◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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寺泊会創設者小林源次郎物語

 

 

・・

(創設者に感謝しながら、65周年記念大会まであと1年)

・・・・・・・・・・・・・・

 

初代 昭和31年〜33年

寺泊会創設の父・小林源次郎の夢

 

 

 

昭和29年(1954)大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。

 

 

 

 

 

今から丁度100年前

  祝言の儀を挙げたのは大正7年(1918年)7月である。

嫁さんは寺泊の磯町・本間定吉氏長女の幸さん(16歳)である。

波乱に満ちた長年月を共に忍び生涯一緒に協力してくれたことが、これに勝る満足は無かったと自身の回顧録で述べている

(祝言当日の小林源次郎氏  写真提供=ご家族)
 

序章

これは功成り名遂げた男の想いが

東京寺泊会創設に至るまでを、ご家族協力の許に

史実考証を加えながら制作したドキュメンタリー物語である

 

コンセプト

ふるさと寺泊町の平凡な日常ニュースを

東京にいる仲間に毎月伝える新聞を作りたい

 

コバゲンは年を重ねるたびに「寺泊の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。

日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職に

その思いが届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんの年忌情報などのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。

「資材は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。


小林源次郎氏の次なる野望

やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「お寺につないでくんなせ」遠く東京から

寺泊郵便局の2階にある女性交換手に電話が入った。

当時の電話は、まず郵便局2階交換室の装置にランプが点灯

交換手はそこにジャックをさして寺泊局ですがとつなぎ

「○○番につないでくれ」とか「○○さんにつないで」との声を聞いてから

交換手が相手の電話を呼び出してやっと互いに話が伝わる

そして長距離電話(市外局)からだと3分の通話料がやたら高く

寺泊の町中探しても、電話機のある家はそう多くない

 

小林氏が経営する工場から、聖徳寺への電話はまだ続く。
「寺泊出身者の会やるすけ、

そっちからも案内書出してくれや」
聖徳寺の窪沢住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこ、ねえかね」。

//
更に小林家の年忌情報から、檀家さんの婚礼話しまで、賑やかな会話が弾んだ。

                (^^♪   

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・・・・・
住職は電話を切った後しばらく思案し、さて初回寺泊会の場所を
どこにしたら良いもんかと、浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

 

(後年開催された、畳の座敷に上座有りは即ち典型的な寺泊会お膳スタイルのイメージ写真)

   

 


ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

 

 

(後年開催された、畳の座敷に上座有りは即ち典型的な寺泊会お膳スタイルのイメージ写真)

 

 

(後年開催された、畳の座敷に上座有りは即ち典型的な寺泊会お膳スタイルのイメージ写真)

 

「東京寺泊人会」の幕開けへ
60年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさんにも1通の
案内書が届いた。


これが最初のハガキに書かれていた文言である


「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
  期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
  会 場 浅草・西徳寺地下堂
  会 費 百円也

・・


これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来60年以上もの間、
10代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。


下鳥ハルさん(旧姓・新谷)はお子さんがまだ3歳の頃で、
長女と一緒に参加した30代の当時を昨日のように思い出す。

ご本人は2019年には100歳を迎えられるので、取材申し込みしたところ

「どうぞいらっしゃいと」のお元気な声で返してくれた平成30年の暮れである。

(下鳥さんのインタビュー記事は、2019年春以降掲載予定)


久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じってご婦人たちの熱気が伝わってくる。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。


自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに後方に立たれる。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。


 

 

 

 

大正末期から戦前戦後と続く

小林源次郎氏の経営信条は一貫している。

「人の損を自己の利益にするな」・「損をともに」

が常に継続条件である。

 

大戦直後の長者番付

      

   

内閣府における億万長者(当時は千万長者だったろうが)の初版発表は昭和23年(1948年)である。貨幣価値が1/100の頃だと言われていても、年収ベースで稼いだおじさん達トップの最高額は3500万円であった。職種は織物販売で稼いだようだ。現在の35億円相当か。昭和22年中における当時の税率は75%となっていた。

トップは、世間の必要物資であった「カヤ」や衣類材料「人絹」で儲け日本国トップになった。10位となると1336万を稼いだ毛織物業であった。

 

◆配給や公的支給品だけでは間に合わず、良く耳にした、闇市(ヤミイチ)があっちこっちで行われ、官憲として働く取り締まり官だけではとうてい間に合わない。コレが戦後の、どさくさ時代の成金(ナリキン)を生む事となったとされる。

真っ当な仕事に取り組んでいる、小林源次郎氏とは全く異なる別世界では、社会倫理が確立されない当時での犯罪は後を絶たない

◆越後でも、窃盗・強盗からヤミ米食料横流し・無許可販売・食管法違反事件など、越後でも多発し違反者に対する逮捕拘留で検事も休みがない

 

◆インタビューファイルから、新潟地裁検事の経歴を持つ、越後赤塚(現新潟西区)出身で、戦争直後の検事だった真田康平氏によると、戦後世間皆の心が乱れ、生きるために犯した罪を断じる難しさに加え、裁く手段の荒っぽさに溢れていたのだ、と語っていた。現在と違い、逮捕拘留したら、早朝から深夜まで時間無制限に取り調べたり、法廷に立つと被告が同じ村に住む知人だったりと、犯罪者の多さに悩まされる事もあった。

同氏は退官後に弁護士として活躍されていたが、すべて知見の糧になったとも懐古しておられた。

 

 

寺泊会創設者が戦後初の

全国長者番付に登場・東京では3位

「人の損を益とするな」の強い信念で日夜熱心に仕事に精を出し、

 利益を出した小林源次郎氏の名前も長者番付に登場した。

 

だが番付に登場した多くの長者が、真面目に申告していないことはすぐばれてしまった。

彼らは過少申告と指摘され修正し、多額の追徴課税を支払わされたのである。

小林だけは、信念で稼いだ、自分の収支申告に、間違いはない筈だから、この課税額はどうもおかしい、と税務官に異を唱え、全てを、再計算をさせた結果、何と減額処置を受けたのである。日本の長者番付で,最初に減額処理をさせたのが寺泊人となった、

 

長者番付発表考察

小林は戦後初となる1948年の高額所得者番付で、全国13位となり、東京では3番にランク付けされた.

税額の570万は、現在の貨幣価値にすると数億円の課税だ。(同氏の自伝より)

即ち小林源次郎氏個人(当時商店)が前年(昭和22年)手にした現金が億単位となると、当時の紙幣で1万円札はなく、千円札も偽札事件で印刷停止中だったから、100円紙幣(百円札)しか使われていないはずだが。

さぞかし札束が、山のように積まれていたのであろう。

 

ここで組織を法人格にしようと決心し、「小林金属産業株式会社」として、法人登記に踏み切ったのである.

資本金の「19万5千円」は平成時代なら初任給にも満たないが、

終戦直後の会社法で、認められていた法人資本金の最高額だったようだ。

現在では想像もできない金額が、戦後日本復興のスタートである。

 

◆この翌年の番付1位になったのは、貸金業で巨額の利益を出した

森脇将光で、昭和経済の歴史に良くも悪くもその名を残した。

 

物資少なき時代でも自身の会社では、野球部があり、ここには当時の寺泊町出身の若者たちも就職しており活躍させた。


 
 

法人格にしたあとも企業成績は著しく伸びてゆく。翌年には次男の喬嗣氏(後の社長)を慶応普通部に入学させた。

2年後には資本金も400万になり、当初の社名に源の文字を追加し、「小林源産業株式会社」とした、

 

やがて資本金1025万、年商20億近い会社へと変遷した取引先を日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)に限定し、経営理念はぶれることなく、銀行からも絶大な信用力を付けるに至ったのである。

 

コバゲンは自身の経験で独創的なノウハウが有り、鋼材・屑鉄材調達には市場を独占していた。
 

凡人経営者だったらこの材料を顧客=日本鋼管の競合先となる大手企業に併行販売してしまえば、短期間しか持たないかも知れないが、利益は2倍3倍と容易に拡大するので、これを選択するだろう。

これを良しとしないコバゲンの経営哲学が実を結んでいた。鋼管の経営層も

「あなたがわが社にそこまで本気なら、当社も今後浮気することなく、コバゲンさんの会社から仕入れましょう」と言っていたに違いない。

ふるさとの中学校へ自動車を寄贈

  純粋に喜ぶ機械好き少年たち

昭和30年初めころ、小林の郷里である寺泊中学校では、生徒たちの間でにわか話題になった出来事がある

自分達の学校に何やら自動車が寄付されるというではないか。噂は町中に炎上し、そして本当に実現したのである。

玄関中央にある掲示板を見ると「自動車クラブ員募集」の張り紙が大きく張り出され、部員を募っていた。この掲示板は先週までは

「皇太子ご成婚」の見たこともない大きな、活字見出しの全国紙1面がはってあったはずなのにと思いながら、張り紙を眺める少年たち

昭和30年代初頭、市場にはまだ乗用車が少なく、国産自動車の多くは小型3輪か4輪車中心となって、国内総生産台数の60%も占めていた。

 

平成30年:厚労省発表の賃金雇用統計とは違って、信用できる統計で記録を残したであろう、年号前代の昭和30年度、自動車保有台数データによると

昭和30年度の自動車保有台数(全国総数)=約150万台となっている

・概算内訳

普通車=約16万台、小型3輪車=約43万台,小型4輪車=約9万台、

バス=約3万台、その他は、特殊自動車として保有台数の記録が残されている

即ち、このうちの1台が、三島郡寺泊町に来たことになる。


待ちに待ったフロントボンネット式小型4輪自動車が学校に届き、まるでロボットが転校してきたかの如く、取り巻いて覗く少年部員たち。

部員もそうだが顧問の先生も興奮気味。

 

放課後はグランドが自動車の構造を勉強する場となった。

顧問の先生は免許を持っていなかったので、移動には運転経験があり技術担当の宮村先生が操作し、グランドへ。後部オープンの小型4輪はクッションのききこそイマイチだが、楽しくてしょうがない。

部員たちはワクワクしながら、荷台に乗る順番をエンノー(じゃんけん)で決め、いざ順番が来たら、運転台の屋根の手すりにしっかりとつかまって、振り落とされないようにしていたもんだ、と懐かしく初代自動車クラブの少年たちが情報を提供。

情報提供者たちからの電話は更に続く。

室内にはニスを塗ったような木製で組み込まれた印象で、始動はセルでなく、正面からクランク型の棒を回した覚えがあると加える。学校から帰宅して夜フトンに入っても、H型構造クラッチの練習をしていたなあと、話は止まらない。細いボンネットにこれでもかと言わんばかりにせり出した大きなタイヤとヘッドライト、車は濃い緑色をしており、全くの新車ではなかったが、中古感はなかったそうである。

さすが60年過ぎた現在でも、自動車クラブでの強烈な印象を忘れていない、と感心するしかない。

 

初代寺泊中学校・自動車クラブ(後方矢印=寄贈された小型4輪自動車)撮影推定:1959年頃

 

                ◆◆◆◆

次は100年続く寺泊会を作らねば

 

昭和30年の小林源次郎、郷里への想いを寄付活動を具現しながら、そろそろ東京にいる寺泊出身者に声をかけ交流の手段を考え始める時期か、と考えるようになった。

これが東京寺泊会誕生の源として、徐々に拡大の途を歩みだすのであった。初回大会の昭和32年までには何回か寺泊町に行ったり下準備に余念がない。

 

 

 

 

 

自身の趣味は釣りと車整備と運転である。これでふるさと寺泊町へ何回通ったのであろうか。

しかし当時は、関越自動車道が開通していないから長いトンネルもない。デコボコ山道をほこりを巻き上げ、いざ寺泊へと何時間もかけて運転していたに違いない。ご苦労な話である。

 

 

 

さて聖徳寺の住職にも話をつけたし仲間達にも連絡した。かくして浅草の西徳寺での第一回東京寺泊会大会は大成功に終わった。

 

◆だがこの頃から夜中に時折呼吸が苦しくなり、目を覚ますことがあった。

いつもの事だろうとさほど気にもせず放置していた。小林はかなり前から、心臓障害と闘っていた。これが2年後の昭和33年に予期せぬ運命を迎えるとは、誰もが想像していなかった。

 


◆外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、高血圧症と心臓病がそれである。

事業拡大より息子の結婚の方が先だ

 

このままの状態で、もし自分の体調が更に悪化したらと危惧

商売は順調に繁盛しているし他に問題は無い現状だが

唯一、後継者問題について、深く心配する小林であった。

 

◆長男は1歳の誕生日を見ないで亡くなっていたので

次男にその将来を託していた。

だが彼は成人式を終えたばかりでまだ若い。

事業継承の前に、我が家の嫁とりだ。息子も結婚すれば

俺のように夫婦二人で支えあいながら、事業を継承してくれるだろう

   

 

ある日の夕食時、息子の喬嗣氏(後の社長)を前にして言った。

「お前だれか付き合っているひとは居ないのか」

当時次男はまだ三田校舎に通う大学生であった。

真顔で話す突然の質問にびっくりしながらも、当時丸の内にあった

政府系金融機関でOLをしていた東京出身の彼女の事をいろいろと親父に話した。

「女学校卒か・・、よし、お前、その人とすぐ一緒になれ」

即ち、彼女と結婚せよとのことであった。

 

何事にも、こうと決断したら実行が早い源次郎氏は

即結婚準備だとばかりに次の手を打つ。

せっかちそうに人さし指で、黒電話のダイアルをまわした。

まだ学生だった息子の結婚

 

晴れて華燭の典を挙げたのは、この日からそう遠くではなかった

若い夫婦は、互いに昭和11年生まれ。

喬嗣氏にとっては学生時代での結婚となったが、気も合うし、価値観も一緒である。

 

爾来、事業継承の多難さを二人で超えながら、平成16年に

喬嗣氏が亡くなるまで、息子は節子夫人と平和な人生を過ごすのであった。夫が故人になりやがて迎える令和時代になって、

やっと落ち着いた生活になりましたと、80を超えられている節子夫人は振り返る。

私も来年の寺泊会65周年大会にでも出てみようかなと語っておられる。(2019/4/16電話取材)

 

さて話は再び今から約60年前に戻る

小林源次郎氏倒れる

■昭和33年(1958年)正月

 

さて小林源次郎氏、一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、昼夜をかけ激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となってしまった。


その後は一時回復に向かっていた。しかし容態が急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。

ありし日の小林源次郎氏

小林は生まれながら持ち合わせた溢れる経営感覚と商才を

青年期から発揮し、大正・昭和半ばまで全うした。


23歳の若年で八丁堀に事務所を構えた時代には

第一次大戦による市場高況期を利用、これを足掛かりに

伊豆半島下田沖での沈没船引き揚げ事業に係わり

スクラップした時を査定し利幅が見込めると感じたら

大手都市銀行、商社筋を集め売買交渉契約のセリを実施

これで1億(現行の貨幣価値換算)を超える利益を得て顧客を喜ばせながら

日本国に散在する廃材利用に貢献、何とこの船は

明治維新の動乱で沈没した新鋭型アメリカ船であった。

磯町在住の若い娘さんと祝言を挙げたのは

この後である。

◆「初回東京寺泊会(誌友会)」ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。

  

       ◆・・・・◆初代小林源次郎の項おわり◆・・・・・・◆

 

 

  ◆制作協力            (文中一部敬称略)

    写真関連:小林節子 様

        :古川原サキ様

        :下鳥ハル 様

        :聖徳寺  様

        :寺泊中学校 自動車クラブOB 様

      出典:戦後億万長者の盛衰(平凡社新書)

                        :小林源次郎・人生回顧録

・・・・◆

   

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