◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

スマホ対象の枠組みで制作していないがPCだけでのアクセス表示75万超、「角上」・「寺泊出身」OR「脳の学校」の検索が殺到する好現象。確かにテレビ出演の影響は大きい。
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宣伝費を惜しまなかった寺泊町の旦那さんたち

 100年前の広告


 ■ 
明治39年(1906年)9月刊行の「北越史料/出雲崎」は出雲崎町と良寛をこよなく愛した佐藤耐雪(写真)なる書家・歴史民俗研究家が著した、後世にとって興味深い歴史書で、340頁にも及ぶ「出雲崎町史」である。他に明治37年刊行の河合孫七著による「寺泊」編もある。寺泊町が人口3000人余りのころの記述もあり、北越史料誌に大きく掲載されている,
寺泊人にとって商家の宣伝広告が懐しく目に映る。日露戦争当時の歴史遺産的文書であろうか。

 
▼(資料提供・・東京出雲崎会/東條玉英会長)







当時の商家が扱っていた味噌醤油の広告から現在のコンビニ並みもあるから興味ひく。イセヤスさんこと、柳下安兵衛商店は醤油醸造を宣伝


一方の雄、ホンマさんは寺泊湊の味噌醸造を宣伝。昭和時代まで使用したロゴマークが懐かしい。



広告スポンサーはこの他にも、(ハマソ)濱惣さんも出していた。印刷技術が高度でないので、どの広告も赤一色で読み取りにくいのは仕方ないが100年前のカラー刷りである。ハマソさんの営業科目は。「和漢洋クスリ」「洋酒」「缶ズメ」「紙」「ガラス」を扱う総合商社風であった。この大きな店の裏は、結構深い日本海で、現在毎日多数が訪れる魚のアメ横あたりは一面きれいな海だった。

 

寺泊会の宴席で毎年威勢よく壇上に上がり、唄の音頭取りをしてくれる、河合忠治さんことカワチューさんの自宅裏庭には程良い高さの松の木がきれいに植えられており、庭の真下を見るとここもきれいな日本海であった。


 

 

寺泊は三島郡の都会とされ、野積は弥彦山下にある出雲崎から5里離れた戸数200軒の漁村となっている。

この「北越史料」雑は、発行が明治39年9月だけに、旧書体で書かれ、当然のことながら出雲崎に関する記述は、微に入り細に入る。100年前でも寺泊の広告スポンサーを募ったことを想像すると楽しくもなる。

ホンマ様もイセヤス様もカワソ様も、寺泊人は太っ腹でいい旦那さんと見受ける。

 

 

■さてこのあたりの時代考証と史話が得意な、夏戸の小越忠教先生に語らせたら天下一品の名人芸ともいえるだろう。先生の教諭時代はロジック回路が専門領域だっただけに、イエスとノーが明確で論理的に調べ上げないとなかなか言葉にしてくれない。想像の域でも記事にして公開する寺泊会だよりとは雲泥の差である。



ここに志田仏壇屋さんでも出てたら、寺泊衆のだんなさん、揃い踏みなんだが。志田仏壇屋さんの現社長がおっしゃるには、かの良寛が国上山から下りたあとの面倒を、味噌醸造で財をなした創業者が、寺泊で末世時期を引き受けようと申し出るつもりでいたが、忙しくて段取りできず、隣町の島崎に行かれてしまった・・とのことである。

東京良寛会も初耳の根拠ある逸話か。もしも良寛が本間家に居候して永眠されたら、寺泊の法福寺に祀られることになったであろう。妹のむらのお墓もあることだし。だが、本人の希望で照明寺がいいと言って、蜜蔵院傍に永眠されたかもしれない。かの貞心尼が、島崎から寺泊湊まであと一足伸ばしていたら、あまりの景勝地に惚れ込み、夕陽のひとつも眺めながら、句作に没頭してしまい、良寛介護もおろそかになったに違いない。寺泊会だより上での想像の話は膨らむと止まらない。(編集長)



 
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