◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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 東京寺泊会 2代目〜10代会長の顔ぶれ


 寺泊会創立64周年記念稿

 



昭和35年〜平成31年

 

詳説・東京寺泊会物語

2代会長〜現在まで

初代会長物語は別項で公開中

 

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2代古川原与一から9代外山健太 ・

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(創設者に感謝しながら、65周年記念大会まであと2年)

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懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷



初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。

 

軍歌歌手登場時代

 

 

昭和30年代の寺泊会はほとんどが、畳のお座敷で執り行われた。ご婦人たちは歌舞伎座へでも行くような道行コートに絵羽模様の羽織姿でご来場、お座敷には、流行りの歌手を迎えるなど、カラオケ装置なくとも立派に宴会時間を楽しんでいた。当時○○会の集いといえば、戦友会が各地で催され、そこで唄う軍歌歌手さんは日夜奮闘の大忙しであった。寺泊会も人気歌手・壽川有里さん(キングレコード)をゲストに迎え、司会さんは大きな日の丸旗をかざしながら、宴を盛り上げたのであった。手拍子に日本酒・お膳料理が似合う光景も寺泊会の歴史遺産か

(写真提供/古川原サキさん・第5代会長古川原実氏夫人)

 

2代 昭和35年


初代亡きあと2代目の会長なり手が見つからずで、任期を1年限りならばと受諾したご仁がおられた
昭和35年になると、立派な髭をお持ちの古川原与市氏が就任し、本当に1年で退任された。
ラジオでは蔵前国技館から放送される大相撲に人気があり、大鵬が新入幕で星をのばした時代である。

寺泊では青木山、弥彦山の四股名で、野積出身の相撲取りが話題となった頃でもあった。寺泊町では高綱三作が12代町長をしていた。やがて1年が経過し、寺泊会では新会長さんを迎える時期となったが、相変わらず難航していたようだ。

                                                     

               ◆・・・・◆

 


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3代 昭和36年〜48年


昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。

以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート
熱海温泉などで、多彩な企画を設け、
12年間会長を務めたのである。

 

 

4代 昭和48年〜57年

昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。

石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時は、
江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど名物の「とんかつ」専門店を
営んでおられた。



この頃から古川原実氏(磯町出身)は
寺泊会の運営に積極参加し
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く
意見を述べる姿が魅力を呈した。

やがて昭和57年、石垣氏が退任し、

5代 昭和58年〜平成9年

古川原実氏が5代目の会長として
永きに亘りその手腕を発揮、東十条駅近くで建設会社を経営しながら

役員たちをここで集め会合を開いていた。

これからと2代先に寺泊会を継承する橋本は、まだ40代後半で、当然の事ながら最年少だったが

案内書封筒あて名書きになると、手書き入力が続いていた頃である。

文書類は全て手書き文字の書類で、会員の住所一覧も初回から継承してきた遺産を

使用しており、ここで初めてワーブロなるものを提案し、住所ラベルと一緒に持参したところ皆が驚く始末であった。ここに電子媒体が誕生の感があった。

豪気で面倒見の良い性格の古川原会長のもとには、歳暮時期になると会社応接間には数え切れないほどの進物があった。

仕事がら気の荒い職人さんたちを束ねたりする事に長けており、いつも正義感を貫いておられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会長職退任後も平成16年度の第49回大会までご夫人を伴い,毎年欠かさず熱心に寺泊会に参加され、名誉会長さんとして大会をゆったりと楽しんでおられた

 

                   ◆・・・◆

6代 平成10年〜16年

更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。

三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている英寿製作所@Hp
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。

 

 

 

第6代会長が務めた成時代中頃までの、宴席はテーブルに灰皿が必ず用意され、食事中でも喫煙が当たり前の光景であった

寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代。会長の三上氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づて行くことになった。

 

7代 平成17年〜23年

創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ

■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。

■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの審査登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きな橋本は、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当するなど、お馴染みの顔であった。ところが十日町や糸魚川など上越地方出身者のように、舞台に出て演じるような民俗芸能好きが、寺泊出身者には少なく、毎年芸能大会の舞台で司会を務めながらも、一度も寺泊人の出演を舞台で紹介することがなかった。近年、長岡市地域振興課の協力で、ようやく郷里の酒造唄に辿り着くと、早速、寺泊会の交流会や、新潟市内のトキメッセでのステージで披露する機会を得るのであった。寺泊会の宴席に若いアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。



■東京寺泊会だよりの制作開始は、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局を経て日本へ戻ったころであった。何人かの周辺のロビー活動し、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の多忙な時間だったが、

 

 

社食で冷しラーメンを食べながらも、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。寺泊会だよりは、もともと寺泊に関した、歴史文化芸能や行事の宣伝のつもりで発行していたが,

実際は寺泊に関心のない読者も相当増えて、著名作家や画家などもことあるたびに取入れ、いわゆる飽きさせないにはどうしたらいいかを、常に考えて制作するに至った。ネットの威力を十分甘受しており、これほどまで読者が増えるとは想像もしていなかった。

(写真掲載・番組編集部許諾済)






 

■だが、東京寺泊会だよりは斬新な発想でなく、その源流は60年前、初代会長小林源次郎が提唱した首都圏在住者向け年忌情報などを伝える「寺の、お檀家だより」である。時代は変わってネット配信の利用で、印刷費なし、郵送費なし、要るのは記事制作の手間と好奇心、僅かな感性と古い資料集めに使うハズキルーペだけ。これが、B型人間に合致する。誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理。文芸誌会社からは東京寺泊会だよりを、出版させてくれとセールスが来る。だから寺泊にこだわらないで多様な原稿を作ってくれとお願いされる始末。まさか日本全国で検索ワード知名人になるとは。

■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけワンクリック100円でも課金できたら、たちまち5000万円10円でも500万、1000円なら5億になる計算では、と提案してくれたのは外山健太氏であったが実現しなかった。

IT業界とは、これに似たようなプロセスアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、6本木の高層ビルで役員会を開催できる長者会になり損ねたこてねと度々役員会の話題になっている。


■橋本は、寺泊出身の杜氏組合を寺泊会に招いたあたりでは、自らの会はもとより、OB会、同期会、同窓会、県人会、良寛会など大小雑多な会の雑務をこなしていた。しかしながら7代会長としての持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかった。郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である。従って任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したが適任者は名乗り出ず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に会長をお願いしようと思案していた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて中止せざるを得なかった。待望の新会長が誕生したのはその2年後となった。

 

8代 平成24年〜27年


■平成24年4月の寺泊会総会で第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。



■新会長の小林はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・


小林会長は菜の花の咲く頃、寺泊会役員たちを自宅に招待し、食事のあと約3千坪も有る裏の敷地を案内してくれた。

公式サッカ―グランドでも千八百坪も有ればできてしまう。

この敷地に観客席を追加すれば、プロサッカーチームの根拠地になり、アルビレックス新潟ならぬ、テラドマックス新潟が誕生したかもと、外野席からの夢の話が止まらない。

 

事実小林会長さんは、写真の後方に建つ民家近くまで土地を所有しておられ、専業ではないが、季節の野菜などを作ったり、近郊の小学校児童達には、芋ほり体験場として提供してもおられた。

 

一方では広大な敷地において、小平稲門会のイベント会場として、大餅つき大会を開催し、母校の先輩・後輩たちをよろこばせてもいたのである。


 

さて会の運営には独特の意見をお持ちで、毎年恒例となって長年続いた、寺泊会全員の集合写真撮影をこの時から廃止して、第8代時代が出発した。

■会長を補佐する副会長職には、外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。


 ◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ
  ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催している。
  通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され
  毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。

9代 平成28年〜29年

・・
平成28年4月。寺泊会第9代新会長誕生へ。


寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生となった。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中朗報が飛び込んできた。

平成16年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになったのである。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりを、かなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間がかなり犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。


行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。

就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山氏は、かつては大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
在職中には社長顕彰の常連であり、重役会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今
につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。

■ところが現職会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。


寺泊会会長としては第9代目となる外山健太氏

◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は3名だ。
他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会である。

◆外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りにに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさには感心せざるを得なく、観光協会の表彰ものである。

◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えても、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、皆が70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまない。どうよ。

                                 ◆               ◆    ◆         

 

  平成29年4月 9代大会長 外山健太逝去 在任僅か2年

 

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10代 平成30年〜令和

以降は65周年記念時に掲載(2020年4月完成予定)

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