◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

越後のいなか便りがアクセス顧客、遂に70、000件を突破中。東京寺泊会は、長岡市寺泊出身者ゆかりの方、関心のある方なら、全国のどなた様もご入会大歓迎。
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高橋孝一杜氏、2012年4月黄綬褒章を受章特集

 
 
     平成24年4月29日
高橋孝一・杜氏(68歳)に黄綬褒章。
銘酒「越乃寒梅」を経て「越乃景虎」酒造り。

東京寺泊会で酒造り唄を披露してくれたのは、2年前の2010年春であった。この年に清酒品評会・チャンピオン3連覇。更に同年秋には「現代の名工」として、厚生労働省から認定を受けた新潟県民3人衆の中の、ひとりとなった。時に66歳。
あれから2年.黄綬褒章に輝く。寺泊出身の杜氏は、全員が褒章該当者に値するとも言われている。酒造りにひたむきな情熱を捧げて50年以上の経験を持ち、出来上がった作品の品質は、個人の嗜好に依存し、甲も乙も付けがい。丁度、美人コンテスト世界大会にも似ている。皆さん眼が大きく背が高い。腰のあたりに余計な肉がないしプレゼンも上手で、髪も脚も長い。即ち一流の資質を持った者を集め、1等賞をつける審査にも似ている感がする。

高橋杜氏さん、最初となる酒造り修行の場・石本酒蔵では、頭(かしら)まで登りつめ、寒梅を造っていた事を知る地元の人は、そう多くいない。
◇2年前、高橋杜氏らをステージに迎えた寺泊会大会はこんな様子だった。
今レビューすると。



  

大会の模様は、新潟日報4月5日付け、日報ウェブニュースで配信、更に、同月6日発行の新潟日報19ページ、地域面でも、大きく掲載された。

     
 新潟日報ウェブニュース

● 55周年記念大会アーカイブ。
● 特別出演 野積杜氏など5人衆による酒造り唄   
                           
寺泊会創立55周年記念大会。東京おかみさん会を主宰する高橋和子さん率いる「おけさ会」の皆さま、大枚の、ご祝儀持参で、踊りの披露を賜り心より御礼申し上げます。県人会の芸能大会で、司会をさせて戴いたご縁でのお付き合い以来4年になるが、友情参加してくれないか,の一言に、快く即応して戴き大感謝であった。
  
     ▼
出演杜氏さんのご紹介
  
酒造り唄公演・杜氏さんと蔵元代表銘柄一覧                                                                         協力・寺泊酒造組合
            ▼ 杜氏{出身)  代表銘柄   蔵 元
会 長 藤井正継(野積)   〆張鶴      宮尾酒造{村上市)
副会長 高綱 強(野積)   自然郷      大木代吉本店{福島・矢吹)
副会長 高橋孝一{引岡)  景 虎       諸橋酒造(長岡市)この2年後、黄綬褒章
青柳長市(大和田)          宝 山       宝山酒造(岩室)
加藤儀兵  (野積)        笹 祝       笹祝酒造 ( 巻)

         
酒造り唄音声笹祝酒造提供


写真左から笹祝〆張鶴宝山自然郷景虎を産み出すスター杜氏さん
職場では近寄り難い杜氏顔でもこの日は柔和なおじさん顔でお話させて戴きました。


それぞれの蔵元の最高責任者として、(写真中央左側が高橋孝一さん)手掛けた作品を持参した杜氏さん推奨の銘酒をテーブルに持ち廻り、会の出席者全員に振舞ってくれた。有難とうございました・・東京寺泊会一同。
この翌日となる5日には郷里寺泊支所を会場に、清酒品評会が開かれ、55周年記念大会に出演された引岡出身の高橋幸一さん出展越乃景虎」諸橋酒造が3年連続の優勝を飾った。日本を代表するスター杜氏をゲストに抱く東京寺泊会の素晴らしさを改めて実感する

優勝した「虎を」造る杜氏・橋孝一さは、東京寺泊会の平石國男・外山健太(現在両氏とも副会長)さんや風間幸恵さん旧姓三上幸恵さん(松沢町)とは寺中時代の同期生だった。互いに顔を合わせて目をパチクリさせながらの40年ぶりの再会を喜んでいた。



宝山酒造は野積から弥彦山を跨ぐ温泉地・岩室にある。ここの杜氏は青柳長市さん、ここで造られる年間1200石の酒造りに全責任を負う。自然豊かな村の蔵で、四季神酒を産み出す自信と誇りを、仕込み唄で披露してくれた。青柳さんは自身の名刺に弥彦神社おみきの杜氏、大きく銘記しておられる。
来賓としてお招きした十日町出身の弁護士・春日寛氏は,長年の宝山ファンである。青柳さんの粋な喉と唄を激賞。
今年九月開催の朱鷺メッセのステージでは、寺泊
酒造組合の出演が決定している。この芸能大会の司会には、東京寺泊会の橋本寛二が受け持つこととなった。(写真は仕込み唄を唄う青柳長市さん)


単純な動作なのに酒造りの匂いで充満

       ●       ●      ●

  
場内を佐渡おけさで盛り上げる東京おけさ会の姐さん達

友情参加の東京おけさ会 高橋和子社中6名は相川音頭で杜氏さんを前に、東京で味わう越後佐渡の代表的な民謡を披露今年初参加の、野積出身・青木重善様のスピーチは、「野積人の誇りとは」と演題を決めた当会からの直前依頼にも関わらず、ワラジ持参で、見事に素晴らしいお話しをされ、野積人の粋を感じる事が出来ました。
ご祝電感謝

小林清燕市長様・32号
昨年同様ご祝電を戴きまして、ありがとうございました。司会者より会場で披露させていただきました。来年度も鈴木新市長様へ継続されますよう、宜しくお願い申し上げます。
記念撮影に間に合いましたか


東京寺泊会の特徴は大会開始の合図が全員の集合写真である。大会の開催時間即ち写真撮影となるので皆さん時間通りに集合される。宴会はこの直後に始まるのである。
撮影の際に宴会場から移動し、ホテルの専用スタジオで行われる。果たして遠く離れた寺泊の諸は、この顔の何人をご存じだろうか。夏戸・大和田・本山・松沢町・上片町・上田町・荒町・白岩・野積などを出身地とする首都圏在住のオールスタッフのメンバーが参加した。4月15日に役員が手分けして、下記の御参加者全員に、この写真を送付致しました。
 男性会員    女性会員  
 相場要平 白岩
 小林秀雄 白岩
 高綱清庸 野積   下田信子 上片町
 外山健太 上田町   浅見幸子 荒町
 橋本寛二 上田町   石井光枝 蔵場町
 平石國男 小川町   寺坂寛子 松沢町 
 外山 格 上田町    冨田範子 金山
 松井繁男 白岩    笹平京子 松沢町
 早川賢市 蔵場町   田中桂子 松沢町
 松永達一 本山   越智綏子 大町
 廣田 勝 上荒町   安部セツ子 戸崎
 大井長一郎 上片町   大石裕子 佐野家
 小熊春夫 七ツ 石   田尻加代子 湊町
 竹田秀雄 磯町   風間幸恵 松沢町
 小越弘栄 夏戸    小越文子 萬善寺
 近藤半治 夏戸    
 石原勇一 蔵場町  
 内山 清 大和田  
 小林孝之 蛇塚    
 青木重義 野積    
 
   
  来賓 順不同敬称略
山崎和夫 長岡市地域政策監
長谷川知雄 寺泊・支所長(夏戸)
古川原直人 長岡市議会議員(野積)
山田省吾 長岡市議会議員
山田栄三郎 寺泊観光協会長
大倉英雄 寺泊観光協会副会長
伊藤  勝 出雲崎会副会長
春日 寛 東京十日町会会長
矢部正二 北区新潟県人会会長
山田 寛 新潟県人会理事
堀 優 弥彦村人会会長
武石賢次 弥彦村人会副幹事長
平出英雄 東京分水会会長
大島芳昭 東京分水会副会長
高橋和子 東京おかみさん会会長
吉澤米子 新潟県人会常務理事
三上喜久治 東京寺泊会相談役
渡部作次 東京寺泊会相談役
落合美三重子 新潟県人会常務理事
細谷シズ 新潟県人会理事
外山勝志 明治神宮・名誉宮司
佐野久治 つゞれ屋・会長
新潟日報社 井川恭一支社編集部

フィナーレはカラオケ・ トップバッターつゞれ屋・会長 ・ 93歳の佐野さんが音頭とり















寺泊酒造組合藤井正継会長が熱唱応戦















笹祝・杜氏加藤儀兵さんも楽しそうにマイクを握る


「自然郷の杜氏」野積の高綱  強さん・・・寺泊会開催の後日に行われた、平成22年5月の役員改選で寺泊酒造組合の会長に就任・・・は仲間の唄に手拍子で声援を送る。この法被姿が素晴らしい。麹と蔵の壁を想像させるコージ・ホワイトと襟元の対比がたまりません。
自然酒にこだわる、福島県矢吹町にある大木代吉本店の銘酒「自然郷」。矢吹町と言えば、元ジャイアンツの中畑清の出身地である。同氏が次期参院選に「たちあがれ日本」党から、出馬するのでは、との話題で持ちきりらしい。高綱会長の酒造り唄は高音で延びがあり、実に味がある。また達筆で、素晴らしい書体で書かれる手紙は、大変価値がある。寺泊の杜氏さん達の特徴として、皆さん全員が相当な達筆者であることだ。これは、銘酒を飲まれた顧客からの便りに対する礼状などを、お書きになる機会が多いので常日頃訓練されているからか。
中畑氏当選の暁には自然郷で乾杯かと思われたが、残念ながら当選は叶わなかったが、プロ野球横浜DeNAベイスターズの監督としてメディアに再登場の人気者である。
                                                                     
高綱さんはこの1年後の2011年3月11日・東日本大震災で酒蔵が被災。倒壊した酒蔵のなか、現在までに生産体制を建直し、人気の銘酒・自然卿を造っておられる。
ボランティアで寺泊会出席のため上京される予定である。

 
寛風庵最新号
 

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福島原発事故と寺泊出身・福島県・酒蔵の杜氏さん

 
寺泊出身の「高綱 強」さん・地震・原発と杜氏人生 福島の銘酒自然卿を造る杜氏さんの特別講演会


2012年4月8日現役スター杜氏・高綱 強さんの講演会は終了致しました。2011年春の震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。  福島の地酒大木大吉酒蔵の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さんの事を皆が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んでしまったのだろうかと言ってたそうである。馬鹿いうな。おれは仕込み樽にホコリが入らないように、養生していたのさと堂々としたものである。

その2011年3月11日.一億総日本人の誰もが、重い経験を味わった。ショックを受け脅威におののき、怒り苦しんだ。僅か1年余りの時の経過で、これから逃れられるほど軽いものではない。
映画でしか見れなかったような、浪に飲み込まれる家屋と失われ行く自然。メディアは、これを映像にし、繰り返し流し続け、人間が受けている、現実の悲惨さを報じている。家族を失い、建物を流出。取り返しのできない惨事。加えて、福島の原発事故。格納庫には、酸素がないので、水素だけでは、爆発しないから、安心ですと、時の総理大臣に説いたお仁は、やがて更迭された。時折、比較される言葉は、チェルノブイリである

水素爆発2日あとのウクライナ版プラウダ紙でもこのショッキングな写真を大きく取り上げていた。
平成の放射能製造マシーンは、このときから、半減期に30年を要する、セシウムを飛びちらし、まき散らし続けたのである。
気ままな風に乗って、100キロ以上離れた関東圏以南迄運び、雨によって地上に堆積、もはやISO環境目標だの、京都議定書だのといったレベルではない。先ずは、体内細胞分裂の盛んな、幼子から、目に見えない放射能の吸収を防ぐ事が肝心である、と評論家は言い始めたが。20012年4月に入って、初めて放射線レベルの許容基準値が改正された。



花火工場爆発の、火の粉程度しか考えていなかった我が国は、近隣住民だけを逃げろと、避難させたころの写真だから怖くなる。

毎日一緒に日本で仕事をしている、ウクライナ人は、25年前にお父さんがチェルノブイリにいた。彼も原発で働く技術屋であった。同国の新聞は、今回の日本の事故をどのように報道しているかを、新聞を、見せながら説明してくれた。一面記事で、東京電力・3号機の水素爆発を報じたが、当初の見出しで見る限り、重篤ではないような表現も、炉体容器そのものが爆発したチェルノブイリに比較すれば、との見解もあるそうだ。以降の新聞では[フクシマ]の文字が消えなかった。
科学が進んでいると思っていた、日本で、相当、古い装置が稼働していたのかとも、疑念を抱かせた。今振り返ると、GE又はWHの指定で、米国から輸入した、圧力制御機器や温度スイッチ,、リミットスイッチ、水面計など多数の機器を、この原発に納入した。来日したメーカーの技術者と、製品説明のため、何回か通訳として同行し、現地構内にあったGEのゲストハウスに泊めてもらったのは1970年の初め頃であった。

福島県では万が一の原発事故が起こる前の、放射能漏れを国が想定していたので、東日本沿岸海域に、多数のモニタリングポストを、設置してもらっていた。津波さえなければ、測定機器は、破壊されることなく、この写真以降の、放射性物質の飛散状態を、正確に強度と、分布をとらえたのであるが、残念ながら数機を残して壊滅。残された僅かな機器を使用して、大学・研究機関で解析中である。事故がない時に、モニタリングしていたのに、事故が起きてから測定できない神の仕業は、あまりにもむごたらしい。20箇所あまりの、モニタリングポストは壊滅したと思われていたが、やがて学者の執念で、この内の1か所にあった機器が健在であった事が判明し、今これを使用しバックデータを分析中である。

それと東京寺泊会とは何の関係があるかと思われるが、ここに示したのは、日本酒を測定した放射能レベルである。フクシマ原発の風評被害で、同県で醸造された日本酒の売れ行きが思わしくない。そこで蔵元が、放射能の影響がないことを、分析機関に依頼測定し、結果を公表している。セシウム・ヨウ素共に含有していなかった。


蔵元の社長さん(左)は、放射性物質含入ナシの測定データを手に、どうぞご安心くださいと、呼びかけておられる。

実は、ここの杜氏さんこそが我が寺泊出身の高綱
強氏(野積)である。福島の銘酒・自然郷の杜氏さんだ

昨年新潟県人会100周年記念大会では、朱鷺メッセ(新潟市内)で、見事な酒造り唄を披露し、55回大会の2年前にも、寺泊会のステージで唄ってくれた。寺泊酒造組合の会長さんでもある。

我が寺泊会では2012年4月8日の第57回東京寺泊会の会場で杜氏人生を語る特別講演会を企画。

3月11日の東日本大地震で酒蔵は倒壊。仕込み樽も横倒しとなる環境の中でも、蔵の伝統を守り酒造りを復興させた。

高綱さん,何とか4月8日の寺泊会大会で講演を願いませんかと、手紙を出したのは、昨年秋の事であった。「何とか都合つけようや」と2012年4月8日に開催する、第57回東京寺泊会において記念講演にこぎつけた。逆境下での酒造り奮闘記を、たっぷり語ってもらう予定である(於・芝パークホテル)。
              (酒蔵の写真は大木大吉酒造さんの動画より)
 

                                                  ▲
酒造り唄の名手・高綱 強・杜氏(写真上)

 第57回東京寺泊会大会は、4月8日()盛況のうちに終了致しました。
 

福島県地酒・自然郷 大木代吉(おおきだいきち)本店宣伝版より

 ■創業は明治維新をひかえる慶応元年(1865年)。大木代吉本店のある福島県西白河郡矢吹町はその昔に奥州街道の宿場町で、皇室のご猟場町としてもさかえたまちです。
 ■この矢吹町は中畑清監督の出身地で、三つの河に囲まれる水質・地質に恵まれた地域で、地価から汲み上げる仕込み水は口にすると柔らく、瑞々しいあじわいがたのしめます。

 複合汚染が社会問題となった昭和40年代には、環境保全や、ひいては酒文化の復権の考えから純米酒「自然郷」を発表。篤農家との関係を深めながら米作りに精力を傾け、現在は契約栽培や60aの自営田を社員による酒米作りに取り組んでいます。

 また昭和52年に日本の食文化たる酒・すなわち料理酒造りに着手。醸造から造られる100%安全な調味料・本格派料理酒として取り組んでいます。「玄人仕様」をモットーに醸造の可能性に挑戦し、日本の古き良き食文化を次世代へついで参ります
   (記事はネット通販業者のHPを転載させていただきました)

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◇ 浅草の殿の歩んだ人生94年

2012年4月17日・満94歳
佐野久治さん逝去
 

弟57回東京寺泊会も無事終了し、役員反省会も終え一息ついている頃、佐野久治氏逝去の知らせを受けた。東京寺泊会の名誉顧問として、いつも案内の出欠はがきを、誰よりも早く頂いていた。三月末に、体調が悪いので、参加できないのが残念とのお電話が、最後の御言葉となってしまった。いつも、多額の寄付を賜り、宴席では真っ先にカラオケを唄ってくれていた。また、会にはお孫さんの裕子様をお連れし、佐渡おけさの踊りになると、熱心に鑑賞されていたことが印象的であった。奥さまを昨年亡くされ、浅草在住で同じ町内会の樋口孝四郎氏(クロスター会長)と、慰め会をやろうかとも話していた所であった。樋口氏所有の浅草雷門近くのビルに久治さんとお邪魔し、墨田川花火を観賞したこともあった。永眠されたということは、もう二度とお声を聞くことも、寿司屋さんに二人で行くことも、できない事である。非常に残念で寂しいものである。ご遺族からは、「私共は心淋しい思いではございますが、祖母と天国から見守ってくれていると思っております。」と心境を綴っておられた。尊敬する殿を、お悔み申し上げるとともに、故人のご冥福を心より、お祈りいたします。九四年の人生を、まっとうされた浅草の殿と、平成24年4月17日・桜の季節が、永久の別れとなってしまった。     合掌               


 
ありし日の講演会追憶抄
 

第52回・東京寺泊会大会
浅草在住の呉服商「
つゞれ屋」会長・佐野久治さん(磯町出身)に
特別講演をお願い致しました
ご商売の話、浅草そして向島・神楽坂の花柳界のお話など、
たっぷりと語って頂きました

プロフィール
昭和8年 18歳で上京
浅草で呉服業の世界に
昭和16年 入隊・4年間軍隊生活を送る
昭和21年 戦争で消失した浅草店舗再築
昭和25年 銀座進出・土地購入

つゞれ屋の商権を獲得
昭和26年 朝鮮特需・着物ブーム到来
日本はモンペ時代を脱する
昭和27年 日本橋に店舗購入・商圏拡大
 
「高級呉服専門店」稼業一直線
昭和46年 東京呉服専門店・連盟会長就任
昭和60年 5期10年間務めたあと辞任
昭和56年 全国呉服専門店連合会会長就任
昭和60年 2期4年間務めたあと辞任

東京都養護施設収容の孤児(7歳及び5歳児)に
お祝い着250組贈呈。昭和37年以降毎年継続。
昭和58年 鈴木俊一・東京都知事表彰 
平成元年・勲五等瑞宝章受賞

  平成16年日本橋三越本店新館、三越グループと共同建築
  
平成 22年4月16日、浅草の鮨屋「橋口」で、我々に55周年記念大会の労をねぎらってくれた。その会食後移動し、三越新館の一階に構える自身の店舗日本橋店を案内された佐野久治会長93歳は、、銀座4丁目の店舗にも連れて行って下さった。日本橋店の2階には豪華な作品で溢れ、顧客同様の懇切な解説を賜り、日本文化・和が呈する素晴らしさを堪能することができた。この時の佐野久治さんはまだ九二歳であった。

佐野久治の名誉にかけても、作品として後世に残せるものにしたい、と長い間この哲学を変えてはいない。
   共同オーナーとして建てた123456.JPG日本橋三越新館フロント写真
       


日本橋店の2回サロンでは、絢爛な作品が訪れた者を優しく迎えてくれる。寺泊人で良かった

つづく▼
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フジロックに最適な宿発見

 
101回目の通常総会
の記事が何故か最近検索数激増である。これは郷里出身の人気キャスター・大越さんを寺泊会だよりで紹介した直後の現象に酷似しており、全国で寺泊会に関心が有るはずないのにと思って、検索ワードで分析したら、その理由が判明した。ロックの季節到来が、寺泊会だよりまで飛んで来たのだ。

 
フジロックの宿で検索数激増
 ■2012/7/27-28-29

来場者数が10万を超えるロックフェスタは、アリーナや、ドーム球場の出現で、今や珍しくないが、15年の歴史を持つ、このフジロックも、略称そのものが登録商標故に、商売として第三者が勝手に乱用できない。当初は2日コースで観客数3万人からスタートし、6万になり昨年は、3日間で12万余りと発表された。娘を天神平(富士山中腹のスキー場)まで、車で送迎した頃が懐かしい。その名のとおり、富士山の中腹にロック会場が有った。だからフジロックというのかと、15年前に納得していたが、今、会場を移しても名前変わらずである。台風の心配さえなければ、富士山コースは、絶好のドライブウェイであった。御殿場駅から、バスで会場へ行くファンも多かった。

フジロックなる野外音楽会は、会場を静岡県のスキー場から、東京を経て、越後・苗場山に変えた途端人気沸騰。スキー場のド真中に苗場プリンスなる、巨大なリゾートホテルがあるのに、ここに予約できないのが常識となり、ホテルに入りたかったら、背広を着ない業界人になれと言わんばかりである。おかげで、7月末は、会場からかなり離れた民宿や社員寮、老舗温泉宿まで満員となり大賑わいである。

三国街道の老舗旅館・貝掛温泉は、雰囲気良く、温泉場に一軒しかない事が幸いしてか、露天風呂を中心に旅番組で必ず顔を出している。若女将の、テレビ慣れした紹介も楽しい。

静寂の三国街道に潜んでいた、山賊が出たころに、いきなりフジロックの大音響が轟いたら、さぞかし超仰天し腰を抜かしたに違いない。7月後半は台風、低気圧と豪雨でも、ファンは集まる。夏晴れにしてやれと、天に言いたくなるが、人気アーティストの生音を、聞けば、皆満足した顔で帰ってくるから、雨でも風でも問題なさそうである。越後の観光協会長も大喜びであろう。


さて昨年東京新潟県県人会は、創立101年目を迎えた。日本国の通常国会は、今年が177回目だそうであるが、財団法人・県人会の、101回の定時総会、寺泊会も所属する、総務委員会が取り仕切って、賑々しく、執り行われた。
毎度の準備に馴れた委員。総勢20人は、この日が楽しみである。第2部懇親会を終えたあとの、打ち上げ会・会場を近くの割烹で予約したうえで、101回目を迎えた。

新潟県・観光協会・会長さんが身内の一大事として、越後の旅館へどうぞと集客協力要請

新潟への観光PRをしながら積極誘致

今年の御来賓は、社団法人「新潟県観光協会会長・高橋正」氏が引き連れた「旅館組合の野沢幸司理事長」をはじめ、「旅館の女将、若女将」さんたちであった。

大震災後に、越後の旅館へはキャンセル続出、
総数12万件のキャンセルは、越後の宿の一大危機である。自粛もいいが、新潟県の宿の良さを全国にアピールしてくれと、新潟県知事・泉田裕彦氏に訴えておられた姿が、先日のテレビで紹介されていた。
そういえば、今春お会いした際頂いた、知事さんの名刺にも、ユニークなロゴが書いてあった。

さて、押しの利いた声量を持つ、新潟県・観光協会会長・高橋正さんが仕切る引率者さんたちの紹介で、第2部の懇親会は始まった。
かつて、新潟市議会で主流・半主流を取りまとめた、議長経験があるだけに、積極性ある態度ながら、物腰柔らかく、その話しぶりが、大変魅力的であった。

名物弁護士さんの、あいさつも、楽しい。今年のテーマは、100周年記念誌の、販売に関する取り組み方の、意見陳述であった。
私見としながらも、100年だろうと500年記念誌だろうと、どんなに立派な装丁と構成であっても、所詮、作り手の自己満足でしかない、従って、販売の取り組みには慎重性を要する..と弁じた。
会場の参加者の多くは、何らかの会の、会長か幹部で、何冊かの販売責務がある。慎重に聞いていた。ちなみに寺泊会は、20冊を手配したが、残りあと4冊の買い手を探している。

堅いお話はともかく、越後の旅館組合を代表して、奥湯沢の旅館・貝掛温泉の若女将長谷川秀美さんも、5代目の主人を支えながら、温泉来訪大歓迎のメッセージを発していた。苗場スキー場周辺にある、民宿の倍以上の宿泊費も、泊まる価値十分にある。
全国「温泉湯宿を守る会」のメンバーとしても活躍している。

東京寺泊会からの提案であるが、夏の「フジロックフェステバル」で、まだ宿の予約がとれていないファンは是非、苗場に近い、ここの温泉旅館も検討してほしい。

■御存じのように、毎年苗場プリンスは、予約困難、周辺民宿もすぐ満杯になる。
会場ゲート近くへの専用バスを用意させたらどうか。若女将の秀美姐さんに相談したら・・・。その予定はないが、いつだったか、著名アーティストと、露天風呂で一緒になったファンが大感激したこともあったそうである。


那須の温泉に行くならこのお方を紹介する。県人会相談役の横野寅雄氏である。東日本大震災でも、宿の地下層の岩盤強く、びくともしなかった由。
その名も有名な・五ツ星旅館、掛け流し温泉「大鷹の湯」の経営者さんが越後人である。
後方は、参加者と名刺交換に忙しい、新潟県東京事務所・池田幸博所長である。

総会議題の1〜4号議案も無事可決され、2部の懇親会終了後は、予定通り、総務委員会の打ち上げ宴会を上野・御徒町駅近くで開催。総会も終了し、ホッとしたのであろう、お偉いさん方は、県庁から出席された、特別ゲストを交えて痛飲。越後人は本当によく飲む。都会に住んでいて.越後出身ですというと、必ず「お酒は強いんでしょうね」と問い直される。
年金の多寡から退職金の差異にかかわらず、同等に杯を交わしながら、思考衰えず、他を詮索しない豪放な70代達と混じる、ひと時は、実に楽しいものである。県人会を退会した平成24年の総会には、懇親会の司会をするお座敷もかからないので、当職としては、他人事になっているが。



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越後の画家・藤井克之・斎藤順生・橋本直人さんを御紹介

 
 
 藤井克之墨彩画展開催のご案内

寺泊町はその昔三島郡(サントウグン)にあった。三島郡寺泊は今や、長岡市の一部の寺泊、と変わり、サントウグンで頑張っているのは、聖僧・良寛、生誕の地、出雲崎くらいのものである。寺泊町とは、海続きのお隣さんである。

西蒲原郡(ニシカンバラグン)、巻町も同じである。今は県都・新潟市の一部になってしまったが、かつては、西蒲原郡の中の町であった。ニシカンバラグンで頑張っているのは、神社・競輪・温泉街、と豊富なレシピを持つ弥彦村(ヤヒコムラ)だけになった。寺泊町と合併すると噂していたのは、もう大分前の物語になった。若作りの村長は、東京弥彦村人会(会長・掘 優)に毎年元気な顔を見せてくれる。

郷里・西蒲原をこよなく愛す、新潟市巻在住の藤井克之氏から企画展開催の案内が届いた。東京・青山にある新潟のアンテナショップ新潟館ネスパスで、2012年3月23日(金)から26日(月)までの期間で開催する。高校の一教師だった当時、教え子の実家が、和紙の生産者だった事が縁で、ここまで著名な画家になったのである。
インタビューしたのは、かなり前だが、映画で俳優が、鋭い眼で事件の本質を追う刑事のように、強靭で精悍なお顔のようだが、氏の墨採画を見るたびに、画材が和紙のせいか、心が安らぐ。
西蒲原のハザ木は、南国人にとって、浜辺のヤシの樹的存在であるし、江戸ッ子にとっては、大川端のほとりに揺らぐ、柳のようでもある。藤井克之は、墨でしか用途のなかった、和紙に色を乗せ、墨採画(ボクサイガ)なる言葉を生んだ人物である。片岡鶴太郎とも、所謂、同業の縁で親交が有る。実は、聖地エルサレムにある神殿遺構「嘆きの壁」を、墨彩で制作した熱心なクリスチャンでもある。HP上では自らを聖書画家と紹介しておられる。



同じハザ木の絵でも、制作者の意図と優しさにより、表現する作品モチーフを異にする。
蒲原のハザ木に思いを馳せる著名な越後の画家は、他にもおられる。吉田市在住の画家・斎藤順生である。
ハザ木で童話を創り、絵本にした。老木は切られ、やがて燃やされる。見事なまでのハザ木に愛着を示し、創作し、絵に残したのである。

東京新潟県人会には、首都圏えちご蒲原会(会長・池田孝一郎)があるくらい、旧・西蒲原地方出身者も多く、秋にはバスを仕立てて、「蒲原の稲刈り―ツアー」を企画しているが、募集すると即満員になってしまう。
同じ越後人でも内陸部出身者は、稲刈りが好きなようである。同じ話を、海岸側に子供の頃、過ごした寺泊会の会員に投げかけても、誰一人と賛同する者はいない。おら、稲刈りなんかより、海上花火大会ツアーの方がいい・・。と、乗ってこない。

一方で寺泊在住の画家橋本直行は、寺泊人だけに、土壌の匂いより、汐風の匂い、特に沖縄・八重山をこよなく愛し、描き、これを業としている。銀座の個展では、大作(200万)の絵から順に、売約済のラベルが貼られ、嫁入り先が決まって行く。個展の招待状をもらい、いざ出かけ、観賞し興奮しても、これを即、買えない無念さ。もっとも、あいにく、小宅では、かくも、でかい絵を飾るスペースは無いが。

橋本直行氏の描いたハザ木(上)

銀座の個展で人気を博した、八重山の原風景。
   (掲載した絵の一部はいずれも、各氏のHPより
、ご3人には取材協力して頂きありがとうございました

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またまた環境ISO的見地

 




 
立ち小便スベカラズ

名勝の寺泊海岸、さかなのアメ横通りができるかなり以前の夏ともなれば、ゴマンと海水浴客が群がる。近頃は公衆できれいなトイレもでき、24時間安心して利用できる。昭和の中ごろとなる、その昔は、灼熱の太陽の下で海水浴客の人出は一向に減る気配なし。浜とは、ゴミ捨て場のイメージが有り、プラスティックのないころだから、有機系廃棄物が目に着いた。食べ残したスイカや、大根の葉っぱ等だ。こんな環境下で男性はこんもりした砂浜に向けて、ごく自然に、小用を足していた。

ここはきれいな浜辺にせねばと、町の有志が立ちあがり、この立て看板を作り続けた。あっちこっちにあるものだから。小学生のころは、よく目にした。もっとも小便などと、上品に書かず「・・ンベン」とカタカナ表記であったが。耳慣れたフレーズとなっていた。男は正に立ち止まって済ませ、女の子はしゃがんで済ませていた。これもおっかチャンになると前かがみになって、お辞儀をしたような格好でしていた。もっとも、浜辺でなく新道の坂道や、小学校の校舎わきの大地(オオジ・3区の山の奥にある地名)へ入る細い道脇あたりでよく見た光景だ。今や民俗文化遺産となる。
さて、都会ではさすがに道路脇でも、立ちながらの小用は、かなりの酔っ払いでもない限りは、見かけなくなった。但し、よく、つばをはく。駅のホームから、線路に向かって、かと思うと側溝の僅かな隙間めがけてと、いろいろ工夫している。環境保全と美観・衛生の観点から、いかがなものか。

所が市中マラソンはどうだろうか、走れば息が苦しくなり、唾も吐きたくなる。だが、一人が0.1CC出しても、東京マラソン等のように4万人近くいたら、総合計排出量は、想像を超える量になってしまうであろう。しかしながら、この競技はこれが許される。
中には手で、鼻の片方を抑えてプーとやる、通称「つかみっ鼻」をやってしまう。越後生まれのマラソンの名手、宇佐美先生(元・東海大学教授)は、決してこんな事はなかったが、海外の文化の違いか、優勝するかもと疾走している、先頭集団になればなるほど、画面一杯に放映する機会が多いだけに、つかみ鼻の飛ばし合いが目につく。

給水ポイントも曲者である。走りながら給水してむせる者もいる。そして吐き出す者もいる。うがいと呼ぶんでしょうか。
サバンナの如く地面が土ならいいが、水はけの良くないアスファルトだし、風邪予防のうがい水の捨て方は、小学生すら、ルールを知っている。

近い将来環境アセスメントで、マラソンは、テッシュペーパー持参でどうぞ、などとルール化するかも。
さて、2012年3月11日、名古屋の地でスタートする、女子マラソン(名古屋ウィメンズマラソン)には、15000人の女性が参加するが、どうであろうか。

こうして日常の生活に、全員で環境意識を持つことが、ISO14001の精神なのですと、かつては、大酒飲みで路上放尿の常連だったにも拘らず、環境保全を説いて、これを商売にしている毎日であるから、人生は、わからないものである。

   (イメージの写真と該当する現象とは関係ありません)

 

 

 

 


 

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老後の小遣い稼ぎ

 
年金だけで満足ですか

寺泊会の会員さんは元気な六十代後半か、七十代が多い。自営で顧客探しに苦労しない商売もあれば、定年後に、関連会社で頑張っておられる方や、ご主人と二人でそば屋、八百屋さんを営んでいたり(都内で)、息子に建築業を譲り、自らは、町内会のまとめ役として世話人になっておられる方もいる。

勤勉な越後人気質で人生を乗り越えて、概ね安定生活に入っている。だからこそ、毎年の寺泊会行事に参加できるというもんであろう。迎える側としては、楽しんでもらおうと、最高のサービスの提供に心がけている。一方では、かの高名な、老舗デパートの共同オーナーであったり、都心で、何棟かのビルを持っている旦那と結婚して、都市開発に便乗し、益々優雅な人生を送っていたり、寺泊人も様々である。

ビルのオーナーとまではならないまでも、若者向けに、ワンルームのオーナーになって、小遣いを稼いでいた輩も、結構いるようだ
だが、話を聞くと最近のワンルーム市場は、借り手のわがままを聞いてくれて、ネット回線が完備しBSアンテナも付けないと、ダメらしい。収入のある老人が多いので、ついつい、不動さん屋さんのセールスマンに口説かれ、買ったものの、借り手がなかなか見つからないと嘆いていた。供給過剰だから、駅そばでない限りは、ハンディがかなりある。

現代貸室事情

不動産投資の甘い罠

この間取りは、川崎市幸区で駅から15分位歩くものの、8帖のカーぺットが敷きつめられ、バストイレ付のワンルームである。家賃は55000円にしたそうだ。(去年までは59000円の由)
これでもなかなか、借り手が見つからない。これでも固定資産税だけは、かかってくる。年金の副業もなかなか、ままならない実情だ
続報
ご契約感謝3月末から入居予定 ¥54000円でテナント決定の由。

寺泊人会にはいなかったが、新潟県人会には、風呂屋、豆腐屋さんを経営して、街のお役にたてていたお年寄りがゴロゴロいる。越後農家のオジゴンボ(長男以外)の多数が大戦前後に上京し、早朝深夜と、きつい商売にも関わらず勤勉に働いていた。

東京都公衆浴場組合と豆腐屋さんの組合では、7割は越後人だったらしい。現在はその土地を利用し、ほとんどがマンションを建てたり、貸しビルにしたりと、結構な話である。京急大森町駅近くに、永年豆腐屋さんを営んでおられた、魚沼出身のお店も、今では一階が居酒屋になっている。豆腐屋さんがビルを建て、テナントとして貸しているのである。

現在八十代に突入したお年寄りも、古き良き時代だったからこそ、土地を買えた。現代の若者は、到底無理であろう。残念であるが、現実である。

        by 管風庵亭主
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◆良寛伝道師・内藤久吉さん逝去◆

 良寛に学ぶ会・熟年者のカルチャー倶楽部らこてねこのお言葉も、もう聴く事ができなくなりました
 2011年9月27日逝

いつも我々を楽しく判り易く、良寛の世界へと導いてくれておられた内藤久吉氏が、平成23年9月23日に急逝されました
  ありし日の内藤久吉

東京寺泊会だよりでは、故人が講師をされた際の音声を大切に保管しております



東京寺泊会は郷里の内陸側隣町・旧分水町や海続きの隣町・出雲崎出身者の団体などと企画し、良寛に学ぶ会を共催している。会員は登録制で、その数は1月末現在で百三十名程だが、その多くは良寛の生誕地・出雲崎と国上寺のある分水(現吉田市)である。寺泊出身者は現在十人。今後増える見込みである。常任の講師は、出雲崎良寛記念館理事の内藤久吉氏が務め、表参道に建つ新潟県のアンテナショップネスパスが常設会場である。第二回のテーマは
■「
良寛とその師・法弟・支援者などが、どのように交叉していたかを探った。史実に基ずく、出雲崎弁士こと内藤久吉氏が懇切に解説。

引用資料は、牧が花の庄屋、解良家十三代当主・解良榮重による良寛禅師奇談」の記述で長短五六話ある貴重な書である。

 ■ 八〇〇年も続く出雲崎の庄屋橘屋山本家では、良寛を後継ぎにすべく、時の代官の元に赴き「我が惣領を次なる名主として務めさせたく、容認の程を」と丁重に挨拶。喜ぶ代官「しかるに嫁御はおられるか」との問いに「近在から当家に嫁ぎ・・」と答えた。名主の絶対条件には、伴侶を必要としたのであった。良寛に嫁さんがいたとする説は、かなり近年になってからの発見であった。寺の過去帳を丁寧に調べた大学の先生が、メディアにセンセーショナルに発表したそうである。 
 

 ■ しかしながら良寛はこの先、名主継承を受けるに心穏やかでない。回避せねばと、禅光照寺の和尚の元へ。禅修行の道に入り、その後に、高僧・大忍国仙と出会う。禅師は初対面の良寛を凝視し呟いた。「何とこの子の眼は澄んでいることか」と、玉島への一行に加えた。

 



 

円通寺で十一年、雲水仲間と起居を共にした後、禅師から「印可の偈」を授かり、これ即ち、永平寺の貫首さえも欲すれば道ありの体であった。しかし良寛はすべの凡欲を捨て、故郷出雲崎に戻る。だが住む家無く宿る床がない。国上に庵を得る迄は、寺社の軒下、浜の荒小屋で乞食姿。

■物語なら、ここで子らに石持て追われるやも。だが良寛の周囲には、熱烈な支援者多く、敬しく来訪を歓迎した。与板・中島・地蔵堂・島崎・渡部・出雲崎・寺泊。杖をつき、請われる儘に出された筆を手に、残した書は数知れず、乞食こそ道元禅師の正方と歩き通し、時を経た現代も戒語・愛語の教えは色褪せる事無く続いていると講師の内藤久吉先生独特の出雲崎弁は歯切れよ良く眠っている者はひとりもいない。
■東京寺泊会は広報を担当し、先に開催した大会には久乃屋さんの塩羊羹を参加者様のお茶菓子として賞味して戴いた所大評判となった。さすが寺泊の銘菓ラテ。

 


寺泊へは昨年会員を募り、分水の花魁見学を兼ねてバス旅行を実施。「魚市場」ツアーと「密蔵院」 を拝観。本邦初公開のお宝をご住職が公開してくださり一同大感激。今年も4月に良寛ツアーを企画中。地元在住の人より人気があるようだ。右を見ても左を見ても俗欲の張りあいだらけの世間の空気に身を置いてると良寛禅師が恋しくなるのか。町に有る日蓮宗法福寺さんには良寛の妹むら子のお墓があると言っただけで、東京寺泊会さんの人たちは皆が、あたかも良寛さんに会った事があるかのように、羨ましがられてしまう。法福寺第57代現住持英祥様とは親しい同期生だから鼻が高いが。  寒行も終わったことだろうし次回の東京寺泊会に招待しご法話を賜れれば至極である。
 さて名講師の内藤先生は
出雲崎にある良寛記念館常時おられ繁忙の中、講演の度に上京される。出雲崎の会館を訪れる際 東京寺泊会から紹介されたと告げれば展示作品をより一層懇切丁寧に説明して下さることだろう・・かくなる無礼こそ慎むべきと聖僧は 「愛語」「戒語」の世界で唱えておられるのに。今は故人となられた、内藤久吉氏の出雲崎弁での、あの言葉が消えることはない。
寺泊会一同お悔み申し上げ、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌
この稿は過去に掲載された記事を基に、内藤久吉先生追悼号として、再投稿しております)         

       
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平成22年の東京出雲崎会

   
    
 東京出雲崎会の巻

ありし日の内藤久吉さん

東京出雲崎会大盛況



東京出雲崎会は名称が現組織になる前は昭和16年の発足にさかのぼる とのことで確かに歴史ある会である。 同町のお寺で発起の話が持ち上がったそうで何やら東京寺泊会と共通 する。更に東京出雲崎会としての発足が昭和32年となるといわば東京寺泊会とは 同期である。
平成22年度の東京出雲崎会が錦糸町駅近くのホテルで開催された 参加者は200名を超える盛況ぶりであった。
寺泊町と出雲崎町は日本海続きの隣町でありながら長い間 互いの会同士での交流がなかったが今回初めて東京寺泊会の正副会長が 招待されて出席する事となった。
 ■会の進行は終始どこの家の生まれであるかを前置きしてのスピーチしていたのが印象的であった。
 宴会場で聴こえる「出雲崎おけさ」で明け暮れた雰囲気の会場は賑やかなことしきりである
フィナーレはおけさの総踊りで場内一杯に参加者が輪を作って興じるシーンは圧巻であった
内藤久吉会長自らも住吉太鼓を叩く熱演に場内から歓声が上がる。












宴席からの帰路、錦糸町駅からは、浅草そばで建設中の新名所・スカイツリーが見えた
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いなかの海岸にクジラが漂着

■ フンドシ町・寺泊の海岸は西から東まで遠浅で、ファミリー連れの海水浴には最高である。
  その寺泊から、出雲崎に近い金山(かなやま)の海岸に、6メートルもある「クジラ」が1頭上がったよーと郷里のニュースマンン小川氏が伝えてくれた。この場所は、さかなのアメ横から自転車で10分位のところにある。想像するに、お盆のフタを裏返して一杯に水を浸したところに、太いフランクソ−セージをゴロゴロ転がしたようなもんだったであろう。    
■ 遠浅な海岸でも、5日は、強風だった。浅瀬をゴロンゴロンと、のたうちながら打ち上げられたのか。
いなかでは、テレビ局が来るわ、新聞に出るわで大騒ぎだったそうな(5日)。

                    (写真提供:小川喬さん(寺泊在住)
■ 関東では正月2日に小田原海岸で6メートル余りのクジラが打ち上げられている。天変地異の前触れでないことを、祈るばかりである。予期せぬ大事が発生しても不思議でない平成の24年正月である。
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