◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

スマホ対象の枠組みで制作していないがPCだけでのアクセス表示75万超、「角上」・「寺泊出身」OR「脳の学校」の検索が殺到する好現象。確かにテレビ出演の影響は大きい。
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寺泊町が長岡市になった日そして歴代町長と高橋誠町長時代

 

衆院選挙内部外部の課題

 

 

首都圏在住の寺泊人は、都民ファーストを旨とする女性新知事の奮闘で、永年、男衆が出来なかった事案に豪快な決断する瞬間に拍手していた。このころ越後では現職県知事 VS 新潟日報新聞社というステークホルダー同士の葛藤があり、この話題を定例会見やメディアが取り上げるたびに、居酒屋の桟敷席で話題沸騰する珍現象。(寺泊会は、新潟県知事さんとは名刺交換してるし、一方の地方新聞社の東京支社さんには寺泊会の行事について新聞掲載頂いた恩もあり、大変お世話になっている。)…………………・・・・・・・…………とか言ってたニュースも、もう古びてしまい、のんびりしていると今の時代についていけない。

 

 

都民ファーストで何が決まり、何に改革されどうなったかは、これものんびりしていたのでは、具体的な解決はまだまだ先の話らしく、見えないのは当然かもしれない。イノベーションなる言葉はファーストを旨とするが、期待値程決定がなく見えてこないから居酒屋談義も廻り道をしながら弾ませざるを得ない。半年前までは小池新党圧倒的多数で日本を席巻などとのうわさを皆で信じていたのが2017年10月22日の選挙で大敗。原因は複合的だが、同氏が率いる党員の数は微弱で、景気のいい話とは程遠い。

そこで思い出す言葉は、経営戦略の中で取り入れられる、

組織における内部外部の課題と利害関係者のニーズ期待の考慮であろうか。

これがあるからものごとは容易に進まないのである。成果を出す戦略に使う必須の単語が、こんな中にも生きてくる。

親分の一言が組織の命運にかかわることがある。研修会テキスト通りの実体か。

 

 

今日から議員会館に夢のオフィススペースを許される、前新潟県知事さん、知事再選を目指した立候補を取り下げざるをえなかったニュース以来あまり噂にならなかったが政治の世界は、知名度が高い人には、強運が向こうからお土産付けてやってくる。

泉田氏は知事就任直後に遭遇した中越地震以来、3期知事を続けたのは事実である。

皮肉屋さんが多い寺泊会の中でも、野次馬好奇心派の仲間内でしか話題にならなかったが(一期X3の退職金)をお土産に県庁を後にしたということは、県には安定した税収が有るとはいえ、40年近く働いたおじさんサラリーマン3人分の退職金にも達しそうで、決して少額ではあるまいて。

だが人間は何億持っていても、良いお誘いあれば次なる道に必ずや目が移る。

 

件の前知事さんは、2017年10月の衆議院選挙で、長岡寺泊などが主戦場の新潟5区から自民党に推され、当選され 国会議員に変身されたのだから、人生は判らない。長島忠美氏の突然の逝去による補欠選挙で、自民系の候補者は田中真紀子氏だのそのご子息だのと時間をつやした居酒屋談義を思い出すが、まだ民進党員多数が女性党首党移動前の話として時代は終わって行く。

 

 

                  

 

 

故長島忠美氏と寺泊会

 

 

 

寺泊会の名刺簿に越後出身の国会議員さんや市長、知事さんなど多数がファイルされている。

参議院議員森ゆう子、衆議院議員菊田まきこ、衆議院議員高鳥修一、新潟県知事泉田裕彦、新潟市長篠田昭、等の各氏その他である。菊田さんも高鳥さんもめでたく今回の選挙には当選した。

衆議院議員 長島忠美氏の名刺も2枚ある。ふるさと想いの同氏に東京寺泊会でのご臨席賜りスピーチ願いたく、思い切って名乗り出たところ、ここに連絡しておけと、お名前の忠美のところに振り仮名「ただよし」とついている名刺を頂いた。裏面には永田町の衆議院議員第2議員会館の部屋番号と電話番号が記されていた。

寺泊会が同氏の名刺2枚所有しているのは、同じ話を2年かけて2回お願いしていたからである。

だがこの願いも叶わず今年の8月に先立たれてしまった。お別れの会は10月30日(ホテルニューオータニ長岡)に執り行われる。

 

 

 

ここに6年前の新潟5区の衆議員選挙を思い出す。田中真紀子氏(当時民主党)と戦い約3万票差で当選されたのが長島忠美氏であった。山古志村村長さん時代から故郷を大事に想い続け国会議員さんになられても中央からその目は離されなかった。災害復興についても片時たりともその手を休めてはいなかった。

だから山古志と同じ長岡の寺泊会なら、顔を出しましょうとなったに違いない。山古志村さんは寺泊町より2年先輩として長岡市に併合していた

 

さて平成29年秋は衆議院選挙小池戦略が失墜し自公大勝に沸く.

当選された衆議院議員・泉田裕彦氏に寺泊会はご臨席を期待する。その訳は極めて単純である。

補欠選挙出馬が決まった際、同氏の第一声コミットメント・私、泉田は(寺泊さんのいる)新潟5区・故長島忠美氏のご遺志をしっかりと引き継ぎたいと述べておられた。

なお(・・・・・)内の声明部分は、声が小さかったらしく聞いた者はいないが。

 

 

この崇高なるご意思を尊重される暁を夢見て、当選を喜んでいるのが寺泊会なのだ。

そして寺泊会へのご臨席は、故長島氏が抱いておられた未達の遺志であるとして、次の代で実証してほしいのである。

 

これぞ立派な故人のご遺志の尊重である。幸いにも新潟県人知事時代に名刺交換しており寺泊会をお覚えであろう。

東京寺泊会第63回大会の開催は、2018年4月22日に決定済みだ。ご招待状を送付することになっている来年が楽しみである。

そのために12年前、寺泊の首長さんは、長岡市と合併の道を選んだと主張する屁理屈は誰も信用し難いかも。

 

寺泊が長岡市になった日

 

寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。

 

やがて、寺泊の町長を語れるのは、

 

古老たちが集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。

その話をまとめて編集したらこうなった。

町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。

だが寺泊人にしてみると懐かしい名前が登場して面白いとの少数派の評判も有る。

寺泊町が消えた日・・・平成の大合併と閉町式

 

   高橋 誠氏逝去 ・・・・(合併前、最後の町長)享年64


寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、
共に明治22年の事である。
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に
号令した結果伝統的な地名が消え
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。
明治34年には野積村を含む近隣4村と一緒になり
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口
18000人近い、自治体となったのである。 
平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併
冠に長岡市をつけることとなり、町としての「」の名前は消滅した。

 

「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。
高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長
公務多忙により副会長が指名され閉庁式に単独参加となった。

 

午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と
荘厳なる閉町式となった
やがて、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の
手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋町長に手渡された。
式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会臨席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。

アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、
力強く閉町の雄叫びを轟かせた。


公式資料で大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。


   ▼寺泊町(旧)の歴代町長・最長は高橋氏

     初代町長  柳下安兵衛    
     2代目  本間健四郎   町制施行〜大正4年
     3代目  神林津三郎    
     4代目  桑原源治 大正4年7月〜5年11月  
     5代目  柄澤政雄 大正6年1月〜6年6月  
     6代目  寒川卯之七 大正7年9月〜10年10月  
     7代目  大平廣弥 大正11年1月〜昭和9年1月  
     8代目  治田竹治 昭和9年1月〜13年1月  
     9代目  竹澤茂一郎 昭和13年1月〜18年10月  
   10代目  外山勘兵衛 昭和18年10月〜21年11月  
   11代目  大丸常松 昭和22年4月〜25年6月  
   12代目  高綱三作 昭和25年7月〜41年7月  東京寺泊会創設期
   13代目  藤田子男 昭和41年7月〜53年7月  
   14代目  中島甚一郎 昭和53年7月〜63年6月  
   15代目  高橋 誠 昭和63年7月〜17年12月

                           資料提供 旧寺泊町役場
 

てらどまり」が寺泊町として町制施行以来
歴代町長は15代の首長によって継承された。


■。。高橋 誠第15代町長特別追悼の章。。■

■■
2010年10月25日長岡市寺泊支所・地域振興課より東京寺泊会へ
15代町長・高橋 誠氏の訃報が届く■■

■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」に、元気な姿で来賓参加され、同年の東京新潟県人会納涼大会でも、古川原名誉会長や三上会長(当時)らとも懇談のテーブルにつかれていた。


中央が高橋 誠町長 左は古川原名誉会長、右は
三上会長、後列左から小林正則小平市長、その右は渡部作次副会長と小泉美恵子理事(いずれも平成17年当時の役職名)

50周年大会に参加した高橋誠町長の巻高同期生
・・・・・・・・・・・・・・


寺泊町の歴代教育委員長
 藤田 武 昭和31年10月〜53年9月  
 廣川廣四 昭和53年10月〜平成1年11月  
 長谷川達栄 平成2年3月〜平成12年9月  
 柳下明也 平成12年10月〜平成17年12月  


旧寺泊町の名誉町民
 亘 四郎  昭和50年2月推薦
 外山勘兵衛  昭和59年3月推薦
   小林  進     昭和61年9月推薦
 
「新・長岡市」になった寺泊・与板・和島・栃尾地区から合計
8名の長岡市・市議会議員が割り当てられ、旧寺泊地区定数
2名が割り当てられた。
選挙は1月29日に行なわれ、7人が立候補、下表の結果となる。
トップ当選の高橋誠氏と2位当選の古川原直人氏は、同期生。
また、寺泊町役場は長岡市の「寺泊支所」と名称が変わり、
森山信太郎氏が初代・寺泊支所長に就任し、本合 收 氏を経て
現在は、長谷川知雄氏で、いずれも東京寺泊会の懇親会にご出席された経験がある。


合併直後の長岡市市議会議員選挙
候補者名(年齢)    得票数
高橋 誠 (59)     2106
古川原直人(59)   1370
高井 裕 (54)   1118
山田省吾 (53)    965
田村勝三郎(66)    815
有木清司 (53)    682
星 又一 (64)    227

  選挙結果は新潟日報のHPより

 

町旗降納式東京寺泊会でも式典実施
新長岡市誕生に伴って東京寺泊会でも祝賀記念を行う。高橋町長は東京寺泊会のためならと、町に特別許可を与え、歴史的遺産物は東京へ持ち込まれた。

かくして、町旗は森山初代支所長から寺泊会第7代三上喜久治会長、渡部作次副会長が代表して納還式を執り行い再び旧寺泊町へ還された

       ▼寺泊の町旗はこれで見納めとなった
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第36回弥彦村人会11月12日開催

 

 

弥彦村人会入門

 

 

2017年11月12日・弥彦村人会開催 

 

 

29回大会のレビュー。

寺泊会と弥彦会のお付き合いは、いつから始まったかは、判らないほど古い話のようだ。春の寺泊会、秋の弥彦会は互いに会長、役員あたりが来賓として招かれたり、招いたりして何年間も継続している。平成29年度の弥彦村人会は11月12日(日)にお茶の水にあるホテル聚楽で開催との案内が届いた。お世話になります。すばらしい大会になりますように。村長さんや、弥彦神社の宮司さんも、おもしろいお話しをされることでしょう。

弥彦村と寺泊町・・・ 平成の大合併で踊らされた日本全国の自治体は 無数にある。 越後国のほぼ中央に位置する、弥彦・分水・寺泊も例外でない。 寺泊町役場は、ネットで新地名公募までやりながらも、3者合併は 実らず寺泊町は長岡市に、分水町は燕市へと 巣立って行った。 弥彦だけは村を貫き他の血と交わることはなかった。神社のお告げか、吉と出た。かくも発展する弥彦の村長と祝杯の一献を傾ける機会に恵まれた。


方の合併はならなかったが、東京寺泊会と東京弥彦村人
東京分水会の3団体は互いに交流の機会を継続している。弥彦会さんの現在は、加藤会長から堀会会長へとバトンタッチされ、副会長は羨ましくも、全員女性陣で構えておられる。
東京弥彦村人会は郷里の、弥彦中学校同窓会を基に29年前に創設され
現会長の堀 優氏(東村山市在住)は、中国通で、永年隣国相手の仕事に携わっていた経験を生かし、幅広い人脈で、芸能文化と、会に招致して、イベントに活用させている。
今年は、「フラダンス」だそうだから、肩がこらないだろう。

ここの会は、加藤会長時代から、ホテルロビーの階段を利用した集合写真で会が始まる。
ホテルとは言うまでもなく、弥彦村と縁の深い「ジュラク」のことである。
お茶ノ水駅に近いこのホテル周辺は、高層ビル建設ラッシュも一段落で比較的静かになった。ジュラクといえば観光地に素晴らしいホテルを構えているが、ホテル業の歴史はそう長くはない。 現在はこのドメインを抜きではビジネスモデルが成立しないまでに発展した。 越後出身の著名企業である。

 

 

現社長の祖父・加藤清二郎が大正13年3月に、神田須田町で洋食屋開業して以来93年が過ぎた。

聚楽50年の歩み・昭和49年発行より・・加藤社長提供) 
越後から列車で上野に到着すると、真っ先に駅前に見えた「聚楽」レストランの看板とネオンが懐かしい。そのお孫さんが、ご自分のホテルとは言え、いつも、会の参加者に如才なく振舞っておられる。

来賓あいさつで、越後人の気質を述べられた加藤 治 聚楽社長。

弥彦村は、首町変変われど必ず懇親会に、村長さんもご出席。             笑顔いっぱいで会員たちに声をかける大谷良孝 前村長

村の温泉施設は繁盛するは、ここの村の居住評判を聞きつけ、村への転入・人口は増えるはで、悪い噂は聞いたことが無い。
首長激務の中でも、村政は安定しておられるようであった。

 

弥彦村は永年、村長選挙無用のまちとして続いていたが2015年には

現職に久しぶりに挑んだ新人が、約10歳年上ながら当選。それまでは無投票選挙が40年以上あった訳だから、村民たちも複雑な気持ちだったであろう。詳細は11月の大会で取材予定である。

 

 

 

     

総合司会の武石堅次氏(境江出身)は弥彦弁で奮闘する真面目な正確そのままで、笑顔を忘れない。

抽選会で用意された会長賞と村長賞。右は、「ながいも」のダンボール化粧箱

さて、もう一つの名物賞品は「超ながーい、ながいも」。当ったのは藤田 繁さん(岩室だいろ会の会長)。毎月、だいろだよりを発行中



こちらの方の名字は軸屋さんである。手にしておられるのは賞品の商品でない。鹿児島産の芋焼酎である。軸屋さんのお顔が恐そうだったが、顔見知りで弥彦会の監査役、宮川玉城氏と同じテーブルだったのでお話させていただいた。

「鹿児島の酒造の娘と結婚しましてねと、まあ一杯どうぞ」と差し出され試飲。さすがに特上甕(かめ)仕込みである。きめ細かな味で、きりっと飲み応え満点。都内ではなかなか手に入らないそうであるが、ネット注文沸騰中とか。焼酎と言えば、いつもはお湯割りでその上、うめぼし入れて飲んでいたのに、これは何にも入れないでぐいぐいいける。思わずうんめーと叫び、コップで2杯頂いた。それもストレートで。
その名も「軸屋酒造のトップブランド品・軸屋」であった。奥さんの実家が会のためならと、提供して下さったそうな。薩摩の本格芋焼酎発見の会となった。


弥彦神社宮司(写真右端)永田忠興氏の話術は本当に面白い。言葉の中に世を見つめている風刺がこめられていて、東京新潟県人会副会長の廣川高志氏(写真左端)と、爆笑しながら、ついつい話し込んでしまった。

ところで堀会長になってから、ここの会は珍しく3人の女性副会長体制を組んでいる
舞りが得意な杉山榮子副会長(麓出身)は、ステージ出演は、節目の記念大会までお預けよと優しく教えて下さった。

 

東京寺泊会の懇親会でおけさを踊ってくれたのは、数年前の話になる。往年の宴席での艶姿をもう一度観たくなる。


 ■オープニングで歌唱指導をされる一柳建子副会長(弥彦)は、闊達で、「この方は、お料理の達人よ」、と周りのご婦人から
教えてもらった。宴席で何回かお会いしているが、時折着用する、真っ赤なオートクチュール姿を、今回は披露されなかった。
 もう一人の女性副会長は
鍼灸接骨院を経営する院長の黒田マリさんである。スタッフには体育会系の若者が多く、人気サロンスタジオで、郷里に構えた自らのオフィスと東京・大田区にある本部を頻繁に往復しており、素晴らしい弥彦観光大使の役目を担っているようでもある。写真中央マイク姿の西浦明代士・相談役と抽選会の発表をしておられたが、

 

女性起用がお上手な、近頃の弥彦会さんであった。          

 

 

 ■参考資料;第29/36回東京弥彦村人会定期総会案内書

 

 

   

 

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アルビレックス新潟に気をもんでいた大越さん・・サッカーJ1リーグの話ですが

 

平成29年も5年前と

 

同じ記事原稿で使える不思議な物語。

 

それは2012年師走のことだった。・・神戸・大阪・新潟が同一境地のトップニュースで話題提供。史上初。NHK夜9時の番組でもスポーツコーナーで披露するや、夜9時の顔で人気キャスターとして大活躍されていた越後人、大越健介氏は、すかさず「私の新潟は大丈夫ですか・・」と心配気な切り出し。


 (写真提供   NHK元ニュースウォッチ9・編集部)
Jリーグ誕生は全国主要都市の地名を冠に付けることで、当時の協会がチーム名を承認するシステムであった。日本のプロサッカーは、企業が支え、その発展を育んで来た。八幡製鉄、古河電工、日立製作所、住友電工・・・重厚長大企業が日本国の景気発展に寄与しながら、バレー、野球、ラグビーとファンを増やしプロスポーツマンの才能を伸ばしてくれた。
サッカーはヨーロッパが本場だけに、企業の冠をつけたスポーツとしての人気は、当時華やかだったラグビーや野球に比べ、大衆のものにはなっていなかった。これを打破したマネジメントが、一億大衆化を到達目標においた、都市名チーム挿入ネーミングシステムであった。
我が越後は、サッカーにおいては他県に比べ認識人口は多かった。その理由は、新潟国体のお蔭で、大学のクラブでサッカーをしていた選手が新潟県の教員になり、現在のJリーグの下部組織の、公式試合に出ながら、高校などでサッカーを熱心に教えていたことにある。従って新潟県民のサッカー観戦人口数だけは、何回もJリーグの記録を塗り替えている。
但し新潟県の強豪・新潟工業も、巻(アルビ現社長の母校)も明訓も、高校サッカーは、静岡より南に位置する県の、広島、鹿児島、長崎などの名門高校にいつも大敗していた。「新潟はスポーツ不毛の地らすけしょーがねこて」アルビレックス創設の御大・池田弘氏も、その著の中で認めていた。
だが2012年の師走初日は、これを懐かしんでいる時ではない。大越健介氏が気にしていた、アルビレックス新潟が、J1残留かどうかの瀬戸際に立たされているからである。
12月1日午後3時30分キックオフの、J1リーグ最終節の結果次第では、県民こぞってJ1の試合結果を気にしていた。
一部リーグとさよならするかも知れないのである。名門ガンバ大阪、おしゃれなヴィッセル神戸も同じ境遇である。
新潟県民には安心感がある。最終試合の対戦相手が、コンサドーレ札幌だからである。今期のサッポロは、最下位常連を貫き透している。昔、プロ野球で横浜大洋が最下位を続けていた時に、他のチームから「横浜大洋銀行」様と呼ばれていたことがあったが、サッカーのサッポロはまさにこれに等しかった。即ち、対戦チームにはありがたい「勝ち」と多量の「得点差」を譲ってくれているからである。新潟は今日の対戦でこの恩恵に授かり、勝ち点を3ツ伸ばし、17位を脱却。大阪・神戸と同位になっても得失点差で一歩リードするはずである。(しかも、オレンジ色に染まったームグラウンドの大観衆のもとで。(2012年12月某日。15時26分校了記事)
あれから読者さんも5歳もお年を取られた
はずだがお変りございませんか。
大越さんも心配してから5年経った2017年8月お盆頃。
J1順位表を見て越後人やいかに。
夏も終わりそうな8月時点において、得失点差、マイナス33で5年前の6倍も多いから重症だ 。
23戦戦って勝った試合は2つだけ、J1 18チームの順位表で、18位として不動を堅持すること数カ月、義理堅い社長をはじめ再建
名手の監督さんに交代後も、なかなか結果が出せない。
今期の最終試合は12月2日。残り約11回の対戦で、何試合勝利するかが気になる。
生活習慣病で倒れ入院した働き盛りが脳梗塞末期まっしぐらの感がする。J1からJ2へ移っても、やがて復帰したチームは数え切れないほどあるから、これも仕方ないかと諦めるかどうかは、その人の勝手だが、広島市民と違うのはプロ野球チームが新潟県にない。焦点のはけ口がないのである。何事もリスク対応が必要なのだと再び諦めることにするしかない。確かに監督さんもいいし社長さんも良い。あと5年は待ってくれ、てか。
ならばと5年前の降格ライン攻防線を振り返ってみるか。
寺泊会だよりの閲覧スタイルが変わったことといえば、夜中の読者さんが激増したことである。
夜中の2時であろうと3時でも明け方まで、皆さんで閲覧しておられるのが不思議である。
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気になる中継中の表示。NHK総合では、ガンバ大阪とジュビロ磐田戦を中継しながら、特別表示板をサービス。

あと少しで残留決定。今年でしか見れない表示板。午後4時11分とその1時間後の「このままいくと・・・」プレート

 

 

 

 

結局はこのままで戦いは終わった。5時過ぎにはガンバは磐田と同点となり、もし磐田に勝つと勝ち点で新潟に並び、得失点差で新潟を蹴落とす。しかしながら再び磐田が得点を入れ、ガンバキュース。結局は新潟県民はめでたし めでたし。来年はどうでしょうか。ガンバは創設以来の、17位となりJ2へ降格。これまた創設以来の、パナソニック財政事情とともに、翌日の話題の中心になる。18位の札幌は早くから降格をきめ、2012年12月4日には、ゴン中山が引退宣言。
時代は移りゆく平成の24年の末であったが、さて平成29年末にはどんな記事になるかがお楽しみである。大体わかっているが、ファンが多いだけに、うっかりしたことを文書に残せない。
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苗場のフジロックが終わると寺泊港まつりの花火大会が気になる

 


フジロックの季節
2017/7/28-30完了

 

そしてフェスが終わったら越後苗場の山から同じく越後寺泊の海へと

人が流れる現象は今年も健在である。花火前夜のステージが

気になると1年前から寺泊の旅館ホテルに予約済みとか。

 

 

の文字で今年も検索数激増である。

これはかつて寺泊出身のNHKキャスター

大越健介さんを寺泊会だよりで紹介した直後の現象に酷似しており、

全国で寺泊会に関心が有るはずないのにと、検索ワードで分析したら、

その理由が判明した。

 

 

ロックの季節到来が、寺泊会だよりまで飛んで来たようである。

寺泊会とは関係ないが、同じ越後に関連するイベントが縁で、

 

寺泊会だよりを読まざるを得ないらしいからありがたい。

 

寺泊港まつり花火大会・芸能ガイド前知識

 

海上花火大会の前夜は中央海水浴場

 

芸能特設ステージで音楽祭が豪華に

 

繰り広げられる。魚市場での買い物客さんも

 

目が離せない。(6日(日)午後5時開演予定)

 

今年で12回目の出演となる蘭燃さん(youtube編)

 

越後出身で震災復興応援ソングで

 

活躍する寺泊大好き隊の

 

メンバーと聞く。

 

来春開催する第63回東京寺泊大会の

 

ゲストシンガーの声もあり。(寺泊地域振興課次第だが)

 

 

 

ギター好きのファンにはたまらなく

 

賑やかなパフォーマンスが楽しみな

 

2017年7月29日(土)フジロックに出演したばかり

 

サザン・桑田佳祐・師匠公認のロックバンド

 

桑田研究会バンド(youtube編)

 

 

我が寺泊港祭り・花火大会前日に公演。

 

寺泊の浜でも茅ヶ崎沖ならぬ、佐渡島を見ながら

 

サザン愛溢れるパフォーマンスを繰り広げて

 

盛り上げようって訳か。

 

 

 

一方、東京出雲崎会や新潟県人会でもおなじみの

 

天領さとみさんは隣の出雲崎出身である。

 

天領=出雲崎だから当たり前だが、

 

かつてはのど自慢あらしのチャンピオンとして

 

名を馳せ、やがてはプロの歌手へと育っていった。

 

日本海を臨む、寺泊の浜で唄うと、

 

驚いたことに、さざ波超えて8里離れた対岸の

 

赤泊港迄その美声が届いたという。

 

検証しようかと海上保安庁にお願いしたとの噂が立つ

 

寺泊野外ステージの常連天領さとみさん(キャンペーン画像)

 

 

 

夏が似合う、パワーあふれるパフォーマンスも楽しめる。

 

あみドルファンは、開演早々最前列で出番を待つ。女子柔道界のアイドルで48キロ級で何個も金メダルを手にしている同名の

 

近藤亜美と間違えそうだが、女子柔道の彼女は尾張人。うちのアミドルは純粋の越後人。

 

ずっと昔だったら、河合奈保子も寺泊港のステージに出ていただろうに、今や話題にするのも希少価値。彼女の娘さんに期待しよう。

 

 

長岡市出身の近藤亜美さんは寺泊大好き隊の一人である2013年夏・寺泊ステージ

 

(本稿の記事には各youtubeを無断借用しておりますことをご了承ください)

 

花火前夜祭の歌謡ショーには、寺泊舞台に協力してくれる有難い顔なじみが、2017年今年の夏も出演予定である。

 

観光協会のポスターでリスティングされている、タカツタケルのアコーステックギター熱唱も見逃せない。

 

寺泊町を根城にして地元の音楽仲間たちと、内外でライブ活動に励んでいるが、30代後半には見えないタケルさんである。

 

熱情歌手ぴったりの生きざまが、素晴らしい奏法になって、大小問わずどこのライブ会場でもファンを魅了している。

 

長年一緒に過ごした自らのアコギサウンドと、後頭葉から発する叫びこそ、彼の人生そのものである。

 

我々寺泊会は動画を見て、こりゃ現代の義太夫師ではないかと、叫んでしまった。

 

港まつり会場の観客さんには、すべてのストリングと同時に発する語りを、じっくり楽しんだら、

 

次回のライブまで訪ねてほしいパフォーマーである。

 

 

 

 

 

さて東京寺泊会大会の宴席を覗く。

 

寺泊会は、毎年4月開催・62年前に創設の老舗郷人会である。

 

出席してくれるお客様を監視すると、個性豊かで面白い。

 

先頭切ってカラオケでうなる歌謡演歌派に始まり

 

ふるさとの花鳥風月を、壇上せましとばかりに数人で合唱する

 

文部省唱歌派など様々な個性をお持ちの

 

唄が大好きな足腰の弱った連中が大勢いる。

 

花火前夜の8月6日(日)寺泊野外フェスは彼らにも

 

見せてやりたくなるシーン続出となろう。

 

寺泊観光協会のポスター(PDF編)

 

 


 

 
フジロックの宿で検索数激増
 


来場者数が10万を超えるロックフェスタは、アリーナや、ドーム球場の出現で、今や珍しくないが、20周年を迎える、このフジロックも、略称そのものが登録商標故に、商売として第三者が勝手に乱用できない。当初は2日コースで観客数3万人からスタートし、6万になり昨年は、3日間で12万余りと発表された。娘を天神平(富士山中腹のスキー場)まで、車で送迎した頃が懐かしい。その名のとおり、富士山の中腹にロック会場が有った。だからフジロックというのかと、15年前に納得していたが、今、会場を移しても名前変わらずである。台風の心配さえなければ、富士山コースは、絶好のドライブウェイであった。御殿場駅から、バスで会場へ行くファンも多かった。

フジロックなる野外音楽会は、会場を静岡県のスキー場から、東京を経て、越後・苗場山に変えた途端人気沸騰。スキー場のド真中に苗場プリンスなる、巨大なリゾートホテルがあるのに、ここに予約できないのが常識となり、ホテルに入りたかったら、背広を着ない業界人になれと言わんばかりである。おかげで、7月末は、会場からかなり離れた民宿や社員寮、老舗温泉宿まで満員となり大賑わいである。

三国街道の老舗旅館・貝掛温泉は、雰囲気良く、温泉場に一軒しかない事が幸いしてか、露天風呂を中心に旅番組で必ず顔を出している。若女将の、テレビ慣れした紹介も楽しい。

静寂の三国街道に潜んでいた、山賊が出たころに、いきなりフジロックの大音響が轟いたら、さぞかし超仰天し腰を抜かしたに違いない。7月後半は台風、低気圧と豪雨でも、ファンは集まる。夏晴れにしてやれと、天に言いたくなるが、人気アーティストの生音を、聞けば、皆満足した顔で帰ってくるから、雨でも風でも問題なさそうである。越後の観光協会長も大喜びであろう。


さて東京新潟県県人会は、創立110周年も近い。日本国の通常国会は、今年が190回目だそうであるが、財団法人・県人会恒例の定時総会、寺泊会も所属する、総務委員会が取り仕切って、賑々しく、執り行われる。
毎度の準備に馴れた委員。総勢20人は、この日が楽しみである。第2部懇親会を終えたあとの、打ち上げ会・会場を近くの割烹で予約したうえで、101回目を迎えた当時の物語である。

 

新潟県・観光協会・会長さんが身内の一大事として、越後の旅館へどうぞと集客協力要請


新潟への観光PRをしながら積極誘致

今年の御来賓は、社団法人「新潟県観光協会会長・高橋正」氏が引き連れた「旅館組合の野沢幸司理事長」をはじめ、「旅館の女将、若女将」さんたちであった。

大震災後に、越後の旅館へはキャンセル続出、
総数12万件のキャンセルは、越後の宿の一大危機である。自粛もいいが、新潟県の宿の良さを全国にアピールしてくれと、新潟県知事・泉田裕彦氏に訴えておられた姿が、先日のテレビで紹介されていた。
そういえば、今春お会いした際頂いた、知事さんの名刺にも、ユニークなロゴが書いてあったが、新知事に変った今ではレアモノとなってしまった。

さて、押しの利いた声量を持つ、新潟県・観光協会会長・高橋正さんが仕切る引率者さんたちの紹介で、第2部の懇親会は始まった。
かつて、新潟市議会で主流・半主流を取りまとめた、議長経験があるだけに、積極性ある態度ながら、物腰柔らかく、その話しぶりが、大変魅力的であった。

名物弁護士さんの、あいさつも、楽しい。今年のテーマは、100周年記念誌当時の、販売に関する取り組み方に対する意見陳述であった。
私見としながらも、100年だろうと500年記念誌だろうと、どんなに立派な装丁と構成であっても、所詮、作り手の自己満足でしかない、従って、販売の取り組みには慎重性を要する..と弁じた。
会場の参加者の多くは、何らかの会の、会長か幹部で、何冊かの販売責務がある。慎重に聞いていた。ちなみに寺泊会関係者は、合計50冊を手にしたが、小林秀雄会長の協力があっての話である。

堅いお話はともかく、越後の旅館組合を代表して、奥湯沢の旅館・貝掛温泉の若女将長谷川秀美さんも、5代目の主人を支えながら、温泉来訪大歓迎のメッセージを発していた。苗場スキー場周辺にある、民宿の倍以上の宿泊費も、泊まる価値十分にある。
全国「温泉湯宿を守る会」のメンバーとしても活躍している。

東京寺泊会からの提案であるが、夏の「フジロックフェステバル」で、まだ宿の予約がとれていないファンは是非、苗場に近い、ここの温泉旅館も検討してほしい。

■御存じのように、毎年苗場プリンスは、予約困難、周辺民宿もすぐ満杯になる。
会場ゲート近くへの専用バスを用意させたらどうか。若女将の秀美姐さんに相談したら・・・。その予定はないが、いつだったか、著名アーティストと、露天風呂で一緒になったファンが大感激したこともあったそうである。


那須の温泉に行くならこのお方を紹介する。県人会相談役の横野寅雄氏である。東日本大震災でも、宿の地下層の岩盤強く、びくともしなかった由。
その名も有名な・五ツ星旅館、掛け流し温泉「大鷹の湯」の経営者さんが越後人である。
後方は、参加者と名刺交換に忙しい、新潟県東京事務所・池田幸博所長である。

総会議題の1〜4号議案も無事可決され、2部の懇親会終了後は、予定通り、総務委員会の打ち上げ宴会を上野・御徒町駅近くで開催。総会も終了し、ホッとしたのであろう、お偉いさん方は、県庁から出席された、特別ゲストを交えて痛飲。越後人は本当によく飲む。都会に住んでいて.越後出身ですというと、必ず「お酒は強いんでしょうね」と問い直される。
年金の多寡から退職金の差異にかかわらず、同等に杯を交わしながら、思考衰えず、他を詮索しない豪放な70代達と混じる、ひと時は、実に楽しいものである。県人会を退会したて久しいから毎年の総会には、懇親会の司会をするお座敷もかからないので、当職としては他人事になっているが。



 

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スターマインのお値段はいくら

 

 

寺泊観光協会の名案、出資者エビデンスとは。
寺泊観光協会のキーパーソン・会長・副会長の手腕が日本中で評価されているらしい噂を検証した

 

花火の季節が間もなくやって来る。どこの主催者も強力な顧客、即ち浄財の提供者さんがいないところでは、見えないところで苦労している。

 

寺泊港まつり観光ポスター

 

尺玉の大輪を○○千発とか3尺ダマから4尺玉もあるよと前宣伝を華やかに打ち上げたいところだろう。

そこで花火の打ち上げ費集めにあの手この手で戦略を立てているのが裏方さんである。

 

クラシックな手法では、東京多摩川や湘南海岸に見る、個人・法人を問わずあなた様からご寄付を頂いたら、打ち上げの際にきちんと丁寧にお名前を宣伝してあげますと、従来の手でキャンペーンを張っての資金集め。

 

 

一方、手法の中で名案を出しているのが、今年4月の寺泊会大会宴席の壇上で声を大にして宣伝された、

観光協会で花火担当委員長さん。

 

 

頑張っておられるのが、割烹旅館・山長の旦那さん(大倉英雄・寺泊観光協会副会長)である。

その秘法が悩ましい。

従来通り、ご寄附を募るのは変わり無い。これだけだったら記事にもならない。

 

 

しかし、指定号数以上の協賛金をご寄附頂いた方には、素晴らしいトレーサビリティの特典が付く。

 

それが出資エビデンス方式と呼ばれる、記念証拠写真戦略である。

仮にあなたが尺玉相当の寄付をしたとする。

観光協会がそのエビデンスとして、実際に打ち上げた、あなたのその花火写真を

ご芳名付きでパネルに入れて、制作してくれるそうである。

 

ふるさと納税の花火版か。

 

勿論当日の会場では提供者の丁寧な紹介も忘れない。紹介だけではもったいないと、提供花火打ち上げの証拠記念写真を制作して、お返しする名案である。

これなら一瞬の大輪も平成29年度夏用として飾ってもらえれば今年中持ち越せる。

そして来年にになったら今度は平成30年度版の新しい写真が欲しくなるに違いない。

結局は翌年も同様の寄付が頂ける可能性があるので観光協会も一安心となる。

さてあれやこれやで主催者の労は慰めたい一心で、寺泊会も微力ながら平成29年度用として協賛した。

とにかく花火の季節到来である

 

寺泊港まつり花火偏は8月7日(月)19時30分〜

今年も30万人を寺泊の海浜において

 

5000発で酔わせましょうか




 2017年寺泊の夏、今年も賑々しく「寺泊港まつり」が開催される。以前のデータによると、花火大会の総経費は約500万円超であった。当然のことながら、この費用は寺泊町民・現長岡市民と法人企業、団体などからの浄財にもとずくものである。お客さんに喜んでいただければ、収支を考えるより楽しくなる。寄付金制度はありがたく、これに見合った花火がプログラミングされるから納得する。

大都市が荒使いする、4年に一度の「オリンピック開催するための費用」限定については、見積り段階から、巧みなる合法的な競合方式で、建設業者、服飾デザイナー、企画会社、大手広告会社、開催地へ誘致職員を、多数派遣した旅行業者も、デスカウントを忘れ、定価で見積もったのではと今頃市民は気が付く。

当時の誘致委員会職員も、税金で清算すればいいから、誰も困らない。東京は成功はしたが、残念ながら招致に失敗しても、仮に100億円也を遣っても、すぐに清算されてしまう。かつて地方都市の信州でも、冬季大会開催後の総経費・合計は公表したものの、領収書は、3年後には焼却又は紛失処理で終結と聞く。法人企業なら、7年間は使金領収書を保存するが。

さて寺泊の花火は8月6日から開催される賑やかな港まつりの中にある。観光協会・会長の山田栄三郎さんは.その見どころを「海中・海空スターマイン」だ、と東京寺泊会・62回大会であつく語っておられた。
一発48万円なら、安いもんだと、寺泊会の名前を売るつもりで、その時はお任せ下さいと胸を叩きながら寄付をしようと考えていたが、実際の段階になって協賛金の寄付願いを受け取ると、大金寄付の実現は先に延ばし、ほんの気持ち程度になり、海中スターマインは次回にしましょうやと、役員達と話す始末。これで何年目か。

ところで、花火の華はやっぱりスターマインである。そのスターマイン提供のスポンサー協賛価格はいかに・・・・。資料として保存してあった、寺泊会に届いた価格一覧をレビューすると・・。今年はもっと単価が上昇するであろうが。
  

花火のおねだん一覧このテーマも結構検索多し
 普通のスターマイン 16万円
 
 10号玉 4万6000円
 
 5号玉 1万0200円
 
 
 超特急スターマイン 37万也
 
 海中海空スターマイン 48万也
 
 ベスビア ワイド特大スターマイン 251万円也
 

 

寺泊町の花火師といえば青木さんだった


そんなこんなで、2017年目標の5000発も、よそさんがお作りになった2015年度の動画をお借りしながら、一瞬にして開いて消える花火を値段で観るのも一興である。

 


60年位前、長岡の安藤さんと並んで、寺泊町には「青木」さんなる打ち上げ名人がおられ、夏の花火大会だけでなく、朝早く、町や小学校の運動会・開催を知らせてくれたりもしたもんだと、東京寺泊会の古老が語ってくれた。
それぞれが花火には、色々な思い出があるもので、熱狂的な花火ファンも多い。

寺泊の豪商トカンさんの親戚で、今春まで東京寺泊会の第9代会長をされ元気だった 外山健太さんは、大の花火好きだった。

毎年長岡の花火を観るために、首都圏で大勢の熟年たちを集め、バスを仕立てツアーを組んで長岡まで足を運んでいた。

 

定年後の趣味として、全国山歩きの会も主宰していたが、この会員さんを中心で花火には、去年までは大勢を引率して信濃川へ。

団体御一行様の帰路はいつも、寺泊きんぱちの宿などで過ごされていた。

誠に有り難い長岡市寺泊町の立派なステークホルダーであられたが、残念ながら平成29年4月に他界された。享年75.天国から見守ってくれているに違いない。

 

 

最愛の妻を亡くした人気歌舞伎俳優が、歌舞伎座の7月公演で恒例の宙乗り姿で息子と一緒に宙を舞う。天国にいる亡き妻の少しでも近くで演じたいと悲壮感が漂うが、寺泊会も亡き会長さんが最も近くで見えるようにと同様な心境である。8月7日の花火大会が楽しみである。分水の春は花魁、弥彦の秋は菊まつり、寺泊の夏はスターマインとそれぞれがふるさとに想い抱く。
 

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東京分水会入門編

東京分水会入門


2017年6月18日(分水町出身者の集い

 

ここの会は

講師
 

地元出身の演歌歌手が2人もいるから

 

年替わりでステージで唄う贅沢な会と評判である

 

上野・精養軒3階「桐の間」・総会開催報告

 

特別講演:樋口 勲氏の「大河津分水物語・人の手のなせる業」に会場は大歓声。近年の講演会では稀である。

雰囲気

 

 

若くて驕らない樋口氏の講演に110名を超える参加者が魅了される

かつての水害大国だった越後蒲原平野で、そう遠くない先祖たちの活躍の秘密を攻めに攻めまくった。

越後人の我が大地・田畑・平野を守りたい・そのためには己の辛苦流血を厭わない溢れる郷土愛精神があった。

泥と汗水は現世に生きる自分達が流して、後世には芳醇な生活を保障をさせねば、と重機がない時代に人手だけがたよりで実現した大河津分水を、物語として聴くと、信濃川を背に越後平野で育った蒲原人でなくとも大きな感動を与え胸を打つ。

 

 

信濃川から日本海側を人工衛星(又はドローンかヘリコプター)で覗くと、海に一番近い地域は三島郡寺泊となる。正確には野積地方となるがここが分水バイパスの最終地点である。河川水日本海放流の出口である。

寺泊の本間屋数右衛門親子、白根の小泉蒼軒や田沢実入、野積の星清五郎らが幕府に分水建設工事を請願したのは江戸時代、何回にも及ぶダメモト請願の繰り返しにもくじけず続けるも叶わず、信濃川に近い蒲原平野は河川災害が頻発。だが離れた三島郡寺泊や野積の被害は、甚大ではなかった。しかしながら越後の将来を憂う気持ちにおいては、蒲原が内陸部であろうと変わりなく愛情を呈し幕府請願に力を貸す寺泊の賢人たち。

 

 

被災地域民は足元の大洪水にこれでも工事不許可かと嘆く暇なく、人力で分水路手掘り作業を開始した。さてこれから通水という時、あの横田切れ、浸水は越後下越平野のほぼ全域。破壊橋梁多数で蒲原に橋が消滅、これが僅か120年前7月22日。明治29年、朝8時に怒涛の大災害。

 

 

燕・三条・長岡・新潟・新発田まで惨状は全域に広がり凄惨だ。これが3年に一回来やがると恐怖の信濃川様になった。

 

だが当時の日本は、河川防災の知識乏しく、川岸に盛り土工法でも最新科学と勘違い。西も東も河川災害続き。幕府曰く、「洪水は越後さんだけではねえすけ」と、越後の大工事プロジェクトを許可する気持ちがない。事実、隣の信州でも千曲川氾濫で道路面から10メートルの松の木が埋まる大洪水が発生。

諦めない越後人。幕府請願活動続けながらも、地元では破産商家の続発で物資なく、米なく、薬ない。蔓延する疫病。

越後壊滅時代の到来。信濃川がミソ糞一緒に垂れ流す(講演者,談)悪魔の川に変貌したか。ご家庭においしいおコメどころの話ではない。

 

こんな先人の辛苦があって、脆弱な堤防第一期工事が終わったのが明治初期。第2期工事が明治末。補修手直しが昭和初期。やがて越後人の夢平成に実り稼働中。2022年で通水100年。だが地球温暖化で世界は干ばつが進み、立派な可動堰でも信濃川から遥か離れた上流が干上がるかも。人類はいつの世も、次なるTREATS脅威に備えねば。それ故に我々のようなコンサルタントが活躍しているのだが。

 

 

 

巨大可動堰関連工事完成の暁には、リスクと機会の中に生まれるチャンスで寺泊海岸の大変貌ぶりは平成の世では誰も想像できない。妥当性確認が不可能な状態で設計検証のリスク影響で慌てる寺泊海岸物語はまだ先のこと。寺泊夏戸在住で高名な史跡ボランティアガイドの小越忠教先生も、推論を立てるには早すぎるかも、

30年後の話とはいえ、地中海の一大リゾート地をしのぐ, 国立寺泊海浜リゾート公園建設の実現にも結び付く、騒音並みの風評が寺泊会で飛び交っているが、平成の巨大工事プロジェクトのお蔭で現実になるやも。長岡と冠を付けるのだけは、なしにしようて。

体操の先生ですか、いいえ、彼は樋口勲先生という、河川防災論のスペシャリストだ。燕市の鈴木市長も、樋口勲氏の大規模河川災害歴史認識とその語り口についてはお気に入りである。地元燕市分水では、近隣の小学校児童にも河川防災と歴史について教育中。

詳しくは樋口先生監修のブラツバメで動画公開中(閲覧無料)。

 

 

本来は教諭向け研修が先であるが研修嫌いが多いときく。但し平成のワークライフバランス最優先のこの時代、先生のザンギョウ(教育関連従事者正規時間外延長作業)だけは、民間企業と異なり収益向上優先の感覚が少ないだけに正規時間中の研修にしないとクレームが来る。児童に先生が慕われた昭和前半の世はとうに昔の話になり、平成の終盤にいる多数の公務員先生達に対して、共済年金受給資格者に到達するまでは、その家族と共に過ごす時間を、我々が恣意的に作ってあげなければならないのである。最近ではお坊さんも残業阻止を唱える(葬儀関連は除く=納骨するまでは高収入に結び付くからか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなポーズもされたと噂の先生です。東京新潟県人会会長の小林保廣さんや、80を超えてもすこぶるお元気な村上昭治・元分水会会長さんなんかも会場最前席で大激賛されておられました。講師曰く、講演会は聞く側が長時間同じ姿勢でいると、必ず飽きられてしまいますのでと、河川災害歴史教訓から編み出した、講演参加者用ストレッチ体操だそうです。これで一息ついてから次のテーマの話に進むから飽きが来ないのである。樋口先生は横田切れさえ無駄にしないで有効活用される逸材であった。

 

 

 


小林恪男会長さんの手腕とおもてなしは終始満点でした

過去に見る文化色高い分水会入門講座

 

2014年の 東京分水会には 「花魁」 登場

 

 



燕の分水か、分水の燕か。

早いもので2006年に分水が燕になってから10年が経過した。寺泊会がおつきあい頂いて20年、思い出の分水会を覗いてみた。

梅雨時の6月こそ分水会の季節である。燕市の市長、鈴木 力氏は嬉々として上京。あいさつに壇上に登ると、「若いねえ」の声がいつもあっちこっちに響く。御当人も意識されてるようで、最年少の市長当選と言われておりましたが、早いものでもうすぐ60の大台に突入しますて・・と、それでも雰囲気は、お若いの一言に尽きる。対立候補もなく無競争での当選されたこともあった。話し方もソフトで穏やか。淡々として、燕市の動向を詳細に解説する。

かつての、小林前市長さんのごとく分水に関する情報をここでは優先しながら。

 

東京には燕と合併した旧吉田町の会(首都圏えちご吉田会)もあるから、TPOで来賓あいさつを考える。

吉田の話題は吉田会で、分水の話題はここの分水会の宴席で盛り上げなくてはならないから、ネタ探しがうまいわけである。


さて寺泊町に大河津から分流して多量の土砂を運んで96年。寺泊町は浜辺の面積がすっかり太ってしまった。

だが安心するのはまだ早い。総完成までにあと30年はかかる大分水工事が粛々と進んでいるのである。

 

こなた燕の洋食器生産開始100年を遥かに超え、市長さんはハイテク生産技術で進化した洋食器産業PRに余念がないが2017年大会の市長さんは、全国住みたい街ランキングで11位にランクされたことや

シンガポールの首相がお忍びで燕市・クガミにご来訪されたことやふるさと納税で上位にきている事などを

満面の笑みで披露するや若々しいお顔が一層輝く。

 

 

一方2017年のプロ野球界では連敗が続き天下のヤクルト球団は最下位の状態に甘んじている。それはともかく、

かつてはヤクルト球団にいた元気良い外人がホームランを打ちまくったのにと、多くのファンは、心の休まらない観戦であろう。

燕市は、「ツバメ」のご縁で球団と仲良くなり、地元のイベントにマスコットを呼んだり、世界最高品質を誇る、燕産の洋食器を優秀選手の特別賞に、提供したりで、多彩なアイデアを馳駆し、燕市上空にいる本物のツバメは、蒲原平野の、はざ木を見降ろし、今日も天空を機敏に翔び廻っているのに違いない。
地元に来た
東京ヤクルトスワローズ(同球団の公式HPの動画より引用)


分水会の強みは、伝統的な「おいらん道中」の存在である。数年前には、すったもんだの末中止となったそうだ。今となってはこの決断は、どうだったかなあと観光協会会長の田中公一氏(当時)は、振り返りながら、首を右に曲げたり左に曲げたりの姿が懐かしい。
決断日が3月13日だったからねえと、さぞかしやむに止むなく風であった。
その鈴木市長も大歓迎した「花魁」は、平成26年には江戸の浅草へ来た。
分水会も吉田会も、設立20年ちょいで歴史は浅いが、大会運営には素晴らしい企画力がある。

現会長の小林恪男会長は真面目派で品が良い。

現役会長の逝去に伴い4年ぶりに再登板したH寺泊会会長と異なり、いつも丁寧に会を運営、分水会歴代の会長さんには、平出英雄氏、岡本満氏やNHK放送技術センター局長・村上昭冶氏氏等が名を連ね、いつも元気な姿を見せ、集いは賑々しく開催される。


ここの会は寺泊会と大きく違うところがある。相違点は現役市長さんが来賓としてごあいさつされる。昨年こそ大 高桑栄松先生を偲ぶ会に出席とかでお目にかかれなかったが、郷人会への積極参加ぶりには、羨ましい限りである。これに寺泊会、吉田会ほかの郷人会の役員も招待され参加させていただく。

 


寺泊会から見て我が親父であると慕いたい、前長岡市長さんへは、合併後、毎年御招待状をお送りしてはいたが、創立60周年の記念大会にも、そのお顔を拝見する事が出来なかったなあと、寺泊会の会員達は残念がる。

と言っても、そのお名前とお顔と言われると寺泊会ではほとんど知られていなかった。なじみが薄いのである。

 

その市長さんも、昨年10月の新潟県知事選挙で落選し退任を余儀なくされ、ただのお人となられたが、5期務めあげた市長さんの退職金となると、さぞ高額と拝察し悠々の人生であろうと、我々の居酒屋談議のネタに貢献している。それともあと3年後を見込んだ再挑戦戦略研究人生か。そうは問屋が卸しまいて。


分水会の田中公一・燕市分水地区商工会・会長とも、長年のお付き合いであるが、今年も、威勢良くごあいさつされる。会場からは、仕事は息子さんが立派に継いでいるので安心しているに違いないと
の囁きも。

そしてステージに加わり、故郷を熱唱されていたが、ことしも純粋な越後蒲原人ここにありと確認した。

平成26年は、6月15日(日)に第20回分水町出身者の集いとして、会場を御茶ノ水から浅草ビューホテルに移し、

更に平成29年になると、6月18日(日)に会場を昨年と同じ上野精養軒に移し賑々しく開催されたのである。
毎年多数参加のもと、盛大にとりおこなわれるが、今年も大抽選会には、善意で多数の協賛品が集まり会場は蒲原分水の熱気につつまれていた。

(写真は第23回大会、一部は第17回東京分水会原稿より転載)記事は講演会資料から抜粋。取材協力:東京分水会 記事掲載講演者許諾済

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宣伝費を惜しまなかった寺泊町の旦那さんたち

 100年前の広告


 ■ 
明治39年(1906年)9月刊行の「北越史料/出雲崎」は出雲崎町と良寛をこよなく愛した佐藤耐雪(写真)なる書家・歴史民俗研究家が著した、後世にとって興味深い歴史書で、340頁にも及ぶ「出雲崎町史」である。他に明治37年刊行の河合孫七著による「寺泊」編もある。寺泊町が人口3000人余りのころの記述もあり、北越史料誌に大きく掲載されている,
寺泊人にとって商家の宣伝広告が懐しく目に映る。日露戦争当時の歴史遺産的文書であろうか。

 
▼(資料提供・・東京出雲崎会/東條玉英会長)







当時の商家が扱っていた味噌醤油の広告から現在のコンビニ並みもあるから興味ひく。イセヤスさんこと、柳下安兵衛商店は醤油醸造を宣伝


一方の雄、ホンマさんは寺泊湊の味噌醸造を宣伝。昭和時代まで使用したロゴマークが懐かしい。



広告スポンサーはこの他にも、(ハマソ)濱惣さんも出していた。印刷技術が高度でないので、どの広告も赤一色で読み取りにくいのは仕方ないが100年前のカラー刷りである。ハマソさんの営業科目は。「和漢洋クスリ」「洋酒」「缶ズメ」「紙」「ガラス」を扱う総合商社風であった。この大きな店の裏は、結構深い日本海で、現在毎日多数が訪れる魚のアメ横あたりは一面きれいな海だった。

 

寺泊会の宴席で毎年威勢よく壇上に上がり、唄の音頭取りをしてくれる、河合忠治さんことカワチューさんの自宅裏庭には程良い高さの松の木がきれいに植えられており、庭の真下を見るとここもきれいな日本海であった。


 

 

寺泊は三島郡の都会とされ、野積は弥彦山下にある出雲崎から5里離れた戸数200軒の漁村となっている。

この「北越史料」雑は、発行が明治39年9月だけに、旧書体で書かれ、当然のことながら出雲崎に関する記述は、微に入り細に入る。100年前でも寺泊の広告スポンサーを募ったことを想像すると楽しくもなる。

ホンマ様もイセヤス様もカワソ様も、寺泊人は太っ腹でいい旦那さんと見受ける。

 

 

■さてこのあたりの時代考証と史話が得意な、夏戸の小越忠教先生に語らせたら天下一品の名人芸ともいえるだろう。先生の教諭時代はロジック回路が専門領域だっただけに、イエスとノーが明確で論理的に調べ上げないとなかなか言葉にしてくれない。想像の域でも記事にして公開する寺泊会だよりとは雲泥の差である。



ここに志田仏壇屋さんでも出てたら、寺泊衆のだんなさん、揃い踏みなんだが。志田仏壇屋さんの現社長がおっしゃるには、かの良寛が国上山から下りたあとの面倒を、味噌醸造で財をなした創業者が、寺泊で末世時期を引き受けようと申し出るつもりでいたが、忙しくて段取りできず、隣町の島崎に行かれてしまった・・とのことである。

東京良寛会も初耳の根拠ある逸話か。もしも良寛が本間家に居候して永眠されたら、寺泊の法福寺に祀られることになったであろう。妹のむらのお墓もあることだし。だが、本人の希望で照明寺がいいと言って、蜜蔵院傍に永眠されたかもしれない。かの貞心尼が、島崎から寺泊湊まであと一足伸ばしていたら、あまりの景勝地に惚れ込み、夕陽のひとつも眺めながら、句作に没頭してしまい、良寛介護もおろそかになったに違いない。寺泊会だより上での想像の話は膨らむと止まらない。(編集長)



 
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寺泊の初夏です。日本海の波音を堪能しませんか

 
昨年,候補3人で強力な争いを呈した都知事選。投票結果は予想通りで終わった7月であった、などと投稿してから早や1年経過。今や女性知事様様で、人気は衰えることなく、我も我もと議員さんたちは、百合子の陣地に集まり膨大する。

 

今日は快晴で、弥彦山もよく見えるし、 もうすぐ海上花火大会。寺泊は最高らて!

と故郷で民宿を営んでいるおやじさんは、電話の中に興奮気味な声を弾ませている。

ネットで確認すると、アメ横の駐車場も相変わらず満員だし、海は穏やかなさざ波状態。

 

そんな寺泊の選挙区は、新潟3区だった。長年の選挙で総理大臣という偉大な親父の、カンバンを受け継いだ娘さんも、その旦那さんも議員を退き、普通のヒトになってしまった。

夏の寺泊は何といっても花火。それに著名な芸能人を呼んで、海を見ながら唄うわで観光協会で副会長している仕掛け人は忙しいらしい。

 

関東の波音と寺泊の波音を科学する。

 

同じ波なのに、どうして寺泊海岸の波は

 

気分が休まるのかを現地で凝視したら結論が出た。

 

(実験観察地:茨城県日立市K海岸及び新潟県長岡市T海岸)

 

関東の波は、波がしらがズズーンと立ったかと思うと、

 

バタンと倒れ、急いで直進する。

 

 

寺泊の波は、波がしらがムックと立ってから、

 

一度ひざまずき、小さく倒れ、それから優雅に

 

ゆっくり直進する。

 

 

 注) この波音アセスメントは海岸の優劣を決めるものでなく、あくまでも個人の感想です。

 

現地測定者の話を基に評価したもので、観測時間・気象条件・測定角度等により異なります

 

初めての方は先ず、長岡市のどこに海岸があるか、を調べてから現地を訪れ

南西の風3メートル程度の時間帯を狙って砂浜又は岩場に座り、2時間程度ボヤーっと波音を堪能してから、機会を作って他県(太平洋側)の

海岸で同様の観測をされることを推奨します

 

 


こんな季節に、波の音を聴くのも気持ちいいことは、寺泊の誇り、千代栄姐さんも上田町に住んでおられたので、さざ浪の魅力は、昔からよ〜くご存じで、これを糸で表現して後世に残したかったに違いない。

 

上田町といえば和菓子の老舗チューミサやシナそばの喜楽食堂、2階がそろばん塾だった清水屋さん、息子がヨーロッパ・トヨタの副社長になった錫村医院が町医者の役目をし、3区と4区との境界に建つクガミヤさんの玄関ガラス戸には「ドゼウ有リマス」の手書きの張り紙が、春化秋冬消えることがなかった。

 

細い能登谷小路を下って浜辺へ出れば波音のざわざわ感が嬉しい。こんな越後の原風景は、寺泊おけさの乾燥した三味のビートが実によく似合う。

寺泊会は70代も多数いるが、郷里の話は止まらない。

世間の衆が集う喧噪な昼時間が過ぎ、夕方日本海が夕陽に染まる頃は、片町(2区)にある彦根山・興琳寺さんの西向きに構える茶の間から、松の木越しに戴く佐渡が島の眺めがこれまた最高であった。当時の住職は玄雄さん。

住持さんに「一見の興を拝ませて」と頼むと、檀家でなくとも立ち寄らせてもらったよ、と会員が懐かしむ。

さざ波を見ながら寺泊おけさ (音声 を 唄えば一流の寺泊人。東京から最も近い日本海の浪を観たり朝やけを見ては。


寺泊の砂丘は、良寛が弥彦山中の、西生寺にいた頃は、山のふもとまで伸びていた。
今は分水川が野積と分断しているので、浜辺を、魚のアメ横のある寺泊中央海水浴場から、弥彦山の麓まで、徒歩で行くのは、途中で大きな橋を渡らないと無理である。

 

知的な解説は、郷里の史跡ボランティアガイドとして活躍する米子先生(小越米子氏)に聞いてほしいが、平成29年4月23日に開催した寺泊会での講演会「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」での、新旧のデジタル画像で違いが判る。

浜辺に実家のある、東京寺泊会の皆さんは、寺泊のさざ波を想い出し「寺泊おけさ」でもゆっくりお楽しみ下さいと推奨する。

時には早朝から、心地良い風が吹き、程よい波高しで、地元にいた時は当たり前だった風景も、遠浅な海岸からの波の形が、素晴らしい絵の如く映る。
北前船の船頭さんも、寺泊で航海の骨休みをしていたに違いない。
名物の「寺泊おけさ」は、名手・千代栄・月子 両師匠さんの手にかかると、高度なテクニックで、すくい三味線をあやし、ミュート奏法に徹し、歯切れ良いブルーノートジャズの如くビートを刻んでいるので、軽快且つ、寺泊色溢れる、芸術性の高い座敷唄として仕上げている。「佐渡ヘヤ〜、エヤ〜八里のさざ波超えてヨ、鐘が聞こゆるヤ〜レ テラ〜ド〜マリ〜。」と結んでいる。
風の日の寺泊は、正にこの軽快なリズムの、寺泊おけさが良く似合う。ついでに歌詞を追うと、最初は言葉の繰り返しから入る「オヤオヤオヤオヤ うり瓜 なす茄子 ヨウガの手 土手まで這い出すカボチャの手 垣根に絡みつく糸瓜の手 川から手を出すカッパの手(ここからが艶っぽくなる)
 

 写真提供:伝統民謡継承団体:寺泊浜っ子会


寝ていて手を出す 兄(アンニャ)サの手 その手を引っ張る 姉(アネ)サの手 手と手と手    あと野となれ ヤ〜レ山となれ・・・と唄われている。

 

両師匠の志を継承した寺泊の民謡団体・浜っ子会の皆さんは 寺泊会創立記念招待公演で上京された懇親会のステージで見事に披露してくれた。

 

 

東京寺泊会のためにと出演を快諾された浜っ子会様ご一行に感謝

 

伝統民謡の継承と伝統海岸の景勝が融合

 

八里離れた世阿弥の佐渡ヶ島がさざ波運び、

 

風姿波伝の文化となって、寺泊の粋な音と波の

 

芸術を生んだと想像すれば波は神の授かりだ。



観光客が絶えない、角上さんのある寺泊・魚の市場通りは写真右下あたりにある。

佐渡からの来る波は無数だが、ふたつと同じ姿形のものはない。耳を澄まして聴けば波と浪の協奏曲になっている。夕暮れになれば、これに聖徳寺の鐘がゴオ〜ンと合いの手を入れる。寺泊は、真夏の今日も行き時である。
どなた様も、寺泊へおいで下されば、大小の波も浪も無料で、音声付にて、ご観覧できるのである。
今の状態を見たいならライブカメラでどうぞ。波は最初に小さな壁を造り、立ち上がり、限界までその状態で突き進む。まるで砂丘を目指して競走しているかの如くである。やがて持ちこたえられなくなり、バッシャーンと倒れこの際に、後ろから追いかけてくる波に飲み込まれないように、音を立てながら白い波に変身する。この瞬間がたまらない。
陸上と海上の風向きにより、素晴らしい波は、誰でも、いつも見れるわけではない。
平成29年のお盆も又来るが、「
南の風日中北西の風、海上では南西の風やや強く」と予想されのではないかと思うと、また波見物を楽しむしむことができるであろう。

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寺泊の祭りを覗きませんか

5月は寺泊の大祭の月である。祭の前夜は興奮し眠れなかったと今は古希が中心年齢の
寺泊会会員たちが、悪ガキ時代を昨日のことのように思い出す。


あれから60年が過ぎたが

東京寺泊会の4区出身者が気にする訳。


当時少年だった同郷4区同年齢の

 

幼なじみたち何人が、頭になって、カグラをかついで町内を走りぬくかの野次馬的根性である
こんな話題が、平成29年4月23日(日)東京芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交う。


東京寺泊会創立62周年大会の話題になる。

昨年の3区といえば、成田屋のアキラさん、田村屋のヒデオさんもあれから60年で70代。
年月経過すれど、寺泊「町」が好きな粋人、老眼鏡かけ元気に神楽のシッポつくりで、後輩の先頭に立つ

平成28年5月の例大祭では、3区が神楽当番がであったが、

今年は4区が当番です。4区関係者の当日雄姿詳細写真は

寺泊観光協会リンクの5月寺泊ウォチングでアップされている。

ちなみに去年の3区関係は「3区当番編」 [5月当日偏」で見られたい。件の輩の雄姿があった。

町当番(かつて寺泊は町役場が決めた地域セグメントとして1〜6町内に分割されていた)としてリーダーシップを発揮して親方をこなす、成田屋さんと田村屋さんなど・粋人お二人の御姿は、
さすが上田町代表である・・と首都圏で活躍する3区出身の東京寺泊・上田町人会、故外山健太・会長(上田町)、清水屋の清水文隆・理事(上田町)、更に河忠の河合忠治氏(上田町)、皆さん寺泊の3区上田町出身者で、古希は通り越したが、東京寺泊会には元気に集まってくれている。寺泊会の役員たちも感心しきり。本稿の白黒写真2枚は90年前と60年前の3区の大小カグラ衆。

寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている。寺泊会の会員たちが保存していた。

 白山媛神社の記録DVD

     ◆
戦前当時らしい昭和X年5月の3区・上田町組存命されていたら全員150歳以上
ひと昔前は、どこのの衆のカグラかを示すため、走り手も、タスキをかけていたという。3区なら「上田町」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。2016年は
3区の当番だが,かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。(上記のリンクページは寺泊観光協会のHPを無断借用)

漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭が毎年5月3日に開催される。

この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている
学校の教材に最適である。

4月4日の東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には、浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。その名残でこの祭礼は別名「鰯祭り」
とも呼ばれている。中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、平成28年は3区が寺泊町の神楽当番である。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)と勉強は1番になり、病は治り、曲がった腰はピンとする、持病のひざは痛み消滅、借金は返済のメドが立つ、万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。

寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらおう。そして子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、寺泊の行事に無関心な赴任期間だけのチョンの間、寺泊在住長岡市民となる、公務員先生ばかりでは無理かもしれないが。もっと心配なのは、こどもカグラを担ぐお子様達の減少であるが。
約60年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。

平成18年も3区が当番になるから、テレビ局呼んで「60年後に集まった昭和の少年たち」と題して、イベントやろうと話があったが皆さんは、結構現役で仕事が有るからし多忙とか。結構いい絵になると思うが。
写真の最前列左は、今も地元で石川モーターズを経営しているが、レンゾーとよばれていた。2014年度の、古希組である。同期には山田栄三郎(きんぱち)社長がおり、古刹法福寺の57代住職ケンジ様も同期である。

2014年度には、古希祝いの集いを開催。会場、宿泊はもちろん きんぱちである。開催に積極的なのは、どの会も女性陣だけが積極的で、その年に古希を迎えた昭和19年(1944)生まれ組は元気組が多い。平石久子氏(浜っ子会)もそのひとりで、東京寺泊会の会場で、塩たき節の地方(じかた)として見事な三味線を披露してくれた。ただ、古希の集いがあっても、都合のつかない我々のように、都会在住で「不参加」とはがきの返事を出した男性陣は、女性陣が発する、なんでふるさとへ来ないのと追及される、応分のプレッシャーを、当面は覚悟せねばならないのが、デメリットであるが。

この予防策として、2014年4月に開催の東京寺泊会に参加した若年層となる古希組を集め、事前に祝宴を挙げてしまった。だが郷里の行事に熱心な諸氏は6月大会でも参加する由。だから世の中は何の争いもなく、うまく運ぶのだろう。健康なうちに、皆のお姿を見ておかないと東京オリンピックまで持つかと、心配になるのかも知れない。人生さまざま。今年も70歳をお迎えの寺泊出身者多数が寺泊に集まるが、その中の一人でも東京寺泊会に興味を持って、伝統ある寺泊会のカシラに、来年からでもなってくれれば嬉しいのだが、最初の一歩がバリアが高く、飛び越せないのだろう。


所で、3区は法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延び、今は道路になっているが、かつてここに建ってた金内さんの家の隣迄が、4区との境界地域であった。

この境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を「白い6尺ふんどし」か「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。ピーピーキャーキャーと騒々しかった。塀越しは茶の間つづきの庭になっていた、金内さんちも騒音でうるさかった事だろうが、人のいいキセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。

この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。一方、カアチャン・バアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。海までの砂浜部分が短かったので、自然の川筋が浜茶屋横の砂浜に造られていたのである。平成22年の全国の子供数1694万人・総務省4月1日発表・当時の日本の子供は今の2倍の約3000万人、人口の3割近くもいた。2014年の日本は、人口の3割近くが高齢者になってしまった。ガキどもと呼ばれていた少年たちは寺泊町もワンサカいた。「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。今、このカグラ少年たちは、皆さん全員、健康が気になる世間同様の高齢者となり、人口構成が昔と逆転している。
(本稿は感動を得るため、あえて長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を使用。)

寺泊町は平成28年には存在しておりません
日本全国、南も北も、共通の現象だ。寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
















写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)

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 東京寺泊会誕生物語と歴代会長の顔ぶれ


 寺泊会創立62周年記念稿


昭和32年春から平成29年春・・感動の東京寺泊会歴史物語
詳説:初代小林源次郎から9代外山健太会長

 

そして平成29年4月寺泊会に届いた2通の訃報



寺泊会創設の父・小林源次郎の夢


昭和29年、大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。

コバゲンは年を重ねるたびに「寺泊の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。

日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職にその声が届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。

「資財は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。


小林源次郎氏の次なる野望

やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。

小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「聖徳寺につないでくんなせ」寺泊局の交換手に電話が入った。
小林氏が東京の工場から電話したのである。
「寺泊出身者の会やるすけ、そっちからも案内書出してくれや」
住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこねえかね」。
しばらく電話が続いた。

住職は電話を切った後しばらく思案し、
浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

「東京寺泊人会」の幕開け
60年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさんにも1通の
案内書が届いた。

これが最初の案内書である

「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
  期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
  会 場 浅草・西徳寺地下堂
  会 費 百円也



これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来60年の間、
8代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。
下鳥ハルさん(旧姓・新谷)はお子さんがまだ3歳の頃で、
長女と一緒に参加した30代の当時を昨日のように思い出す。
久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じって女性が数名。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。
conv0001.jpg現在も会にはお元気な姿で参加されている初回から参加の下鳥さん。(初回写真の前列中央お子さんと一緒)

自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに
後方に立たれていた。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。


小林源次郎氏倒れる

外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、心臓病とも闘っていた。
一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、休日を返上する程激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となっってしまった。
その後は一時回復に向かっていた容態が、急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。

「初回東京寺泊会(誌友会)」ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。

懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷

初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた
寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。
ある時は聖徳寺が音頭をとり、
又ある時は会長任期を1年限りと決めて
昭和35年には、立派な髭をお持ちの古川原与市氏が就任した。
青木山、弥彦山の四股名で、
野積出身の相撲取りが話題となった頃である。
やがて1年が経過し改選の時期となった。

昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。

以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート
熱海温泉などで、多彩な企画を設け、
12年間会長を務めたのである。

昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。

石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時は、
江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど名物の「とんかつ」専門店を
営んでおられた。

この頃から古川原実氏(磯町出身)は
寺泊会の運営に積極参加し
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く
意見を述べる姿が魅力を呈した。

やがて昭和57年、石垣氏が退任し、
古川原氏が5代目の会長として
永きに亘りその手腕を発揮、更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。

三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている英寿製作所)
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。

寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代。会長の三上氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づて行くことになった。


創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ


■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。

■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション文書構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの審査登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きな橋本は、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当するなど、お馴染みの顔であった。ところが十日町や糸魚川など上越地方出身者のように、舞台に出て演じるような民俗芸能好きが、寺泊出身者には少なく、毎年芸能大会の舞台で司会を務めながら、一度も寺泊人の出演を舞台で紹介することがなかった。近年、長岡市地域振興課の協力で、ようやく郷里の酒造唄に辿り着くと、早速、寺泊会の交流会や、新潟市内のトキメッセでのステージで披露する機会を得るのであった。寺泊会の宴席に若いアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。



■東京寺泊会だよりの制作開始は、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局を経て日本へ戻ったころであった。何人かの周辺のロビー活動し、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の多忙な時間だったが、社食で冷しラーメンを食べながらも、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。寺泊会だよりは、もともと寺泊で発行していた、「ふるさとだより」からヒントを得ている。編集責任者をされていた尊敬する中村住持の真似ごとをしただけであるが、これほどまで読者が増えるとは想像もしていなかった。




■だが、東京寺泊会だよりは斬新な発想でなく、その源流は60年前、初代会長小林源次郎が提唱した首都圏在住者向け「寺の、お檀家だより」である。時代は変わってネット配信の利用で、印刷費なし、郵送費なし、サーバー代なし、要るのは記事制作の手間と好奇心、知恵と老眼鏡だけ。これが、B型人間に合致する。誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理。文芸誌会社からは東京寺泊会だよりを、出版させてくれとセールスが来る。だから寺泊にこだわらないで多様な原稿を作ってくれ、とお願いされる始末。まさか日本全国で検索ワード知名人になるとは。

■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけワンクリック100円でも課金できたら、たちまち5000万円10円でも500万、1000円なら5億になる計算でIT業界とは、これに似たようなプロセスアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、6本木の高層ビルで役員会を開催できる長者会になり損ねたこてねと度々役員会の話題になっている。

■橋本は、寺泊出身の杜氏組合を寺泊会に招いたあたりから、自らの会はもとより、OB会、同期会、同窓会、県人会、良寛会など大小雑多な会の雑務をこなしていた。しかしながら7代会長としての持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかった。郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である。従って任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したが適任者は名乗り出ず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に会長をお願いしようと思案していた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて中止せざるを得なかった。待望の新会長が誕生したのはその2年後となった。



■平成24年4月の寺泊会総会で第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。



■新会長の小林はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・
時には小平市の広大な自宅敷地において、小平稲門会の大餅つき大会も開催されている。
一方では、長年続いた交流会全員の集合写真撮影をここで廃止してから、第8代時代が出発した。

■会長を補佐する副会長職には外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。

平成15年度東京寺泊会役員構成

名誉顧問:小林正則・小平市長
相談役  :三上喜久治

相談役  :渡部作治
顧 問   :橋本寛二
会 長  :小林秀雄
副会長 :平石國男
副会長 :外山健太
理事  :石井光枝
理事  :相場要平
理事  :浅見幸子
理事  :上澤一子
理事  :寺坂寛子
 ◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ
  ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催している。
  通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され
  毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。


平成28年4月。寺泊会第9代新会長誕生へ。


■寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生となった。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中朗報が飛び込んできた。

平成16年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになったのである。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりを、かなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間がかなり犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。

■行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。

◆就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山氏は、かつては大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
在職中には社長顕彰の常連であり、重役会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。

■ところが現職会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。


寺泊会会長としては第9代目となる外山健太氏

◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は3名だ。
他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会である。

◆外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りにに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさには感心せざるを得なく、観光協会の表彰ものである。

◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えても、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、皆が70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまない。
どうよ。

 

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平成29年4月訃報相次ぐ

 

四月八日   外山健太氏逝く

 

四月十二日 小林秀雄氏逝く

 

 

  東京寺泊会9代会長 外山健太氏(享年75)は2017年4月8日自宅にて心臓発作のため急逝しました

直前の4月5日には、寺泊会役員会で2週間後に迫った4月23日の62回大会最終打ち合わせ会議に出席され、更にその後の靖国神社で桜を見る会にも、お元気な姿で役員たちの先頭に立って引率し楽しいひと時を過ごされていただけに、訃報には全員が信じられない思いであった

ここに謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます 4月23日の創立62周年記念大会はつつがなく遂行致しましたことをご報告申し上げます

 

訃報に絶句する東京寺泊会会員

 

 一方東京寺泊会の前会長小林秀雄氏(78)の訃報が、届いたのは現会長の訃報を受けて僅か3日後のことであった

2017年4月12日脳梗塞で亡くなられた。小平市にある広大な自宅敷地で寺泊会役員たちを野菜収穫に招いたり、稲門会の芋煮会を庭で開催したり、何よりも長年に亘って小平市の保守系以外の選挙対策事務所として無償公開してくれていた必勝祈願小屋の提供話は有名である。2017年4月9日に小平市長選挙で4期当選を果たした同郷人、小林正則氏もこの恩恵に授かり、区議会選挙に始まって、全回当選している縁起の良いスペースである。

秀雄さんは亡くなられる5日前に、私に1票投票して下さいましたと第62回寺泊会大会で小林正則氏は報告してくれた

 

     寺泊会一同衷心より哀悼の意を表します 

 

            東京寺泊会

 

 



















 

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