていた当時である。

 

さて平成29年秋は衆議院選挙小池戦略が失墜し自公大勝に沸く。今や小池手法のリスクで生じた機会のみが特出して話題になっている。ここでの機会の意味を翻訳すると「ウラ目」になろうか。決して日本語のチャンスではない。

寺泊会は当選された衆議院議員・泉田裕彦氏に63回大会へのご臨席を期待する。その訳は極めて単純である。

補欠選挙出馬が決まった際、同氏の第一声コミットメント「私、泉田は(寺泊さんのいる)新潟5区・故長島忠美氏のご遺志をしっかりと引き継ぎたい」と真剣に述べておられた。

なお(・・・・・)内の声明部分は、声が小さかったらしく聞いた者はいないが。

 

寺泊会に新潟5区当選議員さんをご招待

 

この崇高なるご故長島忠美ご遺志を尊重される暁を夢見て、党籍にこだわらず当選を喜んでいるのが寺泊会なのだ。

そして寺泊会へのご臨席は、故長島氏が抱いておられた未達の遺志であるとして、次の代で実証してほしいのである。

 

これぞ立派な故人のご遺志の尊重である。

幸いにも新潟県人知事時代に名刺交換しており寺泊会をお覚えであろう。

東京寺泊会第63回大会の開催は、2018年4月22日に決定済みだ。ご臨席される来年が楽しみである。

そのために12年前、寺泊の首長さんは、長岡市と合併の道を選んだと主張する屁理屈は、誰もついては来まいかも。

 

寺泊が長岡市になった日

 

寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。

 

やがて、寺泊の町長を語れるのは、

 

古老たちが集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。

その話をまとめて編集したらこうなった。

町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。

だが寺泊人にしてみると懐かしい名前が登場して面白いとの少数派の評判も有る。

寺泊町が消えた日・・・平成の大合併と閉町式

 

   高橋 誠氏逝去 ・・・・(合併前、最後の町長)享年64


寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、
共に明治22年の事である。
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に
号令した結果伝統的な地名が消え
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。
明治34年には野積村を含む近隣4村と一緒になり
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口
18000人近い、自治体となったのである。 
平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併
冠に長岡市をつけることとなり、町としての「」の名前は消滅した。

 

「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。
高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長
公務多忙により副会長が指名され閉庁式に単独参加となった。

 

午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と
荘厳なる閉町式となった
やがて、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の
手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋町長に手渡された。
式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会臨席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。

アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、
力強く閉町の雄叫びを轟かせた。


公式資料で大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。


   ▼寺泊町(旧)の歴代町長・最長は高橋氏

     初代町長  柳下安兵衛    
     2代目  本間健四郎   町制施行〜大正4年
     3代目  神林津三郎    
     4代目  桑原源治 大正4年7月〜5年11月  
     5代目  柄澤政雄 大正6年1月〜6年6月  
     6代目  寒川卯之七 大正7年9月〜10年10月  
     7代目  大平廣弥 大正11年1月〜昭和9年1月  
     8代目  治田竹治 昭和9年1月〜13年1月  
     9代目  竹澤茂一郎 昭和13年1月〜18年10月  
   10代目  外山勘兵衛 昭和18年10月〜21年11月  
   11代目  大丸常松 昭和22年4月〜25年6月  
   12代目  高綱三作 昭和25年7月〜41年7月  東京寺泊会創設期
   13代目  藤田子男 昭和41年7月〜53年7月  
   14代目  中島甚一郎 昭和53年7月〜63年6月  
   15代目  高橋 誠 昭和63年7月〜17年12月

                           資料提供 旧寺泊町役場
 

てらどまり」が寺泊町として町制施行以来
歴代町長は15代の首長によって継承された。


■。。高橋 誠第15代町長特別追悼の章。。■

■■
2010年10月25日長岡市寺泊支所・地域振興課より東京寺泊会へ
15代町長・高橋 誠氏の訃報が届く■■

■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」に、元気な姿で来賓参加され、同年の東京新潟県人会納涼大会でも、古川原名誉会長や三上会長(当時)らとも懇談のテーブルにつかれていた。


中央が高橋 誠町長 左は古川原名誉会長、右は
三上会長、後列左から小林正則小平市長、その右は渡部作次副会長と小泉美恵子理事(いずれも平成17年当時の役職名)

50周年大会に参加した高橋誠町長の巻高同期生
・・・・・・・・・・・・・・


寺泊町の歴代教育委員長
 藤田 武 昭和31年10月〜53年9月  
 廣川廣四 昭和53年10月〜平成1年11月  
 長谷川達栄 平成2年3月〜平成12年9月  
 柳下明也 平成12年10月〜平成17年12月  


旧寺泊町の名誉町民
 亘 四郎  昭和50年2月推薦
 外山勘兵衛  昭和59年3月推薦
   小林  進     昭和61年9月推薦
 
「新・長岡市」になった寺泊・与板・和島・栃尾地区から合計
8名の長岡市・市議会議員が割り当てられ、旧寺泊地区定数
2名が割り当てられた。
選挙は1月29日に行なわれ、7人が立候補、下表の結果となる。
トップ当選の高橋誠氏と2位当選の古川原直人氏は、同期生。
また、寺泊町役場は長岡市の「寺泊支所」と名称が変わり、
森山信太郎氏が初代・寺泊支所長に就任し、本合 收 氏を経て
現在は、長谷川知雄氏で、いずれも東京寺泊会の懇親会にご出席された経験がある。


合併直後の長岡市市議会議員選挙
候補者名(年齢)    得票数
高橋 誠 (59)     2106
古川原直人(59)   1370
高井 裕 (54)   1118
山田省吾 (53)    965
田村勝三郎(66)    815
有木清司 (53)    682
星 又一 (64)    227

  選挙結果は新潟日報のHPより

 

町旗降納式東京寺泊会でも式典実施
新長岡市誕生に伴って東京寺泊会でも祝賀記念を行う。高橋町長は東京寺泊会のためならと、町に特別許可を与え、歴史的遺産物は東京へ持ち込まれた。

かくして、町旗は森山初代支所長から寺泊会第7代三上喜久治会長、渡部作次副会長が代表して納還式を執り行い再び旧寺泊町へ還された

       ▼寺泊の町旗はこれで見納めとなった
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