◆東京寺泊会だより ◆編集責任者・・・・橋本寛二

経営に使うISO戦略が日本のふるさと会創生に有効的であることが認識され出し、リテラシーある企業退職者が動く。余裕あるボランティア族の先陣を寺泊会にいる輩が実証。
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新元号最初の祭りを覗きませんか

平成が終わり新元号になり日本でいち番最初の祭だ:

10万石の大名行列に圧巻される5月大祭


 

・       

 

東京のど真ん中で、今日寺泊港から直送された魚だよ〜と

寺泊を宣伝文句にしておられる、寺泊会役員たちイチオシの

居酒屋さんは、品川区にあり、かなり大きな店内のセンターに位置する

産地銘板札は貴重である。

今朝セリを済ませたばかりの寺泊漁協さんもビックリか

 

鰯(イワシ)祭り近し

 (さばき切れない程獲れた)

寺泊会の気が急く

これは6区の当番をテーマにした物語

(だが原稿の数字を1〜6まで変えれば永久に使える

 

春5月は寺泊の伝統行事大祭の月である

 祭の前夜は興奮し眠れなかったもんだ




大祭の話題は寺泊会でいつも沸騰する


   (本稿の写真は地域創生事業実行委員会のPR用CDを加工掲載
 

俺たちが頭になって、「カグラをかついで町内を走りぬいた時代が懐かしいなあ」と寺泊会の宴席で
こんな話題が、新元号1年5月26日(日)東京・芝増上寺近くのホテルにおいて飛び交うであろう。


寺泊会創立64周年大会の予想話題。

カグラ当番で準備に勤しむで70代の元気者は、地元でも貴重な存在だ。
本人たちの年月経過すれど、寺泊「町」が好きな粋人、老眼鏡かけ元気に神楽のシッポつくりで、後輩の先頭に立つ。平成28年に観光協会のHPで紹介された5月の例大祭で神楽当番だった様子である。

平成時代最後は、6区が当番だと寺泊会連絡員からの情報があった。


1区から6区まである寺泊町


寺泊は町役場(当時)が決めた、地域セグメントとして1〜6町内に分割されており、1区サイドがカミで6区側がシモと呼ばれている

かぐら作りの下準備でのリーダーシップを発揮して親方をこなす、成田屋さんと田村屋さんなど、粋人お二人の御姿は、
さすが上田町代表である・・と首都圏で活躍する3区出身の寺泊・上田町人会、清水屋の清水文隆・副会長(上田町)、河忠の河合忠治氏(上田町)、故人となられた外山健太会長らの皆さんも、3区出身者で、古希はとっくに通り越した。


寺泊観光協会にもない貴重なフィルムとなっている、60年前の写真を寺泊会の会員たちが保存していた。

 

     ◆
戦前当時らしい昭和X年5月の3区・上田町組存命されていたら全員150歳以上
ひと昔前は、どこのの衆のカグラかを示すため、走り手も、組の名前をつけたタスキをかけていたという。3区なら「上田町」とした。戦後間もない当時の写真を入手した。証拠となった。
かつて4区のような複数の町内で構成される区だったら、どこの組にしてあったのだろうか。先人たちからの古写真歓迎。

漁師町寺泊の5月は賑やかである。寺泊町・・時代は変っても東京寺泊会人だけは「長岡市の寺泊でなく寺泊町の寺泊」と呼んでいる。その寺泊の鎮守様、白山媛神社の春季大祭が、毎年5月3日に開催される。

この由縁や関連神社の詳細と行事の一部始終を記録したDVDが寺泊在住の長谷川昭平さん(小川町在住)から東京寺泊会に提供された。記録映像に合わせて、丁寧な解説付きで、祭り行事のすべてが理解できる。記録は昭和58年5月の映像で当時の人や家並みが懐かしく映っている
学校の教材に最適である。話を聞くとこのCDは寺泊在住者でも持っていないそうである。ましてや公務員先生では興奮度が低いかも。

以前4月4日の東京寺泊会懇親会で大会案内書の表紙に使って宣伝した。
寺泊はかつてイワシが大漁に摂れ、5月頃には浜辺はアミにかかったイワシで溢れていた。

その名残でこの祭礼は別名「イワシ祭り」とも呼ばれている。中でも勇壮で元気なカグラは、毎年各区の持ち回り制で、新元号初年は6区が神楽当番である。新元号になって100年続いても逃げられない。このディスクでその足取りの詳細が判る。おとなカグラと子供カグラで狭い寺泊町はワッショイワッショイの掛け声が轟く。

カグラのかしらにかじってもらう(正確には神聖なるお祓い行為を頂く)と勉強は1番になり、病は治り、曲がった腰はピンとする、持病のひざは痛み消滅、借金は返済のメドが立つ、おみくじの大吉宣言風で万事これ息災・・とか(いずれも寺泊会宴席での会話より)時代が変わってもやはり「ふるさと」の歳時記として残したい行事である。

寺泊の小中学校の教師にも、このDVDで勉強してもらおう。そして子供たちに興味を持たせ次代につなげたい。
ところが、寺泊の行事に無関心な赴任期間だけのチョンの間寺泊在住長岡市民となる瞬間先生ばかりでは無理かもしれない。

本当に心配なのは、こどもカグラを担ぐお子たちの減少であるが。
この貴重な写真は約60年前 昭和32年頃の上田町を中心とする3区の子供カグラ。

かつてこの写真をきっかけに、テレビ局呼んで「60年後に集まった昭和の少年たち」と題して、売り込みイベントやろうと話があった

しかしながら皆さんは、古希を過ぎた、暇かと思ったら結構現役で何らかの仕事しているから多忙とかでおじゃんになった。もう生涯このイベントの機会はないであろう。
写真の最前列左は、今も地元で石川モーターズを経営しているが、レンゾーとよばれていた。2014年度の、古希組である。同期には山田栄三郎(きんぱち)社長がおり、古刹法福寺の57代住職ケンジ様も同期である。

2014年度には、古希祝いの集いを開催。会場、宿泊はもちろん きんぱちである。

開催に積極的なのは、どの会も女性陣だけが積極的で、その年に古希を迎えた昭和19年(1944)生まれ組は特別に元気組が多い。

平石久子氏(寺泊会地元渉外担当特任理事)もそのひとりで、東京寺泊会の会場で、塩たき節の地方(じかた)として見事な三味線を披露してくれたこともあるし、平成30年の大会には寺泊おけさ体操の指導でその名を高らしめた。

2014年4月には、東京寺泊会に参加した若年層となる古希組を集め、事前に祝宴を挙げてたがこれでは収まらない。

そこで郷里ふるさと主催の行事に熱心な女性陣は、更に寺泊へ行って本家神社お祓い付の古希祝いにも参加すると元気そのもの。

 

だから世の中は何の争いもなく、うまく運ぶのだろう。健康なうちに、皆のお姿を見ておかないと東京オリンピックまで持つかと、心配になるのかも知れない。人生さまざま。今年も寺泊出身者多数が古希祝い大会で寺泊に集まるが、その中の一人でも東京寺泊会に興味を持って、64回も経過した伝統ある寺泊会のカシラに、来年からでもなってくれれば嬉しいのだが。

初回参加には勇気がいると見え、最初となる一歩のバリアが高く、飛び越せないのだろう。


所で、1区〜6区の中間に位置する3区は、法福寺の下あたりから始まって弥彦山方面に延び、今は道路になっているが、かつてここに建ってた金内さんの家の隣迄が、4区との境界地域であった。

この境目には細い川が流れていて井戸もあり、きれいな真水が沸いていた。近所の子供達は、海水浴帰りに、ここの冷たい真水を「白い6尺ふんどし」か「黒いモッコフンドシ」のまま頭から水をかぶり、時々局所にかけて「シャッコーーイ」と叫びながらシャワー代わりにしていた。ピーピーキャーキャーと騒々しかった。塀越しは茶の間つづきの庭になっていた、金内さんちも騒音でうるさかった事だろうが、人のいいキセばあさんからのクレ−ムを聞いたことがなかった。ちなみにシャワータイムで一番込む時間帯は午前10時頃と、夕方遅くなってからである。日中のお天道様がギラギラする時間には暑過ぎて世間の衆にゆずり、町の子供はゾロゾロと、家路につく。日陰でトウモロコシでも食べながら、将棋をして遊ぶか昼寝する。地元の子供達は、海での日射病を避けて、紫外線の強い危険時間帯で泳がない訳である。こういう風習は、地元の先輩が体で教えてくれた。

この時間帯は遠い世間から、といっても、県内の三條や長岡あたりであるが、遊びに来る海水浴客に譲ってしまう。一方、カアチャン・バアチャン連中は、この小川を利用した冷たい流れ水で「オシメ」を、洗濯板を使って洗ったりし、ISO14001の環境要求事項には不適合となるが、その廃水は海まで堂々と流していた。

海までの砂浜部分は今より短かったが、自然の川筋が砂浜に造られていたのである。2018年度の全国の子供数1553万人・(総務省4月1日発表)新生児誕生数約95万・当時の日本の子供は今の2倍の約3000万人、人口の3割近くもいた。2018年の日本は、人口の3割が高齢者になってしまった。ガキどもと呼ばれていた少年たちは寺泊町もワンサカいた。「チャンバラ」や「パッチ」「カンケリ」「ビー玉」で遊ぶ姿は、寺泊町のどこで見られた。今、このカグラ少年たちは、皆さん全員、健康が気になる世間同様の高齢者となり、人口構成が昔と逆転している。(本稿は史実を優先のため、あえて長岡市寺泊としないで合併前の行政地名、寺泊町を使用。)

日本全国、南も北も、共通の現象だ。寺泊のライブカメラで寺泊を俯瞰
















写真提供者様。確かに「…」組のタスキを確認いたしました。前列左は山ノ町の坂の上にあった、「やなぎや旅館」さんのおとっつあんでしょうか。(写真提供者様さえ、はて?と考え込む)

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寺泊の塩たき節物語

寺泊会創立64周年記念・芸能編

 

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 寺泊の伝統芸能を守る人たち

 


塩たき節 前唄

む〜か〜あしーーよ〜おーりー

塩たき節 本唄

なじょ〜なーしーおーた〜き〜でえーもー

 

(唄はゆっくりで、前に進まないから時間がかかる)




 長岡市伝統民俗文化財
寺泊「塩たき節」入門講座 音源クリック

 

■副題:寺泊品質はこうして創られた(物語)

    財団法人 地域文化創造
    写真掲載許諾済

 

寺泊は、別名をフンドシ町と呼ばれ、その名の通り、

近年になってから一区の松沢町とか六区の白岩などの

町名を付けても、まばらに点在する民家や商家などを

左右に挟みながら、生活道路に欠かせない一本道が

弥彦山麓まで続いていた。現在の砂浜の大部分は海だった。

 

大河津分水が、日本海寺泊海岸まで流されていなかった頃は

野積橋もなかったし、良寛も夕日が沈む佐渡島を見ながら、
弥彦山の
中腹にある西生寺まで、テクテクと、この狭い

フンドシ道を歩いていたであろう。

ベストセラー作家・水上勉がこの浜道を歩きながらその印象を
短編小説「寺泊」を上梓したのはこの良寛が縁であった。
寺泊の製塩業は、この時代より遥か昔となる2千年前、神代の
時代から始まっていた。シオ 貧者も富裕者も生活の必需品だ。

弥彦山の西端は、寺泊町から眺めると、佐渡まで続く日本海に

接するなだらかな恐竜のしっぽのようである。

弥彦からはこれが見えないから、蒲原郡地方出身者はこの

イメージを知らない筈である。

平成30年秋から放映中の日曜ドラマ劇場(TBS−BSN系)で

弥彦山脈が遠景として良く登場する。 この画面を弥彦山とするが

寺泊人はこのフォルムだと馴染みが薄い。

(ドラマ下町ロケットより)

 

 

 

 

 

寺泊から見ると弥彦山は

こんな優雅な形をしている。

この山脈左端の先の先が

日本海に面している。

 

海面ゼロまで行かないと判らないが

その山麓部分には、何やら大きな洞窟らしきものが見える。
伝説では、ここに「天香山命」が、南国から海路を経由し、
渡り住んでいたとある。


 

 

 

 

 

 

/

のちに弥彦神社に祀られる、越後の産業をもたらした、

いにしえの恩人は、2000年以上も前に野積を根城にし、
稲作・製塩・漁労そして酒造り等を教えていたとされる。

 

 

 

このお陰で寺泊は、

「農・漁・酒」作業を

男手が担い、

ただでさえ、男勝りで

大柄な体格が多い、野積のオナゴ衆は

せっせと重い桶をかつぎながら「塩」で稼ぐから、

まさに潤う集落となったはずである。

 

 

現代の著名な脳科学者としてテレビや

講演会でお馴染みの「脳の学校」代表をしている

加藤俊徳・医学博士も、約2000年、後になってから

この地・野積で生まれたことになるがこの説の続編は

近くの居酒屋談議で続けた方が脳トレによさそうだ。

時は経て、奈良時代あたりからは、寺泊の港は、

当時の遠島、佐渡島へ流される、流刑人船着き場の役割を果たす

事となり、重罪なる政治犯と裁かされ、その烙印を押された
彼ら職位は寺泊部落には縁のない都人、能楽師・上皇

高僧・音曲/歌人などがひしめく。

 

知識が有り、芸術感覚あふれる、職種様々な尊い罪人たちが

寺泊港から、遠島とされた佐渡島へと送り込まれる。

今と違って、船に原動機はなく島までは、はるかに遠く

下手すると鬼が住んでいるかも知れないと思ってたか。

何しろめったに上陸したことのない島である。

 

・・・・◆

信長・秀吉が野望をいだく、天地人の時代も終焉し、

家康の時代になると、佐渡島は金銀に沸く。

 

大久保長安は石見銀山の経験を生かし、初代佐渡奉行となり、

相川に住んで宝の発掘を管理する。

 

 

 

 

 

 

幕府は、道路整備に

権力を発揮し、

寺泊を当代一となる

佐渡への渡り場と

するため、

                                

中仙道・北国街道・三国街道など、主要幹線道の整備を命じ

日本海側としての拠点多数ある中で、

終点のひとつである

寺泊港にも注目し寺泊は一段と活気ずく。

 

更に北前船が登場すると、寺泊は内陸の物資を、

海路を経て遠方に送り出す要港となると同時に

遠方からは、寺泊経由で内陸・中央へと資源が運び込まれた。    

移動した資源はモノだけでなくヒトも集まる。

 

(^^♪ 今も昔も、物資豊富な富裕層は、遊興に資源を投じ

手にしたお金を、一度でもお遊びに使う醍醐味を味わったら、

忘れられなく、くせになる。

 

     

寺泊の旅籠も料亭も、品良くきれいと評価され

花柳界は連日、宴が繰り広げられる賑やかさ

     

かくして寺泊では、山の町ならずとも、

三弦の音が日夜轟くこととなった。

 

一方では近江・加賀から松前・江刺と高級遊興街で遊び慣れた

北前船の船頭衆・商人たちは、費用対効果を計算できるプロ集団

目も耳も十分肥えた、粋人が多いから万事にうるさい。

 

寺泊の芸者衆は、古町同様美と教養を備えているから

下手な音色・所作で座敷を白けさせたら、その名がすたる。

 

古町にある同業では、この前までは

「一見さんだったのに、裏を返し、もう馴染み

になっている船頭衆が多いそうだ」との噂も気になる。

実は受け手側となるこの競争心とモチべーションが

寺泊品質向上において、大いに役立ったに違いない。

品質をマネジメントするマニュアルなくとも実践で習得した。

 

越後追分なる唄を生み、秋田、松前と運んでくれる北前船の

おだんなさんたちこそ、寺泊にとっても有難い美の商人である。

この越後追分も字数が少ないのに、母音を長〜く引き伸ばして唄う

塩たき節の歌唱法に似たものが多いのが面白い(小唄勝太郎節)

 

 

これが寺泊品質を創り上げた起因であることが確証された。

即ち我々コンサル業の商売不要論が成立したのである

平成時代に商売していて良かったと、安堵の瞬間となった。

 

     


寺泊伝統民族芸能の源流

/

◆「塩たき節立ち方の、小黒サヨさん(上片町)は

伝統芸の完成度を高めようと、原型の所作を

忠実に再現し、中腰移動のため足腰を痛めながらも

苦痛に耐え稽古を重ね、励んできた。

 

 

私説・塩たき節誕生粋話

 

さて話は戻って、都から引き連れてこられた罪人たちは、

三国峠の山超え、やっとこさ、寺泊へ到着しても、

即刻佐渡へ流されることが少なかったことが

寺泊の伝統芸能には幸いした。

いつもは夕陽輝く、穏やかな日本海を抱く寺泊であるが、

晴天の日は何日も続かないのは、昔も昭和平成新元号でも同じだ。

手漕ぎ舟同様の、罪人を乗せるみすぼらしい、小さな舟は、
波風に弱く、少しの荒れた海でも出船できない。

 

 

そこで海の鎮まるまで、舟は何日も港に繋がれ、

寺泊の陸で待機せざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日蓮上人は説法し

高貴なるも罪人たちは

毎日波の様子を見る.

浜に降りては時間をつぶす。

美しい寺泊の夕日を拝み、

時に遊女たちと和歌を詠み交わす。

フンドシ町の浜辺では、遠くにおなご衆が大きな桶に海水を

せっせと汲んでは、重そうに歩を動かしていた。

静々とゆっくりではあるが、担ぎ棒の先には

前後二つの桶が吊るされてそのバランスが実に良い。

正確には肩から先のつるし棒部分は後ろ部分より

数ミリ長く」担いでいる。こうしないと後ろに引っ張られ

バランスが悪いからである。

 

塩たき節の歌詞には、作業情景描写がさりげなく挿入され

直接的な言葉で唄っていないから、俳句を嗜む粋人向きである

上等な左党を自認する輩さんには

「今日の月こそ 桶にあり」あたりで盃を傾けたほうが良い。

昔につけられたランクの2級酒でも、たちまち野積杜氏が仕込み

薦める大吟醸の味に変わってしまうから、酒は気分で飲むべしで

あなたの、宴席が一層華やぎ、高貴なお座敷に変る事であろう。

 

たき節物語は、実際歩いた経験のある灼熱の砂浜と塩田に加え

山の町の三業地を知る、寺泊人でしか想像できない

ロマンあふれる歴史音曲物語なのである。

 

こうした様子を見て誕生した情景描写が「塩たき節」

の源となっている。歌詞に抑揚が有りすぎて、塩たき節を

唄うのは、とても難儀なことよと、星幸市プロは吐露する。

同じ作業唄でも石炭を掘る時せっせと唄う「炭坑節」、

掛け声勇ましい ニシン漁の「ソーラン節」などとは

「節」の文字は同じだが、その味が全く異なる。

しっとりした「塩たき節」の世界は同じ作業唄でも

お囃子・調子とは別世界の、肴を厳選した大吟醸に

似合う座敷唄として成長したのである。

 

罪人たちを即座に佐渡島へ流されることが少ない.

風の事情が、いかにして役立ったかを想像し探ると面白い。

 

塩たき節は邦楽のいいとこどり集大成か

 

女波・男波の 波待ち・風待ちで、

やむ得ず寺泊に滞溜していた、流刑人その正体こそ

都会で十分遊び尽くした、都びとの粋人さんたちだ。

製塩の風姿を、ぼ〜と見て生きているだけでなく

「写し絵」の如く取り込んで詩をつけ唄にし

「上方舞」を連想しながら「清元」の如く節をつけ

「端唄」の如く音を刻んだ長いプロセスを経た結果、

「座敷唄」として丁寧にに仕立てられた、

前唄・本唄の「塩たき節」がここに誕生したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

寺泊会はこの芸術的所作と

音源を東京で発信しようと

寺泊で継承に励む民謡団体「浜っ子会」を

東京のホテルに招待し唄と踊りをじっくり

披露してもらった。

・・・◆

 

・・

  (前唄)
 音源 約120秒      
   昔より 寺泊名物の 塩たき踊り  
   (本唄) (約280秒)      
   なじょな塩たきでも こしろうてだせば 
   枝垂れ(しだれ) 小柳 稚児桜  
   女波男波(めなみおなみ) 汲み分け見れば 
   今日の月こそ 桶にあり  
        ハァ ヤラシヤレ ヨーイ

塩たき節保存会は、小学生から大人まで各自の都合を見ながら唄と

おどりを教えている

生徒さんたちは当時の作業風景も想像しながら、

お稽古に励んでいるらしい。あと10年もすれば、

立派な所作を披露できるでしょうと平石会長は楽しみにしておられる。

 ◆(掲載写真は個人情報保護のため意図的不鮮明加工済)

・・

 

 

 

・・・◆寺泊会のステージで饗宴してくれた民謡連に感謝・・・◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豪華じかた勢の顔ぶれ: 

あくまでも、しっとりとしたお座敷奏法に糸を合わせ熱演し、宴席を魅了した

出演(寺泊・浜っ子会)

 

 

太鼓 平石孝義 (小川町)
三味 竹内了治 (竹 森)
三味 田中忠弘 (燕 市)
三味 平石久子 (上荒町)
平井松雄 (上片町)
歌手 星 幸市 (竹 森)
歌手 半間サチ子 (弥 彦)
立ち方 小黒サヨ (上片町)
立ち方 久須美セツ (松沢町)
立ち方 平石ミヨ子 (小川町)
立ち方 今井トリ (香清水)
立ち方 渡辺美江子 (松沢町)
立ち方 梅沢弘美 (松沢町)
     
   ◆        
   
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
     

寺泊会宴席での演舞を終わり舞台衣装をとって

ほっと一息つく「浜っ子会」連中

左から2人目が保存会の平石孝義会長

さて長岡市の協力があれば、寺泊会宴席での

再上演が可能だが同市の30年度予算案によると

年間12.6万が寺泊会との懇親交流費らしい。

実現まであと一声欲しい。

 

道楽としての邦楽入門ばなし

お師匠さんに横で唄ってもらい 三味線で小唄勧進帳を披露

(新宿安田生命ホールにて)頭にまだ髪があった。 どうよ。 (1974年当時)

 

歌舞伎に夢中になり、国立劇場、歌舞伎座などに通っているうちに、

長唄・清元の世界に魅了され自分も、あの舞台で演奏してみたいと思ったのは

20代の半ばであった。ここで小唄・端唄のお師匠さんと出会い蓼(たで)流門下に入り

サラリーマン奏者として稽古に励み、道楽で小唄三味線のお稽古に没入、

リズム、間(ま)から粋を習得、これは後の司会テクニックに役立ち

県人会の芸能大会シーンにも応用。観客との掛け合いには自信があった、

三味線音楽がきっかけで年を経たある時、塩たき節の音源に魅了、

ショックを受け探求する事となった。以降は寛風庵で

 

 

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高橋孝一杜氏、黄綬褒章受章特集

 東京寺泊会創立64周年記念稿

・・

/

スター杜氏さん栄えある受章

 


 

 

 春の受勲アーカイブ
 高橋孝一杜氏に黄綬褒章


銘酒「越乃寒梅」を経て「越乃景虎」酒造り。


東京寺泊会で酒造り唄を披露してくれたのは、2010年春であった。この年に清酒品評会・チャンピオン3連覇。更に同年秋には「現代の名工」として、厚生労働省から認定を受けた新潟県民3人衆の中の、ひとりとなった。時に66歳。
あれから2年.黄綬褒章に輝く。寺泊出身の杜氏は、全員が褒章該当者に値するとも言われている。酒造りにひたむきな情熱を捧げて50年以上の経験を持ち、出来上がった作品の品質は、個人の嗜好に依存し、甲も乙も付けがい。丁度、美人コンテスト世界大会にも似ている。皆さん眼が大きく背が高い。腰のあたりに余計な肉がないしプレゼンも上手で、髪も脚も長い。

即ち一流の資質を持った者を集め、1等賞をつける審査にも似ている感がする。

高橋杜氏さん、最初となる酒造り修行の場・石本酒蔵では、頭(かしら)まで登りつめ、越乃寒梅造りに情熱を燃やしていた事を知る者は、地元の人でもそう多くいない。
◇2年前、高橋杜氏らをステージに迎えた寺泊会大会はこんな様子だった。
平成27年の今レビューすると。


  

大会の模様は、新潟日報4月5日付け、日報ウェブニュースで配信、更に、同月6日発行の新潟日報19ページ、地域面でも、大きく掲載された。

 

     
 新潟日報ウェブニュース


● 55周年記念大会アーカイブ。
● 特別出演 野積杜氏など5人衆による酒造り唄   
                           
寺泊会創立55周年記念大会。東京おかみさん会を主宰する高橋和子さん率いる「おけさ会」の皆さま、大枚の、ご祝儀持参で、踊りの披露を賜り心より御礼申し上げます。県人会の芸能大会で、司会をさせて戴いたご縁でのお付き合い以来4年になるが、友情参加してくれないか,の一言に、快く即応して戴き大感謝であった。
  
     ▼
出演杜氏さんのご紹介
  

酒造り唄公演・杜氏さんと蔵元代表銘柄一覧                                                                         協力・寺泊酒造組合
            ▼ 杜氏{出身)  代表銘柄   蔵 元
会 長 藤井正継(野積)   〆張鶴      宮尾酒造{村上市)
副会長 高綱 強(野積)   自然郷      大木代吉本店{福島・矢吹)
副会長 高橋孝一{引岡)  景 虎       諸橋酒造(長岡市)この2年後、黄綬褒章
青柳長市(大和田)          宝 山       宝山酒造(岩室)
加藤儀兵  (野積)        笹 祝       笹祝酒造 ( 巻)

 

         
酒造り唄音声笹祝酒造提供



写真左から笹祝〆張鶴宝山自然郷景虎を産み出すスター杜氏さん
職場では近寄り難い杜氏顔でも、この日は柔和なおじさん顔でありがたい。


それぞれの蔵元の最高責任者として、(写真中央左側が高橋孝一さん)手掛けた作品を持参した杜氏さん推奨の銘酒をテーブルに持ち廻り、会の出席者全員に振舞ってくれ、感謝感謝である。・・・東京寺泊会一同。
この翌日となる5日には郷里寺泊支所を会場に、清酒品評会が開かれ、55周年記念大会に出演された引岡出身の高橋幸一さん出展越乃景虎」諸橋酒造が3年連続の優勝を飾った。日本を代表するスター杜氏をゲストに抱く東京寺泊会の素晴らしさを改めて実感する

優勝した「虎を」造る杜氏・橋孝一さは、東京寺泊会の・外山健太(現会長)と平石國男(現副会長)両氏や、風間幸恵さん旧姓三上幸恵さん(松沢町)とは寺中時代の同期生である。互いに顔を合わせて目をパチクリさせながらの40年ぶりの再会を喜んでいた。



宝山酒造は野積から弥彦山を跨ぐ温泉地・岩室にある。ここの杜氏は青柳長市さん、ここで造られる年間1200石の酒造りに全責任を負う。自然豊かな村の蔵で、四季神酒を産み出す自信と誇りを、仕込み唄で披露してくれた。青柳さんは自身の名刺に弥彦神社おみきの杜氏、大きく銘記しておられる。
来賓としてお招きした十日町出身の弁護士・春日寛氏は,長年の宝山ファンである。青柳さんの粋な喉と唄を激賞。
今年九月開催の朱鷺メッセのステージでは、寺泊
酒造組合の出演が決定している。この芸能大会は3人の司会構成であるが、東京寺泊会もその一人つぃて、受け持つこととなった。(写真は仕込み唄を唄う青柳長市さん)



単純な動作なのに酒造りの匂いで充満

       ●       ●      ●

  
場内を佐渡おけさで盛り上げる、東京おけさ会の姐さん達平成26年4月22日(金)に開催する第61回寺泊大会にも出演交渉中である。

友情参加の東京おけさ会 高橋和子社中6名は相川音頭で杜氏さんを前に、東京で味わう越後佐渡の代表的な民謡を披露今年初参加の、野積出身・青木重善様のスピーチは、「野積人の誇りとは」と演題を決めた当会からの直前依頼にも関わらず、ワラジ持参で、見事に素晴らしいトークをされ、粋で豪快な野積ダンディの姿に酔いしれた感じであった。
ご祝電感謝

小林清燕市長様・32号昨年同様ご祝電を戴きまして、ありがとうございました。司会者より会場で披露させていただきました。来年度も鈴木新市長様へ継続されますよう、宜しくお願い申し上げます。

記念撮影に間に合いましたか


東京寺泊会の特徴は大会開始の合図が全員の集合写真である。大会の開催時間即ち写真撮影となるので皆さん時間通りに集合される。宴会はこの直後に始まるのである。
撮影の際に宴会場から移動し、ホテルの専用スタジオで行われる。果たして遠く離れた寺泊の諸は、この顔の何人をご存じだろうか。夏戸・大和田・本山・松沢町・上片町・上田町・荒町・白岩・野積などを出身地とする首都圏在住のオールスタッフのメンバーが参加した。4月15日に役員が手分けして、下記の御参加者全員に、この写真を送付致しました。
 男性会員    女性会員  
相場要平 白岩
小林秀雄 白岩
高綱清庸 野積  下田信子 上片町
外山健太 上田町  浅見幸子 荒町
橋本寛二 上田町  石井光枝 蔵場町
平石國男 小川町  寺坂寛子 松沢町 
外山 格 上田町   冨田範子 金山
松井繁男 白岩   笹平京子 松沢町
早川賢市 蔵場町  田中桂子 松沢町
松永達一 本山  越智綏子 大町
廣田 勝 上荒町  部セツ子 戸崎
大井長一郎 上片町  大石裕子 佐野家
小熊春夫 七ツ 石   田尻加代子 湊町
竹田秀雄 磯町  風間幸恵 松沢町
小越弘栄 夏戸   小越文子 萬善寺
近藤半治 夏戸    
石原勇一 蔵場町  
内山 清 大和田  
小林孝之 蛇塚    
青木重義 野積    
 
   
  来賓 順不同敬称略
山崎和夫 長岡市地域政策監
長谷川知雄 寺泊・支所長(夏戸)
古川原直人 長岡市議会議員(野積)
山田省吾 長岡市議会議員
山田栄三郎 寺泊観光協会長
大倉英雄 寺泊観光協会副会長
伊藤  勝 出雲崎会副会長
春日 寛 東京十日町会会長
矢部正二 北区新潟県人会会長
山田 寛 新潟県人会理事
堀 優 弥彦村人会会長
武石賢次 弥彦村人会副幹事長
平出英雄 東京分水会会長
大島芳昭 東京分水会副会長
高橋和子 東京おかみさん会会長
吉澤米子 新潟県人会常務理事
三上喜久治 東京寺泊会相談役
渡部作次 東京寺泊会相談役
落合美三重子 新潟県人会常務理事
細谷シズ 新潟県人会理事
外山勝志 明治神宮・名誉宮司
佐野久治 つゞれ屋・会長
新潟日報社 井川恭一支社編集部

フィナーレはカラオケ・ トップバッターつゞれ屋・会長 ・ 93歳の佐野さんが音頭とり















寺泊酒造組合藤井正継会長が熱唱応戦















笹祝・杜氏加藤儀兵さんも楽しそうにマイクを握る


「自然郷の杜氏」野積の高綱  強さん・・・寺泊会開催の後日に行われた、平成22年5月の役員改選で寺泊酒造組合の会長に就任・・・は仲間の唄に手拍子で声援を送る。この法被姿が素晴らしい。麹と蔵の壁を想像させるコージ・ホワイトと襟元の対比がたまりません。
自然酒にこだわる、福島県矢吹町にある大木代吉本店の銘酒「自然郷」。矢吹町と言えば、元ジャイアンツの中畑清の出身地である。同氏が次期参院選に「たちあがれ日本」党から、出馬するのでは、との話題で持ちきりらしい。高綱会長の酒造り唄は高音で延びがあり、実に味がある。また達筆で、素晴らしい書体で書かれる手紙は、大変価値がある。寺泊の杜氏さん達の特徴として、皆さん全員が相当な達筆者であることだ。これは、銘酒を飲まれた顧客からの便りに対する礼状などを、お書きになる機会が多いので常日頃訓練されているからか。
中畑氏当選の暁には自然郷で乾杯かと思われたが、残念ながら当選は叶わなかったが、プロ野球横浜DeNAベイスターズの監督としてメディアに再登場の人気者である。
                                                                     

高綱さんはこの1年後の2011年3月11日・東日本大震災で酒蔵が被災。倒壊した酒蔵のなか、現在までに生産体制を建直し、人気の銘酒・自然卿を造っておられる。
ボランティアで寺泊会出席のため上京される予定である。

 

 
寛風庵最新号
 
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震災8年:福嶋原発事故と寺泊出身・福島県・酒蔵の杜氏さん

 寺泊会創立64周年記念稿/社会編

 平成巨大地震と寺泊杜氏

その時俺は福島の酒蔵にいた

 

□ 平成時代千秋楽の話題 激震する億単位の虚偽報告

 

復興支援の一部として、翌年に退職予定の公務員先生の善意ある退職金から、ねん出しようと大金45億の募金集めを試みようとしたが、日赤経由などの自発的な寄付は除き、思いつき提案の協力が実現しなく、じたばたしていた時代があった。

 

ところが平成の終わりころ、大企業の経営者さん一人の倫理感覚にもとずき、多勢で働いて稼いだ自社の利益から、財務諸表を操り50億〜100億へと違法に手にしようと企んでいた事件が発覚。バレルまで10年近く要した平成最後の大捕り物劇となっている。

 

新元号になったら平成時代の昔話になるかも知れないが、法の目をくぐって手にした総額が半端なく、一流企業の経営層とは、儲かる商売なものだと思わざるを得ない。経営層ならずとも儲かっている企業の社員さん達も自社利益のおおよそは判っておられる。

役員報酬を見せたくない企業でも諸表を毎年発行して、大衆に公開する。小株でも持とうものなら役員報酬が大=企業収益が大と普通は踏んで、己が投資した株のリターンに期待し、気になってしょうがない情報となろう。役員報酬を過少申告にし報告書を改ざんする偽証記載問題とは別世界となるが。

大企業でも、時として役員会が機能しない場合がある。更には公平性を計り、外部監査機関の目を通す仕組みも有る。それでも数字だけで判断すると、思わぬ結果を生み、数字の先の先とその意図に透明性がないと散々な目に会ってしまう。

いざ資金の流れで支払先が海外となると簡単に納得してしまい、その先々の使途までは最後の最後まで追及されるリスクが少ないというカラクリを、外人役員さんどうしで長年にわたり申し伝えがあり熟知していたに違いない。

聞いた話によると決算書の中で、支払先が海外で英語表記にすると、税務監査で辿って行かれる割合が高いが、仮に中東諸国の小さな都市に住所がある会社で、右から左に表記するアラビア語などの会社を支払先にした上、で実際に単位が億でも一ケタ程度であれば、疑いをかけられる率が低いとの事であった。なぜな事実として支払っているからである。

先ずは金の支払先を明確にしてから、コトを始めろと言うわけか。だが脱税目的となる行為は、いずれその先の結末は決まってしまう。

ここで日本人は表記や、やりとりが外国語となると、十分理解しないままでもYES・YESと言ってしまう善良な国民であることが露呈した結果だ、などと、現役時代は各々が商社・金融・証券会社なんかでのサラリーマン経験があり、退職金をもらい現在はOBとなって寺泊会で活躍する仲間が集う居酒屋談議が止まらない。

 

 

経験こそ最高の教本だが、教科書には出ていないから大捕り物の時だけ目立ってしまう。MBAのテキストでも手口解析の項はないのだろうか。


津波と大地震。忘れることのできない3月11日は毎年来ては過ぎ去っていく。

そしてこの近辺になるとやおらメデアが話題を求め地方に走る。

都会の繁栄もいいが、復旧・復興の現状を優先して目を向けてくれと、

現地取材の著名なテレビキャスターやアナウンサーたちのインタビューに答える自治体の職員がおられる。


無償ボランティア

汗の代償を求めない若者たちに感謝しつつ当時のファイルを読み返すと、話題から消滅しそうになっている3月11日ならずとも想像したくない出来事がある、

不発に終わった教員退職金1%天引き騒動

地方の複興支援の原資にしましょうと、定年間近で日ごろは36協定破ってまで、長年奉職に全うしておられた学校の先生達に対して、翌年春に支給されるはずの退職金は、夢にみるほど有り難い存在であるし奥さんも大喜びする筈だった。
退職金額の1%を、復興特別枠天引き制度とするので、ぜひ協力して欲しと行政の呼びかけに
埼玉県や東京など多数の教育委員会が、自分の監督する教員たちに協力をお願いできないか、と働きかけたことがあった。
先生たちは仰天し、スワ!イチダイジ:生徒たちに教えたことのある「権利は主張すべきだ」とばかりに、退職金は満額獲得すべき、と翌年春の正規期日を待たず、その前年中に全員ではないが、該当する定年先生群たちは、退職してしまったのである。
特別協力金を逃れたニュースは、一般紙よりスキャンダルが好きなスポーツ紙が大きく取り上げ、全国紙の社会面では遠慮げに小さく報じられた。
一方、タイトルに、「繰り上げ方式で、退職金を満額手に入れた校長先生の心は如何に」などと記述した寺泊会だよりに反応したのだろう。
善良陣からのクレームもあって、以降の追跡は他のメディアに譲った事があった。
退職金天引き騒動は強制ではなかった。先生の善意は、当時の退職金給付対象者全職員の協力があれば、支援の薄い住民の補助になったであろうになどと、静観していたが金銭的なアプローチには反対の先生も多数いたようである。
論争を継続する時間のないほど、不可思議なニュースばかりに追われていた大震災後遺症となった。


かつてこの45億円を目標に掲げていたが、そのような論点は、一瞬の話題だけで何もなかったことのように消滅・終了した。追及を持ち出す新聞社も記事になく、行政話もない。不思議なものである。その後大手のベアも決まり、やがて雇用が上向けば、万民からの血税があるからと安心しているのに違いない。それより立法理由を十分満たす法令で、多くの国民が協力するに違いない。それは平成25年度から運用された。
平成25年から平成49年まで
:平成遺産は今後も24年間継続し終わらないかも
あなたも復興特別所得税協賛者
基準所得税額X2.1%が納税金額
平成の文字も使う機会は来春から激減してしまうが、国税庁から発信された「個人の方に係わる復興特別税のあらまし」は平成時代の話として誕生し、このあと30年近く消すことはできない。
「平成25年から平成49年まで各年において予定納税基準額が15万以上である方」は所得税及び復興特別所得税なる予定納税をすることになっているから、通常の所得者万民が該当納税者となる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ・◆・復興特別所得税・退職金提案不発弾・巨大地震・巨大津波
   ・◆・すべては平成23年3月11日14時46分が源である

寺泊出身スター杜氏巨大地震の実体験
記憶から消えない3・11の酒蔵
震災当日の2011年3月11日、福島県の老舗酒蔵で仕込み作業中の寺泊・野積生まれの杜氏さんがいた。

 
 
福島の銘酒自然卿を造る寺泊出身の杜氏「高綱 強」さんの地震・原発と酒造り人生 再現記事



現役スター杜氏・高綱 強さんは寺泊会で語ってくれた。震災当日、大きくゆれ動き、のたまわる酒蔵を思い起こしながら・・・。  福島の地酒・大木大吉酒造の自然郷はネットでも入手可能だがすぐになくなってしまう。

地震当日は、酒蔵の床にへばりつきながらも、この酒の命を守りぬいたという。

◆揺れが収まっても、なかなか蔵から外に出てこない高綱さん。

◆ほかの従業員が案じ、師匠は仕込み樽に押しつぶされて、死んじまったのだろうかと
言ってたそうである。

馬鹿いうな。死んでたまるか

 

おれは大揺れの最中でも、仕込み樽にホコリが入らないように、
周りを養生していたんだ、と堂々としたものである。


その2011年3月11日、金曜日.一億総日本人の誰もが、重い経験を味わった。ショックを受け脅威におののき、怒り苦しんだ。僅か数年の経過で、これから逃れられるほど軽いものではない。


映画でしか見れなかったような、波に飲み込まれる家屋と失われ行く自然。メディアは、これを映像にし、繰り返し流し続け、人間が受けている、現実の悲惨さを報じている。家族を失い、建物を流出。取り返しのできない惨事。加えて、福島の原発事故。格納庫には、酸素がないので、水素だけで、安心ですと、時の総理大臣に説いたお仁は、やがて更迭された。時折、比較される言葉は、チェルノブイリである

 

 

日本で一緒に仕事をしていたロシア出身の親父もチェルノブイリで原発関係の技術者だったそうで、福島に関する、地震直後に発行された現地報道の新聞を見せながら、近くの森がやられている筈だと言ってたがその意味が理解できたのは数年もあとになってからであった

 

以降の原稿は2019年2月に、理由なく外部によりページの前後や記事が抹消されたため、ここまでで終わりといたします。なお暗い画面に加工された場合には非表示処理としますのでご了承下さるようお願い申し上げます。

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 東京寺泊会誕生物語と歴代会長の顔ぶれ


 寺泊会創立64周年記念稿


昭和32年〜平成30年

 

詳説・東京寺泊会物語

・・

 

・・・・・・・・・・


初代小林源次郎から9代外山健太 

 

そして平成30年は第10代会長期

 平成時代終盤

・   珍現象の寺泊会!

 

会員増えねど新客多し

・・

(創設者に感謝しながら、65周年記念大会まであと2年)

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

初代 昭和31年〜33年

寺泊会創設の父・小林源次郎の夢


昭和29年(1954)大田区糀谷で奮闘する越後出身の実業家がいた。
小林源次郎氏、愛称「コバゲン」がその人である。
自分の生まれ故郷「てらどまり」に人一倍の愛着を持ち、
その想いを大切に育てあげる。

 

 

 

 

 

今から丁度100年前

  祝言の儀を挙げたのは大正7年(1918年)7月である。

嫁さんは寺泊の磯町・本間定吉氏長女の幸さん(16歳)である。

波乱に満ちた長年月を共に忍び生涯一緒に協力してくれたことが、これに勝る満足は無かったと自身の回顧録で述べている

(祝言当日の小林源次郎氏  写真提供=ご家族)
 

序章

これは功成り名遂げた男の想いが

東京寺泊会創設に至るまでを、ご家族協力の許に

史実考証を加えながら制作したドキュメンタリー物語である

 

コンセプト

ふるさと寺泊町の平凡な日常ニュースを

東京にいる仲間に毎月伝える新聞を作りたい

 

コバゲンは年を重ねるたびに「寺泊の身近なたよりを、
遠く離れて生活している同志に何とかして伝えたい」と
事業欲の如く郷土愛に対する情熱の炎をたぎらし、
常日頃から、その手段実現を夢見ていた。

日本海・寺泊にあるコバゲンの菩提寺・聖徳寺・窪沢泰忍住職に

その思いが届いた。
当時聖徳寺では、「寺だより」を発行していたが、
その内容は専ら檀家さんの年忌情報などのたよりで
「ふるさと」に特別な重きをおいたものではなかった。

「資材は自分が提供する。是非とも形ある新聞を作ってくれ」。
説得に力の入る小林源次郎氏。
住職は熱意に圧倒され
「郷土史家の青柳清作さんが記事協力して下さるなら」と
制作を約束。
かくしてコバゲンは
「寺泊ふるさとだより」誌の発刊スポンサーとなる事で
創刊約束を取り付け笑顔で帰京した。


小林源次郎氏の次なる野望

やがて輝かしく創刊号が誕生したのは、
これから更に2年が経過した昭和31年の秋であった。
待望の「ふるさと」の新聞も出来たし、このあたりで
在京寺泊人を集め組織的な「寺泊人会」を作りたい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小林源次郎氏の夢は更なる意欲へ膨らみ、膨張が止まらない。
次の瞬間、黒電話に手を伸ばし行動に移す。
「お寺につないでくんなせ」遠く東京から

寺泊郵便局の2階にある女性交換手に電話が入った。

当時の電話は、まず郵便局2階交換室の装置にランプが点灯

交換手はそこにジャックをさして寺泊局ですがとつなぎ

「○○番につないでくれ」とか「○○さんにつないで」との声を聞いてから

交換手が相手の電話を呼び出してやっと互いに話が伝わる

そして長距離電話(市外局)からだと3分の通話料がやたら高く

寺泊の町中探しても、電話機のある家はそう多くない

 

小林氏が経営する工場から、聖徳寺への電話はまだ続く。
「寺泊出身者の会やるすけ、

そっちからも案内書出してくれや」
聖徳寺の窪沢住職にドスの効いた声が入る。
「どこでやるなさるかね」。
「おめさんの顔で、どっかいいとこ、ねえかね」。

//
更に小林家の年忌情報から、檀家さんの婚礼話しまで、賑やかな会話が弾んだ。

                (^^♪   

         ▼

       

                         ▼                     

         ▼

・      

      ▼

・・・・・
住職は電話を切った後しばらく思案し、さて初回寺泊会の場所を
どこにしたら良いもんかと、浅草の西徳寺に聞いてみた。
ここは昔、聖徳寺の次男が、初代の住職に就任した寺である。
戦後復興の最中ながらも、寺院本堂地下部分は戦禍に晒されず、
十分な広さを保っており、
「寺泊人のお役に立つなら無償で提供しましょう」との
有り難い返事をもらい、すぐ小林氏にこの事を伝えた。

 

(後年開催された、畳の座敷に上座有りは即ち典型的な寺泊会お膳スタイルのイメージ写真)

                     

「東京寺泊人会」の幕開けへ
60年前、聖徳寺から寺泊人会開催情報が発信され
東京大田区・西蒲田在住の下鳥ハルさんにも1通の
案内書が届いた。


これが最初のハガキに書かれていた文言である


「東京寺泊人会(東京誌友会)のご案内」
  期 日 昭和32年5月19日(日曜日)
  会 場 浅草・西徳寺地下堂
  会 費 百円也

・・


これが今日ある「東京寺泊会」の源流となり、爾来60年以上もの間、
10代の会長に引き継がれ連綿と続くのであった。


下鳥ハルさん(旧姓・新谷)はお子さんがまだ3歳の頃で、
長女と一緒に参加した30代の当時を昨日のように思い出す。

ご本人は2019年には100歳を迎えられるので、取材申し込みしたところ

「どうぞいらっしゃいと」のお元気な声で返してくれた平成30年の暮れである。

(下鳥さんのインタビュー記事は、2019年春以降掲載予定)


久し振りの寺泊弁が浅草の街に飛びかった。出席者の顔ぶれは、
20人以上の男衆に混じってご婦人たちの熱気が伝わってくる。
かつて郷里寺泊で見覚えのある懐かしい顔。


自己紹介には「屋号」を使ったりして和やかな集いとなった。
初代会長となった小林源次郎氏は終始興奮気味であったが、
写真撮影の際には「皆さんが主役」とばかりに後方に立たれる。
その優しい心遣いが商売繁盛の秘訣だったのだろう。


 

 

 

 

大正末期から戦前戦後と続く

小林源次郎氏の経営信条は一貫している。

「人の損を自己の利益にするな」・「損をともに」

が常に継続条件である。

 

 

 

大戦直後の長者番付

 

内閣府における億万長者(当時は千万長者だったろうが)の初版発表は昭和23年(1948年)である。貨幣価値が1/100の頃だと言われていても、年収ベースで稼いだおじさん達トップの最高額は3500万円であった。職種は織物販売で稼いだようだ。現在の35億円相当か。昭和22年中における当時の税率は75%となっていた。

トップは、世間の必要物資であった「カヤ」や衣類材料「人絹」で儲け日本国トップになった。10位となると1336万を稼いだ毛織物業であった。

 

◆配給や公的支給品だけでは間に合わず、良く耳にした、闇市(ヤミイチ)があっちこっちで行われ、官憲として働く取り締まり官だけではとうてい間に合わない。コレが戦後の、どさくさ時代の成金(ナリキン)を生む事となったとされる。

真っ当な仕事に取り組んでいる、小林源次郎氏とは全く異なる別世界では、社会倫理が確立されない当時での犯罪は後を絶たない

◆越後でも、窃盗・強盗からヤミ米食料横流し・無許可販売・食管法違反事件など、越後でも多発し違反者に対する逮捕拘留で検事も休みがない

 

◆インタビューファイルから、新潟地裁検事の経歴を持つ、越後赤塚(現新潟西区)出身で、戦争直後の検事だった真田康平氏によると、戦後世間皆の心が乱れ、生きるために犯した罪を断じる難しさに加え、裁く手段の荒っぽさに溢れていたのだ、と語っていた。現在と違い、逮捕拘留したら、早朝から深夜まで時間無制限に取り調べたり、法廷に立つと被告が同じ村に住む知人だったりと、犯罪者の多さに悩まされる事もあった。

同氏は退官後に弁護士として活躍されていたが、すべて知見の糧になったとも懐古しておられた。

 

 

寺泊会創設者が戦後初の

全国長者番付に登場・東京では3位

「人の損を益とするな」の強い信念で日夜熱心に仕事に精を出し、

 利益を出した小林源次郎氏の名前も長者番付に登場した。

 

だが番付に登場した多くの長者が、真面目に申告していないことはすぐばれてしまった。

彼らは過少申告と指摘され修正し、多額の追徴課税を支払わされたのである。

小林だけは、信念で稼いだ、自分の収支申告に、間違いはない筈だから、この課税額はどうもおかしい、と税務官に異を唱え、全てを、再計算をさせた結果、何と減額処置を受けたのである。日本の長者番付で,最初に減額処理をさせたのが寺泊人となった、

 

長者番付発表考察

小林は戦後初となる1948年の高額所得者番付で、全国13位となり、東京では3番にランク付けされた.

税額の570万は、現在の貨幣価値にすると数億円の課税だ。(同氏の自伝より)

即ち小林源次郎氏個人(当時商店)が前年(昭和22年)手にした現金が億単位となると、当時の紙幣で1万円札はなく、千円札も偽札事件で印刷停止中だったから、100円紙幣(百円札)しか使われていないはずだが。

さぞかし札束が、山のように積まれていたのであろう。

 

ここで組織を法人格にしようと決心し、「小林金属産業株式会社」として、法人登記に踏み切ったのである.

資本金の「19万5千円」は平成時代なら初任給にも満たないが、

終戦直後の会社法で、認められていた法人資本金の最高額だったようだ。

現在では想像もできない金額が、戦後日本復興のスタートである。

 

◆この翌年の番付1位になったのは、貸金業で巨額の利益を出した

森脇将光で、昭和経済の歴史に良くも悪くもその名を残した。

 

物資少なき時代でも自身の会社では、野球部があり、ここには当時の寺泊町出身の若者たちも就職しており活躍させた。


 
 

法人格にしたあとも企業成績は著しく伸びてゆく。翌年には次男の喬嗣氏(後の社長)を慶応普通部に入学させた。

2年後には資本金も400万になり、当初の社名に源の文字を追加し、「小林源産業株式会社」とした、

 

やがて資本金1025万、年商20億近い会社へと変遷した取引先を日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)に限定し、経営理念はぶれることなく、銀行からも絶大な信用力を付けるに至ったのである。

 

コバゲンは自身の経験で独創的なノウハウが有り、鋼材・屑鉄材調達には市場を独占していた。
 

凡人経営者だったらこの材料を顧客=日本鋼管の競合先となる大手企業に併行販売してしまえば、短期間しか持たないかも知れないが、利益は2倍3倍と容易に拡大するので、これを選択するだろう。

これを良しとしないコバゲンの経営哲学が実を結んでいた。鋼管の経営層も

「あなたがわが社にそこまで本気なら、当社も今後浮気することなく、コバゲンさんの会社から仕入れましょう」と言っていたに違いない。

ふるさとの中学校へ自動車を寄贈

  純粋に喜ぶ機械好き少年たち

昭和30年初めころ、小林の郷里である寺泊中学校では、生徒たちの間でにわか話題になった出来事がある

自分達の学校に何やら自動車が寄付されるというではないか。噂は町中に炎上し、そして本当に実現したのである。

玄関中央にある掲示板を見ると「自動車クラブ員募集」の張り紙が大きく張り出され、部員を募っていた。この掲示板は先週までは

「皇太子ご成婚」の見たこともない大きな、活字見出しの全国紙1面がはってあったはずなのにと思いながら、張り紙を眺める少年たち

昭和30年代初頭、市場にはまだ乗用車が少なく、国産自動車の多くは小型3輪か4輪車中心となって、国内総生産台数の60%も占めていた。

 

平成30年:厚労省発表の賃金雇用統計とは違って、信用できる統計で記録を残したであろう、年号前代の昭和30年度、自動車保有台数データによると

昭和30年度の自動車保有台数(全国総数)=約150万台となっている

・概算内訳

普通車=約16万台、小型3輪車=約43万台,小型4輪車=約9万台、

バス=約3万台、その他は、特殊自動車として保有台数の記録が残されている

即ち、このうちの1台が、三島郡寺泊町に来たことになる。


待ちに待ったフロントボンネット式小型4輪自動車が学校に届き、まるでロボットが転校してきたかの如く、取り巻いて覗く少年部員たち。

部員もそうだが顧問の先生も興奮気味。

 

放課後はグランドが自動車の構造を勉強する場となった。

顧問の先生は免許を持っていなかったので、移動には運転経験があり技術担当の宮村先生が操作し、グランドへ。後部オープンの小型4輪はクッションのききこそイマイチだが、楽しくてしょうがない。

部員たちはワクワクしながら、荷台に乗る順番をエンノー(じゃんけん)で決め、いざ順番が来たら、運転台の屋根の手すりにしっかりとつかまって、振り落とされないようにしていたもんだ、と懐かしく初代自動車クラブの少年たちが情報を提供。

情報提供者たちからの電話は更に続く。

室内にはニスを塗ったような木製で組み込まれた印象で、始動はセルでなく、正面からクランク型の棒を回した覚えがあると加える。学校から帰宅して夜フトンに入っても、H型構造クラッチの練習をしていたなあと、話は止まらない。細いボンネットにこれでもかと言わんばかりにせり出した大きなタイヤとヘッドライト、車は濃い緑色をしており、全くの新車ではなかったが、中古感はなかったそうである。

さすが60年過ぎた現在でも、自動車クラブでの強烈な印象を忘れていない、と感心するしかない。

 

初代寺泊中学校・自動車クラブ(後方矢印=寄贈された小型4輪自動車)撮影推定:1959年頃

 

                ◆◆◆◆
 

 

 

次は100年続く寺泊会を作らねば

 

 

 

昭和30年の小林源次郎、郷里への想いを寄付活動を具現しながら、そろそろ東京にいる寺泊出身者に声をかけ交流の手段を考え始める時期か、と考えるようになった。

これが東京寺泊会誕生の源として、徐々に拡大の途を歩みだすのであった。初回大会の昭和32年までには何回か寺泊町に行ったり下準備に余念がない。

 

 

 

 

 

自身の趣味は釣りと車整備と運転である。これでふるさと寺泊町へ何回通ったのであろうか。

しかし当時は、関越自動車道が開通していないから長いトンネルもない。デコボコ山道をほこりを巻き上げ、いざ寺泊へと何時間もかけて運転していたに違いない。ご苦労な話である。

 

 

 

さて聖徳寺の住職にも話をつけたし仲間達にも連絡した。かくして浅草の西徳寺での第一回東京寺泊会大会は大成功に終わった。

 

◆だがこの頃から夜中に時折呼吸が苦しくなり、目を覚ますことがあった。

いつもの事だろうとさほど気にもせず放置していた。小林はかなり前から、心臓障害と闘っていた。これが2年後の昭和33年に予期せぬ運命を迎えるとは、誰もが想像していなかった。

 





◆外見は屈強そうに見えた小林源次郎氏であったが、
実は持病が幾つかあり、高血圧症と心臓病がそれである。

事業拡大より息子の結婚の方が先だ

 

このままの状態で、もし自分の体調が更に悪化したらと危惧

商売は順調に繁盛しているし他に問題は無い現状だが

唯一、後継者問題について、深く心配する小林であった。

 

◆長男は1歳の誕生日を見ないで亡くなっていたので

次男にその将来を託していた。

だが彼は成人式を終えたばかりでまだ若い。

事業継承の前に、我が家の嫁とりだ。息子も結婚すれば

俺のように夫婦二人で支えあいながら、事業を継承してくれるだろう

ある日の夕食時、息子の喬嗣氏(後の社長)を前にして言った。

「お前だれか付き合っているひとは居ないのか」

当時次男はまだ三田校舎に通う大学生であった。

真顔で話す突然の質問にびっくりしながらも、同じ慶応に通っている

東京出身で、親しいサークル仲間の彼女の事を親父に話した。

「大学同期か・・、よし、お前、その人とすぐ一緒になれ」

即ち、彼女と結婚せよとのことであった。

 

 

何事にも、こうと決断したら実行が早い源次郎氏は

即結婚準備だとばかりに次の手を打つ。

せっかちそうに人さし指で、黒電話のダイアルをまわした。

学生結婚の道へ

 

晴れて華燭の典を挙げたのは、この日からそう遠くではなかった

若い夫婦は大学同期で、互いに昭和11年生まれ。

学生結婚となったが、気も合うし、価値観も一緒である。

 

爾来、事業継承の多難さを二人で超えながら、平成16年に

喬嗣氏が亡くなるまで、息子は節子夫人と

平和な人生を過ごすのであった。

 

小林源次郎氏倒れる

 

■昭和33年(1958年)正月

さて小林源次郎氏、一方では時代を先取りした事業の隆盛で、
休む暇なく仕事に忙殺され、昼夜をかけ激務が続く。
初めての寺泊会が無事終了した年の秋、予期せぬ突然の発作で、
絶対安静の状態となってしまった。


その後は一時回復に向かっていた。しかし容態が急変したのは
翌年の正月を過ぎ、寒い日が続いていた頃である。
昭和33年1月22日、誰もが信じ難い悲報を聞く事となった。

ありし日の小林源次郎氏

小林は生まれながら持ち合わせた溢れる経営感覚と商才を

青年期から発揮し、大正・昭和半ばまで全うした。


23歳の若年で八丁堀に事務所を構えた時代には

第一次大戦による市場高況期を利用、これを足掛かりに

伊豆半島下田沖での沈没船引き揚げ事業に係わり

スクラップした時を査定し利幅が見込めると感じたら

大手都市銀行、商社筋を集め売買交渉契約のセリを実施

これで1億(現行の貨幣価値換算)を超える利益を得て顧客を喜ばせながら

日本国に散在する廃材利用に貢献、何とこの船は

明治維新の動乱で沈没した新鋭型アメリカ船であった。

磯町在住の若い娘さんと祝言を挙げたのは

この後である。

◆「初回東京寺泊会(誌友会)」ではあれだけ元気だった会長が、
2回目の大会を見ずして急逝された。
波乱万丈、62歳の生涯は余りにも短かすぎた。
これからやりたい事、残して来た事が山ほどある。
無情で深い悲しみの念は、言葉にならない程の衝撃として、
誰もの心に突き刺さった。

  

       ◆・・・・◆初代小林源次郎の項おわり◆・・・・・・◆

 

 

  ◆制作協力            (文中一部敬称略)

    写真関連:小林節子 様

        :古川原サキ様

        :下鳥ハル 様

        :聖徳寺  様

        :寺泊中学校 自動車クラブOB 様

      出典:戦後億万長者の盛衰(平凡社新書)

                        :小林源次郎・人生回顧録

・・・・◆

 

 



懐かしい写真が物語る東京寺泊会の変遷



初代会長亡き後、偉大なる業績を残してくれた
寺泊人の魂を受け継ごうと
「東京寺泊会」は1月に新年会、5月の総会、10月の秋季大会と
不定期ながらも、年3回も開催された年もあった。

 

軍歌歌手登場時代

 

 

昭和30年代の寺泊会はほとんどが、畳のお座敷で執り行われた。ご婦人たちは歌舞伎座へでも行くような道行コートに絵羽模様の羽織姿でご来場、お座敷には、流行りの歌手を迎えるなど、カラオケ装置なくとも立派に宴会時間を楽しんでいた。当時○○会の集いといえば、戦友会が各地で催され、そこで唄う軍歌歌手さんは日夜奮闘の大忙しであった。寺泊会も人気歌手・壽川有里さん(キングレコード)をゲストに迎え、司会さんは大きな日の丸旗をかざしながら、宴を盛り上げたのであった。手拍子に日本酒・お膳料理が似合う光景も寺泊会の歴史遺産か

(写真提供/古川原サキさん・第5代会長古川原実氏夫人)

 

 

2代 昭和35年


初代亡きあと2代目の会長なり手が見つからずで、任期を1年限りならばと受諾したご仁がおられた
昭和35年になると、立派な髭をお持ちの古川原与市氏が就任し、本当に1年で退任された。
ラジオでは蔵前国技館から放送される大相撲に人気があり、大鵬が新入幕で星をのばした時代である。

寺泊では青木山、弥彦山の四股名で、野積出身の相撲取りが話題となった頃でもあった。寺泊町では高綱三作が12代町長をしていた。やがて1年が経過し、寺泊会では新会長さんを迎える時期となったが、相変わらず難航していたようだ。

                                                     

               ◆・・・・◆

 


・・

3代 昭和36年〜48年


昭和36年、第5回寺泊人会で会長を継いだのは、
小川町出身の田村元嗣氏。
当時は川崎市に住んでおられ、
東京レース(株)を経営していた。
日本橋にある本社が寺泊人会の連絡事務局を兼ね、
案内書や写真の郵送なども会社の住所から配信されていた。

以降しばらくは田村氏が会長職を務め、
会場も靖国神社や三越デパート
熱海温泉などで、多彩な企画を設け、
12年間会長を務めたのである。

 

 

4代 昭和48年〜57年

昭和48年、田村会長から引き継ぎ
新会長となって牽引役を担ったのは、
松沢町出身の石垣作一氏だった。

石垣氏は明治40年生まれ、66歳であった。
寺泊を離れ、柏崎や神田で調理師の世界で
修行し33歳で独立、
会長に就任した当時は、
江東区深川にある富岡八幡宮前の一等地で
参拝者が行列するほど名物の「とんかつ」専門店を
営んでおられた。



この頃から古川原実氏(磯町出身)は
寺泊会の運営に積極参加し
正義感溢れる心情を折り曲げる事無く
意見を述べる姿が魅力を呈した。

やがて昭和57年、石垣氏が退任し、

5代 昭和58年〜平成9年

古川原実氏が5代目の会長として
永きに亘りその手腕を発揮、東十条駅近くで建設会社を経営しながら

役員たちをここで集め会合を開いていた。

これからと2代先に寺泊会を継承する橋本は、まだ40代後半で、当然の事ながら最年少だったが

案内書封筒あて名書きになると、手書き入力が続いていた頃である。

文書類は全て手書き文字の書類で、会員の住所一覧も初回から継承してきた遺産を

使用しており、ここで初めてワーブロなるものを提案し、住所ラベルと一緒に持参したところ皆が驚く始末であった。ここに電子媒体が誕生の感があった。

豪気で面倒見の良い性格の古川原会長のもとには、歳暮時期になると会社応接間には数え切れないほどの進物があった。

仕事がら気の荒い職人さんたちを束ねたりする事に長けており、いつも正義感を貫いておられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会長職退任後も平成16年度の第49回大会までご夫人を伴い,毎年欠かさず熱心に寺泊会に参加され、名誉会長さんとして大会をゆったりと楽しんでおられた

 

                   ◆・・・◆

 

6代 平成10年〜16年

更に平成10年から
三上喜久治氏が踏襲した。

三上喜久治(松沢町)は6代目として、創立50周年記念大会までの期間を会長として活躍された
大田区羽田の自社工場でレーザー加工会社の経営に携わっている英寿製作所@Hp
最新鋭の設備は、文系の編集者では説明に自信がないが、2次元レーザーを馳駆して微細で高度な技術を備えておられる。
一方では町工場で高名な蒲田に隣接する羽田の土地柄、神社や交通安全から選挙投票立ち合いと多忙で、義理堅い性格が、町内会の重鎮として信頼厚く親しまれ、加えるに酒豪でもあり、己の人生を謳歌しておられる。
50周年では郷里寺泊の和太鼓連、25人も手配した。東京寺泊会創設以来の賑やかな太鼓の音が、芝・増上寺近くにある大門の通りを轟かせ、寺泊会の存在感を高めてくれたのが印象に残る。

 

 

 

第6代会長が務めた成時代中頃までの、宴席はテーブルに灰皿が必ず用意され、食事中でも喫煙が当たり前の光景であった

寺泊和太鼓連が江戸に勢ぞろい
この頃からいわゆる企画モノが人気を呈し、その先鞭を作ったのが6代。会長の三上氏であった。
まだ寺泊が町だった当時で、町役場と寺泊会は一層の距離を近づて行くことになった。

 

7代 平成17年〜23年

創立50周年を機に第7代会長へバトンタッチ

■温厚な第6代三上喜久治会長は、第5代古川原会長時代の副会長であった。寺泊会の会長継承プロセスは、副会長から会長へ・・この連続である。即ち、時の会長が継承者を指名し,役員会承認を経て、すべてが決まる。

■第7代として受け継いだ橋本寛二も同様な手順で継承した。コミュニケーション構築のコンサルで、企業に硬派な、品質・環境マネジメントの審査登録支援を生業としながらも、軟派な歌舞音曲好きな橋本は、新潟県人会では芸能大会の司会を発足当時から5年連続で担当するなど、お馴染みの顔であった。ところが十日町や糸魚川など上越地方出身者のように、舞台に出て演じるような民俗芸能好きが、寺泊出身者には少なく、毎年芸能大会の舞台で司会を務めながらも、一度も寺泊人の出演を舞台で紹介することがなかった。近年、長岡市地域振興課の協力で、ようやく郷里の酒造唄に辿り着くと、早速、寺泊会の交流会や、新潟市内のトキメッセでのステージで披露する機会を得るのであった。寺泊会の宴席に若いアーティストを呼び込んだのも、このころからであった。



■東京寺泊会だよりの制作開始は、寺泊出身でNHKの大越健介さんが、NY支局を経て日本へ戻ったころであった。何人かの周辺のロビー活動し、渋谷の放送センターでのインタビューに成功した。ご本人は本番前の多忙な時間だったが、

 

 

社食で冷しラーメンを食べながらも、心良く迎えてくれて、寺泊談義に入り、ネットに掲載するやアクセス沸騰。現在も毎日アクセスは途切れることはなく、継続している。寺泊会だよりは、もともと寺泊に関した、歴史文化芸能や行事の宣伝のつもりで発行していたが,

実際は寺泊に関心のない読者も相当増えて、著名作家や画家などもことあるたびに取入れ、いわゆる飽きさせないにはどうしたらいいかを、常に考えて制作するに至った。ネットの威力を十分甘受しており、これほどまで読者が増えるとは想像もしていなかった。

(写真掲載・番組編集部許諾済)






 

■だが、東京寺泊会だよりは斬新な発想でなく、その源流は60年前、初代会長小林源次郎が提唱した首都圏在住者向け年忌情報などを伝える「寺の、お檀家だより」である。時代は変わってネット配信の利用で、印刷費なし、郵送費なし、要るのは記事制作の手間と好奇心、僅かな感性と古い資料集めに使うハズキルーペだけ。これが、B型人間に合致する。誤表現クレームに躊躇せず、読み手側からのモンクを、ありがたきご教示と受け止め、感謝しながら迅速に修正処理。文芸誌会社からは東京寺泊会だよりを、出版させてくれとセールスが来る。だから寺泊にこだわらないで多様な原稿を作ってくれとお願いされる始末。まさか日本全国で検索ワード知名人になるとは。

■検索数が50万件を超えたあたりから、広告スポンサーをつけワンクリック100円でも課金できたら、たちまち5000万円10円でも500万、1000円なら5億になる計算では、と提案してくれたのは外山健太氏であったが実現しなかった。

IT業界とは、これに似たようなプロセスアプローチで儲けているのかと地団駄を踏み、6本木の高層ビルで役員会を開催できる長者会になり損ねたこてねと度々役員会の話題になっている。


■橋本は、寺泊出身の杜氏組合を寺泊会に招いたあたりでは、自らの会はもとより、OB会、同期会、同窓会、県人会、良寛会など大小雑多な会の雑務をこなしていた。しかしながら7代会長としての持論・会長任期6年説(3期)を貫きたかった。郷人会、同窓会は、会長が交代をする度に、これを機にと別の仲間が入会するのが定番である。従って任期6年程度が最適であろうと、次期会長をネットで公募したが適任者は名乗り出ず、慣習どおり、小林秀雄氏(当時副会長)に会長をお願いしようと思案していた頃、3.11 東日本大震災があり、寺泊会は創設以来初めて中止せざるを得なかった。待望の新会長が誕生したのはその2年後となった。

 

8代 平成24年〜27年


■平成24年4月の寺泊会総会で第8代小林秀雄会長は誕生した。それまで副会長だった、小平在住の小林秀雄氏の継承で、小林源次郎寺泊会創設60年の歴史も健在であった。新会長の小林秀雄氏は、寺泊・白岩に先代からの土地を有しているが、寺泊で幼少期を過ごしていなかったことを多少は気にしていた。寺泊会は、初代会長から7代目までは、全員が佐渡島を仰ぎ、浜辺で遊んだ所謂寺泊育ちであった。東京で生れ育ち、広大な土地や資産を所有する小林氏は、この俺でいいのかと、何度も固辞したが、役員会は御先祖がお住みになられた寺泊の為にと、嘆願説得を2年間継続後の実現であった。



■新会長の小林はあらゆるシーンで、常にトップの座での君臨がよく似合う人物。小平市議会議長、小平稲門会(早大校友会・37商)副会長、小平新潟県人連合会会長、氏が会に所属すると、必ず仲間からカシラの座を嘱望されるコンピテンス溢れた人物であり、寺泊会においても、副会長でおられるより、70代後半前に、第8代会長就任をお願いした。・・・


小林会長は菜の花の咲く頃、寺泊会役員たちを自宅に招待し、食事のあと約3千坪も有る裏の敷地を案内してくれた。

公式サッカ―グランドでも千八百坪も有ればできてしまう。

この敷地に観客席を追加すれば、プロサッカーチームの根拠地になり、アルビレックス新潟ならぬ、テラドマックス新潟が誕生したかもと、外野席からの夢の話が止まらない。

 

事実小林会長さんは、写真の後方に建つ民家近くまで土地を所有しておられ、専業ではないが、季節の野菜などを作ったり、近郊の小学校児童達には、芋ほり体験場として提供してもおられた。

 

一方では広大な敷地において、小平稲門会のイベント会場として、大餅つき大会を開催し、母校の先輩・後輩たちをよろこばせてもいたのである。


 

さて会の運営には独特の意見をお持ちで、毎年恒例となって長年続いた、寺泊会全員の集合写真撮影をこの時から廃止して、第8代時代が出発した。

■会長を補佐する副会長職には、外山健太氏と同期の平石国男氏が継続してその任に就き、
理事5名の内女性4名を携える、華やかな小林体制の役員構成となった。

平成15年度東京寺泊会役員構成

名誉顧問:小林正則・小平市長
相談役  :三上喜久治

相談役  :渡部作治
顧 問   :橋本寛二
会 長  :小林秀雄
副会長 :平石國男
副会長 :外山健太
理事  :石井光枝
理事  :相場要平
理事  :浅見幸子
理事  :上澤一子
理事  :寺坂寛子
 ◆寺泊会は常設役員会を、東京千代田区御茶ノ水に建つ
  ホテル聚楽に置いて不定期ではあるが会合を開催している。
  通常の役員会は日祭日を除いた週日に昼食会を兼ねて招集され
  毎回、会の企画運営に関する活発な議論が取り交わされている。

9代 平成28年〜29年

・・
平成28年4月。寺泊会第9代新会長誕生へ。


寺泊会は内規として会則に基づき、会長任期6年を貫きたかったが8代目の体調を考慮し、2年前倒しでの新会長誕生となった。会長選びはいつもすんなりとは進まない。そんな中朗報が飛び込んできた。

平成16年春めでたく、上田町出身の外山健太氏が寺泊会第9代会長に就任することになったのである。
何しろ会長職は、無報酬でプライベートの時間ばかりを、かなり割かれ、会長になったばかりに、趣味の時間にかけていた時間がかなり犠牲になってしまうから、懐かしい故郷の先人の想いを継承するためにはなると思っても、簡単に引き受けてしまうと即、会合参加のため、ほぼ毎月行事に参加させられる。


行事といえば、行政鳴り物入りで設立された、越後長岡ふるさと会をはじめ東京新潟県人会に芸能大会、これに東京分水会、東京弥彦村人会様とのおつきあいが入る。以前はこれに出雲崎会、小平会、良寛会に十日町会があったが、新会長さんは、更に同窓会、同期会と、ゼミ仲間の旅行会が控えている。
但しご本人は越後銘酒に詳しく、酒席の宴会参加はそれほど、まんざらでもない様子である。まだまだ若い70代前半とはいえ健康第一である。かつての太鼓腹もようやく凹んできて、最近はずいぶん見栄えも良くなっておられる。

就任した外山健太新会長(72)は、日大三島校舎時代の同期に巻高から一緒に入学したマラソンの宇佐美がいた。宇佐美は三島校舎2年時でも、箱根駅伝で4区を走り日大を準優勝に導いている。オリンピック3大会連続出場の話はあまりにも有名である。
新会長になった外山氏は、かつては大手建機メーカーの辣腕営業マンであった。営業感覚に秀で成績抜群で、人付き合い良く、話題豊富である。
在職中には社長顕彰の常連であり、重役会での推薦リストには必ずと言っていいほど、名前が挙がっていた。この意気を今
につないでいるから、会社退職後寺泊会に参加されてからは何年も前から、会長適任者が入ったぞと噂されており、副会長になってからも会長就任の懇願の手を役員会の席でも全員で緩めなかった。

■ところが現職会長さんが体調を崩され、決めごとがなかなかまとまらない日が続く。同期で役員の平石國男副会長にも説得に時間をかけてもらい、これでやっと、新会長さん引き受けOKの首を縦に振って頂いたのである。


寺泊会会長としては第9代目となる外山健太氏

◆初代会長の誕生は昭和の半ばで61年前になる。爾来9代に引き継いで現存している会長経験者は3名だ。
他の会と異なり、会員数の増減ばかりを気にしていないが、内容の有る会にしようと質の向上に励んでいる会である。

◆外山会長の許には、熟年で元気おばさんが多く集まることで有名である。
「熟年山歩きの会」をまとめており、全国の名山巡りにに余念がない。
もう一つの趣味として、無類の花火好きを実証する活躍が有る。
毎年8月の「ながおか花火大会」にはこれまた熟年夫人達を中心に、自らバスを手配し、長岡まで引率しその日は、郷里寺泊の宿に宿泊させておられるマメさには感心せざるを得なく、観光協会の表彰ものである。

◆俺の任期は2年だぞと、会長職を引き受けては下さったが、そうは問屋がおろしまいて。
意思強固で酒豪、まさに高度成長期の熱血ビジネスマンを絵に描いたような人物である。
個性の強い理事陣を束ねて、第9代会長時代も楽しみである。
側面で支える理事の女性陣も皆が好意的で、定期役員会議にも積極参加する、彼女たちは70代の時間をもて余す暇人族と見えても、全員が会の運営には時間を惜しまないで、ボランティア参加している。八王子から毎回参加の女性理事や、水引きアートの名人、お菓子つくりの達人理事さんも、皆が70代のご婦人である。加えるに今年は、上田町清水やさんのあんちゃんこと、清水文隆さんが新理事に加入、再任された平石國男副会長が事務局連絡業務を統括し、新会長を支える盤石なガバナンスで決めており、近隣の郷人会さんにとっては、実に羨ましい限りであろうと推察してやまない。
どうよ。

                                 ◆               ◆    ◆         

 

  平成29年4月訃報相次ぐ  

四月八日 (第9代・現会長) 外山健太氏逝く

四月十二日(第8代・前会長 )小林秀雄氏逝く

 

  

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第37回弥彦村人会11月11日開催

 平成時代最後の大会・盛況裡に終宴

 

 

 

平成最後となった弥彦村人会を仕切った 堀 優会長

多数のご来場感謝申し上げます・今夜はごゆっくり越後蒲原の原風景が主役の、日曜劇場名物のテレビドラマでもお寛ぎください

 

 

 

 

 

ドラマの中での大手企業 帝国重工(社長役・杉良太郎、部長役・吉川晃司、次期社長役・神田正輝)らが絡み合う、BSN=TBS系日曜劇場「下町ロケット」でのロケ・制作部隊をはじめ 佃製作所(社長役・阿部寛他エンジニアや経理部長・殿村役として時折蒲原・燕にある実家の田んぼに姿を見せに来る立川談春、その妻役・工藤夕貴、さらに親父役の山本學らの豪華俳優陣達をはじめ、完成度の高いテレビ撮影にしようと弥彦村もロケに協力している

フイルムコミッション・新潟県弥彦村出身者が開催する東京村人会の基礎となる、テレビの画面構成を見て感想を持つ弥彦村出身者の話題を追った

テレビ画面には、燕市の文字のあとに移動画面がしばしば登場する。そして蒲原地方らしき田園地帯と広大な田んぼ風景、

その遠景に見える小高い山脈、これは弥彦山か角田山か、はたまた東京近郊の山脈かがいつも地元を知る越後人の間で話題になる。蒲原にしては山脈が連ねすぎると思われ、大写しにされた時のコメつぶの形状は弥彦米に似ているしと,とにかく見ているだけで脳が活性化し、興奮の連続であると評判である。但しこれは蒲原人の間でしか話題にならないが。

 

 

 

 

 

 

 

特別協力が燕市で撮影協力が弥彦村と、嬉しいことに毎回エンディングロ−ルに流されるものだから、ロケットバルブの出来不出来はともかく、ドラマ上の農家ならずとも、越後蒲原人にとっては有難く貴重なテレビ番組となっている。

 

本稿には、著作権を十分配慮して制作、TV上で演じる俳優さんのお名前は、一般公開されているテレビ番組表を基に使用させて戴いております

 

 

弥彦村人会

 

入門講座

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本大会は2人の弥彦人による豪快で洒脱な進行で司会が冴え宴会が盛り上がり酒が旨くなる。

 

 

 

 ◆ヤヒコソンジンカイ宴席面描

 

ホスト役として会場を右に左にさりげなく歩を進め、参会者に語り掛ける堀 優(ほりまさる)会長さん

 

2018年11月大会は無事終了.

来年は新元号で募集致します

 

 

 

寺泊会と弥彦会のお付き合いは、いつから始まったか。

それは弥彦会が郷里の中学校同窓会中心から脱皮して以来の話のようだ。春の寺泊会、秋の弥彦会は互いに会長、役員あたりが来賓として招かれたり、招いたりして何年間も継続している。寺泊会も同席して以来その間に弥彦宮司さんは3代も変わっている。

 

平成30年度の弥彦村人会は11月11日(日)にお茶の水にあるホテル聚楽で開催された。


15年度に4選を阻止して当選された小林豊彦村長さん、来春には2期目に挑戦する選挙がお有りだが弥彦村人会に積極参加され、健在で、その巧みな力強い話術にはまってしまう。あの威張らない性格はどこから来ているのだろうか

弥彦村と寺泊町そして

 

 

分水町の履歴

平成の大合併で踊らされた日本全国の自治体は 無数にある。 越後国のほぼ中央に位置する、弥彦・分水・寺泊も例外でない。 寺泊町では、回覧板で新地名公募までやりながらも、3者合併は 実らなかった。

■一方の燕市では、吉田町と分水町との合併に画策が始まっていたから、庶民はどれが本物やらと複雑な感が消えないありさまであった。

◆やがて寺泊町民は長岡市民に、分水町民は燕市民へと巣立って行った。 寺泊の町会議員は選挙に町会議員などが5名挑戦し、先ずは2名だけが長岡市議会議員となり、分水の町長さんは燕市の市長さんへと変身。分水町長さんのリンクは燕市長選挙挑戦物語。

 

だが弥彦村長さん周辺あたりは、合併を嫌って他の血と交わることなく、合併特例分担金も受け取らず発展し続けておられる。越後一の宮・弥彦の神様のお告げか、すべてが吉と出てしまう素晴らしい土地柄である。

 

しかしながら平成の最後あたりに時代が移る頃になると

燕も弥彦も協業で村おこし街おこしに躍起となって、合併せずとも首長の笑顔は消えることなく続いている。観光写真に分水の花魁を使いながら、いざキャッチコピーに全国区の燕を使っても、誰も不思議がらない越後人の太っ腹さがみえてくる。テレビドラマになっても不自然さは残らないのは、はざ木を脇にとうとうと実る稲穂を育てる蒲原平野の歴史物語のせいかも知れない。


 

 

 

毎週日曜に放映されているテレビの人気番組-BSN:TBS系で放映-

-動画解説-{下町ロケッット}では、米どころ越後の農家を仮定し弥彦村は撮影協力に余念がない。TV撮影協力の字幕にその痕跡を残す。

爾来、発展する弥彦の村長は変われど、祝杯の一献を傾ける機会は毎年秋にやって来ることとなった。


方の合併はならなかったが、東京寺泊会と東京弥彦村人会東京分水会の3団体は互いに交流の機会を継続している。弥彦会さんは現在、堀会長へとバトンタッチされ、副会長には羨ましくも、女性陣も加入し他会からの運営見本にされている。
東京弥彦村人会は郷里の、弥彦中学校同窓会を基に、昭和57年11月に創設された歴史ある、弥彦応援隊を自負するふるさと会である。地元行政の援助はもとよりJA越後中央、弥彦商工会・観光協会さんなどが協賛し大会を盛り上げている。
現会長の堀 優氏(東村山市在住)は、中国通で、永年隣国相手の仕事に携わっていた経験を生かし、幅広い人脈で、芸能文化と、会に招致して、イベントに活用させ出席者をあきさせない。

 

弥彦小唄誕生@youtube

37回ふるさと村人会ともなると、総会前のイベントも充実しており、36回大会のフラダンス公演に続き

今年は「及川清三、清乃さんの民謡ショー」が企画され、CD2枚を全員に提供、テンポがゆったりし、しっとりした三弦が魅力的な弥彦小唄で会場を盛り上げ、合唱指導があり全員で唄った。

 


例年ここの会は、ホテルロビーの階段を利用した集合写真で会が始まるが、平成最後の37回大会にはスキップされた。
ホテルとは言うまでもなく、弥彦村と縁の深い「ジュラク」のことである。
お茶ノ水駅に近いこのホテル周辺は、高層ビル建設ラッシュも一段落で比較的静かになった。ジュラクといえば観光地に素晴らしいホテルを構えているが、ホテル業の歴史はそう長くはない。 現在はこのドメインを抜きではビジネスモデルが成立しないまでに発展した。 近年には、新潟駅そばの激戦区でホテルをオープンし好評を得ている越後ゆかりの著名企業である。経営手腕を継承している3代目である。

 

現社長の祖父・加藤清二郎が大正13年3月に、神田須田町で洋食屋開業して以来93年が過ぎた。先代が提唱した、越後に役立つインフラをテーマに設置した弥彦山頂とふもとを結ぶロープウェイも平成最後には現社長同様、生誕60年目を迎えている。

聚楽の歩み・昭和49年刊行より・・加藤治社長提供) 
越後から列車で上野に到着すると、真っ先に駅前に見えた「聚楽」レストランの看板とネオンが懐かしい。そのお孫さんが、ご自分のホテルとは言え、いつも、会の参加者に如才なく振舞っておられる。

あいさつされる加藤 治 聚楽社長。

弥彦村人会は、首長変われど必ず懇親会に、村長さんがご出席。市長さんに12年以上毎年招待状を出しても代理で代用される寺泊会とは大違い。笑顔いっぱいで参会者たちに声をかけるコニュニケーション手法は、本間道夫・安達行雄・大谷良孝 各々の前村長さんのころから小林豊彦現村長さんまで代々
続いている。

 

 

 

 

 

 ◆実際村人会の宴席あたりに交わると、利害関係が少なく本来のリラックス感が最高になるのであろう。

 

 

村の温泉施設は繁盛するは、この村の居住評判を聞きつけ、村への転入・人口は増えるはで、悪い噂は聞いたことが無い。
首長激務の中でも、村政は安定しておられるようであった。加えるに児童の虫歯発生率が、日本全国で最も低いとの実績が評判である。このふるさと自慢は毎年聞かされる。

 

小林豊彦・村長時代爆進中


 

弥彦村は永年、村長選挙無用のまちとして続いていたが2015年には現職に久しぶりに挑んだ新人が、約10歳年上で当選。2期目の選挙は2019年1月27日(日)が投票日だ。弥彦村は無投票選挙が40年以上あった訳だから、村民たちも複雑な気持ちだったであろう。

新村長・小林豊彦氏の2期継続激戦記は、新元号時代の特記事項となろう。村での選挙登録者・6924人のハートはいずれに。



   

かつて総合司会を務めた実力者・武石堅次氏(現・幹事長)は、平成最後の会では、美人館長をお連れしてきた。

)昭和歌謡曲時代を代表する作曲家・遠藤実記念館として、新潟西蒲区の越前浜で実唱館を代表経営している遠藤由美子(娘さん)をくどいてお連れしたそうである。

勇気を出して、来年の5月26日の寺泊会にご出席をと願ったら笑顔で快諾され、寺泊会役員会の自慢話が増えた。どうよ。

それにしても、武石幹事長さんの手腕は、実行力溢れる越後人であると感心、。

弥彦会の宴会は、上から目線で挑みながらも進行が上手いから、終始実に賑やかで威勢がいい。

 

 

司会をバトンタッチした一見紳士風の宮川氏の洒脱な話術で進行され、更にカラオケ宴会となると豪快な高橋幹事も加わり、その盛り上げ方は半端ない。

両氏の宴会を把握する手法は、蒲原人には希少価値かと思わせる。

大会には毎年会長賞と村長賞があり、大会のイベントとして楽しみな抽選会の華となる。



抽選会の名物賞品として存在感ある「超なが〜い、長イモ」が今年も賞品として振舞わられた。見事当てたのは寺泊会副会長

清水文隆氏であった。電車の中では目立つだろうなと多少心配げでもあったが。


  弥彦会と分水会の巨頭勢ぞろい感のあるふるさと想い隊連中

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 



こちらの、だんなさんの御名字は軸屋(ジクヤ)さんである。手にしておられるのは賞品の商品でない。鹿児島産の芋焼酎である。

「鹿児島の酒造の娘と結婚しましてねと、まあ一杯どうぞ」と差し出され試飲。さすがに特上甕(かめ)仕込みである。きめ細かな味で、きりっと飲み応え満点。都内ではなかなか手に入らないそうであるが、ネット注文沸騰中とか。焼酎と言えば、いつもはお湯割りでその上、うめぼし入れて飲んでいたのに、これは何にも入れないでぐいぐいいける。思わずうんめーと叫び、コップで2杯頂いた。それもストレートで。
その名も「軸屋酒造のトップブランド品・軸屋」であった。奥さんの実家が会のためならと、提供して下さったそうな。薩摩の本格芋焼酎発見の会となった。


弥彦神社宮司さんは昨年退任され、渡部吉信氏が1年間の代務ていたが、晴れて神社庁に認定され、宮司さんへとなられた。お見かけより実年齢がかなりお若い。言葉の中に世を見つめている風刺がこめられていて、爆笑しながら、ついつい話し込んでしまう。

ところで堀会長になってから、ここの会は珍しく3人の女性役員体制を組んだ事もあったが多少の改正もした。





 ■歌唱指導や抽選会の賞品授与もされる一柳建子副会長(弥彦)は、闊達で、「この方は、お料理の達人よ」、と周りのご婦人から教えてもらった。宴席で何回かお会いしているが、時折着用する、真っ赤なオートクチュール姿を、今回は披露されなかった。
 

寺泊会お馴染みのマリ姐さんのお酌を受ける金子清郎・元権宮司、おとなりは渡部吉信・宮司さん

 

マリ姐さん平成最後の寺泊会で講演

 

演題=健康長寿で老いない体つくり

 

前立腺肥大予防の極意

 

 

 

もう一人の才女、黒田マリさん(83)は、2018年の寺泊会で講演をしてくれた。長年に及ぶ整体プロの経験を生かし、「長寿と健康」をテーマに1時間近く持論を語ってくれた。中でも「前立腺のなおし方」は頻尿・残尿・無力尿の該当者が多数いた会場一同が熱心に耳を傾けて、その秘策を家に持ち帰りこっそりと風呂場で挑戦した事だろう。

お風呂に入ったらあなたの局部をしっかりとつかみ、右に70回左へ70回と引っ張りながら揺さぶれば、前立腺は手術までしなくとも必ず治せる持論を解説書付きで熱弁。会場騒然と爆笑のヒトコマであった。ご自身は女性なのによくご存じなのねと驚嘆の声仕切りであった。

下町ロケットをのんびり観ている話ではないぞとスタンディングオべーションで寺泊会の講演会は終了した。

 

鍼灸接骨院を経営するマリ姐さんは、弥彦村人会の名誉会長として組織のリーダーシップを発揮されている。自身が経営する接骨院のスタッフには体育会系の若者が多くいる人気サロンスタジオで、郷里にも構えた自らのオフィスと東京・大田区にある本部を頻繁に往復しており、素晴らしい弥彦観光大使の役目を担っているようでもある。女性起用がお上手な、近頃の弥彦会さんであった。駅ではエレベーターを使わない階段徒歩スタイルは、毎日近所のジム通いで鍛えている証拠である。          

宴会場一杯に溢れる熱気と、郷土愛でつながる優しい連帯感が、つい顔に現れる第37回平成時代千秋楽の東京弥彦村人会であった。元号変れど後輩たちに繋ぐべき平成30年11月11日の貴重なヒトこまが脳裏から離れないであろう。宴会のフイナーレには唱歌(ふるさと)で締めくくるスタイルは、正に弥彦の土のにおいがする。

 

 ■情報提供;第36/37回東京弥彦村人会定期総会案内書

 

 本稿には一部29回大会の写真並びにTBS番組配信情報及び販促グッズ(¥750)の写真を使用しております

 

   

 

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寺泊町が長岡市になった日そして歴代町長と高橋誠町長時代

 

その話題45日持ちましたか

 

 

◆我が越後が生んだ世界的スポーツ用品メーカー製のラケットを操る、20歳の人気女子テニスプレーヤーと違って、話題性に乏しいが、首都圏在住の寺泊人は、都民ファーストを旨とする英語は達者な女性新知事の奮闘で、永年、男衆が出来なかった事案に豪快な決断する瞬間に拍手していた。

このころの越後では、現職県知事 VS 新潟日報新聞社というステークホルダー同士の葛藤があり、この話題を定例会見やメディアが取り上げるたびに、居酒屋の桟敷席で話題沸騰する珍現象。(寺泊会は、新潟県知事さんとは名刺交換してるし、一方の地方新聞社の東京支社さんには寺泊会の行事について新聞掲載頂いた恩もあり、大変お世話になっている。)…………………・・・・・・・…………とか言ってたニュースも、半年も経てばもう昔の話としてかすれてしまい

これを話題にすることが無くなっていた頃衆院選挙に焦点が替えられた。

 

◆葬られつつあるこの世相川柳

 

都民ファースト 

 

あたしファーストなのと 本人言い

◆都民ファーストで何が決まり、何に改革されどうなったか、これも時間が経つと、有効性を検証しようにも現物場の評価をメディアの中で災害・事故・不倫などが出ては消えで繁盛中。

多忙で記事にする行間がないそうな。見えないのは当然かもしれない。

イノベーションなる言葉はファーストを旨とするが、期待値程決定がなく見えてこないから居酒屋談義も廻り道をしながら弾ませざるを得ない。

 

かつては小池新党圧倒的多数で日本を席巻などとのうわさを皆で信じていたが、2017年10月22日の選挙で直近の予想通り惨敗。原因は複合的だが、同氏が率いる党員の数は軟体微弱で、景気のいい話とは程遠い。新党創設も維持が精いっぱいでとても保持という訳には行かないく日本外国特派員協会(FCCJ)で得意満面で語った、子供の頃からレデイファーストで慣らされている外人記者相手のプレゼン効力もすっかり薄れてしまい、自国に発信するトピックスにも取り入れていないだろう

 

◆そこで思い出す言葉は、経営戦略の中で取り入れられる。組織における内部外部の課題と利害関係者のニーズ期待の認識の甘さであろうか。

これがあるからものごとは安易に計画したことが実現しない。

成果を出す戦略に使う必須のワードが、武将の時代から科学の時代でも消えないで生きてくる。

親分の脳裏に浮かんだほんの一言が、組織の命運にかかわる懸念の方向へ進むことの恐怖である。経営テキスト通りの実証か。

 

選挙は当選してナンボ

 

◆晴れて千代田区に建つ、議員会館なる夢のオフィススペースを許され利用権利を得た、前新潟県知事さん、知事再選を目指すも立候補を取り下げざるをえなかったニュース以来、その消息はあまり噂にならなかった。

が、政治の世界は知名度が高い人には、強運が向こうから、お土産付けてやってくる機会が多々ある。

◆泉田裕彦氏は知事就任直後に遭遇した中越地震以来、3期知事を続けたのは事実である。

皮肉屋さんが多い寺泊会の中でも、これは野次馬好奇心派の仲間内でしか話題にならなかったが(一期X3の退職金)をお土産に県庁を後にしたということは、県には安定した税収が有るとはいえ、40年近くも汗水垂らして懸命に働いたおじさんサラリーマン3人分の退職金にも達しそうで、知事在年12年分となると決して少額ではあるまいて、などと言いながら盃を傾ける。

だが人間は何億手にしても、良いお誘いあれば次なる道に必ずや目が移る。

 

◆さて件の前知事さんは、2017年10月の衆議院選挙で、長岡寺泊などが主戦場の新潟5区から自民党に推され、当選され 国会議員に変身されたのだから、人生は判らない。

 

長島忠美氏の突然の逝去による補欠選挙で、自民系の候補者は知名度優先戦略で、田中真紀子氏だのそのご子息だのと時間をつやした居酒屋談義を思い出すが、結果オーライで5区は自民勝利へと導いて選挙は終わって行く。結果第一で過程は話題が薄い。

 

 

                  

 

 

故長島忠美氏と寺泊会

 

 

 

◆寺泊会の名刺簿に越後出身の国会議員さんや市長、知事さんなど著名人多数がファイルされている。

参議院議員・森ゆう子、衆議院議員・菊田まきこ、衆議院議員・高鳥修一、新潟県知事・泉田裕彦、新潟市長・篠田昭、等の各氏その他である。名刺交換だけなら、ヨネックスの会長さんは県人会長だったので当然として、なぜか警視総監からモンゴル大使館関係者もおられる。

幸いにも寺泊会として国会議員さんの名刺保管された方はほとんど現役で、会合の機会があれば新役職名での名刺交換ができる。

 

衆議院議員 長島忠美氏の名刺は2枚ある。ふるさと想いの同氏に東京寺泊会でのご臨席賜りスピーチ願いたく、思い切って名乗り出たところ、ここに連絡しておけと、お名前の忠美のところに振り仮名「ただよし」とついている名刺を頂いた。裏面には永田町の衆議院議員第2議員会館の部屋番号と電話番号が記されていた。

寺泊会が同氏の名刺2枚所有しているのは、同じ話を2年かけて2回お願いしていたからである。

だがこの願いも叶わず2017年8月に先立たれてしまった。お別れの会は10月30日(ホテルニューオータニ長岡)に執り行われた。

 

山古志村は寺泊町より2年前に長岡と併合していた

 

◆ここに6年前の新潟5区の衆議員選挙を思い出す。田中真紀子氏(当時民主党)と戦い約3万票差で当選されたのが長島忠美氏であった。山古志村村長さん時代から故郷を大事に想い続け国会議員さんになられても中央からその目は離されなかった。災害復興についても片時たりともその手を休めてはいなかった。

だから寺泊も山古志と同じ長岡市なら、顔を出しましょうとなったに違いない。山古志村さんは寺泊町より2年先輩として長岡市になっていた。寺泊町がまだふらふらしていた当時である。

 

◆元号が変われば平成29年となると話が古くなるであろうが、その秋は衆議院選挙で小池戦略が失墜し自公大勝に沸く。今や小池手法のリスクで生じた機会のみが特出して話題になっている。ここでの機会の意味を翻訳すると「ウラ目」になろうか。決してISO用語で良く使うチャンスではない。

 

寺泊会は当選された衆議院議員・泉田裕彦氏に65周年大会へのご臨席を期待する。その訳は極めて単純である。

補欠選挙出馬が決まった際、同氏の第一声コミットメント「私、泉田は(寺泊さんのいる)新潟5区・故長島忠美氏のご遺志をしっかりと引き継ぎたい」と真剣に述べておられた。

なお(・・・・・)内の声明部分は、声が小さかったらしく聞いた者はいないが。

 

寺泊会にあの新潟5区当選議員さん

ご招待の実現はいつか。

 

◆この崇高なるご故長島忠美ご遺志を尊重される暁を夢見て、党籍にこだわらず当選を喜んでいるのが寺泊会なのだ。

そして寺泊会へのご臨席は、故長島氏が抱いておられた未達の遺志であるとして、次の代で実証してほしいのである。

 

◆これぞ立派な故人のご遺志の尊重ではないか。

幸いにも新潟県人知事時代に名刺交換しており寺泊会をお覚えであろう。

東京寺泊会65周年回大会の開催は、2020年4月に決定済みだ。ご臨席される再来年が楽しみである。

そのために12年前、寺泊の首長さんは、長岡市と合併の道を選んだとする屁理屈は、誰も信じないかも。

 

寺泊が長岡市になった日

 

◆寺泊町民・当時約13000人は、分水・弥彦・寺泊と合併するんだと噂され役場(当時)が新組織名称を公募したかと思ったら、だれもが想像だにしていなかった長岡市民になってしまい、近隣町村との合併は消滅した。

 

がて、寺泊の町長を語れるのは、

 

古老も集う東京寺泊会の宴席での回想談話だけになった。

その話をまとめて編集したらこうなった。

町長・教育委員長・名誉町民・町長・町会議員から市議会議員になった話など、寺泊出身者だけにしか興味ないテーマであろう。

だが寺泊人にしてみると懐かしい名前が登場して面白いとの少数派の評判も有る。

寺泊町が消えた日・・・平成の大合併と閉町式

 

   高橋 誠氏逝去 ・・・・(合併前、最後の町長)享年64


寺泊が「寺泊町」となり、東京が「東京市」になった年は、
共に明治22年の事である。
明治政府による列島整備で、市・町村制の施行を全国一斉に
号令した結果伝統的な地名が消え
合併・編入で、多くの集落は、新市・町村名に変わってしまったが
寺泊町はその名を残し、爾来120年近く連綿と続いてきた。
明治34年には野積村を含む近隣4村と一緒になり
更に昭和32年の大河津村との合併時には、総人口
18000人近い、自治体となったのである。 
平成18年1月1日、寺泊は中越の首都に編入合併
冠に長岡市をつけることとなり、町としての「」の名前は消滅した。

 

「寺泊町・閉町式」は、平成17年12月17日に執り行われた。
高橋誠町長名で、東京寺泊会として招待されたが三上喜久治会長
公務多忙により副会長が指名され閉町式典に単独参加となった。

 

午前10時開会当日の朝は、抜けるような冬の青空で気持ちよい。
君が代斉唱のあと、高橋誠町長の式辞、寺泊町議会議長挨拶、
県知事代理・来賓祝辞に続いて、町政功労者表彰・感謝状贈呈と
荘厳なる閉町式となった
ここで、壇上に掲揚された町旗が、次代を担う寺泊中学校生徒の

手によって静かに降ろされ、たたまれ、高橋誠町長(当時)に手渡された。

◆式典の会場となった、文化センター「はまなす」に集まった
250名余りの町民から、一斉に拍手が沸き起こる。寺泊会のお.となり席についておられた小林 清(元・分水町町長)・前・燕市長は帰路、「寺泊さんと合併の話を高橋誠町長さんらと永年練って来ました。来年は分水も、燕、吉田さんと一緒になるので、閉町式典を行います」と語ってくれた。

◆アトラクションでは、越後最大を誇る勇壮な寺泊和太鼓が、
力強く閉町の雄叫びを轟かせた。


◆寺泊会が入手した公式資料で、大正―昭和の寺泊町時代を懐かしく振り返る。現在の長岡市職員でも興味はないであろうが。


   ▼寺泊町(旧)の歴代町長・最長は高橋氏

     初代町長  柳下安兵衛    
     2代目  本間健四郎   町制施行〜大正4年
     3代目  神林津三郎    
     4代目  桑原源治 大正4年7月〜5年11月  
     5代目  柄澤政雄 大正6年1月〜6年6月  
     6代目  寒川卯之七 大正7年9月〜10年10月  
     7代目  大平廣弥 大正11年1月〜昭和9年1月  
     8代目  治田竹治 昭和9年1月〜13年1月  
     9代目  竹澤茂一郎 昭和13年1月〜18年10月  
   10代目  外山勘兵衛 昭和18年10月〜21年11月  
   11代目  大丸常松 昭和22年4月〜25年6月  
   12代目  高綱三作 昭和25年7月〜41年7月  東京寺泊会創設期
   13代目  藤田子男 昭和41年7月〜53年7月  
   14代目  中島甚一郎 昭和53年7月〜63年6月  
   15代目  高橋 誠 昭和63年7月〜17年12月

                           資料提供 旧寺泊町役場
 

てらどまり」が寺泊町として町制施行以来
歴代町長は15代の首長によって継承され終結した。


■。。高橋 誠第15代町長特別追悼の章。。■

■■
2010年10月25日長岡市寺泊支所・地域振興課より東京寺泊会へ15代町長・高橋 誠氏の訃報が届く■■

■ 高橋 誠氏は町長時代、「東京寺泊会50周年大会」に、元気な姿で来賓参加され、同年の東京新潟県人会納涼大会でも、古川原名誉会長や三上会長(当時)らとも懇談のテーブルにつかれていた。


中央が高橋 誠町長 左は古川原名誉会長、右は
三上会長、後列左から小林正則小平市長、その右は渡部作次副会長と小泉美恵子理事(いずれも平成17年当時の役職名)

50周年大会に参加した高橋町長の仲間達
・・・・・・・・・・・・・・


寺泊町の歴代教育委員長
 藤田 武 昭和31年10月〜53年9月  
 廣川廣四 昭和53年10月〜平成1年11月  
 長谷川達栄 平成2年3月〜平成12年9月  
 柳下明也 平成12年10月〜平成17年12月  


旧寺泊町の名誉町民
 亘 四郎  昭和50年2月推薦
 外山勘兵衛  昭和59年3月推薦
   小林  進     昭和61年9月推薦
 
「新・長岡市」になった寺泊・与板・和島・栃尾地区から合計
8名の長岡市・市議会議員が割り当てられ、旧寺泊地区定数
2名が割り当てられた。
選挙は1月29日に行なわれ、7人が立候補、下表の結果となる。
トップ当選の高橋誠氏と2位当選の古川原直人氏は、同期生。
また、寺泊町役場は長岡市の「寺泊支所」と名称が変わり、
森山信太郎氏が初代・寺泊支所長に就任し、本合 收 氏を経て
現在は、長谷川知雄氏で、いずれも東京寺泊会の懇親会にご出席された経験がある。


合併直後の長岡市市議会議員選挙
候補者名(年齢)    得票数
高橋 誠 (59)     2106
古川原直人(59)   1370
高井 裕 (54)   1118
山田省吾 (53)    965
田村勝三郎(66)    815
有木清司 (53)    682
星 又一 (64)    227

  選挙結果は新潟日報のHPより

 

町旗降納式東京寺泊会でも式典実施
新長岡市誕生に伴って東京寺泊会でも祝賀記念を行う。高橋町長は東京寺泊会のためならと、町に特別許可を与え、歴史的遺産物は東京へ持ち込まれた。

かくして、町旗は森山初代支所長から寺泊会第7代三上喜久治会長、渡部作次副会長が代表して納還式を執り行い再び旧寺泊町へ還された

       ▼寺泊の町旗はこれで見納めとなった
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大越健介さんがNHKニュースウォッチ9のキャスター

NHKNW9・キャスターは寺泊町出身。

検索数が多い日は何かがある(2015/1/22=1450件)
同郷人大越ャスター氏のお蔭で、東京寺泊会だよりは、年間を通して安定読者数を保持している。


少しでも大越さんに関連した噂が出ると、これまた過去60万を誇る検索数が、超がつくほど増加する。


◆当初は、寺泊会が直接取材したわけ訳でないので、真偽は不明だったが、今春の人事で「大越氏、2015年3月でニュースウォッチ9キャスター交代・⁉」と、週刊誌、タブロイド夕刊紙に出るや
またまた、沸騰している。思えば同氏がキャスターとして登場したのは、2010年3月であった。それから5年後の2015年2月3日の同局による、人事異動で大越氏から河野憲治氏、井上あさひさんから鈴木奈穂子さん、スポーツ担当には佐々木彩さんへと、バトンタッチすると発表があったので、噂は本当だった。

 

◆公式発表前に情報を流す者がいて、僅か一部のメディアがこれを買い記事にするとは、恐ろしい世界である。お蔭で検索数の激増に貢献してくれた。午前0時に始まり午後11時までの中で、何千とアクセスが来るのだから感謝するしかない。正に寺泊会だより検索ワード貢献大使さんとして、4月大会で感謝状を出したくなる感がする。


◆正直なところ、大越さんがこれほど著名な人気キャスターになるとは想像していなかったので、気楽な気持ちで渋谷のNHK放送センターを訪れ、寺泊同郷人ですがと勇気を出してインタビューしたのが幸した。勿論事前予約を取り放送前の僅かな時間であったが。

実際寺泊会へは、郷里の町職員から、うちのマチに子供の頃いた大越さんと似たヒトが、東京のNHKでアナウンサーしているらしいよ、程度の情報しかなかったので半信半疑でもあった。町では、キャスターもアナウンサーも一緒にしていた。


◆多くの読者層は同氏の名前でウィキペデアから入り、脚中に本人のプロフィール情報の一部出典が、東京寺泊会だよりと記載されているので、読者さんが、改めて、東京寺泊会だより迄辿っている様子なので、過去記事をアーカイブすると

 5月の大安日・22日に、寺泊会の顧問、外山さんが名誉宮司を務める、明治神宮で挙式を執り行うとはいえ、結婚披露宴延期の青山祐子アナと、日本放送協会始まって以来の、名キャスターコンビとして話題沸騰させた1年間であったが、お二人での競演は4月2日にフィナーレを迎えた。しかしながら、国難が襲う憂うべき世相で、代わりにご登場の新人女性キャスター、知的で聡明さが目立つも、毎日難しいテーマの報道に、笑顔での受け応えどころではなかったが、それは編集長の好みの問題だよなどと、弥彦会の会員様に言われながらも、NC9は5月23日に新装する噂がある。
 確かに背景は、手書きのアナログ型に親しみやすく改装された。スポーツキャスターとメインキャスターのデスクの距離も近くなり、発信者一体型となるように工夫され、気軽感もある。
お天気キャスター・大変身」の巻
何といっても、その横顔は、有り余る長い御髪のため、横顔を映すと、「頬」が見えないのは、子供の頃から怖かった、髪の長〜い「幽霊」を想像し、この場面になると、画面を見なかった事が懐かしい。やがて、無造作に後ろに束ねたかと思ったら、新装の5月23日では大変身の、お天気キャスターさん、これで、毎日安心して観ることができる。その横顔は、品の良い、小さくとがった顎が理知的で、ヘアーメークさんも仕事のやりがいがあるだろう。ファッションもスタジオでは、目立つ存在となった。夜7時30分登場で、絶大な人気が有った、お天気ねえさんも交代した現在、新しいファンが増えること間違いなしであろう。こんな雰囲気を創り上げる、寺泊出身のメインキャスターのアイデアと英知とは。

大越健介さんに特別インタビューより      
◇NHK夜9時から始まる「ニュースウォッチ9」の 評判は、
すこぶる良いまま継続中。
中でもキャスターをしている大越健介氏/169cm、49歳・体重は非公開(2010/12/22、同番組の大腸がん検査推奨のコーナーより)の 気取らない雰囲気に人気が集中している。

そして2011年4月2日(土)、通常は放映のなかった土曜であるが、東日本大震災発生以来、特別枠で、毎回大越氏と被災地、原発事故問題などを伝えていた。この日でスポーツアナから数えて8年に渡る、毎晩、9時台のキャスターを卒業した。
3か月前の番組中に、自身の結婚をコミットメントするような、オーダーで、大越氏が仕込んだ構成に、全国で多少の!!もあったが、大震災・原発事故と壊滅状態の日本を報じていた職務上、3月27日()に予定していた披露宴をキャンセル、多くの招待客も納得の延期であろう。挙式は1年以上も経った、2012年10月吉日、明治神宮で執り行われた。
4月4日からは、同局の昼時間1時05分からの登場となる。大越キャスターは夜番組を継続するので、夜9時のお顔としてお会いできる。新スタッフによる番組進行も楽しみである。

一説によると、青山さんの瞬間出演もあり、とのうわさが,囁かれている。ニュースウォッチ9の女性キャスターをこなせるコンピテンスを持ち、大越氏と組み、つぶやきギャグを受けとめてくれる、知的な姐御を、同局内で育てあげるのは、易しいことではないであろう。彼女にしてみれば、夜の番組終了後の、クールダウン時間が無くなり、ほっとされておられるに違いない。これからは別のメンバーと、居酒屋に顔を出すことになろうが。

実際、毎日拝見していても、ブラウン管での 女性キャスター・青山裕子さんが10年遅く入局した後輩ながら 体力・知力備えた賢明な、お姉様として60分間弟をかばいつつ隣に座っている風にも見え,安心感がある。
その検証には、8月第3週のように、青山さんが夏休みの期間中は、このシーンは当てはまらなかった。

その青山祐子さん(37)が、結婚報道されるや、この日から寺泊会のサイトの検索数がブレークした。平均200件くらいだった訪問者は、どこでかぎつけてくれたか責任重大である。
懐かしい1月の思い出であった。

大越さんは大きくつぶやいた。「仮にのお話ですが、もし青山さん〔番組では彼女をこう呼んでいる)が結婚されるとしたら、お仕事はどうされますますか・・」
「私は結婚しても今の仕事は、絶対必ず続けます」
「婚活には、女性の立場として、相手を十分知ることが必要ですね・・」
ここで大越さんの名言が飛び出す。
「説得力あるおことば、ですね・・」こんなやりとりが交差するNHK夜9時のスター番組が、ますます人気上昇へとつながって行く。これに伴って寺泊会という、都会で運営する、いなか通信サイトも、うなぎ登りでヒットしているのではないかと、分析した。これでは制作に手が抜けない。
当編集部も他のサイトを「せきまき」するようにならなければ。
この一部始終を知る、2011年1月20日のNC9ウォッチングファンは、おやっと思ったに違いない。大越さんは優しく笑顔で「せっけん」ですよとつぶやいた。実は原稿の最下段に「席」そして改行した次ページトップに「捲」となっていた。しかも用紙は2枚に跨っていた・・と推測する。

                          ●    ●

入局以来政治部で仕事をし、優秀な取材では定評があり同期入社だった 民主党・安住淳衆議院議員は、 「あらゆる事に、ずば抜けた才能を持ち合わせていた逸材」と 評価している。但し、これは週刊誌ネタなので、安住淳氏に直接伺おうと思って、秘書経由でインタビューお願いを出してから、だいぶ時が経ったもまだ実現してないが。二人のエピソードはネタになるのに。


「つぶやくような おじさんのささやき」こそキャスターの魅力
こんな基本条件を兼ね備えた大越健介氏。
ニュースオーダーが変わるたびに、ささやく本番中の小さなつぶやき。
 大学野球の神宮球場のニュースでは
「僕もここでホームランを打った事があるんですよ」
 高校野球で甲子園の話になると
「僕の新潟(高校)は、まだ一回も出たことがないんですよ」
石川遼が全英オープンのラフで苦戦していると
「僕がこのホール代りましょうかね」
賞金の高い試合が,目白押しの、2010年11月のPGAトーナメントでは
「高額賞金を目の前にして、よく繊細なプレーができるものですね。私なんか△※□・・・」。

などなど、時にはおやじギャグになってしまうこともある こうなると、青山キャスターは、 聞こえなかった事にしてさっさと次のニュースへと話題を変えてしまい、「しょうがないわねえ、この子は」とでも言いたげになる。

 多くの大越健介ファンは、彼が女性キャスターの方に体位を開いて、 少し首を右に廻しながら両目を右側にまとめて何気なくつぶやく姿と その言葉こそ最大の魅力と受け止めているようである。
 
だが、9月3日の番組では、2日前の菅首相に続いて、小沢一郎氏をスタジオに招き、政治部の記者時代から身に付けた、適切な質問を投げかけ、相手に語らせる手法も素晴らしいものがあった。2010年の政権交代劇は、同番組を再生することは不可能なため、日テレニュース24のフリー動画で再生しながら検証するとわかり易い。

 
大越さんの魅力は「パートナーへ本心で発する、こころ遣い」

かつて、青山キャスター現役の頃、長野への出張レポ^ートが懐かしい。彼女の小澤征爾についての取材に対して、感想を「良いインタビー経験をしましたね」・・思いやりのある、つぶやきは、深みのある語りかけであった。
前日のソニーのウォークマンがアップル社i-pod製品の販売台数でシェアを抜いたニュースには, 「自分のようなオッサンには・・」とこの方ならではの、アナログ人としてのお言葉を発
せられた。
いつも「さらっと発するつぶやき」。 これを期待しながら、今か今かと番組を見ていると1時間はすぐ終わってしまう
「夜の9時と言えば皆さんが家庭で寛ぎの時間帯ですから、肩が凝らないようにニュースをお届けしております」とインタビューで語ってくれた、番組の編集制作責任者としてのコンセプトが、いつも生きている。
2010/9.11早朝の寺泊海岸

東京で新潟県出身ですと言うと、すぐ、雪が多いんでしょうと十日町や湯沢あたりを想像されてしまうが、長岡市寺泊では雪は少ない、その代わり冬場に吹き荒れる強風は半端でない。200年前にはこの道路はなかったが、さすがの良寛もこの強風下では、どこかの庵で過ごしていたに違いない。
雪の寺泊。この風景が何日も続く事はない。魚のアメ横通りあたり、左側の大駐車場には珍しく、車が1台もいない。・・・2010年2月6日観光協会ライブカメラより・・・真冬の海は正に鳥羽一郎の演歌の世界、波しぶきと かもめ飛び交う海景色。これが見たさに冬の寺泊を訪れ、カニの宿に泊り、きんぱちの湯につかったあとの一杯が、たまらんらしい。


雪より怖いのは強風である{11月9日の日本テレビより・ニュース画像コピー)

風速も30メートル近くなるとニュースになる。実際11月8日に吹き荒れた日本海列島強風は全国ニュースとなった。寺泊がニュースになるのは魚のアメ横関連か、夏の水難事故、そして大型台風並みの強風が来襲する時である。事故さえなければ日本海浪の巨大うねりと 岩に砕ける波しぶきの眺めも、絶品一興である。天然の音響はアンプを介してスピーカーから出るロックバンド音の比ではない。但しアリーナを満杯にする程の観客はいない。これは地元人でないと味わえない。これを知った旅人だけが、この時期に寺泊の宿を予約する。それにしても、この風速計はどこにあるのだろう。
 北日本などを中心に暴風 山形は風速28m だそうな。

寺泊に帰るのが楽しみだった

春夏秋冬、寺泊は生きているが、大越健介さんは3歳ころまで旧寺泊町(4区・蔵場町)で過ごし その後は県の職員をしていた父の転勤で 県庁所在地の新潟へと移ったが、夏休みや冬休みの度に祖母が住む 好きなふるさとである寺泊に帰っていた。
 父の菩提寺は、東京寺泊会発祥の祖・聖徳寺さんである。
「昭和36年に生まれた私は、寺泊の風土で育ったので特別な意識をしないでも、てらどまり、が故郷と思っています」。

水平線が長い2010年9月11日、土曜日のライブカメラで見た寺泊港の朝は素晴らしい。そして、夕方になると佐渡に沈む日本海の太陽、こんな,郷里が大好きだったのだろう。
    ▽2011年1月9日()雪が薄化粧をしてくれた。朝の強風も収まり良き眺めなり。




同じアングルでも寺泊の晴天は女心の如くで長続きしない。東京から富士山が見えるような晴天の朝の、日本海側は概して荒れた日が多い。2010年12月27日の寺泊の朝。波高しで風強し且つ寒い。これが寺泊の魅力なんだと気がつくのは、土地を離れてからだろう。額に飾られた寺泊在住の画家橋本直行氏が描く200号の油彩なら、鉛色の天は大作で銀座の画廊に飾れば、200万円の値があるのだが。
この色で、松本清張は人々の心をイメージして、昭和時代を見つめて多くの作品を残した。
地元で生活している人にとっては、忍耐のいる瞬間である。

2011年1月25日火曜日・早朝6時過ぎの寺泊港。雪も止み、夜明けの地平線が、また見ものだ。
旅行すればこれに波の音が聞こえ、シーンを盛り上げてくれる。「そうだ、寺泊へ行こう」。

 
荒れても必ず収まる日本海、絵のような真っ赤に染まるシーンの前には、これまたロマンチックな凪の海面で、これから水平線に沈むからねと、囁く太陽と岩辺にささやく静かな波の音を楽しむことが出来る。夕方の寺泊は何度もお色直しをしてくれる。良寛禅師も、その妹の「むら」、古くは順徳上皇から日蓮上人、水上勉も大越健介もみんなこの地に惚れてしまう。熱視線が恥ずかしくて、水平線は、だから真っ赤に頬を染めたのか。
 
 
夕陽に染まる日本海もこんな瞬間を経験しているからこそ、心から癒されるのである。夕方5時には、「東京寺泊会生みの親」、古刹・聖徳寺の鐘の音が。ゴ〜ンとなる。夕日が沈んだ先は佐渡島。流刑罪で波待ちをしていた間に「塩たき節が誕生。
次頁の、塩たき節ものがたりは、長岡市の指定民俗芸能に登録されている。寺泊ファン必見の舞踊である。音程が高く、一曲唄うと、もう2度と唄いたくなくなる、といいながらも、挑戦しておられる継承団体が保存している。



ふるさと新潟そして・・・新潟
ご自分のふるさとや新潟に対しては、常時、こころに深く抱いておられ、話題がここに連結する、例えば9月10日に放映された、最新の東京・銀座の様子の取材ニュース直後の感想では、久しぶりの直接単語が使われた。
「全国どこでも銀座と呼称されている所はたくさんありますね。私が住んでいた新潟にも西堀銀座がありましたが・・・青山さんの方は○x□※。。」と、隣に向けた。出身地の広島をめったに前面に出さない女性アンカーには、このつぶやきは、大きく発展しなかったが、2か月以上前の高校野球関連のニュースで、はさんだ「私の所の新潟高校ではまだ甲子園には、・・・」以来のお言葉であった。  
 
   
佐渡高校選抜出場
   
さて、年は変わって2011年・春の選抜高校野球大会に、21世紀枠として新潟県立佐渡高校が選ばれた。
 NC9ではきっと話題にするだろうと、期待していると案の定、スタジオ皆で、大越さん良かったですねえと笑顔が浮かぶ。
今では新潟ニイガタとアラフォーの言葉に、青山さんも一柳スポーツキャスターもすごく敏感に飼育されておられる。この雰囲気で、この言葉がでるとスタジオは大盛り上が りになる。
(  新潟高校時代に)3時間かけて佐渡(高校 )のグランドへ練習試合に行ったんですと
述懐する大越氏は、アナログ派だけに、スマートフォンのニュースの後に、新潟情報を発信するチャンス到来の2011年1月28日(金)となった。

              ●    ●


兄が私を野球の道へ導いてくれました
兄とは時間さえあれば二人でキャッチボールをしていました。 野球に夢中になる事の、面白さを教えてくれたのです。小学校へ入ると少年野球チームに入り、中学校・高校と野球部でした。 兄と同じ新潟高校に入学した頃には、彼は医師になる事を、考えていたようでした。

 3歳年上のお兄さんとなる大越章吾さん(現・新潟大学・医歯学総合病院第3内科・准教授)は、新大(医)を卒業後は、大学院を経て、東京の国立ガンセンターで、肝炎ウイルスの研究をされ、1990年・医学博士となる。癌研有明病院でも、論文は生きているはずである。(写真は、癌研有明病院の5階テラスで撮影)

正に誇りとすべき 寺泊出身者のひとりでもある。 各地で開催される肝炎に関する講演会にも出演し、パネリストとして 時折、講演や解説をしている。
 

東大野球部時代
 東大野球部時代は、投手としてサイドスローの投球を貫き 神宮で50試合に出場して8勝の実績を残したエースだった。 東大出身の投手には1960年岡村甫氏(前高知工大・学長)が 記録を作った、71試合で17勝した記録があるが、歴代5位となる 大越氏の記録も優れたものである。 入学した年1981年は早慶から勝ち点をあげて 赤門旋風とメディアで話題になり、東大最強時代を造り上げた。 ここの大学のチームなら 1試合9イニング最後まで投げれる確率は一番多いだろう、 との東大野球部入部の動機は、見事に的中した。
サイドスローの話はエースだった大越氏を知る者の常識であるが
今年の神奈川県大会決勝線で横浜高校に勝った、プロ野球の各球団が1位指名を狙っている、東海大相模の 一二三投手も同じフォームである。
八月一日に番組中で この投球フォームのニュースが流された際
大越さんもきっとこの事に 触れるに違いないと期待して番組を拝見していると
案の定
「僕の投球も最初はオーバースローだったたんですがと途中からサイドに変えたんですよ」 と、
大きくささやくと、隣の青山キャスターも身を乗り出し 「まあ、そうだったんですか」と、このささやきは盛り上がった。
  この直後の「オーバースローからサイドに変えて勝ち進むのは大変なんです」と
自分を振り返ったつぶやきは、大きくは話題にしてもらえなかったが。ところが、このつぶやきは、平成22年夏、第92回全国高校野球選手権の、一二三投手物語へとつながって行く。


▼▼[一二三投手のサイドスロー物語]2010年8月20日ニッポン放送。高嶋ひでたけ「朝ラジ」の番組より、高嶋さん朗読の「スポーツ人間模様を東京寺泊会だよりが脚色公開。 

2010年春、巨人の原辰徳監督は、遠征先の宿舎で一本の電話を受け取った。親父に母校の監督になれと指名され、東海大相模の監督をしている、後輩の門馬敬治からだった。
この年の選抜大会・初戦で敗退した直後、一二三投手が投球フォームを変えたいと言ってるが・・・との相談であった。夏の甲子園出場に向けて、チーム一丸となっていた5月、オーバースローのフォームが定まらなく、練習試合で結果が出せない、すべては自分の責任だと、一二三はひとりで悩んでいたのだった。一二三がサイドスロー投球法に気が付き、閃いたのはそんなときであった。

▼▼続く●●●
                     


今夏の甲子園大会の報道が楽しい 。3回戦を勝ち抜いて、快進撃を続ける新潟明訓高校・4番の柄沢君が寺泊出身であることに加え、ニュースウォッチ9にも、何かある度に面白いことが起きそうである。大越さんご自身の長男も日大三高当時、甲子園経験者である。話題は尽きない。

キャスターの大越健介氏は東大3年の1983年に、日米大学野球選手権に出場している。
 この年の東大の春秋の6大学野球の成績は5位であったが、リーグを代表する選手として 国立大からは、初めての抜擢であった。

記者・・出場されたご感想はいかがですか
大越・・僕はこれで「NIIGATA」「TOKYO」「JAPAN」とすべてトップのユニフォームを経験しました。(同氏のブログより

 同時期に6大学野球で活躍しプロ野球選手の道を選んだ選手には 小早川毅彦(PL学園・法政・ドラフト2位広島)、  広沢克巳(栃木・小山高校・明大・ドラフト1位ヤクルト)、 木戸克彦(PL学園・法政・ドラフト1位阪神)などがいた。
彼らは大学野球界でトップレベルにいたアスリートである。
これと同等で称されるコンピテンスを持って、東大野球部に在籍しておられたのが、寺泊生まれの大越健介氏であった。


▼▼
さて門馬の話を聞いて「身体が憶え、完成までに10年はかかる。今年の夏に優勝を狙うんだったら、そんな無茶な事やらすな」と原は反対した。
門馬は、一二三の筋トレを自分の目で見ていた。ペットボトルに水を満たし、2キロ近い負荷をかけて一日3000回も、横手に振りぬくトレーニングをしていたのである。門馬は原先輩には、報告だけにとどめ、フォーム改革を容認せざるを得なかった。

その一二三はサイドスローに変更した夏の2010年8月20日、甲子園において準決勝で、成田高校を相手に9個の四死球を与え、14安打を浴びながらも完投勝利し、40年ぶりに東海大相模の決勝戦進出を果たした。
大越さんのつぶやきが楽しみである。昨日19日は青山キャスターが休暇中で、掛け合い漫才こそなかったが、高校野球から目を離さない氏が、隣の女性スポーツキャスターに「野球仲間と話してたんですけど、ここまで来ると、球児の力の差はなく、皆が横一線ですね」とコメントしていたが、高校野球を語り合える「野球仲間」とはどなたであろうか。県高・新潟高校の野球部仲間か。まさか東大ではあるまい。
これはご自身の3人の野球好きな息子さんたちに違いないと、勝手に解釈してしまった。
女性キャスターに語りかけた、サイドスローにおける大越さんのつぶやきこそ、日本で最も、横手投げ投法を実践し勝利する難しさを知った男、の言葉であろう。

▼▼

決勝戦でもこの投球スタイルを崩さず、門馬敬治も一二三投手を信頼し、想像を超える多量の点差がついていても、限界まで先発投手を変えなかった。試合終了後に、一二三慎太は甲子園のグラウンドで、興南のアルプススタンドから沸き起こる指笛と嬌声を聴きながら、僕は今のフォームに自信があった、だが「プロに入っても通用するかなあ」小さくつぶやいて、あこがれのグラウンドを後にした。その彼が日本のプロ野球入りの志望届を出したのは2010年10月13日のことであった。
自身の出身地である関西の球団にでも入れば、この記事の続きを書くだけであと10年は持つだろう・・・・・・・・・・・ ・・
一二三投手物語の項は、ひとまず、おわり。敬称略。・・・ ・・・◆

運命のドラフト会議は、2010年10月28日(木)今春東京新潟県人会新年祝賀会の会場と同じ、グランドプリンス新高輪・飛天で開催された。ここのステージには1月に芸能大会で司会として上がったが、スピーカーが天井でもホール後方席の音量は、会場を包むように聞こえ、気持ちがいい。クリスマスシーズンには、加山雄三や、著名アーティストのディナーショーで満席になる。

早大のスター投手に1位指名で、交渉権を持つ球団が決まるや、関係者は満塁打を放ったような嬌声を上げた。
この日の大越氏の番組は開始早々から1/2を占める,約30分を、ドラフト関連のニュースに費やした。「6大学野球に関わっていた自分としても・・・」思い入れが深いのであろう、・・と切り出し、プロとして巣立って行く前途ある若者に、熱いエールを送った。

そのスター投手こと、早大・斎藤ー大石はドラフトでも、スター扱いであったが、2010年秋季リーグ戦では10月2日第4週1回戦で両エースが登場するも、4−2で珍しく東京大学に敗戦していた。東大は6大学野球に於いてリーグ戦35連敗中であったが勝利の記念大会となった


日、神宮の応援席で観戦していた東大の学生数は、早大より64人少ない258人(東京大学野球部HPより
であったが、2戦3戦と逸したせいか、OBキャスターさんは、当時、この話題につぶやかなかった。ただニュースウォッチ9番組でのドラフト関連放送中のネット検索は一斉に、この寺泊会だよりのページに飛んできたがその目的は判らない。(ページ下段に検証エビデンスのグラフあり)

つぶやきには、野球関連が圧倒的に多い、2010年10月11日、体育の日の話題では40歳代の体力がテーマとなり、この年齢層は、使わないと坂から転げ落ちるように筋力が衰える話に飛んだ。
「この前久しぶりに草野球しまして」と切り出し、フライが飛んできたのでボールの落下地点まで走り込んでキャッチしようとしたら、なんとボールは2メートル位後ろに落下したのでした
「あの頃の俺は、一体どこへ行ってしまったのだ」とかつてを反省し懐かしむ。
久しぶりに女性キャスターが「野球のエースだったあなたは、まだ40代でしょうが」と話に乗って来た
 


すかさず 「青山さんも間もなく同じ40代にどっぷり入るはずですよ,※x◇・・・」と49歳の大越氏との掛け合いが始まった。
これこそテレビ桟敷で、待ってましたと叫んでしまいたくなる。民放なら草野球シーンを放映したに違いない。
     
主婦の勘は当たる

青山さん結婚するんじゃない。だって去年の暮れ頃から、「お顔がずっと輝いているんですもの」。
結婚するのかしら。「女って結婚の決意をした時が、人生で一美しくなるものよ」。毎日欠かさず、この番組を見続けている女性視聴者たちのこんな話題が、耳に入ってきたのは、寺泊会だよりに、彼女の写真を掲載してからであった。
責任感強く負けん気の彼女の目は、画面からは、かつては女刑事の眼であったが、平成23年は、天使のような優しい瞳にかわっていた。それでいて、大越さんの言葉を包み込んで、番組のオーダーを進行させている。こんな感想をもってすごしていた2011年1月17日の早朝、ニッポン放送、高嶋ひでたけさんの番組で青山さんが1歳年下で、37歳・会社役員の男性と結婚される(スポーツ紙の紹介で)ニュースを発表したのであった。この手合いの話題はメディア発表の前に、ここで書いておけばと、歯軋りする、我が編集局の朝となった。だが、この日の当サイトは、24時間中、約90秒に一回の訪問者で、あふれる、ありがたい結果を残してくれた。
かくして主婦層の眼力は近頃の彼女の変貌を、すばやく見事に見抜いていた。こんなパワーを持つ主婦層だから、サラりーマンのおじさんたちが会社から帰宅後、かわいい嘘をついて、奥さんから小遣いをだまし取ろうとすると、顔に現れ、すぐにばれてしまうのである。

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年齢の話題にはキャスター同士の反応が速い。
大相撲11月場所9日目、場所が地元の魁皇・1972年生まれながら、いつものように連敗もせず、すこぶる元気いい。優勝戦線参加中の8連勝、今場所はまだ一敗しかしていない。もしかして優勝するかも。
スポーツアナが、この年齢でよく頑張っていますよねと持ちかけると、
女性キャスターは、「38歳頑張れ」ですねと反応。
大越キャスター・「妙に強調しますね。(青山さんも)お同い年ですものね」。「ええ、私も、まあ、つい。△※○x」。 このひと月あととなる、12月27日に米国の大学在学当時、アメフトをやっていた屈強の体格を持つ、男性のプロポーズにOKをだす、彼女の誕生日であった。38歳へのエールは自身へのお言葉だったに違いない。
さて、結婚報道がメディアに周知されて、最初となるニュースウォッチ9は、2011年1月17日の夜9時である。大越氏の第一声はどんなおことばであるかが、これまた興味深い。きれいな白い歯を、一層大きく開けての御祝言になるであろう。サッカーアジアカップ第3戦直前のハイライトに、目を離す話ことが出来ない。民放のように、ワイワイとした場面は抑えるに違いないが。(午後3時記)。

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仕事をするなら新しい世界にチャレンジしよう

大学4年の頃、自分にも、当時社会人野球トップの球団から強烈なオファーがあった。だが、 大学を卒業した後は、これまでと全く異なる世界を覗いてみようと、 マスコミ・報道関係の仕事を選び日本放送協会(NHK)に入社した。
 
東京寺泊会からのアプローチ
NHK入局直後の昭和60年から約4年間は地方局に勤務していたが その後中央に戻り、政治部記者として橋本龍太郎元総理の番記者や 自民党派閥の経世会担当として時折テレビで取材報告をする。 また、解説や選挙報道の番組に顔を出すようになると 東京寺泊会の懇親会があるたびに、 会の中では、大越さんの話題が飛び出し始める



「大越さんがNHKのアナウンサーになられたそうな」、 などと勝手な解釈で納得して、 来賓として東京寺泊会に来賓招待したらとか 講演会を企画せよと、寺泊会の役員に話が飛んでくる しかし、平成17年には、ワシントン支局勤務を知ると こんなに遠方では、とあきらめたが、帰国のニュースでその声再燃。 取材地・NHK放送センター(渋谷)
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水上 勉 の著書 「 寺泊 てらどまり」

 ◆角巻・モンペ・番屋・北風・防波堤・かもめ

 

 

 

▲寺泊の浜辺を歩いた

 

作家・水上 勉      


寺泊出身の読者からモンペ・ボテ(カゴ)こそ

作家水上が歩いた昭和の寺泊のイメージだろうとの事で、撮り貯めていた八甲田丸観光記念船からの写真を借用した

 


 

                                            

文学の世界で、越後・寺泊を描写した著名作家の作品はそう多くはない。ましてや小説のタイトルに掲げる出版社は実に珍しい。ところが「寺泊」を題材にした短編そのものを、本の題名にしたのが、出版社の新潮社である。作者は越後と同じ日本海を抱く越前出身の「水上 勉」(2004/9没)である。寺泊人のみならず,昭和生まれだったら、この作家の名前を知らない人はいないだろう。「寺泊」は昭和59年初版だが、海岸描写はこの30年くらい以前と推察される。文中に出てくる製材所とは、寺泊産業株式会社のことか。昔は「いたろさん」と呼んでいた。寺泊を「フンドシ町」と呼んでいた旧道しかなかった頃の風景である。(表紙に併記されている「わが風車」は、別作品)。
雪の降る越後の漁村、という設定で、寺泊町にイワシが捕れ、八艘船があった頃か、川端康成賞を受賞した名編である。もちろん駐車場のない、魚のアメ横以前の物語である。
水上 勉の代表作は自身が40代の作品が多い。昭和36年(雁の寺)、38年(越前竹人形、飢餓海峡)など、少年期の実体験や社会現象の匂いが漂い、昭和54年刊行の「金閣寺炎上」と続く。すべてが、出版社を充分に潤わせた作品となった。この間に連続して文学賞を受賞し、自他ともに一番充実した良き人生おう歌の時代であろう。聖僧・良寛にも似て、禅寺での修行があり、その厳しさを体験している。異なるところは、志願して得度した良寛に対して、強制的に実体験をさせられた経験を持つ。やがて体験をもとに、作品を世に送り出した。
切ない男女の絡み描写が小説にも映画にも、その真価を呈し、商業路線に乗り続けた。作家・水上が創作し、賞を得た著書は、実在の事件や風習がテーマとなった。「寺」や「竹細工」という身近な存在があり、ベッドやテーブルが登場する洋物と異なり、フトン、襖、障子が描かれ、これに、男女の情を絡ませる創作手法が、昭和の日本人に受け入れられた。加えるに名編集者がキャンペーンを仕掛け、映画化すると、名女優・若尾文子が、見事なまでに妖艶かつ女の情念を演じきり、その商品価値が輝いたのである。
残念なのは、主題歌が残されなかったことである。石川さゆりの「天城越え」なみの、歌詞と歌い手を生み出す企画がなかったのか。平成時代が間もなく終わる30年現在でも、音楽出版社の企画担当たちで、元気のいいギラギラした経営感覚に富む輩が少ないと見えて、歌謡曲と映画で儲け話をうまく創作して一世風靡の機運が見当たらないのが残念である。

■「寺泊」は良寛がきっかけだった








イニシャルにSの付く高校の先生だと、勉さんは作中で簡単におっしゃったが、越後の高校・良寛となかなか結びつかない。これが原因で時折問い合わせまで来てしまうが、存命中にインタビューしてないので答えに苦しんでしまう。良寛に学ぶ会(県人会独自)で1年位副会長させられていたが(良寛に学ぶ会では10名ほどいた郷人会の責任者全員を強制的に副会長に任名する制度だった)、似たような話題もなかった。左のイラストはその会で講演者が使っていたものを勝手に利用させてもらったものである。

■ 水上勉は、良寛和尚について実に豊富な知識と独特な風刺感を持っていた。福井から雪  の降るある日に、国上に住む良寛研究家に会いに来た。その良寛  研究家は、「S高校の教師」というが西蒲原郡や三島郡にイニシャ  ルSのつく高校はどこだろうか。BかYかMなら見当がつくが、か といって、個人的に三条のSとは思いたくない。このころの我が寺泊には高校はなかった。水上氏の良寛人物像は、清貧を愛し子供好きの天真のひと、という事ではなかった。即ち、借金、米、味噌の無心好きで、タダ 酒飲む名人的な存在で、今これほどまで多くの遺墨、書簡類が 残っているのは、それらが礼状代わりだったからと信じている。こんな研究していたS高校の教師と語りたかったのだろう。話し終わっての帰り道に、国上の山からまっすぐ寺泊の浜へ降り、出雲崎に向かうフンドシ1本道を通って、石屋の角を曲がり、現在のアメ横どおり近くまで歩いたのであろう。
 

出版全盛から

 

出版不況の平成時代

 


■ さて、本といえば、世のスキャンダラスな話題を取り入れ、作家が書き下ろしまくると、ホンが売れ、月刊誌の発刊が続いた昭和中期、出版社全盛の時代が懐かしい。業界大手の、角川書店、新潮社、筑摩書房、平凡社、集英社、徳間書店、小学館から、婦人雑誌系の出版社まで、売れる商品に飛びつき、稼ぎまくり、同時に作家も潤った。平成の今、想像もしていなかった出版不況の社会現象で、この業界は、著名月刊誌の廃号や、大小出版社の統廃合、 倒産が目立つ。ぶ厚い雑誌を買わない、紙媒体本が売れない、広告主がなかなかつかないそうである。
昭和の婦人雑誌に夢中になっていた当時の読者層さん達も今や高齢層へ突入。
頭脳さえれど、視力も悪くなり、綾小路きみまろの風刺世界に笑いながら如意とうなずき
大多数は、単一行為に集中できる時間が限界気味だと嘆かれる。

白い割烹着姿をいつも着用し、安月給ながらも会社勤めの夫の帰りを待ち、自分達中流家庭婦人と思っていた主婦層たちがよく読んだ「主婦と生活」も「婦人倶楽部」も廃刊され、過去の物語になってしまった。お母さんたちは、多感な時期を向かえていた自分の息子たちの目の毒と思いながらも、誌上で人気のあった謝国権、ドクトルチエコ
の欄を読んだ楽しみと、夜な夜な実践しては楽しんだ昭和の夜も、「今や昔の話かと、女房言い・・」てか。

流通システムや、デジタル時代の功罪か、電子媒体に支配されたネットの便利さを恨んでもしょうがない紙媒体時代である。
だが逆に新刊本で成長し続けてる出版社もある。総量が少ない新刊本を補完する新手法を展開できる、経営層のいる出版社のみが生き残れる時代か。40代女性層向けの新雑誌を、来春立ち上げる新会社もあるそうである(9・4・ニッポン放送、あさラジ出演時の有名出版社・社長談)。
                                                            ..
発表したら寺泊会だよりを訴えるぞ
     ・
  
 ◆水上さんの作品と話題が外れてしまうが
実はこの民放ラジオのレギュラーとして早朝番組に出演していた超有名出版社の社長さんが、あまりにも破天荒で面白い銀座での自身の武勇伝を披露してくれたので、銀座ならそこの並木通り8丁目にある本社に30年以上在籍していた経験と、クラブの場所や時間軸での人の流れまで精通していた当職の実績を基に、件の社長が話した内容について位置的なウラをとってから短編小説風に創作した。、
早速、ニッポン放送の番組制作担当者に、この原稿を、寺泊会だよりに掲載したいが、
著作権は番組制作側にあると思うから、ご許可頂けないかとメール送信した。
後日ディレクタ-らしき方から返答があり、社長さんに読んでもらったところ、これを世に出すとは不届き千万だ。
発表したら「うちの会社が寺泊会を名誉棄損で訴える」とおっしゃってますよと、思いがけない返事がきた。
原稿の内容は想像で作った個人情報を暴露したわけでなく、早朝ラジオで衆人に放送された内容に基いて、
しかもご本人の言葉を文字にしただけであったのに、
多少誇張を加えたり、冷やかしながら・・・というのが 忘れもしない寺泊会だより提訴未遂事件の顚末である。
それにしても後悔は、放送を録音しておかなかったことであった。エビデンスのない証拠は必ず負ける。世の鉄則を忘れていたのである。


 
                 ●          ●  
風と砂の臭いを憶えていますか。
               
著名画家に潜む鋭い感性

寺泊在住の画家橋本直行氏の油彩画(寺泊会だよりに掲載許諾済)を観賞していると、ありし日の寺泊を呼び起こしてくれて癒される。八重山諸島に魅せられ、長期滞在し海と空を描き極めた、画家の力量であろう。
美術評論家は、橋本氏の作品を、写真のように精緻で写実的というが、この表現だけでは高額な作品の購買意欲が湧かない。、風と空気と匂いと音が聴こえる絵を描く画家の作品、と評するほうが、遥かに本質的な深い見方だと思える。
 
佐渡の見える浜(1999) 
   


     


▼船小屋(1997)s
 
▲漁 網(1998)  水上勉が歩いた寺泊海岸のイワシが主役と 思いたいが、この油彩画は、アミを描いたものである。ブルーのプラスチックス製かごは、作品の引き立たせ役か、作者は、来月新橋の画廊で個展開催のため上京されるので、愚問ながらお聞きしてみよう。
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スターマインのお値段はいくら

 

本稿は花火の写真を使わない寺泊花火の記事

 

観光協会猛者さん花火大会仕切る


寺泊観光協会のキーパーソン・会長・副会長の手腕が日本中で評価されているらしい噂を検証した

 

花火の季節が間もなくやって来る。どこの主催者も強力な顧客、即ち浄財の提供者さんがいないところでは、見えないところで苦労している。

 

寺泊港まつり海上大花火大会近し

 

尺玉の大輪を○○千発とか、3尺ダマから4尺玉もあるよと前宣伝を華やかに打ち上げたいところだろう。

そこで花火の打ち上げ費集めにあの手この手で戦略を立てているのが裏方さんである。

 

クラシックな手法では、東京多摩川や湘南海岸に見る、個人・法人を問わずあなた様からご寄付を頂いたら、打ち上げの際にきちんと丁寧にお名前を宣伝してあげますと、従来の手でキャンペーンを張っての資金集め。

 

 

一方、手法の中で名案を出しているのが、寺泊会大会宴席の壇上で声を大にして宣伝された、

観光協会で花火担当委員長さん。

 

もう一つの寺泊・野積人の華

 

頑張っておられるのが、割烹旅館・山長の旦那さん(大倉英雄・寺泊観光協会副会長)である。

その秘法が悩ましい。

従来通り、ご寄附を募るのは変わり無い。これだけだったら記事にもならない。

(これらはすべて2017年夏の話だから以下の表現は過去形にするしかないが)

 

 

協会で定めた、指定号数以上の協賛金をご寄附頂いた方には、素晴らしいトレーサビリティの特典で昨年は好評だった。

 

それが出資エビデンス方式と呼ばれる、記念証拠写真戦略であった。

仮にあなたが尺玉相当の寄付をしたとする。

観光協会がそのエビデンスとして、実際に打ち上げた、あなたのその花火写真を

ご芳名付きでパネルに入れて、制作してくれたそうである。

 

ふるさと納税の花火版か。

 

勿論当日の会場では提供者の丁寧な紹介も忘れない。紹介だけではもったいないと、提供花火打ち上げの証拠記念写真を制作して、お返しするという実に寺泊初の名案であった。

これなら一瞬の大輪もその年の夏物語の想い出として飾ってもらえれば1年は持ち越せる。

 

そして来年夏になったら今度は平成30年度版の新しい写真が欲しくなるに違いない。

結局は翌年も同様の寄付が頂ける可能性があるので観光協会も一安心となる。

さてあれやこれやで主催者の労は慰めたい一心で、寺泊会も微力ながら平成30年度用として喜んで花火協賛した。

とにかく花火の季節到来である

 

寺泊港まつり花火偏は8月7日(火曜)19:30〜21:00

今年も30万人を寺泊の海浜に

.

 

5000発で酔わせましょうか

 

今夜もあなたを眠らせない

 





 2018年寺泊の夏、今年も賑々しく「寺泊港まつり」が開催される。寺泊会保存のファイルによると、花火大会の総経費は約500万円超であった。当然のことながら、この費用は長岡市の補助金に、寺泊町民・現長岡市民と法人企業、団体などからの浄財にもとずくものである。お客さんに喜んでいただければ、収支を考えるより楽しくなる。寄付金制度はありがたく、これに見合った花火がプログラミングされるから納得する。

大都市が荒使いする、4年に一度の「オリンピック開催するための費用」限定については、見積り段階から、巧みなる合法的な競合方式で、建設業者、服飾デザイナー、企画会社、大手広告会社、開催地へ誘致職員を、多数派遣した旅行業者も、デスカウントを忘れ、定価で見積もったのではと今頃市民は気が付く。

当時の誘致委員会職員も、税金で清算すればいいから、誰も困らない。東京は成功はしたが、残念ながら招致に失敗しても、仮に100億円也を遣っても、すぐに清算されてしまう。かつて地方都市の信州でも、冬季大会開催後の総経費・合計は公表したものの、領収書は、3年後には焼却又は紛失処理で終結と聞く。法人企業なら、7年間は使金領収書を保存するが。

さて寺泊の花火は8月6日から開催される賑やかな港まつりの中にある。観光協会・会長の山田栄三郎さんは.その見どころを「海中・海空スターマイン」だ、と東京寺泊会・63回大会であつく語っておられた。
一発48万円なら、安いもんだと、寺泊会の名前を売るつもりで、その時はお任せ下さいと胸を叩きながら寄付をしようと考えていたが、実際の段階になって協賛金の寄付願いを受け取ると、大金寄付の実現は先に延ばし、ほんの気持ち程度になり、海中スターマインは次回にしましょうやと、役員達と話す始末。これで何年目か。

 

スターマインのお値段紹介

 

ところで、花火の華はやっぱりスターマインである。そのスターマイン提供のスポンサー協賛価格はいかに・・・・。資料として保存してあった、寺泊会に届いた価格一覧をレビューすると・・。単価は10年前とそれほど変わっていない。
  

花火のおねだん一覧このテーマも結構検索多し
 普通のスターマイン 16万円
 
 10号玉 4万7500円
 
 5号玉 1万0600円
 
 
 超特急スターマイン 37.5万
 
 海中海空スターマイン 48万
 
 ベスビア ワイド特大スターマイン 251万円〜
 

 

日本最大規模の長岡花火では、このベスビアなる最高品質のスターマインが、今年も数十発と飛ぶように売れた、平成時代最後となる長岡の花火に携わった花火師さんも素晴らしいが、景気がいいのか、協賛の一端を担ったお旦那さんの企業さんにも大感謝で、総経費7億円の予算で取り組んだ、長岡市は関係した人権費=市職員経費が1割だったらしく安価でないが早くから宣伝し、呼びかけがうまくなったと思わざるを得ない。長時間中継のテレビ放映権で稼ぐ手法は寺泊も見習って、新世代に期待したいところである。

開藩記念テレビ桟敷考

 

例年著名なタレントや唄い手をゲストとして特別桟敷席に座らせるいつもの姿がある。

だが話材に乏しいゲストたちを盛り上げない司会進行に我々寺泊会庶民は満点を与えていない。

司会進行に決まったら花火師、煙火工場社長、進行プログラムソフト業者担当者などを訪ね、時間をかけた前取材が必須であろう。本物花火見物の醍醐味を知っている花火ファンを前に、画彩こそ美しくともテレビに写された、破裂音と煙火臭のない画面を見ながら、3時間余りテレビ桟敷を飽きさせないで続けるのは、力量のいる仕事で地方局のベテランでも難儀らて。

長岡開藩400年をコンセプトに資金集めし、原資は潤沢であったらしく、天下に誇る大花火大会となったことは実に喜ばしい限りではあるが、たとえ10K品質でも、テレビ中継には100K並みの創意工夫が求められる平成最後の中継画像となった。

例年評判の寺泊会・宴席を仕切る司会者でさえ事前取材、判らないように取仕切る演出と、知ったかぶり手法に知恵を出す。

巨大花火中継の司会進行役を選定するテレビ局において、この点だけが大会関係者内で改善の余地ありで今年の夏も過ぎてゆく・・てか。

 

 

寺泊町の花火師といえば青木さんだった


そんなこんなで、2018年目標の5000発も、よそさんがお作りになるであろうYOU TUBEかなんかで寺泊花火大会の動画を見るとお判りになると思うが、一瞬にして開いて消える花火を、暗い夜空に原資を意識しながら観るのも一興である。

 


60年位前、長岡の安藤さんと並んで、寺泊町には「青木」さんなる打ち上げ名人がおられ、夏の花火大会だけでなく、朝早く、町や小学校の運動会・開催を知らせてくれたりもしたもんだと、東京寺泊会の古老が語ってくれた。


それぞれが花火には、色々な思い出があるもので、熱狂的な花火ファンも多い。

 



寺泊の豪商トカンさんの親戚で、2年前までは、東京寺泊会の第9代会長をされ元気だった外山健太さんは、大の花火好きだった。

毎年長岡の花火を観るために、首都圏で大勢の熟年たちを集め、バスを仕立てツアーを組んで長岡まで足を運んでいた。

 

定年後の趣味として、全国山歩きの会も主宰していたが、この会員さんを中心で花火には、2年前までは大勢を引率して信濃川へ。

団体御一行様の帰路はいつも、寺泊きんぱちの宿などで過ごされていた外山健太さん。

誠に有り難い長岡市寺泊町の立派なステークホルダーであられたが、残念ながら平成29年4月に他界された。享年75.天国から見守ってくれているに違いない。

 

 

最愛の妻を亡くした人気歌舞伎俳優が、歌舞伎座の7月公演で恒例の宙乗り姿で息子と一緒に宙を舞う演技を見せた。天国にいる亡き妻の少しでも近くで演じたいと悲壮感をが漂わせたのは2017年夏であったが、寺泊会も第9代会長さんの外山健太さんが花火を最も近くで見えるようにと同様な心境である。今年も8月7日の花火大会が楽しみである。分水の春は花魁、弥彦の秋は菊まつり、寺泊の夏はスターマインとそれぞれがふるさとに想い抱く。

 

 


 

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寺泊の夏です。日本海の波音を堪能しませんか

 ・
 

時間が経てば忘れられてしまう

近年は大事件・惨事が多発し1年前のインシデントさえ話題にならない。2年前のニュースともなるとマスコミから消滅しかねない。知事さんが自費=公費だと言い張り使いまくり、自宅の出前そば代からクリーニング代さえ、領収書扱いで税金から払っていたことがバレて、自らの地位を棒に振った事件は今ではどこにも追及されていない。その直後の知事選挙では、候補3人が強力な争いを呈し、投票結果は悪人を懲らしめた善人バンザイで終わった。これも、熱い夏の7月であった。当時は新鮮で、女性知事様、様の神様扱いだった知事さん人気は、処々の原因ですっかり後退してしまったが、当時は我も私もと新人議員さんたちは、百合子陣地に集まり沸騰した事があったなあ、と述懐するのは、寺泊会だよりくらいしかいない。かも。

観光協会幹部は忙しい

さて、今朝は快晴で、弥彦山もよく見えるし、 もうすぐ海上花火大会。寺泊は最高らて!

と故郷で踏ん張り割烹旅館を営んでいるおやじさんは、電話の中で興奮気味な声を弾ませている。

ネットで確認すると、アメ横の駐車場も相変わらず満員だし、海は穏やかなさざ波状態。

 

そんな寺泊の選挙区は、角栄時代では新潟3区だった。長年の選挙で総理大臣という偉大な親父の、カンバンを受け継いだ娘さんも、その旦那さんも議員を退き、普通のヒトになってしまった。

夏の寺泊は何といっても水中花火。それに、やや著名な芸能人を呼んで、海を見ながら熱唱してもらう海浜芸能ステージありで,観光協会は個人・法人の篤志を募りながらの運営で結構忙しいらしい。

 

関東の波音と寺泊の波音を科学する。

 

同じ波なのに、どうして寺泊海岸の波は

 

気分が休まるのかを現地で凝視したら結論が出た。

 

(実験観察地:茨城県日立市K海岸及び新潟県長岡市T海岸)

 

関東の波は、波がしらがズズーンと立ったかと思うと、

 

バタンと倒れ、急いで直進する。

 

 

寺泊の波は、波がしらがムックと立ってから、

 

一度ひざまずき、小さく倒れ、それから優雅に

 

ゆっくり直進する。

寺泊のさざ波体験入門

 注) この波音アセスメントは海岸の優劣を決めるものでなく、あくまでも個人の感想である

 

現地測定者の話を基に評価したもので、観測時間・気象条件・測定角度等により異なるから注意が必要だ

 

初めて波鑑賞体験希望者は先ず、長岡市のどこに海岸があるかを調べてから現地を訪れたほうがいい。(

.

◆昭和時代の長岡市に海岸は無かった。ある日を栄に突然、素晴らしい海持ちになった市である。

南西の風3メートル程度の時間帯を狙って、砂浜又は岩場に座り、2時間程度ボヤーっと波音を堪能してから、機会を作って他県(太平洋側)の海岸で同様の観測をされることを推奨するが

 

こんな季節に、波の音を聴くのも気持ちいいことは、寺泊の誇り、千代栄姐さんも上田町に住んでおられたので、さざ浪の魅力は、昔からよ〜くご存じで、これを糸で表現して後世に残したかったに違いない。

ニッチな話題で恐縮

3区ノスタルジア街寸描

3区・上田町といえば和菓子の老舗チューミサやシナそばの喜楽食堂、2階がそろばん塾だった清水屋さん、息子がヨーロッパ・トヨタの副社長になった錫村医院が、同場所にあった村山医院を引き継ぎ町医者の役目をし、隣は国上ゲタ屋、更にマイナーの話では、星医院や茂木産婆さんがあったし、3区にはもう一軒、小林産婆さんがあり何人お世話になったか、4区との境界に建つ桂馬さん(昭和15年から桂馬ドジョー屋)の玄関ガラス戸には「ドゼウアリマス」の手書きの張り紙が年中貼ってあり、桂馬さんのとなりは野村鍛冶屋さんが土間に小さな炉を持っていて、刀鍛冶なみにキンコン・カンコンと精を出す。だが何といっても3区山の町では、柳谷旅館・三輪楼・玄場楼・更に千歳楼と連ね、寺泊遺産並みの歴史を誇っおり、水上勉がここを歩いたら、自著の小説で必ずや、とりいれていたに違いないが、残念ながら村上勉は3区を歩いたとき山の町へ行かないで、海岸方面に曲がって行ったのである。

 

寺泊が日本遺産の特定地として指定される遠因となった、細い能登谷小路を下って浜辺へ出れば波音のざわざわ感が嬉しい。こんな越後の原風景は、寺泊おけさの乾燥した三味のビートが実によく似合う。



寺泊会の会員達は70代が多数いるが、郷里の話は止まらない。

世間の衆が集う喧噪な昼時間が過ぎ、夕方日本海が夕陽に染まる頃は、片町(2区)にある彦根山・興琳寺さんの西向きに構える茶の間から、松の木越しに戴く佐渡が島の眺めがこれまた最高である。昭和時代の中ごろまで住職は玄雄さん。住持さんに「一見の興を拝ませて」と頼むと、檀家でなくとも立ち寄らせてもらったよ、と80近い会員が懐かしむ。

さざ波を見ながら寺泊おけさ (音声 を 唄えば一流の寺泊人。東京から最も近

い日本海の波浪を観たり朝やけを見ては。


寺泊の砂丘は、良寛が弥彦山中の、西生寺に通っていた頃は、山のふもとまで伸びていた。
今は分水川が野積と分断しているので、浜辺を、魚のアメ横のある寺泊中央海水浴場から、弥彦山の麓まで、徒歩で行くのは、途中で大きな橋を渡らないと無理である。

大河津分水に積極参加・寺泊大正人

この分水した川幅も現状の1.5倍に拡幅される。あれやこれやの拡幅に関する話題では、


 6月24日(日)に樋口 勲氏による講演が寺泊文化センターで開催されたとの情報が来た。樋口勲さんといえばご自身は十日町市出身ながら、寺泊に縁がお有りらしく寺泊人に関する歴史的な知識も豊富、我々の浅学を補完すべく寺泊会だよりにも時折、貴重な情報を頂いている。

それによると、分水路河口の川幅は現在の200Mが300Mとなる大河津分水だが、その昔分水請願の立役者こそ寺泊にいた豪商豪農たちだったそうな。その代表格が本間屋数右衛門や星清五郎であったらしい。

寺泊で起工式why?

なぜ古き寺泊人が、大河津分水開削事業を積極推進したかとなると、大正時代の先人たちの話を聞きたいところだが、今は昔で不可能である。ともかく起工式は寺泊で行われたことは、事実のようだ。一般的な解釈では、大河津村や地蔵堂でやったのではと思われるが分水会関係者ではないから不思議である。寺泊には蒲原地方の横田切れでの被害は直接なかった筈なのにと偉大な先人をリスペクトせざるを得ない。

.

 将来起こるかも知れない単純なリスクを心配しているのは寺泊会である。

河口が広がる即ち濁流・泥水が海に何倍か広がる。これでは、現在でも大雨の翌日は、ブルーな海水表面がブラウンに覆われ、中央海水浴場あたりまで押し寄せているのに、これがもっと範囲を広げ、金山・郷本あたりまで移動するのではないかと危惧する。環境に敏感な国では、すでにプラスチック製のストローの使用を禁止している。川に捨てた細い一本でも、海に流され浮遊し紫外線で分解されミクロン単位となった微粒子が海中に沈み、魚類が餌と一緒に飲み込みやがてはヒトに影響を及ぼすのである。

この議論は国交省とシュミレーションすべきかも。

..

 

知的な解説は、郷里の史跡ボランティアガイドとして活躍する米子先生(小越米子氏)に聞いてほしいが、平成29年4月23日に開催した寺泊会での講演会「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」での、新旧のデジタル画像で違いが判る。

浜辺に実家のある、東京寺泊会の皆さんは、寺泊のさざ波を想い出し「寺泊おけさ」でもゆっくりお楽しみ下さいと推奨する。

時には早朝から、心地良い風が吹き、程よい波高しで、地元にいた時は当たり前だった風景も、遠浅な海岸からの波の形が、素晴らしい絵の如く映る。
北前船の船頭さんも、寺泊で航海の骨休みをしていたに違いない。
名物の「寺泊おけさ」は、名手・千代栄・月子 両師匠さんの手にかかると、高度なテクニックで、すくい三味線をあやし、ミュート奏法に徹し、歯切れ良いブルーノートジャズの如くビートを刻んでいるので、軽快且つ、寺泊色溢れる、芸術性の高い座敷唄として仕上げている。「佐渡ヘヤ〜、エヤ〜八里のさざ波超えてヨ、鐘が聞こゆるヤ〜レ テラ〜ド〜マリ〜。」と結んでいる。

 

寺泊おけさ体操・東京で初披露

 

 

 

このリズムを利用した「寺泊おけさ体操」は、平成30年4月の寺泊会で平石久子先生が音頭をとり、全員が体験した感動のシーンとして、感激の大宴会に花を咲かせてくれ動画も完成した。(youtubeアップ準備完了だが、多数のお顔が鮮明に出ているだけに公私にうるさく個人情報重視の昨今、承諾に時間がかかっており来年の大会で許可を得ない限りは次期未定である)


風の日の寺泊は、正にこの軽快なリズムの、寺泊おけさが良く似合う。ついでに歌詞を追うと、最初は言葉の繰り返しから入る「オヤオヤオヤオヤ うり瓜 なす茄子 ヨウガの手 土手まで這い出すカボチャの手 垣根に絡みつく糸瓜の手 川から手を出すカッパの手(ここからが艶っぽくなる)
 

 写真提供:伝統民謡継承団体:寺泊浜っ子会


寝ていて手を出す 兄(アンニャ)サの手 その手を引っ張る 姉(アネ)サの手 手と手と手    あと野となれ ヤ〜レ山となれ・・・と唄われている。

 

両師匠の志を継承した寺泊の民謡団体・浜っ子会の皆さんは 寺泊会創立記念招待公演で上京された懇親会のステージで見事に披露してくれた。

 

 

 

東京寺泊会のためにと出演を快諾された浜っ子会様ご一行に感謝。写真左から2人目が浜っ子会平石会長さん

前列右端の女性が、寺泊会平成30年大会で、寺泊おけさ体操指導の平石久子先生。

 

伝統民謡の継承と伝統海岸の景勝が融合

 

八里離れた世阿弥の佐渡ヶ島がさざ波運び、

 

風姿波伝の文化となって、寺泊の粋な音と波の

 

芸術を生んだと想像すれば波は神の授かりかも。



観光客が絶えない、角上さんのある寺泊・魚の市場通りは写真右下あたりにある。

佐渡からの来る波は無数だが、ふたつと同じ姿形のものはない。耳を澄まして聴けば波と浪の協奏曲になっている。夕暮れになれば、これに聖徳寺の鐘がゴオ〜ンと合いの手を入れる。寺泊は、真夏の今日も行き時である。
どなた様も、寺泊へおいで下されば、大小の波も浪も無料で、音声付にて、ご観覧できるのである。
今の状態を見たいならライブカメラでどうぞ。波は最初に小さな壁を造り、立ち上がり、限界までその状態で突き進む。まるで砂丘を目指して競走しているかの如くである。やがて持ちこたえられなくなり、バッシャーンと倒れこの際に、後ろから追いかけてくる波に飲み込まれないように、音を立てながら白い波に変身する。この瞬間がたまらない。
陸上と海上の風向きにより、素晴らしい波は、誰でも、いつも見れるわけではない。
平成29年のお盆も又来るが、「
南の風日中北西の風、海上では南西の風やや強く」と予想されのではないかと思うと、また波見物を楽しむしむことができるであろう。

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東京分水会入門編

祝・新会長誕生

東京分水会の基礎知識

 

温厚実直と評判だった小林恪会長が今大会で会長を退任し、大島芳明氏(笈砂出身)が新会長に就任された。マラソンが好きという快活な新会長さんは、寺泊会にも時折来賓参加されて数年経過のお馴染みさんである。持ち前の笑顔で、文化色漂う分水会の継続運営に尽力されることであろう。今後も、元会長の平出英雄氏(東京良寛会主幹)や恪さんなどとタッグを組んで、会の内外にアピールしながら文化講演から歌謡公演まで、幅広く企画を創出されるのに違いねえと、我々お客組にとって大きな楽しみである。


2018年6月17日(分水出身者の集い開催記念

今年も東京分水会から寺泊会に招待状が届く。会場は上野公園に建つ 上野・精養軒 3階。午前11時開会。

越後分水町のような文化教養の高い会からの招きで楽しみなことは、総会前の講演会である。講演会となると想像することはトークショーであるが以外にも津軽三味線奏者さんが講演だそうな。

平成30年度の分水会は、記念講演として同市出身の 

津軽三味線奏者 夢弦 桃太郎氏 を連れて来る。

講演者プロフィール

 

津軽三味線に興味ある者なら、毎年5月の連休時期に津軽で開催される、全日本津軽三味線大会を憶えておられるはずである

個人一般の部(Aクラス)で新潟県人として4年前に出場したのが今年の講演者 桐生 至さんだ。

元中学校の先生でありお父さんも同じだったという今は夢弦 桃太郎さんとして地元の公共文化施設に出演多数。寺泊町にも、はななす会館での公演経験がある。

・ギター・三味線・中学教師

三条高校時代はギターに目覚め、フォーク・ロックと熱中するようになった。

これが兄と同じ大学(明大)に入るや、民謡の魅力にとりつかれやがては、生涯の友となる太棹にたどり着く。田舎にいた親父はいつも三弦の上達度を気にかけていた。

お-い至、東京で頑張っているか~」の電話は三味線に対してであり、決して学問に対してではなかったという。(同氏のブログより)

分水会には彼の父親が粟生津中学校の教師時代に受け持たれた者もいるので懐かしいことだろう。

講演者の演題は「津軽三味線と私の弦楽人生」である。

・無言館誕生
 

 

分水会といえば、直近4月のニュースでは、

著名スポーツバッグ製造メーカー:(株)クロスターの創業者で牧ケ花の樋口孝四郎さんが、ふるさと分水(現燕市牧ケ花)にある生家(築100年)を改装し、長年収集していた骨董・美術工芸品などを展示する「与右衛門無言館」を開設したことだろう。樋口さんは浅草の自社ビル屋上で隅田川花火大会に寺泊会を招待したり、分水会大会の賞品を多数提供されたりで、篤志家そのものの人である。分水会の宴席では毎年お会いして20年近くの交流となる。

絵画美術品として平山郁夫、東山魁夷,同郷の横山操など多数の作品を展示しながら、祖先に感謝し故郷に文化をとその真意は尊敬に値する。直江兼続の家臣としてお仕えしていたご先祖与右衛門様も、孝四郎よくやってくれたと御喜びに違いない。イベント好きな分水会さんは、桜の季節に企画する花魁道中ツアーと抱き合わせに、無言館訪問コースも加えるであろう。

演歌歌手関野三千夫の世界

今年も上野精養軒の懇親会には、国上出身の演歌歌手・関野三千夫さんが宴席のステージを飾ってくれる。

分水会には

講師
 

地元出身の演歌歌手が2人もいるから

 

年替わりでステージで唄う贅沢な会と評判である

 

上野・精養軒3階「桐の間」・総会開催

会場は昨年と同一だ.

平成29年6月の分水会大会の様子をレビューするとこうなる。

 

特別講演:樋口 勲氏の「大河津分水物語・人の手のなせる業」に会場は大歓声。近年の講演会では稀である。

雰囲気

 

 

若くて驕らない樋口氏の講演に110名を超える参加者が魅了される

かつての水害大国だった越後蒲原平野で、そう遠くない先祖たちの活躍の秘密を攻めに攻めまくった。

越後人の我が大地・田畑・平野を守りたい・そのためには己の辛苦流血を厭わない溢れる郷土愛精神があった。

泥と汗水は現世に生きる自分達が流して、後世には芳醇な生活を保障をさせねば、と重機がない時代に人手だけがたよりで実現した大河津分水を、物語として聴くと、信濃川を背に越後平野で育った蒲原人でなくとも大きな感動を与え胸を打つ。

 

 

信濃川から日本海側を人工衛星(又はドローンかヘリコプター)で覗くと、海に一番近い地域は三島郡寺泊町となる。正確には野積地方となるがここが分水バイパスの最終地点である。河川水日本海放流の出口である。

寺泊の本間屋数右衛門親子、白根の小泉蒼軒や田沢実入、野積の星清五郎らが幕府に分水建設工事を請願したのは江戸時代、何回にも及ぶダメモト請願の繰り返しにもくじけず続けるも叶わず、信濃川に近い蒲原平野は河川災害が頻発。だが離れた三島郡寺泊や野積の被害は、甚大ではなかった。しかしながら越後の将来を憂う気持ちにおいては、蒲原が内陸部であろうと変わりなく愛情を呈し幕府請願に力を貸す寺泊の賢人たち。

 

 

被災地域民は足元の大洪水にこれでも工事不許可かと嘆く暇なく、人力で分水路手掘り作業を開始した。さてこれから通水という時、あの横田切れ、浸水は越後下越平野のほぼ全域。破壊橋梁多数で蒲原に橋が消滅、これが僅か120年前7月22日。明治29年、朝8時に怒涛の大災害。

 

 

燕・三条・長岡・新潟・新発田まで惨状は全域に広がり凄惨だ。これが3年に一回来やがると恐怖の信濃川様になった。

 

だが当時の日本は、河川防災の知識乏しく、川岸に盛り土工法でも最新科学と勘違い。西も東も河川災害続き。幕府曰く、「洪水は越後さんだけではねえすけ」と、越後の大工事プロジェクトを許可する気持ちがない。事実、隣の信州でも千曲川氾濫で道路面から10メートルの松の木が埋まる大洪水が発生。

諦めない越後人。幕府請願活動続けながらも、地元では破産商家の続発で物資なく、米なく、薬ない。蔓延する疫病。

越後壊滅時代の到来。信濃川がミソ糞一緒に垂れ流す(講演者,談)悪魔の川に変貌したか。ご家庭においしいおコメどころの話ではない。

 

こんな先人の辛苦があって、脆弱な堤防第一期工事が終わったのが明治初期。第2期工事が明治末。補修手直しが昭和初期。やがて越後人の夢平成に実り稼働中。2022年で通水100年。だが地球温暖化で世界は干ばつが進み、立派な可動堰でも信濃川から遥か離れた上流が干上がるかも。人類はいつの世も、次なるTREATS脅威に備えねば。それ故に我々のようなコンサルタントが活躍しているのだが。

 

 

 

巨大可動堰関連工事完成の暁には、リスクと機会の中に生まれるチャンスで寺泊海岸の大変貌ぶりは平成の世では誰も想像できない。妥当性確認が不可能な状態で設計検証のリスク影響で慌てる寺泊海岸物語はまだ先のこと。寺泊夏戸在住で高名な史跡ボランティアガイドの小越忠教先生も、推論を立てるには早すぎるかも、

30年後の話とはいえ、地中海の一大リゾート地をしのぐ, 国立寺泊海浜リゾート公園建設の実現にも結び付く、騒音並みの風評が寺泊会で飛び交っているが、平成の巨大工事プロジェクトのお蔭で現実になるやも。長岡と冠を付けるのだけは、なしにしようて。

体操の先生ですか、いいえ、彼は樋口勲先生という、河川防災論のスペシャリストだ。燕市の鈴木市長も、樋口勲氏の大規模河川災害歴史認識とその語り口についてはお気に入りである。地元燕市分水では、近隣の小学校児童にも河川防災と歴史について教育中。

詳しくは樋口先生監修のブラツバメで動画公開中(閲覧無料)。

 

 

本来は教諭向け研修が先であるが研修嫌いが多いときく。但し平成のワークライフバランス最優先のこの時代、先生のザンギョウ(教育関連従事者正規時間外延長作業)だけは、民間企業と異なり収益向上優先の感覚が少ないだけに正規時間中の研修にしないとクレームが来る。児童に先生が慕われた昭和前半の世はとうに昔の話になり、平成の終盤にいる多数の公務員先生達に対して、共済年金受給資格者に到達するまでは、その家族と共に過ごす時間を、我々が恣意的に作ってあげなければならないのである。最近ではお坊さんも残業阻止を唱える(葬儀関連は除く=納骨するまでは高収入に結び付くからか)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなポーズもされたと噂の先生です。東京新潟県人会会長の小林保廣さんや、80を超えてもすこぶるお元気な村上昭治・元分水会会長さんなんかも会場最前席で大激賛されておられました。講師曰く、講演会は聞く側が長時間同じ姿勢でいると、必ず飽きられてしまいますのでと、河川災害歴史教訓から編み出した、講演参加者用ストレッチ体操だそうです。これで一息ついてから次のテーマの話に進むから飽きが来ないのである。樋口先生は横田切れさえ無駄にしないで有効活用される逸材であった。

 

 

 


小林恪男会長さんの手腕とおもてなしは終始満点でした

過去に見る文化色高い分水会入門講座

 

2014年の 東京分水会には 「花魁」 登場

 

 



燕の分水か、分水の燕か。
 



早いもので2006年に分水が燕になってから10年が経過した。寺泊会がおつきあい頂いて20年、思い出の分水会を覗いてみた。

梅雨時の6月こそ分水会の季節である。燕市の市長、鈴木 力氏は嬉々として上京。あいさつに壇上に登ると、「若いねえ」の声がいつもあっちこっちに響く。御当人も意識されてるようで、最年少の市長当選と言われておりましたが、早いものでもうすぐ60の大台に突入しますて・・と、それでも雰囲気は、お若いの一言に尽きる。対立候補もなく無競争での当選されたこともあった。話し方もソフトで穏やか。淡々として、燕市の動向を詳細に解説する。

かつての、小林前市長さんのごとく分水に関する情報をここでは優先しながら。

 

東京には燕と合併した旧吉田町の会(首都圏えちご吉田会)もあるから、TPOで来賓あいさつを考える。

吉田の話題は吉田会で、分水の話題はここの分水会の宴席で盛り上げなくてはならないから、ネタ探しがうまいわけである。


さて寺泊町に大河津から分流して多量の土砂を運んで96年。寺泊町は浜辺の面積がすっかり太ってしまった。

だが安心するのはまだ早い。総完成までにあと30年はかかる大分水工事が粛々と進んでいるのである。

 

こなた燕の洋食器生産開始100年を遥かに超え、市長さんはハイテク生産技術で進化した洋食器産業PRに余念がないが2017年大会の市長さんは、全国住みたい街ランキングで11位にランクされたことや

シンガポールの首相がお忍びで燕市・クガミにご来訪されたことやふるさと納税で上位にきている事などを

満面の笑みで披露するや若々しいお顔が一層輝く。

 

 

一方2017年のプロ野球界では連敗が続き天下のヤクルト球団は最下位の状態に甘んじている。それはともかく、

かつてはヤクルト球団にいた元気良い外人がホームランを打ちまくったのにと、多くのファンは、心の休まらない観戦であろう。

燕市は、「ツバメ」のご縁で球団と仲良くなり、地元のイベントにマスコットを呼んだり、世界最高品質を誇る、燕産の洋食器を優秀選手の特別賞に、提供したりで、多彩なアイデアを馳駆し、燕市上空にいる本物のツバメは、蒲原平野の、はざ木を見降ろし、今日も天空を機敏に翔び廻っているのに違いない。
地元に来た
東京ヤクルトスワローズ(同球団の公式HPの動画より引用)


分水会の強みは、伝統的な「おいらん道中」の存在である。数年前には、すったもんだの末中止となったそうだ。今となってはこの決断は、どうだったかなあと観光協会会長の田中公一氏(当時)は、振り返りながら、首を右に曲げたり左に曲げたりの姿が懐かしい。
決断日が3月13日だったからねえと、さぞかしやむに止むなく風であった。
その鈴木市長も大歓迎した「花魁」は、平成26年には江戸の浅草へ来た。
分水会も吉田会も、設立20年ちょいで歴史は浅いが、大会運営には素晴らしい企画力がある。

現会長の小林恪男会長は真面目派で品が良い。

現役会長の逝去に伴い4年ぶりに再登板したH寺泊会会長と異なり、いつも丁寧に会を運営、分水会歴代の会長さんには、平出英雄氏、岡本満氏やNHK放送技術センター局長・村上昭冶氏氏等が名を連ね、いつも元気な姿を見せ、集いは賑々しく開催される。


ここの会は寺泊会と大きく違うところがある。相違点は現役市長さんが来賓としてごあいさつされる。昨年こそ大 高桑栄松先生を偲ぶ会に出席とかでお目にかかれなかったが、郷人会への積極参加ぶりには、羨ましい限りである。これに寺泊会、吉田会ほかの郷人会の役員も招待され参加させていただく。

 


寺泊会から見て我が親父であると慕いたい、前長岡市長さんへは、合併後、毎年御招待状をお送りしてはいたが、創立60周年の記念大会にも、そのお顔を拝見する事が出来なかったなあと、寺泊会の会員達は残念がる。

と言っても、そのお名前とお顔と言われると寺泊会ではほとんど知られていなかった。なじみが薄いのである。

 

その市長さんも、昨年10月の新潟県知事選挙で落選し退任を余儀なくされ、ただのお人となられたが、5期務めあげた市長さんの退職金となると、さぞ高額と拝察し悠々の人生であろうと、我々の居酒屋談議のネタに貢献している。それともあと3年後を見込んだ再挑戦戦略研究人生か。そうは問屋が卸しまいて。


分水会の田中公一・燕市分水地区商工会・会長とも、長年のお付き合いであるが、今年も、威勢良くごあいさつされる。会場からは、仕事は息子さんが立派に継いでいるので安心しているに違いないと
の囁きも。

そしてステージに加わり、故郷を熱唱されていたが、ことしも純粋な越後蒲原人ここにありと確認した。

平成26年は、6月15日(日)に第20回分水町出身者の集いとして、会場を御茶ノ水から浅草ビューホテルに移し、

更に平成29年になると、6月18日(日)に会場を昨年と同じ上野精養軒に移し賑々しく開催されたのである。
毎年多数参加のもと、盛大にとりおこなわれるが、今年も大抽選会には、善意で多数の協賛品が集まり会場は蒲原分水の熱気につつまれていた。

(写真は第23回大会、一部は第17回東京分水会原稿より転載)記事は講演会資料から抜粋。取材協力:東京分水会 記事掲載講演者許諾済

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634mの山なら毎日見ています

 

634メートルで有名な 弥彦山
寺泊の朝もやを見ずして
 弥彦山のふもとは野積です。

寺泊もやっと晴れの日が続いた( Morning 4:35am)

     ◆朝もやのかかる弥彦山(寺泊観光協会・早朝ライブカメラから)

そして夕方になって、お寺(聖徳寺)の鐘がゴーオンと鳴る頃
 

 365日は見えませんが
寺泊の夕陽見ずして
●家に帰るなかれ

 

 



       寺泊観光協会・リンクページからのコピ−




 佐渡汽船発着場付近・寺泊ライブカメラ)


こんな穏やかな海が毎日つづくとは限らない。
風吹けば、波が息吹くてらどまり・・寛風庵
お座敷で「寺泊おけさ」でも聴こうものなら昇天気分。

 

 

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寺泊海岸の冬は風強く波高し

 

    ●今朝は、風冷たく波高し
2018年2月3日(土曜日)寺泊港・西北西の風7M・気温1℃、天空は鉛色で松本清張の小説が良く似合う。空が鉛色になると人の恨みつらみが爆発し、行動を起こしたくなるのだと作家さんは構想を練る。お〜怖い。



 今年はさすがの寺泊も大雪に見舞われ2月6日の朝は、日本海側特有の大寒波とドカ雪の地に豹変、寺泊町の浜も視界不十分になってしまい、写真どころではないと地元の仲間からメールが入る。あと何日こんな日が続くのだろうか。たがもし晴れてくれたらと仮定し、634メートルの名峰・弥彦山を抱く寺泊の冬は魅力的であると返信したが、毎年のことながら日本列島の冬は、日本海側と太平洋側では、特に関東地方の空と越後北陸では世界が全く異なる。

束の間の晴天でも、北西の風がほっぺたを殴るようでまさに寒冷の候である。寺泊は豪雪地帯ではないが浜辺は白く染まり離れた都会から眺めている限りでは、「わあ・真っ白だ」で済んでしまう。ライブカメラで岩に砕ける波を観賞すると風情があるが毎日というわけにはいかない。

何といっても2月6日(火)のようなひどい吹雪の浜でなかったら、海岸に突き出た岩場のそばに来て本物の浪音と、しぶき散る天然風景を鑑賞するのが最高の贅沢である。こんな時は演歌が良く似合うが、海に向かって唄うようなのんきな若者はいないだろう。

越後の町に湧き出た住民投票騒ぎ
▼ さて弥彦山へ登って。山頂から臨めれば遥か、米山が見える。山のふもとには、賛否両論で存続している東京電力・柏崎の原子力発電所がある。稼働の是非は利害関係者の意見が100%一致することは永久に無い。これを政争の具にして得した人損したひと何人いたことか。今でも継続している。
原発と言えば、越後の日本海でかつて、建設の是非をめぐり町を挙げての一大騒動が勃発し、大騒ぎになった事件がある。

■ 思いだすのは、1996年8月の住民投票騒ぎ。寺泊から佐渡を見て右側にある、旧西蒲原郡巻町で住民による、建設賛否投票である。このページのファンにも、俺の郷里だとする輩が多くいる巻町(現・新潟市西蒲区)の原発は、電力会社と一部の行政連が、建設のメリットを挑発し、あわや建設決定かとまで言われていた。寺泊から歩いて行けない距離でなくこの弥彦山の裏にある。海沿いの巻町沿岸にある海浜には、坪200円で、先祖からのの土地を売り、当時200万円の大金を手にし嬉々としていた親父に反抗し対立した息子達も多数いた。


■ 当時少年だった彼らは、のちに真面目なサラリーマンなどになって、定年を迎え、余裕はないが時間が余っているらしい。

有る者は、同窓会の幹事になったり、良寛様にはまったり、ふるさと会や県人会の役員になったりで、結構忙しいらしい。


■ かくして、巻原発4基建設反対の住民勝利で、リスクの大きい核反応炉は建つことなく、今では寺泊海岸から弥彦裏の間瀬を通り、新潟市内までは、平和な日本海沿岸シーサイドを形成している。越後最大最強のゼネコンにも、角さんにも建設費から捻出されたであろう現金は、流れなかったと聞く。

巻町長さんの功績


■ 住民投票翌日の月曜・平成8年8月5日は、地元新聞のみならず、全国紙まで見出し大きく、全町民の88%が投票所に行ったことと、建設反対が1万2478人、賛成・7904人と報じた。笹口孝明町長(当時)は、巻に対して30億円余りの協力金を積んで来た「電力会社」さんに、町所有の広大な建設予定地を、売却しない結論を伝えたのであった。


元旦の弥彦山頂から寺泊と柏崎の海を見下ろす

このきれいな海も放射能で汚染されたらと思うとゾッとする。


何人もいる寺泊の賢人達

寺泊在住で郷里の生情報を熱心に、且つ精力的にカメラを持ち込んで紹介しておられる賢人小川隆司さんのHPからの借用であるが寺泊の原風景や日常生活から、行事・文化・民俗芸能・歴史を蘇らせてくれる優れものと確信する。

とにかく寺泊の海は冬が厳しいが素晴らしい。波がゴーゴーと音を立て、風がヒューヒューと伴奏する。佐渡島は、この地平線の先にあり、そのずうっと先はハバロフスクだ。別の賢人はこの荒れた地に立って 魚のアメ横を創ろうと決断した。

 

もう一人の賢人はこの地の歴史文化史跡を丁寧に探査し、これを広くボランティアガイドされている。いずれも栄誉賞該当者さんと尊敬する。

 


 

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体罰者の具体的な処分案

 

すでに年金を受給されている寺泊会居酒屋談義より 

  

寺泊会発・体罰者と年金       的こころの珍提案・・

 

◆平成30年度大相撲初場所(2017年1月14日初日)は関心を寄せた横綱暴行問題を払拭するほど優しく紳士的な力持ちの平幕力士優勝で終わった。横綱が金星配給しまくりやがて休場しここに話題が集中した。

基本的には日本人は老若男女とも相撲が好きである。だがスキャンダルの本質は格闘技の世界だけに錬成者同士では皆無にはならないだろう。毎日ぶつかり合い押したり引いたりの生活で汗を流しているので、なよっとしておられないわけである。

大衆向けに明快な説明のない構図は協会に潜む脆弱な統治に起因する。

責任を決定する評議会がある。その委員長には派手で言葉多いご婦人に任せている

他の委員さんは楽であろうが、本人がふんどし付けて土俵にあがった経験もないし、優勝旗授与でさえ土俵に上がれない、しきたりの世界での検討会トップとして、女性責任者(CMO}の公式発表が組織の最終決定だそうで、国技尊重のレベルには程遠い世界に見えてくる。

去年の暴力事件、あれは異国風習の体罰か指導か当事者の声がいまだ聞こえずじまい。

憶測でメディアが報じるだけでじれったい。相撲記者クラブ会友さんによる話のように、今回も先輩力士が後輩を荒く諭す体罰だったのか。だが世に体罰が原因でその後の人生を変えた諸例は無数にある。

 

・・

体罰の犠牲

・・
体罰と聞いて思い出す事は、12年1月10日のファイルからで、新潟県内でも多数発生していて、県は頭を悩ませていた。そこで中学・高校・小学校を管轄するすべての教育委員会に対して、部活動における、体罰禁止徹底を求める通知書を送付し、試合に勝つことのみをを重視した過剰な練習を強いたり、ましてや不当な体罰を行わないとの趣旨で、おふれを出したものである。更に、翌16日(土)には、校長を集め、体罰禁止に関する指導を徹底させると発表した。(同年1月11日のテレビ新潟の報道より)

・・
誰もが勘違いする、スポーツの訓練に、少しくらいの体罰は当たり前の精神、監督は自分の指導したチームが、大小の大会に優勝するや、己の力が素晴らしいから勝てたのだと思ってしまう。これが勘違いの起因になって、自分の言う通りにしない子が憎くてしょうがない。
・・
部活で指導と称して制裁=体罰事件は、古くから存在し珍しくはないが、事件として扱う場合でも、何年かすると、いつの間にか時間の経過とともに忘却されてしまう。教育委員会が謝罪し、校長が管理職2人を座らせて謝罪し「まことに申しわけございませんでした」と、やおら起立し一礼する。左右の教頭か主事あたりも、一緒に起立し校長と頭を下げ謝罪会見は終わってしまう。大抵、「2度とこのような事故を起きないように再発防止に努めます」の陳謝のことばで会見は終わる。再発防止に何をどのような方法で変革するかは、どのメディアも深追いしない。だから、コンサルの立場として、教育現場でISO9001を取り入れなさいと提じているが、教育に品質を問わない風潮が多く、部活の顧問は残業扱いを主張中。
・・
体罰か指導か教育か、かわいがりか、
いじめか暴力か相撲協会内部抗争か・
・・
平成29年暮れまで
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暴行を受けた弟子の親方に取材者が殺到
・・
部活ではないが、相撲界で発生した事件が連日大きく取り上げられていた横綱暴行問題、協会理事職の声が第3者にはなかなか聞こえてこないが、相撲協会の体質は改革したか、弟子が被害を受けたとされる部屋の親方さんはセメダインで唇を塗ったかの如く黙秘期間があまりにも長期で、その解決策には、演出のプロであるプロデューサ職の段取りで公式会見の場作りをし、なかなか口を開かない親方さんにご登場願い、徳光和夫さんなんかの司会で改革の思いと積年の恨みを丁寧に吐露して頂くしかないだろう。
・・
相撲部屋暴力事件
・・
かつて新潟県民にとって忘れられない相撲部屋暴行死事件があった。
越後出身の少年力士・齊藤俊(時太山・当時序の口)君は、リモコンならぬビール瓶、金属バットなどで殴打されたり度重なる部屋のリンチで2007年6月に暴行死した。遺体となった我が息子の真実の原因を探ろうとお父さんは不審死を解明すべく実家のある新潟市まで遺体を移送。やがて新潟大学の行政解剖が変死を解明し、体罰による死亡事件として事件は展開した。
・・
火葬を急かした訳
・・
稽古場で傷を負って倒れた俊君を助け介護することなく、部屋の親方に背いてはと一緒になってその体めがけて、かわいがりと称し、めちゃめちゃに痛めつけたとされる。屍となった俊君を見て遺体の焼却を急ぐよう葬儀社に要請。
この知らせを聞いて、普段はおとなしい俊君の父であったが、焼却されたら何もかも息子の死因が判明しないと、頑として焼却には応じなかった。
・・
昨年発生したリモコン殴打事件も、先輩がそこまでやるならと、同席力士全員も知らんふりをしていたのではなかろうかと推察される。一方部屋リンチ事件は、その後、暴行に関わった兄弟子や親方は逮捕され、親方(2014年没)は懲役5年が確定し日本相撲協会解雇に至った。
..

世の中に教育委員会の謝罪会見は氾濫しているが、謝罪者のペナルティに触れたことは、見た事がない。アイデアを出してこんなペナルティはどうだろうかと、寺泊会恒例の飲み会で話題が出た。参加者はおごく少数の元教師や多数サのラリーマンリタイア属で、退職金で家のローンをすませている。だがカメラだの釣りだの城郭廻りや世界遺産巡りだと遊び暮らすには相当足りないと陽気に話すも結構海外の湖で白鳥や、ヨーロッパの世界遺産の写真などを撮っているから余裕は有りそうだ。
話が弾み去年の相撲協会事件はもとより、かつての教師による体罰処置も話題になり、その処罰案について各自が案を出した。
いずれも教職員が体罰を与えた場合と仮定し、実現不可能であるが、提案だけ出すのはタダであるから話は終わらない。
。。
体罰した教師への処罰珍案3題

その1案
体罰を与えた教諭のいた校長の退職時に、校長の退職金を半分に減額する指導者責任案。
その2案
教育委員会で謝罪した人たちは既に、かつての職場の現役を引退しているだろうから、年金支給額を半分にする。たとえば教育長が私立高校の校長出身だったら、私学共済年金の受給者だろうから、即以降の支給50%減額の処置をとる。
その3案
現役の教諭が体罰を与えたら、その教諭の将来の共済年金を60代から90代まで支給を停止する。この期間中に当人の没後は、受給権を消滅させ、その家族にも支給しない。

こんな名案を徹底させたら、校長を集め体罰委員会を開催し禁止令を出すよりはるかに効果的であろう。ペナルティの存在しない法規制で順法をいくら唱えても全く効果がない。
体罰者と責任者の処分を、身をもって判らせるには、これらの名案しかないだろう。


とにかく、再発防止のマネジメントは、これをコンサルする側も指導料をお払いになられる側も、ISOのマネジメント=バリディティ=原因を取り除く処置などと、教科書的な説明だけでは解決不可能でこの理論は存在するが、体罰に関しては本人・管理者を処分する包括的な処分がない。体罰に関する最適な効果を生む法規制がないかぎり、この状態が永続するであろう。

珍案ではあるが、その当事者を自分に置いた新提案を、支給額において大小の年金受給者が集う寺泊会・会員の珍案でしかでないが世間の反応やいかに。
 

 
教諭の処分集
 
(過去に日本で発生した事案における教育委員会の処分例)
 
発生時期 体罰者年齢 部活名 処分
6月鹿児島 顧問(36) 中学バスケ 減給3ケ月
7月香川 顧問(43) 中学バスケ 減給1ケ月
7月鳥取 顧問(55) 中学サッカー 書類送検
8月兵庫 顧問(35) 中学バレー 減給1ケ月
9月鳥取 部長(43) 高校野球 戒告
12月大阪 顧問(47) 高校バスケ 免職
 6月新潟   教諭(47 運動部 免職

体罰事案は、一部を週刊朝日、2012/1/25日号より転載
=体罰ではないが、運動部員の活動指導費としてニセ報告で、教諭としては大金の、72万円をフトコロに入れた新潟県旧西蒲原郡にある県立M高校の先生がいる。

・・

実際にあった

新潟県の公立高校教師の横領の手口

・・

 

少額事件なのに、全国紙のタイトルに、運動部(バレー・ラグビー・ホッケー)の強い「高校の運動部・教諭を懲戒免職」として中央でも報道されたが、悪事を働いた先生は、前任地のT高校での教諭時代にやらかした詐欺事件が異動先のM高校在任期に発見され逮捕連行されたので、不幸にも比較的知名度の高いM高校の教諭逮捕されるとなってしまった。だが都会人にしてみたら、新潟県の公立校といっても、地域に馴染みなく、どんな学校かも判らないが全国紙には実名で報道されてしまったので新潟県のM高校側は慌てただろう。

 

起訴されないので、余罪は不明だが、件の高校教師は40歳を超え、一番金のほしい時代だったか。しかし実際問題、一般には研究開発費名目での割り当て金のない、即ち勝手に備品購入、外注手配の注文書を切れない、高校教諭が本給以外に、正当な臨時収入を得るのは至難の業である。寺泊だったら、お寺の住職をしながら高校(寺泊分校)の先生と兼職だったよと振り返ってくれたが.

・・

通常の先生は副職ができない。そこでついつい、部活の遠征に、人員オーバーさせ、子供たちの指導料をごまかし、己の懐にいれていた由。折りしも2013年7月25日には、大学の教授(55)が研究費2180万を懐に入れたとして、地検特捜部に逮捕されるとの一報が入る。多額の国税詐欺事件で、件の先生は、残り少ない人生を棒にふっている。そしてこちら、公立高校から公立高校へ異動した少額事件の新潟県の先生。異動先の高校は優秀な教諭が揃っており、悪事を企てる発想すらない校風で、コニュニケーションを取りずらかったと推測するが、新任地での再発を未然に防げたことは、せめてもの幸いである。

処分は重いか軽いか、懲戒免職は当然で、共済年金半減、または支給中止よりはるかに軽微な処分が多数でこれ如何。教諭を指導管理するマネジメント層の連帯責任はない。再発を防止しますの一言でおわり。体罰事件で校長の更迭より有効な、案を公募しても遅くない。

・・

新潟県の場合、1月発表のデータによると、過去5年間で体罰による教師の懲戒処分は、19件発生しており、部活動中がこの半数だ。更に、新潟県の教育委員会は、13年6月17日には、体罰が原因で高校教諭1名を停職3か月したほか、中高合わせて5名を戒告処分にした。(テレビ新潟ニュース、産経新聞報道より) 後を絶たない不祥事で教育委員会も臨時会議で忙しいそうな。・
90万人もいる先生による
体罰教師微減 わいせつ教員増加
・・
消えることのない現象
文科省2017年の公表によると公立学校の教員による体罰者同様、わいせつ行為教員の多さにも都道府県の教育委員会が頭を痛めているそうである
しかもその対象者の多数が自校の生徒児童だったとなると、安心して子供を学校に預けることもできない。
・・
全国では教員が90万人以上もいるから、彼らの行動を密閉した校長室で何をなさったかとか、部室、トイレ、ホテルなどで常時監視するのは困難であろうが、昨年わいせつ行為などで処分された教員数は300人に迫る勢いで、約半数は免職されている。一方の体罰者に絡む処分者は幸いにも減少気味で、約600人程度と発表された。(2017年12月付産経新聞)
・・
Editor's note
◆体罰にしろイケナイ先生であろうと、事件性が有りこの手の原稿をつくる悩みは新聞社と異なり取材できず手元に関連写真も一切ないことである。
寺泊会だよりは、写真さえ有れば何でも原稿になりすぐに完成するが、事件性の記事は慎重に扱わないと危険をはらむ。
体罰の初稿は5年前にあげ、非公開としていたが平成29年、当事者と一線の程度がどこまでだったかがテーマの不倫問題が少し静かになったと思ったら、横綱体罰のニュースが連日報道される大問題となり、昨年暮れ追記手直し校了させた。
 

 

 

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日本遺産にふるさと寺泊も登録される

 寺泊が日本遺産に次は良寛独歩街道か

 

次のオリンピック開催地は 「トキイイヨ」 

と、外人さんがたどたどしい日本語で発表直後、会場にいた日本招致委員や便乗者たちは抱き合いながら歓喜に包まれ

テレビ桟敷に座って待機していた1億の日本人の何割かも大喜びしてからはや2年。

 

この一大行事に乗り遅れまいぞと商機を逃がさず、経営の世界でいう機会を強みにし、

結果として観光客目当てのビジネスは大健闘。

 

昭和生まれが圧倒的に多い本稿の読者層も、元号が平成から▲▲時代と来年発表されると同時に、高齢層のくくり基準も新規になり長年親しんで来た長生き階層の人を、

明治・大正・昭和の3代を生き抜いて来られた元気なお年寄りさんと呼ばれる代わりに、今度はあなたも間違いなく

昭和・平成・○○の3代を生き抜いて来られた方と呼称されるのだろう。どうよ。

 

さて、今都会では新規ホテルの建設ラッシュと老舗名門ホテルは大改装中。

国もスポーツ施設に税金廻してスタジアムの拡張、再建、実績ある水泳選手をスポーツ庁の長官にするわで、賑わい座を呈す。

 

それにしても忘れられないのは、

どうかこの私をオリンピックまでは知事にさせてよと、

都民に悪事がばれても泣いてすがった醜態事件であった

一方、インバウンド・外人観光客の来日もうなぎ登りで観光地にどっと押し寄せ、商社マンでなくとも外人と話す機会は多し。

商店、旅館はにわかの好景気に酔っているらしいから、知名度を上げた日本。オリンピック様々である。

◆日本遺産は、天からの付与でなく、手を上げて文書で申請したもの勝ちである。まるで個人年金の申請みたいなものだ。そして地方公務員の発案だけを待っていても認可プロセスは始まらないし終わらない。

 

個人でまずは申請しないと始まらない事例は世の中でゴマンと有り

数えたらきりがないが本題の前に寄り道するとこうなるか。l

 

 

キャッシング過払い金、不要になった定期券の払い戻し(自分で行動をする)

●高齢者退職金請求。65歳超の適正退職時にハローワークに申請した者だけに支給)

●明確な医療ミスに起因するインシデントの示談交渉

●適正使用中にも関わらず各種電化製品他の機器不具合品クレーム申請

●通販品到着後イメージと違った品物を受け取った際の別品への交換申請

●自分の給料不相応以上のかなり高価な道楽品の購入(家庭内特にカミさんへ上手に申請)

●逮捕・拘留時の保釈申請(弁護士経由)

●留年予想時の担当教科教授へ単位取得のダメモト嘆願申請

 

 

等とまずは自分の意思で申請しないと始まらない事案は、無数にある。

日本遺産は自治体が申請窓口であるが、きっかけは一人の発案からでもあり得る

郷里の遺産を全国に宣伝拡大したいとする少数の意志がまず第一歩となる。

文化庁が唱える日本遺産当初の認定達成時期まであと3年残されているので登録の可能性は限りなくある。

 

桜並木と花魁道中なる素晴らしい日本遺産を有する分水会さんの故郷も登録すべし、一方では越後一ノ宮と弥彦山を抱く弥彦村人会さんの故郷も十分資格アリ、更に永年継続しているひとりの聖僧を深く崇敬する全国組織の良寛会なども公平にその権利と遺産を所有している。

だが申請段階ではほんのスタート期間で、実際はこれからが難儀であるから相当の覚悟と準備で日本遺産申請に臨むことが肝心である。マネジメントの教材通り機会とリスクは表裏に有り、遺産登録で観光客が集中しすぎてやがては環境破壊のリスクが追って来るやも。

初期の申請書類作成だけなら、我々コンサルの得意分野ではあるが。

企業向け新規コンプライアンス規定を作成するより遥かに易しい。

 

 

日本遺産の誕生へ

オリンピック開催決定は日本遺産生みの親。

大会まで100件の認定目標進行中。

 

 

文化庁の長官さんは新潟県人で日本遺産認定の最高承認者のひとりである。このひとがハンコ押さないと何も決定しない。

偉い越後人もおられるものだと感心する。

さて日本に多くの観光客が来るのなら、世界遺産にちなんで、オリンピック前に100件位を目標に日本遺産も作ろうと

平成27年に第一回の認定遺産18件が発効され、今年は3年目で17件が登録。その中に寺泊も入っていた。

 

ここにやっと寺泊の名前が名乗り出た。その推薦理由を当てる場を設けて考えた発表前段階での予想一覧。

 

寺泊が認定される日本遺産理由を探そう会

 

 

かくも狭いふんどし町にお寺が20も、支えてくれた檀家さん物語り

太平洋側は波打ち際の浸食で悩み、砂浜が想像以上に狭く狭くなる日本において

寺泊の砂浜ばかりは、魚のアメ横が建ち駐車場ができる程、3倍にも5倍にも面積が広がったからとか

ロマンチックな汐たき節のいわれと遊女誕生ものがたり。

蒲原の惨事横田切れ大洪水の際には寺泊から進んで援助の手を差し伸べた豪商・豪農物語りとか

弥彦神社の祭神が、弥彦の山を越える前は寺泊・野積におられた真のいきさつとか

魚のアメ横市場が全国の魚商スタイルを変革し先駆けにした中央海水浴場の浜の歴史とか

全国に伝承されている銘酒・日本酒の蔵元で、多数の寺泊出身杜氏が主導活躍していた酒造り物語

 

等とどめなく話題にのぼった。

 

 

景勝地・寺泊は想像するに容易な案件がゴマンと有るので寺泊会でも我が町の日本遺産ならこれだと話題沸騰した。

しかしながら寺泊会会員=素人の酒飲み会話での予想はすべて外れてしまった。

ここは寺泊夏戸在住で高名な史跡研究家・小越夫妻に相談してみるべきだと今年4月の寺泊会大会であまりにも

素晴らしい講演をされたので、印象深く会員の心に残っているのだろう。

 

日本遺産の登録申請には、関係各地に存在する日本の文化伝統を物語る=ヒストリー性の極めて高い事象物だけに

申請資格が優先する。地域単独でも良いがネットワーク型と呼ばれる数県・複数の市町村にまたがっても良い。

全ての遺産にキャッチフレーズを付けて申請する。地域振興のきっかけに生かされれば結構ではないか。

 

各県の自治体も登録申請に余念がない。

 

 

岐阜=信長公のおもてなし。実は、長良川鵜匠を操った信長こそ接待の達人

群馬=かかあ天下―群馬の絹物語り

甲賀=リアル忍者を求めてタイムトリップの里

島根=出雲の国の風土記鉄作り1000年の歴史文化

などなど

 

寺泊の日本遺産とは

 

寺泊が日本遺産に指定された決定理由がこれだ:

 

北前船の寄港地寺泊

 

荒波を超えた男衆たちの夢がつないだ異空間

 

つまり北前船の寄港地と船主・集落の物語りの地として当該県各地が合同認定されたのである。

 

他の寄港地、石川・福井・山形・秋田・青森〜北海道などとの合同ネット型認定である。

 


 

 

さて遠くから寺泊にこられる「日本遺産・北前船観光ツアー寺泊編」ご一行様に、どのようなおもてなしを致しましょうか。
寺泊会が選定したツウが選ぶ地元・寺泊遺産案
白山媛神社で奉納船絵馬を鑑賞するもよし、旧イタロさん脇の狭い坂を下るも良し、ノトヤ小路を歩くもよし、上田町の旧やなぎや旅館の坂の上にある十二神社のふもと・ヤマノマチにある楼閣跡を懐かしむもよし、他県のように北前船館を作るも良しとこれから地元アイデアとモチベーションの品質にかかっている。
日本遺産を考えると、ふるさとは長岡の寺泊でなく、寺泊ありきの長岡だなあとつい寺泊会の本音が出てしまう。
だが長岡は昨年も新潟市などと、奇形遺産物・信濃川流域の火炎型土器が日本遺産に登録されている。
新潟県内としての日本遺産認定地は寺泊が加わり、2年連続の喜報になったことは今春のビッグニュースであった。
今年の登録発表も代表自治体=長岡市にある港町とされてしまったので、
松前町(北海道)深浦町(青森県)の如く、具体的な町名が示されないので、「寺泊」の文字は目立つことなく今も静かに寄港地を維持しているが。
かつての楼閣街で三絃を楽しむ会でもどうよ、と気を利かす地方公務員はいないようだ。怪我なく定年と共済年金をお待ちなのであろうか。2012年9月の第10回大会の如く、再度北前船寄港地フォーラムの開催を企画し盛り上げてもらうしかない。会場をきんぱちの湯にするか。補助金で特設ホールでも作ってもらって。観光協会と自治体の強力な援助なしでは難しい話ではあるが。
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宣伝費を惜しまなかった寺泊町の旦那さんたち

 北前船寄港地・寺泊 商家の宣伝広告


 ■ 明治39年(1906年)9月刊行の「北越史料/出雲崎」は出雲崎町と良寛をこよなく愛した佐藤耐雪(写真)なる書家・歴史民俗研究家が著した、後世にとって興味深い歴史書で、340頁にも及ぶ「出雲崎町史」である。他に明治37年刊行の河合孫七著による「寺泊」編もある。寺泊町が人口3000人余りのころの記述もあり、北越史料誌に大きく掲載されている,
寺泊人にとって商家の宣伝広告が懐しく目に映る。日露戦争当時の歴史遺産的文書であろうか。

 
▼(資料提供・・東京出雲崎会/東條玉英会長)







当時の商家が扱っていた味噌醤油の広告から現在のコンビニ並みもあるから興味ひく。イセヤスさんこと、柳下安兵衛商店は醤油醸造を宣伝


一方の雄、ホンマさんは寺泊湊の味噌醸造を宣伝。昭和時代まで使用したロゴマークが懐かしい。



広告スポンサーはこの他にも、(ハマソ)濱惣さんも出していた。印刷技術が高度でないので、どの広告も赤一色で読み取りにくいのは仕方ないが100年前のカラー刷りである。ハマソさんの営業科目は。「和漢洋クスリ」「洋酒」「缶ズメ」「紙」「ガラス」を扱う総合商社風であった。この大きな店の裏は、結構深い日本海で、現在毎日多数が訪れる魚のアメ横あたりは一面きれいな海だった。

 

寺泊会の宴席で毎年威勢よく壇上に上がり、唄の音頭取りをしてくれる、河合忠治さんことカワチューさんの自宅裏庭には程良い高さの松の木がきれいに植えられており、庭の真下を見るとここもきれいな日本海であった。


 

 

寺泊は三島郡の都会とされ、野積は弥彦山下にある出雲崎から5里離れた戸数200軒の漁村となっている。

この「北越史料」雑は、発行が明治39年9月だけに、旧書体で書かれ、当然のことながら出雲崎に関する記述は、微に入り細に入る。100年前でも寺泊の広告スポンサーを募ったことを想像すると楽しくもなる。

ホンマ様もイセヤス様もカワソ様も、寺泊人は太っ腹でいい旦那さんと見受ける。

 

 

■さてこのあたりの時代考証と史話が得意な、夏戸の小越忠教先生に語らせたら天下一品の名人芸ともいえるだろう。先生の教諭時代はロジック回路が専門領域だっただけに、イエスとノーが明確で論理的に調べ上げないとなかなか言葉にしてくれない。想像の域でも記事にして公開する寺泊会だよりとは雲泥の差である。

 

識者の集う良寛会もビックリか


ここに志田仏壇屋さんでも出てたら、寺泊衆のだんなさん、揃い踏みなんだが。志田仏壇屋さんの現社長がおっしゃるには、かの良寛が国上山から下りたあとの面倒を、味噌醸造で財をなした創業者が、寺泊で末世時期を引き受けようと申し出るつもりでいたが、忙しくて段取りできず、隣町の島崎に行かれてしまった・・とのことである。


東京良寛会も初耳の根拠ある逸話か。もしも良寛が本間家に居候して永眠されたら、寺泊の法福寺に祀られることになったであろう。妹のむらのお墓もあることだし。だが、本人の希望で照明寺がいいと言って、蜜蔵院傍に永眠されたかもしれない。かの貞心尼が、島崎から寺泊湊まであと一足伸ばしていたら、あまりの景勝地に惚れ込み、夕陽のひとつも眺めながら、句作に没頭してしまい、良寛介護もおろそかになったに違いない。寺泊会だより上での想像の話は膨らむと止まらない。(編集長)



 
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100周年記念誌刊行

                      
  新潟県人会百周年記念誌完成特集

 東京新潟県人会100周年記念誌刊行特集号掲載から数年以上経過したが、記念誌に関連するページの寺泊会だよりへのネット検索は衰えず、記事ログ分析でも数値を延ばしている。

そこで懐かしい記事を検証した。

 

多分「記念誌」なる文字検索は同窓会・学会・業界・会社創立記念誌と、日本全国どの組織でも制作の機会があり、出版業界の営業マンや記念誌編集作業者たちが先ずネットで調べ参考にし、自分たちの刊行に役立てているのだろうと推測する。

ほとんどその存在が目立たなかったが、寺泊会会長が所属していた県人会の総務委員会に任命され、記念誌編集委員をしていた当時の記事である。

公式に発行されている新潟懸人会誌も未取材の、発刊関係者たちのアプローチとフォトを探る物語として制作していた。

2010年9月に新潟市内の朱鷺メッセで挙行された一大イベントに続いて、当時、我々が県人会で取り組んでいる一大事業が「東京新潟県人会・創立100周年記念誌」の発行である。

 

各郷人会などから選抜された25名による編集スタッフ、は毎月一回県人会館に集まり、編集会議を開いていた。御徒町から歩いて数分の場所に、新潟県人会の会館が建つ。

 

会館3階の役員室に編集室を設け、教職員でもあるまい、日直当番制を敷く熱心さである。

2010年12月2日の編集会議には印刷業者も参加し、カバーサンプルを提示。総ページで240頁にもなる美装本はハードカバーで上質コート紙を使って、一冊2000円で15000部、発行しようと打ち合わせに会議に回数を重ねていたのである。
表紙候補のひとつとして紹介された装丁がこれである。

 

現在何種類かを見本試作し検討中

 

今年の新年会のイベントで佐渡出身の鍛金工芸家・宮田亮平氏(第9代・東京藝術大学学長。)の書である。

 

氏は11年間学長を務めた後、現在は第22代の文化庁長官である。佐渡高校のみならず越後人が最も誇りとする新潟県人のひとりである。提案された表紙を見た編集委員たちでも、これが「光」なる文字だと、即判った人は少なかったが。


この表紙のコンセプト「白」が放つ純粋さ、既存の記念誌の持つ「権威的 方向」ではない斬新さを芸大学長の「光の書」をシンボリックに中央に配置。「削ぎ落とすインパクトをコンセプトに装丁しましたと表紙デザイナーは説明。


この文字を表現するため、学長自身が巨大な墨壷を制作した。ここに墨汁をたっぷりと満たし、見事な芸術文字「光」を書くパフォーマンスで、品川にある、グランドプリンス新高輪の大宴会場・飛天の間に集う1000人を超える参会者を魅了したのであった。


一升瓶がミニチュアに見える「スミツボ」。

今でこそ、この「スミツボ」の意味が判るが、新年祝賀大会で寺泊会が司会をしていた際に、ステー−ジの袖にいた芸大の学生らしき若者に、いきなり、墨壷を紹介してくれといわれ、「ス・ミ・ツ・ボ, what?」状態になってしまった。

 


 頭の中は黒い墨のツボのイメージで、どこを見廻しても無い。 まさかこんなピカピカ状態の芸術品とは知らず、どこにあるんだいと慌てて探す始末。それでも何とか「先ほど宮田先生が,ご使用された、特大筆用の墨汁が入っておりました「スミ・ツボ」でございます、と紹介し、更に「中にある氷で十分冷やしてございます、越後の銘酒を、お飲みになれば、100年長生きしますよ」 と、とっさに思いついたことをマイクで呼びかけた。

 

このとっさのアナウンスメントで会場が一瞬ざわめいた。
幸いにもこの、めでたい酒を飲みたいと、何人かの方がそばに来られ、飲んでくれたおかげで、和やかな雰囲気の中で進行することとなった。一升瓶がこんなに小さく見えるから、名匠品スミツボ、がいかに巨大作品であったかがわかる。
宮田学長がキンコン・カンコンと叩いて制作された芸術作品、鍛金「墨の壷」であった。

賢者は権威あるも驕らずの見本。

 

愉快かつ気さくな芸大学長、金工家・宮田亮平さん(写真左)は、昭和20年生まれ、とおっしゃるから、同じ越後出身で分水町生まれの著名な彫刻家・茂木弘行氏・とは、芸大で1年後輩となり、

 

西蒲原・吉田出身の高名な画家・斎藤順正氏の2年先輩となる。)はスピーチも面白く、取材に詰め掛けたテレビ局や新聞記者にも気軽に応じておられた。佐渡出身の賢人はすばらしい。
■警視庁辣腕公安刑事を輩出した広神村や鹿瀬町などの出身者が編集委員として奮闘中。
町村合併で五泉、魚沼、阿賀などと名称変われど、新潟県内の広範な地から、郷里(ふるさと)へのラブレター感を抱きつつ、想い入れの深い、越後人が協力し合って各自のテーマを分担し合い、ボランティアで100周年記念誌の制作に携わっている


 印刷業者も熱心に記念誌の装丁を説明。こうやって今、東京新潟県会創立100周年記念誌の編集が進んでいる

   
100周年記念誌

2011年3月発刊
一冊2000円で予約受付中
   東京新潟県会事務局

問合せ03−3832−7619
編集委員は見本誌で手触り感覚をテスト。半端に妥協はしない。100周年記念誌の主な執筆内容



                   広告使用許諾・東京新潟県人会広報委員会

                    ●    ●      ●     ● それから、しばらく経過

 

寺泊会の分担は東京大森にある新潟県人会、大田区にある新潟県人会、など8団体の県人会を取材しての原稿作りと、長老特集頁の在京新潟県出身者安澤隆雄翁と同年の100歳関根五郎翁2名を担当した。

 

お陰様で無事刊行いたしました

2011年4月8日、編集委員だけで、「100周年記念誌刊行記念納会」を、節電のあおりで、桜の木にお花見のあかりが灯らない、上野公園近くの中華料理店で開催した。
長期間のボランティア作業御苦労さまでしたと、互いに慰めあった。諸事、自粛ムードのなか、銘酒「久保田、寒梅」の差し入れと、珍酒「田中角栄」で、静かに納会を執り行った。
この日は、地方のテレビ局2社、新聞社1社が取材。
記念誌販促に一役買ってもらった。


■於 上野東天紅
■編集委員総数25人(欠席10名)
制作協力(株)第一印刷所

我々編集サイドの無理難題のわがままを、丁寧に聞いて下さった第一印刷所(本社・新潟市中央区)の若手営業マンも祝福にかけつけた
記念誌編集委員長・池田孝一郎氏(新潟市・巻出身)に新潟日報社報道部記者井川恭一氏が、見事な出来栄えに驚きながら、熱心に取材していた

編集・副委員長は2人、佐渡出身の菊池氏(左)と新井市出身の飯塚氏(右)、記者(中央)に各ページを説明。両氏とも善良なる70代。この方々の熱心なサポートが、予定期日までの発刊にこぎつけた。
我々は,ここでは、若い方だから、副委員長のさらにサポートか。
だが、仮に我々が70代後半になったとしたら、このおじさんたちのように、素晴らしいエネルギーを持つ自信がない。時間は余っても、視力・体力・集中力がついてこないであろう。

東京寺泊会も編集に携わり、大田新潟県人会、中之島新潟県人会、大森新潟県人会などの8団体を取材、「100歳万歳特集」では、面識のあった、104歳の安沢隆雄さんや関根五郎さんの記事を出稿したが、今後の課題は記念誌を、約150団体ある、県人会内部組織で、何冊領賦できるかである。
現在寺泊会は20冊(1冊2000円/・送料800円)を購入し、郷里の寺や希望者へ拝送済み。
3月末現在で、約1200冊が県人会全体で購入予約済みであるが、時間がかかりそう。
ご購入希望者は、東京新潟県人会事務局(台東区上野へ、お申し込み下さい。

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アルビレックス新潟に気をもんでいた大越さん・・サッカーJ1リーグの話ですが

 

平成29年も5年前と

 

同じ記事原稿で使える不思議な物語。

 

それは2012年師走のことだった。・・神戸・大阪・新潟が同一境地のトップニュースで話題提供。史上初。NHK夜9時の番組でもスポーツコーナーで披露するや、夜9時の顔で人気キャスターとして大活躍されていた越後人、大越健介氏は、すかさず「私の新潟は大丈夫ですか・・」と心配気な切り出し。


 (写真提供   NHK元ニュースウォッチ9・編集部)
Jリーグ誕生は全国主要都市の地名を冠に付けることで、当時の協会がチーム名を承認するシステムであった。日本のプロサッカーは、企業が支え、その発展を育んで来た。八幡製鉄、古河電工、日立製作所、住友電工・・・重厚長大企業が日本国の景気発展に寄与しながら、バレー、野球、ラグビーとファンを増やしプロスポーツマンの才能を伸ばしてくれた。
サッカーはヨーロッパが本場だけに、企業の冠をつけたスポーツとしての人気は、当時華やかだったラグビーや野球に比べ、大衆のものにはなっていなかった。これを打破したマネジメントが、一億大衆化を到達目標においた、都市名チーム挿入ネーミングシステムであった。
我が越後は、サッカーにおいては他県に比べ認識人口は多かった。その理由は、新潟国体のお蔭で、大学のクラブでサッカーをしていた選手が新潟県の教員になり、現在のJリーグの下部組織の、公式試合に出ながら、高校などでサッカーを熱心に教えていたことにある。従って新潟県民のサッカー観戦人口数だけは、何回もJリーグの記録を塗り替えている。
但し新潟県の強豪・新潟工業も、巻(アルビ現社長の母校)も明訓も、高校サッカーは、静岡より南に位置する県の、広島、鹿児島、長崎などの名門高校にいつも大敗していた。「新潟はスポーツ不毛の地らすけしょーがねこて」アルビレックス創設の御大・池田弘氏も、その著の中で認めていた。
だが2012年の師走初日は、これを懐かしんでいる時ではない。大越健介氏が気にしていた、アルビレックス新潟が、J1残留かどうかの瀬戸際に立たされているからである。
12月1日午後3時30分キックオフの、J1リーグ最終節の結果次第では、県民こぞってJ1の試合結果を気にしていた。
一部リーグとさよならするかも知れないのである。名門ガンバ大阪、おしゃれなヴィッセル神戸も同じ境遇である。
新潟県民には安心感がある。最終試合の対戦相手が、コンサドーレ札幌だからである。今期のサッポロは、最下位常連を貫き透している。昔、プロ野球で横浜大洋が最下位を続けていた時に、他のチームから「横浜大洋銀行」様と呼ばれていたことがあったが、サッカーのサッポロはまさにこれに等しかった。即ち、対戦チームにはありがたい「勝ち」と多量の「得点差」を譲ってくれているからである。新潟は今日の対戦でこの恩恵に授かり、勝ち点を3ツ伸ばし、17位を脱却。大阪・神戸と同位になっても得失点差で一歩リードするはずである。(しかも、オレンジ色に染まったームグラウンドの大観衆のもとで。(2012年12月某日。15時26分校了記事)
あれから読者さんも5歳もお年を取られた
はずだがお変りございませんか。
大越さんも心配してから5年経った2017年8月お盆頃。
J1順位表を見て越後人やいかに。
夏も終わりそうな8月時点において、得失点差、マイナス33で5年前の6倍も多いから重症だ 。
23戦戦って勝った試合は2つだけ、J1 18チームの順位表で、18位として不動を堅持すること数カ月、義理堅い社長をはじめ再建
名手の監督さんに交代後も、なかなか結果が出せない。
今期の最終試合は12月2日。残り約11回の対戦で、何試合勝利するかが気になる。
生活習慣病で倒れ入院した働き盛りが脳梗塞末期まっしぐらの感がする。J1からJ2へ移っても、やがて復帰したチームは数え切れないほどあるから、これも仕方ないかと諦めるかどうかは、その人の勝手だが、広島市民と違うのはプロ野球チームが新潟県にない。焦点のはけ口がないのである。何事もリスク対応が必要なのだと再び諦めることにするしかない。確かに監督さんもいいし社長さんも良い。あと5年は待ってくれ、てか。
ならばと5年前の降格ライン攻防線を振り返ってみるか。
寺泊会だよりの閲覧スタイルが変わったことといえば、夜中の読者さんが激増したことである。
夜中の2時であろうと3時でも明け方まで、皆さんで閲覧しておられるのが不思議である。
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気になる中継中の表示。NHK総合では、ガンバ大阪とジュビロ磐田戦を中継しながら、特別表示板をサービス。

あと少しで残留決定。今年でしか見れない表示板。午後4時11分とその1時間後の「このままいくと・・・」プレート

 

 

 

 

結局はこのままで戦いは終わった。5時過ぎにはガンバは磐田と同点となり、もし磐田に勝つと勝ち点で新潟に並び、得失点差で新潟を蹴落とす。しかしながら再び磐田が得点を入れ、ガンバキュース。結局は新潟県民はめでたし めでたし。来年はどうでしょうか。ガンバは創設以来の、17位となりJ2へ降格。これまた創設以来の、パナソニック財政事情とともに、翌日の話題の中心になる。18位の札幌は早くから降格をきめ、2012年12月4日には、ゴン中山が引退宣言。
時代は移りゆく平成の24年の末であったが、さて平成29年末にはどんな記事になるかがお楽しみである。大体わかっているが、ファンが多いだけに、うっかりしたことを文書に残せない。
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苗場のフジロックが終わると寺泊港まつりの花火大会が気になる

 


フジロックの季節
2017/7/28-30完了

 

そしてフェスが終わったら越後苗場の山から同じく越後寺泊の海へと

人が流れる現象は今年も健在である。花火前夜のステージが

気になると1年前から寺泊の旅館ホテルに予約済みとか。

 

 

の文字で今年も検索数激増である。

これはかつて寺泊出身のNHKキャスター

大越健介さんを寺泊会だよりで紹介した直後の現象に酷似しており、

全国で寺泊会に関心が有るはずないのにと、検索ワードで分析したら、

その理由が判明した。

 

 

ロックの季節到来が、寺泊会だよりまで飛んで来たようである。

寺泊会とは関係ないが、同じ越後に関連するイベントが縁で、

 

寺泊会だよりを読まざるを得ないらしいからありがたい。

 

寺泊港まつり花火大会・芸能ガイド前知識

 

海上花火大会の前夜は中央海水浴場

 

芸能特設ステージで音楽祭が豪華に

 

繰り広げられる。魚市場での買い物客さんも

 

目が離せない。(6日(日)午後5時開演予定)

 

今年で12回目の出演となる蘭燃さん(youtube編)

 

越後出身で震災復興応援ソングで

 

活躍する寺泊大好き隊の

 

メンバーと聞く。

 

来春開催する第63回東京寺泊大会の

 

ゲストシンガーの声もあり。(寺泊地域振興課次第だが)

 

 

 

ギター好きのファンにはたまらなく

 

賑やかなパフォーマンスが楽しみな

 

2017年7月29日(土)フジロックに出演したばかり

 

サザン・桑田佳祐・師匠公認のロックバンド

 

桑田研究会バンド(youtube編)

 

 

我が寺泊港祭り・花火大会前日に公演。

 

寺泊の浜でも茅ヶ崎沖ならぬ、佐渡島を見ながら

 

サザン愛溢れるパフォーマンスを繰り広げて

 

盛り上げようって訳か。

 

 

 

一方、東京出雲崎会や新潟県人会でもおなじみの

 

天領さとみさんは隣の出雲崎出身である。

 

天領=出雲崎だから当たり前だが、

 

かつてはのど自慢あらしのチャンピオンとして

 

名を馳せ、やがてはプロの歌手へと育っていった。

 

日本海を臨む、寺泊の浜で唄うと、

 

驚いたことに、さざ波超えて8里離れた対岸の

 

赤泊港迄その美声が届いたという。

 

検証しようかと海上保安庁にお願いしたとの噂が立つ

 

寺泊野外ステージの常連天領さとみさん(キャンペーン画像)

 

 

 

夏が似合う、パワーあふれるパフォーマンスも楽しめる。

 

あみドルファンは、開演早々最前列で出番を待つ。女子柔道界のアイドルで48キロ級で何個も金メダルを手にしている同名の

 

近藤亜美と間違えそうだが、女子柔道の彼女は尾張人。うちのアミドルは純粋の越後人。

 

ずっと昔だったら、河合奈保子も寺泊港のステージに出ていただろうに、今や話題にするのも希少価値。彼女の娘さんに期待しよう。

 

 

長岡市出身の近藤亜美さんは寺泊大好き隊の一人である2013年夏・寺泊ステージ

 

(本稿の記事には各youtubeを無断借用しておりますことをご了承ください)

 

花火前夜祭の歌謡ショーには、寺泊舞台に協力してくれる有難い顔なじみが、2017年今年の夏も出演予定である。

 

観光協会のポスターでリスティングされている、タカツタケルのアコーステックギター熱唱も見逃せない。

 

寺泊町を根城にして地元の音楽仲間たちと、内外でライブ活動に励んでいるが、30代後半には見えないタケルさんである。

 

熱情歌手ぴったりの生きざまが、素晴らしい奏法になって、大小問わずどこのライブ会場でもファンを魅了している。

 

長年一緒に過ごした自らのアコギサウンドと、後頭葉から発する叫びこそ、彼の人生そのものである。

 

我々寺泊会は動画を見て、こりゃ現代の義太夫師ではないかと、叫んでしまった。

 

港まつり会場の観客さんには、すべてのストリングと同時に発する語りを、じっくり楽しんだら、

 

次回のライブまで訪ねてほしいパフォーマーである。

 

 

 

 

 

さて東京寺泊会大会の宴席を覗く。

 

寺泊会は、毎年4月開催・62年前に創設の老舗郷人会である。

 

出席してくれるお客様を監視すると、個性豊かで面白い。

 

先頭切ってカラオケでうなる歌謡演歌派に始まり

 

ふるさとの花鳥風月を、壇上せましとばかりに数人で合唱する

 

文部省唱歌派など様々な個性をお持ちの

 

唄が大好きな足腰の弱った連中が大勢いる。

 

花火前夜の8月6日(日)寺泊野外フェスは彼らにも

 

見せてやりたくなるシーン続出となろう。

 

寺泊観光協会のポスター(PDF編)

 

 


 

 
フジロックの宿で検索数激増
 


来場者数が10万を超えるロックフェスタは、アリーナや、ドーム球場の出現で、今や珍しくないが、20周年を迎える、このフジロックも、略称そのものが登録商標故に、商売として第三者が勝手に乱用できない。当初は2日コースで観客数3万人からスタートし、6万になり昨年は、3日間で12万余りと発表された。娘を天神平(富士山中腹のスキー場)まで、車で送迎した頃が懐かしい。その名のとおり、富士山の中腹にロック会場が有った。だからフジロックというのかと、15年前に納得していたが、今、会場を移しても名前変わらずである。台風の心配さえなければ、富士山コースは、絶好のドライブウェイであった。御殿場駅から、バスで会場へ行くファンも多かった。

フジロックなる野外音楽会は、会場を静岡県のスキー場から、東京を経て、越後・苗場山に変えた途端人気沸騰。スキー場のド真中に苗場プリンスなる、巨大なリゾートホテルがあるのに、ここに予約できないのが常識となり、ホテルに入りたかったら、背広を着ない業界人になれと言わんばかりである。おかげで、7月末は、会場からかなり離れた民宿や社員寮、老舗温泉宿まで満員となり大賑わいである。

三国街道の老舗旅館・貝掛温泉は、雰囲気良く、温泉場に一軒しかない事が幸いしてか、露天風呂を中心に旅番組で必ず顔を出している。若女将の、テレビ慣れした紹介も楽しい。

静寂の三国街道に潜んでいた、山賊が出たころに、いきなりフジロックの大音響が轟いたら、さぞかし超仰天し腰を抜かしたに違いない。7月後半は台風、低気圧と豪雨でも、ファンは集まる。夏晴れにしてやれと、天に言いたくなるが、人気アーティストの生音を、聞けば、皆満足した顔で帰ってくるから、雨でも風でも問題なさそうである。越後の観光協会長も大喜びであろう。


さて東京新潟県県人会は、創立110周年も近い。日本国の通常国会は、今年が190回目だそうであるが、財団法人・県人会恒例の定時総会、寺泊会も所属する、総務委員会が取り仕切って、賑々しく、執り行われる。
毎度の準備に馴れた委員。総勢20人は、この日が楽しみである。第2部懇親会を終えたあとの、打ち上げ会・会場を近くの割烹で予約したうえで、101回目を迎えた当時の物語である。

 

新潟県・観光協会・会長さんが身内の一大事として、越後の旅館へどうぞと集客協力要請


新潟への観光PRをしながら積極誘致

今年の御来賓は、社団法人「新潟県観光協会会長・高橋正」氏が引き連れた「旅館組合の野沢幸司理事長」をはじめ、「旅館の女将、若女将」さんたちであった。

大震災後に、越後の旅館へはキャンセル続出、
総数12万件のキャンセルは、越後の宿の一大危機である。自粛もいいが、新潟県の宿の良さを全国にアピールしてくれと、新潟県知事・泉田裕彦氏に訴えておられた姿が、先日のテレビで紹介されていた。
そういえば、今春お会いした際頂いた、知事さんの名刺にも、ユニークなロゴが書いてあったが、新知事に変った今ではレアモノとなってしまった。

さて、押しの利いた声量を持つ、新潟県・観光協会会長・高橋正さんが仕切る引率者さんたちの紹介で、第2部の懇親会は始まった。
かつて、新潟市議会で主流・半主流を取りまとめた、議長経験があるだけに、積極性ある態度ながら、物腰柔らかく、その話しぶりが、大変魅力的であった。

名物弁護士さんの、あいさつも、楽しい。今年のテーマは、100周年記念誌当時の、販売に関する取り組み方に対する意見陳述であった。
私見としながらも、100年だろうと500年記念誌だろうと、どんなに立派な装丁と構成であっても、所詮、作り手の自己満足でしかない、従って、販売の取り組みには慎重性を要する..と弁じた。
会場の参加者の多くは、何らかの会の、会長か幹部で、何冊かの販売責務がある。慎重に聞いていた。ちなみに寺泊会関係者は、合計50冊を手にしたが、小林秀雄会長の協力があっての話である。

堅いお話はともかく、越後の旅館組合を代表して、奥湯沢の旅館・貝掛温泉の若女将長谷川秀美さんも、5代目の主人を支えながら、温泉来訪大歓迎のメッセージを発していた。苗場スキー場周辺にある、民宿の倍以上の宿泊費も、泊まる価値十分にある。
全国「温泉湯宿を守る会」のメンバーとしても活躍している。

東京寺泊会からの提案であるが、夏の「フジロックフェステバル」で、まだ宿の予約がとれていないファンは是非、苗場に近い、ここの温泉旅館も検討してほしい。

■御存じのように、毎年苗場プリンスは、予約困難、周辺民宿もすぐ満杯になる。
会場ゲート近くへの専用バスを用意させたらどうか。若女将の秀美姐さんに相談したら・・・。その予定はないが、いつだったか、著名アーティストと、露天風呂で一緒になったファンが大感激したこともあったそうである。


那須の温泉に行くならこのお方を紹介する。県人会相談役の横野寅雄氏である。東日本大震災でも、宿の地下層の岩盤強く、びくともしなかった由。
その名も有名な・五ツ星旅館、掛け流し温泉「大鷹の湯」の経営者さんが越後人である。
後方は、参加者と名刺交換に忙しい、新潟県東京事務所・池田幸博所長である。

総会議題の1〜4号議案も無事可決され、2部の懇親会終了後は、予定通り、総務委員会の打ち上げ宴会を上野・御徒町駅近くで開催。総会も終了し、ホッとしたのであろう、お偉いさん方は、県庁から出席された、特別ゲストを交えて痛飲。越後人は本当によく飲む。都会に住んでいて.越後出身ですというと、必ず「お酒は強いんでしょうね」と問い直される。
年金の多寡から退職金の差異にかかわらず、同等に杯を交わしながら、思考衰えず、他を詮索しない豪放な70代達と混じる、ひと時は、実に楽しいものである。県人会を退会したて久しいから毎年の総会には、懇親会の司会をするお座敷もかからないので、当職としては他人事になっているが。



 

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日本海・寺泊町に魚のアメ横を創った社長さんの物語

寺泊会創立62周年記念大会速報
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 記念講演:平成29年4月23日日(日)
.、。
11時〜芝パークホテル/別館2階ローズの間 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----ーーーーーー
ゲスト講演者 小越忠教・米子先生ご夫妻
.
寺泊・夏戸在住で卓越した編年史・和説研究家として
ガイドで活躍されている小越夫妻による特別記念講演は、プロジェクターを使用し
いにしえの史実に基づいて解りやすい解説と音源を併用し、あっという間の記念講演であった。
弥彦山がこれほどの話題になったのは初めてのことである。忠教先生の語り口は説得力に溢れこれぞ名ボランティアガイドの解説といえよう。
さて夫の忠教先生が時良くリレーで妻の米子先生に話をつなぎ、これまた懇切丁寧に写真を披露しながら寺泊町風景の変遷を講演。小学校の教諭経験が長かったせいか、その優しい目で語りかける姿に写真が変わるたびに皆が首を上下にふり、うなずいていた。
夫妻の持ち時間である1時間はあっという間に過ぎてしまった。凡そ70代以上の参会者たちは全員がなるほど、うんうんと納得していた。寺泊会役員がリスク覚悟で企画した夫妻リレー式講演は完璧に成功したものとなった。
当日講演されたタイトル
「野積に上陸した弥彦の神様 」
「1枚の写真で見る寺泊の近今昔」

夫妻式講演は新潟県の郷人会では初企画となり、
来賓としてご招待した各会の会長副会長さん達も羨ましがっていた・・どうよ
   
         ・・・・・・
 
●お土産協賛 角上魚類株式会社様
  ありがたいことに寺泊会がお願いした予算の3倍くらいの協賛品を賜り
 大会参加記念として全員にお持ち帰り頂くことができた。
 角上特選の海鮮ギフトに深い感謝の意を申しあげるしかない 。         
      ・・・・・・・・・・・・・・・
、・

脳トレ講演で盛り上がった第61回大会は1年前。


寺泊会・平成28年大会のレビュー

61周年記念講演 私は寺泊出身の脳科学者


◆このトレーニングすれば、あなたの脳は劣化しない

 

加藤博士の著書はベストセラー続出中

 

80歳以上の参加者15人には、サイン入り著書が進呈されました

 

 ◆◆
 

 


        

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

ついでに第60回大会(2年前)


 

寺泊会創立60周年(平成25年春)大会レビュー

アーカイブ公開中   



角上・鵬室卍垢旅岷蕾聴講感謝



東京寺泊会創立60周年記念大会のご案内
2015年4月15日(水曜日)午前11時30分〜
参加費:10000円
会場 : 芝パークホテル(港区芝公園)


60周年記念行事詳細

 : 記念講演会 角上魚類 鵬執聖絢卍
    (辣腕経営者のコンピテンス源泉はどこ)
■    : 記念公演  寺泊・伝統民謡保存会
         (
寺泊の伝統所作を 地元・浜っ子会が披露)
■    : スペシャルゲストトーク
       寺泊・彦根山興琳寺住職 中村興樹氏
   (古刹の法話名人が俯瞰する、町のふるさとだより)


■ 参加特別記念品と大抽選会案内


創立60周年記念大会として、参加記念のお土産には、全員に角上謹製「海鮮ギフト詰め合わせセット」の他、寺泊観光協会が推奨する、特選・銘酒や、寺泊の旅館ホテル宿泊クーポン券が当たる大抽選会を企画中。(座席で抽選方式)

人気テレビ番組、カンブリア宮殿で、柳下社長の人柄と、角上マネジメントが紹介されるや,当誌・寺泊会だよりへのアクセスが沸騰。日本全国で、柳下社長さんのお名前と寺泊で、検索されているらしい。

12月31日朝も、角上さんは、「頑張った日本列島の会社大賞(フジテレビ系)」にも登場。長い間、低迷する日本企業、ビジネスの中で、寺泊の鮮魚会社がいかに頑張ったかを、見事に証明してくれた。
 
 
・東日本大震災被災地 復興募金 寺泊・さかなのアメ横で…
 


寺泊名物・さかなの市場通りには、全国からの来訪者が絶えない
福島県からのお客さんも多数おられ、同県は、広い海岸や港を持ち、寺泊とは共通点が多い。
原発事故の周辺地域に住んでおられた家族が寺泊・夏戸海岸で避難生活されていた当時
寺泊観光協会では、東日本大震災の、被災者募金を兼ねて、
さかなの市場通り、通称「さかなのアメ横」通りで、カニ汁を無料提供しながら義援金を募ったニュースが中央でも伝えられた。期間中の募金全額は、長岡市を通して、被災地に届けられた。


2012年にキャンペーンを張った、カニ汁無料提供(4月9日〜4月24日)も大好評であった。2013年以降も角上人気は、日本海の、優れたビジネスモデルとして継続して行くことであろう。

さかなのアメ横誕生ばなし紹介の巻。


寺泊海岸に魚のアメ横を創った男の物語





2010年7月某日。日曜、朝9時〜日本テレビ系・徳光和夫の番組「サンデイnext」で大型鮮魚専門店の角上魚類小平店が約20分にわたり、店舗紹介、鮮魚販売情報の詳細が紹介された。センセーショナルな画面構成に興奮したのか、インターネットのサイト閲覧が爆発。東京寺泊会だよりにも、ここのリンクがつながらないと連絡あり,調べたところ、あまりにも同店のhpにアクセスが殺到しサーバーがパンク状態とのことだ。・・午前9時35分頃であった。しばらくは角上物語でもご覧になってお待ちくださいとご案内した次第であった。幸いにも
角上魚類のホームページは1時間くらいで閲覧回復した。

それから4カ月後の2010年12月15日・火曜日、朝、日本テレビ8時、世間は若い歌舞伎役者の酒乱ニュースであふれる中、「行列のできる大鮮魚店」として小平店が再びセンセーションナルに放映された。商品の命となる鮮度と質の高さで勝負と柳下浩三社長もインタビューで登場。2011年春には東京・日野市に新店舗を開店、2014年に入ると主要道路が角上渋滞を起こすほどで、都会では角上魚類のニュースから目を離す事が出来ないのである。東京寺泊会の話題が、またひとつ増えた。


「小平市のような、角上さんの店舗のある地に引っ越したくなりました・・」 テレビのインタビューでお客さんが答えていたが、この人はサクラではない。正に、その通りでございます。・・東京寺泊会だより編集部。角上さんは、勿論越後・旧寺泊町が誇りとする、日本有数の大型生鮮鮮魚店である。現在中国進出も視野にある。

この
小平市寺泊とは、大変縁が深いが、小平市の秘書課さんは、このページでのリンク依頼を快諾してくれた。
何しろ市長の小林正則氏は、寺泊出身で当会の顧問をしており、毎年,東京寺泊会の懇親会に参加され、時にはカラオケを熱唱されたりする。
更に、小平市議会の前議長・小林秀雄氏・現市議は、寺泊の6区にある白岩に、代々の土地を所有する寺泊人であり、東京寺泊会の副会長から会長に就いた。


小林正則小平市長東京寺泊会でご挨拶。

 

 2017年4月9日(日)選挙速報

 

小林正則(4期目)当選 28308票

松岡あつし       15536票

水口かずえ         8281票

 

     小平市公式ホームページより転載
                    市長と縁戚ではないが同性の小林秀雄寺泊会前会長・元小平市議会議長。正義感強く硬派。

寺泊へ来たら誰でも必ず立ち寄る場所は、観光コースでおなじみの「魚市場街」である。
第53回に続いて60周年大会でも、東京寺泊会は、アンコールの多い「角上」さんこと
角上魚類株式会社・鵬執聖絢卍垢鬚招きし 特別講演をお願いするとご本人は快諾。(これならNHKのキャスターを呼ぶより経済的だ・・と役員会で安堵)
 我々地元では、普段、角上さんと呼んでいるが、角上さんは寺泊をはじめ、首都圏など合計19店舗で、 精力的に商売展開されている。
 小さな港町・寺泊を一躍世間に知らしめ、その存在を 植え付けたのは「魚のアメ横」であった。
これは魚のアメ横を創った男の物語である。

  ▲鵬執聖飴瓩蓮⊂赦贈隠鞠、網元の次男として誕生
のどかな寺泊町で、幼少時代は野球少年で過ごし
明けても暮れても野球に熱中。
(後の阪神タイガースファンの礎となった)
新潟商業高校時代では、マネジャーとして2度の
甲子園出場を経験。
昭和34年、実家の魚問屋に入り東奔西走する。
スーパーが台頭し始めた昭和40年代に入ると
自ら敵陣の「人気スーパー店の視察」を開始し
多くの店舗を見て廻った結果
これをしのぐ小売業の開発に着眼。

昭和25年頃の3区寺泊中央海水浴場の砂浜。番屋小屋があるだけの砂浜だった。 寺泊会の会員さんが寺泊小学校2年だった頃(当時)に撮影されたものだが貴重な写真となった。

 

■「親父、あの道路沿いにある土地使って、
店出してんだろも、どうだろうか」
あの道路とは、言うまでもなく海岸道路として造成された、
今の魚市場・通称魚のアメ横道路である。
角上は、この道路に沿った一画に、広い土地を所有していた。
「本気でやる気があるンなら、やれや。但し自分で全部、
金銭の都合つけてやれ」
親父の言葉で今日の運命が決まった。
元々親に金を出させる気は無かったのである。
今でこそ、人・車の往来が絶えないが、
まだ造成僅かで、まるで原野にデパートを
開店するようなものである。当時は砂浜だけで、
駐車場整備の構想さえない。
■ここに5千万円を投資する決断と荒業は、
江戸時代から続く網元の血統を受け継ぐ
鵬執聖粟椎に「天性の商売勘と運」が備わってなければ、
発想すら湧いてこない。
         ▲鵬執聖絢卍垢陵念が全店舗に反映。社員の力量統一

         


   


 
銀行と交渉し、何はともあれ開店にこぎつけたのは
昭和49年の春であった。
「寺泊は海の町、夏場は人でごった返しても、
あとは潮が引いたように人が来ねし、
チープー荒れる寒い季節は商売にならんがに・・・
よう店を出しなさったもんだ」


確かに冬の海は、毎日荒れるし、波が高く浜は強風で寒い。
岩の外湾には、佐渡海峡からの白い波が大きくうねりながら押し寄せてくいる。
               2010/12/31・寺泊海岸ライブカメラ

平成22年大晦日のアメ横駐車場、買い物客の車で朝から晩まで混雑する

 心配無用だった。30年後の寺泊は、波高く風強しでもこの通り盛況である                                                                                              2010/12/31午後3時頃の市場周辺

                 ●  ●
危険信号の声が、湧き出る泉のごとく囁かれる、町の評判は折込済みであった。
このことは34歳の自分が一番良く知っていた。
客を如何にして呼び込むか。
顧客の心を知る売り手になろう」。社長の得意とする
創意工夫の虫」が動き出す。
 
社長の「仕入眼を磨き、新鮮・上質な魚を豊富に仕入れ、
これをより安く売りさばく」戦略で
絶え間なく続けたこの努力が
「寺泊へ行けば、いい魚が買える」と評判になり
噂は定着し始めた。
開店1年後、店内は溢れんばかりの人出
評判通りの新鮮な魚を求める客が、多勢訪れた。
売上も倍々ゲームをもたらし、新聞・テレビには
「魚のアメ横大賑わい」の見出しが躍り
関越高速道路の開通もあり、日本海に先駆ける唯一の
大規模鮮魚店として、全国に名声が轟いた。
 
年が過ぎた頃、同業が角上本店の周りに何軒か出店し始め、
寺泊の総売り場面積が、更に巨大となり
観光バスが大挙首都圏から繰り出した。
それまでの越後をめぐる団体バスは、有名な温泉と弥彦神社を
巡る単純なツアーだったが、寺泊・魚市場コースを追加したら、
5倍の申し込みとなった。(旅行業者談)
 一方、経営者として常に人より一歩先を睨んでいる社長は
既に次なる商売の戦略を考え
「小さな寺泊町だけでなく、高速道を利用し他県でも出店展開をし
総売り上げを伸ばそう」と行動する。
市場調査・社員教育・人集めなどに奔走した。
寺泊に店を出してから10年後のことであった。
やがて、群馬県をはじめ埼玉、東京、長野などの
都市圏を狙った顧客取り込みと、商圏拡大戦略に転じ、
新鮮豊富な品揃えをモットーに邁進の手を緩めない。
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寺泊人脳科学者加藤俊徳博士の世界

  ●ニッポン放送・高嶋ひでたけ

寺泊出身の先生がニッポン放送に出演。

毎朝放送している「ラジオ人間ドック」に
加藤俊徳氏、生出演早朝6時15分・・
「ラジオ人間ドック」のドクターとして。



■他番組の5月以降出演情報は随時更新致します。


「あなたは、右脳使ってますか」偏。
寺泊出身の加藤俊徳博士が4月14日(木)第61回東京寺泊会で講演されました。

脳の劣化を防ぎ、脳に新しい血流を注いで頂きました。

会場:芝パークホテル
期日:2014/4/14(木
受付:11;45〜
第61回東京寺泊会
  ふるさと交流懇親大会
ご来場記念(全員)

寺泊港 角上鮮魚店特選
 ■海鮮ギフト詰合せ
加藤俊徳医学博士

脳科学の世界は覗けば覗くほど面白い。この世界を知ると、毎日行き交い、すれ違うヒトを見る目が違ってくる筈だ。最近ビジネス本のコーナーには、「脳を活性化して営業収益を伸ばす法」とか「経営者が取り入れる社員の脳分析」・・等,等が目につく。
一般本コーナーでも「認知症にならない脳活動」、「あなたの脳年齢はいくつ」「長生きするひとの脳」などの本が並んでいる。
脳は誰もが関心があり人類すべてが当事者である。即ちニーズと期待に満ちている。



◆寺泊町の東方には、霊峰弥彦の山が鎮座する。
大河津と統合前の寺泊中学校校歌には「東に弥彦、西に佐渡」とある。
その中学校正面は、広い階段になっている。チョーテツこと長岡鉄道の「寺泊新道駅」があったが、これを知る人も少なくなった。
広い階段は、この駅の正面にあった。スクールバスが開通しても、この階段を上って校舎に入る。階段脇には哲学者アリストテレスにも似た、たくましい姿の少年像が40年間も立っている。


◆寺泊中学校に、ただ一人脳みそに興味を抱いていたお坊ちゃんがいた。
階段脇の少年像こそ、のちの脳科学者加藤俊徳博士である、
小学校時代からわんぱくで力持ち、健康優良児だったそうで昭和時代のモデルに選ばれたのだろう。
4月14日の寺泊会には、越後長岡市の森市長もご来臨される筈なので、長岡市の文化財にどうかと推奨してみよう。


◆さて弥彦山麓の平野一体を野積(のづみ)と呼ぶ。塩たき節伝説にある「天香具山命」が越後へ最初に逗留した際に、高度生産技術を教授してくれた地でもある。生産性の高い技術,即ち収益性のある作業を伝授した。これには基礎体力が要求されるが、野積の衆は、後世に相撲取りや立派なアスリートを輩出するほど、昔から筋力に優れており力持ちが多く、オナゴ衆も負けてはいなかった。生まれながらの素晴らしい人種の集団であったから命(ミカド)の教えはすぐに呑み込み実行出来た。その証拠には、この地には歴代のの名杜氏が何人もいるし、安定した稼ぎの有る製塩手法を取り入れたのも野積人である。日常の必須品を生産することこそ、収入の安定性に繋がるのである。 古代から平成の現世までの歴史を振り返りながら、加藤博士の持論は脳科学を側面に捉えながら、寺泊・野積に生まれ育まれたこと、幼少時代に、80過ぎても漁船を操る強靭な体格の漁師だった祖父のそばに常時いたことが、以降の全人生の活力の源になった、と確信しておられる。何しろ自分が4歳の頃から、体を漁船のヘリに縛り付けて漁を楽しませてくれた思い出を今でも鮮明に覚えているほどだ。最高のフィールドで、特上の経験が、研究心を煽ったようである。


結論。これ以降の理論、なぜ野積の風土ヒトのパワーを日本人が必要とするか・・・について1年半の歳月をかけて上梓する「日本人が最強の脳を持っている」(幻冬舎版)を脳科学者の立場で説いた単行本並びに電子版が、まもなく全国の書店で紹介される予定だ。再び加藤俊徳博士著によるベストセラー本の登場である。

これまでに刊行された主な著書「脳の強化書」(あさ出版)「脳コンディショニング」(かんき出版)「完全脳の創りかた」(李白社)・・など多数が書店に並んでいるが、2016年3月16日発売の日本人のどこが最強の脳かを知ることで、これまで想像できなかった加藤博士の世界を覗く事が出来る筈だ。良寛、山本五十六、田中角栄などには、すべて共通項目があるというが興味ある説である。幻冬舎発行 3月度最新刊 加藤俊徳著「日本人が最強のをもっている」で詳述している。

◆平成に入って、日本は世界有数の高齢化社会に直面し、これから老いた人種に突入するであろう多数が危惧する、脳機能解明に身を置く脳科学者、加藤俊徳博士が野積生まれ野積育ちの寺泊出身となると、先人のDNAは平成の今に生きていると断言せざるを得ない。ご本人は砲丸投げで県大会優勝、野積在住の寺泊中学校の生徒たちは、野積〜寺泊間を通常はスクールバスで通学する。加藤少年はこれに乗ることなく、一人走って通学するほど筋力が卓越していた。
中学校のグランドで陸上の練習中に、脳の機能に興味を持って以来一貫して脳の研究に携わる運命に出会った。体力を支配するのは脳の働きに大きく関係あるのではないかと疑問に思ったのがきっかけとなり、その少年がいつの間にか、海外の学会で発表したり、万人が興味を示す、脳関係の斬新な話題を提供し、メディアで盛んに登場する科学者になっていた。



◆加藤俊徳、小児科医で医学博士。昭和大学大学院卒業後はミネソタ大学(米)放射線科で研究・臨床を重ね帰国後は、慶応義塾大学、東京大学などで研究に従事、脳科学に新分野を取り入れ、自ら「脳の学校」を設立、科学者として実業界にもその成果を生かしておられる。恩恵を受けた実業界のトップは必ず、その素晴らしさを自分の組織に活用しビジネスモデルに採用している。
企業経営は、組織に携わる経営資源の資質向上を目指すことに他ならないが判っていても実現は容易でない。稚拙な経営者は社員の理解力・力量能力のなさを根源から分析することなく諦めてしまう。実にもったいない話である。
いくら教育に経営資源を投入しても、ダメ人間の改善には、役に立つ方法を見いだせないでいる現状が多い。

◆ここで登場するのが脳力解析である。言葉で表せば単純であるが、脳みそ120個所に番地をつけて分解し、脳のどの部分が本来の仕事をしているか、いないかを分析。脳細胞は使わないと死滅するが、僅かにある残脳を生かせば、100歳でも劣化するどころか再生することを、博士の臨床研究で今実証されたのである。
俗に言う「アタマは一生働かせなさい」である。幸いにも現代は微・巨視的レベルの研究に有効な、フィールドの充実と進展は著しく、ナノ単位の細胞でも鮮明に画像で見れ、脳画像のコンピュータイラスト技術も遥かに進んで来た。

◆支援サイト貢献の恩恵を受け、お茶の間のテレビ番組でも、理研BSI(理化学研究所・脳科学総合研究センター)の博士レベルしか判らなかった画像に溢れており、人体皮下の部分は、動画と画像王国となっている。科学者たちにとっても学会誌の発表だけに名声を焦らなければ、じっくりと研究に専念できる。加藤俊徳少年の時代は、医学部があっても、脳科学研究を専門に扱っている学科はまだ無かった筈で、早々とよくぞここに迄辿りましたねと外部ながらも言いたくなる。
脳血流中のヘモグロビンの流速状態が、波長の長い赤外放射の利用で、血管に非接触で測定している研究内容がTV番組で紹介されたが、素人万人でも理解できるのは3D動画のお蔭である。脳科学の世界にますます興味を抱いてくる。TV番組はこれに心理学側面を重ね、喜怒哀楽の源はここにあるのだと解説してくれるから馴染みになり判りやすい。理研BSIでは若者にも脳科学に興味を向けようと毎年多くの高校・行政からの訪問見学を受け入れている。寺泊会の会員からも「俺もあと60年位若かったらなあ」と、ため息が聞こえてきそうだ。
その時はこう慰めよう「その年で脳に興味を持っているあんたがえらい」。

◆「おめさんの脳で、使ってないミソが見つかったら、どうしなさるか」は、寺泊会の宴席で、冗談ながらよく飛びかわす言葉であるが、それ以前に「オレは自分のミソを使っているがどうかさえも判らんすけ」、で話は終わってしまう。


医学部教材に使用されるGEL製脳

そこで役員会での席上、脳ミソのことならこの前ラジオに出ていた、野積・荒谷の、キュウゾウさんちのあんちゃんを呼んで、もっと詳しく語ってもらったらどうかとのことになり、白金に有る脳の学校でインタビューとなった。今や著書、DVD多数がベストセラーになるほどの有名人となった加藤俊徳博士が、コバゲンさん以来、創立61周年を誇る2016年4月14日開催の、第61回東京寺泊会の講演を快諾してくれた。

 

それどころか想像以上の熱烈寺泊ファンで、郷里のためなら何でもやりましょう、と他の会での講演会や客員教授として教えている、母校昭和大学での授業でも必ず寺泊・野積の良さをアピールしています、とデータファイルを見せてくれた。昨年の寺泊会交流大会のゲストさん 角上・柳下社長同様、期待超大である。
認知症が気になる年齢層の多い寺泊会の会員さんの役にたつこと間違いなしであろう。                                             取材協力 脳の学校広報部







 

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今日もでこかで国際マラソン大会 ISO2015年版的見地



4・2章 利害関係者のニーズと期待偏(ISO2015年11月発行を引用し寺泊会が考察)
 この近くで
立ち小便スベカラズ

名勝の寺泊海岸、さかなのアメ横通りができるかなり以前の夏のはなし。環境・品質のコンサルを生業にしているせいか、どうしても気になる思い出が浮かぶが、寺泊会の集まりでも70歳以上が必ず回顧する共通の話題となって盛り上がるのがこれである。

寺泊海岸では、砂地の面積が現在の3割しかなかった当時でも、夏ともなれば、ゴマンと海水浴客が群がる。近頃は大型駐車場が整備され公衆できれいなトイレもでき、清潔そのもので安心して利用できる。一方昭和の中ごろとなるその昔は、灼熱の太陽の下で、近郊の町村からの来浜者で、地元のこ子供達はほとんど海の遊びを終え、家か自宅近くで遊ぶ時刻の、正午近くになると海水浴客の人出は、近郊の町などから押し寄せるので一向に減る気配なし。日よけどころか暑い砂浜で興じるのであった。
昭和半ばまでの地元町民が持つ、浜のイメージはとは、家庭ゴミを捨てても、いつか灼熱の太陽が溶かしてくれと勘違いし、ペットボトルやプラスティックのないころだから、有機系廃棄物ばかりがやけに目に着いた。食べ残したスイカや、大根の葉っぱ等のごみは平気にその辺の浜に捨てていた。こんな環境下で男性はこんもりした砂浜に向けて、ごく自然に、小用を足していた。

 ションベンスベカラズ

ここはきれいな浜辺にせねばと、町の有志が立ちあがり、この立て看板を作り続けた。あっちこっちにあるものだから。小学生のころは、よく目にした。もっとも小便などと、上品に書かず「・・ンベン」とカタカナ表記であったが。耳慣れたフレーズとなっていた。男は正に立ち止まって済ませ、女の子はしゃがんで済ませていた。これもおっかチャンになると前かがみになって、お辞儀をしたような格好でしていた。もっとも、浜辺でなく新道の坂道や、小学校の校舎わきの大地(オオジ・3区の山の奥にある地名)へ入る細い道脇あたりでよく見た光景だ。今や民俗文化遺産となる。

さて、郊外はいざ知れず都会ではさすがに道路脇でも、立ちながらの小用は、かなりの酔っ払いでもない限りは、見かけなくなった。但し、時折「ペッ」はまだ見かけることもある。駅のホームから、線路に向かって、かと思うと側溝の僅かな隙間めがけてと、いろいろ工夫している。環境保全と美観・衛生の観点から、いかがなものか。と講演で提案したのは数年前で、今ではホームの美化意識には目を見張るものがある。電車が来るまでガードフェンスが閉じられ、簡単に件の行為はできなくなっている。ゴミ箱は殆ど無くなり、その周囲にゴミが散乱することもない。但し大都会周辺の駅に限るが。トイレの美観化対策も徹底して頻繁に清掃の手が入るので、大勢が利用するリスク管理とステークホルダーのニーズと期待には、日本では考慮が計画と運用され2015年11月版新しいISO審査といえども指摘事項には改善の余地はない。即ち適法である。

所がマラソンはどうだろうか、走れば息が苦しくなり、唾のひとつも吐きたくなる。だが、一人が0.01CC出しても、東京マラソン等のように4万人超えるランナーがいたら、総合計排出量は、想像を超える量になってしまうであろう。しかしながら、競技関係者と高名なかつてのマラソン勝者で、今ではテレビ解説をしていても、これを気にする体はないようだ。
ランナーの中には手で、鼻の片方を抑えてプーとやる、通称「つかみっ鼻」をやってしまう輩もおられる。越後生まれのマラソンの名手、宇佐美先生(元・東海大学教授)は、現役時代に決してこんな事はしなかったが、文化の違いか、海外トップクラスが集まる、国内3大マラソンで優勝するかもと疾走している、先頭集団になればなるほど、画面一杯に放映する機会が多いだけに、飛ばし合いを目にすることも珍しくない。


給水ポイントも曲者である。走りながら給水してむせる者もいる。口内フラッシングと呼ぶんだろうか。
砂漠に近い大陸にある大地の如く地面が褐色土ならいいが、水はけの良くないアスファルトだし、風邪予防のうがい水の捨て方は、小学生すら、ルールを知っている。

近い将来環境アセスメントで、施行レベルの法遵守に挙げなくとも、下位レベルの都県条例を発令し、マラソンは、ハイテクペーパー持参5枚まで、などとルール化するかも。

良寛も歩いた景勝地を走る、寺泊シーサイドマラソンは、どうであろうか。18里先の佐渡島を横目に抱える寺泊シーサイドマラソンが毎年開催されているが、参加者多数でも全員エチケット感にあふれ、海岸マラソンを堪能できる素晴らしい大会にしてくれている。何しろ日本海の新鮮なオゾンを含む寺泊海岸の空気を吸いながらの走りゆえに、参加者たちの呼吸器系が破壊されることが無いからであろう。

こうして市民ランナーさんも、全員で良質な環境意識を持っておられるから、ふるさと寺泊の品質向上に大きく貢献してくれて有難い。


   (イメージの写真と該当する現象とは全く関係ありません)


 

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96歳で振り返る60年前の寺泊会

東京寺泊会創立60周年を祝う

第一回大会参加者:下鳥 ハル(96歳)


此の度は寺泊会の創立60周年本当におめでとうございます

これ程長く続くのは代々の会長さん役員の皆様のお骨折りのお陰と感謝致しております。

思えば60年前に聖徳寺の窪沢住職さんからお声が掛り、3歳の娘を連れて浅草の西徳寺へ集まりました。
寺泊小学校の青柳清作先生も出席されていました。
総勢十数人だったかと思います。


写真提供;本人(娘と二人で参加しました)

皆さんの意見で、寺泊の様子を知りたいと、窪沢住職に頼んだところ、一か月に1回の割で、生の寺泊の様子を知らせて下さることになりました。


青柳先生は寺泊の歴史などを書いて「ふるさと便り」として送って下さいました。
私のように遠く離れていても故郷の様子が身近に感じられて、毎月楽しみに読ませて頂きました。

窪沢住職が亡くなられてからは、興琳寺の中村さんが交替されて50周年で機関紙としての「ふるさと便り」は一応終わりましたが、伝統の東京寺泊会はいつまでも続いております。
私も会員として60周年大会に出席したいのは山々ですが、96歳になり膝痛がひどく、
歩くのに困難して居りますので。残念ながら欠席とさせて下さい。ほんの僅かですがお祝いを同封致しました、御受納ください。

これからも会の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。
平成27年2月23日
下鳥 ハル 



 
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入場大歓迎

 寺泊の杜氏さん10名が出演     「酒造唄」を披露
 
         
 新潟朱鷺メッセ公演  
         
           東京新潟県人会創立100周年記念大交流大会
           9月26日芸能大会2日目プログラム決定
司会 桑原政夫・橋本寛二
  ヤングキャベツ・中靜佑介
会場 新潟朱鷺メッセ・マリンホール
1 笑ってスタート・・お笑いコンビ「きぬがさ」  
           
2 「相撲甚句」・・・相撲甚句保存会  
3 「無法松の一生」・・大坂美喜社中    
4 「十二はしご」・・十二はしご保存会  
5 「妙高山賛歌」・・・妙高高原民謡愛好会  
           
6 「幸せはすぐそこに」・・伊藤章二(東京松の山会)
7 「千の風になって」・・・東京おけさ会  
8 「津軽三さがり」・・・おけさ船橋会  
9 「佐渡日記」・・・・佐渡小町会    
10 「米百俵」・・ ・東京関原会    
11 「心寿」・・・・東京おけさ会     
    唄 岩崎康一郎    
12 「琉球舞踊・四つ竹  鳩間節」・・・  
      沖縄より参加  
         
13 「越後路ひとり」・・・林 蔵之助    
14 「故郷酒」・・・・・本多光政    
15 「フラダンス」・・ホアビリフラ新潟校  
16 「愛の賛歌」・・渋谷文太郎    
  「ひばりの佐渡情話」・・渋谷文太郎  
17 酒造唄」寺泊酒造組合      
           
16 「フィナーレ輪踊り」 観客全員参加   
           
           
      大交流会の詳細    
       □  東京新潟県人会公式ホームページ 

朱鷺メッセ一階の物産展には寺泊からきんぱち・はまやき山源かまぼこが参加。

東京新潟県人会創立100周年記念大交流会は動員目標・4万人のところ、4万3000人が朱鷺メッセに来場した。
物産展の参加ブースも県内の観光地などから、合計125店が出展する大規模展となった。

                                         


          芸能大会点描

芸能大会は2日間かけて開催。県内の民謡団体や民俗芸能保存会などが演舞。
ワンステージでの登場人数の多さには、司会しながらも驚かされた。





寺泊酒造組合の高綱 強会長以下、越後を代表する野積杜氏さんが勢ぞろい。蔵元紹介のあと、酒造り唄を披露。銘酒「日本海」「景虎」などを造る杜氏さん全員が寺泊人。





    熟唱するシャンソン歌手・渋谷文太郎さん。
9月には銀座で3回のライブあり。

・・京都新潟県人会推薦
新潟市西区出身






              沖縄からも参加して琉球舞踊を披露。踊り手がステージから退いても、音声が消えるまで司会の声を入れないようにとの注文があった。守ったが、さすがプロ意識。
                                      
                                   新潟フラダンス校からも多数が参加。会場におられたハワイ新潟県人会のpalolo本願寺住職・西脇誠五郎」さん・・長岡市出身・・も拍手で迎えてくれた。まさか、ハワイの本願寺さんが越後人とはびっくり。
いつでもホノルルに遊びにいらっしゃいと言って下さったが、海の向こうとはいっても、寺泊から赤泊へ行くのとちょっと違い、いつになるやら・・。

ホノルルにあるpalolo本願寺外観・・・同寺のhpより


反省会にも多数集結

新潟の朱鷺メッセに参集していた、首都圏在住の東京新潟県人会員も大挙帰京し、東京・上野では10月5日に、大交流大会の慰労反省会が開催された。100人を超える大会関係者が集う

ここは東京新潟県人會館2偕大ホール会議場。
100年に一度の大交流大会の企画発案は主として、元気な七十代であった。大交流会を振り返り、話が尽きない首脳陣
来年もやれと言わんばかりに、万歳三唱でも血気盛んなメンバーたち。


所で気になる寄付金総額は,・・・県人会會館ロビーに張り出された寄付金者一覧、個人で100万円も出資されるのは、愛する越後の為かと、その思い入れにジーンとする。
海外勢に交じり、東京寺泊会も僅かながら協力


多くの郷人会がある中で、年会費フリーを貫く当会も、僅少ではあるが協力をした
ところで偶然にもお隣さんとなった50万円寄付された「ベルノ・リカール・ジャパン」は、どちら様かと会社の総務部さんに問い合わせると、あの有名なシーバスリーガルなどの洋酒を販売されている法人さんであった。商品群は同社のホームページで紹介されている
新潟県出身の社長さんが経営する、我が国の、著名な居酒屋チェーンさんにも卸しているに違いない。

ベルノリカールジャパンさんで扱っておられるお酒の一部。


10年9月現在での事業資金寄付金総額は、事務局発表によると、 約3894万円余りとか。ブラジル新潟県人会も積極参加。日本にいるよりは、越後愛郷心強しか。県外はもとより、海外に点在する多くの新潟県人会をつなぐ、連合組織の設立案をブラジルが提唱。

東京新潟県人会に登録されている41の県人会と152の郷人会組織一覧を見ても、毎年この数だけ懇親宴会が開かれているはずであり、驚嘆に値するが、地元への稲刈りツアーだの、芸能大会だのと、更には「聖僧・良寛に学ぶ会」/東京寺泊会は共催、などと、高尚な愛好会もあるが、いかに越後人は結束力の強い、マメな民俗かが判る。
この良寛に学ぶ会は10月9日に5回目となる勉強会を開催した。

タイトルは「良寛さんの書の観賞」である。講師の萬羽啓吾氏が自ら所蔵する軸を持参で
遺墨による書美の変遷を詳説。美術館や記念館ではガラス越しの観賞となるが、今日ここでは、肉眼でお目にかかれるとあって、愛好家たちは興奮気味であった。
これらが本物の良寛の書である。
萬羽氏は神田神保町の骨董商としての眼力で本物の見方を伝授。時折、紙質や筆使いから判定する贋作との見分け方も説明。
当日の勉強会を学術的に知りたい場合は、良寛の生まれ故郷・出雲崎出身者の集いで構成する「東京出雲崎会のホームページ」、同会の知識人、東條氏が制作する「第5回勉強会報告」を参照。それにつけても、このホームページを読んでいると出雲崎会さんには、良寛さんの書を研究され、知識豊富な方が本当に多くおられる。


ところで、100周年記念誌編集委員としてインタビューしていると、様々な 先輩方にお会いする機会があるから面白い。大森駅近くの商店街にあった「越後屋」なる豆腐屋さんもそのひとりである。今は近隣在住者で構成する、新潟県人会を仕切っているが、自身のビル一階のテナントにはチェーン店も多い、焼き鳥やさんが入っている。

かつて、都の豆腐屋と風呂屋は越後人で成り立っていたとの近世の史実がある。今になっては風呂屋も豆腐屋さんも姿を変え、そのオーナーの多くは80代前後の越後人であるが、ここの価値ある不動産を生かし、平成に入ってから、中層のビルやマンションに建て替えている。駅前の小型ビルも案外、越後人が持ち主だったりする。法人にしたり、納税額を1000万以内にしたりで、名前は公開されなくとも、都会においては高齢者に限れば、比較的余裕のある衆が多いのも、新潟県出身者の特徴であるが、このような視点でメディアが着眼する機会はないからトピックスにもならない。
さすがに丸の内や八重洲には,いないが、私鉄沿線駅周辺の小型マンションオーナーは、目立たないが、相続を気にする越後出身者が多数おられるのである。
これらの郷人会などの詳細をまとめた、東京新潟県人会創立100年周年記念誌を、同会が20人の編集委員を使い編纂中。2011年3月 2000円にて発売予定である。
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橋本直行2012そして2014年10月の個展・・東京・新橋

  
 
  ◆橋本直行油絵展
     open :2012年10月18(木)〜27(土)
 
        the place 東京・新橋=いつき美術画廊
                                      (JR新橋駅・レンガ通り徒歩8分)
最新NEWS速報
2014年10月23日(木)ー11月1日(日)
 ・・今年も、港区新橋で個展開催・・ 
 「橋本直行氏の在廊予定日」・・10/24/25 13.00-17.00


 
   
橋本直行氏を応援している高橋秀樹社長は、世の女性の味方、エステ業界専門の化粧品会社を経営する。業界では著名な経営者である。寺泊出身者がここでも活躍していた。
     
橋本直行氏(50)は、寺泊在住の画家である。郷里の海や雲と共生しながら、時折何千キロも遠く離れた八重山諸島で時間を費し、風を感じ充分な光を浴びては故郷に戻り、油彩画に変えている。写実味溢れるその精緻な作品は、眺めているだけで、作者の自然を取り込む感性を訴え続け、飽きることはない。橋本氏の個展開催は、かなり広範囲な依頼元からのオファーが絶えない。寺泊会と作品との初対面は、銀座並木通りから少し入った文芸春秋画廊で開催した個展であったが、月日の経過は早いものですでに10年が経過した。                           
◆寺泊会名誉顧問の外山勝志さん(明治神宮・宮司=当時)も橋本直行作品の熱烈なファンである。郷里寺泊の実家は4区にある。自ら大町にある橋本氏のアトリエに出向き、 好きな作品を求められたこともあった。明治神宮には橋本直行氏が奉納した傑作作品  「椿」がデーンと鎮座している。

                                    ●  ●


    海からの風1997(162x130)

寺泊・野積・分水の境界も景勝地である。 多くのブロガーが記事にし世に知らしめる。この作品は、分水河口近くの浜の風景で、浜で鮭あみを干す。外山宮司は、明治神宮に隣接する、明治記念館にこの絵を寄贈した。                                                     
一階のバンケットレストラン・羽衣に飾ってある。                                            

 
港からの快い潮風が漂う、クーラーのいらない寺泊のアトリエでは、夏の期間は短パンで過ごすことが多い。いつもお世話になっている、easelが3台あり下絵を支えながら自分たちの出番を待っている。
◆10月の個展に出展する約10点の作品(3〜20号)は、美術展覧会・個展情報の専門誌「月刊美術」10月号に掲載したガイダンスによると嬉しいことに                         
「越後長岡の冬景色から沖縄で遊ぶ山羊の姿まで」。とある。郷里寺泊近郊の風景を、たっぷりと油彩画で楽しませてくれるであろう。                                 
◆大地のおおらかさ存分に味わいたい・・とコメントしているように、変化する天空や自然現象をモチーフに、ダイナミックながらも、ゆったりと描いた作品たちが待機し、今回の個展も、多くの橋本直行ファンを喜ばせてくれることだろう。下絵が終わり画架に乗せたキャンパスは、色を重ねたり乾燥を待ったりで、作品の完成までに時間がかかる。                              

◆ここからが、選ばれた絵筆と、厳選された絵画材が仕事をこなす瞬間である。求める絵肌表現を出すためにも、彼らにいい仕事をしてもらうしかない。長年絵を描いていると、「同一メーカーの型番を購入しても、均質な画材が手に入れににくくなって来ました。」と橋本氏は語る。
                                ◆    ◆    ◆
            
       ◆10月個展の出展作品案内◆
◆冬晴れ 国上山
   
 「この道は 例の路かと 良寛訊き」・・・ 寛風庵     
  ■良寛が晩年過した島崎の地へ降りるまでは、この国上山の庵で過ごした。国上寺をコクジョウジと呼び、国上の山をクガミと呼ぶからややこしい。                       
足腰は強靭であっても、老体の禅師は一人トボトボと、何度ここを登り降りし、昼夜歩いたのであろうか。この楓の木のおじいさんに聞いたら分るかもしれない。                   
冬場の輝く雪道を描いた油彩画からは、写真では撮り切れない柔らかさが伝わってくる。      
鑑賞意欲が湧いたら、個展会場で作家とゆっくり語りあいながら、味わうことも一興あり・・・・か。 
      
   ◆雪の浜
これはまた、冬場とはいえダイナミックな寺泊中央海水浴場の風情である。夏場は広大な砂浜に人が群がり、分水側から流れる土砂が堆積し、道路からははるか遠くになった海辺である。雪が雲と遊んでいるような、砂浜のイメージの冬景色も一興有。                     
       
  ◆赤坂山



■アカサカ山は寺泊町のほぼ真ん中あたりにある。山頂には山城跡があり、地元上田町居住者を中心に奉賛会を作って山上ルートを保護している。寺泊会会員の小学校時代には、遠足で山上を目指して1時間くらい歩かされたコースである。道は暗く、時折差し込む光を、絵にするとまさにこの通りで、見覚えのある木々が懐かしい。
■アカサカ(赤坂)というと、 上京当時、東京にも、赤坂という地名を発見したので親近感が湧き、   行って見たらビルだらけだった。放送局のビルもあったが、今では想像できない、打ちっぱなしの大きなゴルフ練習場もあった。ここの会員専用ロッカーにクラブを預け、仕事中に練習しに行ったのが懐かしいが、40年経てもゴルフは上達しなかった。


 
 
    ◆冬の浜辺 
    旧西蒲原郡にある作者が通った高校のある巻町の浜を描写したものである。

 
◆寺泊から近い蒲原平野も時折絵になる。日本で著名な、越後在住の多くの芸術家が蒲原平野の出身である。         
齊藤順生(絵画)、藤井克之(絵画)、茂木弘行(彫刻)、吉川花意(能面作家) の諸氏も東京寺泊会会員と、何らかのつながりを持っており、個展案内や作品展の招待状が舞い込む。
◆この絵は写真では判らないが、枯れた浜辺のすすきの穂先を一本一本丁寧に、1万本位、極細の絵筆で仕上げている。こうなると、角田の浜辺も味がある。油絵は筆を薄く走らすと乾燥したあと透明になり、これが絶妙な立体感を表わし、写実味が出てくる、と入門書に書いてあったが、    そのとおりであった。                                                             
大小2人の橋本が105萬円の作品を真ん中にして立つ。フサフサが、高名な画家で、ボウズアタマが環境・品質のコンサルタント、人生いろいろ、商売様々てか。共通点は、多くの良き顧客に恵まれ、西に東にと御座敷がかかり、多忙なところか。                      
 

画家を支える陰の主役として、いつも奥さまが傍におられる。実に微笑ましい光景である。
(出展画廊にて撮影)                            
                                                        
        ◆ (作品情報掲載は作家の許諾済)
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老後の小遣い稼ぎ

 
年金だけで満足ですか

最下段に2014年9月度役員会開催案内掲載中

寺泊会の会員さんは元気な六十代後半か、七十代が多い。自営で顧客探しに苦労しない商売もあれば、定年後に、関連会社で頑張っておられる方や、ご主人と二人でそば屋、八百屋さんを営んでいたり(都内で)、息子に建築業を譲り、自らは、町内会のまとめ役として世話人になっておられる方もいる。

勤勉な越後人気質で人生を乗り越えて、概ね安定生活に入っている。だからこそ、毎年の寺泊会行事に参加できるというもんであろう。迎える側としては、楽しんでもらおうと、最高のサービスの提供に心がけている。一方では、かの高名な、老舗デパートの共同オーナーであったり、都心で、何棟かのビルを持っている旦那と結婚して、都市開発に便乗し、益々優雅な人生を送っていたり、寺泊人も様々である。

ビルのオーナーとまではならないまでも、若者向けに、ワンルームのオーナーになって、小遣いを稼いでいた輩も、結構いるようだ
だが、話を聞くと最近のワンルーム市場は、借り手のわがままを聞いてくれて、ネット回線が完備しBSアンテナも付けないと、ダメらしい。収入のある老人が多いので、ついつい、不動さん屋さんのセールスマンに口説かれ、買ったものの、借り手がなかなか見つからないと嘆いていた。供給過剰だから、駅そばでない限りは、ハンディがかなりある。

寺泊会役員さんから聞いた現代貸室事情
(掲載許可済)

▼仲介業者様のご要望により 約6か月掲載していた見取り図面は、2014年10月以降、非掲載とさせていただきました。

 
不動産投資の甘い罠

この間取りは、川崎市幸区で駅から15分位歩くものの、8帖のカーぺットが敷きつめられ、バストイレ付のワンルームである。家賃は55000円にしたそうだ。(去年までは59000円の由)
これでもなかなか、借り手が見つからない。これでも固定資産税だけは、かかってくる。年金の副業もなかなか、ままならない実情だ
続報


3月末から法人契約で入居者が決まり、54000円でテナント決定の由。と前稿であげたのに、
2013年夏に転勤で転居され、現在は49000円で賃貸中らこてね、と、役員会でのんきに話してくれた。
寺泊から上京し、大学生活を楽しんでいる若者も、こんな8畳のワンルーム生活を送っているのだろうか


寺泊人会にはいなかったが、新潟県人会には、風呂屋、豆腐屋さんを経営して、街のお役に立っていたお年寄りがゴロゴロいる。越後農家のオジゴンボ(長男以外)の多数が大戦前後に上京し、早朝深夜と、きつい商売にも関わらず勤勉に働いていた。

東京都公衆浴場組合と豆腐屋さんの組合では、7割は越後人だったらしい。現在はその土地を利用し、ほとんどがマンションを建てたり、貸しビルにしたりと、結構な話である。京急大森町駅近くに、永年豆腐屋さんを営んでおられた、魚沼出身のお店も、今では一階が居酒屋になっている。豆腐屋さんがビルを建て、テナントとして貸しているのである。

現在八十代に突入したお年寄りも、今からそう遠くもない古き良き時代だったからこそ、駅のそばでも土地があったし、買えた。現代人は、到底無理であろう。残念であるが、現実である。だいいち今時、都会の駅前通りで、空き地がない。あったとして手が出せない。開発プロジェクトに携われる大手さんだけは、高層建築物ブームで仕事を独占しているが。


 9月度役員会のご案内

●●次回寺泊会の役員会は、2014年9月8日(月)
午前11時半から定例の聚楽で開催。
時間を気にしない暇人は集合。●●
▼テーマ▼
1)2015年4月、創立60周年記念大会の行事企画採決。
2)昨年夏に市長提案の、大長岡東京会(仮称)発足の進捗確認。
3)長岡市地域振興課からの連絡事項。
4)女性理事待遇役員(4名)の中から副会長選任討議。



 
        by 管風庵亭主
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上杉香緒里は蒲原育ちで佐渡を唄うプロ歌手。

最近検索トップに躍り出た訳は第20回吉田会出演にあり
http://niigatakenjinkai.com/activity/20140518/index.html
                                        (動画出典:東京新潟県人会情報)様

蒲原に建つ高校出身の歌手に話題が集中している。西川竹園高(昭和42年創立)である。越後出身の代表的歌手といえば、三波春夫さん没後は、永年、小林幸子だと、県人会あたりでも、定番であった。かつて報じられたマイナス面の話題も鎮静化し積極活動が目立つとはいえ、ゴタゴタ問題のほうが、スクー−プとなり、本業の話題は、上ってこない時代もあった。このタイミングで、実力どおりの、越後出身の女性演歌歌手が、躍進中である。そのひと、上杉香緒里さん(1975年生まれ) 20歳でデビュー以来、19年のキャリアで新人の域は超えたが(株)テイチクエンタテイメントを石川さゆり や、綾小路きみまろ、なんかと並んで稼がせている。(テイチクレコード)

 毎年恒例の8月寺泊の夏祭りで、熱唱する香諸里さんの唄は、寺泊の浜の特設ステージでの、板塀の前がよく似合う。日本海を見おろしながら、おけさ海峡を唄う姿は、このまま紅白に出てもおかしくない。いや出るに値する。近年のテレビはバラエティや、短命タレントたちが番組出演を席巻し、なかなかじっくり、プロ歌手の唄を観る番組は少ない。演歌歌手で毎日テレビ出演しているのは、吉幾三を除くと、後は思い出せない。作業着(ワークマン)と健康食品や住宅建築のコマーシャルで、幾三さんのお声は、聞き飽きるほど毎日の出演機会が多い。だがネットという便利な道具があるから、ここでじっくりと香緒里さんの演歌を聴かせてもらおう。(フリー動画の共有サイトを利用)。
彼女が卒業した、西川竹園の校舎は、曽根の代官所のあった、あの、越後曽根駅近くにある。駅開設以来100年になるが駅名が、曽根になったり、越後がついたりでで忙しい.
越後線巻駅よりは一ツ新潟寄りで、自分たちは巻よりは都会なんだと、同地の出身者は我々のように、土地勘の少ない、寺泊出身者に話していた。曽根と聞くと代官所を思い出し、
岩室甚句と、だいろを連想する。越後線の旧和納駅は、岩室駅になった。東京にある岩室だいろ会でも、香緒里さんの話題沸騰中で、広域出身者で見れば、新潟交通の佐藤社長もこのあたりの出身地であるらしい。忘れてはいけない。香緒里さんは吉田うまれだそうで、首都圏吉田会の渋木前会長も近い。あの吉田町が今は、燕市となったから、ややこしい。かの小林幸子さんは、越後生まれの後輩の大活躍で、さぞかし、喜んでいなさる寺泊弁で状態を表す尊敬の意を含めた丁寧語)事だろう。一方、幸子さんの最新曲は、大ヒット中でこれも越後人として嬉しくなる。かたや、香緒里さんは、上杉謙信にあやかって、上杉香緒里にしたとは、お強いこと。先輩を抜くことは意識にないにしても、全国のファンは各実に増加中の体である。
■寺泊人といえば、○○すけをよく使う。      NHK/ NW9で活躍中の、大越さんは夜の番組であるが、朝ドラで放送中の「梅ちゃん先生」は、土地の方言を大切にしようと、青森出身者を登場させ、面白いすけ、・・とか、〜すけ〜すけ、を時折使っている。津軽弁の青森だったら、「〜だはんで」じゃないかと思ったら、岩手に近い八戸などの八戸南部弁では、すけを、通常使っていたそうである。寺泊などの中越地方も、「すけ」は使っていた。うちの父チャンは、給料が少ねかったすけ、テレビジョンを買えねかったんだてね、の時代の話である。
僅か50年位前の話らろも。
「お〜けさぁ をどりいに オンデコが〜」とゆったりした歌詞は、高低が少なく、カラオケでも歌いやすく、おじさんが腹から、歌い上げるのにぴったりの曲である。一回聴いただけでついて行ける、演歌ファン好みだ。しかしながら幸子さんの越後に眠る も寺泊町で聴いたらこれまた最高である。
かたや、香諸里さんの宣伝用イメージ撮影は、越後のどこの海岸であろうか。日本海・寺泊海岸にも似ているが遠景が弥彦山でないし。佐渡にしては山が遠いし。
何はともあれ数の多い東京新潟県人会組織の中でも、郷人会総会に呼びたくなるほどファン激増中と聞く。
一方2014年夏、寺泊の港まつりには幸子さんのご出演でまことに喜ばしい限りである。香緒里さんが熱唱したあの舞台で、幸子節を楽しむことができる寺泊は素晴らしい。

 
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来年の東京寺泊会60周年記念行事粛々と進行中

        4月15日(水)ご来賓参加要請へ

2015年4月寺泊会60周年大会の話で恐縮ですが
 日本に在住している限り、そこがどこの都道府県だろうと、天下のNHKからは逃げられない。中でも夜9時の報道ショー番組となると、古くは磯村尚徳キャスターの頃に沸騰しその後は、でこぼこが続きながらも、アカデミー賞中継にも匹敵する人気番組として君臨している。現役メインキャスターへの東京寺泊会だよりインタビュー記事(ネット掲載)は俗文調のため、細胞研究して提出する博士論文や学術論文の英文版と異なりコピペとしての利用する学術員こそいないものの、同氏について何等かの関連記事を著す際の参考として、今でも全国で多数採用されている。幸いにもウィキペディアの脚注に使用されたことに端を発し、紙媒体でもパンフでも、はたまた同氏を壇上で司会者が紹介するシーンでも。 大越さんは幼少時○○で□□で・・・・と ほとんど寺泊会だよりを参考に制作されている場面が多いと聞く。 
                    



写真提供NW9編集部



4月5日(土)県人会の影響でしょうか

ここへきて東京寺泊会だよりの検索ログで大越様のお名前が沸騰してる。これは例の指の怪我以来の現象である。それもそのはず、来る4月5日(土曜日)は、「ニュース報道の核心を語る」
と題して東京新潟県人会館主催で大越健介氏の講演会が上野東天紅で開催されるのである。



75分のトークショー詳細/3分に1回の笑いの極意

●東京寺泊会からも多数が申し込み参加した。但し、翌日の4月6日(日)が東京寺泊会59周年大会だったので(詳細は下記参照)こちらの準備に追われる役員さんは大変だろうが、他の県人会と違って郷里の寺泊人が講演をされるのに、行かない訳にはいかんだろうと張り切っていた。思えば寺泊会も大越氏に、大会ご臨席案内を拝送したのは3年前の話であった。県人会の総務委員会に在籍当時、周囲に紹介したが、あまり大きな話題にはならず、あれから県人会館の講演会までには随分と時間がかかったものである。
既に生地、長岡市寺泊、同窓会(青山会)、昨年暮れの学士会館、他に商工会やら多数の講演会なるものをこなしておられる。
報道の核心を、あのウィットに富んだ柔らかい口調から発せられるのだから、多くの聴衆を魅了するはずである
。 
講演会の翌日が東京寺泊会の総会日である.残念ながら、大越氏は参席
されないが参考までにそのメニューを紹介すると・・・。  
(youtube 動画掲載時215カウント)

東京寺泊会・平成26年4月6日(日)に開催。
特別出演:銀座ジャズクラブ(ボサノバ系、クインテット編成)



■おみやげ協賛:寺泊、山源蒲鉾店謹製郷土名産・良寛かまぼこセット
運営協力:寺泊観光協会
■大会開始前にスタジオで全員の集合記念撮影あり
長岡市、森市長ご臨席は60回大会へ調整中
■会場:芝パークホテル
12時PM〜15時PM

TOPIX▲▼平成26年度春の受勲:
             東京寺泊会・小林秀雄会長受賞の噂。
             詳細は内閣府発表またはWeb、総会会場で。


    

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ニュースキャスターさんの指だけでアクセス集中

 
 これでわかった
▼検索ワードで判る視聴者心理  とその心配度
 

ネットの世界は、何かがきっかけで、検索数が沸騰することがある。別な言葉でいうと、あやふやな知識を自分で確認し、整理したいのであろう。芸能人が話題を提供すると、結婚でも離婚でも、即自分で媒体を通して検証したくなるのが世の常である。
9月の終わりころ、「指」で検索上の話題となったのが。多感な幼少時を過ごした寺泊町と、尊敬する御母堂がお住まいの、郷里越後に、人知れぬ愛着をお持ちの、昭和好きなキャスターさんである。

ウイークデイの毎日、ゴールデンタイムに登場されているので、少しでも昨日と変わったところがあれば、注目の矢が放たれる。眼鏡が新しくなった。ネクタイが変わった。髪型が変わった。すべて興味の対象である。
衣類や装飾品の外観だけの変化なら、その場では、さほどネット検索・確認も少ないと思われるが、キャスターデスクにそっと乗せた手の指に変化あり、となると、真実を知りたいと、あらゆる手段で確認したくなったのに違いない。

9月下旬に突然見慣れない検索キーワードが寺泊会だよりに集中攻撃を受けた。


いつもと違うキーワードである、これは単数の読者からではない。さっそくTVで確認。確かに指に包帯をしておられる姿を拝見したら、あたかも、こちらにミッションが与えられたかの如く、逆検索作業しながら、創作意欲が湧いてきて本稿が完成した。

逆検索で真相追及。

あの日はいつものように部屋で爪を切っていた。利き手は右なので、左の爪から始めた。プチン・プチンと歯切れの良い音が響く。今度は爪切りを左手に持ち替え、親指から人差しへと、またもや快音が響く。これは新陰流の名刀なみの、刃ぎれの良い爪きりだなあと思いながら作業は進行。
テレビから、自局の朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が好評だったことを報じている。確かに、元気な姿で好演したキョンキョンや薬師丸さんも、昭和からの魅力を失わないで感じよい。見えないところで、人知れず努力をしてきたのだろう。魅力を失わせないで継続させることが彼女たちの仕事である。

ふたりにエールを送りながら、俺も、グラウンドで声援を受けていた頃のように、もうひと踏ん張り頑張ろうか。と思いながら爪切りに力が入る。中指の爪も終わり、苦手な薬指に差し掛かっていた。実はこの薬指が苦手だ。左手に持つ爪切りで、右手の奥の爪を切るには、右肩を少し上げ二の腕を胸の方に、かなり近づけなくてはならず、つい、ちからが入ってしまう。

思わず叫んだ。切りにくい爪をこれでもかと、マンホールのふたを開けるがごとく、爪切りの鋭利な刃の部分を爪の先端から差し込んでしまった。たちまち薬指の爪の根元から変色して来た。外科に駆け込んだのはこの直後であった
細菌のせいですよ。切開した患部を閉じながら、落ち着いて宣言する医師。
とにかく処置は終了した。痛々しい包帯だけが目につく。しょうがない明日の番組もこのままで出るか。編集の若い彼らになんと説明しようか。
高校の野球部の監督に、将来大学へ行って野球するなら、キャッチャーをやれと言われたほどパワーがあったもんだから、なかなか衰えないもんでね・・で解ってくれるかなあ。それにしても阿川(佐和子)さんに会ったあとでよかった。もしこの包帯を見られたら、あの才女にどうやって言い訳をすべきか悩んでしまう。(阿川佐和子さんとのインタビュー記事は、週刊文春(9月19日号)に掲載中。

幸いにも10月に入ってからは包帯は半透明なカット伴に変わっていた。




この独特ななポーズはNC9のキャスターを続けている限りいつでも見ることが出来る。よく観察するとピンマイクの位置は右だったり左だったりするが。まさか右隣に座る20年若い、岡山県出身の女性キャスターさんが指定している訳でもあるまい。


文中指の写真はテレビ画面より、他はNS9編集部提供。引用記事は「大越健介の現代をる」。より。

 
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