◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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第37回弥彦村人会11月11日開催

 平成時代最後の大会・盛況裡に終宴

 

 

 

平成最後となった弥彦村人会を仕切った 堀 優会長

多数のご来場感謝申し上げます・今夜はごゆっくり日曜劇場名物のテレビドラマでもお寛ぎください

 

 

 

 

 

ドラマの中での大手企業 帝国重工(社長役・杉良太郎、部長役・吉川晃司、次期社長役・神田正輝)らが絡み合う、BSN=TBS系日曜劇場「下町ロケット」でのロケ・制作部隊をはじめ 佃製作所(社長役・阿部寛他エンジニアや経理部長・殿村役として時折蒲原・燕にある実家の田んぼに姿を見せに来る立川談春、その妻役・工藤夕貴、さらに親父役の山本學らの豪華俳優陣達をはじめ、完成度の高いテレビ撮影にしようと全面支援協力しているフイルムコミッション・新潟県弥彦村出身者が開催する東京村人会の基礎講座である。(本稿には、著作権を十分配慮して、TV上で演じる俳優さんのお名前を、公開されている番組表を基に使用させて戴いております

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東京弥彦村人会

 

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今年は2人の弥彦人による豪快で洒脱な司会が冴えた

 

 

 

 

ヤヒコソンジンカイ入門

 

2018年11月大会は終了しました

来年は新元号で募集致します

 

 

 

寺泊会と弥彦会のお付き合いは、いつから始まったか。

それは弥彦会が郷里の中学校同窓会中心から脱皮して以来の話のようだ。春の寺泊会、秋の弥彦会は互いに会長、役員あたりが来賓として招かれたり、招いたりして何年間も継続している。

 

平成30年度の弥彦村人会は11月11日(日)にお茶の水にあるホテル聚楽で開催された。


15年度に4選を阻止して当選された小林豊彦村長さん、来春には2期目に挑戦する選挙がお有りだが弥彦村人会に積極参加され、健在で、その巧みな力強い話術にはまってしまう。あの威張らない性格はどこから来ているのだろうか

弥彦村と寺泊町そして

 

 

分水町の履歴

◆ 平成の大合併で踊らされた日本全国の自治体は 無数にある。 越後国のほぼ中央に位置する、弥彦・分水・寺泊も例外でない。 寺泊町では、回覧板で新地名公募までやりながらも、3者合併は 実らなかった。

■一方の燕市では、吉田町と分水町との合併に画策が始まっていたから、庶民はどれが本物やらと複雑な感が消えないありさまであった。

◆やがて寺泊町民は長岡市民に、分水町民は燕市民へと巣立って行った。 寺泊の町会議員は選挙に挑戦し、先ずは2名だけが長岡市議会議員となり、分水の町長さんは燕市の市長さんへと変身。分水町長さんの燕市長選挙挑戦物語。

 

だが弥彦村民さんは、合併を嫌って他の血と交わることなく、合併特例分担金も受け取らず発展し続けておられる。越後一の宮・弥彦の神様のお告げか、すべてが吉と出てしまう素晴らしい土地柄である。

 

しかしながら平成の最後あたりに時代が移る頃になると

燕も弥彦も協業で村おこし街おこしに躍起となって、合併せずとも首長の笑顔は消えることなく続いている。観光写真に分水の花魁を使いながら、いざキャッチコピーに全国区の燕を使っても、誰も不思議がらない越後人の太っ腹さがみえてくる。テレビドラマになっても不自然さは残らないのは、はざ木を脇にとうとうと実る稲穂を育てる蒲原平野の歴史物語のせいかも知れない。


 

 

 

毎週日曜に放映されているテレビの人気番組-BSN:TBS系で放映-

-動画解説-{下町ロケッット}では、米どころ越後の農家を仮定し弥彦村は撮影協力に余念がない。TV撮影協力の字幕にその痕跡を残す。

それ以来、発展する弥彦の村長と祝杯の一献を傾ける機会は毎年秋にやって来ることとなった。


方の合併はならなかったが、東京寺泊会と東京弥彦村人会東京分水会の3団体は互いに交流の機会を継続している。弥彦会さんの現在は、堀会会長へとバトンタッチされ、副会長には羨ましくも、女性陣も加入し他会からの運営見本にされている。
東京弥彦村人会は郷里の、弥彦中学校同窓会を基に、昭和57年11月に創設された歴史ある、ふるさと会である。
現会長の堀 優氏(東村山市在住)は、中国通で、永年隣国相手の仕事に携わっていた経験を生かし、幅広い人脈で、芸能文化と、会に招致して、イベントに活用させている。

今年で37回目を迎えたふるさと村人会は、毎回イベントが総会前に催されている。

今年は「及川清三、清乃さんの民謡ショー」が企画され、CD2枚を全員に提供、オリジナルの弥彦小唄で会場を盛り上げた。

 


例年ここの会は、ホテルロビーの階段を利用した集合写真で会が始まるが、平成最後の37回大会にはスキップされた。
ホテルとは言うまでもなく、弥彦村と縁の深い「ジュラク」のことである。
お茶ノ水駅に近いこのホテル周辺は、高層ビル建設ラッシュも一段落で比較的静かになった。ジュラクといえば観光地に素晴らしいホテルを構えているが、ホテル業の歴史はそう長くはない。 現在はこのドメインを抜きではビジネスモデルが成立しないまでに発展した。 近年には、新潟駅そばの激戦区でホテルをオープンし好評を得ている越後ゆかりの著名企業である。経営手腕を継承している3代目である。

 

現社長の祖父・加藤清二郎が大正13年3月に、神田須田町で洋食屋開業して以来93年が過ぎた。先代が提唱した、越後に役立つインフラをテーマに設置した弥彦山頂とふもとを結ぶロープウェイも平成最後には現社長同様、生誕60年目を迎えている。

聚楽の歩み・昭和49年刊行より・・加藤治社長提供) 
越後から列車で上野に到着すると、真っ先に駅前に見えた「聚楽」レストランの看板とネオンが懐かしい。そのお孫さんが、ご自分のホテルとは言え、いつも、会の参加者に如才なく振舞っておられる。

あいさつされる加藤 治 聚楽社長。

弥彦村は、首長変われど必ず懇親会に、村長さんもご出席。笑顔いっぱいで会員たちに声をかけるコニュニケーション手法は大谷良孝 前村長さんのころから
続いている。実際村人会あたりに交わると、本来のリラックス感が最高になるのであろう。

 

 

村の温泉施設は繁盛するは、この村の居住評判を聞きつけ、村への転入・人口は増えるはで、悪い噂は聞いたことが無い。
首長激務の中でも、村政は安定しておられるようであった。加えるに児童の虫歯発生率が、日本全国で最も低いとの実績が評判である。このふるさと自慢は毎年聞かされる。

 

小林豊彦の村長時代に変遷中


 

弥彦村は永年、村長選挙無用のまちとして続いていたが2015年には

現職に久しぶりに挑んだ新人が、約10歳年上ながら当選。それまでは無投票選挙が40年以上あった訳だから、村民たちも複雑な気持ちだったであろう。その新村長・小林豊彦氏の2期継続激戦記は、新元号時代の特記事項となろう。

   

かつて総合司会の実力者・武石堅次氏(現・幹事長)は、平成最後の会では、美人館長をお連れしてきた。

昭和歌謡曲時代を代表する作曲家・遠藤実記念館として、新潟西蒲区の越前浜で実唱館を代表経営している遠藤由美子さんをくどいてお連れしたそうである。勇気を出して、来年の5月26日の寺泊会にご出席をと願ったら笑顔で快諾され、男は顔だけでないと安心し、寺泊会役員会の自慢話が増えた。どうよ。

司会をバトンタッチした一見紳士風の宮川氏の洒脱な話術で進行され、更にカラオケ宴会となると豪快な高橋幹事も加わり、その盛り上げ方は半端ない。

両氏の宴会を把握する手法は、蒲原人には希少価値かと思わせる。

大会には毎年会長賞と村長賞があり、大会のイベントとして楽しみな抽選会の華となる。



抽選会の名物賞品として存在感ある「超なが〜い、長イモ」が今年も賞品として振舞わられた。

 


  弥彦会と分水会の巨頭勢ぞろい感のあるふるさと想い隊連中

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こちらの、だんなさんの御名字は軸屋(ジクヤ)さんである。手にしておられるのは賞品の商品でない。鹿児島産の芋焼酎である。軸屋さんのお顔が恐そうだったが、顔見知りの、宮川玉城氏と同じテーブルだったのでお話させていただいた。

「鹿児島の酒造の娘と結婚しましてねと、まあ一杯どうぞ」と差し出され試飲。さすがに特上甕(かめ)仕込みである。きめ細かな味で、きりっと飲み応え満点。都内ではなかなか手に入らないそうであるが、ネット注文沸騰中とか。焼酎と言えば、いつもはお湯割りでその上、うめぼし入れて飲んでいたのに、これは何にも入れないでぐいぐいいける。思わずうんめーと叫び、コップで2杯頂いた。それもストレートで。
その名も「軸屋酒造のトップブランド品・軸屋」であった。奥さんの実家が会のためならと、提供して下さったそうな。薩摩の本格芋焼酎発見の会となった。


弥彦神社宮司(写真右端)永田忠興氏は今年で退任され、渡部吉信氏が就任予定で現在神社庁の認定待ちで代務中。お見かけより実年齢がかなりお若い。言葉の中に世を見つめている風刺がこめられていて、東京新潟県人会副会長の廣川高志氏(写真左端)と、爆笑しながら、ついつい話し込んでしまったのが懐かしい。

ところで堀会長になってから、ここの会は珍しく3人の女性役員体制を組んでおられたが多少の改正もあった。


舞りが得意な杉山榮子・前副会長(麓出身)は、お見えでなかったがステージ東京寺泊会の懇親会でおけさを踊ってくれたのは、数年前の話になる。往年の宴席での艶姿をもう一度観たくなる。


 ■歌唱指導や抽選会の賞品授与もされる一柳建子副会長(弥彦)は、闊達で、「この方は、お料理の達人よ」、と周りのご婦人から教えてもらった。宴席で何回かお会いしているが、時折着用する、真っ赤なオートクチュール姿を、今回は披露されなかった。
 

まり姐さん寺泊会で講演

前立腺肥大予防の極意

 

 

 

もう一人の才女、黒田マリさん(83)は、2018年の寺泊会で講演をしてくれた。長年に及ぶ整体プロの経験を生かし、「長寿と健康」をテーマに1時間近く持論を語ってくれた。中でも「前立腺のなおし方」は頻尿・残尿・無力尿の該当者が多数いた会場一同が熱心に耳を傾けて、その秘策を家に持ち帰りこっそりと風呂場で挑戦した事だろう。

おとうさんの局部を風呂に入ったら、しっかりとつかみ、右に70回左へ70回と揺さぶれば、前立腺は手術までしなくとも治せると持論を解説書付きで熱弁。会場騒然と爆笑のヒトコマであった。

 

鍼灸接骨院を経営するマリ姐さんは、弥彦村人会の名誉会長として組織のリーダーシップを発揮されている。自身が経営する会社のスタッフには体育会系の若者が多く、人気サロンスタジオで、郷里に構えた自らのオフィスと東京・大田区にある本部を頻繁に往復しており、素晴らしい弥彦観光大使の役目を担っているようでもある。女性起用がお上手な、近頃の弥彦会さんであった。          

 

 ■情報提供;第29/36回東京弥彦村人会定期総会案内書

 

 本稿には一部29回大会の写真並びにTBS番組配信情報及び販促グッズ(¥750)の写真を使用しております

 

   

 

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寺泊町が長岡市になった日そして歴代町長と高橋誠町長時代

 

その話題45日持ちましたか

 

 

◆我が越後が生んだ世界的スポーツ用品メーカー製のラケットを操る、20歳の人気女子テニスプレーヤーと違って、話題性に乏しいが、首都圏在住の寺泊人は、都民ファーストを旨とする英語は達者な女性新知事の奮闘で、永年、男衆が出来なかった事案に豪快な決断する瞬間に拍手していた。

このころの越後では、現職県知事 VS 新潟日報新聞社というステークホルダー同士の葛藤があり、この話題を定例会見やメディアが取り上げるたびに、居酒屋の桟敷席で話題沸騰する珍現象。(寺泊会は、新潟県知事さんとは名刺交換してるし、一方の地方新聞社の東京支社さんには寺泊会の行事について新聞掲載頂いた恩もあり、大変お世話になっている。)…………………・・・・・・・…………とか言ってたニュースも、半年も経てばもう昔の話としてかすれてしまい

これを話題にすることが無くなっていた頃衆院選挙に焦点が替えられた。

 

◆葬られつつあるこの世相川柳

 

都民ファースト 

 

あたしファーストなのと 本人言い

◆都民ファーストで何が決まり、何に改革されどうなったか、これも時間が経つと、有効性を検証しようにも現物場の評価をメディアの中で災害・事故・不倫などが出ては消えで繁盛中。

多忙で記事にする行間がないそうな。見えないのは当然かもしれない。

イノベーションなる言葉はファーストを旨とするが、期待値程決定がなく見えてこないから居酒屋談義も廻り道をしながら弾ませざるを得ない。

 

かつては小池新党圧倒的多数で日本を席巻などとのうわさを皆で信じていたが、2017年10月22日の選挙で直近の予想通り惨敗。原因は複合的だが、同氏が率いる党員の数は軟体微弱で、景気のいい話とは程遠い。新党創設も維持が精いっぱいでとても保持という訳には行かないく日本外国特派員協会(FCCJ)で得意満面で語った、子供の頃からレデイファーストで慣らされている外人記者相手のプレゼン効力もすっかり薄れてしまい、自国に発信するトピックスにも取り入れていないだろう

 

◆そこで思い出す言葉は、経営戦略の中で取り入れられる。組織における内部外部の課題と利害関係者のニーズ期待の認識の甘さであろうか。

これがあるからものごとは安易に計画したことが実現しない。

成果を出す戦略に使う必須のワードが、武将の時代から科学の時代でも消えないで生きてくる。

親分の脳裏に浮かんだほんの一言が、組織の命運にかかわる懸念の方向へ進むことの恐怖である。経営テキスト通りの実証か。

 

選挙は当選してナンボ

 

◆晴れて千代田区に建つ、議員会館なる夢のオフィススペースを許され利用権利を得た、前新潟県知事さん、知事再選を目指すも立候補を取り下げざるをえなかったニュース以来、その消息はあまり噂にならなかった。

が、政治の世界は知名度が高い人には、強運が向こうから、お土産付けてやってくる機会が多々ある。

◆泉田裕彦氏は知事就任直後に遭遇した中越地震以来、3期知事を続けたのは事実である。

皮肉屋さんが多い寺泊会の中でも、これは野次馬好奇心派の仲間内でしか話題にならなかったが(一期X3の退職金)をお土産に県庁を後にしたということは、県には安定した税収が有るとはいえ、40年近くも汗水垂らして懸命に働いたおじさんサラリーマン3人分の退職金にも達しそうで、知事在年12年分となると決して少額ではあるまいて、などと言いながら盃を傾ける。

だが人間は何億手にしても、良いお誘いあれば次なる道に必ずや目が移る。

 

◆さて件の前知事さんは、2017年10月の衆議院選挙で、長岡寺泊などが主戦場の新潟5区から自民党に推され、当選され 国会議員に変身されたのだから、人生は判らない。

 

長島忠美氏の突然の逝去による補欠選挙で、自民系の候補者は知名度優先戦略で、田中真紀子氏だのそのご子息だのと時間をつやした居酒屋談義を思い出すが、結果オーライで5区は自民勝利へと導いて選挙は終わって行く。結果第一で過程は話題が薄い。

 

 

                  

 

 

故長島忠美氏と寺泊会

 

 

 

◆寺泊会の名刺簿に越後出身の国会議員さんや市長、知事さんなど著名人多数がファイルされている。

参議院議員・森ゆう子、衆議院議員・菊田まきこ、衆議院議員・高鳥修一、新潟県知事・泉田裕彦、新潟市長・篠田昭、等の各氏その他である。名刺交換だけなら、ヨネックスの会長さんは県人会長だったので当然として、なぜか警視総監からモンゴル大使館関係者もおられる。

幸いにも寺泊会として国会議員さんの名刺保管された方はほとんど現役で、会合の機会があれば新役職名での名刺交換ができる。

 

衆議院議員 長島忠美氏の名刺は2枚ある。ふるさと想いの同氏に東京寺泊会でのご臨席賜りスピーチ願いたく、思い切って名乗り出たところ、ここに連絡しておけと、お名前の忠美のところに振り仮名「ただよし」とついている名刺を頂いた。裏面には永田町の衆議院議員第2議員会館の部屋番号と電話番号が記されていた。

寺泊会が同氏の名刺2枚所有しているのは、同じ話を2年かけて2回お願いしていたからである。

だがこの願いも叶わず2017年8月に先立たれてしまった。お別れの会は10月30日(ホテルニューオータニ長岡)に執り行われた。

 

山古志村は寺泊町より2年前に長岡と併合していた

 

◆ここに6年前の新潟5区の衆議員選挙を思い出す。田中真紀子氏(当時民主党)と戦い約3万票差で当選されたのが長島忠美氏であった。山古志村村長さん時代から故郷を大事に想い続け国会議員さんになられても中央からその目は離されなかった。災害復興についても片時たりともその手を休めてはいなかった。

だから寺泊も山古志と同じ長岡市なら、顔を出しましょうとなったに違いない。山古志村さんは寺泊町より2年先輩として長岡市になっていた。寺泊町がまだふらふらしていた当時である。

 

◆元号が変われば平成29年となると話が古くなるであろうが、その秋は衆議院選挙で小池戦略が失墜し自公大勝に沸く。今や小池手法のリスクで生じた機会のみが特出して話題になっている。ここでの機会の意味を翻訳すると「ウラ目」になろうか。決してISO用語で良く使うチャンスではない。

 

寺泊会は当選された衆議院議員・泉田裕彦氏に65周年大会へのご臨席を期待する。その訳は極めて単純である。

補欠選挙出馬が決まった際、同氏の第一声コミットメント「私、泉田は(寺泊さんのいる)新潟5区・故長島忠美氏のご遺志をしっかりと引き継ぎたい」と真剣に述べておられた。

なお(・・・・・)内の声明部分は、声が小さかったらしく聞いた者はいないが。

 

寺泊会にあの新潟5区当選議員さん

ご招待の実現はいつか。

 

◆この崇高なるご故長島忠美ご遺志を尊重される暁を夢見て、党籍にこだわらず当選を喜んでいるのが寺泊会なのだ。

そして寺泊会へのご臨席は、故長島氏が抱いておられた未達の遺志であるとして、次の代で実証してほしいのである。

 

◆これぞ立派な故人のご遺志の尊重ではないか。

幸いにも新潟県人知事時代に名刺交換しており寺泊会をお覚えであろう。

東京寺泊会65周年回大会の開催は、2020年4月に決定済みだ。ご臨席される再来年が楽しみである。

そのために12年前、寺泊の首長さんは、長岡市と合併の道を選んだとする屁理屈は、誰も信じないかも。

 

寺泊が長岡市になった日

 

◆寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。

 

がて、寺泊の町長を語れるのは、

 

古老も集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。

その話をまとめて編集したらこうなった。

町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。

だが寺泊人にしてみると懐かしい名前が登場して面白いとの少数派の評判も有る。

寺泊町が消えた日・・・平成の大合併と閉町式

 

   高橋 誠氏逝去 ・・・・(合併前、最後の町長)享年64


寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、
共に明治22年の事である。
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に
号令した結果伝統的な地名が消え
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。
明治34年には野積村を含む近隣4村と一緒になり
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口
18000人近い、自治体となったのである。 
平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併
冠に長岡市をつけることとなり、町としての「」の名前は消滅した。

 

「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。
高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長
公務多忙により副会長が指名され閉町式典に単独参加となった。

 

午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と
荘厳なる閉町式となった
ここで、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の

手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋誠町長(当時)に手渡された。

◆式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会のお.となり席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。

◆アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、
力強く閉町の雄叫びを轟かせた。


◆寺泊会が入手した公式資料で、大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。現在の長岡市職員でも興味はないであろうが。


   ▼寺泊町(旧)の歴代町長・最長は高橋氏

     初代町長  柳下安兵衛    
     2代目  本間健四郎   町制施行〜大正4年
     3代目  神林津三郎    
     4代目  桑原源治 大正4年7月〜5年11月  
     5代目  柄澤政雄 大正6年1月〜6年6月  
     6代目  寒川卯之七 大正7年9月〜10年10月  
     7代目  大平廣弥 大正11年1月〜昭和9年1月  
     8代目  治田竹治 昭和9年1月〜13年1月  
     9代目  竹澤茂一郎 昭和13年1月〜18年10月  
   10代目  外山勘兵衛 昭和18年10月〜21年11月  
   11代目  大丸常松 昭和22年4月〜25年6月  
   12代目  高綱三作 昭和25年7月〜41年7月  東京寺泊会創設期
   13代目  藤田子男 昭和41年7月〜53年7月  
   14代目  中島甚一郎 昭和53年7月〜63年6月  
   15代目  高橋 誠 昭和63年7月〜17年12月

                           資料提供 旧寺泊町役場
 

てらどまり」が寺泊町として町制施行以来
歴代町長は15代の首長によって継承され終結した。


■。。高橋 誠第15代町長特別追悼の章。。■

■■
2010年10月25日長岡市寺泊支所・地域振興課より東京寺泊会へ15代町長・高橋 誠氏の訃報が届く■■

■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」に、元気な姿で来賓参加され、同年の東京新潟県人会納涼大会でも、古川原名誉会長や三上会長(当時)らとも懇談のテーブルにつかれていた。


中央が高橋 誠町長 左は古川原名誉会長、右は
三上会長、後列左から小林正則小平市長、その右は渡部作次副会長と小泉美恵子理事(いずれも平成17年当時の役職名)

50周年大会に参加した高橋町長の仲間達
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寺泊町の歴代教育委員長
 藤田 武 昭和31年10月〜53年9月  
 廣川廣四 昭和53年10月〜平成1年11月  
 長谷川達栄 平成2年3月〜平成12年9月  
 柳下明也 平成12年10月〜平成17年12月  


旧寺泊町の名誉町民
 亘 四郎  昭和50年2月推薦
 外山勘兵衛  昭和59年3月推薦
   小林  進     昭和61年9月推薦
 
「新・長岡市」になった寺泊・与板・和島・栃尾地区から合計
8名の長岡市・市議会議員が割り当てられ、旧寺泊地区定数
2名が割り当てられた。
選挙は1月29日に行なわれ、7人が立候補、下表の結果となる。
トップ当選の高橋誠氏と2位当選の古川原直人氏は、同期生。
また、寺泊町役場は長岡市の「寺泊支所」と名称が変わり、
森山信太郎氏が初代・寺泊支所長に就任し、本合 收 氏を経て
現在は、長谷川知雄氏で、いずれも東京寺泊会の懇親会にご出席された経験がある。


合併直後の長岡市市議会議員選挙
候補者名(年齢)    得票数
高橋 誠 (59)     2106
古川原直人(59)   1370
高井 裕 (54)   1118
山田省吾 (53)    965
田村勝三郎(66)    815
有木清司 (53)    682
星 又一 (64)    227

  選挙結果は新潟日報のHPより

 

町旗降納式東京寺泊会でも式典実施
新長岡市誕生に伴って東京寺泊会でも祝賀記念を行う。高橋町長は東京寺泊会のためならと、町に特別許可を与え、歴史的遺産物は東京へ持ち込まれた。

かくして、町旗は森山初代支所長から寺泊会第7代三上喜久治会長、渡部作次副会長が代表して納還式を執り行い再び旧寺泊町へ還された

       ▼寺泊の町旗はこれで見納めとなった
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大越健介さんがNHKニュースウォッチ9のキャスター

NHKNW9・キャスターは寺泊町出身。

検索数が多い日は何かがある(2015/1/22=1450件)
同郷人大越ャスター氏のお蔭で、東京寺泊会だよりは、年間を通して安定読者数を保持している。


少しでも大越さんに関連した噂が出ると、これまた過去60万を誇る検索数が、超がつくほど増加する。


◆当初は、寺泊会が直接取材したわけ訳でないので、真偽は不明だったが、今春の人事で「大越氏、2015年3月でニュースウォッチ9キャスター交代・⁉」と、週刊誌、タブロイド夕刊紙に出るや
またまた、沸騰している。思えば同氏がキャスターとして登場したのは、2010年3月であった。それから5年後の2015年2月3日の同局による、人事異動で大越氏から河野憲治氏、井上あさひさんから鈴木奈穂子さん、スポーツ担当には佐々木彩さんへと、バトンタッチすると発表があったので、噂は本当だった。

 

◆公式発表前に情報を流す者がいて、僅か一部のメディアがこれを買い記事にするとは、恐ろしい世界である。お蔭で検索数の激増に貢献してくれた。午前0時に始まり午後11時までの中で、何千とアクセスが来るのだから感謝するしかない。正に寺泊会だより検索ワード貢献大使さんとして、4月大会で感謝状を出したくなる感がする。


◆正直なところ、大越さんがこれほど著名な人気キャスターになるとは想像していなかったので、気楽な気持ちで渋谷のNHK放送センターを訪れ、寺泊同郷人ですがと勇気を出してインタビューしたのが幸した。勿論事前予約を取り放送前の僅かな時間であったが。

実際寺泊会へは、郷里の町職員から、うちのマチに子供の頃いた大越さんと似たヒトが、東京のNHKでアナウンサーしているらしいよ、程度の情報しかなかったので半信半疑でもあった。町では、キャスターもアナウンサーも一緒にしていた。


◆多くの読者層は同氏の名前でウィキペデアから入り、脚中に本人のプロフィール情報の一部出典が、東京寺泊会だよりと記載されているので、多くの読者さんが、改めて、東京寺泊会だより迄辿っている様子なので、過去記事をアーカイブすると

 5月の大安日・22日に、寺泊会の顧問、外山さんが名誉宮司を務める、明治神宮で挙式を執り行うとはいえ、結婚披露宴延期の青山祐子アナと、日本放送協会始まって以来の、名キャスターコンビとして話題沸騰させた1年間であったが、お二人での競演は4月2日にフィナーレを迎えた。しかしながら、国難が襲う憂うべき世相で、代わりにご登場の新人女性キャスター、知的で聡明さが目立つも、毎日難しいテーマの報道に、笑顔での受け応えどころではなかったが、それは編集長の好みの問題だよなどと、弥彦会の会員様に言われながらも、NC9は5月23日に新装する噂がある。
 確かに背景は、手書きのアナログ型に親しみやすく改装された。スポーツキャスターとメインキャスターのデスクの距離も近くなり、発信者一体型となるように工夫され、気軽感もある。
お天気キャスター・大変身」の巻
何といっても、その横顔は、有り余る長い御髪のため、横顔を映すと、「頬」が見えないのは、子供の頃から怖かった、髪の長〜い「幽霊」を想像し、この場面になると、画面を見なかった事が懐かしい。やがて、無造作に後ろに束ねたかと思ったら、新装の5月23日では大変身の、お天気キャスターさん、これで、毎日安心して観ることができる。その横顔は、品の良い、小さくとがった顎が理知的で、ヘアーメークさんも仕事のやりがいがあるだろう。ファッションもスタジオでは、目立つ存在となった。夜7時30分登場で、絶大な人気が有った、お天気ねえさんも交代した現在、新しいファンが増えること間違いなしであろう。こんな雰囲気を創り上げる、寺泊出身のメインキャスターのアイデアと英知とは。

大越健介さんに特別インタビューより      
◇NHK夜9時から始まる「ニュースウォッチ9」の 評判は、
すこぶる良いまま継続中。
中でもキャスターをしている大越健介氏/169cm、49歳・体重は非公開(2010/12/22、同番組の大腸がん検査推奨のコーナーより)の 気取らない雰囲気に人気が集中している。

そして2011年4月2日(土)、通常は放映のなかった土曜であるが、東日本大震災発生以来、特別枠で、毎回大越氏と被災地、原発事故問題などを伝えていた。この日でスポーツアナから数えて8年に渡る、毎晩、9時台のキャスターを卒業した。
3か月前の番組中に、自身の結婚をコミットメントするような、オーダーで、大越氏が仕込んだ構成に、全国で多少の!!もあったが、大震災・原発事故と壊滅状態の日本を報じていた職務上、3月27日()に予定していた披露宴をキャンセル、多くの招待客も納得の延期であろう。挙式は1年以上も経った、2012年10月吉日、明治神宮で執り行われた。
4月4日からは、同局の昼時間1時05分からの登場となる。大越キャスターは夜番組を継続するので、夜9時のお顔としてお会いできる。新スタッフによる番組進行も楽しみである。

一説によると、青山さんの瞬間出演もあり、とのうわさが,囁かれている。ニュースウォッチ9の女性キャスターをこなせるコンピテンスを持ち、大越氏と組み、つぶやきギャグを受けとめてくれる、知的な姐御を、同局内で育てあげるのは、易しいことではないであろう。彼女にしてみれば、夜の番組終了後の、クールダウン時間が無くなり、ほっとされておられるに違いない。これからは別のメンバーと、居酒屋に顔を出すことになろうが。

実際、毎日拝見していても、ブラウン管での 女性キャスター・青山裕子さんが10年遅く入局した後輩ながら 体力・知力備えた賢明な、お姉様として60分間弟をかばいつつ隣に座っている風にも見え,安心感がある。
その検証には、8月第3週のように、青山さんが夏休みの期間中は、このシーンは当てはまらなかった。

その青山祐子さん(37)が、結婚報道されるや、この日から寺泊会のサイトの検索数がブレークした。平均200件くらいだった訪問者は、どこでかぎつけてくれたか責任重大である。
懐かしい1月の思い出であった。

大越さんは大きくつぶやいた。「仮にのお話ですが、もし青山さん〔番組では彼女をこう呼んでいる)が結婚されるとしたら、お仕事はどうされますますか・・」
「私は結婚しても今の仕事は、絶対必ず続けます」
「婚活には、女性の立場として、相手を十分知ることが必要ですね・・」
ここで大越さんの名言が飛び出す。
「説得力あるおことば、ですね・・」こんなやりとりが交差するNHK夜9時のスター番組が、ますます人気上昇へとつながって行く。これに伴って寺泊会という、都会で運営する、いなか通信サイトも、うなぎ登りでヒットしているのではないかと、分析した。これでは制作に手が抜けない。
当編集部も他のサイトを「せきまき」するようにならなければ。
この一部始終を知る、2011年1月20日のNC9ウォッチングファンは、おやっと思ったに違いない。大越さんは優しく笑顔で「せっけん」ですよとつぶやいた。実は原稿の最下段に「席」そして改行した次ページトップに「捲」となっていた。しかも用紙は2枚に跨っていた・・と推測する。

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入局以来政治部で仕事をし、優秀な取材では定評があり同期入社だった 民主党・安住淳衆議院議員は、 「あらゆる事に、ずば抜けた才能を持ち合わせていた逸材」と 評価している。但し、これは週刊誌ネタなので、安住淳氏に直接伺おうと思って、秘書経由でインタビューお願いを出してから、だいぶ時が経ったもまだ実現してないが。二人のエピソードはネタになるのに。


「つぶやくような おじさんのささやき」こそキャスターの魅力
こんな基本条件を兼ね備えた大越健介氏。
ニュースオーダーが変わるたびに、ささやく本番中の小さなつぶやき。
 大学野球の神宮球場のニュースでは
「僕もここでホームランを打った事があるんですよ」
 高校野球で甲子園の話になると
「僕の新潟(高校)は、まだ一回も出たことがないんですよ」
石川遼が全英オープンのラフで苦戦していると
「僕がこのホール代りましょうかね」
賞金の高い試合が,目白押しの、2010年11月のPGAトーナメントでは
「高額賞金を目の前にして、よく繊細なプレーができるものですね。私なんか△※□・・・」。

などなど、時にはおやじギャグになってしまうこともある こうなると、青山キャスターは、 聞こえなかった事にしてさっさと次のニュースへと話題を変えてしまい、「しょうがないわねえ、この子は」とでも言いたげになる。

 多くの大越健介ファンは、彼が女性キャスターの方に体位を開いて、 少し首を右に廻しながら両目を右側にまとめて何気なくつぶやく姿と その言葉こそ最大の魅力と受け止めているようである。
 
だが、9月3日の番組では、2日前の菅首相に続いて、小沢一郎氏をスタジオに招き、政治部の記者時代から身に付けた、適切な質問を投げかけ、相手に語らせる手法も素晴らしいものがあった。2010年の政権交代劇は、同番組を再生することは不可能なため、日テレニュース24のフリー動画で再生しながら検証するとわかり易い。

 
大越さんの魅力は「パートナーへ本心で発する、こころ遣い」

かつて、青山キャスター現役の頃、長野への出張レポ^ートが懐かしい。彼女の小澤征爾についての取材に対して、感想を「良いインタビー経験をしましたね」・・思いやりのある、つぶやきは、深みのある語りかけであった。
前日のソニーのウォークマンがアップル社i-pod製品の販売台数でシェアを抜いたニュースには, 「自分のようなオッサンには・・」とこの方ならではの、アナログ人としてのお言葉を発
せられた。
いつも「さらっと発するつぶやき」。 これを期待しながら、今か今かと番組を見ていると1時間はすぐ終わってしまう
「夜の9時と言えば皆さんが家庭で寛ぎの時間帯ですから、肩が凝らないようにニュースをお届けしております」とインタビューで語ってくれた、番組の編集制作責任者としてのコンセプトが、いつも生きている。
2010/9.11早朝の寺泊海岸

東京で新潟県出身ですと言うと、すぐ、雪が多いんでしょうと十日町や湯沢あたりを想像されてしまうが、長岡市寺泊では雪は少ない、その代わり冬場に吹き荒れる強風は半端でない。200年前にはこの道路はなかったが、さすがの良寛もこの強風下では、どこかの庵で過ごしていたに違いない。
雪の寺泊。この風景が何日も続く事はない。魚のアメ横通りあたり、左側の大駐車場には珍しく、車が1台もいない。・・・2010年2月6日観光協会ライブカメラより・・・真冬の海は正に鳥羽一郎の演歌の世界、波しぶきと かもめ飛び交う海景色。これが見たさに冬の寺泊を訪れ、カニの宿に泊り、きんぱちの湯につかったあとの一杯が、たまらんらしい。


雪より怖いのは強風である{11月9日の日本テレビより・ニュース画像コピー)

風速も30メートル近くなるとニュースになる。実際11月8日に吹き荒れた日本海列島強風は全国ニュースとなった。寺泊がニュースになるのは魚のアメ横関連か、夏の水難事故、そして大型台風並みの強風が来襲する時である。事故さえなければ日本海浪の巨大うねりと 岩に砕ける波しぶきの眺めも、絶品一興である。天然の音響はアンプを介してスピーカーから出るロックバンド音の比ではない。但しアリーナを満杯にする程の観客はいない。これは地元人でないと味わえない。これを知った旅人だけが、この時期に寺泊の宿を予約する。それにしても、この風速計はどこにあるのだろう。
 北日本などを中心に暴風 山形は風速28m だそうな。

寺泊に帰るのが楽しみだった

春夏秋冬、寺泊は生きているが、大越健介さんは3歳ころまで旧寺泊町(4区・蔵場町)で過ごし その後は県の職員をしていた父の転勤で 県庁所在地の新潟へと移ったが、夏休みや冬休みの度に祖母が住む 好きなふるさとである寺泊に帰っていた。
 父の菩提寺は、東京寺泊会発祥の祖・聖徳寺さんである。
「昭和36年に生まれた私は、寺泊の風土で育ったので特別な意識をしないでも、てらどまり、が故郷と思っています」。

水平線が長い2010年9月11日、土曜日のライブカメラで見た寺泊港の朝は素晴らしい。そして、夕方になると佐渡に沈む日本海の太陽、こんな,郷里が大好きだったのだろう。
    ▽2011年1月9日()雪が薄化粧をしてくれた。朝の強風も収まり良き眺めなり。




同じアングルでも寺泊の晴天は女心の如くで長続きしない。東京から富士山が見えるような晴天の朝の、日本海側は概して荒れた日が多い。2010年12月27日の寺泊の朝。波高しで風強し且つ寒い。これが寺泊の魅力なんだと気がつくのは、土地を離れてからだろう。額に飾られた寺泊在住の画家橋本直行氏が描く200号の油彩なら、鉛色の天は大作で銀座の画廊に飾れば、200万円の値があるのだが。
この色で、松本清張は人々の心をイメージして、昭和時代を見つめて多くの作品を残した。
地元で生活している人にとっては、忍耐のいる瞬間である。

2011年1月25日火曜日・早朝6時過ぎの寺泊港。雪も止み、夜明けの地平線が、また見ものだ。
旅行すればこれに波の音が聞こえ、シーンを盛り上げてくれる。「そうだ、寺泊へ行こう」。

 
荒れても必ず収まる日本海、絵のような真っ赤に染まるシーンの前には、これまたロマンチックな凪の海面で、これから水平線に沈むからねと、囁く太陽と岩辺にささやく静かな波の音を楽しむことが出来る。夕方の寺泊は何度もお色直しをしてくれる。良寛禅師も、その妹の「むら」、古くは順徳上皇から日蓮上人、水上勉も大越健介もみんなこの地に惚れてしまう。熱視線が恥ずかしくて、水平線は、だから真っ赤に頬を染めたのか。
 
 
夕陽に染まる日本海もこんな瞬間を経験しているからこそ、心から癒されるのである。夕方5時には、「東京寺泊会生みの親」、古刹・聖徳寺の鐘の音が。ゴ〜ンとなる。夕日が沈んだ先は佐渡島。流刑罪で波待ちをしていた間に「塩たき節が誕生。
次頁の、塩たき節ものがたりは、長岡市の指定民俗芸能に登録されている。寺泊ファン必見の舞踊である。音程が高く、一曲唄うと、もう2度と唄いたくなくなる、といいながらも、挑戦しておられる継承団体が保存している。



ふるさと新潟そして・・・新潟
ご自分のふるさとや新潟に対しては、常時、こころに深く抱いておられ、話題がここに連結する、例えば9月10日に放映された、最新の東京・銀座の様子の取材ニュース直後の感想では、久しぶりの直接単語が使われた。
「全国どこでも銀座と呼称されている所はたくさんありますね。私が住んでいた新潟にも西堀銀座がありましたが・・・青山さんの方は○x□※。。」と、隣に向けた。出身地の広島をめったに前面に出さない女性アンカーには、このつぶやきは、大きく発展しなかったが、2か月以上前の高校野球関連のニュースで、はさんだ「私の所の新潟高校ではまだ甲子園には、・・・」以来のお言葉であった。  
 
   
佐渡高校選抜出場
   
さて、年は変わって2011年・春の選抜高校野球大会に、21世紀枠として新潟県立佐渡高校が選ばれた。
 NC9ではきっと話題にするだろうと、期待していると案の定、スタジオ皆で、大越さん良かったですねえと笑顔が浮かぶ。
今では新潟ニイガタとアラフォーの言葉に、青山さんも一柳スポーツキャスターもすごく敏感に飼育されておられる。この雰囲気で、この言葉がでるとスタジオは大盛り上が りになる。
(  新潟高校時代に)3時間かけて佐渡(高校 )のグランドへ練習試合に行ったんですと
述懐する大越氏は、アナログ派だけに、スマートフォンのニュースの後に、新潟情報を発信するチャンス到来の2011年1月28日(金)となった。

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兄が私を野球の道へ導いてくれました
兄とは時間さえあれば二人でキャッチボールをしていました。 野球に夢中になる事の、面白さを教えてくれたのです。小学校へ入ると少年野球チームに入り、中学校・高校と野球部でした。 兄と同じ新潟高校に入学した頃には、彼は医師になる事を、考えていたようでした。

 3歳年上のお兄さんとなる大越章吾さん(現・新潟大学・医歯学総合病院第3内科・准教授)は、新大(医)を卒業後は、大学院を経て、東京の国立ガンセンターで、肝炎ウイルスの研究をされ、1990年・医学博士となる。癌研有明病院でも、論文は生きているはずである。(写真は、癌研有明病院の5階テラスで撮影)

正に誇りとすべき 寺泊出身者のひとりでもある。 各地で開催される肝炎に関する講演会にも出演し、パネリストとして 時折、講演や解説をしている。
 

東大野球部時代
 東大野球部時代は、投手としてサイドスローの投球を貫き 神宮で50試合に出場して8勝の実績を残したエースだった。 東大出身の投手には1960年岡村甫氏(前高知工大・学長)が 記録を作った、71試合で17勝した記録があるが、歴代5位となる 大越氏の記録も優れたものである。 入学した年1981年は早慶から勝ち点をあげて 赤門旋風とメディアで話題になり、東大最強時代を造り上げた。 ここの大学のチームなら 1試合9イニング最後まで投げれる確率は一番多いだろう、 との東大野球部入部の動機は、見事に的中した。
サイドスローの話はエースだった大越氏を知る者の常識であるが
今年の神奈川県大会決勝線で横浜高校に勝った、プロ野球の各球団が1位指名を狙っている、東海大相模の 一二三投手も同じフォームである。
八月一日に番組中で この投球フォームのニュースが流された際
大越さんもきっとこの事に 触れるに違いないと期待して番組を拝見していると
案の定
「僕の投球も最初はオーバースローだったたんですがと途中からサイドに変えたんですよ」 と、
大きくささやくと、隣の青山キャスターも身を乗り出し 「まあ、そうだったんですか」と、このささやきは盛り上がった。
  この直後の「オーバースローからサイドに変えて勝ち進むのは大変なんです」と
自分を振り返ったつぶやきは、大きくは話題にしてもらえなかったが。ところが、このつぶやきは、平成22年夏、第92回全国高校野球選手権の、一二三投手物語へとつながって行く。


▼▼[一二三投手のサイドスロー物語]2010年8月20日ニッポン放送。高嶋ひでたけ「朝ラジ」の番組より、高嶋さん朗読の「スポーツ人間模様を東京寺泊会だよりが脚色公開。 

2010年春、巨人の原辰徳監督は、遠征先の宿舎で一本の電話を受け取った。親父に母校の監督になれと指名され、東海大相模の監督をしている、後輩の門馬敬治からだった。
この年の選抜大会・初戦で敗退した直後、一二三投手が投球フォームを変えたいと言ってるが・・・との相談であった。夏の甲子園出場に向けて、チーム一丸となっていた5月、オーバースローのフォームが定まらなく、練習試合で結果が出せない、すべては自分の責任だと、一二三はひとりで悩んでいたのだった。一二三がサイドスロー投球法に気が付き、閃いたのはそんなときであった。

▼▼続く●●●
                     


今夏の甲子園大会の報道が楽しい 。3回戦を勝ち抜いて、快進撃を続ける新潟明訓高校・4番の柄沢君が寺泊出身であることに加え、ニュースウォッチ9にも、何かある度に面白いことが起きそうである。大越さんご自身の長男も日大三高当時、甲子園経験者である。話題は尽きない。

キャスターの大越健介氏は東大3年の1983年に、日米大学野球選手権に出場している。
 この年の東大の春秋の6大学野球の成績は5位であったが、リーグを代表する選手として 国立大からは、初めての抜擢であった。

記者・・出場されたご感想はいかがですか
大越・・僕はこれで「NIIGATA」「TOKYO」「JAPAN」とすべてトップのユニフォームを経験しました。(同氏のブログより

 同時期に6大学野球で活躍しプロ野球選手の道を選んだ選手には 小早川毅彦(PL学園・法政・ドラフト2位広島)、  広沢克巳(栃木・小山高校・明大・ドラフト1位ヤクルト)、 木戸克彦(PL学園・法政・ドラフト1位阪神)などがいた。
彼らは大学野球界でトップレベルにいたアスリートである。
これと同等で称されるコンピテンスを持って、東大野球部に在籍しておられたのが、寺泊生まれの大越健介氏であった。


▼▼
さて門馬の話を聞いて「身体が憶え、完成までに10年はかかる。今年の夏に優勝を狙うんだったら、そんな無茶な事やらすな」と原は反対した。
門馬は、一二三の筋トレを自分の目で見ていた。ペットボトルに水を満たし、2キロ近い負荷をかけて一日3000回も、横手に振りぬくトレーニングをしていたのである。門馬は原先輩には、報告だけにとどめ、フォーム改革を容認せざるを得なかった。

その一二三はサイドスローに変更した夏の2010年8月20日、甲子園において準決勝で、成田高校を相手に9個の四死球を与え、14安打を浴びながらも完投勝利し、40年ぶりに東海大相模の決勝戦進出を果たした。
大越さんのつぶやきが楽しみである。昨日19日は青山キャスターが休暇中で、掛け合い漫才こそなかったが、高校野球から目を離さない氏が、隣の女性スポーツキャスターに「野球仲間と話してたんですけど、ここまで来ると、球児の力の差はなく、皆が横一線ですね」とコメントしていたが、高校野球を語り合える「野球仲間」とはどなたであろうか。県高・新潟高校の野球部仲間か。まさか東大ではあるまい。
これはご自身の3人の野球好きな息子さんたちに違いないと、勝手に解釈してしまった。
女性キャスターに語りかけた、サイドスローにおける大越さんのつぶやきこそ、日本で最も、横手投げ投法を実践し勝利する難しさを知った男、の言葉であろう。

▼▼

決勝戦でもこの投球スタイルを崩さず、門馬敬治も一二三投手を信頼し、想像を超える多量の点差がついていても、限界まで先発投手を変えなかった。試合終了後に、一二三慎太は甲子園のグラウンドで、興南のアルプススタンドから沸き起こる指笛と嬌声を聴きながら、僕は今のフォームに自信があった、だが「プロに入っても通用するかなあ」小さくつぶやいて、あこがれのグラウンドを後にした。その彼が日本のプロ野球入りの志望届を出したのは2010年10月13日のことであった。
自身の出身地である関西の球団にでも入れば、この記事の続きを書くだけであと10年は持つだろう・・・・・・・・・・・ ・・
一二三投手物語の項は、ひとまず、おわり。敬称略。・・・ ・・・◆

運命のドラフト会議は、2010年10月28日(木)今春東京新潟県人会新年祝賀会の会場と同じ、グランドプリンス新高輪・飛天で開催された。ここのステージには1月に芸能大会で司会として上がったが、スピーカーが天井でもホール後方席の音量は、会場を包むように聞こえ、気持ちがいい。クリスマスシーズンには、加山雄三や、著名アーティストのディナーショーで満席になる。

早大のスター投手に1位指名で、交渉権を持つ球団が決まるや、関係者は満塁打を放ったような嬌声を上げた。
この日の大越氏の番組は開始早々から1/2を占める,約30分を、ドラフト関連のニュースに費やした。「6大学野球に関わっていた自分としても・・・」思い入れが深いのであろう、・・と切り出し、プロとして巣立って行く前途ある若者に、熱いエールを送った。

そのスター投手こと、早大・斎藤ー大石はドラフトでも、スター扱いであったが、2010年秋季リーグ戦では10月2日第4週1回戦で両エースが登場するも、4−2で珍しく東京大学に敗戦していた。東大は6大学野球に於いてリーグ戦35連敗中であったが勝利の記念大会となった


日、神宮の応援席で観戦していた東大の学生数は、早大より64人少ない258人(東京大学野球部HPより
であったが、2戦3戦と逸したせいか、OBキャスターさんは、当時、この話題につぶやかなかった。ただニュースウォッチ9番組でのドラフト関連放送中のネット検索は一斉に、この寺泊会だよりのページに飛んできたがその目的は判らない。(ページ下段に検証エビデンスのグラフあり)

つぶやきには、野球関連が圧倒的に多い、2010年10月11日、体育の日の話題では40歳代の体力がテーマとなり、この年齢層は、使わないと坂から転げ落ちるように筋力が衰える話に飛んだ。
「この前久しぶりに草野球しまして」と切り出し、フライが飛んできたのでボールの落下地点まで走り込んでキャッチしようとしたら、なんとボールは2メートル位後ろに落下したのでした
「あの頃の俺は、一体どこへ行ってしまったのだ」とかつてを反省し懐かしむ。
久しぶりに女性キャスターが「野球のエースだったあなたは、まだ40代でしょうが」と話に乗って来た
 


すかさず 「青山さんも間もなく同じ40代にどっぷり入るはずですよ,※x◇・・・」と49歳の大越氏との掛け合いが始まった。
これこそテレビ桟敷で、待ってましたと叫んでしまいたくなる。民放なら草野球シーンを放映したに違いない。
     
主婦の勘は当たる

青山さん結婚するんじゃない。だって去年の暮れ頃から、「お顔がずっと輝いているんですもの」。
結婚するのかしら。「女って結婚の決意をした時が、人生で一美しくなるものよ」。毎日欠かさず、この番組を見続けている女性視聴者たちのこんな話題が、耳に入ってきたのは、寺泊会だよりに、彼女の写真を掲載してからであった。
責任感強く負けん気の彼女の目は、画面からは、かつては女刑事の眼であったが、平成23年は、天使のような優しい瞳にかわっていた。それでいて、大越さんの言葉を包み込んで、番組のオーダーを進行させている。こんな感想をもってすごしていた2011年1月17日の早朝、ニッポン放送、高嶋ひでたけさんの番組で青山さんが1歳年下で、37歳・会社役員の男性と結婚される(スポーツ紙の紹介で)ニュースを発表したのであった。この手合いの話題はメディア発表の前に、ここで書いておけばと、歯軋りする、我が編集局の朝となった。だが、この日の当サイトは、24時間中、約90秒に一回の訪問者で、あふれる、ありがたい結果を残してくれた。
かくして主婦層の眼力は近頃の彼女の変貌を、すばやく見事に見抜いていた。こんなパワーを持つ主婦層だから、サラりーマンのおじさんたちが会社から帰宅後、かわいい嘘をついて、奥さんから小遣いをだまし取ろうとすると、顔に現れ、すぐにばれてしまうのである。

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年齢の話題にはキャスター同士の反応が速い。
大相撲11月場所9日目、場所が地元の魁皇・1972年生まれながら、いつものように連敗もせず、すこぶる元気いい。優勝戦線参加中の8連勝、今場所はまだ一敗しかしていない。もしかして優勝するかも。
スポーツアナが、この年齢でよく頑張っていますよねと持ちかけると、
女性キャスターは、「38歳頑張れ」ですねと反応。
大越キャスター・「妙に強調しますね。(青山さんも)お同い年ですものね」。「ええ、私も、まあ、つい。△※○x」。 このひと月あととなる、12月27日に米国の大学在学当時、アメフトをやっていた屈強の体格を持つ、男性のプロポーズにOKをだす、彼女の誕生日であった。38歳へのエールは自身へのお言葉だったに違いない。
さて、結婚報道がメディアに周知されて、最初となるニュースウォッチ9は、2011年1月17日の夜9時である。大越氏の第一声はどんなおことばであるかが、これまた興味深い。きれいな白い歯を、一層大きく開けての御祝言になるであろう。サッカーアジアカップ第3戦直前のハイライトに、目を離す話ことが出来ない。民放のように、ワイワイとした場面は抑えるに違いないが。(午後3時記)。

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仕事をするなら新しい世界にチャレンジしよう

大学4年の頃、自分にも、当時社会人野球トップの球団から強烈なオファーがあった。だが、 大学を卒業した後は、これまでと全く異なる世界を覗いてみようと、 マスコミ・報道関係の仕事を選び日本放送協会(NHK)に入社した。
 
東京寺泊会からのアプローチ
NHK入局直後の昭和60年から約4年間は地方局に勤務していたが その後中央に戻り、政治部記者として橋本龍太郎元総理の番記者や 自民党派閥の経世会担当として時折テレビで取材報告をする。 また、解説や選挙報道の番組に顔を出すようになると 東京寺泊会の懇親会があるたびに、 会の中では、大越さんの話題が飛び出し始める



「大越さんがNHKのアナウンサーになられたそうな」、 などと勝手な解釈で納得して、 来賓として東京寺泊会に来賓招待したらとか 講演会を企画せよと、寺泊会の役員に話が飛んでくる しかし、平成17年には、ワシントン支局勤務を知ると こんなに遠方では、とあきらめたが、帰国のニュースでその声再燃。 取材地・NHK放送センター(渋谷)
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水上 勉 の著書 「 寺泊 てらどまり」

 ◆角巻・モンペ・番屋・北風・防波堤・かもめ

 

 

 

▲寺泊の浜辺を歩いた

 

作家・水上 勉      


寺泊出身の読者からモンペ・ボテ(カゴ)こそ昭和の寺泊のイメージだろうとの事で撮り貯めていた八甲田丸観光記念船からの写真を借用した

 


 

                                            

文学の世界で、越後・寺泊を描写した著名作家の作品はそう多くはない。ましてや小説のタイトルに掲げる出版社は実に珍しい。ところが「寺泊」を題材にした短編そのものを、本の題名にしたのが、出版社の新潮社である。作者は越後と同じ日本海を抱く越前出身の「水上 勉」(2004/9没)である。寺泊人のみならず,昭和生まれだったら、この作家の名前を知らない人はいないだろう。「寺泊」は昭和59年初版だが、海岸描写はこの30年くらい以前と推察される。文中に出てくる製材所とは、寺泊産業株式会社のことか。昔は「いたろさん」と呼んでいた。寺泊を「フンドシ町」と呼んでいた旧道しかなかった頃の風景である。(表紙に併記されている「わが風車」は、別作品)。
雪の降る越後の漁村、という設定で、寺泊町にイワシが捕れ、八艘船があった頃か、川端康成賞を受賞した名編である。もちろん駐車場のない、魚のアメ横以前の物語である。
水上 勉の代表作は自身が40代の作品が多い。昭和36年(雁の寺)、38年(越前竹人形、飢餓海峡)など、少年期の実体験や社会現象の匂いが漂い、昭和54年刊行の「金閣寺炎上」と続く。すべてが、出版社を充分に潤わせた作品となった。この間に連続して文学賞を受賞し、自他ともに一番充実した良き人生おう歌の時代であろう。聖僧・良寛にも似て、禅寺での修行があり、その厳しさを体験している。異なるところは、志願して得度した良寛に対して、強制的に実体験をさせられた経験を持つ。やがて体験をもとに、作品を世に送り出した。
切ない男女の絡み描写が小説にも映画にも、その真価を呈し、商業路線に乗り続けた。作家・水上が創作し、賞を得た著書は、実在の事件や風習がテーマとなった。「寺」や「竹細工」という身近な存在があり、ベッドやテーブルが登場する洋物と異なり、フトン、襖、障子が描かれ、これに、男女の情を絡ませる創作手法が、昭和の日本人に受け入れられた。加えるに名編集者がキャンペーンを仕掛け、映画化すると、名女優・若尾文子が、見事なまでに妖艶かつ女の情念を演じきり、その商品価値が輝いたのである。
残念なのは、主題歌が残されなかったことである。石川さゆりの「天城越え」なみの、歌詞と歌い手を生み出す企画がなかったのか。平成時代が間もなく終わる30年現在でも、音楽出版社の企画担当たちで、元気のいいギラギラした経営感覚に富む輩が少ないと見えて、歌謡曲と映画で儲け話をうまく創作して一世風靡の機運が見当たらないのが残念である。

■「寺泊」は良寛がきっかけだった








イニシャルにSの付く高校の先生だと、勉さんは作中で簡単におっしゃったが、越後の高校・良寛となかなか結びつかない。これが原因で時折問い合わせまで来てしまうが、存命中にインタビューしてないので答えに苦しんでしまう。良寛に学ぶ会(県人会独自)で1年位副会長させられていたが(良寛に学ぶ会では10名ほどいた郷人会の責任者全員を強制的に副会長に任名する制度だった)、似たような話題もなかった。左のイラストはその会で講演者が使っていたものを勝手に利用させてもらったものである。

■ 水上勉は、良寛和尚について実に豊富な知識と独特な風刺感を持っていた。福井から雪  の降るある日に、国上に住む良寛研究家に会いに来た。その良寛  研究家は、「S高校の教師」というが西蒲原郡や三島郡にイニシャ  ルSのつく高校はどこだろうか。BかYかMなら見当がつくが、か といって、個人的に三条のSとは思いたくない。このころの我が寺泊には高校はなかった。水上氏の良寛人物像は、清貧を愛し子供好きの天真のひと、という事ではなかった。即ち、借金、米、味噌の無心好きで、タダ 酒飲む名人的な存在で、今これほどまで多くの遺墨、書簡類が 残っているのは、それらが礼状代わりだったからと信じている。こんな研究していたS高校の教師と語りたかったのだろう。話し終わっての帰り道に、国上の山からまっすぐ寺泊の浜へ降り、出雲崎に向かうフンドシ1本道を通って、石屋の角を曲がり、現在のアメ横どおり近くまで歩いたのであろう。
 

出版全盛から

 

出版不況の平成時代

 


■ さて、本といえば、世のスキャンダラスな話題を取り入れ、作家が書き下ろしまくると、ホンが売れ、月刊誌の発刊が続いた昭和中期、出版社全盛の時代が懐かしい。業界大手の、角川書店、新潮社、筑摩書房、平凡社、集英社、徳間書店、小学館から、婦人雑誌系の出版社まで、売れる商品に飛びつき、稼ぎまくり、同時に作家も潤った。平成の今、想像もしていなかった出版不況の社会現象で、この業界は、著名月刊誌の廃号や、大小出版社の統廃合、 倒産が目立つ。ぶ厚い雑誌を買わない、紙媒体本が売れない、広告主がなかなかつかないそうである。
昭和の婦人雑誌に夢中になっていた当時の読者層さん達も今や高齢層へ突入。
頭脳さえれど、視力も悪くなり、綾小路きみまろの風刺世界に笑いながら如意とうなずき
大多数は、単一行為に集中できる時間が限界気味だと嘆かれる。

白い割烹着姿をいつも着用し、安月給ながらも会社勤めの夫の帰りを待ち、自分達中流家庭婦人と思っていた主婦層たちがよく読んだ「主婦と生活」も「婦人倶楽部」も廃刊され、過去の物語になってしまった。お母さんたちは、多感な時期を向かえていた自分の息子たちの目の毒と思いながらも、誌上で人気のあった謝国権、ドクトルチエコ
の欄を読んだ楽しみと、夜な夜な実践しては楽しんだ昭和の夜も、「今や昔の話かと、女房言い・・」てか。

流通システムや、デジタル時代の功罪か、電子媒体に支配されたネットの便利さを恨んでもしょうがない紙媒体時代である。
だが逆に新刊本で成長し続けてる出版社もある。総量が少ない新刊本を補完する新手法を展開できる、経営層のいる出版社のみが生き残れる時代か。40代女性層向けの新雑誌を、来春立ち上げる新会社もあるそうである(9・4・ニッポン放送、あさラジ出演時の有名出版社・社長談)。
                                                            ..
発表したら寺泊会だよりを訴えるぞ
     ・
  
 ◆水上さんの作品と話題が外れてしまうが
実はこの民放ラジオのレギュラーとして早朝番組に出演していた超有名出版社の社長さんが、あまりにも破天荒で面白い銀座での自身の武勇伝を披露してくれたので、銀座ならそこの並木通り8丁目にある本社に30年以上在籍していた経験と、クラブの場所や時間軸での人の流れまで精通していた当職の実績を基に、件の社長が話した内容について位置的なウラをとってから短編小説風に創作した。、
早速、ニッポン放送の番組制作担当者に、この原稿を、寺泊会だよりに掲載したいが、
著作権は番組制作側にあると思うから、ご許可頂けないかとメール送信した。
後日ディレクタ-らしき方から返答があり、社長さんに読んでもらったところ、これを世に出すとは不届き千万だ。
発表したら「うちの会社が寺泊会を名誉棄損で訴える」とおっしゃってますよと、思いがけない返事がきた。
原稿の内容は想像で作った個人情報を暴露したわけでなく、早朝ラジオで衆人に放送された内容に基いて、
しかもご本人の言葉を文字にしただけであったのに、
多少誇張を加えたり、冷やかしながら・・・というのが 忘れもしない寺泊会だより提訴未遂事件の顚末である。
それにしても後悔は、放送を録音しておかなかったことであった。エビデンスのない証拠は必ず負ける。世の鉄則を忘れていたのである。


 
                 ●          ●  
風と砂の臭いを憶えていますか。
               
著名画家に潜む鋭い感性

寺泊在住の画家橋本直行氏の油彩画(寺泊会だよりに掲載許諾済)を観賞していると、ありし日の寺泊を呼び起こしてくれて癒される。八重山諸島に魅せられ、長期滞在し海と空を描き極めた、画家の力量であろう。
美術評論家は、橋本氏の作品を、写真のように精緻で写実的というが、この表現だけでは高額な作品の購買意欲が湧かない。、風と空気と匂いと音が聴こえる絵を描く画家の作品、と評するほうが、遥かに本質的な深い見方だと思える。
 
佐渡の見える浜(1999) 
   


     


▼船小屋(1997)s
 
▲漁 網(1998)  水上勉が歩いた寺泊海岸のイワシが主役と 思いたいが、この油彩画は、アミを描いたものである。ブルーのプラスチックス製かごは、作品の引き立たせ役か、作者は、来月新橋の画廊で個展開催のため上京されるので、愚問ながらお聞きしてみよう。
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 東京寺泊会誕生物語と歴代会長の顔ぶれ


 寺泊会創立63周年記念稿


昭和32年から平成30年

 

詳説・東京寺泊会物語

・・・・・・・・・・


初代小林源次郎から9代外山健太 

 

平成29年4月寺泊会に届いた2通の訃報

 

そして平成30年は第10代会長期

 平成時代終盤

・   珍現象の寺泊会!

 

会員増えねど新客多し

・・

(この記事の続きは、65周年大会時にアップ。あと2年)

 

・・・・・・・・・・・・・・

寺泊会創設の父・小林源次郎の夢


昭和29年(1954)大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。

コバゲンは年を重ねるたびに「寺泊の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。

日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職にその声が届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。

「資財は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。


小林源次郎氏の次なる野望

やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。

小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「聖徳寺につないでくんなせ」寺泊局の交換手に電話が入った。
小林氏が東京の工場から電話したのである。
「寺泊出身者の会やるすけ、そっちからも案内書出してくれや」
住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこねえかね」。
しばらく電話が続いた。

住職は電話を切った後しばらく思案し、
浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

「東京寺泊人会」の幕開け
60年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさんにも1通の
案内書が届いた。

これが最初の案内書である

「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
  期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
  会 場 浅草・西徳寺地下堂
  会 費 百円也



これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来60年の間、
8代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。
下鳥ハルさん(旧姓・新谷)はお子さんがまだ3歳の頃で、
長女と一緒に参加した30代の当時を昨日のように思い出す。
久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じって女性が数名。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。
conv0001.jpg現在も会にはお元気な姿で参加されている初回から参加の下鳥さん。(初回写真の前列中央お子さんと一緒)

自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに
後方に立たれていた。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。


小林源次郎氏倒れる

外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、心臓病とも闘っていた。
一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、休日を返上する程激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となっってしまった。
その後は一時回復に向かっていた容態が、急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。

「初回東京寺泊会(誌友会)」ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。

懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷

初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた
寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。
ある時は聖徳寺が音頭をとり、
又ある時は会長任期を1年限りと決めて
昭和35年には、立派な髭をお持ちの古川原与市氏が就任した。
青木山、弥彦山の四股名で、
野積出身の相撲取りが話題となった頃である。
やがて1年が経過し改選の時期となった。

昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。

以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート
熱海温泉などで、多彩な企画を設け、
12年間会長を務めたのである。

昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。

石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時は、
江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど名物の「とんかつ」専門店を
営んでおられた。

この頃から古川原実氏(磯町出身)は
寺泊会の運営に積極参加し
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く
意見を述べる姿が魅力を呈した。

やがて昭和57年、石垣氏が退任し、
古川原氏が5代目の会長として
永きに亘りその手腕を発揮、更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。

三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている英寿製作所)
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。

寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代。会長の三上氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づて行くことになった。


創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ


■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。

■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション文書構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの審査登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きな橋本は、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当するなど、お馴染みの顔であった。ところが十日町や糸魚川など上越地方出身者のように、舞台に出て演じるような民俗芸能好きが、寺泊出身者には少なく、毎年芸能大会の舞台で司会を務めながら、一度も寺泊人の出演を舞台で紹介することがなかった。近年、長岡市地域振興課の協力で、ようやく郷里の酒造唄に辿り着くと、早速、寺泊会の交流会や、新潟市内のトキメッセでのステージで披露する機会を得るのであった。寺泊会の宴席に若いアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。



■東京寺泊会だよりの制作開始は、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局を経て日本へ戻ったころであった。何人かの周辺のロビー活動し、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の多忙な時間だったが、社食で冷しラーメンを食べながらも、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。寺泊会だよりは、もともと寺泊で発行していた、「ふるさとだより」からヒントを得ている。編集責任者をされていた尊敬する中村住持の真似ごとをしただけであるが、これほどまで読者が増えるとは想像もしていなかった。




■だが、東京寺泊会だよりは斬新な発想でなく、その源流は60年前、初代会長小林源次郎が提唱した首都圏在住者向け「寺の、お檀家だより」である。時代は変わってネット配信の利用で、印刷費なし、郵送費なし、サーバー代なし、要るのは記事制作の手間と好奇心、知恵と老眼鏡だけ。これが、B型人間に合致する。誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理。文芸誌会社からは東京寺泊会だよりを、出版させてくれとセールスが来る。だから寺泊にこだわらないで多様な原稿を作ってくれとお願いされる始末。まさか日本全国で検索ワード知名人になるとは。

■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけワンクリック100円でも課金できたら、たちまち5000万円10円でも500万、1000円なら5億になる計算では、と提案してくれたのは外山健太氏であったが実現しなかった。

IT業界とは、これに似たようなプロセスアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、6本木の高層ビルで役員会を開催できる長者会になり損ねたこてねと度々役員会の話題になっている。
■橋本は、寺泊出身の杜氏組合を寺泊会に招いたあたりでは、自らの会はもとより、OB会、同期会、同窓会、県人会、良寛会など大小雑多な会の雑務をこなしていた。しかしながら7代会長としての持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかった。郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である。従って任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したが適任者は名乗り出ず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に会長をお願いしようと思案していた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて中止せざるを得なかった。待望の新会長が誕生したのはその2年後となった。



■平成24年4月の寺泊会総会で第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。



■新会長の小林はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・
時には小平市の広大な自宅敷地において、小平稲門会の大餅つき大会も開催されている。
一方では、長年続いた交流会全員の集合写真撮影をここで廃止してから、第8代時代が出発した。

■会長を補佐する副会長職には外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。

平成15年度東京寺泊会役員構成

名誉顧問:小林正則・小平市長
相談役  :三上喜久治

相談役  :渡部作治
顧 問   :橋本寛二
会 長  :小林秀雄
副会長 :平石國男
副会長 :外山健太
理事  :石井光枝
理事  :相場要平
理事  :浅見幸子
理事  :上澤一子
理事  :寺坂寛子
 ◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ
  ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催している。
  通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され
  毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。


平成28年4月。寺泊会第9代新会長誕生へ。


■寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生となった。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中朗報が飛び込んできた。

平成16年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになったのである。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりを、かなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間がかなり犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。

■行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。

◆就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山氏は、かつては大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
在職中には社長顕彰の常連であり、重役会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。

■ところが現職会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。


寺泊会会長としては第9代目となる外山健太氏

◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は3名だ。
他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会である。

◆外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りにに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさには感心せざるを得なく、観光協会の表彰ものである。

◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えても、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、皆が70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまない。
どうよ。

 

                                 ◆               ◆    ◆         

 

平成29年4月訃報相次ぐ

 

四月八日   外山健太氏逝く

 

四月十二日 小林秀雄氏逝く

 

 

  東京寺泊会9代会長 外山健太氏(享年75)は2017年4月8日自宅にて心臓発作のため急逝しました

直前の4月5日には、寺泊会役員会で2週間後に迫った4月23日の62回大会最終打ち合わせ会議に出席され、更にその後の靖国神社で桜を見る会にも、お元気な姿で役員たちの先頭に立って引率し楽しいひと時を過ごされていただけに、訃報には全員が信じられない思いであった

ここに謹んで故人のご冥福をお祈り申し上げます 4月23日の創立62周年記念大会はつつがなく遂行致しましたことをご報告申し上げます

 

訃報に絶句する東京寺泊会会員

 

 一方東京寺泊会の前会長小林秀雄氏(78)の訃報が、届いたのは現会長の訃報を受けて僅か3日後のことであった

2017年4月12日脳梗塞で亡くなられた。小平市にある広大な自宅敷地で寺泊会役員たちを野菜収穫に招いたり、稲門会の芋煮会を庭で開催したり、何よりも長年に亘って小平市の保守系以外の選挙対策事務所として無償公開してくれていた必勝祈願小屋の提供話は有名である。2017年4月9日に小平市長選挙で4期当選を果たした同郷人、小林正則氏もこの恩恵に授かり、区議会選挙に始まって、全回当選している縁起の良いスペースである。

秀雄さんは亡くなられる5日前に、私に1票投票して下さいましたと第62回寺泊会大会で小林正則氏は報告してくれた

 

     寺泊会一同衷心より哀悼の意を表します 

 

            東京寺泊会

寺泊会第10代会長時代

寺泊会会長物語は会が存続する限り書き続けている訳で終わりなき戦いでもある。

会の創立以来62年目の昭和29年春に届いた訃報には驚かされた。8代会長の小林秀雄氏、9代会長の外山健太氏が相次いで4月にお亡くなりになったのである。とりわけ現役会長であった外山健太氏は、第62回寺泊会開催直前のことであった。役員たちはさぞかし慌てたことだろう。寺泊会のしきたりで会長指名制とはいえ、あんたあしたから会長さんにならんかねと言われても、

越後の田中角さんのように、ヨッシャ!と引き受けれる者は平成時代には誰もいない。だが62回大会の期日は迫る。立派なプログラムも完成しているし、外山会長のあいさつも印刷されている。

◆特にこの年は外山健太会長提案の特別企画として、越後の銘酒を嗜むコーナーと、郷里寺泊で史跡ボランティアとして活躍されている小越先生ご夫妻に上京して頂き特別講演をお願いすることになっていた。寺泊会初めてのプロジェクター手配も終わっていて準備万端であった。

外山会長は自ら寺泊商工会に掛け合い手配した銘酒さえ口にすることなく旅立たれてしまった。

 

 

 

 

 

 

会の重鎮として役員になってもらい日ごろ知恵を仰いでいる人物がいる。上田町清水やさんの「あんにゃさ」こと清水文隆氏である

 いつも温厚な清水文隆氏は寺泊会に参画されてまだ日が浅い。まずは副会長になって頂き、会の運営には

 不可欠な存在として精緻で正確な性格を発揮すべく、所々の裁きをお願いしている。

 また写真制作の画像加工にも巧みな技術をお持ちで、いつも感心させられる。

 文書管理においても細かい配慮がなされ、会員情報管理の最適任者として他をもって代え難し存在である。

 

 

 

◆あれやこれやで、寺泊会第10代会長を橋本寛二が,そっとであるが継承した・

即ち数年前の7代からの存命者にさかのぼった再任形式となった。

元号が変われば早い時期に、間違いなく素晴らしい会いに変心し

第11代新会長誕生の報告となるであろう。

幸いにも女性陣から寺泊会への積極参加組が増えており多少のIT利用もできそうだ。

女性陣に火をつければしめたもので、積極性は男どもの比ではない。

然しその火をつける男どもが今はいない。

平成も終盤になると異性への呼びかけは、相当丁寧にやらないと事件になりかねない。

 

気を使いながらも、意図的に元気な女性陣をあれやこれやの手段で、寺泊会大会にご参加願っている第10代時代の寺泊会である。


何故か多い角上・柳下浩三会長さん同期組▼

ご本人がおられなくともテーブルは賑やか。

近年の寺泊会は小さな組織力で成り立っている

 


主催者としてはありがたい存在である。誰もが知る角上鮮魚チェーンの恩恵を賜りながら、おねだん以上のお土産援助・提供協賛を頂き参加者を喜ばせている。おみやげは目的ではないが寺泊会の味付けとなる。 

◆ひとりハッピを着た男の年齢は角上同期組ではない。会員年齢もここまでくると4,5歳の差でも同化してしまい遜色ない

 

・・

◆もう一つの組織閥が、越後・三条の地で学んだ当時の実学エリートさん達、実は平石・清水両副会長らの積極関与が光を呈す。


提供寺泊会2018年大会写真班

 

 



















 

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スターマインのお値段はいくら

 

本稿は花火の写真を使わない寺泊花火の記事

 

観光協会猛者さん花火大会仕切る


寺泊観光協会のキーパーソン・会長・副会長の手腕が日本中で評価されているらしい噂を検証した

 

花火の季節が間もなくやって来る。どこの主催者も強力な顧客、即ち浄財の提供者さんがいないところでは、見えないところで苦労している。

 

寺泊港まつり海上大花火大会近し

 

尺玉の大輪を○○千発とか、3尺ダマから4尺玉もあるよと前宣伝を華やかに打ち上げたいところだろう。

そこで花火の打ち上げ費集めにあの手この手で戦略を立てているのが裏方さんである。

 

クラシックな手法では、東京多摩川や湘南海岸に見る、個人・法人を問わずあなた様からご寄付を頂いたら、打ち上げの際にきちんと丁寧にお名前を宣伝してあげますと、従来の手でキャンペーンを張っての資金集め。

 

 

一方、手法の中で名案を出しているのが、寺泊会大会宴席の壇上で声を大にして宣伝された、

観光協会で花火担当委員長さん。

 

もう一つの寺泊・野積人の華

 

頑張っておられるのが、割烹旅館・山長の旦那さん(大倉英雄・寺泊観光協会副会長)である。

その秘法が悩ましい。

従来通り、ご寄附を募るのは変わり無い。これだけだったら記事にもならない。

(これらはすべて2017年夏の話だから以下の表現は過去形にするしかないが)

 

 

協会で定めた、指定号数以上の協賛金をご寄附頂いた方には、素晴らしいトレーサビリティの特典で昨年は好評だった。

 

それが出資エビデンス方式と呼ばれる、記念証拠写真戦略であった。

仮にあなたが尺玉相当の寄付をしたとする。

観光協会がそのエビデンスとして、実際に打ち上げた、あなたのその花火写真を

ご芳名付きでパネルに入れて、制作してくれたそうである。

 

ふるさと納税の花火版か。

 

勿論当日の会場では提供者の丁寧な紹介も忘れない。紹介だけではもったいないと、提供花火打ち上げの証拠記念写真を制作して、お返しするという実に寺泊初の名案であった。

これなら一瞬の大輪もその年の夏物語の想い出として飾ってもらえれば1年は持ち越せる。

 

そして来年夏になったら今度は平成30年度版の新しい写真が欲しくなるに違いない。

結局は翌年も同様の寄付が頂ける可能性があるので観光協会も一安心となる。

さてあれやこれやで主催者の労は慰めたい一心で、寺泊会も微力ながら平成30年度用として喜んで花火協賛した。

とにかく花火の季節到来である

 

寺泊港まつり花火偏は8月7日(火曜)19:30〜21:00

今年も30万人を寺泊の海浜に

.

 

5000発で酔わせましょうか

 

今夜もあなたを眠らせない

 





 2018年寺泊の夏、今年も賑々しく「寺泊港まつり」が開催される。寺泊会保存のファイルによると、花火大会の総経費は約500万円超であった。当然のことながら、この費用は長岡市の補助金に、寺泊町民・現長岡市民と法人企業、団体などからの浄財にもとずくものである。お客さんに喜んでいただければ、収支を考えるより楽しくなる。寄付金制度はありがたく、これに見合った花火がプログラミングされるから納得する。

大都市が荒使いする、4年に一度の「オリンピック開催するための費用」限定については、見積り段階から、巧みなる合法的な競合方式で、建設業者、服飾デザイナー、企画会社、大手広告会社、開催地へ誘致職員を、多数派遣した旅行業者も、デスカウントを忘れ、定価で見積もったのではと今頃市民は気が付く。

当時の誘致委員会職員も、税金で清算すればいいから、誰も困らない。東京は成功はしたが、残念ながら招致に失敗しても、仮に100億円也を遣っても、すぐに清算されてしまう。かつて地方都市の信州でも、冬季大会開催後の総経費・合計は公表したものの、領収書は、3年後には焼却又は紛失処理で終結と聞く。法人企業なら、7年間は使金領収書を保存するが。

さて寺泊の花火は8月6日から開催される賑やかな港まつりの中にある。観光協会・会長の山田栄三郎さんは.その見どころを「海中・海空スターマイン」だ、と東京寺泊会・63回大会であつく語っておられた。
一発48万円なら、安いもんだと、寺泊会の名前を売るつもりで、その時はお任せ下さいと胸を叩きながら寄付をしようと考えていたが、実際の段階になって協賛金の寄付願いを受け取ると、大金寄付の実現は先に延ばし、ほんの気持ち程度になり、海中スターマインは次回にしましょうやと、役員達と話す始末。これで何年目か。

 

スターマインのお値段紹介

 

ところで、花火の華はやっぱりスターマインである。そのスターマイン提供のスポンサー協賛価格はいかに・・・・。資料として保存してあった、寺泊会に届いた価格一覧をレビューすると・・。単価は10年前とそれほど変わっていない。
  

花火のおねだん一覧このテーマも結構検索多し
 普通のスターマイン 16万円
 
 10号玉 4万7500円
 
 5号玉 1万0600円
 
 
 超特急スターマイン 37.5万
 
 海中海空スターマイン 48万
 
 ベスビア ワイド特大スターマイン 251万円〜
 

 

日本最大規模の長岡花火では、このベスビアなる最高品質のスターマインが、今年も数十発と飛ぶように売れた、平成時代最後となる長岡の花火に携わった花火師さんも素晴らしいが、景気がいいのか、協賛の一端を担ったお旦那さんの企業さんにも大感謝で、総経費7億円の予算で取り組んだ、長岡市は関係した人権費=市職員経費が1割だったらしく安価でないが早くから宣伝し、呼びかけがうまくなったと思わざるを得ない。長時間中継のテレビ放映権で稼ぐ手法は寺泊も見習って、新世代に期待したいところである。

開藩記念テレビ桟敷考

 

例年著名なタレントや唄い手をゲストとして特別桟敷席に座らせるいつもの姿がある。

だが話材に乏しいゲストたちを盛り上げない司会進行に我々寺泊会庶民は満点を与えていない。

司会進行に決まったら花火師、煙火工場社長、進行プログラムソフト業者担当者などを訪ね、時間をかけた前取材が必須であろう。本物花火見物の醍醐味を知っている花火ファンを前に、画彩こそ美しくともテレビに写された、破裂音と煙火臭のない画面を見ながら、3時間余りテレビ桟敷を飽きさせないで続けるのは、力量のいる仕事で地方局のベテランでも難儀らて。

長岡開藩400年をコンセプトに資金集めし、原資は潤沢であったらしく、天下に誇る大花火大会となったことは実に喜ばしい限りではあるが、たとえ10K品質でも、テレビ中継には100K並みの創意工夫が求められる平成最後の中継画像となった。

例年評判の寺泊会・宴席を仕切る司会者でさえ事前取材、判らないように取仕切る演出と、知ったかぶり手法に知恵を出す。

巨大花火中継の司会進行役を選定するテレビ局において、この点だけが大会関係者内で改善の余地ありで今年の夏も過ぎてゆく・・てか。

 

 

寺泊町の花火師といえば青木さんだった


そんなこんなで、2018年目標の5000発も、よそさんがお作りになるであろうYOU TUBEかなんかで寺泊花火大会の動画を見るとお判りになると思うが、一瞬にして開いて消える花火を、暗い夜空に原資を意識しながら観るのも一興である。

 


60年位前、長岡の安藤さんと並んで、寺泊町には「青木」さんなる打ち上げ名人がおられ、夏の花火大会だけでなく、朝早く、町や小学校の運動会・開催を知らせてくれたりもしたもんだと、東京寺泊会の古老が語ってくれた。


それぞれが花火には、色々な思い出があるもので、熱狂的な花火ファンも多い。

 



寺泊の豪商トカンさんの親戚で、2年前までは、東京寺泊会の第9代会長をされ元気だった外山健太さんは、大の花火好きだった。

毎年長岡の花火を観るために、首都圏で大勢の熟年たちを集め、バスを仕立てツアーを組んで長岡まで足を運んでいた。

 

定年後の趣味として、全国山歩きの会も主宰していたが、この会員さんを中心で花火には、2年前までは大勢を引率して信濃川へ。

団体御一行様の帰路はいつも、寺泊きんぱちの宿などで過ごされていた外山健太さん。

誠に有り難い長岡市寺泊町の立派なステークホルダーであられたが、残念ながら平成29年4月に他界された。享年75.天国から見守ってくれているに違いない。

 

 

最愛の妻を亡くした人気歌舞伎俳優が、歌舞伎座の7月公演で恒例の宙乗り姿で息子と一緒に宙を舞う演技を見せた。天国にいる亡き妻の少しでも近くで演じたいと悲壮感をが漂わせたのは2017年夏であったが、寺泊会も第9代会長さんの外山健太さんが花火を最も近くで見えるようにと同様な心境である。今年も8月7日の花火大会が楽しみである。分水の春は花魁、弥彦の秋は菊まつり、寺泊の夏はスターマインとそれぞれがふるさとに想い抱く。

 

 


 

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寺泊の夏です。日本海の波音を堪能しませんか

 ・
 

時間が経てば忘れられてしまう

近年は大事件・惨事が多発し1年前のインシデントさえ話題にならない。2年前のニュースともなるとマスコミから消滅しかねない。知事さんが自費=公費だと言い張り使いまくり、自宅の出前そば代からクリーニング代さえ、領収書扱いで税金から払っていたことがバレて、自らの地位を棒に振った事件は今ではどこにも追及されていない。その直後の知事選挙では、候補3人が強力な争いを呈し、投票結果は悪人を懲らしめた善人バンザイで終わった。これも、熱い夏の7月であった。当時は新鮮で、女性知事様、様の神様扱いだった知事さん人気は、処々の原因ですっかり後退してしまったが、当時は我も私もと新人議員さんたちは、百合子陣地に集まり沸騰した事があったなあ、と述懐するのは、寺泊会だよりくらいしかいない。かも。

観光協会幹部は忙しい

さて、今朝は快晴で、弥彦山もよく見えるし、 もうすぐ海上花火大会。寺泊は最高らて!

と故郷で踏ん張り割烹旅館を営んでいるおやじさんは、電話の中で興奮気味な声を弾ませている。

ネットで確認すると、アメ横の駐車場も相変わらず満員だし、海は穏やかなさざ波状態。

 

そんな寺泊の選挙区は、角栄時代では新潟3区だった。長年の選挙で総理大臣という偉大な親父の、カンバンを受け継いだ娘さんも、その旦那さんも議員を退き、普通のヒトになってしまった。

夏の寺泊は何といっても水中花火。それに、やや著名な芸能人を呼んで、海を見ながら熱唱してもらう海浜芸能ステージありで,観光協会は個人・法人の篤志を募りながらの運営で結構忙しいらしい。

 

関東の波音と寺泊の波音を科学する。

 

同じ波なのに、どうして寺泊海岸の波は

 

気分が休まるのかを現地で凝視したら結論が出た。

 

(実験観察地:茨城県日立市K海岸及び新潟県長岡市T海岸)

 

関東の波は、波がしらがズズーンと立ったかと思うと、

 

バタンと倒れ、急いで直進する。

 

 

寺泊の波は、波がしらがムックと立ってから、

 

一度ひざまずき、小さく倒れ、それから優雅に

 

ゆっくり直進する。

寺泊のさざ波体験入門

 注) この波音アセスメントは海岸の優劣を決めるものでなく、あくまでも個人の感想である

 

現地測定者の話を基に評価したもので、観測時間・気象条件・測定角度等により異なるから注意が必要だ

 

初めて波鑑賞体験希望者は先ず、長岡市のどこに海岸があるかを調べてから現地を訪れたほうがいい。(

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◆昭和時代の長岡市に海岸は無かった。ある日を栄に突然、素晴らしい海持ちになった市である。

南西の風3メートル程度の時間帯を狙って、砂浜又は岩場に座り、2時間程度ボヤーっと波音を堪能してから、機会を作って他県(太平洋側)の海岸で同様の観測をされることを推奨するが

 

こんな季節に、波の音を聴くのも気持ちいいことは、寺泊の誇り、千代栄姐さんも上田町に住んでおられたので、さざ浪の魅力は、昔からよ〜くご存じで、これを糸で表現して後世に残したかったに違いない。

ニッチな話題で恐縮

3区ノスタルジア街寸描

3区・上田町といえば和菓子の老舗チューミサやシナそばの喜楽食堂、2階がそろばん塾だった清水屋さん、息子がヨーロッパ・トヨタの副社長になった錫村医院が、同場所にあった村山医院を引き継ぎ町医者の役目をし、隣は国上ゲタ屋、更にマイナーの話では、星医院や茂木産婆さんがあったし、3区にはもう一軒、小林産婆さんがあり何人お世話になったか、4区との境界に建つ桂馬さん(昭和15年から桂馬ドジョー屋)の玄関ガラス戸には「ドゼウアリマス」の手書きの張り紙が年中貼ってあり、桂馬さんのとなりは野村鍛冶屋さんが土間に小さな炉を持っていて、刀鍛冶なみにキンコン・カンコンと精を出す。だが何といっても3区山の町では、柳谷旅館・三輪楼・玄場楼・更に千歳楼と連ね、寺泊遺産並みの歴史を誇っおり、水上勉がここを歩いたら、自著の小説で必ずや、とりいれていたに違いないが、残念ながら村上勉は3区を歩いたとき山の町へ行かないで、海岸方面に曲がって行ったのである。

 

寺泊が日本遺産の特定地として指定される遠因となった、細い能登谷小路を下って浜辺へ出れば波音のざわざわ感が嬉しい。こんな越後の原風景は、寺泊おけさの乾燥した三味のビートが実によく似合う。



寺泊会の会員達は70代が多数いるが、郷里の話は止まらない。

世間の衆が集う喧噪な昼時間が過ぎ、夕方日本海が夕陽に染まる頃は、片町(2区)にある彦根山・興琳寺さんの西向きに構える茶の間から、松の木越しに戴く佐渡が島の眺めがこれまた最高である。昭和時代の中ごろまで住職は玄雄さん。住持さんに「一見の興を拝ませて」と頼むと、檀家でなくとも立ち寄らせてもらったよ、と80近い会員が懐かしむ。

さざ波を見ながら寺泊おけさ (音声 を 唄えば一流の寺泊人。東京から最も近

い日本海の波浪を観たり朝やけを見ては。


寺泊の砂丘は、良寛が弥彦山中の、西生寺に通っていた頃は、山のふもとまで伸びていた。
今は分水川が野積と分断しているので、浜辺を、魚のアメ横のある寺泊中央海水浴場から、弥彦山の麓まで、徒歩で行くのは、途中で大きな橋を渡らないと無理である。

大河津分水に積極参加・寺泊大正人

この分水した川幅も現状の1.5倍に拡幅される。あれやこれやの拡幅に関する話題では、


 6月24日(日)に樋口 勲氏による講演が寺泊文化センターで開催されたとの情報が来た。樋口勲さんといえばご自身は十日町市出身ながら、寺泊に縁がお有りらしく寺泊人に関する歴史的な知識も豊富、我々の浅学を補完すべく寺泊会だよりにも時折、貴重な情報を頂いている。

それによると、分水路河口の川幅は現在の200Mが300Mとなる大河津分水だが、その昔分水請願の立役者こそ寺泊にいた豪商豪農たちだったそうな。その代表格が本間屋数右衛門や星清五郎であったらしい。

寺泊で起工式why?

なぜ古き寺泊人が、大河津分水開削事業を積極推進したかとなると、大正時代の先人たちの話を聞きたいところだが、今は昔で不可能である。ともかく起工式は寺泊で行われたことは、事実のようだ。一般的な解釈では、大河津村や地蔵堂でやったのではと思われるが分水会関係者ではないから不思議である。寺泊には蒲原地方の横田切れでの被害は直接なかった筈なのにと偉大な先人をリスペクトせざるを得ない。

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 将来起こるかも知れない単純なリスクを心配しているのは寺泊会である。

河口が広がる即ち濁流・泥水が海に何倍か広がる。これでは、現在でも大雨の翌日は、ブルーな海水表面がブラウンに覆われ、中央海水浴場あたりまで押し寄せているのに、これがもっと範囲を広げ、金山・郷本あたりまで移動するのではないかと危惧する。環境に敏感な国では、すでにプラスチック製のストローの使用を禁止している。川に捨てた細い一本でも、海に流され浮遊し紫外線で分解されミクロン単位となった微粒子が海中に沈み、魚類が餌と一緒に飲み込みやがてはヒトに影響を及ぼすのである。

この議論は国交省とシュミレーションすべきかも。

..

 

知的な解説は、郷里の史跡ボランティアガイドとして活躍する米子先生(小越米子氏)に聞いてほしいが、平成29年4月23日に開催した寺泊会での講演会「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」での、新旧のデジタル画像で違いが判る。

浜辺に実家のある、東京寺泊会の皆さんは、寺泊のさざ波を想い出し「寺泊おけさ」でもゆっくりお楽しみ下さいと推奨する。

時には早朝から、心地良い風が吹き、程よい波高しで、地元にいた時は当たり前だった風景も、遠浅な海岸からの波の形が、素晴らしい絵の如く映る。
北前船の船頭さんも、寺泊で航海の骨休みをしていたに違いない。
名物の「寺泊おけさ」は、名手・千代栄・月子 両師匠さんの手にかかると、高度なテクニックで、すくい三味線をあやし、ミュート奏法に徹し、歯切れ良いブルーノートジャズの如くビートを刻んでいるので、軽快且つ、寺泊色溢れる、芸術性の高い座敷唄として仕上げている。「佐渡ヘヤ〜、エヤ〜八里のさざ波超えてヨ、鐘が聞こゆるヤ〜レ テラ〜ド〜マリ〜。」と結んでいる。

 

寺泊おけさ体操・東京で初披露

 

 

 

このリズムを利用した「寺泊おけさ体操」は、平成30年4月の寺泊会で平石久子先生が音頭をとり、全員が体験した感動のシーンとして、感激の大宴会に花を咲かせてくれ動画も完成した。(youtubeアップ準備完了だが、多数のお顔が鮮明に出ているだけに公私にうるさく個人情報重視の昨今、承諾に時間がかかっており来年の大会で許可を得ない限りは次期未定である)


風の日の寺泊は、正にこの軽快なリズムの、寺泊おけさが良く似合う。ついでに歌詞を追うと、最初は言葉の繰り返しから入る「オヤオヤオヤオヤ うり瓜 なす茄子 ヨウガの手 土手まで這い出すカボチャの手 垣根に絡みつく糸瓜の手 川から手を出すカッパの手(ここからが艶っぽくなる)
 

 写真提供:伝統民謡継承団体:寺泊浜っ子会


寝ていて手を出す 兄(アンニャ)サの手 その手を引っ張る 姉(アネ)サの手 手と手と手    あと野となれ ヤ〜レ山となれ・・・と唄われている。

 

両師匠の志を継承した寺泊の民謡団体・浜っ子会の皆さんは 寺泊会創立記念招待公演で上京された懇親会のステージで見事に披露してくれた。

 

 

 

東京寺泊会のためにと出演を快諾された浜っ子会様ご一行に感謝。写真左から2人目が浜っ子会平石会長さん

前列右端の女性が、寺泊会平成30年大会で、寺泊おけさ体操指導の平石久子先生。

 

伝統民謡の継承と伝統海岸の景勝が融合

 

八里離れた世阿弥の佐渡ヶ島がさざ波運び、

 

風姿波伝の文化となって、寺泊の粋な音と波の

 

芸術を生んだと想像すれば波は神の授かりかも。



観光客が絶えない、角上さんのある寺泊・魚の市場通りは写真右下あたりにある。

佐渡からの来る波は無数だが、ふたつと同じ姿形のものはない。耳を澄まして聴けば波と浪の協奏曲になっている。夕暮れになれば、これに聖徳寺の鐘がゴオ〜ンと合いの手を入れる。寺泊は、真夏の今日も行き時である。
どなた様も、寺泊へおいで下されば、大小の波も浪も無料で、音声付にて、ご観覧できるのである。
今の状態を見たいならライブカメラでどうぞ。波は最初に小さな壁を造り、立ち上がり、限界までその状態で突き進む。まるで砂丘を目指して競走しているかの如くである。やがて持ちこたえられなくなり、バッシャーンと倒れこの際に、後ろから追いかけてくる波に飲み込まれないように、音を立てながら白い波に変身する。この瞬間がたまらない。
陸上と海上の風向きにより、素晴らしい波は、誰でも、いつも見れるわけではない。
平成29年のお盆も又来るが、「
南の風日中北西の風、海上では南西の風やや強く」と予想されのではないかと思うと、また波見物を楽しむしむことができるであろう。

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東京分水会入門編

祝・新会長誕生

東京分水会の基礎知識

 

温厚実直と評判だった小林恪会長が今大会で会長を退任し、大島芳明氏(笈砂出身)が新会長に就任された。マラソンが好きという快活な新会長さんは、寺泊会にも時折来賓参加されて数年経過のお馴染みさんである。持ち前の笑顔で、文化色漂う分水会の継続運営に尽力されることであろう。今後も、元会長の平出英雄氏(東京良寛会主幹)や恪さんなどとタッグを組んで、会の内外にアピールしながら文化講演から歌謡公演まで、幅広く企画を創出されるのに違いねえと、我々お客組にとって大きな楽しみである。


2018年6月17日(分水出身者の集い開催記念

今年も東京分水会から寺泊会に招待状が届く。会場は上野公園に建つ 上野・精養軒 3階。午前11時開会。

越後分水町のような文化教養の高い会からの招きで楽しみなことは、総会前の講演会である。講演会となると想像することはトークショーであるが以外にも津軽三味線奏者さんが講演だそうな。

平成30年度の分水会は、記念講演として同市出身の 

津軽三味線奏者 夢弦 桃太郎氏 を連れて来る。

講演者プロフィール

 

津軽三味線に興味ある者なら、毎年5月の連休時期に津軽で開催される、全日本津軽三味線大会を憶えておられるはずである

個人一般の部(Aクラス)で新潟県人として4年前に出場したのが今年の講演者 桐生 至さんだ。

元中学校の先生でありお父さんも同じだったという今は夢弦 桃太郎さんとして地元の公共文化施設に出演多数。寺泊町にも、はななす会館での公演経験がある。

・ギター・三味線・中学教師

三条高校時代はギターに目覚め、フォーク・ロックと熱中するようになった。

これが兄と同じ大学(明大)に入るや、民謡の魅力にとりつかれやがては、生涯の友となる太棹にたどり着く。田舎にいた親父はいつも三弦の上達度を気にかけていた。

お-い至、東京で頑張っているか~」の電話は三味線に対してであり、決して学問に対してではなかったという。(同氏のブログより)

分水会には彼の父親が粟生津中学校の教師時代に受け持たれた者もいるので懐かしいことだろう。

講演者の演題は「津軽三味線と私の弦楽人生」である。

・無言館誕生
 

 

分水会といえば、直近4月のニュースでは、

著名スポーツバッグ製造メーカー:(株)クロスターの創業者で牧ケ花の樋口孝四郎さんが、ふるさと分水(現燕市牧ケ花)にある生家(築100年)を改装し、長年収集していた骨董・美術工芸品などを展示する「与右衛門無言館」を開設したことだろう。樋口さんは浅草の自社ビル屋上で隅田川花火大会に寺泊会を招待したり、分水会大会の賞品を多数提供されたりで、篤志家そのものの人である。分水会の宴席では毎年お会いして20年近くの交流となる。

絵画美術品として平山郁夫、東山魁夷,同郷の横山操など多数の作品を展示しながら、祖先に感謝し故郷に文化をとその真意は尊敬に値する。直江兼続の家臣としてお仕えしていたご先祖与右衛門様も、孝四郎よくやってくれたと御喜びに違いない。イベント好きな分水会さんは、桜の季節に企画する花魁道中ツアーと抱き合わせに、無言館訪問コースも加えるであろう。

演歌歌手関野三千夫の世界

今年も上野精養軒の懇親会には、国上出身の演歌歌手・関野三千夫さんが宴席のステージを飾ってくれる。

分水会には

講師
 

地元出身の演歌歌手が2人もいるから

 

年替わりでステージで唄う贅沢な会と評判である

 

上野・精養軒3階「桐の間」・総会開催

会場は昨年と同一だ.

平成29年6月の分水会大会の様子をレビューするとこうなる。

 

特別講演:樋口 勲氏の「大河津分水物語・人の手のなせる業」に会場は大歓声。近年の講演会では稀である。

雰囲気

 

 

若くて驕らない樋口氏の講演に110名を超える参加者が魅了される

かつての水害大国だった越後蒲原平野で、そう遠くない先祖たちの活躍の秘密を攻めに攻めまくった。

越後人の我が大地・田畑・平野を守りたい・そのためには己の辛苦流血を厭わない溢れる郷土愛精神があった。

泥と汗水は現世に生きる自分達が流して、後世には芳醇な生活を保障をさせねば、と重機がない時代に人手だけがたよりで実現した大河津分水を、物語として聴くと、信濃川を背に越後平野で育った蒲原人でなくとも大きな感動を与え胸を打つ。

 

 

信濃川から日本海側を人工衛星(又はドローンかヘリコプター)で覗くと、海に一番近い地域は三島郡寺泊町となる。正確には野積地方となるがここが分水バイパスの最終地点である。河川水日本海放流の出口である。

寺泊の本間屋数右衛門親子、白根の小泉蒼軒や田沢実入、野積の星清五郎らが幕府に分水建設工事を請願したのは江戸時代、何回にも及ぶダメモト請願の繰り返しにもくじけず続けるも叶わず、信濃川に近い蒲原平野は河川災害が頻発。だが離れた三島郡寺泊や野積の被害は、甚大ではなかった。しかしながら越後の将来を憂う気持ちにおいては、蒲原が内陸部であろうと変わりなく愛情を呈し幕府請願に力を貸す寺泊の賢人たち。

 

 

被災地域民は足元の大洪水にこれでも工事不許可かと嘆く暇なく、人力で分水路手掘り作業を開始した。さてこれから通水という時、あの横田切れ、浸水は越後下越平野のほぼ全域。破壊橋梁多数で蒲原に橋が消滅、これが僅か120年前7月22日。明治29年、朝8時に怒涛の大災害。

 

 

燕・三条・長岡・新潟・新発田まで惨状は全域に広がり凄惨だ。これが3年に一回来やがると恐怖の信濃川様になった。

 

だが当時の日本は、河川防災の知識乏しく、川岸に盛り土工法でも最新科学と勘違い。西も東も河川災害続き。幕府曰く、「洪水は越後さんだけではねえすけ」と、越後の大工事プロジェクトを許可する気持ちがない。事実、隣の信州でも千曲川氾濫で道路面から10メートルの松の木が埋まる大洪水が発生。

諦めない越後人。幕府請願活動続けながらも、地元では破産商家の続発で物資なく、米なく、薬ない。蔓延する疫病。

越後壊滅時代の到来。信濃川がミソ糞一緒に垂れ流す(講演者,談)悪魔の川に変貌したか。ご家庭においしいおコメどころの話ではない。

 

こんな先人の辛苦があって、脆弱な堤防第一期工事が終わったのが明治初期。第2期工事が明治末。補修手直しが昭和初期。やがて越後人の夢平成に実り稼働中。2022年で通水100年。だが地球温暖化で世界は干ばつが進み、立派な可動堰でも信濃川から遥か離れた上流が干上がるかも。人類はいつの世も、次なるTREATS脅威に備えねば。それ故に我々のようなコンサルタントが活躍しているのだが。

 

 

 

巨大可動堰関連工事完成の暁には、リスクと機会の中に生まれるチャンスで寺泊海岸の大変貌ぶりは平成の世では誰も想像できない。妥当性確認が不可能な状態で設計検証のリスク影響で慌てる寺泊海岸物語はまだ先のこと。寺泊夏戸在住で高名な史跡ボランティアガイドの小越忠教先生も、推論を立てるには早すぎるかも、

30年後の話とはいえ、地中海の一大リゾート地をしのぐ, 国立寺泊海浜リゾート公園建設の実現にも結び付く、騒音並みの風評が寺泊会で飛び交っているが、平成の巨大工事プロジェクトのお蔭で現実になるやも。長岡と冠を付けるのだけは、なしにしようて。

体操の先生ですか、いいえ、彼は樋口勲先生という、河川防災論のスペシャリストだ。燕市の鈴木市長も、樋口勲氏の大規模河川災害歴史認識とその語り口についてはお気に入りである。地元燕市分水では、近隣の小学校児童にも河川防災と歴史について教育中。

詳しくは樋口先生監修のブラツバメで動画公開中(閲覧無料)。

 

 

本来は教諭向け研修が先であるが研修嫌いが多いときく。但し平成のワークライフバランス最優先のこの時代、先生のザンギョウ(教育関連従事者正規時間外延長作業)だけは、民間企業と異なり収益向上優先の感覚が少ないだけに正規時間中の研修にしないとクレームが来る。児童に先生が慕われた昭和前半の世はとうに昔の話になり、平成の終盤にいる多数の公務員先生達に対して、共済年金受給資格者に到達するまでは、その家族と共に過ごす時間を、我々が恣意的に作ってあげなければならないのである。最近ではお坊さんも残業阻止を唱える(葬儀関連は除く=納骨するまでは高収入に結び付くからか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなポーズもされたと噂の先生です。東京新潟県人会会長の小林保廣さんや、80を超えてもすこぶるお元気な村上昭治・元分水会会長さんなんかも会場最前席で大激賛されておられました。講師曰く、講演会は聞く側が長時間同じ姿勢でいると、必ず飽きられてしまいますのでと、河川災害歴史教訓から編み出した、講演参加者用ストレッチ体操だそうです。これで一息ついてから次のテーマの話に進むから飽きが来ないのである。樋口先生は横田切れさえ無駄にしないで有効活用される逸材であった。

 

 

 


小林恪男会長さんの手腕とおもてなしは終始満点でした

過去に見る文化色高い分水会入門講座

 

2014年の 東京分水会には 「花魁」 登場

 

 



燕の分水か、分水の燕か。
 



早いもので2006年に分水が燕になってから10年が経過した。寺泊会がおつきあい頂いて20年、思い出の分水会を覗いてみた。

梅雨時の6月こそ分水会の季節である。燕市の市長、鈴木 力氏は嬉々として上京。あいさつに壇上に登ると、「若いねえ」の声がいつもあっちこっちに響く。御当人も意識されてるようで、最年少の市長当選と言われておりましたが、早いものでもうすぐ60の大台に突入しますて・・と、それでも雰囲気は、お若いの一言に尽きる。対立候補もなく無競争での当選されたこともあった。話し方もソフトで穏やか。淡々として、燕市の動向を詳細に解説する。

かつての、小林前市長さんのごとく分水に関する情報をここでは優先しながら。

 

東京には燕と合併した旧吉田町の会(首都圏えちご吉田会)もあるから、TPOで来賓あいさつを考える。

吉田の話題は吉田会で、分水の話題はここの分水会の宴席で盛り上げなくてはならないから、ネタ探しがうまいわけである。


さて寺泊町に大河津から分流して多量の土砂を運んで96年。寺泊町は浜辺の面積がすっかり太ってしまった。

だが安心するのはまだ早い。総完成までにあと30年はかかる大分水工事が粛々と進んでいるのである。

 

こなた燕の洋食器生産開始100年を遥かに超え、市長さんはハイテク生産技術で進化した洋食器産業PRに余念がないが2017年大会の市長さんは、全国住みたい街ランキングで11位にランクされたことや

シンガポールの首相がお忍びで燕市・クガミにご来訪されたことやふるさと納税で上位にきている事などを

満面の笑みで披露するや若々しいお顔が一層輝く。

 

 

一方2017年のプロ野球界では連敗が続き天下のヤクルト球団は最下位の状態に甘んじている。それはともかく、

かつてはヤクルト球団にいた元気良い外人がホームランを打ちまくったのにと、多くのファンは、心の休まらない観戦であろう。

燕市は、「ツバメ」のご縁で球団と仲良くなり、地元のイベントにマスコットを呼んだり、世界最高品質を誇る、燕産の洋食器を優秀選手の特別賞に、提供したりで、多彩なアイデアを馳駆し、燕市上空にいる本物のツバメは、蒲原平野の、はざ木を見降ろし、今日も天空を機敏に翔び廻っているのに違いない。
地元に来た
東京ヤクルトスワローズ(同球団の公式HPの動画より引用)


分水会の強みは、伝統的な「おいらん道中」の存在である。数年前には、すったもんだの末中止となったそうだ。今となってはこの決断は、どうだったかなあと観光協会会長の田中公一氏(当時)は、振り返りながら、首を右に曲げたり左に曲げたりの姿が懐かしい。
決断日が3月13日だったからねえと、さぞかしやむに止むなく風であった。
その鈴木市長も大歓迎した「花魁」は、平成26年には江戸の浅草へ来た。
分水会も吉田会も、設立20年ちょいで歴史は浅いが、大会運営には素晴らしい企画力がある。

現会長の小林恪男会長は真面目派で品が良い。

現役会長の逝去に伴い4年ぶりに再登板したH寺泊会会長と異なり、いつも丁寧に会を運営、分水会歴代の会長さんには、平出英雄氏、岡本満氏やNHK放送技術センター局長・村上昭冶氏氏等が名を連ね、いつも元気な姿を見せ、集いは賑々しく開催される。


ここの会は寺泊会と大きく違うところがある。相違点は現役市長さんが来賓としてごあいさつされる。昨年こそ大 高桑栄松先生を偲ぶ会に出席とかでお目にかかれなかったが、郷人会への積極参加ぶりには、羨ましい限りである。これに寺泊会、吉田会ほかの郷人会の役員も招待され参加させていただく。

 


寺泊会から見て我が親父であると慕いたい、前長岡市長さんへは、合併後、毎年御招待状をお送りしてはいたが、創立60周年の記念大会にも、そのお顔を拝見する事が出来なかったなあと、寺泊会の会員達は残念がる。

と言っても、そのお名前とお顔と言われると寺泊会ではほとんど知られていなかった。なじみが薄いのである。

 

その市長さんも、昨年10月の新潟県知事選挙で落選し退任を余儀なくされ、ただのお人となられたが、5期務めあげた市長さんの退職金となると、さぞ高額と拝察し悠々の人生であろうと、我々の居酒屋談議のネタに貢献している。それともあと3年後を見込んだ再挑戦戦略研究人生か。そうは問屋が卸しまいて。


分水会の田中公一・燕市分水地区商工会・会長とも、長年のお付き合いであるが、今年も、威勢良くごあいさつされる。会場からは、仕事は息子さんが立派に継いでいるので安心しているに違いないと
の囁きも。

そしてステージに加わり、故郷を熱唱されていたが、ことしも純粋な越後蒲原人ここにありと確認した。

平成26年は、6月15日(日)に第20回分水町出身者の集いとして、会場を御茶ノ水から浅草ビューホテルに移し、

更に平成29年になると、6月18日(日)に会場を昨年と同じ上野精養軒に移し賑々しく開催されたのである。
毎年多数参加のもと、盛大にとりおこなわれるが、今年も大抽選会には、善意で多数の協賛品が集まり会場は蒲原分水の熱気につつまれていた。

(写真は第23回大会、一部は第17回東京分水会原稿より転載)記事は講演会資料から抜粋。取材協力:東京分水会 記事掲載講演者許諾済

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震災7年:福嶋原発事故と寺泊出身・福島県・酒蔵の杜氏さん

寺泊会創立63周年記念稿

震災7年



3月11日酒蔵から生還した野積杜氏
        

津波と大地震。忘れることのできない3月11日は毎年来る。都会の景色より、復旧・復興を優先して目を向けてくれと、現地取材の著名なテレビキャスターやアナウンサーたちのインタビューに答える多数の被災民がおられる。
無償ボランティアで、汗の代償を求めない若者たちに感謝しつつその当時のファイルを読み返すとこうであった

復興支援の原資にするからと、定年間近の教師達に、翌年春に支給される退職金から1%の復興特別枠天引きに協力して欲しいと行政の呼びかけに対しある県の教育委員会が自分の監督する教師たちに協力を働きかけたところ、先生たちはスワ!イチダイジと翌年春を待たず、今年中に退職してしまい特別協力金を逃れたニュースが、スポーツ紙や全国紙の社会面で報じられた。早速その時の詳細をアップした。今年繰り上げて退職して、退職金を満額手に入れた校長先生などと記述したから反応したのだろう。だがこれらに関連する記事は、寺泊会とは離れているので一部分を削除した方が良いのではと、当事者らしき方面から掲載直後に声が出たから、以降の追跡は他のメディアに譲った事があった。
退職金天引き騒動は強制ではなかった。先生の善意は、当時の退職金給付対象者全職員の協力があれば、支援の薄い住民の補助になったであろうになどと、静観していたが金銭的なアプローチには反対の先生も多数いたようである。論争を継続する時間のないほど、不可思議なニュースばかりに追われていた東日本大震災あとであった。


かつてこの45億円を目標に掲げていたのは誰か、そのような論点は、一瞬の話題だけで何もなかったことのように消滅・終了した。追及を持ち出す新聞社も記事になく、行政話もない。不思議なものである。その後大手のベアも決まり、やがて雇用が上向けば、万民からの血税があるからと安心しているのに違いない。


記憶から消えない3月11日の酒蔵
一方、震災当日の2011年3月11日、福島県の老舗酒蔵で仕込み作業中の野積生まれの杜氏さんがいた。

 
 
福島の銘酒自然卿を造る寺泊出身の杜氏「高綱 強」さんの地震・原発と酒造り人生 再現記事



現役スター杜氏・高綱 強さんは寺泊会で語ってくれた。震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。  福島の地酒・大木大吉酒蔵の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。

地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。

◆揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さん。

◆ほかの従業員が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んじまったのだろうかと
言ってたそうである。

馬鹿いうな。死んでたまるか

 

おれは大揺れの最中でも、仕込み樽にホコリが入らないように、
周りを養生していたんだ、と堂々としたものである。


その2011年3月11日、金曜日.一億総日本人の誰もが、重い経験を味わった。ショックを受け脅威におののき、怒り苦しんだ。僅か数年の経過で、これから逃れられるほど軽いものではない。


映画でしか見れなかったような、波に飲み込まれる家屋と失われ行く自然。メディアは、これを映像にし、繰り返し流し続け、人間が受けている、現実の悲惨さを報じている。家族を失い、建物を流出。取り返しのできない惨事。加えて、福島の原発事故。格納庫には、酸素がないので、水素だけで、安心ですと、時の総理大臣に説いたお仁は、やがて更迭された。時折、比較される言葉は、チェルノブイリである

水素爆発2日あとのウクライナ版プラウダ紙でもこのショッキングな写真を大きく取り上げていた。


平成の放射能製造マシーンは、この瞬間から、半減期に30年以上を要する、セシウムを飛び散らし、まき散らし続けているである。
気ままな風に乗って、100キロ以上離れた関東圏以南迄運び、翌日には北上し、北では雨によって地上に堆積、もはやISO環境目標だの、京都議定書だのといったレベルではない。先ずは、体内細胞分裂の盛んな、幼子から、目に見えない放射能の吸収を防ぐ事が肝心である、と評論家は言い始めたが。放射線レベルの許容基準値を都合よく何回も改正した。最初は半径5キロ圏内、次は10キロ、そして20キロ圏内、やがて50キロ圏内の住民はすぐ戻れるから町から離れなさいと、未経験からくる上から下までの行政の知恵は実に安心できない。



花火工場爆発の、火の粉程度しか考えていなかった我が国は、近隣住民だけを逃げろと、避難させたころの写真だから怖くなる。

数年前から縁があって東京の大田区で一緒に仕事をしている、回路設計が専門のウクライナ人は、25年前に父親がチェルノブイリにいた。親父も原発で働く技術屋であった。同国の新聞は、今回の日本の事故をどのように報道しているかを、現地の新聞を見せながら説明してくれた。一面記事で、東京電力・3号機の水素爆発を報じたが、当初の見出しで見る限り、重篤ではないような表現も、炉体容器そのものが爆発したチェルノブイリに比較すれば、との見解もあるそうだ。以降のロシア語の新聞には[フクシマ]の文字が何度も登場していた。彼は何度も何度も、海は勿論だが森林が一番やられると語っていた。
だが原発事故は森林がやられるし回復までに50年はかかるよ、当時はその意味を深く理解しないまま、そうかそうかと聞くだけだった。日本は廃炉費用だけで毎年2000億円かけて何十年も国税と電力会社が払い続けることになるとは誰も想像していなかった。



科学が進んでいると思っていた、日本で、相当古い装置が稼働していたのかとも、疑念を抱かせた。今振り返ると、GE又はWHの指定で、米国から輸入した、圧力制御機器や温度センサー, リミットスイッチ、水面制御装置など多数の計装品を、この原発に納入してたのは30代初めのサラリ−マン時代だった。寺泊出身のチビ太君は、来日したメーカーの技術者と製品説明のため、何回か通訳として同行した経験があるが、現地構内にあったGEのゲストハウスにも泊めてもらった。1970年の初め頃であった。



福島県では万が一の原発事故が起こる前の、放射能漏れを国が想定しており、東日本沿岸海域に、多数のモニタリングポストを、設置してもらっていた。津波さえなければ、測定機器は、破壊されることなく、この写真以降の、放射性物質の飛散状態を、正確に強度と、分布をとらえたのであるが、残念ながら数機を残して壊滅。残された僅かな機器を使用して、大学・研究機関で解析中である。事故がない時に、モニタリングしていたのに、事故が起きてから測定できない神の仕業は、あまりにもむごたらしい。20箇所あまりの、モニタリングポストは壊滅したと思われていたが、やがて学者の執念で、この内の1か所にあった機器が健在であった事が判明し、これを使用しバックデータを分析中していると聞いたのは、かなり後になってからのことである。

それと東京寺泊会との関係があるかと思われるが、ここに示したのは、日本酒を測定した放射能レベルである。フクシマ原発の風評被害で、同県で醸造された日本酒の売れ行きが思わしくない。そこで蔵元が、放射能の影響がないことを、分析機関に依頼測定し、結果を公表している。セシウム・ヨウ素共に含有していなかった。


蔵元の社長さん(左)は、放射性物質含入ナシの測定データを手に、どうぞご安心くださいと、呼びかけておられる。

■実は、ここの杜氏さんこそが、寺泊出身の高綱 強氏(野積)である。福島の銘酒・自然郷の杜氏さんだ。
昨年新潟県人会100周年記念大会では、朱鷺メッセ(新潟市内)で、見事な酒造り唄を披露し、55回大会の2年前にも、寺泊会のステージで唄ってくれた。寺泊酒造組合の会長さんでもある。

東京寺泊会は、第57回寺泊会で,杜氏人生を語る特別講演会を企画。

3月11日の東日本大地震で酒蔵は倒壊。仕込み樽も横倒しとなる環境の中でも、蔵の伝統を守り酒造りを復興させた。

高綱杜氏殿、寺泊会大会で講演を願いませんかと、手紙を出したのは、地震が発生した年の秋の事であった。「何とか都合つけようや」と翌年の4月に開催した、第57回東京寺泊会において記念講演にこぎつけた。逆境下での酒造り奮闘記を、たっぷり語る姿に杜氏の里、野積人の豪快さを垣間見た。(於・芝パークホテル)。(震災の写真は大木大吉酒造さんのHPより転載)

 

         ▲
酒造り唄の名手・高綱 強・杜氏(写真上)

 第57回東京寺泊会大会は、4月8日()盛況のうちに執り行われた。
 

福島県地酒・自然郷 大木代吉(おおきだいきち)本店宣伝版より

 ■創業は明治維新をひかえる慶応元年(1865年)。大木代吉本店のある福島県西白河郡矢吹町はその昔に奥州街道の宿場町で、皇室のご猟場町としてもさかえたまちです。
 ■この矢吹町は中畑清監督の出身地で、三つの河に囲まれる水質・地質に恵まれた地域で、地価から汲み上げる仕込み水は口にすると柔らく、瑞々しいあじわいがたのしめます。

 複合汚染が社会問題となった昭和40年代には、環境保全や、ひいては酒文化の復権の考えから純米酒「自然郷」を発表。篤農家との関係を深めながら米作りに精力を傾け、現在は契約栽培や60aの自営田を社員による酒米作りに取り組んでいます。

 また昭和52年に日本の食文化たる酒・すなわち料理酒造りに着手。醸造から造られる100%安全な調味料・本格派料理酒として取り組んでいます。「玄人仕様」をモットーに醸造の可能性に挑戦し、日本の古き良き食文化を次世代へついで参ります
   (記事はネット通販業者のHPを参考に転載させていただきました)

 

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634mの山なら毎日見ています

 

634メートルで有名な 弥彦山
寺泊の朝もやを見ずして
 弥彦山のふもとは野積です。

寺泊もやっと晴れの日が続いた( Morning 4:35am)

     ◆朝もやのかかる弥彦山(寺泊観光協会・早朝ライブカメラから)

そして夕方になって、お寺(聖徳寺)の鐘がゴーオンと鳴る頃
 

 365日は見えませんが
寺泊の夕陽見ずして
●家に帰るなかれ

 

 



       寺泊観光協会・リンクページからのコピ−




 佐渡汽船発着場付近・寺泊ライブカメラ)


こんな穏やかな海が毎日つづくとは限らない。
風吹けば、波が息吹くてらどまり・・寛風庵
お座敷で「寺泊おけさ」でも聴こうものなら昇天気分。

 

 

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