◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

スマホ対象の枠組みで制作していないがPCだけでのアクセス表示75万超、「角上」・「寺泊出身」OR「脳の学校」の検索が殺到する好現象。確かにテレビ出演の影響は大きい。
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宣伝費を惜しまなかった寺泊町の旦那さんたち

 100年前の広告


 ■ 
明治39年(1906年)9月刊行の「北越史料/出雲崎」は出雲崎町と良寛をこよなく愛した佐藤耐雪(写真)なる書家・歴史民俗研究家が著した、後世にとって興味深い歴史書で、340頁にも及ぶ「出雲崎町史」である。他に明治37年刊行の河合孫七著による「寺泊」編もある。寺泊町が人口3000人余りのころの記述もあり、北越史料誌に大きく掲載されている,
寺泊人にとって商家の宣伝広告が懐しく目に映る。日露戦争当時の歴史遺産的文書であろうか。

 
▼(資料提供・・東京出雲崎会/東條玉英会長)







当時の商家が扱っていた味噌醤油の広告から現在のコンビニ並みもあるから興味ひく。イセヤスさんこと、柳下安兵衛商店は醤油醸造を宣伝


一方の雄、ホンマさんは寺泊湊の味噌醸造を宣伝。昭和時代まで使用したロゴマークが懐かしい。



広告スポンサーはこの他にも、(ハマソ)濱惣さんも出していた。印刷技術が高度でないので、どの広告も赤一色で読み取りにくいのは仕方ないが100年前のカラー刷りである。ハマソさんの営業科目は。「和漢洋クスリ」「洋酒」「缶ズメ」「紙」「ガラス」を扱う総合商社風であった。この大きな店の裏は、結構深い日本海で、現在毎日多数が訪れる魚のアメ横あたりは一面きれいな海だった。

 

寺泊会の宴席で毎年威勢よく壇上に上がり、唄の音頭取りをしてくれる、河合忠治さんことカワチューさんの自宅裏庭には程良い高さの松の木がきれいに植えられており、庭の真下を見るとここもきれいな日本海であった。


 

 

寺泊は三島郡の都会とされ、野積は弥彦山下にある出雲崎から5里離れた戸数200軒の漁村となっている。

この「北越史料」雑は、発行が明治39年9月だけに、旧書体で書かれ、当然のことながら出雲崎に関する記述は、微に入り細に入る。100年前でも寺泊の広告スポンサーを募ったことを想像すると楽しくもなる。

ホンマ様もイセヤス様もカワソ様も、寺泊人は太っ腹でいい旦那さんと見受ける。

 

 

■さてこのあたりの時代考証と史話が得意な、夏戸の小越忠教先生に語らせたら天下一品の名人芸ともいえるだろう。先生の教諭時代はロジック回路が専門領域だっただけに、イエスとノーが明確で論理的に調べ上げないとなかなか言葉にしてくれない。想像の域でも記事にして公開する寺泊会だよりとは雲泥の差である。



ここに志田仏壇屋さんでも出てたら、寺泊衆のだんなさん、揃い踏みなんだが。志田仏壇屋さんの現社長がおっしゃるには、かの良寛が国上山から下りたあとの面倒を、味噌醸造で財をなした創業者が、寺泊で末世時期を引き受けようと申し出るつもりでいたが、忙しくて段取りできず、隣町の島崎に行かれてしまった・・とのことである。

東京良寛会も初耳の根拠ある逸話か。もしも良寛が本間家に居候して永眠されたら、寺泊の法福寺に祀られることになったであろう。妹のむらのお墓もあることだし。だが、本人の希望で照明寺がいいと言って、蜜蔵院傍に永眠されたかもしれない。かの貞心尼が、島崎から寺泊湊まであと一足伸ばしていたら、あまりの景勝地に惚れ込み、夕陽のひとつも眺めながら、句作に没頭してしまい、良寛介護もおろそかになったに違いない。寺泊会だより上での想像の話は膨らむと止まらない。(編集長)



 
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寺泊の初夏です。日本海の波音を堪能しませんか

 
昨年,候補3人で強力な争いを呈した都知事選。投票結果は予想通りで終わった7月であった、などと投稿してから早や1年経過。今や女性知事様様で、人気は衰えることなく、我も我もと議員さんたちは、百合子の陣地に集まり膨大する。

 

今日は快晴で、弥彦山もよく見えるし、 もうすぐ海上花火大会。寺泊は最高らて!

と故郷で民宿を営んでいるおやじさんは、電話の中に興奮気味な声を弾ませている。

ネットで確認すると、アメ横の駐車場も相変わらず満員だし、海は穏やかなさざ波状態。

 

そんな寺泊の選挙区は、新潟3区だった。長年の選挙で総理大臣という偉大な親父の、カンバンを受け継いだ娘さんも、その旦那さんも議員を退き、普通のヒトになってしまった。

夏の寺泊は何といっても花火。それに著名な芸能人を呼んで、海を見ながら唄うわで観光協会で副会長している仕掛け人は忙しいらしい。

 

関東の波音と寺泊の波音を科学する。

 

同じ波なのに、どうして寺泊海岸の波は

 

気分が休まるのかを現地で凝視したら結論が出た。

 

(実験観察地:茨城県日立市K海岸及び新潟県長岡市T海岸)

 

関東の波は、波がしらがズズーンと立ったかと思うと、

 

バタンと倒れ、急いで直進する。

 

 

寺泊の波は、波がしらがムックと立ってから、

 

一度ひざまずき、小さく倒れ、それから優雅に

 

ゆっくり直進する。

 

 

 注) この波音アセスメントは海岸の優劣を決めるものでなく、あくまでも個人の感想です。

 

現地測定者の話を基に評価したもので、観測時間・気象条件・測定角度等により異なります

 

初めての方は先ず、長岡市のどこに海岸があるか、を調べてから現地を訪れ

南西の風3メートル程度の時間帯を狙って砂浜又は岩場に座り、2時間程度ボヤーっと波音を堪能してから、機会を作って他県(太平洋側)の

海岸で同様の観測をされることを推奨します

 

 


こんな季節に、波の音を聴くのも気持ちいいことは、寺泊の誇り、千代栄姐さんも上田町に住んでおられたので、さざ浪の魅力は、昔からよ〜くご存じで、これを糸で表現して後世に残したかったに違いない。

 

上田町といえば和菓子の老舗チューミサやシナそばの喜楽食堂、2階がそろばん塾だった清水屋さん、息子がヨーロッパ・トヨタの副社長になった錫村医院が町医者の役目をし、3区と4区との境界に建つクガミヤさんの玄関ガラス戸には「ドゼウ有リマス」の手書きの張り紙が、春化秋冬消えることがなかった。

 

細い能登谷小路を下って浜辺へ出れば波音のざわざわ感が嬉しい。こんな越後の原風景は、寺泊おけさの乾燥した三味のビートが実によく似合う。

寺泊会は70代も多数いるが、郷里の話は止まらない。

世間の衆が集う喧噪な昼時間が過ぎ、夕方日本海が夕陽に染まる頃は、片町(2区)にある彦根山・興琳寺さんの西向きに構える茶の間から、松の木越しに戴く佐渡が島の眺めがこれまた最高であった。当時の住職は玄雄さん。

住持さんに「一見の興を拝ませて」と頼むと、檀家でなくとも立ち寄らせてもらったよ、と会員が懐かしむ。

さざ波を見ながら寺泊おけさ (音声 を 唄えば一流の寺泊人。東京から最も近い日本海の浪を観たり朝やけを見ては。


寺泊の砂丘は、良寛が弥彦山中の、西生寺にいた頃は、山のふもとまで伸びていた。
今は分水川が野積と分断しているので、浜辺を、魚のアメ横のある寺泊中央海水浴場から、弥彦山の麓まで、徒歩で行くのは、途中で大きな橋を渡らないと無理である。

 

知的な解説は、郷里の史跡ボランティアガイドとして活躍する米子先生(小越米子氏)に聞いてほしいが、平成29年4月23日に開催した寺泊会での講演会「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」での、新旧のデジタル画像で違いが判る。

浜辺に実家のある、東京寺泊会の皆さんは、寺泊のさざ波を想い出し「寺泊おけさ」でもゆっくりお楽しみ下さいと推奨する。

時には早朝から、心地良い風が吹き、程よい波高しで、地元にいた時は当たり前だった風景も、遠浅な海岸からの波の形が、素晴らしい絵の如く映る。
北前船の船頭さんも、寺泊で航海の骨休みをしていたに違いない。
名物の「寺泊おけさ」は、名手・千代栄・月子 両師匠さんの手にかかると、高度なテクニックで、すくい三味線をあやし、ミュート奏法に徹し、歯切れ良いブルーノートジャズの如くビートを刻んでいるので、軽快且つ、寺泊色溢れる、芸術性の高い座敷唄として仕上げている。「佐渡ヘヤ〜、エヤ〜八里のさざ波超えてヨ、鐘が聞こゆるヤ〜レ テラ〜ド〜マリ〜。」と結んでいる。
風の日の寺泊は、正にこの軽快なリズムの、寺泊おけさが良く似合う。ついでに歌詞を追うと、最初は言葉の繰り返しから入る「オヤオヤオヤオヤ うり瓜 なす茄子 ヨウガの手 土手まで這い出すカボチャの手 垣根に絡みつく糸瓜の手 川から手を出すカッパの手(ここからが艶っぽくなる)
 

 写真提供:伝統民謡継承団体:寺泊浜っ子会


寝ていて手を出す 兄(アンニャ)サの手 その手を引っ張る 姉(アネ)サの手 手と手と手    あと野となれ ヤ〜レ山となれ・・・と唄われている。

 

両師匠の志を継承した寺泊の民謡団体・浜っ子会の皆さんは 寺泊会創立記念招待公演で上京された懇親会のステージで見事に披露してくれた。

 

 

東京寺泊会のためにと出演を快諾された浜っ子会様ご一行に感謝

 

伝統民謡の継承と伝統海岸の景勝が融合

 

八里離れた世阿弥の佐渡ヶ島がさざ波運び、

 

風姿波伝の文化となって、寺泊の粋な音と波の

 

芸術を生んだと想像すれば波は神の授かりだ。



観光客が絶えない、角上さんのある寺泊・魚の市場通りは写真右下あたりにある。

佐渡からの来る波は無数だが、ふたつと同じ姿形のものはない。耳を澄まして聴けば波と浪の協奏曲になっている。夕暮れになれば、これに聖徳寺の鐘がゴオ〜ンと合いの手を入れる。寺泊は、真夏の今日も行き時である。
どなた様も、寺泊へおいで下されば、大小の波も浪も無料で、音声付にて、ご観覧できるのである。
今の状態を見たいならライブカメラでどうぞ。波は最初に小さな壁を造り、立ち上がり、限界までその状態で突き進む。まるで砂丘を目指して競走しているかの如くである。やがて持ちこたえられなくなり、バッシャーンと倒れこの際に、後ろから追いかけてくる波に飲み込まれないように、音を立てながら白い波に変身する。この瞬間がたまらない。
陸上と海上の風向きにより、素晴らしい波は、誰でも、いつも見れるわけではない。
平成29年のお盆も又来るが、「
南の風日中北西の風、海上では南西の風やや強く」と予想されのではないかと思うと、また波見物を楽しむしむことができるであろう。

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寺泊の祭りを覗きませんか

5月は寺泊の大祭の月である。祭の前夜は興奮し眠れなかったと今は古希が中心年齢の
寺泊会会員たちが、悪ガキ時代を昨日のことのように思い出す。


あれから60年が過ぎたが

東京寺泊会の4区出身者が気にする訳。


当時少年だった同郷4区同年齢の

 

幼なじみたち何人が、頭になって、カグラをかついで町内を走りぬくかの野次馬的根性である
こんな話題が、平成29年4月23日(日)東京芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交う。


東京寺泊会創立62周年大会の話題になる。

昨年の3区といえば、成田屋のアキラさん、田村屋のヒデオさんもあれから60年で70代。
年月経過すれど、寺泊「町」が好きな粋人、老眼鏡かけ元気に神楽のシッポつくりで、後輩の先頭に立つ

平成28年5月の例大祭では、3区が神楽当番がであったが、

今年は4区が当番です。4区関係者の当日雄姿詳細写真は

寺泊観光協会リンクの5月寺泊ウォチングでアップされている。

ちなみに去年の3区関係は「3区当番編」 [5月当日偏」で見られたい。件の輩の雄姿があった。

町当番(かつて寺泊は町役場が決めた地域セグメントとして1〜6町内に分割されていた)としてリーダーシップを発揮して親方をこなす、成田屋さんと田村屋さんなど・粋人お二人の御姿は、
さすが上田町代表である・・と首都圏で活躍する3区出身の東京寺泊・上田町人会、故外山健太・会長(上田町)、清水屋の清水文隆・理事(上田町)、更に河忠の河合忠治氏(上田町)、皆さん寺泊の3区上田町出身者で、古希は通り越したが、東京寺泊会には元気に集まってくれている。寺泊会の役員たちも感心しきり。本稿の白黒写真2枚は90年前と60年前の3区の大小カグラ衆。

寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている。寺泊会の会員たちが保存していた。

 白山媛神社の記録DVD

     ◆
戦前当時らしい昭和X年5月の3区・上田町組存命されていたら全員150歳以上
ひと昔前は、どこのの衆のカグラかを示すため、走り手も、タスキをかけていたという。3区なら「上田町」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。2016年は
3区の当番だが,かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。(上記のリンクページは寺泊観光協会のHPを無断借用)

漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭が毎年5月3日に開催される。

この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている
学校の教材に最適である。

4月4日の東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には、浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。その名残でこの祭礼は別名「鰯祭り」
とも呼ばれている。中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、平成28年は3区が寺泊町の神楽当番である。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)と勉強は1番になり、病は治り、曲がった腰はピンとする、持病のひざは痛み消滅、借金は返済のメドが立つ、万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。

寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらおう。そして子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、寺泊の行事に無関心な赴任期間だけのチョンの間、寺泊在住長岡市民となる、公務員先生ばかりでは無理かもしれないが。もっと心配なのは、こどもカグラを担ぐお子様達の減少であるが。
約60年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。

平成18年も3区が当番になるから、テレビ局呼んで「60年後に集まった昭和の少年たち」と題して、イベントやろうと話があったが皆さんは、結構現役で仕事が有るからし多忙とか。結構いい絵になると思うが。
写真の最前列左は、今も地元で石川モーターズを経営しているが、レンゾーとよばれていた。2014年度の、古希組である。同期には山田栄三郎(きんぱち)社長がおり、古刹法福寺の57代住職ケンジ様も同期である。

2014年度には、古希祝いの集いを開催。会場、宿泊はもちろん きんぱちである。開催に積極的なのは、どの会も女性陣だけが積極的で、その年に古希を迎えた昭和19年(1944)生まれ組は元気組が多い。平石久子氏(浜っ子会)もそのひとりで、東京寺泊会の会場で、塩たき節の地方(じかた)として見事な三味線を披露してくれた。ただ、古希の集いがあっても、都合のつかない我々のように、都会在住で「不参加」とはがきの返事を出した男性陣は、女性陣が発する、なんでふるさとへ来ないのと追及される、応分のプレッシャーを、当面は覚悟せねばならないのが、デメリットであるが。

この予防策として、2014年4月に開催の東京寺泊会に参加した若年層となる古希組を集め、事前に祝宴を挙げてしまった。だが郷里の行事に熱心な諸氏は6月大会でも参加する由。だから世の中は何の争いもなく、うまく運ぶのだろう。健康なうちに、皆のお姿を見ておかないと東京オリンピックまで持つかと、心配になるのかも知れない。人生さまざま。今年も70歳をお迎えの寺泊出身者多数が寺泊に集まるが、その中の一人でも東京寺泊会に興味を持って、伝統ある寺泊会のカシラに、来年からでもなってくれれば嬉しいのだが、最初の一歩がバリアが高く、飛び越せないのだろう。


所で、3区は法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延び、今は道路になっているが、かつてここに建ってた金内さんの家の隣迄が、4区との境界地域であった。

この境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を「白い6尺ふんどし」か「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。ピーピーキャーキャーと騒々しかった。塀越しは茶の間つづきの庭になっていた、金内さんちも騒音でうるさかった事だろうが、人のいいキセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。

この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。一方、カアチャン・バアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。海までの砂浜部分が短かったので、自然の川筋が浜茶屋横の砂浜に造られていたのである。平成22年の全国の子供数1694万人・総務省4月1日発表・当時の日本の子供は今の2倍の約3000万人、人口の3割近くもいた。2014年の日本は、人口の3割近くが高齢者になってしまった。ガキどもと呼ばれていた少年たちは寺泊町もワンサカいた。「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。今、このカグラ少年たちは、皆さん全員、健康が気になる世間同様の高齢者となり、人口構成が昔と逆転している。
(本稿は感動を得るため、あえて長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を使用。)

寺泊町は平成28年には存在しておりません
日本全国、南も北も、共通の現象だ。寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
















写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)

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 東京寺泊会誕生物語と歴代会長の顔ぶれ


 寺泊会創立62周年記念稿


昭和32年春から平成29年春・・感動の東京寺泊会歴史物語
詳説:初代小林源次郎から9代外山健太会長

 

そして平成29年4月寺泊会に届いた2通の訃報



寺泊会創設の父・小林源次郎の夢


昭和29年、大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。

コバゲンは年を重ねるたびに「寺泊の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。

日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職にその声が届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。

「資財は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。


小林源次郎氏の次なる野望

やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。

小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「聖徳寺につないでくんなせ」寺泊局の交換手に電話が入った。
小林氏が東京の工場から電話したのである。
「寺泊出身者の会やるすけ、そっちからも案内書出してくれや」
住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこねえかね」。
しばらく電話が続いた。

住職は電話を切った後しばらく思案し、
浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

「東京寺泊人会」の幕開け
60年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさんにも1通の
案内書が届いた。

これが最初の案内書である

「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
  期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
  会 場 浅草・西徳寺地下堂
  会 費 百円也



これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来60年の間、
8代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。
下鳥ハルさん(旧姓・新谷)はお子さんがまだ3歳の頃で、
長女と一緒に参加した30代の当時を昨日のように思い出す。
久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じって女性が数名。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。
conv0001.jpg現在も会にはお元気な姿で参加されている初回から参加の下鳥さん。(初回写真の前列中央お子さんと一緒)

自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに
後方に立たれていた。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。


小林源次郎氏倒れる

外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、心臓病とも闘っていた。
一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、休日を返上する程激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となっってしまった。
その後は一時回復に向かっていた容態が、急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。

「初回東京寺泊会(誌友会)」ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。

懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷

初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた
寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。
ある時は聖徳寺が音頭をとり、
又ある時は会長任期を1年限りと決めて
昭和35年には、立派な髭をお持ちの古川原与市氏が就任した。
青木山、弥彦山の四股名で、
野積出身の相撲取りが話題となった頃である。
やがて1年が経過し改選の時期となった。

昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。

以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート
熱海温泉などで、多彩な企画を設け、
12年間会長を務めたのである。

昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。

石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時は、
江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど名物の「とんかつ」専門店を
営んでおられた。

この頃から古川原実氏(磯町出身)は
寺泊会の運営に積極参加し
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く
意見を述べる姿が魅力を呈した。

やがて昭和57年、石垣氏が退任し、
古川原氏が5代目の会長として
永きに亘りその手腕を発揮、更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。

三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている英寿製作所)
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。

寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代。会長の三上氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づて行くことになった。


創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ


■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。

■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション文書構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの審査登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きな橋本は、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当するなど、お馴染みの顔であった。ところが十日町や糸魚川など上越地方出身者のように、舞台に出て演じるような民俗芸能好きが、寺泊出身者には少なく、毎年芸能大会の舞台で司会を務めながら、一度も寺泊人の出演を舞台で紹介することがなかった。近年、長岡市地域振興課の協力で、ようやく郷里の酒造唄に辿り着くと、早速、寺泊会の交流会や、新潟市内のトキメッセでのステージで披露する機会を得るのであった。寺泊会の宴席に若いアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。



■東京寺泊会だよりの制作開始は、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局を経て日本へ戻ったころであった。何人かの周辺のロビー活動し、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の多忙な時間だったが、社食で冷しラーメンを食べながらも、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。寺泊会だよりは、もともと寺泊で発行していた、「ふるさとだより」からヒントを得ている。編集責任者をされていた尊敬する中村住持の真似ごとをしただけであるが、これほどまで読者が増えるとは想像もしていなかった。




■だが、東京寺泊会だよりは斬新な発想でなく、その源流は60年前、初代会長小林源次郎が提唱した首都圏在住者向け「寺の、お檀家だより」である。時代は変わってネット配信の利用で、印刷費なし、郵送費なし、サーバー代なし、要るのは記事制作の手間と好奇心、知恵と老眼鏡だけ。これが、B型人間に合致する。誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理。文芸誌会社からは東京寺泊会だよりを、出版させてくれとセールスが来る。だから寺泊にこだわらないで多様な原稿を作ってくれ、とお願いされる始末。まさか日本全国で検索ワード知名人になるとは。

■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけワンクリック100円でも課金できたら、たちまち5000万円10円でも500万、1000円なら5億になる計算でIT業界とは、これに似たようなプロセスアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、6本木の高層ビルで役員会を開催できる長者会になり損ねたこてねと度々役員会の話題になっている。

■橋本は、寺泊出身の杜氏組合を寺泊会に招いたあたりから、自らの会はもとより、OB会、同期会、同窓会、県人会、良寛会など大小雑多な会の雑務をこなしていた。しかしながら7代会長としての持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかった。郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である。従って任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したが適任者は名乗り出ず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に会長をお願いしようと思案していた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて中止せざるを得なかった。待望の新会長が誕生したのはその2年後となった。



■平成24年4月の寺泊会総会で第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。



■新会長の小林はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・
時には小平市の広大な自宅敷地において、小平稲門会の大餅つき大会も開催されている。
一方では、長年続いた交流会全員の集合写真撮影をここで廃止してから、第8代時代が出発した。

■会長を補佐する副会長職には外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。

平成15年度東京寺泊会役員構成

名誉顧問:小林正則・小平市長
相談役  :三上喜久治

相談役  :渡部作治
顧 問   :橋本寛二
会 長  :小林秀雄
副会長 :平石國男
副会長 :外山健太
理事  :石井光枝
理事  :相場要平
理事  :浅見幸子
理事  :上澤一子
理事  :寺坂寛子
 ◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ
  ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催している。
  通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され
  毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。


平成28年4月。寺泊会第9代新会長誕生へ。


■寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生となった。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中朗報が飛び込んできた。

平成16年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになったのである。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりを、かなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間がかなり犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。

■行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。

◆就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山氏は、かつては大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
在職中には社長顕彰の常連であり、重役会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。

■ところが現職会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。


寺泊会会長としては第9代目となる外山健太氏

◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は3名だ。
他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会である。

◆外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りにに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさには感心せざるを得なく、観光協会の表彰ものである。

◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えても、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、皆が70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまない。
どうよ。

 

                                 ◆               ◆    ◆         

 

平成29年4月訃報相次ぐ

 

四月八日   外山健太氏逝く

 

四月十二日 小林秀雄氏逝く

 

 

  東京寺泊会9代会長 外山健太氏(享年75)は2017年4月8日自宅にて心臓発作のため急逝しました

直前の4月5日には、寺泊会役員会で2週間後に迫った4月23日の62回大会最終打ち合わせ会議に出席され、更にその後の靖国神社で桜を見る会にも、お元気な姿で役員たちの先頭に立って引率し楽しいひと時を過ごされていただけに、訃報には全員が信じられない思いであった

ここに謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます 4月23日の創立62周年記念大会はつつがなく遂行致しましたことをご報告申し上げます

 

訃報に絶句する東京寺泊会会員

 

 一方東京寺泊会の前会長小林秀雄氏(78)の訃報が、届いたのは現会長の訃報を受けて僅か3日後のことであった

2017年4月12日脳梗塞で亡くなられた。小平市にある広大な自宅敷地で寺泊会役員たちを野菜収穫に招いたり、稲門会の芋煮会を庭で開催したり、何よりも長年に亘って小平市の保守系以外の選挙対策事務所として無償公開してくれていた必勝祈願小屋の提供話は有名である。2017年4月9日に小平市長選挙で4期当選を果たした同郷人、小林正則氏もこの恩恵に授かり、区議会選挙に始まって、全回当選している縁起の良いスペースである。

秀雄さんは亡くなられる5日前に、私に1票投票して下さいましたと第62回寺泊会大会で小林正則氏は報告してくれた

 

     寺泊会一同衷心より哀悼の意を表します 

 

            東京寺泊会

 

 



















 

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日本海・寺泊町に魚のアメ横を創った社長さんの物語

寺泊会創立62周年記念大会速報
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 記念講演:平成29年4月23日日(日)
.、。
11時〜芝パークホテル/別館2階ローズの間 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----ーーーーーー
ゲスト講演者 小越忠教・米子先生ご夫妻
.
寺泊・夏戸在住で卓越した編年史・和説研究家として
ガイドで活躍されている小越夫妻による特別記念講演は、プロジェクターを使用し
いにしえの史実に基づいて解りやすい解説と音源を併用し、あっという間の記念講演であった。
弥彦山がこれほどの話題になったのは初めてのことである。忠教先生の語り口は説得力に溢れこれぞ名ボランティアガイドの解説といえよう。
さて夫の忠教先生が時良くリレーで妻の米子先生に話をつなぎ、これまた懇切丁寧に写真を披露しながら寺泊町風景の変遷を講演。小学校の教諭経験が長かったせいか、その優しい目で語りかける姿に写真が変わるたびに皆が首を上下にふり、うなずいていた。
夫妻の持ち時間である1時間はあっという間に過ぎてしまった。凡そ70代以上の参会者たちは全員がなるほど、うんうんと納得していた。寺泊会役員がリスク覚悟で企画した夫妻リレー式講演は完璧に成功したものとなった。
当日講演されたタイトル
「野積に上陸した弥彦の神様 」
「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」

夫妻式講演は新潟県の郷人会では初企画となり、
来賓としてご招待した各会の会長副会長さん達も羨ましがっていた・・どうよ
   
         ・・・・・・
 
●お土産協賛 角上魚類株式会社様
  ありがたいことに寺泊会がお願いした予算の3倍くらいの協賛品を賜り
 大会参加記念として全員にお持ち帰り頂くことができた。
 角上特選の海鮮ギフトに深い感謝の意を申しあげるしかない 。         
      ・・・・・・・・・・・・・・・
、・

脳トレ講演で盛り上がった第61回大会は1年前。


寺泊会・平成28年大会のレビュー

61周年記念講演 私は寺泊出身の脳科学者


◆このトレーニングすれば、あなたの脳は劣化しない

 

加藤博士の著書はベストセラー続出中

 

80歳以上の参加者15人には、サイン入り著書が進呈されました

 

 ◆◆
 

 


        

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

ついでに第60回大会(2年前)


 

寺泊会創立60周年(平成25年春)大会レビュー

アーカイブ公開中   



角上・鵬室卍垢旅岷蕾聴講感謝



東京寺泊会創立60周年記念大会のご案内
2015年4月15日(水曜日)午前11時30分〜
参加費:10000円
会場 : 芝パークホテル(港区芝公園)


60周年記念行事詳細

 : 記念講演会 角上魚類 鵬執聖絢卍
    (辣腕経営者のコンピテンス源泉はどこ)
■    : 記念公演  寺泊・伝統民謡保存会
         (
寺泊の伝統所作を 地元・浜っ子会が披露)
■    : スペシャルゲストトーク
       寺泊・彦根山興琳寺住職 中村興樹氏
   (古刹の法話名人が俯瞰する、町のふるさとだより)


■ 参加特別記念品と大抽選会案内


創立60周年記念大会として、参加記念のお土産には、全員に角上謹製「海鮮ギフト詰め合わせセット」の他、寺泊観光協会が推奨する、特選・銘酒や、寺泊の旅館ホテル宿泊クーポン券が当たる大抽選会を企画中。(座席で抽選方式)

人気テレビ番組、カンブリア宮殿で、柳下社長の人柄と、角上マネジメントが紹介されるや,当誌・寺泊会だよりへのアクセスが沸騰。日本全国で、柳下社長さんのお名前と寺泊で、検索されているらしい。

12月31日朝も、角上さんは、「頑張った日本列島の会社大賞(フジテレビ系)」にも登場。長い間、低迷する日本企業、ビジネスの中で、寺泊の鮮魚会社がいかに頑張ったかを、見事に証明してくれた。
 
 
・東日本大震災被災地 復興募金 寺泊・さかなのアメ横で…
 


寺泊名物・さかなの市場通りには、全国からの来訪者が絶えない
福島県からのお客さんも多数おられ、同県は、広い海岸や港を持ち、寺泊とは共通点が多い。
原発事故の周辺地域に住んでおられた家族が寺泊・夏戸海岸で避難生活されていた当時
寺泊観光協会では、東日本大震災の、被災者募金を兼ねて、
さかなの市場通り、通称「さかなのアメ横」通りで、カニ汁を無料提供しながら義援金を募ったニュースが中央でも伝えられた。期間中の募金全額は、長岡市を通して、被災地に届けられた。


2012年にキャンペーンを張った、カニ汁無料提供(4月9日〜4月24日)も大好評であった。2013年以降も角上人気は、日本海の、優れたビジネスモデルとして継続して行くことであろう。

さかなのアメ横誕生ばなし紹介の巻。


寺泊海岸に魚のアメ横を創った男の物語





2010年7月某日。日曜、朝9時〜日本テレビ系・徳光和夫の番組「サンデイnext」で大型鮮魚専門店の角上魚類小平店が約20分にわたり、店舗紹介、鮮魚販売情報の詳細が紹介された。センセーショナルな画面構成に興奮したのか、インターネットのサイト閲覧が爆発。東京寺泊会だよりにも、ここのリンクがつながらないと連絡あり,調べたところ、あまりにも同店のhpにアクセスが殺到しサーバーがパンク状態とのことだ。・・午前9時35分頃であった。しばらくは角上物語でもご覧になってお待ちくださいとご案内した次第であった。幸いにも
角上魚類のホームページは1時間くらいで閲覧回復した。

それから4カ月後の2010年12月15日・火曜日、朝、日本テレビ8時、世間は若い歌舞伎役者の酒乱ニュースであふれる中、「行列のできる大鮮魚店」として小平店が再びセンセーションナルに放映された。商品の命となる鮮度と質の高さで勝負と柳下浩三社長もインタビューで登場。2011年春には東京・日野市に新店舗を開店、2014年に入ると主要道路が角上渋滞を起こすほどで、都会では角上魚類のニュースから目を離す事が出来ないのである。東京寺泊会の話題が、またひとつ増えた。


「小平市のような、角上さんの店舗のある地に引っ越したくなりました・・」 テレビのインタビューでお客さんが答えていたが、この人はサクラではない。正に、その通りでございます。・・東京寺泊会だより編集部。角上さんは、勿論越後・旧寺泊町が誇りとする、日本有数の大型生鮮鮮魚店である。現在中国進出も視野にある。

この
小平市寺泊とは、大変縁が深いが、小平市の秘書課さんは、このページでのリンク依頼を快諾してくれた。
何しろ市長の小林正則氏は、寺泊出身で当会の顧問をしており、毎年,東京寺泊会の懇親会に参加され、時にはカラオケを熱唱されたりする。
更に、小平市議会の前議長・小林秀雄氏・現市議は、寺泊の6区にある白岩に、代々の土地を所有する寺泊人であり、東京寺泊会の副会長から会長に就いた。


小林正則小平市長東京寺泊会でご挨拶。

 

 2017年4月9日(日)選挙速報

 

小林正則(4期目)当選 28308票

松岡あつし       15536票

水口かずえ         8281票

 

     小平市公式ホームページより転載
                    市長と縁戚ではないが同性の小林秀雄寺泊会前会長・元小平市議会議長。正義感強く硬派。

寺泊へ来たら誰でも必ず立ち寄る場所は、観光コースでおなじみの「魚市場街」である。
第53回に続いて60周年大会でも、東京寺泊会は、アンコールの多い「角上」さんこと
角上魚類株式会社・鵬執聖絢卍垢鬚招きし 特別講演をお願いするとご本人は快諾。(これならNHKのキャスターを呼ぶより経済的だ・・と役員会で安堵)
 我々地元では、普段、角上さんと呼んでいるが、角上さんは寺泊をはじめ、首都圏など合計19店舗で、 精力的に商売展開されている。
 小さな港町・寺泊を一躍世間に知らしめ、その存在を 植え付けたのは「魚のアメ横」であった。
これは魚のアメ横を創った男の物語である。

  ▲鵬執聖飴瓩蓮⊂赦贈隠鞠、網元の次男として誕生
のどかな寺泊町で、幼少時代は野球少年で過ごし
明けても暮れても野球に熱中。
(後の阪神タイガースファンの礎となった)
新潟商業高校時代では、マネジャーとして2度の
甲子園出場を経験。
昭和34年、実家の魚問屋に入り東奔西走する。
スーパーが台頭し始めた昭和40年代に入ると
自ら敵陣の「人気スーパー店の視察」を開始し
多くの店舗を見て廻った結果
これをしのぐ小売業の開発に着眼。

昭和25年頃の3区寺泊中央海水浴場の砂浜。番屋小屋があるだけの砂浜だった。 寺泊会の会員さんが寺泊小学校2年だった頃(当時)に撮影されたものだが貴重な写真となった。

 

■「親父、あの道路沿いにある土地使って、
店出してんだろも、どうだろうか」
あの道路とは、言うまでもなく海岸道路として造成された、
今の魚市場・通称魚のアメ横道路である。
角上は、この道路に沿った一画に、広い土地を所有していた。
「本気でやる気があるンなら、やれや。但し自分で全部、
金銭の都合つけてやれ」
親父の言葉で今日の運命が決まった。
元々親に金を出させる気は無かったのである。
今でこそ、人・車の往来が絶えないが、
まだ造成僅かで、まるで原野にデパートを
開店するようなものである。当時は砂浜だけで、
駐車場整備の構想さえない。
■ここに5千万円を投資する決断と荒業は、
江戸時代から続く網元の血統を受け継ぐ
鵬執聖粟椎に「天性の商売勘と運」が備わってなければ、
発想すら湧いてこない。
         ▲鵬執聖絢卍垢陵念が全店舗に反映。社員の力量統一

         


   


 
銀行と交渉し、何はともあれ開店にこぎつけたのは
昭和49年の春であった。
「寺泊は海の町、夏場は人でごった返しても、
あとは潮が引いたように人が来ねし、
チープー荒れる寒い季節は商売にならんがに・・・
よう店を出しなさったもんだ」


確かに冬の海は、毎日荒れるし、波が高く浜は強風で寒い。
岩の外湾には、佐渡海峡からの白い波が大きくうねりながら押し寄せてくいる。
               2010/12/31・寺泊海岸ライブカメラ

平成22年大晦日のアメ横駐車場、買い物客の車で朝から晩まで混雑する

 心配無用だった。30年後の寺泊は、波高く風強しでもこの通り盛況である                                                                                              2010/12/31午後3時頃の市場周辺

                 ●  ●
危険信号の声が、湧き出る泉のごとく囁かれる、町の評判は折込済みであった。
このことは34歳の自分が一番良く知っていた。
客を如何にして呼び込むか。
顧客の心を知る売り手になろう」。社長の得意とする
創意工夫の虫」が動き出す。
 
社長の「仕入眼を磨き、新鮮・上質な魚を豊富に仕入れ、
これをより安く売りさばく」戦略で
絶え間なく続けたこの努力が
「寺泊へ行けば、いい魚が買える」と評判になり
噂は定着し始めた。
開店1年後、店内は溢れんばかりの人出
評判通りの新鮮な魚を求める客が、多勢訪れた。
売上も倍々ゲームをもたらし、新聞・テレビには
「魚のアメ横大賑わい」の見出しが躍り
関越高速道路の開通もあり、日本海に先駆ける唯一の
大規模鮮魚店として、全国に名声が轟いた。
 
年が過ぎた頃、同業が角上本店の周りに何軒か出店し始め、
寺泊の総売り場面積が、更に巨大となり
観光バスが大挙首都圏から繰り出した。
それまでの越後をめぐる団体バスは、有名な温泉と弥彦神社を
巡る単純なツアーだったが、寺泊・魚市場コースを追加したら、
5倍の申し込みとなった。(旅行業者談)
 一方、経営者として常に人より一歩先を睨んでいる社長は
既に次なる商売の戦略を考え
「小さな寺泊町だけでなく、高速道を利用し他県でも出店展開をし
総売り上げを伸ばそう」と行動する。
市場調査・社員教育・人集めなどに奔走した。
寺泊に店を出してから10年後のことであった。
やがて、群馬県をはじめ埼玉、東京、長野などの
都市圏を狙った顧客取り込みと、商圏拡大戦略に転じ、
新鮮豊富な品揃えをモットーに邁進の手を緩めない。
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寺泊の塩たき節物語

寺泊会創立62周年記念・芸能編

 

 

 寺泊の伝統芸能を守る人たち。




 長岡市伝統民俗文化財
◇寺泊「塩たき節」のご紹介◇



 

    財団法人 地域文化創造
    写真掲載許諾済

 

寺泊は、別名をフンドシ町と呼ばれ、その名の通り、

近年になってから一区の松沢町とか六区の白岩などの

町名を付けたが生活道路に欠かせない

一本道が、弥彦山麓まで続いていた。
大河津分水が、寺泊の海岸まで流されていなかった頃は

野積橋もなかったし、良寛も夕日が沈む佐渡島を見ながら、
弥彦山の
中腹にある西生寺まで、テクテクとこの狭い

フンドシ道を歩いていたであろう。

ベストセラー作家・水上勉がこの浜道を歩きながらその印象を
短編小説「寺泊」を上梓したのはこの良寛が縁であった。
寺泊の製塩業は、この時代より遥か昔となる2千年前、神代の
時代から始まっていた。シオ 貧者も富裕者も生活の必需品だ。

弥彦山の西端は、寺泊町から眺めると、佐渡まで続く日本海に

接するなだらかな恐竜のしっぽのようである。

弥彦からはこれが見えないから、蒲原郡地方出身者はこの

イメージを知らない筈である。

その山麓部分には、何やら大きな洞窟らしきものが見えるが
伝説では、ここに「天香山命」が、南国から海路を経由し、
渡り住んでいたとある。

のちに弥彦神社に祀られる、越後の産業をもたらした、
いにしえの恩人は、2000年以上も前に野積を根城にし、
稲作・製塩・漁労そして酒造り等を教えていた。

このお陰で寺泊は、「農・漁・酒」を男手が担い、

オナゴ衆は

せっせと重い桶をかつぎながら「塩」で稼ぎ、

まさに潤う集落となったはずである。

時は経て、奈良時代あたりからは、寺泊の港は、

当時の遠島、佐渡島へ流される、流刑人船着き場の役割を果たす

事となり、重罪なる政治犯と裁かされ、その烙印を押された
彼ら職位は寺泊部落には縁のない都人、能楽師・上皇

高僧・音曲/歌人などがひしめく。

 

知識が有り、芸術感覚あふれる、職種様々な尊い罪人たちが

寺泊港から、遠島とされた佐渡島へと送り込まれる。

今と違って、船に原動機はなく島までは、はるかに遠く

下手すると鬼が住んでいるかも知れないと思ってたか。

何しろめったに上陸したことのない島である。

寺泊伝統民族芸能の源流

実はこれが寺泊に優れた文化と、格式高い芸能を運び込んで

くれた源流となったのである。

都から引き連れてこられた罪人たちは、三国峠の山超え、

やっとこさ、寺泊へ到着しても、即刻佐渡へ流されることは少ない。

いつもは夕陽輝く、穏やかな日本海を抱く寺泊であるが、
晴天の日は何日も続かないから
手漕ぎ船同様の、罪人を乗せるみすぼらしい、小さな舟は、
波風に弱く、少しの荒れた海でも出船できない。
そこで海の鎮まるまで、舟は何日も港に繋がれ、
寺泊の陸で待機せざるを得ない。
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水上 勉 の著書 「 寺泊 てらどまり」


 

▲寺泊の浜辺を歩いた

 

作家・水上 勉      
                                                    

文学の世界で、越後・寺泊を描写した著名作家の作品はそう多くはない。ましてや小説のタイトルに掲げる出版社は実に珍しい。ところが「寺泊」を題材にした短編そのものを、本の題名にしたのが、出版社の新潮社である。作者は越後と同じ日本海を抱く越前出身の「水上 勉」(2004/9没)である。寺泊人のみならず,昭和生まれだったら、この作家の名前を知らない人はいないだろう。「寺泊」は昭和59年初版だが、海岸描写はこの30年くらい以前と推察される。文中に出てくる製材所とは、寺泊産業株式会社のことか。昔は「いたろさん」と呼んでいた。寺泊を「フンドシ町」と呼んでいた旧道しかなかった頃の風景である。(表紙に併記されている「わが風車」は、別作品)。
雪の降る越後の漁村、という設定で、寺泊町にイワシが捕れ、八艘船があった頃か、川端康成賞を受賞した名編である。もちろん駐車場のない、魚のアメ横以前の物語である。
水上 勉の代表作は自身が40代の作品が多い。昭和36年(雁の寺)、38年(越前竹人形、飢餓海峡)など、少年期の実体験や社会現象の匂いが漂い、昭和54年刊行の「金閣寺炎上」と続く。すべてが、出版社を充分に潤わせた作品となった。この間に連続して文学賞を受賞し、自他ともに一番充実した良き人生おう歌の時代であろう。聖僧・良寛にも似て、禅寺での修行があり、その厳しさを体験している。異なるところは、志願して得度した良寛に対して、強制的に実体験をさせられた経験を持つ。やがて体験をもとに、作品を世に送り出した。
切ない男女の絡み描写が小説にも映画にも、その真価を呈し、商業路線に乗り続けた。作家・水上が創作し、賞を得た著書は、実在の事件や風習がテーマとなった。「寺」や「竹細工」という身近な存在があり、ベッドやテーブルが登場する洋物と異なり、フトン、襖、障子が描かれ、これに、男女の情を絡ませる創作手法が、昭和の日本人に受け入れられた。加えるに名編集者がキャンペーンを仕掛け、映画化すると、名女優・若尾文子が、見事なまでに妖艶かつ女の情念を演じきり、その商品価値が輝いたのである。
残念なのは、主題歌が残されなかったことである。石川さゆりの「天城越え」なみの、歌詞と歌い手を生み出す企画がなかったのか。

■「寺泊」は良寛がきっかけだった











■ 水上勉は、良寛についても豊富な知識を持っていた。福井から雪  の降るある日に、国上に住む良寛研究家に会いに来た。その良寛  研究家は、「S高校の教師」というが西蒲原郡や三島郡にイニシャ  ルSのつく高校はどこだろうか。BかYかMなら見当がつくが、か といって、三条のSとは思いたくない。このころ寺泊には高校はなかった。水上氏の良寛人物像は、清貧を愛し子供好きの天真のひと、という事ではなかった。即ち、借金、米、味噌の無心好きで、タダ 酒飲む名人的な存在で、今これほどまで多くの遺墨、書簡類が 残っているのは、それらが礼状代わりだったからと信じている。こんな研究していたS高校の教師と語りたかったのだろう。話し終わっての帰り道に、国上の山からまっすぐ寺泊の浜へ降り、出雲崎に向かうフンドシ1本道を通って、石屋の角を曲がり、現在のアメ横どおり近くまで歩いたのであろう。
 

出版全盛から

 

出版不況の平成時代

 


■ さて、本といえば、世のスキャンダラスな話題を取り入れ、作家が書き下ろしまくると、ホンが売れ、月刊誌の発刊が続いた昭和中期、出版社全盛の時代が懐かしい。業界大手の、角川書店、新潮社、筑摩書房、平凡社、集英社、徳間書店、小学館から、婦人雑誌系の出版社まで、売れる商品に飛びつき、稼ぎまくり、同時に作家も潤った。平成の今、想像もしていなかった出版不況の社会現象で、この業界は、著名月刊誌の廃号や、大小出版社の統廃合、 倒産が目立つ。ぶ厚い雑誌を買わない、紙媒体本が売れない、広告主がなかなかつかないそうである。
昭和の婦人雑誌に夢中になっていた当時の読者層さん達も今や高齢層へ突入。
頭脳さえれど、視力も悪くなり、綾小路きみまろの風刺世界に笑いながら如意とうなずき
大多数は、単一行為に集中できる時間が限界気味だと嘆かれる。

白い割烹着姿がよく似合い、自分中流家庭婦人と思っていた主婦層たちがよく読んだ「主婦と生活」も「婦人倶楽部」も廃刊され、過去の物語になってしまった。誌上で人気のあった謝国権、ドクトルチエコの欄を読んだ楽しみは、今や昔の話かと、女房言い・・てか。
流通システムや、デジタル時代の功罪か、ネットの便利さを恨んでもしょうがない。
逆に新刊本で成長し続けてる出版社もある。総量が少ない新刊本を補完する新手法を展開できる経営層のいる出版社のみが生き残れる時代か。40代女性層向けの新雑誌を、来春立ち上げる新会社もあるそうである(9・4・ニッポン放送、あさラジ出演時の有名出版社・社長談)。
                                                            ..
発表したら寺泊会だよりを訴えるぞ
     ・
  
 ◆水上さんの作品と話題が外れてしまうが
実はこの民放ラジオのレギュラーとして早朝番組に出演していた超有名出版社の社長さんが、あまりにも破天荒で面白い銀座での自身の武勇伝を披露してくれたので、銀座ならそこの並木通り8丁目にある本社に30年以上在籍していた経験と、クラブの場所や時間軸での人の流れまで精通していた当職の実績を基に、件の社長が話した内容について位置的なウラをとってから短編小説風に創作した。、
早速、ニッポン放送の番組制作担当者に、この原稿を、寺泊会だよりに掲載したいが、
著作権は番組制作側にあると思うから、ご許可頂けないかとメール送信した。
後日ディレクタ-らしき方から返答があり、社長さんに読んでもらったところ、これを世に出すとは不届き千万だ。
発表したら「うちの会社が寺泊会を名誉棄損で訴える」とおっしゃってますよと、思いがけない返事がきた。
原稿の内容は想像で作った個人情報を暴露したわけでなく、早朝ラジオで衆人に放送された内容に基いて、
しかもご本人の言葉を文字にしただけであったのに、
多少誇張を加えたり、冷やかしながら・・・というのが 忘れもしない寺泊会だより提訴未遂事件の顚末である。
それにしても後悔は、放送を録音しておかなかったことであった。エビデンスのない証拠は必ず負ける。世の鉄則を忘れていたのである。


 
                 ●          ●  
風と砂の臭いを憶えていますか。
               
著名画家に潜む鋭い感性

寺泊在住の画家橋本直行氏の油彩画(寺泊会だよりに掲載許諾済)を観賞していると、ありし日の寺泊を呼び起こしてくれて癒される。八重山諸島に魅せられ、長期滞在し海と空を描き極めた、画家の力量であろう。
美術評論家は、橋本氏の作品を、写真のように精緻で写実的というが、この表現だけでは高額な作品の購買意欲が湧かない。、風と空気と匂いと音が聴こえる絵を描く画家の作品、と評するほうが、遥かに本質的な深い見方だと思える。
 
佐渡の見える浜(1999) 
   


     


▼船小屋(1997)s
 
▲漁 網(1998)  水上勉が歩いた寺泊海岸のイワシが主役と 思いたいが、この油彩画は、アミを描いたものである。ブルーのプラスチックス製かごは、作品の引き立たせ役か、作者は、来月新橋の画廊で個展開催のため上京されるので、愚問ながらお聞きしてみよう。
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寺泊町閉町式典 歴代町長と故・高橋誠町長時代

在京寺泊人は、都民ファーストを旨とする女性新知事の奮闘で、永年、男衆が出来なかった事案に豪快な決断する瞬間に拍手したかと思うと、一方では遠く越後の現職県知事 VS 新潟日報新聞社というステークホルダー同士の話題を定例会見やメディアで取り上げるたびに、居酒屋の桟敷席で話題沸騰する珍現象。(寺泊会は、知事さんとは名刺交換してるし、一方の地方新聞社の東京支社さんには寺泊会の行事について新聞掲載頂いた恩もあり、大変お世話になっている。)

 

新潟県知事選の結果は今夜判明。森民夫前長岡市長の健闘空しく落選で平成の秋戦争は終結した。

 

寺泊町民・当時約13000人は、新潟県人会おなじみの森さん)12年前には移行した市の首長が知事選に出馬するとは、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になった。

寺泊の町長を語れるのは、古老たちが集う東京寺泊会の懇親・宴席での回想談話だけになった。

その話をまとめて編集したらこうなった。

町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。

だが寺泊人には懐かしい名前が登場して面白い。

寺泊町が消えた日・・・平成の大合併と閉町式

 

   高橋 誠氏逝去 ・・・・(合併前、最後の町長)享年64


寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、
共に明治22年の事である。
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に
号令した結果伝統的な地名が消え
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。
明治34年には野積村を含む近隣4村と一緒になり
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口
18000人近い、自治体となったのである。 
平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併
冠に長岡市をつけることとなり、町としての「」の名前は消滅した。

 

「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。
高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長
公務多忙により橋本寛二が副会長として閉庁式に単独臨席した。

 

午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と
荘厳なる閉町式となった
やがて、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の
手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋町長に手渡された。
式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会臨席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。

アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、
力強く閉町の雄叫びを轟かせた。


公式資料で大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。


   ▼寺泊町(旧)の歴代町長・最長は高橋氏

     初代町長  柳下安兵衛    
     2代目  本間健四郎   町制施行〜大正4年
     3代目  神林津三郎    
     4代目  桑原源治 大正4年7月〜5年11月  
     5代目  柄澤政雄 大正6年1月〜6年6月  
     6代目  寒川卯之七 大正7年9月〜10年10月  
     7代目  大平廣弥 大正11年1月〜昭和9年1月  
     8代目  治田竹治 昭和9年1月〜13年1月  
     9代目  竹澤茂一郎 昭和13年1月〜18年10月  
   10代目  外山勘兵衛 昭和18年10月〜21年11月  
   11代目  大丸常松 昭和22年4月〜25年6月  
   12代目  高綱三作 昭和25年7月〜41年7月  東京寺泊会創設期
   13代目  藤田子男 昭和41年7月〜53年7月  
   14代目  中島甚一郎 昭和53年7月〜63年6月  
   15代目  高橋 誠 昭和63年7月〜17年12月

                           資料提供 旧寺泊町役場
 

てらどまり」が寺泊町として町制施行以来
歴代町長は15代の首長によって継承された。


■。。高橋 誠第15代町長特別追悼の章。。■

■■
2010年10月25日長岡市寺泊支所・地域振興課より東京寺泊会へ
15代町長・高橋 誠氏の訃報が届く■■

■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」に、元気な姿で来賓参加され、同年の東京新潟県人会納涼大会でも、古川原名誉会長や三上会長(当時)らとも懇談のテーブルにつかれていた。


中央が高橋 誠町長 左は古川原名誉会長、右は
三上会長、後列左から小林正則小平市長、その右は渡部作次副会長と小泉美恵子理事(いずれも平成17年当時の役職名)

50周年大会に参加した高橋誠町長の巻高同期生
・・・・・・・・・・・・・・


寺泊町の歴代教育委員長
 藤田 武 昭和31年10月〜53年9月  
 廣川廣四 昭和53年10月〜平成1年11月  
 長谷川達栄 平成2年3月〜平成12年9月  
 柳下明也 平成12年10月〜平成17年12月  


旧寺泊町の名誉町民
 亘 四郎  昭和50年2月推薦
 外山勘兵衛  昭和59年3月推薦
   小林  進     昭和61年9月推薦
 
「新・長岡市」になった寺泊・与板・和島・栃尾地区から合計
8名の長岡市・市議会議員が割り当てられ、旧寺泊地区定数
2名が割り当てられた。
選挙は1月29日に行なわれ、7人が立候補、下表の結果となる。
トップ当選の高橋誠氏と2位当選の古川原直人氏は、同期生。
また、寺泊町役場は長岡市の「寺泊支所」と名称が変わり、
森山信太郎氏が初代・寺泊支所長に就任し、本合 收 氏を経て
現在は、長谷川知雄氏で、いずれも東京寺泊会の懇親会にご出席された経験がある。


合併直後の長岡市市議会議員選挙
候補者名(年齢)    得票数
高橋 誠 (59)     2106
古川原直人(59)   1370
高井 裕 (54)   1118
山田省吾 (53)    965
田村勝三郎(66)    815
有木清司 (53)    682
星 又一 (64)    227

  選挙結果は新潟日報のHPより

 

町旗降納式東京寺泊会でも式典実施
新長岡市誕生に伴って東京寺泊会でも祝賀記念を行う。高橋町長は東京寺泊会のためならと、町に特別許可を与え、歴史的遺産物は東京へ持ち込まれた。

かくして、町旗は森山初代支所長から寺泊会第7代三上喜久治会長、渡部作次副会長が代表して納還式を執り行い再び旧寺泊町へ還された

       ▼寺泊の町旗はこれで見納めとなった
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スターマインのお値段はいくら

 

花火の季節、到来

 

寺泊港まつり観光協会の宣伝(クリック無料)

7日の夜は30万人が寺泊の海浜で5000発に酔う




 2016年寺泊の夏、今年も賑々しく「寺泊港まつり」が開催される。以前のデータによると、花火大会の総経費は約400万円超であった。当然のことながら、この費用は寺泊町民・現長岡市民と法人企業、団体などからの浄財にもとずくものである。12万人以上のお客さんに喜んでいただければ、収支を考えるより楽しくなる。寄付金制度はありがたく、これに見合った花火がプログラミングされるから納得する。

大都市が荒使いする、4年に一度の「オリンピック開催するための費用」限定については、見積り段階から、巧みなる合法的な競合方式で、建設業者、服飾デザイナー、企画会社、大手広告会社、開催地へ誘致職員を、多数派遣した旅行業者も、デスカウントを忘れ、定価で見積もったのではと今頃市民は気が付く。当時の誘致委員会職員も、税金で清算すればいいから、誰も困らない。成功はしたが、残念ながら招致に失敗しても、仮に50億円也を遣っても、すぐに清算されてしまう。かつて地方都市の信州でも、冬季大会開催後の総経費・合計は公表したものの、領収書は、3年後には焼却又は紛失処理で終結と聞く。法人企業なら、7年間は使途金領収書を保存するが。

さて寺泊の花火は賑やかな港まつりの中にある。港まつり大会会長の山田栄三郎さんは.その見どころを「海中・海空スターマイン」だ、と東京寺泊会・60回大会の宴席で話しておられた。
一発48万円なら、安いもんだと、寺泊会の名前を売るつもりで、その時は寄付をしようと考えていたが、実際の段階になって協賛金の寄付願いを受け取ったが、大金寄付の実現は難しく、ほんの気持ち程度になり、スターマインは次回にしましょうやと、役員達と話す始末。

ところで、花火の華はやっぱりスターマインである。そのスターマイン提供のスポンサー協賛価格はいかに・・・・。資料として保存してあった、寺泊会に届いた価格一覧をレビューすると・・・。2016年はもっと単価が上昇するであろうが。
  

花火のおねだん一覧このテーマも結構検索多し
 普通のスターマイン 16万円
 
 10号玉 4万6000円
 
 5号玉 1万0200円
 
 
 超特急スターマイン 37万也
 
 海中海空スターマイン 48万也
 
 ベスビア ワイド特大スターマイン 251万円也
 

 

寺泊町の花火師といえば青木さんだった


そんなこんなで、2016年目標の5000発も、去年の画像で予習しながら、一瞬にして開いて消える、花火を値段で観るのも一興である。
60年位前、寺泊町には「青木」さんなる打ち上げ名人がおられ、夏の花火大会だけでなく、朝早く、町や小学校の運動会・開催を知らせてくれたりもしたもんだと、東京寺泊会の古老が語ってくれた。
それぞれが花火には、色々な思い出があるもので、熱狂的な花火ファンも多い。

豪商トカンさんの親戚で、現在東京寺泊会の会長をされている外山健太氏は、大の花火好きで、毎年長岡の花火を観るために、首都圏で大勢の熟年たちを集め、バスを仕立てツアーを組んで長岡まで足を運んでいる。定年後の趣味として、全国山歩きの会も主宰しているが、この会員さんが中心で花火には、今年も総勢30人を引率して信濃川へ。団体御一行様の帰路はいつも、寺泊
きんぱちの宿などで過ごされるそうで、有り難い長岡市寺泊町のステークホルダーである。
■ トップの掲載写真は新潟県・観光協会発行の観光通信・第49号を利用。

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フジロックに最適な宿発見

 

フジロックの季節
2016/7/22〜25の宴
の文字で今年も検索数激増である。これはかつて郷里出身の人気キャスター・大越さんを寺泊会だよりで紹介した直後の現象に酷似しており、全国で寺泊会に関心が有るはずないのにと思い、検索ワードで分析したら、その理由が判明した。ロックの季節到来が、寺泊会だよりまで飛んで来たようである。寺泊会とは関係ないが、同じ越後に関連するイベントが縁で、寺泊だよりを読まざるを得ないらしいからありがたい。
 
 
フジロックの宿で検索数激増
 

来場者数が10万を超えるロックフェスタは、アリーナや、ドーム球場の出現で、今や珍しくないが、20周年を迎える、このフジロックも、略称そのものが登録商標故に、商売として第三者が勝手に乱用できない。当初は2日コースで観客数3万人からスタートし、6万になり昨年は、3日間で12万余りと発表された。娘を天神平(富士山中腹のスキー場)まで、車で送迎した頃が懐かしい。その名のとおり、富士山の中腹にロック会場が有った。だからフジロックというのかと、15年前に納得していたが、今、会場を移しても名前変わらずである。台風の心配さえなければ、富士山コースは、絶好のドライブウェイであった。御殿場駅から、バスで会場へ行くファンも多かった。

フジロックなる野外音楽会は、会場を静岡県のスキー場から、東京を経て、越後・苗場山に変えた途端人気沸騰。スキー場のド真中に苗場プリンスなる、巨大なリゾートホテルがあるのに、ここに予約できないのが常識となり、ホテルに入りたかったら、背広を着ない業界人になれと言わんばかりである。おかげで、7月末は、会場からかなり離れた民宿や社員寮、老舗温泉宿まで満員となり大賑わいである。

三国街道の老舗旅館・貝掛温泉は、雰囲気良く、温泉場に一軒しかない事が幸いしてか、露天風呂を中心に旅番組で必ず顔を出している。若女将の、テレビ慣れした紹介も楽しい。

静寂の三国街道に潜んでいた、山賊が出たころに、いきなりフジロックの大音響が轟いたら、さぞかし超仰天し腰を抜かしたに違いない。7月後半は台風、低気圧と豪雨でも、ファンは集まる。夏晴れにしてやれと、天に言いたくなるが、人気アーティストの生音を、聞けば、皆満足した顔で帰ってくるから、雨でも風でも問題なさそうである。越後の観光協会長も大喜びであろう。


さて東京新潟県県人会は、創立110周年も近い。日本国の通常国会は、今年が190回目だそうであるが、財団法人・県人会恒例の定時総会、寺泊会も所属する、総務委員会が取り仕切って、賑々しく、執り行われる。
毎度の準備に馴れた委員。総勢20人は、この日が楽しみである。第2部懇親会を終えたあとの、打ち上げ会・会場を近くの割烹で予約したうえで、101回目を迎えた当時の物語である。

 
新潟県・観光協会・会長さんが身内の一大事として、越後の旅館へどうぞと集客協力要請

新潟への観光PRをしながら積極誘致

今年の御来賓は、社団法人「新潟県観光協会会長・高橋正」氏が引き連れた「旅館組合の野沢幸司理事長」をはじめ、「旅館の女将、若女将」さんたちであった。

大震災後に、越後の旅館へはキャンセル続出、
総数12万件のキャンセルは、越後の宿の一大危機である。自粛もいいが、新潟県の宿の良さを全国にアピールしてくれと、新潟県知事・泉田裕彦氏に訴えておられた姿が、先日のテレビで紹介されていた。
そういえば、今春お会いした際頂いた、知事さんの名刺にも、ユニークなロゴが書いてあった。

さて、押しの利いた声量を持つ、新潟県・観光協会会長・高橋正さんが仕切る引率者さんたちの紹介で、第2部の懇親会は始まった。
かつて、新潟市議会で主流・半主流を取りまとめた、議長経験があるだけに、積極性ある態度ながら、物腰柔らかく、その話しぶりが、大変魅力的であった。

名物弁護士さんの、あいさつも、楽しい。今年のテーマは、100周年記念誌当時の、販売に関する取り組み方に対する意見陳述であった。
私見としながらも、100年だろうと500年記念誌だろうと、どんなに立派な装丁と構成であっても、所詮、作り手の自己満足でしかない、従って、販売の取り組みには慎重性を要する..と弁じた。
会場の参加者の多くは、何らかの会の、会長か幹部で、何冊かの販売責務がある。慎重に聞いていた。ちなみに寺泊会関係者は、合計50冊を手にしたが、小林秀雄会長の協力があっての話である。

堅いお話はともかく、越後の旅館組合を代表して、奥湯沢の旅館・貝掛温泉の若女将長谷川秀美さんも、5代目の主人を支えながら、温泉来訪大歓迎のメッセージを発していた。苗場スキー場周辺にある、民宿の倍以上の宿泊費も、泊まる価値十分にある。
全国「温泉湯宿を守る会」のメンバーとしても活躍している。

東京寺泊会からの提案であるが、夏の「フジロックフェステバル」で、まだ宿の予約がとれていないファンは是非、苗場に近い、ここの温泉旅館も検討してほしい。

■御存じのように、毎年苗場プリンスは、予約困難、周辺民宿もすぐ満杯になる。
会場ゲート近くへの専用バスを用意させたらどうか。若女将の秀美姐さんに相談したら・・・。その予定はないが、いつだったか、著名アーティストと、露天風呂で一緒になったファンが大感激したこともあったそうである。


那須の温泉に行くならこのお方を紹介する。県人会相談役の横野寅雄氏である。東日本大震災でも、宿の地下層の岩盤強く、びくともしなかった由。
その名も有名な・五ツ星旅館、掛け流し温泉「大鷹の湯」の経営者さんが越後人である。
後方は、参加者と名刺交換に忙しい、新潟県東京事務所・池田幸博所長である。

総会議題の1〜4号議案も無事可決され、2部の懇親会終了後は、予定通り、総務委員会の打ち上げ宴会を上野・御徒町駅近くで開催。総会も終了し、ホッとしたのであろう、お偉いさん方は、県庁から出席された、特別ゲストを交えて痛飲。越後人は本当によく飲む。都会に住んでいて.越後出身ですというと、必ず「お酒は強いんでしょうね」と問い直される。
年金の多寡から退職金の差異にかかわらず、同等に杯を交わしながら、思考衰えず、他を詮索しない豪放な70代達と混じる、ひと時は、実に楽しいものである。県人会を退会したて久しいから毎年の総会には、懇親会の司会をするお座敷もかからないので、当職としては他人事になっているが。



 
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