◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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寺泊の塩たき節物語

寺泊会創立64周年記念・芸能編

 

 

 寺泊の伝統芸能を守る人たち

 


塩たき節 前唄

 

む〜か〜あしーーよ〜おーりー

 

塩たき節 本唄

 

なじょ〜なーしーおーた〜き〜でえーもー

 

(塩たき節:地方で唄の雄/星幸市の情景心理描写が細やかでワンワードに精魂を込める




 長岡市伝統民俗文化財
寺泊「塩たき節」入門講座 音源クリック

 

■副題:寺泊品質はこうして創られた(物語)

    財団法人 地域文化創造
    写真掲載許諾済

 

寺泊は、別名をフンドシ町と呼ばれ、その名の通り、

近年になってから一区の松沢町とか六区の白岩などの

町名を付けても、まばらに点在する民家や商家などを

左右に挟みながら、生活道路に欠かせない一本道が

弥彦山麓まで続いていた。現在の砂浜の大部分は海だった。

 

大河津分水が、日本海寺泊海岸まで流されていなかった頃は

野積橋もなかったし、良寛も夕日が沈む佐渡島を見ながら、
弥彦山の
中腹にある西生寺まで、テクテクと、この狭い

フンドシ道を歩いていたであろう。

ベストセラー作家・水上勉がこの浜道を歩きながらその印象を
短編小説「寺泊」を上梓したのはこの良寛が縁であった。
寺泊の製塩業は、この時代より遥か昔となる2千年前、神代の
時代から始まっていた。シオ 貧者も富裕者も生活の必需品だ。

弥彦山の西端は、寺泊町から眺めると、佐渡まで続く日本海に

接するなだらかな恐竜のしっぽのようである。

弥彦からはこれが見えないから、蒲原郡地方出身者はこの

イメージを知らない筈である。

平成30年秋から放映中の日曜ドラマ劇場(TBS−BSN系)で

弥彦山脈が遠景として良く登場する。 この画面を弥彦山とするが

寺泊人はこのフォルムだと馴染みが薄い。

(ドラマ下町ロケットより)

 

 

 

 

 

寺泊から見ると弥彦山は

こんな優雅な形をしている。

この山脈左端の先の先が

日本海に面している。

 

海面ゼロまで行かないと判らないが

その山麓部分には、何やら大きな洞窟らしきものが見える。
伝説では、ここに「天香山命」が、南国から海路を経由し、
渡り住んでいたとある。

 

 

のちに弥彦神社に祀られる、越後の産業をもたらした、

いにしえの恩人は、2000年以上も前に野積を根城にし、
稲作・製塩・漁労そして酒造り等を教えていたとされる。

 

 

 

このお陰で寺泊は、

「農・漁・酒」作業を

男手が担い、

ただでさえ、男勝りで

大柄な体格が多い、野積のオナゴ衆は

せっせと重い桶をかつぎながら「塩」で稼ぐから、

まさに潤う集落となったはずである。

 

 

現代の著名な脳科学者としてテレビや

講演会でお馴染みの「脳の学校」代表をしている

加藤俊徳・医学博士も、約2000年、後になってから

この地・野積で生まれたことになるがこの説の続編は

近くの居酒屋談議で続けた方が脳トレによさそうだ。

時は経て、奈良時代あたりからは、寺泊の港は、

当時の遠島、佐渡島へ流される、流刑人船着き場の役割を果たす

事となり、重罪なる政治犯と裁かされ、その烙印を押された
彼ら職位は寺泊部落には縁のない都人、能楽師・上皇

高僧・音曲/歌人などがひしめく。

 

知識が有り、芸術感覚あふれる、職種様々な尊い罪人たちが

寺泊港から、遠島とされた佐渡島へと送り込まれる。

今と違って、船に原動機はなく島までは、はるかに遠く

下手すると鬼が住んでいるかも知れないと思ってたか。

何しろめったに上陸したことのない島である。

 

・・・・◆

信長・秀吉が野望をいだく、天地人の時代も終焉し、

家康の時代になると、佐渡島は金銀に沸く。

 

大久保長安は石見銀山の経験を生かし、初代佐渡奉行となり、

相川に住んで宝の発掘を管理する。

 

 

 

 

 

 

幕府は、道路整備に

権力を発揮し、

寺泊を当代一となる

佐渡への渡り場と

するため、

                                

中仙道・北国街道・三国街道など、主要幹線道の整備を命じ

日本海側としての拠点多数ある中で、

終点のひとつである

寺泊港にも注目し寺泊は一段と活気ずく。

 

更に北前船が登場すると、寺泊は内陸の物資を、

海路を経て遠方に送り出す要港となると同時に

遠方からは、寺泊経由で内陸・中央へと資源が運び込まれた。    

移動した資源はモノだけでなくヒトも集まる。

 

(^^♪ 今も昔も、物資豊富な富裕層は、遊興に資源を投じ

手にしたお金を、一度でもお遊びに使う醍醐味を味わったら、

忘れられなく、くせになる。

 

     

寺泊の旅籠も料亭も、品良くきれいと評価され

花柳界は連日、宴が繰り広げられる賑やかさ

     

かくして寺泊では、山の町ならずとも、

三弦の音が日夜轟くこととなった。

 

一方では近江・加賀から松前・江刺と高級遊興街で遊び慣れた

北前船の船頭衆・商人たちは、費用対効果を計算できるプロ集団

目も耳も十分肥えた、粋人が多いから万事にうるさい。

 

寺泊の芸者衆は、古町同様美と教養を備えているから

下手な音色・所作で座敷を白けさせたら、その名がすたる。

 

古町にある同業では、この前までは

「一見さんだったのに、裏を返し、もう馴染み

になっている船頭衆が多いそうだ」との噂も気になる。

実は受け手側となるこの競争心とモチべーションが

寺泊品質向上において、大いに役立ったに違いない。

品質をマネジメントするマニュアルなくとも実践で習得した。

 

越後追分なる唄を生み、秋田、松前と運んでくれる北前船の

おだんなさんたちこそ、寺泊にとっても有難い美の商人である。

この越後追分も字数が少ないのに、母音を長〜く引き伸ばして唄う

塩たき節の歌唱法に似たものが多いのが面白い(小唄勝太郎節)

 

 

これが寺泊品質を創り上げた起因であることが確証された。

即ち我々コンサル業の商売不要論が成立したのである

平成時代に商売していて良かったと、安堵の瞬間となった。

 

     


寺泊伝統民族芸能の源流

/

◆「塩たき節立ち方の、小黒サヨさん(上片町)は

伝統芸の完成度を高めようと、原型の所作を

忠実に再現し、中腰移動のため足腰を痛めながらも

苦痛に耐え稽古を重ね、励んできた。

 

 

私説・塩たき節誕生粋話

 

さて話は戻って、都から引き連れてこられた罪人たちは、

三国峠の山超え、やっとこさ、寺泊へ到着しても、

即刻佐渡へ流されることが少なかったことが

寺泊の伝統芸能には幸いした。

いつもは夕陽輝く、穏やかな日本海を抱く寺泊であるが、

晴天の日は何日も続かないのは、昔も昭和平成新元号でも同じだ。

手漕ぎ舟同様の、罪人を乗せるみすぼらしい、小さな舟は、
波風に弱く、少しの荒れた海でも出船できない。

 

 

そこで海の鎮まるまで、舟は何日も港に繋がれ、

寺泊の陸で待機せざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日蓮上人は説法し

高貴なるも罪人たちは

毎日波の様子を見る.

浜に降りては時間をつぶす。

美しい寺泊の夕日を拝み、

時に遊女たちと和歌を詠み交わす。

フンドシ町の浜辺では、遠くにおなご衆が大きな桶に海水を

せっせと汲んでは、重そうに歩を動かしていた。

静々とゆっくりではあるが、担ぎ棒の先には

前後二つの桶が吊るされてそのバランスが実に良い。

正確には肩から先のつるし棒部分は後ろ部分より

数ミリ長く」担いでいる。こうしないと後ろに引っ張られ

バランスが悪いからである。

 

塩たき節の歌詞には、作業情景描写がさりげなく挿入され

直接的な言葉で唄っていないから、俳句を嗜む粋人向きである

上等な左党を自認する輩さんには

「今日の月こそ 桶にあり」あたりで盃を傾けたほうが良い。

昔につけられたランクの2級酒でも、たちまち野積杜氏が仕込み

薦める大吟醸の味に変わってしまうから、酒は気分で飲むべしで

あなたの、宴席が一層華やぎ、高貴なお座敷に変る事であろう。

 

たき節物語は、実際歩いた経験のある灼熱の砂浜と塩田に加え

山の町の三業地を知る、寺泊人でしか想像できない

ロマンあふれる歴史音曲物語なのである。

 

こうした様子を見て誕生した情景描写が「塩たき節」

の源となっている。歌詞に抑揚が有りすぎて、塩たき節を

唄うのは、とても難儀なことよと、星幸市プロは吐露する。

同じ作業唄でも石炭を掘る時せっせと唄う「炭坑節」、

掛け声勇ましい ニシン漁の「ソーラン節」などとは

「節」の文字は同じだが、その味が全く異なる。

しっとりした「塩たき節」の世界は同じ作業唄でも

お囃子・調子とは別世界の、肴を厳選した大吟醸に

似合う座敷唄として成長したのである。

宴席では女流地方・半間チサ子の唄が寺泊おけさを熱唱。

 

罪人たちを即座に佐渡島へ流されることが少ない.

風の事情が、いかにして役立ったかを想像し探ると面白い。

 

塩たき節は邦楽のいいとこどり集大成か

 

女波・男波の 波待ち・風待ちで、

やむ得ず寺泊に滞溜していた、流刑人その正体こそ

都会で十分遊び尽くした、都びとの粋人さんたちだ。

製塩の風姿を、ぼ〜と見て生きているだけでなく

「写し絵」の如く取り込んで詩をつけ唄にし

「上方舞」を連想しながら「清元」の如く節をつけ

「端唄」の如く音を刻んだ長いプロセスを経た結果、

「座敷唄」として丁寧にに仕立てられた、

前唄・本唄の「塩たき節」がここに誕生したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

寺泊会はこの芸術的所作と

音源を東京で発信しようと

寺泊で継承に励む民謡団体「浜っ子会」を

東京のホテルに招待し唄と踊りをじっくり

披露してもらった。生唄生演奏に陶酔の陣

・・・◆

 

・・

  (前唄)
 音源 約120秒      
   昔より 寺泊名物の 塩たき踊り  
   (本唄) (約280秒)      
   なじょな塩たきでも こしろうてだせば 
   枝垂れ(しだれ) 小柳 稚児桜  
   女波男波(めなみおなみ) 汲み分け見れば 
   今日の月こそ 桶にあり  
        ハァ ヤラシヤレ ヨーイ

塩たき節保存会は、小学生から大人まで各自の都合を見ながら唄と

おどりを教えている

生徒さんたちは当時の作業風景も想像しながら、

お稽古に励んでいるらしい。あと10年もすれば、

立派な所作を披露できるでしょうと平石会長は楽しみにしておられる。

 ◆(掲載写真は個人情報保護のため意図的不鮮明加工済)

・・

 

 

 

・・・◆寺泊会のステージで饗宴してくれた民謡連に感謝・・・◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豪華三味線勢の顔ぶれ: 

あくまでも、しっとりとしたお座敷奏法に糸を合わせ熱演し、宴席を魅了した

出演(寺泊・浜っ子会)

 

 

太鼓 平石孝義 (小川町)
三味 竹内了治 (竹 森)
三味 田中忠弘 (燕 市)
三味 平石久子 (上荒町)
平井松雄 (上片町)
歌手 星 幸市 (竹 森)
歌手 半間サチ子 (弥 彦)
立ち方 小黒サヨ (上片町)
立ち方 久須美セツ (松沢町)
立ち方 平石ミヨ子 (小川町)
立ち方 今井トリ (香清水)
立ち方 渡辺美江子 (松沢町)
立ち方 梅沢弘美 (松沢町)
     
   ◆        
   
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
     

寺泊会宴席での演舞を終わり舞台衣装をとって

ほっと一息つく「浜っ子会」連中

左から2人目が保存会の平石孝義会長

さて長岡市の協力があれば、寺泊会宴席での

再上演が可能だが同市の30年度予算案によると

年間12.6万が寺泊会との懇親交流費らしい。

再実現まであと一声欲しが、叫べど声届かず。

 

道楽としての邦楽入門ばなし

お師匠さんに横で唄ってもらい 三味線で小唄勧進帳を披露

(新宿安田生命ホールにて)頭にまだ髪があった。 どうよ。 (1974年当時)

 

歌舞伎に夢中になり、国立劇場、歌舞伎座などに通っているうちに、

長唄・清元の世界に魅了され自分も、あの舞台で演奏してみたいと思ったのは

20代の半ばであった。ここで小唄・端唄のお師匠さんと出会い蓼(たで)流門下に入り

サラリーマン奏者として稽古に励み、道楽で小唄三味線のお稽古に没入、

リズム、間(ま)から粋を習得、これは後の司会テクニックに役立ち

県人会の芸能大会シーンにも応用。観客との掛け合いには自信があった、

三味線音楽がきっかけで年を経たある時、塩たき節の音源に魅了、

ショックを受け探求する事となった。以降は寛風庵で

 

 

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