◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

スマホ対象の枠組みで制作していないがPCだけでのアクセス表示75万超、「角上」・「寺泊出身」OR「脳の学校」の検索が殺到する好現象。確かにテレビ出演の影響は大きい。
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東京分水会入門編

 

東京分水会の基礎知識


2018年6月17日(分水町出身者の集い開催記念

今年も東京分水会から寺泊会に招待状が届く。会場は上野公園に建つ 上野・精養軒 3階。午前11時開会。

文化教養の高い会からの招きで楽しみなことは、総会前の講演会である。講演会となると想像することはトークショーであるが以外に

平成30年度の分水会は記念講演として同市出身の 

津軽三味線奏者 夢弦 桃太郎氏 を持ってきた。

講演者プロフィール

 

津軽三味線に興味ある者なら、毎年5月の連休時期に開催される、全日本津軽三味線大会を憶えておられるはずである

個人一般の部(Aクラス)で新潟県人として4年前に出場したのが 桐生 至さんだ。元中学校の先生でありお父さんも同じだったという今は夢弦 桃太郎さんとして地元の公共文化施設に出演多数。寺泊町にも、はななす会館での公演経験がある。

・ギター・三味線・中学教師

三条高校時代はギターに目覚め、フォーク・ロックと熱中するようになった。これが兄と同じ大学(明大)に入るや、民謡の魅力にとりつかれやがては、生涯の友となる太棹にたどり着く。田舎にいた親父はいつも三弦の上達度を気にかけていた。「お-い至、東京で頑張っているか~」の電話は三味線に対してであり、決して学問に対してではなかった。分水会には彼の父親が粟生津中学校の教師時代に受け持たれた者もいるので懐かしいことだろう。

講演者の演題は「津軽三味線と私の弦楽人生」である。

・無言館誕生

分水会といえば、直近4月のニュースでは、著名スポーツバッグ製造メーカー:(株)クロスターの創業者で牧ケ花の樋口孝四郎さんが、ふるさと分水(現燕市牧ケ花)にある生家(築100年)を改装し、長年収集していた骨董・美術工芸品などを展示する「与右衛門無言館」を開設したことだろう。樋口さんは浅草の自社ビル屋上で隅田川花火大会に寺泊会を招待したり、分水会大会の賞品を多数提供されたりで、篤志家そのものの人である。分水会の宴席では毎年お会いして20年近くの交流となる。

絵画美術品として平山郁夫、東山魁夷,同郷の横山操など多数の作品を展示しながら、祖先に感謝し故郷に文化をとその真意は尊敬に値する。直江兼続の家臣としてお仕えしていたご先祖与右衛門様も、孝四郎よくやってくれたと御喜びに違いない。イベント好きな分水会さんは、桜の季節に企画する花魁道中ツアーと抱き合わせに、無言館訪問コースも加えるであろう。

演歌歌手関野三千夫の世界

今年も上野精養軒の懇親会には、国上出身の演歌歌手・関野三千夫さんが宴席のステージを飾ってくれる。

分水会には

講師
 

地元出身の演歌歌手が2人もいるから

 

年替わりでステージで唄う贅沢な会と評判である

 

上野・精養軒3階「桐の間」・総会開催

会場は昨年と同一だ.

平成29年6月の分水会大会の様子をレビューするとこうなる。

 

特別講演:樋口 勲氏の「大河津分水物語・人の手のなせる業」に会場は大歓声。近年の講演会では稀である。

雰囲気

 

 

若くて驕らない樋口氏の講演に110名を超える参加者が魅了される

かつての水害大国だった越後蒲原平野で、そう遠くない先祖たちの活躍の秘密を攻めに攻めまくった。

越後人の我が大地・田畑・平野を守りたい・そのためには己の辛苦流血を厭わない溢れる郷土愛精神があった。

泥と汗水は現世に生きる自分達が流して、後世には芳醇な生活を保障をさせねば、と重機がない時代に人手だけがたよりで実現した大河津分水を、物語として聴くと、信濃川を背に越後平野で育った蒲原人でなくとも大きな感動を与え胸を打つ。

 

 

信濃川から日本海側を人工衛星(又はドローンかヘリコプター)で覗くと、海に一番近い地域は三島郡寺泊町となる。正確には野積地方となるがここが分水バイパスの最終地点である。河川水日本海放流の出口である。

寺泊の本間屋数右衛門親子、白根の小泉蒼軒や田沢実入、野積の星清五郎らが幕府に分水建設工事を請願したのは江戸時代、何回にも及ぶダメモト請願の繰り返しにもくじけず続けるも叶わず、信濃川に近い蒲原平野は河川災害が頻発。だが離れた三島郡寺泊や野積の被害は、甚大ではなかった。しかしながら越後の将来を憂う気持ちにおいては、蒲原が内陸部であろうと変わりなく愛情を呈し幕府請願に力を貸す寺泊の賢人たち。

 

 

被災地域民は足元の大洪水にこれでも工事不許可かと嘆く暇なく、人力で分水路手掘り作業を開始した。さてこれから通水という時、あの横田切れ、浸水は越後下越平野のほぼ全域。破壊橋梁多数で蒲原に橋が消滅、これが僅か120年前7月22日。明治29年、朝8時に怒涛の大災害。

 

 

燕・三条・長岡・新潟・新発田まで惨状は全域に広がり凄惨だ。これが3年に一回来やがると恐怖の信濃川様になった。

 

だが当時の日本は、河川防災の知識乏しく、川岸に盛り土工法でも最新科学と勘違い。西も東も河川災害続き。幕府曰く、「洪水は越後さんだけではねえすけ」と、越後の大工事プロジェクトを許可する気持ちがない。事実、隣の信州でも千曲川氾濫で道路面から10メートルの松の木が埋まる大洪水が発生。

諦めない越後人。幕府請願活動続けながらも、地元では破産商家の続発で物資なく、米なく、薬ない。蔓延する疫病。

越後壊滅時代の到来。信濃川がミソ糞一緒に垂れ流す(講演者,談)悪魔の川に変貌したか。ご家庭においしいおコメどころの話ではない。

 

こんな先人の辛苦があって、脆弱な堤防第一期工事が終わったのが明治初期。第2期工事が明治末。補修手直しが昭和初期。やがて越後人の夢平成に実り稼働中。2022年で通水100年。だが地球温暖化で世界は干ばつが進み、立派な可動堰でも信濃川から遥か離れた上流が干上がるかも。人類はいつの世も、次なるTREATS脅威に備えねば。それ故に我々のようなコンサルタントが活躍しているのだが。

 

 

 

巨大可動堰関連工事完成の暁には、リスクと機会の中に生まれるチャンスで寺泊海岸の大変貌ぶりは平成の世では誰も想像できない。妥当性確認が不可能な状態で設計検証のリスク影響で慌てる寺泊海岸物語はまだ先のこと。寺泊夏戸在住で高名な史跡ボランティアガイドの小越忠教先生も、推論を立てるには早すぎるかも、

30年後の話とはいえ、地中海の一大リゾート地をしのぐ, 国立寺泊海浜リゾート公園建設の実現にも結び付く、騒音並みの風評が寺泊会で飛び交っているが、平成の巨大工事プロジェクトのお蔭で現実になるやも。長岡と冠を付けるのだけは、なしにしようて。

体操の先生ですか、いいえ、彼は樋口勲先生という、河川防災論のスペシャリストだ。燕市の鈴木市長も、樋口勲氏の大規模河川災害歴史認識とその語り口についてはお気に入りである。地元燕市分水では、近隣の小学校児童にも河川防災と歴史について教育中。

詳しくは樋口先生監修のブラツバメで動画公開中(閲覧無料)。

 

 

本来は教諭向け研修が先であるが研修嫌いが多いときく。但し平成のワークライフバランス最優先のこの時代、先生のザンギョウ(教育関連従事者正規時間外延長作業)だけは、民間企業と異なり収益向上優先の感覚が少ないだけに正規時間中の研修にしないとクレームが来る。児童に先生が慕われた昭和前半の世はとうに昔の話になり、平成の終盤にいる多数の公務員先生達に対して、共済年金受給資格者に到達するまでは、その家族と共に過ごす時間を、我々が恣意的に作ってあげなければならないのである。最近ではお坊さんも残業阻止を唱える(葬儀関連は除く=納骨するまでは高収入に結び付くからか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなポーズもされたと噂の先生です。東京新潟県人会会長の小林保廣さんや、80を超えてもすこぶるお元気な村上昭治・元分水会会長さんなんかも会場最前席で大激賛されておられました。講師曰く、講演会は聞く側が長時間同じ姿勢でいると、必ず飽きられてしまいますのでと、河川災害歴史教訓から編み出した、講演参加者用ストレッチ体操だそうです。これで一息ついてから次のテーマの話に進むから飽きが来ないのである。樋口先生は横田切れさえ無駄にしないで有効活用される逸材であった。

 

 

 


小林恪男会長さんの手腕とおもてなしは終始満点でした

過去に見る文化色高い分水会入門講座

 

2014年の 東京分水会には 「花魁」 登場

 

 



燕の分水か、分水の燕か。

早いもので2006年に分水が燕になってから10年が経過した。寺泊会がおつきあい頂いて20年、思い出の分水会を覗いてみた。

梅雨時の6月こそ分水会の季節である。燕市の市長、鈴木 力氏は嬉々として上京。あいさつに壇上に登ると、「若いねえ」の声がいつもあっちこっちに響く。御当人も意識されてるようで、最年少の市長当選と言われておりましたが、早いものでもうすぐ60の大台に突入しますて・・と、それでも雰囲気は、お若いの一言に尽きる。対立候補もなく無競争での当選されたこともあった。話し方もソフトで穏やか。淡々として、燕市の動向を詳細に解説する。

かつての、小林前市長さんのごとく分水に関する情報をここでは優先しながら。

 

東京には燕と合併した旧吉田町の会(首都圏えちご吉田会)もあるから、TPOで来賓あいさつを考える。

吉田の話題は吉田会で、分水の話題はここの分水会の宴席で盛り上げなくてはならないから、ネタ探しがうまいわけである。


さて寺泊町に大河津から分流して多量の土砂を運んで96年。寺泊町は浜辺の面積がすっかり太ってしまった。

だが安心するのはまだ早い。総完成までにあと30年はかかる大分水工事が粛々と進んでいるのである。

 

こなた燕の洋食器生産開始100年を遥かに超え、市長さんはハイテク生産技術で進化した洋食器産業PRに余念がないが2017年大会の市長さんは、全国住みたい街ランキングで11位にランクされたことや

シンガポールの首相がお忍びで燕市・クガミにご来訪されたことやふるさと納税で上位にきている事などを

満面の笑みで披露するや若々しいお顔が一層輝く。

 

 

一方2017年のプロ野球界では連敗が続き天下のヤクルト球団は最下位の状態に甘んじている。それはともかく、

かつてはヤクルト球団にいた元気良い外人がホームランを打ちまくったのにと、多くのファンは、心の休まらない観戦であろう。

燕市は、「ツバメ」のご縁で球団と仲良くなり、地元のイベントにマスコットを呼んだり、世界最高品質を誇る、燕産の洋食器を優秀選手の特別賞に、提供したりで、多彩なアイデアを馳駆し、燕市上空にいる本物のツバメは、蒲原平野の、はざ木を見降ろし、今日も天空を機敏に翔び廻っているのに違いない。
地元に来た
東京ヤクルトスワローズ(同球団の公式HPの動画より引用)


分水会の強みは、伝統的な「おいらん道中」の存在である。数年前には、すったもんだの末中止となったそうだ。今となってはこの決断は、どうだったかなあと観光協会会長の田中公一氏(当時)は、振り返りながら、首を右に曲げたり左に曲げたりの姿が懐かしい。
決断日が3月13日だったからねえと、さぞかしやむに止むなく風であった。
その鈴木市長も大歓迎した「花魁」は、平成26年には江戸の浅草へ来た。
分水会も吉田会も、設立20年ちょいで歴史は浅いが、大会運営には素晴らしい企画力がある。

現会長の小林恪男会長は真面目派で品が良い。

現役会長の逝去に伴い4年ぶりに再登板したH寺泊会会長と異なり、いつも丁寧に会を運営、分水会歴代の会長さんには、平出英雄氏、岡本満氏やNHK放送技術センター局長・村上昭冶氏氏等が名を連ね、いつも元気な姿を見せ、集いは賑々しく開催される。


ここの会は寺泊会と大きく違うところがある。相違点は現役市長さんが来賓としてごあいさつされる。昨年こそ大 高桑栄松先生を偲ぶ会に出席とかでお目にかかれなかったが、郷人会への積極参加ぶりには、羨ましい限りである。これに寺泊会、吉田会ほかの郷人会の役員も招待され参加させていただく。

 


寺泊会から見て我が親父であると慕いたい、前長岡市長さんへは、合併後、毎年御招待状をお送りしてはいたが、創立60周年の記念大会にも、そのお顔を拝見する事が出来なかったなあと、寺泊会の会員達は残念がる。

と言っても、そのお名前とお顔と言われると寺泊会ではほとんど知られていなかった。なじみが薄いのである。

 

その市長さんも、昨年10月の新潟県知事選挙で落選し退任を余儀なくされ、ただのお人となられたが、5期務めあげた市長さんの退職金となると、さぞ高額と拝察し悠々の人生であろうと、我々の居酒屋談議のネタに貢献している。それともあと3年後を見込んだ再挑戦戦略研究人生か。そうは問屋が卸しまいて。


分水会の田中公一・燕市分水地区商工会・会長とも、長年のお付き合いであるが、今年も、威勢良くごあいさつされる。会場からは、仕事は息子さんが立派に継いでいるので安心しているに違いないと
の囁きも。

そしてステージに加わり、故郷を熱唱されていたが、ことしも純粋な越後蒲原人ここにありと確認した。

平成26年は、6月15日(日)に第20回分水町出身者の集いとして、会場を御茶ノ水から浅草ビューホテルに移し、

更に平成29年になると、6月18日(日)に会場を昨年と同じ上野精養軒に移し賑々しく開催されたのである。
毎年多数参加のもと、盛大にとりおこなわれるが、今年も大抽選会には、善意で多数の協賛品が集まり会場は蒲原分水の熱気につつまれていた。

(写真は第23回大会、一部は第17回東京分水会原稿より転載)記事は講演会資料から抜粋。取材協力:東京分水会 記事掲載講演者許諾済

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震災7年:福嶋原発事故と寺泊出身・福島県・酒蔵の杜氏さん

寺泊会創立63周年記念稿

震災7年



3月11日酒蔵から生還した野積杜氏
        

津波と大地震。忘れることのできない3月11日は毎年来る。都会の景色より、復旧・復興を優先して目を向けてくれと、現地取材の著名なテレビキャスターやアナウンサーたちのインタビューに答える多数の被災民がおられる。
無償ボランティアで、汗の代償を求めない若者たちに感謝しつつその当時のファイルを読み返すとこうであった

復興支援の原資にするからと、定年間近の教師達に、翌年春に支給される退職金から1%の復興特別枠天引きに協力して欲しいと行政の呼びかけに対しある県の教育委員会が自分の監督する教師たちに協力を働きかけたところ、先生たちはスワ!イチダイジと翌年春を待たず、今年中に退職してしまい特別協力金を逃れたニュースが、スポーツ紙や全国紙の社会面で報じられた。早速その時の詳細をアップした。今年繰り上げて退職して、退職金を満額手に入れた校長先生などと記述したから反応したのだろう。だがこれらに関連する記事は、寺泊会とは離れているので一部分を削除した方が良いのではと、当事者らしき方面から掲載直後に声が出たから、以降の追跡は他のメディアに譲った事があった。
退職金天引き騒動は強制ではなかった。先生の善意は、当時の退職金給付対象者全職員の協力があれば、支援の薄い住民の補助になったであろうになどと、静観していたが金銭的なアプローチには反対の先生も多数いたようである。論争を継続する時間のないほど、不可思議なニュースばかりに追われていた東日本大震災あとであった。


かつてこの45億円を目標に掲げていたのは誰か、そのような論点は、一瞬の話題だけで何もなかったことのように消滅・終了した。追及を持ち出す新聞社も記事になく、行政話もない。不思議なものである。その後大手のベアも決まり、やがて雇用が上向けば、万民からの血税があるからと安心しているのに違いない。


記憶から消えない3月11日の酒蔵
一方、震災当日の2011年3月11日、福島県の老舗酒蔵で仕込み作業中の野積生まれの杜氏さんがいた。

 
 
福島の銘酒自然卿を造る寺泊出身の杜氏「高綱 強」さんの地震・原発と酒造り人生 再現記事



現役スター杜氏・高綱 強さんは寺泊会で語ってくれた。震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。  福島の地酒・大木大吉酒蔵の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。

地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。

◆揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さん。

◆ほかの従業員が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んじまったのだろうかと
言ってたそうである。

馬鹿いうな。死んでたまるか

 

おれは大揺れの最中でも、仕込み樽にホコリが入らないように、
周りを養生していたんだ、と堂々としたものである。


その2011年3月11日、金曜日.一億総日本人の誰もが、重い経験を味わった。ショックを受け脅威におののき、怒り苦しんだ。僅か数年の経過で、これから逃れられるほど軽いものではない。


映画でしか見れなかったような、波に飲み込まれる家屋と失われ行く自然。メディアは、これを映像にし、繰り返し流し続け、人間が受けている、現実の悲惨さを報じている。家族を失い、建物を流出。取り返しのできない惨事。加えて、福島の原発事故。格納庫には、酸素がないので、水素だけで、安心ですと、時の総理大臣に説いたお仁は、やがて更迭された。時折、比較される言葉は、チェルノブイリである

水素爆発2日あとのウクライナ版プラウダ紙でもこのショッキングな写真を大きく取り上げていた。


平成の放射能製造マシーンは、この瞬間から、半減期に30年以上を要する、セシウムを飛び散らし、まき散らし続けているである。
気ままな風に乗って、100キロ以上離れた関東圏以南迄運び、翌日には北上し、北では雨によって地上に堆積、もはやISO環境目標だの、京都議定書だのといったレベルではない。先ずは、体内細胞分裂の盛んな、幼子から、目に見えない放射能の吸収を防ぐ事が肝心である、と評論家は言い始めたが。放射線レベルの許容基準値を都合よく何回も改正した。最初は半径5キロ圏内、次は10キロ、そして20キロ圏内、やがて50キロ圏内の住民はすぐ戻れるから町から離れなさいと、未経験からくる上から下までの行政の知恵は実に安心できない。



花火工場爆発の、火の粉程度しか考えていなかった我が国は、近隣住民だけを逃げろと、避難させたころの写真だから怖くなる。

数年前から縁があって東京の大田区で一緒に仕事をしている、回路設計が専門のウクライナ人は、25年前に父親がチェルノブイリにいた。親父も原発で働く技術屋であった。同国の新聞は、今回の日本の事故をどのように報道しているかを、現地の新聞を見せながら説明してくれた。一面記事で、東京電力・3号機の水素爆発を報じたが、当初の見出しで見る限り、重篤ではないような表現も、炉体容器そのものが爆発したチェルノブイリに比較すれば、との見解もあるそうだ。以降のロシア語の新聞には[フクシマ]の文字が何度も登場していた。彼は何度も何度も、海は勿論だが森林が一番やられると語っていた。
だが原発事故は森林がやられるし回復までに50年はかかるよ、当時はその意味を深く理解しないまま、そうかそうかと聞くだけだった。日本は廃炉費用だけで毎年2000億円かけて何十年も国税と電力会社が払い続けることになるとは誰も想像していなかった。



科学が進んでいると思っていた、日本で、相当古い装置が稼働していたのかとも、疑念を抱かせた。今振り返ると、GE又はWHの指定で、米国から輸入した、圧力制御機器や温度センサー, リミットスイッチ、水面制御装置など多数の計装品を、この原発に納入してたのは30代初めのサラリ−マン時代だった。寺泊出身のチビ太君は、来日したメーカーの技術者と製品説明のため、何回か通訳として同行した経験があるが、現地構内にあったGEのゲストハウスにも泊めてもらった。1970年の初め頃であった。



福島県では万が一の原発事故が起こる前の、放射能漏れを国が想定しており、東日本沿岸海域に、多数のモニタリングポストを、設置してもらっていた。津波さえなければ、測定機器は、破壊されることなく、この写真以降の、放射性物質の飛散状態を、正確に強度と、分布をとらえたのであるが、残念ながら数機を残して壊滅。残された僅かな機器を使用して、大学・研究機関で解析中である。事故がない時に、モニタリングしていたのに、事故が起きてから測定できない神の仕業は、あまりにもむごたらしい。20箇所あまりの、モニタリングポストは壊滅したと思われていたが、やがて学者の執念で、この内の1か所にあった機器が健在であった事が判明し、これを使用しバックデータを分析中していると聞いたのは、かなり後になってからのことである。

それと東京寺泊会との関係があるかと思われるが、ここに示したのは、日本酒を測定した放射能レベルである。フクシマ原発の風評被害で、同県で醸造された日本酒の売れ行きが思わしくない。そこで蔵元が、放射能の影響がないことを、分析機関に依頼測定し、結果を公表している。セシウム・ヨウ素共に含有していなかった。


蔵元の社長さん(左)は、放射性物質含入ナシの測定データを手に、どうぞご安心くださいと、呼びかけておられる。

■実は、ここの杜氏さんこそが、寺泊出身の高綱 強氏(野積)である。福島の銘酒・自然郷の杜氏さんだ。
昨年新潟県人会100周年記念大会では、朱鷺メッセ(新潟市内)で、見事な酒造り唄を披露し、55回大会の2年前にも、寺泊会のステージで唄ってくれた。寺泊酒造組合の会長さんでもある。

東京寺泊会は、第57回寺泊会で,杜氏人生を語る特別講演会を企画。

3月11日の東日本大地震で酒蔵は倒壊。仕込み樽も横倒しとなる環境の中でも、蔵の伝統を守り酒造りを復興させた。

高綱杜氏殿、寺泊会大会で講演を願いませんかと、手紙を出したのは、地震が発生した年の秋の事であった。「何とか都合つけようや」と翌年の4月に開催した、第57回東京寺泊会において記念講演にこぎつけた。逆境下での酒造り奮闘記を、たっぷり語る姿に杜氏の里、野積人の豪快さを垣間見た。(於・芝パークホテル)。(震災の写真は大木大吉酒造さんのHPより転載)

 

         ▲
酒造り唄の名手・高綱 強・杜氏(写真上)

 第57回東京寺泊会大会は、4月8日()盛況のうちに執り行われた。
 

福島県地酒・自然郷 大木代吉(おおきだいきち)本店宣伝版より

 ■創業は明治維新をひかえる慶応元年(1865年)。大木代吉本店のある福島県西白河郡矢吹町はその昔に奥州街道の宿場町で、皇室のご猟場町としてもさかえたまちです。
 ■この矢吹町は中畑清監督の出身地で、三つの河に囲まれる水質・地質に恵まれた地域で、地価から汲み上げる仕込み水は口にすると柔らく、瑞々しいあじわいがたのしめます。

 複合汚染が社会問題となった昭和40年代には、環境保全や、ひいては酒文化の復権の考えから純米酒「自然郷」を発表。篤農家との関係を深めながら米作りに精力を傾け、現在は契約栽培や60aの自営田を社員による酒米作りに取り組んでいます。

 また昭和52年に日本の食文化たる酒・すなわち料理酒造りに着手。醸造から造られる100%安全な調味料・本格派料理酒として取り組んでいます。「玄人仕様」をモットーに醸造の可能性に挑戦し、日本の古き良き食文化を次世代へついで参ります
   (記事はネット通販業者のHPを参考に転載させていただきました)

 

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寺泊町が長岡市になった日そして歴代町長と高橋誠町長時代

 

衆院選挙内部外部の課題

 

 

首都圏在住の寺泊人は、都民ファーストを旨とする女性新知事の奮闘で、永年、男衆が出来なかった事案に豪快な決断する瞬間に拍手していた。このころ越後では現職県知事 VS 新潟日報新聞社というステークホルダー同士の葛藤があり、この話題を定例会見やメディアが取り上げるたびに、居酒屋の桟敷席で話題沸騰する珍現象。(寺泊会は、新潟県知事さんとは名刺交換してるし、一方の地方新聞社の東京支社さんには寺泊会の行事について新聞掲載頂いた恩もあり、大変お世話になっている。)…………………・・・・・・・…………とか言ってたニュースも、半年・1年も経てばもう昔の話としてかすれてしまい

これを話題にすることが無くなっていた頃衆院選挙騒動が勃発した。

 

◆今日の世相川柳

 

都民ファースト あたし(都内在住のご自分)

 

ファーストだったのよ と 本人言い。

 

都民ファーストで何が決まり、何に改革されどうなったかは、これものんびりしていたのでは、有効性を検証しようにも現物の評価をメディアが河川氾濫・洪水に事故と不倫などで繁盛中。

多忙で記事にする行間がないそうな。見えないのは当然かもしれない。

イノベーションなる言葉はファーストを旨とするが、期待値程決定がなく見えてこないから居酒屋談義も廻り道をしながら弾ませざるを得ない。

 

半年前までは小池新党圧倒的多数で日本を席巻などとのうわさを皆で信じていたが、2017年10月22日の選挙で直近の予想通り惨敗。原因は複合的だが、同氏が率いる党員の数は軟体微弱で、景気のいい話とは程遠い。新党創設も維持が精いっぱいでとても保持という訳には行かない。

 

そこで思い出す言葉は、経営戦略の中で取り入れられる、

組織における内部外部の課題と利害関係者のニーズ期待の認識の甘さであろうか。

これがあるからものごとは安易に計画したことが実現しない。

成果を出す戦略に使う必須のワードが、武将の時代から科学の時代でも消えないで生きてくる。

親分の脳裏に浮かんだほんの一言が、組織の命運にかかわる懸念の方向へ進むことの恐怖である。経営テキスト通りの実証か。

 

選挙は当選してナンボ

 

晴れて議員会館に夢のオフィススペースを許される、前新潟県知事さん、知事再選を目指した立候補を取り下げざるをえなかったニュース以来、その消息はあまり噂にならなかったが、政治の世界は知名度が高い人には、強運が向こうからお土産付けてやってくる。

泉田氏は知事就任直後に遭遇した中越地震以来、3期知事を続けたのは事実である。

皮肉屋さんが多い寺泊会の中でも、野次馬好奇心派の仲間内でしか話題にならなかったが(一期X3の退職金)をお土産に県庁を後にしたということは、県には安定した税収が有るとはいえ、40年近くも汗水垂らして懸命に働いたおじさんサラリーマン3人分の退職金にも達しそうで、知事在年12年分となると決して少額ではあるまいて。

だが人間は何億持っていても、良いお誘いあれば次なる道に必ずや目が移る。

 

件の前知事さんは、2017年10月の衆議院選挙で、長岡寺泊などが主戦場の新潟5区から自民党に推され、当選され 国会議員に変身されたのだから、人生は判らない。

 

長島忠美氏の突然の逝去による補欠選挙で、自民系の候補者は知名度優先戦略で、田中真紀子氏だのそのご子息だのと時間をつやした居酒屋談義を思い出すが、結果オーライで5区は自民勝利へと導いて選挙は終わって行く。結果第一で過程は話題が薄い。

 

 

                  

 

 

故長島忠美氏と寺泊会

 

 

 

寺泊会の名刺簿に越後出身の国会議員さんや市長、知事さんなど多数がファイルされている。

参議院議員森ゆう子、衆議院議員菊田まきこ、衆議院議員高鳥修一、新潟県知事泉田裕彦、新潟市長篠田昭、等の各氏その他である。菊田まきこさんも高鳥修一さんもめでたく今回の選挙には当選した。

幸いにも寺泊会として国会議員さんの名刺保管分は勝利し、次回の会合で名刺交換できる。

 

衆議院議員 長島忠美氏の名刺も2枚ある。ふるさと想いの同氏に東京寺泊会でのご臨席賜りスピーチ願いたく、思い切って名乗り出たところ、ここに連絡しておけと、お名前の忠美のところに振り仮名「ただよし」とついている名刺を頂いた。裏面には永田町の衆議院議員第2議員会館の部屋番号と電話番号が記されていた。

寺泊会が同氏の名刺2枚所有しているのは、同じ話を2年かけて2回お願いしていたからである。

だがこの願いも叶わず今年の8月に先立たれてしまった。お別れの会は10月30日(ホテルニューオータニ長岡)に執り行われる。

 

山古志村は寺泊町より2年前に長岡と併合していた

 

ここに6年前の新潟5区の衆議員選挙を思い出す。田中真紀子氏(当時民主党)と戦い約3万票差で当選されたのが長島忠美氏であった。山古志村村長さん時代から故郷を大事に想い続け国会議員さんになられても中央からその目は離されなかった。災害復興についても片時たりともその手を休めてはいなかった。

だから寺泊も山古志と同じ長岡市なら、顔を出しましょうとなったに違いない。山古志村さんは寺泊町より2年先輩として長岡市になっていた。寺泊町がまだふらふらしていた当時である。

 

さて平成29年秋は衆議院選挙小池戦略が失墜し自公大勝に沸く。今や小池手法のリスクで生じた機会のみが特出して話題になっている。ここでの機会の意味を翻訳すると「ウラ目」になろうか。決して日本語のチャンスではない。

寺泊会は当選された衆議院議員・泉田裕彦氏に63回大会へのご臨席を期待する。その訳は極めて単純である。

補欠選挙出馬が決まった際、同氏の第一声コミットメント「私、泉田は(寺泊さんのいる)新潟5区・故長島忠美氏のご遺志をしっかりと引き継ぎたい」と真剣に述べておられた。

なお(・・・・・)内の声明部分は、声が小さかったらしく聞いた者はいないが。

 

寺泊会に新潟5区当選議員さんをご招待

 

この崇高なるご故長島忠美ご遺志を尊重される暁を夢見て、党籍にこだわらず当選を喜んでいるのが寺泊会なのだ。

そして寺泊会へのご臨席は、故長島氏が抱いておられた未達の遺志であるとして、次の代で実証してほしいのである。

 

これぞ立派な故人のご遺志の尊重である。

幸いにも新潟県人知事時代に名刺交換しており寺泊会をお覚えであろう。

東京寺泊会第63回大会の開催は、2018年4月22日に決定済みだ。ご臨席される来年が楽しみである。

そのために12年前、寺泊の首長さんは、長岡市と合併の道を選んだと主張する屁理屈は、誰もついては来まいかも。

 

寺泊が長岡市になった日

 

寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。

 

やがて、寺泊の町長を語れるのは、

 

古老たちが集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。

その話をまとめて編集したらこうなった。

町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。

だが寺泊人にしてみると懐かしい名前が登場して面白いとの少数派の評判も有る。

寺泊町が消えた日・・・平成の大合併と閉町式

 

   高橋 誠氏逝去 ・・・・(合併前、最後の町長)享年64


寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、
共に明治22年の事である。
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に
号令した結果伝統的な地名が消え
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。
明治34年には野積村を含む近隣4村と一緒になり
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口
18000人近い、自治体となったのである。 
平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併
冠に長岡市をつけることとなり、町としての「」の名前は消滅した。

 

「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。
高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長
公務多忙により副会長が指名され閉庁式に単独参加となった。

 

午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と
荘厳なる閉町式となった
やがて、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の
手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋町長に手渡された。
式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会臨席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。

アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、
力強く閉町の雄叫びを轟かせた。


公式資料で大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。


   ▼寺泊町(旧)の歴代町長・最長は高橋氏

     初代町長  柳下安兵衛    
     2代目  本間健四郎   町制施行〜大正4年
     3代目  神林津三郎    
     4代目  桑原源治 大正4年7月〜5年11月  
     5代目  柄澤政雄 大正6年1月〜6年6月  
     6代目  寒川卯之七 大正7年9月〜10年10月  
     7代目  大平廣弥 大正11年1月〜昭和9年1月  
     8代目  治田竹治 昭和9年1月〜13年1月  
     9代目  竹澤茂一郎 昭和13年1月〜18年10月  
   10代目  外山勘兵衛 昭和18年10月〜21年11月  
   11代目  大丸常松 昭和22年4月〜25年6月  
   12代目  高綱三作 昭和25年7月〜41年7月  東京寺泊会創設期
   13代目  藤田子男 昭和41年7月〜53年7月  
   14代目  中島甚一郎 昭和53年7月〜63年6月  
   15代目  高橋 誠 昭和63年7月〜17年12月

                           資料提供 旧寺泊町役場
 

てらどまり」が寺泊町として町制施行以来
歴代町長は15代の首長によって継承された。


■。。高橋 誠第15代町長特別追悼の章。。■

■■
2010年10月25日長岡市寺泊支所・地域振興課より東京寺泊会へ15代町長・高橋 誠氏の訃報が届く■■

■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」に、元気な姿で来賓参加され、同年の東京新潟県人会納涼大会でも、古川原名誉会長や三上会長(当時)らとも懇談のテーブルにつかれていた。


中央が高橋 誠町長 左は古川原名誉会長、右は
三上会長、後列左から小林正則小平市長、その右は渡部作次副会長と小泉美恵子理事(いずれも平成17年当時の役職名)

50周年大会に参加した高橋誠町長の巻高同期生
・・・・・・・・・・・・・・


寺泊町の歴代教育委員長
 藤田 武 昭和31年10月〜53年9月  
 廣川廣四 昭和53年10月〜平成1年11月  
 長谷川達栄 平成2年3月〜平成12年9月  
 柳下明也 平成12年10月〜平成17年12月  


旧寺泊町の名誉町民
 亘 四郎  昭和50年2月推薦
 外山勘兵衛  昭和59年3月推薦
   小林  進     昭和61年9月推薦
 
「新・長岡市」になった寺泊・与板・和島・栃尾地区から合計
8名の長岡市・市議会議員が割り当てられ、旧寺泊地区定数
2名が割り当てられた。
選挙は1月29日に行なわれ、7人が立候補、下表の結果となる。
トップ当選の高橋誠氏と2位当選の古川原直人氏は、同期生。
また、寺泊町役場は長岡市の「寺泊支所」と名称が変わり、
森山信太郎氏が初代・寺泊支所長に就任し、本合 收 氏を経て
現在は、長谷川知雄氏で、いずれも東京寺泊会の懇親会にご出席された経験がある。


合併直後の長岡市市議会議員選挙
候補者名(年齢)    得票数
高橋 誠 (59)     2106
古川原直人(59)   1370
高井 裕 (54)   1118
山田省吾 (53)    965
田村勝三郎(66)    815
有木清司 (53)    682
星 又一 (64)    227

  選挙結果は新潟日報のHPより

 

町旗降納式東京寺泊会でも式典実施
新長岡市誕生に伴って東京寺泊会でも祝賀記念を行う。高橋町長は東京寺泊会のためならと、町に特別許可を与え、歴史的遺産物は東京へ持ち込まれた。

かくして、町旗は森山初代支所長から寺泊会第7代三上喜久治会長、渡部作次副会長が代表して納還式を執り行い再び旧寺泊町へ還された

       ▼寺泊の町旗はこれで見納めとなった
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634mの山なら毎日見ています

 

634メートルで有名な 弥彦山
寺泊の朝もやを見ずして
 弥彦山のふもとは野積です。

寺泊もやっと晴れの日が続いた( Morning 4:35am)

     ◆朝もやのかかる弥彦山(寺泊観光協会・早朝ライブカメラから)

そして夕方になって、お寺(聖徳寺)の鐘がゴーオンと鳴る頃
 

 365日は見えませんが
寺泊の夕陽見ずして
●家に帰るなかれ

 

 



       寺泊観光協会・リンクページからのコピ−




 佐渡汽船発着場付近・寺泊ライブカメラ)


こんな穏やかな海が毎日つづくとは限らない。
風吹けば、波が息吹くてらどまり・・寛風庵
お座敷で「寺泊おけさ」でも聴こうものなら昇天気分。

 

 

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寺泊の祭りを覗きませんか

鰯(イワシ)祭り近し

 

春5月は寺泊の伝統行事大祭月である

 祭の前夜は興奮し眠れなかったもんだ


寺泊会会員たちが悪ガキ時代を思い出す

あれから60年が過ぎた

東京寺泊会の5区出身者が気にする訳。


少年だった同郷5区幼なじみの出番

 

俺たちが頭になって、カグラをかついで町内を走りぬいた時代があった
こんな話題が、平成30年4月22日(日)東京芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交うであろう。


寺泊会創立63周年大会の話題。

◆2年前のカグラ当番3区の元気者、成田屋のアキラさん、田村屋のヒデオさんもあれから60年で70代。
年月経過すれど、寺泊「町」が好きな粋人、老眼鏡かけ元気に神楽のシッポつくりで、後輩の先頭に立つ

平成28年5月の例大祭では、3区が神楽当番であった。

今年は5区が当番だと寺泊会連絡員からの情報があった。

5区関係者の当日雄姿詳細写真はやがて

寺泊観光協会リンクの5月寺泊ウォチングでアップされてるであろう。

ちなみにかつての3区関係は「3区当番編」 [5月当日偏」で見られたい。件の輩の雄姿があった。


1区から6区まである寺泊町


寺泊は町役場が決めた地域セグメントとして1〜6町内に分割されている

リーダーシップを発揮して親方をこなす、成田屋さんと田村屋さんなど・粋人お二人の御姿は、
さすが上田町代表である・・と首都圏で活躍する3区出身の東京寺泊・上田町人会、清水屋の清水文隆・副会長(上田町)、河忠の河合忠治氏(上田町)、故人となられた外山健太会長らの皆さん寺泊の3区上田町出身者で、古希はとっくに通り越した。

寺泊会の役員たちも感心しきり。本稿の白黒写真2枚は90年前と60年前の3区の大小カグラ衆。
寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている。寺泊会の会員たちが保存していた。

 白山媛神社の記録DVD

     ◆
戦前当時らしい昭和X年5月の3区・上田町組存命されていたら全員150歳以上
ひと昔前は、どこのの衆のカグラかを示すため、走り手も、組の名前をつけたタスキをかけていたという。3区なら「上田町」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。2016年は
3区の当番だが,かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。(上記のリンクページは寺泊観光協会のHPを無断借用)

漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭が毎年5月3日に開催される。

この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている
学校の教材に最適である。話を聞くとこのCDは寺泊在住者でもあまり持っていない。ましてや公務員先生では興奮度が低いかも。

以前4月4日の東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には、浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。

その名残でこの祭礼は別名「イワシ祭り」とも呼ばれている。中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、平成28年は3区が寺泊町の神楽当番であった。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)と勉強は1番になり、病は治り、曲がった腰はピンとする、持病のひざは痛み消滅、借金は返済のメドが立つ、万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。

寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらおう。そして子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、寺泊の行事に無関心な赴任期間だけのチョンの間、寺泊在住長岡市民となる、先生ばかりでは無理かもしれないが。心配なのは、こどもカグラを担ぐお子たちの減少であるが。
この貴重な写真は約60年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。

平成18年には3区が当番になるから、テレビ局呼んで「60年後に集まった昭和の少年たち」と題して、イベントやろうと話があった

しかしながら皆さんは、70過ぎても結構現役で仕事しているから多忙とかでおじゃんになった。もう生涯このイベントの機会はないであろう。
写真の最前列左は、今も地元で石川モーターズを経営しているが、レンゾーとよばれていた。2014年度の、古希組である。同期には山田栄三郎(きんぱち)社長がおり、古刹法福寺の57代住職ケンジ様も同期である。

2014年度には、古希祝いの集いを開催。会場、宿泊はもちろん きんぱちである。開催に積極的なのは、どの会も女性陣だけが積極的で、その年に古希を迎えた昭和19年(1944)生まれ組は元気組が多い。平石久子氏(寺泊会地元渉外担当理事)もそのひとりで、東京寺泊会の会場で、塩たき節の地方(じかた)として見事な三味線を披露してくれたこともあるし、平成30年の大会には寺泊おけさ体操の指導を頼んである。

首都圏在住の寺泊会会員の中で、2014年4月に東京寺泊会に参加した若年層となる古希組を集め、事前に祝宴を挙げてしまった。だが郷里ふるさと主催の行事に熱心な女性陣は、本家神社お祓い付の古希祝いにも参加する由。だから世の中は何の争いもなく、うまく運ぶのだろう。健康なうちに、皆のお姿を見ておかないと東京オリンピックまで持つかと、心配になるのかも知れない。人生さまざま。今年も70歳をお迎えの寺泊出身者多数が寺泊に集まるが、その中の一人でも東京寺泊会に興味を持って、伝統ある寺泊会のカシラに、来年からでもなってくれれば嬉しいのだが、最初となる一歩のバリアが高く、飛び越せないのだろう。


所で、3区は法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延び、今は道路になっているが、かつてここに建ってた金内さんの家の隣迄が、4区との境界地域であった。

この境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を「白い6尺ふんどし」か「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。ピーピーキャーキャーと騒々しかった。塀越しは茶の間つづきの庭になっていた、金内さんちも騒音でうるさかった事だろうが、人のいいキセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。

この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。一方、カアチャン・バアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。海までの砂浜部分が短かったので、自然の川筋が浜茶屋横の砂浜に造られていたのである。平成22年の全国の子供数1694万人・総務省4月1日発表・当時の日本の子供は今の2倍の約3000万人、人口の3割近くもいた。2014年の日本は、人口の3割近くが高齢者になってしまった。ガキどもと呼ばれていた少年たちは寺泊町もワンサカいた。「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。今、このカグラ少年たちは、皆さん全員、健康が気になる世間同様の高齢者となり、人口構成が昔と逆転している。
(本稿は感動を得るため、あえて長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を使用。)


日本全国、南も北も、共通の現象だ。寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
















写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)

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寺泊海岸の冬は風強く波高し

 

    ●今朝は、風冷たく波高し
2018年2月3日(土曜日)寺泊港・西北西の風7M・気温1℃、天空は鉛色で松本清張の小説が良く似合う。空が鉛色になると人の恨みつらみが爆発し、行動を起こしたくなるのだと作家さんは構想を練る。お〜怖い。



 今年はさすがの寺泊も大雪に見舞われ2月6日の朝は、日本海側特有の大寒波とドカ雪の地に豹変、寺泊町の浜も視界不十分になってしまい、写真どころではないと地元の仲間からメールが入る。あと何日こんな日が続くのだろうか。たがもし晴れてくれたらと仮定し、634メートルの名峰・弥彦山を抱く寺泊の冬は魅力的であると返信したが、毎年のことながら日本列島の冬は、日本海側と太平洋側では、特に関東地方の空と越後北陸では世界が全く異なる。

束の間の晴天でも、北西の風がほっぺたを殴るようでまさに寒冷の候である。寺泊は豪雪地帯ではないが浜辺は白く染まり離れた都会から眺めている限りでは、「わあ・真っ白だ」で済んでしまう。ライブカメラで岩に砕ける波を観賞すると風情があるが毎日というわけにはいかない。

何といっても2月6日(火)のようなひどい吹雪の浜でなかったら、海岸に突き出た岩場のそばに来て本物の浪音と、しぶき散る天然風景を鑑賞するのが最高の贅沢である。こんな時は演歌が良く似合うが、海に向かって唄うようなのんきな若者はいないだろう。

越後の町に湧き出た住民投票騒ぎ
▼ さて弥彦山へ登って。山頂から臨めれば遥か、米山が見える。山のふもとには、賛否両論で存続している東京電力・柏崎の原子力発電所がある。稼働の是非は利害関係者の意見が100%一致することは永久に無い。これを政争の具にして得した人損したひと何人いたことか。今でも継続している。
原発と言えば、越後の日本海でかつて、建設の是非をめぐり町を挙げての一大騒動が勃発し、大騒ぎになった事件がある。

■ 思いだすのは、1996年8月の住民投票騒ぎ。寺泊から佐渡を見て右側にある、旧西蒲原郡巻町で住民による、建設賛否投票である。このページのファンにも、俺の郷里だとする輩が多くいる巻町(現・新潟市西蒲区)の原発は、電力会社と一部の行政連が、建設のメリットを挑発し、あわや建設決定かとまで言われていた。寺泊から歩いて行けない距離でなくこの弥彦山の裏にある。海沿いの巻町沿岸にある海浜には、坪200円で、先祖からのの土地を売り、当時200万円の大金を手にし嬉々としていた親父に反抗し対立した息子達も多数いた。


■ 当時少年だった彼らは、のちに真面目なサラリーマンなどになって、定年を迎え、余裕はないが時間が余っているらしい。

有る者は、同窓会の幹事になったり、良寛様にはまったり、ふるさと会や県人会の役員になったりで、結構忙しいらしい。


■ かくして、巻原発4基建設反対の住民勝利で、リスクの大きい核反応炉は建つことなく、今では寺泊海岸から弥彦裏の間瀬を通り、新潟市内までは、平和な日本海沿岸シーサイドを形成している。越後最大最強のゼネコンにも、角さんにも建設費から捻出されたであろう現金は、流れなかったと聞く。

巻町長さんの功績


■ 住民投票翌日の月曜・平成8年8月5日は、地元新聞のみならず、全国紙まで見出し大きく、全町民の88%が投票所に行ったことと、建設反対が1万2478人、賛成・7904人と報じた。笹口孝明町長(当時)は、巻に対して30億円余りの協力金を積んで来た「電力会社」さんに、町所有の広大な建設予定地を、売却しない結論を伝えたのであった。


元旦の弥彦山頂から寺泊と柏崎の海を見下ろす

このきれいな海も放射能で汚染されたらと思うとゾッとする。


何人もいる寺泊の賢人達

寺泊在住で郷里の生情報を熱心に、且つ精力的にカメラを持ち込んで紹介しておられる賢人小川隆司さんのHPからの借用であるが寺泊の原風景や日常生活から、行事・文化・民俗芸能・歴史を蘇らせてくれる優れものと確信する。

とにかく寺泊の海は冬が厳しいが素晴らしい。波がゴーゴーと音を立て、風がヒューヒューと伴奏する。佐渡島は、この地平線の先にあり、そのずうっと先はハバロフスクだ。別の賢人はこの荒れた地に立って 魚のアメ横を創ろうと決断した。

 

もう一人の賢人はこの地の歴史文化史跡を丁寧に探査し、これを広くボランティアガイドされている。いずれも栄誉賞該当者さんと尊敬する。

 


 

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体罰者の具体的な処分案

 

すでに年金を受給されている寺泊会居酒屋談義より 

  

寺泊会発・体罰者と年金       的こころの珍提案・・

 

◆平成30年度大相撲初場所(2017年1月14日初日)は関心を寄せた横綱暴行問題を払拭するほど優しく紳士的な力持ちの平幕力士優勝で終わった。横綱が金星配給しまくりやがて休場しここに話題が集中した。

基本的には日本人は老若男女とも相撲が好きである。だがスキャンダルの本質は格闘技の世界だけに錬成者同士では皆無にはならないだろう。毎日ぶつかり合い押したり引いたりの生活で汗を流しているので、なよっとしておられないわけである。

大衆向けに明快な説明のない構図は協会に潜む脆弱な統治に起因する。

責任を決定する評議会がある。その委員長には派手で言葉多いご婦人に任せている

他の委員さんは楽であろうが、本人がふんどし付けて土俵にあがった経験もないし、優勝旗授与でさえ土俵に上がれない、しきたりの世界での検討会トップとして、女性責任者(CMO}の公式発表が組織の最終決定だそうで、国技尊重のレベルには程遠い世界に見えてくる。

去年の暴力事件、あれは異国風習の体罰か指導か当事者の声がいまだ聞こえずじまい。

憶測でメディアが報じるだけでじれったい。相撲記者クラブ会友さんによる話のように、今回も先輩力士が後輩を荒く諭す体罰だったのか。だが世に体罰が原因でその後の人生を変えた諸例は無数にある。

 

・・

体罰の犠牲

・・
体罰と聞いて思い出す事は、12年1月10日のファイルからで、新潟県内でも多数発生していて、県は頭を悩ませていた。そこで中学・高校・小学校を管轄するすべての教育委員会に対して、部活動における、体罰禁止徹底を求める通知書を送付し、試合に勝つことのみをを重視した過剰な練習を強いたり、ましてや不当な体罰を行わないとの趣旨で、おふれを出したものである。更に、翌16日(土)には、校長を集め、体罰禁止に関する指導を徹底させると発表した。(同年1月11日のテレビ新潟の報道より)

・・
誰もが勘違いする、スポーツの訓練に、少しくらいの体罰は当たり前の精神、監督は自分の指導したチームが、大小の大会に優勝するや、己の力が素晴らしいから勝てたのだと思ってしまう。これが勘違いの起因になって、自分の言う通りにしない子が憎くてしょうがない。
・・
部活で指導と称して制裁=体罰事件は、古くから存在し珍しくはないが、事件として扱う場合でも、何年かすると、いつの間にか時間の経過とともに忘却されてしまう。教育委員会が謝罪し、校長が管理職2人を座らせて謝罪し「まことに申しわけございませんでした」と、やおら起立し一礼する。左右の教頭か主事あたりも、一緒に起立し校長と頭を下げ謝罪会見は終わってしまう。大抵、「2度とこのような事故を起きないように再発防止に努めます」の陳謝のことばで会見は終わる。再発防止に何をどのような方法で変革するかは、どのメディアも深追いしない。だから、コンサルの立場として、教育現場でISO9001を取り入れなさいと提じているが、教育に品質を問わない風潮が多く、部活の顧問は残業扱いを主張中。
・・
体罰か指導か教育か、かわいがりか、
いじめか暴力か相撲協会内部抗争か・
・・
平成29年暮れまで
・・
暴行を受けた弟子の親方に取材者が殺到
・・
部活ではないが、相撲界で発生した事件が連日大きく取り上げられていた横綱暴行問題、協会理事職の声が第3者にはなかなか聞こえてこないが、相撲協会の体質は改革したか、弟子が被害を受けたとされる部屋の親方さんはセメダインで唇を塗ったかの如く黙秘期間があまりにも長期で、その解決策には、演出のプロであるプロデューサ職の段取りで公式会見の場作りをし、なかなか口を開かない親方さんにご登場願い、徳光和夫さんなんかの司会で改革の思いと積年の恨みを丁寧に吐露して頂くしかないだろう。
・・
相撲部屋暴力事件
・・
かつて新潟県民にとって忘れられない相撲部屋暴行死事件があった。
越後出身の少年力士・時津風部屋の齊藤俊(時太山・当時序の口)君は、リモコンならぬビール瓶、金属バットなどで殴打されたり度重なる部屋のリンチで2007年6月に暴行死した。遺体となった我が息子の真実の原因を探ろうとお父さんは不審死を解明すべく実家のある新潟市まで遺体を移送。やがて新潟大学の行政解剖が変死を解明し、体罰による死亡事件として事件は展開した。
・・
火葬を急かした親方
・・
稽古場で傷を負って倒れた俊君を助け介護することなく、部屋の親方に背いてはと他の力士たち数名一緒になってその体めがけて、かわいがりと称し、めちゃめちゃに痛めつけたとされる。屍となった俊君を見て親方は遺体の焼却を急ぐよう葬儀社に要請。
この知らせを聞いて、普段はおとなしい俊君の父であったが、焼却されたら何もかも息子の死因が判明しないと、頑として焼却には応じなかった。
・・
昨年発生した横綱によるリモコン殴打事件も、先輩がそこまでやるならと、同席力士全員も知らんふりをしていたのではなかろうかと推察される。一方時津風部屋リンチ事件は、その後、暴行に関わった兄弟子や親方は逮捕され、時津風親方(2014年没)は懲役5年が確定し日本相撲協会解雇に至った。
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世の中に教育委員会の謝罪会見は氾濫しているが、謝罪者のペナルティに触れたことは、見た事がない。アイデアを出してこんなペナルティはどうだろうかと、寺泊会恒例の飲み会で話題が出た。参加者はおごく少数の元教師や多数サのラリーマンリタイア属で、退職金で家のローンをすませている。だがカメラだの釣りだの城郭廻りや世界遺産巡りだと遊び暮らすには相当足りないと陽気に話すも結構海外の湖で白鳥や、ヨーロッパの世界遺産の写真などを撮っているから余裕は有りそうだ。
話が弾み去年の相撲協会事件はもとより、かつての教師による体罰処置も話題になり、その処罰案について各自が案を出した。
いずれも教職員が体罰を与えた場合と仮定し、実現不可能であるが、提案だけ出すのはタダであるから話は終わらない。
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体罰した教師への処罰珍案3題

その1案
体罰を与えた教諭のいた校長の退職時に、校長の退職金を半分に減額する指導者責任案。
その2案
教育委員会で謝罪した人たちは既に、かつての職場の現役を引退しているだろうから、年金支給額を半分にする。たとえば教育長が私立高校の校長出身だったら、私学共済年金の受給者だろうから、即以降の支給50%減額の処置をとる。
その3案
現役の教諭が体罰を与えたら、その教諭の将来の共済年金を60代から90代まで支給を停止する。この期間中に当人の没後は、受給権を消滅させ、その家族にも支給しない。

こんな名案を徹底させたら、校長を集め体罰委員会を開催し禁止令を出すよりはるかに効果的であろう。ペナルティの存在しない法規制で順法をいくら唱えても全く効果がない。
体罰者と責任者の処分を、身をもって判らせるには、これらの名案しかないだろう。


とにかく、再発防止のマネジメントは、これをコンサルする側も指導料をお払いになられる側も、ISOのマネジメント=バリディティ=原因を取り除く処置などと、教科書的な説明だけでは解決不可能でこの理論は存在するが、体罰に関しては本人・管理者を処分する包括的な処分がない。体罰に関する最適な効果を生む法規制がないかぎり、この状態が永続するであろう。

珍案ではあるが、その当事者を自分に置いた新提案を、支給額において大小の年金受給者が集う寺泊会・会員の微提案しかでないが世間の反応やいかに。
 

 
教諭の処分集
 
(過去に日本で発生した事案における教育委員会の処分例)
 
発生時期 体罰者年齢 部活名 処分
6月鹿児島 顧問(36) 中学バスケ 減給3ケ月
7月香川 顧問(43) 中学バスケ 減給1ケ月
7月鳥取 顧問(55) 中学サッカー 書類送検
8月兵庫 顧問(35) 中学バレー 減給1ケ月
9月鳥取 部長(43) 高校野球 戒告
12月大阪 顧問(47) 高校バスケ 免職
 6月新潟   教諭(47 運動部 免職

体罰事案は、一部を週刊朝日、2012/1/25日号より転載
=体罰ではないが、運動部員の活動指導費としてニセ報告で、教諭としては大金の、72万円をフトコロに入れた新潟県旧西蒲原郡にある県立M高校の先生がいる。

・・

実際にあった

新潟県の公立高校教師の横領の手口

・・

 

少額事件なのに、全国紙のタイトルに、運動部(バレー・ラグビー・ホッケー)の強い「高校の運動部・教諭を懲戒免職」として中央でも報道されたが、悪事を働いた先生は、前任地のT高校での教諭時代にやらかした詐欺事件が異動先のM高校在任期に発見され逮捕連行されたので、不幸にも比較的知名度の高いM高校の教諭逮捕されるとなってしまった。だが都会人にしてみたら、新潟県の公立校といっても、地域に馴染みなく、どんな学校かも判らないが全国紙には実名で報道されてしまったので新潟県のM高校側は慌てただろう。

 

起訴されないので、余罪は不明だが、件の高校教師は40歳を超え、一番金のほしい時代だったか。しかし実際問題、一般には研究開発費名目での割り当て金のない、即ち勝手に備品購入、外注手配の注文書を切れない、高校教諭が本給以外に、正当な臨時収入を得るのは至難の業である。寺泊だったら、お寺の住職をしながら高校(寺泊分校)の先生と兼職だったよと振り返ってくれたが.

・・

通常の先生は副職ができない。そこでついつい、部活の遠征に、人員オーバーさせ、子供たちの指導料をごまかし、己の懐にいれていた由。折りしも2013年7月25日には、大学の教授(55)が研究費2180万を懐に入れたとして、地検特捜部に逮捕されるとの一報が入る。多額の国税詐欺事件で、件の先生は、残り少ない人生を棒にふっている。そしてこちら、公立高校から公立高校へ異動した少額事件の新潟県の先生。異動先の高校は優秀な教諭が揃っており、悪事を企てる発想すらない校風で、コニュニケーションを取りずらかったと推測するが、新任地での再発を未然に防げたことは、せめてもの幸いである。

処分は重いか軽いか、懲戒免職は当然で、共済年金半減、または支給中止よりはるかに軽微な処分が多数でこれ如何。教諭を指導管理するマネジメント層の連帯責任はない。再発を防止しますの一言でおわり。体罰事件で校長の更迭より有効な、案を公募しても遅くない。

・・

新潟県の場合、1月発表のデータによると、過去5年間で体罰による教師の懲戒処分は、19件発生しており、部活動中がこの半数だ。更に、新潟県の教育委員会は、13年6月17日には、体罰が原因で高校教諭1名を停職3か月したほか、中高合わせて5名を戒告処分にした。(テレビ新潟ニュース、産経新聞報道より) 後を絶たない不祥事で教育委員会も臨時会議で忙しいそうな。・
90万人もいる先生による
体罰教師微減 わいせつ教員増加
・・
消えることのない現象
文科省2017年の公表によると公立学校の教員による体罰者同様、わいせつ行為教員の多さにも都道府県の教育委員会が頭を痛めているそうである
しかもその対象者の多数が自校の生徒児童だったとなると、安心して子供を学校に預けることもできない。
・・
全国では教員が90万人以上もいるから、彼らの行動を密閉した校長室で何をなさったかとか、部室、トイレ、ホテルなどで常時監視するのは困難であろうが、昨年わいせつ行為などで処分された教員数は300人に迫る勢いで、約半数は免職されている。一方の体罰者に絡む処分者は幸いにも減少気味で、約600人程度と発表された。(2017年12月付産経新聞)
・・
Editor's note
◆体罰にしろイケナイ先生であろうと、事件性が有りこの手の原稿をつくる悩みは新聞社と異なり取材できず手元に関連写真も一切ないことである。
寺泊会だよりは、写真さえ有れば何でも原稿になりすぐに完成するが、事件性の記事は慎重に扱わないと危険をはらむ。
体罰の初稿は5年前にあげ、非公開としていたが平成29年、当事者と一線の程度がどこまでだったかがテーマの不倫問題が少し静かになったと思ったら、横綱体罰のニュースが連日報道される大問題となり、昨年暮れ追記手直し校了させた。
 

 

 

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日本遺産にふるさと寺泊も登録される

 寺泊が日本遺産に次は良寛独歩街道か

 

次のオリンピック開催地は 「トキイイヨ」 

と、外人さんがたどたどしい日本語で発表直後、会場にいた日本招致委員や便乗者たちは抱き合いながら歓喜に包まれ

テレビ桟敷に座って待機していた1億の日本人の何割かも大喜びしてからはや2年。

 

この一大行事に乗り遅れまいぞと商機を逃がさず、経営の世界でいう機会を強みにし、

結果として観光客目当てのビジネスは大健闘。

 

昭和生まれが圧倒的に多い本稿の読者層も、元号が平成から▲▲時代と来年発表されると同時に、高齢層のくくり基準も新規になり長年親しんで来た長生き階層の人を、

明治・大正・昭和の3代を生き抜いて来られた元気なお年寄りさんと呼ばれる代わりに、今度はあなたも間違いなく

昭和・平成・○○の3代を生き抜いて来られた方と呼称されるのだろう。どうよ。

 

さて、今都会では新規ホテルの建設ラッシュと老舗名門ホテルは大改装中。

国もスポーツ施設に税金廻してスタジアムの拡張、再建、実績ある水泳選手をスポーツ庁の長官にするわで、賑わい座を呈す。

 

それにしても忘れられないのは、

どうかこの私をオリンピックまでは知事にさせてよと、

都民に悪事がばれても泣いてすがった醜態事件であった

一方、インバウンド・外人観光客の来日もうなぎ登りで観光地にどっと押し寄せ、商社マンでなくとも外人と話す機会は多し。

商店、旅館はにわかの好景気に酔っているらしいから、知名度を上げた日本。オリンピック様々である。

◆日本遺産は、天からの付与でなく、手を上げて文書で申請したもの勝ちである。まるで個人年金の申請みたいなものだ。そして地方公務員の発案だけを待っていても認可プロセスは始まらないし終わらない。

 

個人でまずは申請しないと始まらない事例は世の中でゴマンと有り

数えたらきりがないが本題の前に寄り道するとこうなるか。l

 

 

キャッシング過払い金、不要になった定期券の払い戻し(自分で行動をする)

●高齢者退職金請求。65歳超の適正退職時にハローワークに申請した者だけに支給)

●明確な医療ミスに起因するインシデントの示談交渉

●適正使用中にも関わらず各種電化製品他の機器不具合品クレーム申請

●通販品到着後イメージと違った品物を受け取った際の別品への交換申請

●自分の給料不相応以上のかなり高価な道楽品の購入(家庭内特にカミさんへ上手に申請)

●逮捕・拘留時の保釈申請(弁護士経由)

●留年予想時の担当教科教授へ単位取得のダメモト嘆願申請

 

 

等とまずは自分の意思で申請しないと始まらない事案は、無数にある。

日本遺産は自治体が申請窓口であるが、きっかけは一人の発案からでもあり得る

郷里の遺産を全国に宣伝拡大したいとする少数の意志がまず第一歩となる。

文化庁が唱える日本遺産当初の認定達成時期まであと3年残されているので登録の可能性は限りなくある。

 

桜並木と花魁道中なる素晴らしい日本遺産を有する分水会さんの故郷も登録すべし、一方では越後一ノ宮と弥彦山を抱く弥彦村人会さんの故郷も十分資格アリ、更に永年継続しているひとりの聖僧を深く崇敬する全国組織の良寛会なども公平にその権利と遺産を所有している。

だが申請段階ではほんのスタート期間で、実際はこれからが難儀であるから相当の覚悟と準備で日本遺産申請に臨むことが肝心である。マネジメントの教材通り機会とリスクは表裏に有り、遺産登録で観光客が集中しすぎてやがては環境破壊のリスクが追って来るやも。

初期の申請書類作成だけなら、我々コンサルの得意分野ではあるが。

企業向け新規コンプライアンス規定を作成するより遥かに易しい。

 

 

日本遺産の誕生へ

オリンピック開催決定は日本遺産生みの親。

大会まで100件の認定目標進行中。

 

 

文化庁の長官さんは新潟県人で日本遺産認定の最高承認者のひとりである。このひとがハンコ押さないと何も決定しない。

偉い越後人もおられるものだと感心する。

さて日本に多くの観光客が来るのなら、世界遺産にちなんで、オリンピック前に100件位を目標に日本遺産も作ろうと

平成27年に第一回の認定遺産18件が発効され、今年は3年目で17件が登録。その中に寺泊も入っていた。

 

ここにやっと寺泊の名前が名乗り出た。その推薦理由を当てる場を設けて考えた発表前段階での予想一覧。

 

寺泊が認定される日本遺産理由を探そう会

 

 

かくも狭いふんどし町にお寺が20も、支えてくれた檀家さん物語り

太平洋側は波打ち際の浸食で悩み、砂浜が想像以上に狭く狭くなる日本において

寺泊の砂浜ばかりは、魚のアメ横が建ち駐車場ができる程、3倍にも5倍にも面積が広がったからとか

ロマンチックな汐たき節のいわれと遊女誕生ものがたり。

蒲原の惨事横田切れ大洪水の際には寺泊から進んで援助の手を差し伸べた豪商・豪農物語りとか

弥彦神社の祭神が、弥彦の山を越える前は寺泊・野積におられた真のいきさつとか

魚のアメ横市場が全国の魚商スタイルを変革し先駆けにした中央海水浴場の浜の歴史とか

全国に伝承されている銘酒・日本酒の蔵元で、多数の寺泊出身杜氏が主導活躍していた酒造り物語

 

等とどめなく話題にのぼった。

 

 

景勝地・寺泊は想像するに容易な案件がゴマンと有るので寺泊会でも我が町の日本遺産ならこれだと話題沸騰した。

しかしながら寺泊会会員=素人の酒飲み会話での予想はすべて外れてしまった。

ここは寺泊夏戸在住で高名な史跡研究家・小越夫妻に相談してみるべきだと今年4月の寺泊会大会であまりにも

素晴らしい講演をされたので、印象深く会員の心に残っているのだろう。

 

日本遺産の登録申請には、関係各地に存在する日本の文化伝統を物語る=ヒストリー性の極めて高い事象物だけに

申請資格が優先する。地域単独でも良いがネットワーク型と呼ばれる数県・複数の市町村にまたがっても良い。

全ての遺産にキャッチフレーズを付けて申請する。地域振興のきっかけに生かされれば結構ではないか。

 

各県の自治体も登録申請に余念がない。

 

 

岐阜=信長公のおもてなし。実は、長良川鵜匠を操った信長こそ接待の達人

群馬=かかあ天下―群馬の絹物語り

甲賀=リアル忍者を求めてタイムトリップの里

島根=出雲の国の風土記鉄作り1000年の歴史文化

などなど

 

寺泊の日本遺産とは

 

寺泊が日本遺産に指定された決定理由がこれだ:

 

北前船の寄港地寺泊

 

荒波を超えた男衆たちの夢がつないだ異空間

 

つまり北前船の寄港地と船主・集落の物語りの地として当該県各地が合同認定されたのである。

 

他の寄港地、石川・福井・山形・秋田・青森〜北海道などとの合同ネット型認定である。

 


 

 

さて遠くから寺泊にこられる「日本遺産・北前船観光ツアー寺泊編」ご一行様に、どのようなおもてなしを致しましょうか。
寺泊会が選定したツウが選ぶ地元・寺泊遺産案
白山媛神社で奉納船絵馬を鑑賞するもよし、旧イタロさん脇の狭い坂を下るも良し、ノトヤ小路を歩くもよし、上田町の旧やなぎや旅館の坂の上にある十二神社のふもと・ヤマノマチにある楼閣跡を懐かしむもよし、他県のように北前船館を作るも良しとこれから地元アイデアとモチベーションの品質にかかっている。
日本遺産を考えると、ふるさとは長岡の寺泊でなく、寺泊ありきの長岡だなあとつい寺泊会の本音が出てしまう。
だが長岡は昨年も新潟市などと、奇形遺産物・信濃川流域の火炎型土器が日本遺産に登録されている。
新潟県内としての日本遺産認定地は寺泊が加わり、2年連続の喜報になったことは今春のビッグニュースであった。
今年の登録発表も代表自治体=長岡市にある港町とされてしまったので、
松前町(北海道)深浦町(青森県)の如く、具体的な町名が示されないので、「寺泊」の文字は目立つことなく今も静かに寄港地を維持しているが。
かつての楼閣街で三絃を楽しむ会でもどうよ、と気を利かす地方公務員はいないようだ。怪我なく定年と共済年金をお待ちなのであろうか。2012年9月の第10回大会の如く、再度北前船寄港地フォーラムの開催を企画し盛り上げてもらうしかない。会場をきんぱちの湯にするか。補助金で特設ホールでも作ってもらって。観光協会と自治体の強力な援助なしでは難しい話ではあるが。
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宣伝費を惜しまなかった寺泊町の旦那さんたち

 北前船寄港地・寺泊 商家の宣伝広告


 ■ 明治39年(1906年)9月刊行の「北越史料/出雲崎」は出雲崎町と良寛をこよなく愛した佐藤耐雪(写真)なる書家・歴史民俗研究家が著した、後世にとって興味深い歴史書で、340頁にも及ぶ「出雲崎町史」である。他に明治37年刊行の河合孫七著による「寺泊」編もある。寺泊町が人口3000人余りのころの記述もあり、北越史料誌に大きく掲載されている,
寺泊人にとって商家の宣伝広告が懐しく目に映る。日露戦争当時の歴史遺産的文書であろうか。

 
▼(資料提供・・東京出雲崎会/東條玉英会長)







当時の商家が扱っていた味噌醤油の広告から現在のコンビニ並みもあるから興味ひく。イセヤスさんこと、柳下安兵衛商店は醤油醸造を宣伝


一方の雄、ホンマさんは寺泊湊の味噌醸造を宣伝。昭和時代まで使用したロゴマークが懐かしい。



広告スポンサーはこの他にも、(ハマソ)濱惣さんも出していた。印刷技術が高度でないので、どの広告も赤一色で読み取りにくいのは仕方ないが100年前のカラー刷りである。ハマソさんの営業科目は。「和漢洋クスリ」「洋酒」「缶ズメ」「紙」「ガラス」を扱う総合商社風であった。この大きな店の裏は、結構深い日本海で、現在毎日多数が訪れる魚のアメ横あたりは一面きれいな海だった。

 

寺泊会の宴席で毎年威勢よく壇上に上がり、唄の音頭取りをしてくれる、河合忠治さんことカワチューさんの自宅裏庭には程良い高さの松の木がきれいに植えられており、庭の真下を見るとここもきれいな日本海であった。


 

 

寺泊は三島郡の都会とされ、野積は弥彦山下にある出雲崎から5里離れた戸数200軒の漁村となっている。

この「北越史料」雑は、発行が明治39年9月だけに、旧書体で書かれ、当然のことながら出雲崎に関する記述は、微に入り細に入る。100年前でも寺泊の広告スポンサーを募ったことを想像すると楽しくもなる。

ホンマ様もイセヤス様もカワソ様も、寺泊人は太っ腹でいい旦那さんと見受ける。

 

 

■さてこのあたりの時代考証と史話が得意な、夏戸の小越忠教先生に語らせたら天下一品の名人芸ともいえるだろう。先生の教諭時代はロジック回路が専門領域だっただけに、イエスとノーが明確で論理的に調べ上げないとなかなか言葉にしてくれない。想像の域でも記事にして公開する寺泊会だよりとは雲泥の差である。

 

識者の集う良寛会もビックリか


ここに志田仏壇屋さんでも出てたら、寺泊衆のだんなさん、揃い踏みなんだが。志田仏壇屋さんの現社長がおっしゃるには、かの良寛が国上山から下りたあとの面倒を、味噌醸造で財をなした創業者が、寺泊で末世時期を引き受けようと申し出るつもりでいたが、忙しくて段取りできず、隣町の島崎に行かれてしまった・・とのことである。


東京良寛会も初耳の根拠ある逸話か。もしも良寛が本間家に居候して永眠されたら、寺泊の法福寺に祀られることになったであろう。妹のむらのお墓もあることだし。だが、本人の希望で照明寺がいいと言って、蜜蔵院傍に永眠されたかもしれない。かの貞心尼が、島崎から寺泊湊まであと一足伸ばしていたら、あまりの景勝地に惚れ込み、夕陽のひとつも眺めながら、句作に没頭してしまい、良寛介護もおろそかになったに違いない。寺泊会だより上での想像の話は膨らむと止まらない。(編集長)



 
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第36回弥彦村人会11月12日開催

 

大会成功来場感謝

 

 

 

 

東京弥彦京村人会

 

2017年11月12日・弥彦村人会懇親会 

 

 

 

寺泊会と弥彦会のお付き合いは、いつから始まったかは、弥彦会が郷里の中学校同窓会中心から脱皮して以来の話のようだ。春の寺泊会、秋の弥彦会は互いに会長、役員あたりが来賓として招かれたり、招いたりして何年間も継続している。

 

平成29年度の弥彦村人会は11月12日(日)にお茶の水にあるホテル聚楽で開催された。お世話になりました。すばらしい大会でした。15年度に4選を阻止して当選された小林豊彦村長さんや、弥彦神社の宮司(代務者)さんも、おもしろいお話しをされ、その巧みな話術にはまった。

弥彦村と寺泊町・・・ 平成の大合併で踊らされた日本全国の自治体は 無数にある。 越後国のほぼ中央に位置する、弥彦・分水・寺泊も例外でない。 寺泊町役場は、ネットで新地名公募までやりながらも、3者合併は 実らず寺泊町は長岡市に、分水町は燕市へと 巣立って行った。 弥彦だけは村を貫き他の血と交わることはなかった。神社のお告げか、吉と出た。かくも発展する弥彦の村長と祝杯の一献を傾ける機会に恵まれた。


方の合併はならなかったが、東京寺泊会と東京弥彦村人
東京分水会の3団体は互いに交流の機会を継続している。弥彦会さんの現在は、加藤会長から堀会会長へとバトンタッチされ、副会長は羨ましくも、全員女性陣で構えておられる。
東京弥彦村人会は郷里の、弥彦中学校同窓会を基に29年前に創設され
現会長の堀 優氏(東村山市在住)は、中国通で、永年隣国相手の仕事に携わっていた経験を生かし、幅広い人脈で、芸能文化と、会に招致して、イベントに活用させている。
今年は、「フラダンス」だそうだから、肩がこらないだろう。

ここの会は、加藤会長時代から、ホテルロビーの階段を利用した集合写真で会が始まる。
ホテルとは言うまでもなく、弥彦村と縁の深い「ジュラク」のことである。
お茶ノ水駅に近いこのホテル周辺は、高層ビル建設ラッシュも一段落で比較的静かになった。ジュラクといえば観光地に素晴らしいホテルを構えているが、ホテル業の歴史はそう長くはない。 現在はこのドメインを抜きではビジネスモデルが成立しないまでに発展した。 越後出身の著名企業である。

 

 

現社長の祖父・加藤清二郎が大正13年3月に、神田須田町で洋食屋開業して以来93年が過ぎた。

聚楽50年の歩み・昭和49年発行より・・加藤社長提供) 
越後から列車で上野に到着すると、真っ先に駅前に見えた「聚楽」レストランの看板とネオンが懐かしい。そのお孫さんが、ご自分のホテルとは言え、いつも、会の参加者に如才なく振舞っておられる。

来賓あいさつで、越後人の気質を述べられた加藤 治 聚楽社長。

弥彦村は、首長変われど必ず懇親会に、村長さんもご出席。笑顔いっぱいで会員たちに声をかける大谷良孝 前村長

村の温泉施設は繁盛するは、この村の居住評判を聞きつけ、村への転入・人口は増えるはで、悪い噂は聞いたことが無い。
首長激務の中でも、村政は安定しておられるようであった。加えるに児童の虫歯発生率が、日本全国で最も低いとの実績が評判である。村の自慢は数え切れないほどあるようだ。

 

小林豊彦 村長誕生

 

弥彦村は永年、村長選挙無用のまちとして続いていたが2015年には

現職に久しぶりに挑んだ新人が、約10歳年上ながら当選。それまでは無投票選挙が40年以上あった訳だから、村民たちも複雑な気持ちだったであろう。その新村長・小林豊彦氏の激戦記と、ひととなりに関してたっぷりインタビューしたので、現在制作中であるが出稿は平成30年の次回大会あたりになるだろう。

 

 

 

     

かつての総合司会・武石堅次氏(境江出身)から,今年は紳士風の宮川玉城氏が洒脱な話術で取り仕切り、宴会場内を把握する手法は蒲原人には希少価値かと思わせる。母校同窓会のHP作りにも熱心に取り組んでおられる。もう少し泳がせよう。

抽選会で用意された会長賞と村長賞。右は、「ながいも」のダンボール化粧箱(前回大会)

前回大会の名物賞品は「超ながーい、ながいも」。当ったのは藤田 繁さん(岩室だいろ会の会長)だった。今年は地酒を賞品に振る舞った。



こちらのだんなさんの御名字は軸屋(ジクヤ)さんである。手にしておられるのは賞品の商品でない。鹿児島産の芋焼酎である。軸屋さんのお顔が恐そうだったが、顔見知りで弥彦会の幹事長、宮川玉城氏と同じテーブルだったのでお話させていただいた。

「鹿児島の酒造の娘と結婚しましてねと、まあ一杯どうぞ」と差し出され試飲。さすがに特上甕(かめ)仕込みである。きめ細かな味で、きりっと飲み応え満点。都内ではなかなか手に入らないそうであるが、ネット注文沸騰中とか。焼酎と言えば、いつもはお湯割りでその上、うめぼし入れて飲んでいたのに、これは何にも入れないでぐいぐいいける。思わずうんめーと叫び、コップで2杯頂いた。それもストレートで。
その名も「軸屋酒造のトップブランド品・軸屋」であった。奥さんの実家が会のためならと、提供して下さったそうな。薩摩の本格芋焼酎発見の会となった。


弥彦神社宮司(写真右端)永田忠興氏は今年で退任され、渡部吉信氏が就任予定で現在神社庁の認定待ちで代務中。お見かけより実年齢がかなりお若い。言葉の中に世を見つめている風刺がこめられていて、東京新潟県人会副会長の廣川高志氏(写真左端)と、爆笑しながら、ついつい話し込んでしまったのが懐かしい。

ところで堀会長になってから、ここの会は珍しく3人の女性役員体制を組んでおられたが多少の改正もあった。


舞りが得意な杉山榮子・前副会長(麓出身)は、お見えでなかったがステージ東京寺泊会の懇親会でおけさを踊ってくれたのは、数年前の話になる。往年の宴席での艶姿をもう一度観たくなる。


 ■歌唱指導や抽選会の賞品授与もされる一柳建子副会長(弥彦)は、闊達で、「この方は、お料理の達人よ」、と周りのご婦人から教えてもらった。宴席で何回かお会いしているが、時折着用する、真っ赤なオートクチュール姿を、今回は披露されなかった。
 もう一人の女性副会長だったマリこと
鍼灸接骨院を経営する院長の黒田マリさんは弥彦村人会の名誉会長としてリーダーシップを発揮されていた。自身が経営する会社ののスタッフには体育会系の若者が多く、人気サロンスタジオで、郷里に構えた自らのオフィスと東京・大田区にある本部を頻繁に往復しており、素晴らしい弥彦観光大使の役目を担っているようでもある。写真中央マイク姿の西浦明代士・相談役と抽選会の発表をしておられたが、女性起用がお上手な、近頃の弥彦会さんであった。          

 

 

 ■参考資料;第29/36回東京弥彦村人会定期総会案内書

 

 村長さんの写真等は29回大会当時を使用しております

 

   

 

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